Q&A

Q. 神がおられることをどうすればわかるのですか?

A.1 神は、宇宙を通して告げ知らされている

夜、空を見上げてご覧なさい。天文学者たちの推定では、わたしたちの銀河系には一千億以上の星があり、この宇宙には何百億、何千億、あるいは何兆という数で銀河系が存在しているということです。わたしたちが見るどの星も宇宙の太陽系を代表するものです。わたしたちの太陽系には太陽を中心に、時計のように正確に太陽の周りを運行する九つの惑星があります。その惑星のーつである地球は、約時速十万七千キロメートルというスピードで空間を進み、三百六十五日かかって太陽を一周します。このスピードの一千分のーで走る汽車がしばしば時間通りにいかないことを考える時、この事実は驚くべきことです。さらに、地球の周りを回っている月には軌道と周期があります。地球の自転とその軸の二十三度の傾きが、一日の二十四時間、四季、種々の気候をつくり出します。太陽、月、地球の運行は、わたしたちにすばらしい暦をもたらします。……

 

原因と結果の法則は、あらゆる現象には原因がなければならないことを告げています。もし時計が正確に時を刻むなら、それを作った時計製作者がいるはずです。丘の上に一軒の家が立派に建っているなら、それを建てた建築士がいるはずです。もし庭園がきれいに刈り込まれ、囲いがされているなら、それを手入れしている庭師がいるはずです。同じように、宇宙の背後にある明らかな計画は、これらの物を存在させた創造者について語っています。……

 

歴史を通じて、しばしば神という概念に反対する人がいました。けれども彼らが反対したという事実そのものが、神のおられることを意味します。反逆的な息子が父親を認めないというのも、それは彼らに父親があることを意味します。ある人が家族を壊そうとするのも、家族が実際であるという意味です。推論の法則は、何であれあるものに反対するということは、それ自身が存在するということを前提にしていることを告げています。神という概念に反対するのは益がないことが、歴史の中で証明されてきました。なぜなら文化や人の政治がどんなに変わろうと、神を信じるという思想が最終的には必ず勝つからです。

 

神について宇宙は何と告げているのでしょうか?神の「永遠の力と神聖な性質」とは被造物によって明らかに知られると、聖書は告げています(ローマ1:20)。絵が絵かきの特徴を表しているように、創造者の特質は彼が創造された宇宙を通して現されるのです。人は神ご自身について多く言うことはできませんが、被造物において見られる壮大さを通して、神がどんなに力強いお方であるかを見ることができます。詩篇第十九篇一節は、「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす」と言っています。 物質の宇宙は、神の栄光と神の知恵を語っています。宇宙を創造された神は、力と栄光と知恵に満ちています。

 

A.2 神は、人類を通して表されている

人類の存在そのものが神の存在を語っています。 人の体はまことに驚異です。現代医学は人の器官や手足をまねて、それに代わるように、 多くの機械を発明しましたが、人の器官のように器用で効果的な機械はありません。心臓は、一分間に七十二回、一年に四千万回、起きている時も寝ている時も休みなく脈を打ちます。 毎日、大人の心臓は約十六万キロメートルの血管に血液を送り出し、それは世界を四周するのに十分な距離です。それは、毎日約七トンのタンクを血液でいっぱいにするほどの量です。だれが人の中にこのようなすばらしい器官を造り出すことができるでしょうか?体の赤い血液の細胞を積み上げたとしたら、その高さはエベレスト山の五千倍をはるかに越えるでしょう!……

 

人の人格の構成も神の創造に対する強力な証拠です。人は外側の体だけで造られているのではなく、愛、正直、聖、義でありたいという願い、性質を与えられています。これらの心理的傾向は文化や言語に関係なく、すべての人にあります。道徳においては、動物が人に似ているとは言えません。これらの人の特徴は人より高い源から来ていると、わたしたちは結論づけなければなりません。それは神から来るのであり、そして神ご自身が愛、光、聖、義の源である、と聖書は言っています。人がこれらの神聖な特質を表す理由は、人が神のかたちに造られたからです(創1:26-27)。

 

さらに人には神を礼拝するという不思議な傾向があります。最も原始的な文化にさえ、神を礼拝する種々の方法と儀式があります。人類学は、このように礼拝することは人の特徴であることを見いだしました。猿は決して宮を建てたりしませんし、チンパンジーが祈ったりすることも決してありません。けれども地上の至る所で人は神に祈ります。聖書は、人は霊のあるものに創造されたと言っています(ヨブ32:8)。この霊は、人が神に触れ、神を礼拝する器官です。……

 

神なしに人の歴史は発展することができませんでした。神は、人類の間に起こるあらゆる出来事の背後におられます。彼は主権ある支配者、王の王です。第一世紀に、ローマ帝国はクリスチャンを迫害しましたが、最後はローマ皇帝コンスタンチンが自らキリスト教に改宗しました。ヒットラーが英国を攻撃し、そして再びロシアに侵入した時、一時は彼が勝つように見えました。しかし神は主権者で、ヒットラーの軍隊の行軍を妨げました。

 

人の歴史において、悪の力はしばらくは栄えるようでも、最後は常に善が勝利を得るのです。専制君主や暴君が、永遠にわたる王国を建てたためしはありません。古代バビロン帝国のネブカデネザル王は彼自身の栄光を誇りましたが、全能者の前に自分を低くするまで、ある期間、獣のように生きるようにさせられました。アメリカ合衆国の建国の父たちは、政府が立ち行くのを許されるのは神であることを認識しました。合衆国の議事堂には「われわれは神に信頼する」という言葉が刻まれています。アメリカの貨幣すべてにも同じ言葉が刻まれています。人間歴史の推移は神が存在されることの強い証しです。

 

A.3 神は、聖書の中で啓示されている

神は宇宙を通して、また人類を通して、多くの方法で現されていますが、ご自身の最も直接的な証しは、二つの事柄を通してです。その二つとは神の御言葉と御子です。神の言葉とは聖書です。聖書は、神の称号をわたしたちに啓示します。旧約における神の多くの称号の中で、使われているのはおもに三つであり、「エロヒム(Elohim)」、「エホバ(Jehovah)」、「アドナイ(Adonai)」です。

 

「エロヒム」はヘブル語で複数の名詞です。この言葉は「信実な力強い方」という意味を含んでいます。神は力強く、信実です。彼は力において強く、また言葉において信実です。「エホバ」とは、「わたしは有って有る者」を意味し、それは神が自ら存在し永遠に存在するお方であることを啓示しています。彼は過去において存在されたお方であり、現在存在されるお方であり、将来、こられるお方です。「アドナイ」は「主人」と「夫」を意味します。一方において、神は人の主人であり、もう一方で神は人の夫です。新約には他にも多くの称号があります。例えば、父、主、イエス・キリスト、聖霊などです。これらはみな神がだれであるのか、何であるのかをわたしたちに啓示します。

 

父祖たちの生活も人の生活の中に神が働かれることの強い証拠です。これらの人の経験と記録は、いかに神が顧みるお方であるかを見せています。神は人の種々の事柄を顧みて、彼らを導き、神ご自身を知らせます。……

 

聖書ほどひどい攻撃を受けた本はほかにありません。無神論を唱える政府は、全力を挙げて自分の国から聖書を取り去ろうとしてきましたが、神の権威ある御手はこの本を守ってきました。かつて無神論の共産主義の支配の下にあった国であるロシアの人たちが、長年禁じられてきましたが、今や自由に聖書を手にできるようになりつつあることは、喜ばしいことです。わたしたちは、このようなことを可能にされたのは、神の御手であることを認識する必要があります。聖書が守られてきたことは、今日、神がこの世に生きておらることのーつの強い証拠です。

 

A.4 神は御子イエス・キリストにおいて現わされた

ヘブル人への手紙第一章一節から三節によれば、神は昔はいろいろな方法で人に語られたのですが、ある日、個人的にイエス・キリストにあって人に語ることを決められた、と言っています。イエス・キリストは、人の姿でこられた神です(ヨハネ1:18)。イエス・キリストがこられたことは、神を言い表しました。イエス・キリストを通して、人は神ご自身を見ます(ヨハネ14:9)。

 

ヨハネの福音書は、彼が地上におられた時、ご自分が神である、と百十四回言われたことを記録しています。彼は弟子たちとの最後の交わりの中で、五十回以上ご自分が神であることに言及しました。彼が行なわれた奇跡は、このお方が神でない限り、だれにもなし得ないものです。彼は自然の法則を定め、それを管理されました。例えば、彼は水をぶどう酒に変え(ヨハネ2:1-11)、嵐を静め(マタイ8:23-27)、五つのパンと二匹の魚で五千人を養われました(マタイ14:14-21)。彼はまた病人をいやし、死人をよみがえらせ、悪鬼を追い出されました(マタイ4:24、8:28-32、11:4-5)。彼は、神にしか語れない知恵の言葉を語られました(マタイ13:53-56)。

 

地上の三十三年半の生活の後、彼は超自然的な死を遂げられました。彼の死は旧約の預言の成就でした。彼は弟子たちに対してご自身の死を、その事が起こる前にあらかじめ告げられました。彼が死なれる時、「すべてが終わった」と宣言されました。これは、神の贖いのみわざが成し遂げられたことを意味します。全世界の指導者たちの死は、それぞれの影響力と経歴が終わりとなるしるしですが、キリストの死はキリスト教の開始となり、地を揺るがす信仰をもたらすものとなりました。十字架のそばで彼を見守っていた百卒長と兵卒たちが、「まことに、この人は神の子であった」と告白したのも当然です(マタイ27:54)。

 

彼の死は、神-人の死でした。彼が死なれた時、空は暗くなり、墓は開け、多くの死んだ聖徒たちの体がよみがえらされました。人のために死なれたのは神でした!キリストの死の背後にある力を説明することのできる歴史家はいません。イエス・キリストの命と死は、神の力と働きに対する生きた証しです。

 

Q. 神は人に何をしてもらいたいのですか

A.

 聖書の使徒行伝第十七章二十七節は、神は人がご自身を捜し求め、ご自身を知ることを欲しておられる、と告げています。神は宇宙において御手のわざを見せておられます。また彼は聖書の中で語っておられます。彼はイエス・キリストの中でご自身を現しさえされました。彼の願いは、わたしたちがご自身を知ることです。神はご自身を隠されるつもりはありません。神は、人がご自身をまず創造者として、次に神また父として認識するようになって欲しいのです。

 

第二に、神は人がご自身を礼拝するのを願われます。ヨハネの福音書第四章二三節は、神は真の礼拝者、霊とまこととをもって礼拝する者たちを求めておられる、と告げています。神は、ご自身が創造された物を人が拝むことを願われません。神に対する真の礼拝は、わたしたちの霊をもって礼拝することです。過去において、人は多くの偶像をこしらえ、神の替わりにこれらの物を拝みました。しかし旧約と新約の両方で、神はあらゆる形の偶像礼拝を禁じておられます(出20:4-5、Ⅰコリント10:14、Ⅰテサロニケ1:9後半)。

 

神は唯一の神です。わたしたちの礼拝を要求するにふさわしい対象は、ほかにありません。

 

Q. 神を礼拝するには、どのようにすればよいのですか

A.

 神に対する真の礼拝は、多くの儀式や形式から成るのではありません。またわたしたちが座ったりひざまずいたりする場所や方法も、神には関係がありません。神が気にかけられるのは、人が霊の中でご自身を礼拝することです。神は霊ですから、神を礼拝する者も、霊の中で礼拝しなければなりません(ヨハネ4:24)。もし電波を受信したいなら、ラジオを使わなければなりません。もし電話で話したいなら、受話器を取らなければなりません。同様に、もし人が神を礼拝し接触したいなら、必ず人の霊を使う必要があります。 

 

色を耳で聞くことはできませんし、また目で音楽を見ることはできません。必ず正しい器官が必要です。神は霊であり、物質的なものではありません。この理由により、わたしたちは物質的なもので神を礼拝してはならず、霊をもって神を礼拝しなければなりません。

 

わたしたちの霊を使う方法は、主イエスの名を呼び求めることによって祈ることです (ローマ10:12-13)。もしわたしたちの口を開き、心を開いて、神に祈るなら、わたし たちの霊は神に触れ、神はわたしたちにとって実際となるでしょう。

 

Q. 人に対する神の計画は何ですか

A.

 人に対する神の究極のご計画は、人が神を表現することです。神を表現する方法は、神で満たされることです。もし神に祈って神を受け入れるなら、神はわたしたちの中に入り、わたしたちを満たされるでしょう。神はもはやわたしたちの外側におられる客観的な神でなく、わたしたちの内側におられる主観的な神となられます。彼はご自身をもってわたしたちを満たし、わたしたちの全存在を変えてくださいます。 クリスチャンになるということは、単にある信条を信じたり、ある教えを学んだりすることではありません。それは、神を認識し、神を礼拝し、神で満たされることによって神を表現することなのです。

 

 

(ロシアでの福音メッセージによる小冊子(2)神はおられる より抜粋)


Q. イエス・キリストが神であることをどのように証明できますか


 

A.1

聖霊の受胎を通して、また処女によって、

キリストの誕生は彼が神であることを証明する

 

キリストが神であることを示す多くの証拠があります。第一に、キリストが地上で誕生した方法です。人がどのように生まれるかは、その人の起源がどうであるかを物語ります。キリストが生まれたのは処女マリヤからです(マタイ1:18)。彼の誕生は人の受胎を通してではなく、それは聖霊を通してでした(マタイ1:20)。もし彼が単なる人間であったなら、彼はすべての他の人間が生まれてくるのと同じ方法で地上にこられたでしょう。しかしイエス・キリストは、すべての人間と全く違った方法で地にこられたのです。すべての人間は人の両親から生まれますが、イエスは聖霊と人との混ざり合いとしてこられました。……

 

キリストが聖霊によって身ごもり、人の処女から生まれたという事実は、二つの事を意味します。第一に、それはイエスがその存在において神性を帯びておられるという意味です。人の受胎は人の要素を生み出し、神の受胎は神の要素を生み出します。人の性質はすべて、人の要素を生み出すだけです。イエス・キリストだけが、神の要素と人の要素を兼ね備えて生まれてきたのです。これは彼が唯一の神ー人であることを証明します。

 

第二に、すべての人の誕生は罪の要素を伴うものです。けれども自然な誕生とは異なる誕生は、罪という人の遺伝する要素を伴いません。人はみな罪人として生まれますが、キリストは罪なきお方として生まれたのです。彼は罪なき神ー人――すなわち神全体であり完全な人でした。……

 

 

A.2

キリストの神聖な称号は、

彼が神であることを証明している

 

イエスが生まれた時、その名はインマヌエルと呼ばれました。それは「神われらと共にいます」という意味です(マタイ1:23)。これは普通の死ぬべき者が使える称号ではありません。イエスがこのような名を持つことができたのは、彼の到来は神の到来であり、彼の臨在は神が人と共にいることであったからです。「神が人と共にいる」と言える者はだれもいません。なぜなら、わたしたちはみな人にすぎないからです。しかしイエス・キリストの到来は、神が人にこられることでした。

 

彼の名は、またイエスと呼ばれました。それは「エホバ救い主」を意味します(マタイ1:23)。エホバは旧約における神の個人的な名です。キリストがイエスであると言うのは、彼はエホバであると言うことです。彼はエホバ救い主と呼ばれることを恥じません。なぜなら彼はまさに神ご自身であるからです。

 

 

A.3

キリストご自身による宣言によって証明される

 

イエスは地上におられた間、 いつもご自分が神であるという意識を持っておられました。彼はユダヤ人たちに「アブラハムが存在する前に、わたしはある」と言われました(ヨハネ8:58)。出エジプト記は、神の名は「わたしはある」であると告げています(3:14)。イエスが「アブラハムが存在する前に、わたしはある」と言われた時、ユダヤ人たちは石を取り上げて、彼に投げつけようとしました。彼らは、イエスがご自分を神であると言っておられるのを知っていたからです。偉大な「わたしはある」として、イエスは永遠にいつまでも存在する神です。

 

彼は神を「父」と呼ばれました(ヨハネ17:1)、そしてご自身を神の御子と呼ぶのを恥とされませんでした(マタイ16:16)。マホメットにしても、孔子にしても、ソクラテスにしても、どんな偉大な指導者にしても、自分が神であると主張した人はいません。しかしイエスは何度も、ご自身を神であると宣言されました。彼が死に渡されたのは、自分が神の子であると宣言したからです(マタイ26:63-66)。彼の弟子たちは、彼が神であることを公に宣言しました。……

 

ナポレオン・ボナパルトがセント・ヘレナ島に流刑にされた時、モンソロン伯爵に向かって「あなたはイエス・キリストがだれであるかご存じですか?」という質問をしました。その質問は断わられましたが、ナポレオンは言いました、「ではわたしが言おう。アレキサンダー、シーザー、シャルルマーニュ、またわたし自身は偉大な帝国を武力の上に打ち立てた……イエスだけは彼の王国を愛の上に打ち立てた…わたしはあなたに言うが、これらはみな人であった。だれ一人、イエスのような人はいない。イエス・キリストは人以上である。彼は人の心を求めている。無条件に要求している、しかも彼の要求はかなえられている。まことにすばらしい!…だれでも心から彼を信じる者は、彼に対する驚くべき超自然的な愛を経験する。時間も力ある破壊者も、この聖なる炎を消す力はない。これはイエス・キリストが神であることを、力強くわたしに証明するものである!」。

 

 

A.4

キリストの奇跡は、彼が神であることを証明する

 

キリストが神であることのもうーつの証拠は、彼が地上で行なわれた奇跡です。当時、学問がありユダヤ人の教師であったニコデモは、もし神が共におられないなら、キリストが行なわれた奇跡をだれも行なうことはできない、と告白しています(ヨハネ3;2)。彼の三年半の務めの期間に、彼はらい病人をいやされました(ルカ5:12-13)。また足の不自由な人をいやし(マタイ11:5)、口の利けない者を利けるようにし(マルコ7:37)、盲人を見えるようにし(マタイ9:27-30)、死人をよみがえらせさえしました(ヨハネ11:43-44)。彼は悪鬼どもを追い出し(マタイ8:28-32)、嵐を静めました(マタイ8:23-27)。彼は五つのパンと二匹の魚で五千人を養われました(マタイ14:15-21)。彼は水をぶどう酒に変え(ヨハネ2:1-11)、海の上を歩かれました(マタイ14:25)。彼は自然界を支配する力を持ち、悪鬼を追い出す権威を持っておられました。彼はこの力と権威を用いて、神の王国をもたらし、また弟子たちにこの力と権威を与えられました。旧約の、ある預言者たちは奇跡を行なうことができました、しかしイエスのようには奇跡を行なうことができませんでした。イエスは死人を命によみがえらせることができました、なぜなら彼は神であり、命の力を持っておられるからです。彼は「わたしは復活であり、命である」と宣言されました(ヨハネ11:25)。彼は、ご自身が自然界にもサタンにも主であることを証明されました。ヨハネの福音書は、これらの奇跡は彼の栄光を現しており(ヨハネ2:11)、彼が神の子であることを証明する(ヨハネ20:30-31)、と言っています。 

 

 

A.5

キリストの言葉は、彼が神であることを証しする

 

キリストが行なわれた奇跡以上に驚くべきことは、彼が語られた言葉です。彼は権威と命をもって語られました(ヨハネ6:63)。多くの偉大なこの世の指導者たちは後世に知恵の言葉を残しましたが、歴史において、キリストの言葉ほど多くの人の人生に影響を与えたものはありません。彼の言葉は無数の人に命を与え、数え切れない人を、彼のために殉教させました。ナポレオンは生きている時、兵隊たちに、自分の主義のために死ぬように言うことができました、しかし彼が死んだ時、彼の主義も共に死にました。しかしながら、キリストの死後二千年の今日でさえ、全世界の至る所で男であれ女であれ、彼のためなら喜んで生き、喜んで死ぬ人がいるのです。彼の言葉は世界中の本、図書館、会議場、学校などで引用されます。彼の道徳、人間関係に関する教えは、公正で人間味のある社会の基礎となっています(マタイ第5章―第7章)。けれども、彼の教えの最もすばらしい部分は、彼が語られた知恵と道徳の教えではなく、ご自身についての驚くべき主張です。……

 

 

A.6

キリストに罪がないことは、

彼が神であることを証明している

 

地上におけるキリストの生涯は、罪なき生涯でした。かつて、姦淫で捕らえられた一人の女がキリストの前に連れてこられました。当時のユダヤの律法によれば、姦淫で捕らえられた者はみな石で打ち殺されなければなりませんでした。人々はキリストを取り囲んで、彼を試みようとしました。そこで、彼は群衆に「だれでも罪のない者が、まず彼女に石を投げつけなさい」と言われました。すると、その言葉を聞いて、一人また一人と、老人から始めてすべての人々が立ち去り、結局、ただイエスだけが残されたのです(ヨハネ8:1-11)。

 

彼は自分自身に罪がないので、このように他の人に挑戦することができました。もし彼にも罪があれば、このように他の人に挑戦する大胆さはなかったでしょう。彼が地上におられた時、彼の母も弟たちも一緒でした。彼の罪がないという主張に、だれも「否」と言える人はありません。これは彼が神であることを証明します。なぜなら、罪がないのは神だけであるからです。聖書は、彼が地上で生活された時、彼は罪を除いては、あらゆる面でわたしたちと同じであった(ヘブル4:15)と言っています。彼がローマの総督 の前に連れてこられた時、総督は最も厳格なローマの法律によっても「この人の内に何の落ち度も見いださない」と言いました(ルカ23:4)。主と共に十字架につけられた盗人も「このかたは何も悪いことをしたのではない」と言いました(ルカ23:41)。彼に背いた弟子、ユダは「罪のない人の血を引き渡した」と告白しました(マタイ27:4)、また彼を十字架につけた百卒長は叫び声を上げて言いました、「確かにこのかたは正しかった」(ルカ23:47)。……

 

これらすべてのテストを経て、彼には罪がないことが証明されました。キリストの罪なきことは、彼が神であることを証明するものです。

 

 

A.7

罪を赦すキリストの権威は、

彼が神であることを証明する

 

キリストはご自身に罪がないだけでなく、彼はまた他の人の罪を赦すこともできました。かつて一人の中風病みが彼のもとに連れてこられた時、彼はその病人に言われました、「元気を出しなさい、子よ、あなたの罪は赦されています」(マタイ9:2)。律法学者たちはその言葉に憤慨しました。なぜなら、神だけが人の罪を赦すことができ、イエスが罪を赦すと言うことは、彼が神であることを断言したことを意味すると、彼らは知っていたからです。彼はそのような言葉を言うことができました。彼は本当に神であられるからです!彼は罪を赦す権威を持っておられます(マタイ9:6)。ある時、一人の罪の女がイエスに近づいた時、イエスは彼女に言われました、「あなたの罪は赦されている!」(ルカ7:48)。彼と同じテーブルに着いて食事をしていた人たちは、彼らの間で言いました、「罪を赦しさえするこの人は、いったい何者なのだろう?」(49節)。キリストが罪を赦すことができたのは、彼がまさに神であられたからです。

 

 

A.8

キリストの死は、

彼が神であることを証明する

 

地上での三十三年半の生活の後、彼は死なれました。彼の死は特別な死でした。地上のいかなる人の死とも異なっていました。すべての宗教的指導者たちは人として死に、人として葬られました。しかしキリストが死なれたのは、人とは異なる方法でした。彼の死は六つの点で、普通の人間の死と区別されます。

 

第一に、彼は死なれる前に、弟子たちにあらかじめ彼の死を告げられました。彼は弟子たちに、「彼がエルサレムに行って長老たちや祭司長たちまた律法学者たちから多くの苦しみを受け、そして殺され、そして三日目によみがえらされなければならない」と示されました(マタイ16:21)。彼は弟子たちに彼の死をあらかじめ告げただけでなく、死んだ後、三日目によみがえらされることもあらかじめ告げられました。これは、彼の死が人の手による不慮の死ではなく、神の手によってあらかじめ定められていた死であることを見せています。

 

第二に、彼の死は、数百年前に、メシヤについて預言者があらかじめ告げた預言の正確な成就でした。旧約において、詩篇第22篇15節から18節はキリストの死の光景を描写しています。「わたしの力は陶器のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行なう者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめてわたしを見る。彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする」。これは、メシヤがどのように死なれるかを、ありありと描写しているものです。……

 

第三に、キリストが死なれた時と方法は、何百年も前から旧約で予表されていました。出エジプト記第12章で、過越の祭りの記録は、小羊が祭りのために用意されるべきであったことを告げています(3,5-6節)。この小羊は、過越の前の四日間、傷がないか、よく調べられる必要がありました。そして正月の第十四日に十字架の形をした木の棒にくくられて殺されました。これはキリストが十字架上で死なれた方法を完全に描写したものです。十字架につけられる前、キリストはユダヤ人と異邦人たちによって六回も調べられましたが、何の落ち度も見いだされませんでした。彼の死もまた、正月の十四日、すなわち過越の日でした(マルコ14:12-17、ヨハネ18:28)。

 

第四に、キリストは死なれた時、「完了した!」と言われました(ヨハネ19:30)。普通の人が死ぬ時、それは人生の最後です。どれほど偉大な人であろうと、いったんこの世を去るなら、その働きは終わります。ところがキリストの死は、キリストの終わりではありませんでした。むしろ、彼の働きの絶頂でした。死は彼の生涯の終結ではなく、彼が達成されたことの絶頂を示すしるしとなりました。そのような死は確かに普通の死ではなく、偉大な意義と偉大な達成を示す死でした。

 

第五に、キリストの死は、超自然的な出来事を引き起こしました。それは彼の死の超自然的性質を反映するものです。死ぬべき人の死は、罪人である自分自身のための死です。しかしキリストの死は、罪人のために人となられた神の死です。それゆえに、それは特別な死でした。キリストが死なれた時、正午に暗黒が全地を覆いました。地は揺さぶられ岩が裂けました。墓が開いて、多くの死人の体がよみがえらされました(マタイ27:45、51-53)。……

 

第六に、聖書は、キリストはすべての罪人の身代わりとして死なれ(Ⅰペテロ3:18)、そして全世界の罪のため、いけにえとして神にご自身をささげられた(ヨハネ1:29、Ⅰヨハネ2:2)と言っています。キリストが十字架にかけられていた時、神はこの世の罪を全部彼の上に置き、彼をすべての人のために代わって死ぬユニークな罪人と見なされたのです(Ⅱコリント5:14)。たとえ罪がなくても、普通の人には、すべての人の身代わりとなったり、全世界の罪を担う資格はありません。ただ一人の人だけが、人と、人の罪のために死ぬことができるのであり、ただ神だけがすべての人を受け入れ、この世の罪の巨大な重荷を担ってくださるのです。ですから、罪人と彼らの罪のために死なれた方は、神ー人、真の人と混ざり合わされた神その方でなければなりません。これがわたしたちの救い主、イエス・キリストです。

 

最後に、キリストの贖いの死の永遠の効力が、キリストが神であることの証拠です。キリストの死の効力は永遠であって、時間と空間の制限というものがありません。キリストの効き目のある死は、時間と空間にかかわらず、 あらゆる信者に適用されます。キリストの身代わりの死は、わたしたちのために永遠の贖いを達成しました(ヘブル9:12、14)。もしキリストが単なる人として死なれたのなら、その死の効力は永遠ではありませんでした。神だけが永遠ですから、神によって達成されるものだけに、永遠の効き目があります。わたしたちのために十字架上で流されたキリストの血は、人なるイエスの血であるだけではなく、神の御子の血でもあり(Ⅰヨハネ1:7)。神ご自身の血でさえあるのです(使徒20:28)。ですから、それはわたしたちをあらゆる罪から清めることができます。……

 

 

A.9

キリストの復活は、

彼が神であることを証明する

 

キリストに関する最もすばらしい事は、彼が死なれた方法だけでなく、彼が死にとどまっておられなかったことです。彼が墓の中におられたのは、72時間以内でした。12日目にキリストは墓からよみがえられました(マタイ28:1-6)。これは歴史的事実です。どのような歴史家も、これを覆すことはできません。彼は体をもって復活し、40日にわたって何度も弟子たちに現れました(Ⅰコリント15:4-7、使徒1:3)。多くの現代の批評家は復活のことを、初期の弟子たちがでっち上げた作り話、 あるいは物語であるとして退けています。しかし事実、非常に多くの証し人たちが、復活の後にキリストを見ています、そして復活のキリストに出会ったことが、彼らの生活に大きな変化をもたらしています。……イエス・キリストの復活は、人類歴史における最大の歴史的事実です。それは人類歴史の流れを変え、人がキリストにある新しい命を持つ道を開いたのです。

 

 

A.10

キリストの昇天と、彼が永遠に生きておられることは、

彼が神であることを証明する

 

主イエス・キリストが復活されてから、すでに約二千年が経過しました。過去二千年、人類の歴史は、このキリストをこの世における彼の地位から滅ぽしたり、取り除いたりできるものが何もないことを証明してきました。……王たちや征服者たちは、自分の支配を記念するために暦を制定しますが、存続している唯一の暦はキリストの暦です。今日、東洋でも西洋でも、最も進んだ工業国から最も遅れた国まで、すべての人が、普遍的な暦、すなわちキリストの暦を使っています。それに気づかないにしても、全世界はキリストが唯一の君主、最高の支配者であることを承認しているのです。……

 

 

今日、ロシアでも、中国でも、アメリカでも、無数のクリスチャンがイエス・キリストに見いだした信仰を証ししています。毎日毎日、何千何万という人がキリストに向きを変え、自分の命をキリストにゆだねています。クリスチャンの信仰は死んではいません。むしろ、歴史上のどんな時よりも生き生きしています。これらすべての事が、イエス・キリストは神であり、彼は永遠に生きておられることを再び証明しているのです。

 

 

Q. イエス・キリストを主観的に経験することはできますか

 

A.できます

 

クリスチャンは死んだ宗教を信じる人ではありません。クリスチャンは生きている救い主を信じる人です。イエス・キリストは二千年前に死なれましたが、今日も彼は生きておられ、永遠に生きておられます(啓1:18)。もし主の名を呼んで彼を信じるなら(ローマ10:9)、命を与える霊であるキリストは、その人の中に入り、人生を変えてくださいます。マホメットは死にました、そして彼の墓は今メッカにあります。アレキサンダー大王も死に、今は墓に横たわっています。すべての偉大な世界の指導者たちは、死んで、墓や廟に横たわっています。しかし、イエス・キリストは生きておられるのです。彼の墓は空です。彼は無数の信者の中に生きておられます。あなたがアレキサンダー大王を呼んでも、何の返事もないでしょう。彼は死んでいるからです。しかし、もしあなたがイエスを呼び求めるなら、彼はあなたの中に入ってこられます、そしてあなたの人生を変えてくださいます。彼はあなたのむなしさを実際へと、暗やみを光へと、弱さを強さへと、恐れを勇気へと、悲しみを喜びへと変えてくださいます。主イエスの名を呼ぶ者はすべて、必ず救われます(ローマ10:13)。

 

ある日、キリストは再びこの地上に現れ、彼の天の王国を地上に設立されます(啓11:15)。聖書は、天はその日が来るのを待っている、と言っています(使徒3:21)。けれども今日、あなたは彼を信じることによって彼を経験することができます。もしあなたが彼に心を開くなら、彼はあなたの中に入ってこられ、彼の王国をあなたの中に打ち立てられます。あなたはやみの国から光の王国へと移されます(コロサイ1:13)。キリストは内側で主観的にあなたの新しい命となり(コロサイ3:4)、あなたはキリストにあって主観的に新しい人となるでしょう(Ⅱコリント5:17)。

 

 

(ロシアでの福音メッセージによる小冊子(3)キリストは神であるより抜粋)