神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第2週3日~(2) 第6週5日
12月の祈り 第31日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第6週5日)
神の民の罪科を負う度量を持って供給します
レビ10:17
なぜあなたがたは、罪のためのささげ物を聖なる所の場所で食べなかったのか? それは最も聖いものであり、エホバはそれをあなたがたに与えて、あなたがたが集団の罪科を負い、彼らのためにエホバの御前で罪を覆うようにされたからである。
「わたしたちは、人の弱さ、過ち、罪に言及する必要はありません。なぜなら、その人の中へと供給されたキリストの命が、その人をいやし、病原菌を殺し、問題を消滅させ、永久で永続するその霊の一を建て上げるからです。これは、神の民の罪科を負い、神の民の問題を解決することです。さらに、その霊による、愛の中にあるこのような務めは、召会生活の中でその霊の一を維持します(コロサイ3:12-15)」。
主よ、わたしたちが罪を対処する命としてのキリストを享受することができますように。そして、主よ、わたしたちが神の民の罪科を負う度量を持つことができますように。
罪を対処するキリストの命を享受して、まず自分自身が対処されます
もしだれかが罪を犯しているのを知ったなら、あなたはその人のために祈り、罪を対処する命としてのキリストを供給して、彼に自分の罪を対処させることを学ばなければなりません。……まず、罪を対処するキリストの命を享受することによって、あなた自身が対処されなければなりません。次にあなたは、罪を対処する命としてのそのようなキリストを、人に供給しなければなりません。……レビ記は、祭司が聖なる所で罪のためのささげ物を食べて、「集団の罪科を負い、彼らのためにエホバの御前で罪を覆うように」すべきであると告げています(レビ10:17)。
あなたは罪を対処する命としてのキリストを享受しているとき、神の民の罪科を負う度量を持たなければなりません。あなたはキリストを、罪の中にいる愛する人たちに供給することを学ばなければなりません。……あなたは彼の過ちに言及する必要はありません。なぜなら、命の供給として彼の中へと入ったその命が、多くのことを行なうからです。……これが聖徒たちの間の罪を除き去る道です。(時機を得た言葉、第1章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第30日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第6週4日)
若い聖徒たちの結婚に関して、彼らに命を供給します
マタイ19:5-6
……「このゆえに、人はその父母を離れて、その妻と結び合い、二人は一つの肉体となるのである」。それだから、彼らはもはや二人ではなく、一つの肉体である。こういうわけで、神がくびきを共にさせたものを、人は引き離してはならない。
「わたしたちは、若い聖徒たちの結婚に関して、彼らを指示したりコントロールしたりすることについて、注意深くある必要があります(マタイ19:5-6)。召会生活の中で、若者たちの結婚に関してわたしたちにできるすべてのことはただ、彼らに命を供給することです(創2:21-24.24:64-67.49:31)」。
主よ、結婚の事柄で、若い聖徒たちが主の導きを仰ぎ望み、どのようにして霊の中で歩くのかを学ぶことができますように。主よ、わたしたちが天然の方法で、指摘したりしないで、彼らのために祈り、彼らに命を供給することができますように。
結婚の事柄を天然の方法で導いたり指摘したりしないで、主にゆだねて祈ります
だれが良い結婚相手であるかは、主だけが知っておられます。わたしたちにはわかりません。……召会生活の中で、若者たちの結婚に関してわたしたちにできるすべてのことはただ、彼らに命を供給することです。わたしたちは、彼らが主の導きを仰ぎ望み、どのようにして霊の中で歩むかを学ぶように、助けなければなりません。……
結婚の事柄はとても複雑であり、最も厄介です。わたしたちはとても客観的であろうとし、若者たちに命を与えようとすべきです。決して不注意に二人を合わせようとしてはなりません。……わたしたちがこの事柄に天然の方法で触れる必要はありません。わたしたちは、この事柄を主にゆだねて、わたしたちが関係を持っている人たちのために祈るべきです。わたしたちはできる限り多くの命を与えて、彼らを助けるべきであり、だれが彼らの最上の相手であるかを決して指摘すべきではありません。わたしたちは、どの兄弟あるいはどの姉妹が彼らにとって一番良いかについて、コントロールしません。わたしたちがこの事柄を主にゆだねるなら、召会を多くの問題から救います。(長老訓練、第4巻、「主の回復の実行に関する他の極めて重要な事柄」、第8章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第29日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第6週3日)
あなたがたの間の神の群れを牧養しなさい
Ⅰペテロ5:2-3
あなたがたの間の神の群れを牧養しなさい.強いられてではなく、自ら進んで、神にしたがって監督し、卑しい手段で利得を求めることによってではなく、熱心に監督しなさい.また割り当てられた人たちの上に、権力を振るうのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
「人の上に権力を振るうことは、治められている人たちの上に権力を行使することです(マタイ20:25)。信者たちの間で、わたしたちはみな兄弟たちであり、キリストだけが、わたしたちの主、わたしたちの主人、収穫物の主です(マタイ23:8, 10.ルカ10:2)」。
主よ、わたしたちの間にある神の群れが牧養されますように。主よ、わたしたちがみな主の臨在の中へと入り、祈ることを学ばせてください。主よ、その霊の導きとからだの感覚の中で、わたしたちを前進させてください。
わたしたちはその霊の導きとからだの感覚をもって均衡がとられます
わたしたちはみな主の臨在の中へと入り、しばらくの間、祈らなければなりません。…… あらゆることは、主の臨在の中へともたらされなければなりません。わたしはあなたに代わって主に行くことはできません。あなた自身が主に行かなければなりません。わたしたちはみな、だれも他のだれかに代わって主に行くことはできないというこの学課を学ばなければなりません。それは聖職者・平信徒階級制度です。
導く者たちが多く祈った後、ある事柄について真に負担を与えられるとします。それから彼らが行なうべきことは、交わりを通してその負担を聖徒たちに伝え、彼らに祈ってもらうことです。最終的に、聖徒たちは主から個人的な導きを受け、それにしたがって行動するでしょう。このようにするなら、だれも個人主義的になったり、反逆的になったりしないでしょう。こういうわけで、わたしたちはからだを持つのです。わたしたちは一方においてその霊を持ち、またもう一方においてからだも持ちます。その霊とからだはわたしたちを均衡の中に保ちます。あなたは、主から受けている導きがからだの感覚と一致しているかどうかを確認する必要があります。わたしたちは均衡がとられる必要があります。
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第28日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第6週2日)
主はわたしたちの魂の牧者また監督者です
Ⅰペテロ2:25
あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、あなたがたの魂の牧者また監督者に立ち返ったのです。
Ⅰペテロ5:4
そうすれば、牧者の長が現れる時、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けます。
「神の羊の群れを牧養することは、主と一になって聖徒たちの魂を見守ることです。主は彼らの魂の牧者また監督者であり、彼らの内なる存在の益を顧み、彼らの真のパースンの状態を監督しています(ヨハネ21:15-17.Ⅰペテロ2:25.5:1-6.ヘブル13:17)」。
主よ、わたしたちはさまよっていましたが、魂の牧者また監督者に立ち返ったことを感謝します。主よ、わたしたちが召会生活の中で、互いに忠信に神の羊の群れを牧養することができますように。
神の羊の群れを牧養することは、主と一になって聖徒たちの魂を見守ることです
ペテロは[主の羊を牧養するという]主の委託でとても印象づけられたので、[ペテロの第一の手紙]で信者たちに、彼らは羊のようにさまよっていたが、今は、彼らの魂の牧者また監督者(キリスト)に立ち返ったと告げました(Ⅰペテロ2:25)。キリストが彼の羊の群れを牧養することは、彼が彼らの外側の事柄、また彼らの内なる存在、彼らの魂を顧みることを含みます。彼は彼らの魂を監督することによって、彼らの魂に関する事柄を顧みます。キリストはわたしたちに内住して、わたしたちの命またすべてとなっていますが、彼はまたわたしたちの内なる存在の状態と状況を監督し、観察しています。
主がわたしたちを牧養するのは、わたしたちの内なる存在の益を顧みることにより、またわたしたちの魂、わたしたちの真のパースンの状態を監督することによります。
ペテロは長老たちに、彼らの間の神の羊の群れを牧養するよう勧めました。それによって、牧者の長が現れる時、彼ら、忠信な[聖徒]たちは、しぼむことのない栄光の冠を受けます(Ⅰペテ5:1-4)。(ヨハネによる福音書結晶の学び、第13章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第27日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第6週1日)
神の奴隷として神の召会を牧養し、神の夢を成就する
マルコ10:45
というのは、人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであって、多くの人の贖いの代価として自分の命を与えるためだからである。
「わたしたちは、キリストを享受し供給することによって、キリストの天の務めにおける彼のすばらしい牧養の中へと入って、神の奴隷として神の召会を牧養し、神の夢、すなわち神の永遠の定められた御旨を成就する必要があります(使徒20:19-20,28,31.ローマ1:1.ガラテヤ6:17.マルコ9:7-8.エペソ3:11)」。
キリストの天の務めにおけるすばらしい牧養を感謝します。主よ、あなたは神の奴隷として神の召会を牧養しておられます。主よ、わたしたちがあなたに来るときは、いつもわたしたちに仕えてくださることを感謝します。
まずキリストがわたしたちに仕えてくださり、それからわたしたちが仕える
マルコによる福音書第10章45節は……人の子が来て、あらゆる人に仕えられたことを述べています。だれであれ主に来る者に、主は常に仕えてくださいます。主は飢えている者に食べさせ、病んでいる者をいやされます。時間と場所にかかわらず、主は常にわたしたちに仕えてくださいます。主の最高の奉仕は、多くの人の贖いの代価としてご自分の命を与えることでした。彼はご自分の命を与えて人に仕えてくださいました。
主の食卓においてわたしたちの前にあるパンは、どのようにしてキリストがわたしたちに仕えてくださったかを、はっきりと実証しています。彼の体は、わたしたちすべてのために裂かれました。救いの意味とは、まずキリストがわたしたちに仕えてくださり、それからわたしたちがキリストに仕えることです。彼が仕えてくださることは、十字架で終わるのではありません。今でさえも、彼はわたしたちの間におられて、彼の奉仕を続けておられます。わたしたちは必要があるときはいつも、主に来て、主にわたしたちに仕えていただくべきです。(ニー全集、第17巻、聖書についてのメッセージ記録(一)、第22号)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第25日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第5週6日)
死の殺す働きによって、復活の命の供給をもって新陳代謝的に更新されます
ローマ12:2
またこの時代にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになるためです。
「内なる人の更新が起こるのは、内なる人がキリストの復活の命の新鮮な供給で養われるときです(ヨハネ11:25.ピリピ3:10)。わたしたちの外なる人が、死の殺す働きによって消耗させられつつあるとき、わたしたちの内なる人(わたしたちの再生された霊と、わたしたちの内側の各部分)は、復活の命の供給をもって新陳代謝的に、日ごとに更新されつつあります(エレミヤ31:33.ヘブル8:10.ローマ7:22, 25.12:2.Ⅱコリント4:16.エペソ4:23)」。
主よ、わたしたちが毎朝、自分の罪を告白することができますように。自分自身を否んで、キリストの死を経過して、日ごとに更新されますように。
イエスの致死力とキリストの復活の中の神聖な命の供給によって更新されます
毎朝、わたしたちは主と接触すベきです。まず、自分の罪を告白しなければなりません。第二に、自分を否まなければなりません。自分自身を否む時、わたしたちはキリストの死を経過します。そしてキリストの死はわたしたちを殺します。コリント人への第二の手紙第4章でパウロは、「イエスの致死力」(10節)について語っています。これは、積極的な意味で、イエスが常にわたしたちを殺しておられることを意味します。… イエスの中には、殺す要素があるのです。…… 朝ごとに、わたしたちは主に行き、主をわたしたちの日ごとの抗生物質として取る必要があります。……
わたしたちは主をわたしたちの薬として取るとき、イエスの殺し、あるいはイエスの致死力を享受します。この殺しが更新の過程です。さらに、この殺しは復活をもたらします。……キリストの復活の中で、神聖な命には更新する能力があります。わたしたちは朝、自分を否んで神をわたしたちの中へと受け入れるとき、殺しの過程が一日中、わたしたちの内側で進行していることを感じます。なおまた、神聖な命の中の能力は、わたしたちのすべての行動においてわたしたちを更新しつつあります。
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第24日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第5週5日)
苦難を伴う過程を通して、更新されます
ローマ8:17-18
……わたしたちが彼と共に栄光化されるために、彼と共に苦しむ……。なぜなら、現在の時の苦難は、わたしたちに現される来たるべき栄光とは比べるにも値しないと、わたしは勘定するからです。
「神の定められた御旨のためのわたしたちのクリスチャン生活において、わたしたちは更新の過程を経過する必要があります。この過程は苦難を伴う過程です(ローマ8:17-18.Ⅱコリント1:7.4:10-11, 17.Ⅰペテロ4:13.5:9)」。
主よ、わたしたちが苦難を経過するときに、あなたに自分自身を開くことができますように。主よ、わたしたちは何年も同じままでありたくありません。主よ、わたしたちを日ごとに更新してください。
苦難を受けながらも、更新されることなく同じままであることから救ってください
わたしたちの神は、ご自身をわたしたちすべての中へと加えるために、日ごとにそのチャンスを待っておられます。もしわたしたちが神に機会を与えて開くなら、彼はご自身を新しい要素として、わたしたちの存在の中へと加えてくださいます。それは単にわたしたちを矯正するためだけでなく、わたしたちを置き換え、更新するためです。
時には、神は召会が「嵐」を経過することを許されるでしょう。神がこの「嵐」が起こることを許されるのは、わたしたちが更新されることを欲しておられるからです。
悲劇的な事は、わたしたちが「嵐」の中で苦難を受けながらも、更新されることなく同じままであることです。わたしは、わたしたちがこの事をよくよく考えることを望みます。わたしたちは祈らなければなりません、「主よ、わたしは同じままでありたくありません。わたしは昨年のように、今年も同じままでいたくありません。わたしは日ごとに更新されたいです」。 神の意図は、わたしたちが日ごとに更新されることです。・・・・・ わたしたちは日ごとに神と接触し、神に自分自身を開き、日ごとに神にわたしたちの中へと入って来ていただいて、わたしたちの中に新しい増し加わりがある必要があります。(日ごとに新しくされる、第2章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第23日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第5週4日)
旧創造の中にとどまっている思い、意志、感情は、更新される必要があります
Ⅱコリント5:17
ですから、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去りました.見よ、それらは新しくなりました。
エペソ4:23
そして、あなたがたの思いの霊の中で新しくされ。
「わたしたちは経験において、砕かれ更新されることによって新創造となる過程にいます(Ⅱコリント5:17.4:10-12, 16.エペソ4:22-24)。わたしたちの霊は再生されていますが、わたしたちの魂と、その機能である思い、意志、感情は、旧創造の中にとどまっており、更新される必要があります(ローマ12:2.エペソ4:23)」。
主よ、わたしたちは経験において、新創造となる過程にいます。主よ、わたしたちが祈ることによって、またあなたを呼び求めることによって、神をわたしたちの新しい習慣とすることができますように。
自分の古い習慣から連れ出されて、神をわたしたちの新しい習慣とします
わたしたちは再生される前、旧創造でしたが、再生された後、わたしたちは新創造となりました。再生されるのは、新創造とされるためです[参照、Ⅱコリント5:17]。……キリストの中にいるという意味においては、わたしたちは新創造ですが、わたしたちの実際の日常生活においては、わたしたちはそれほど新しくありません。なぜなら、わたしたちはまだキリストを、わたしたちを占有し、満たし、わたしたちの命、性質、外観、表現となっている唯一の方として持っていないからです。…… ときどき、わたしたちは霊の中に生きてキリストを生きますが、大部分の時間は、依然としてわたしたちの古い習慣、古い性質の中に生きているのです。…… わたしたちはみな自分の古い習慣から連れ出されて、神をわたしたちの新しい習慣としなければなりません。…
こういうわけで、わたしたちはすべての聖徒たちに、モーニング・ウオッチをするよう勧めているのです。… わたしたちは祈ることによって、また彼を呼び求めることによって、神と接触しなければなりません。そうすれば、神はご自身をわたしたちの中へと加えてくださいます。… この要素はわたしの天然の習慣を更新します。わたしの天然の性質はゆっくりであるかもしれませんが、神はご自身の要素をもってわたしを更新し、わたしの古い要素を排出してくださいます。(日ごとに新しくされる、第2章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第22日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第5週3日)
クリスチャン生活は、更新される生活です
Ⅱコリント4:16
こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます。
「クリスチャン生活は、更新される生活です。わたしたちはわたしたちの内なる人において日ごとに更新される必要があります(Ⅱコリント4:16.ローマ12:2.エペソ4:23)。わたしたちの外なる人は消耗されていきますが、わたしたちの内なる人は日ごとに更新されていきます」。
主よ、わたしたちの内なる人が日ごとに更新されますように。主よ、わたしたちの古い人が十字架につけられ、思いが主によって新しくされますように。
わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます
召会生活の中で、わたしたちは思いが更新されることと思いが引き上げられることとを経験しています。わたしたちの思いが主によって征服させられる時、それは更新されます。その時それは、内なる人のパースンであるわたしたちの霊によって用いられることができます。外なる人は消耗していきます。それはすり減らされ、死に渡されつつあります。しかし内なる人は、日ごとに更新されていきます。消耗していくとは減少していくことを暗示し、更新されていくとは増し加わっていくことを暗示します。ですから、わたしたちの外なる人は減少していき、わたしたちの内なる人は増し加わっていきます。外側ではわたしの体は老化していきますが、わたしの内なる人はますます若くなり、新しくなっていきます。
内なる人は、復活の命の新鮮な供給で養われることによって更新されます。わたしたちの死ぬべき体、外なる人は、死の殺す働きによって消耗されていきます。そしてわたしたちの内なる人(わたしたちの再生された霊と、わたしたちの内側の各部分)は、復活の命の供給をもって新陳代謝的に、日ごとに更新されつつあります。(コリント人への第二の手紙ライフスタディ、第11、35編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第21日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第5週2日)
わたしたちは霊の新しさの中で仕えます
ローマ7:6
しかし、わたしたちは縛られていたものに死んだので、今や律法から解放されました.その結果、わたしたちは文字の古さの中ではなく、霊の新しさの中で仕えているのです。
「わたしたちはキリスト・イエスにある新創造として、霊の新しさの中で仕える必要があります(ローマ7:6)。 霊の新しさと命の新しさはいずれも、わたしたちの古い人が十字架につけられた結果です(ローマ6:6)。ローマ第7章6節の「霊の新しさ」は、わたしたちの再生された人の霊を指しています。この中に、主はその霊として住んでいます(Ⅱテモテ4:22)」。
主よ、キリスト・イエスにある新創造を感謝します。主よ、わたしたちが自分自身を主の臨在の中に保ち、霊の新しさの中で仕えることができますように。
霊の新しさと命の新しさは、わたしたちの日常生活のためです
ローマ人への手紙第7章6節は、わたしたちは妻として、文字の古さの中ではなく、霊の新しさの中で主に仕えなければならないことを示しています。わたしたちが認識しなければならないのは、第6章4節においてわたしたちが命の新しさを持っているのは、わたしたちの生活のためであるということ、また第7章6節においてわたしたちが霊の新しさを持っているのは、わたしたちの奉仕のためであるということです。
命の新しさは、わたしたちがキリストの復活と結合されることから生じます。そしてそれは、わたしたちの日常生活における歩みのためです。霊の新しさは、わたしたちが律法から解放されて、復活したキリストと結び付けられることから生じます。そしてそれは、わたしたちが神に仕えるためです。ですから、霊の新しさと命の新しさはいずれも、古い人が十字架につけられた結果です。(新約の結論(18)、メッセージ300)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第20日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第5週1日)
わたしたちは命の新しさの中を歩きます
ローマ6:4
こういうわけで、わたしたちは彼の死の中へとバプテスマされることを通して、彼と共に葬られたのです.それは、キリストが……死人の中から復活させられたように、わたしたちも命の新しさの中を歩くためです。
「わたしたちはキリストにある信者として、新創造とされています。わたしたちはキリストと共に葬られて彼の死の中へと入りました。またわたしたちは、彼が復活させられたように復活させられました。ですから、わたしたちは命の新しさの中を歩くべきです(コロサイ2:12.エペソ2:5.ローマ6:4)」。
主よ、わたしたちはキリストの死の中へとバプテスマされ、キリストと共に復活させられました。 感謝します。主よ、わたしたちがこのビジョンにしたがって命の新しさの中を歩くことができますように。
わたしたちはキリストと共に死んで、今や主の復活の命の新しさの中で共に成長します
ローマ人への手紙第6章4節で述べられている命の新しさは、5節で述べられている彼の復活の様です。わたしたちはみな、この命の新しさの中を歩くべきです。わたしたちが見なければならないのは、わたしたちがキリストと共に彼の死の様の中で、すなわち、バプテスマの中で成長したこと、また彼と共に彼の復活の様の中で、すなわち、彼の復活の命の新しさの中で成長することです。
これは、わたしたちがキリストと共に死んで、今や彼と共に成長していることを見なければならないことを意味します。わたしたちはバプテスマの中で彼と共に葬られ、今や彼の復活の中で、彼の神聖な命の中で彼と共に成長しています。わたしたちはこのビジョンにしたがって…… 命の新しさの中を歩かなければなりません。わたしたちの日常生活において、また集会において、わたしたちは命の新しさの中で生き、振る舞い、行動し、働き、すべての事を行なう必要があります。(新約の結論(18)、メッセージ299)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第18日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第4週18日)
最上の祈りは、友として神に祈ることです
ヤコブ2:23
…「アブラハムは神を信じた、…」… 彼は神の友と呼ばれたのです。
創18:14,17
エホバにとって、不思議すぎることがあるだろうか? わたしは定められた時、命の時に、あなたの所に戻って来る.その時、サラは男の子を産む。… 17 エホバは言われた、「わたしが行なおうとしている事を、アブラハムに隠しておいてよいだろうか?」。
「最上の祈りは、友として神に祈ることです。アブラハムは神の友でした。創世記第18章で、天の神はご自身を低くして、アブラハムの友となりました。…… アブラハムが神の御前でなした栄光のとりなしは、二人の友の間にある人性の、親密な会話であり、神の心の願いを明らかにすることにしたがった親密な語りかけでした(創18:1-33)」。
主よ、わたしたちが主との親密な会話の中で、神の心の願いを知ることができますように。主よ、人の救いのためにとりなす者にしてください。
アブラハムが神の御前でとりなしたのは、二人の友の間にある人性の、親密な会話でした
創世記第18章で、神はアブラハムがご自身に祈ることを願ったので、来てアブラハムの友となられました。神はアブラハムを天の栄光の聖なる所に引き上げたのではありませんでした。そうではなく、彼はご自身を低くし、アブラハムが住んでいた卑しい天幕に行きました。神はご自身の名声、威厳、力を見せびらかすことはしませんでした。……神は普通の訪問者としてアブラハムの所に来られました。……この状況は完全に、人が友人の家を訪問するようでした。(祈りの意義と目的、第2章)
アブラハムは神とのそのような甘い交わりを享受していたとき、イサクの誕生に関する、またソドムを滅ぼすことに関する啓示を神から受けました。……イサクの誕生はキリストと関係があり、ソドムを滅ぼすことは、神が罪を裁くことと関係があります。……キリストが入って来られなければならず、罪が出て行かなければなりません。(創世記ライフスタディ(3)、第50編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第17日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第4週5日)
自分自身に信頼するのではなく、死人を復活させる神に信頼します
Ⅱコリント1:8-9
……わたしたちは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みをさえ失ったほどです。実に、わたしたちは自ら、自分自身のうちに死という答えを持ちました.それは、わたしたちが自分自身に信頼するのではなく、死人を復活させる神に信頼するためでした。
「人の意見は主の力を妨げます。ですから、わたしたちが絶望的に弱くなり、徹底的に失敗し、完全に死んではじめて、主はわたしたちの中で、わたしたちに対して、ご自身を復活の力として現します(ヨハネ11:1-44.Ⅱコリント1:8-9)」。
主よ、あなたは復活の神です。主よ、わたしたちはあなたに信頼して、わたしたちの問題を下ろす学課を学ぶことができますように。主よ、わたしたちが終わらされたときに、主が復活の力を現してくださることを感謝します。
わたしたちが絶望的に弱くなり、完全に死んではじめて、主はご自身を復活の力として現します
ヨハネによる福音書第11章は、もう一つの原則を提示しています。すなわち、主は人をいやされるのではないということです。彼は人を復活させるのです。いやすことは、人の弱さを助けることとかかわりがあります……主は直ちにラザロをいやされたのではなく、ラザロを復活させるために、彼が死ぬのを待たれました。なぜなら、主はただ人を復活させたいからです。復活は人が終わるまで待つこととかかわりがあります。それは人に新しい開始を与えるためです。……主はわたしたちの中で彼の復活の力を現すことができる前に、わたしたちが絶望的に弱くなるまで、徹底的に失敗した人になるまで、完全に死ぬまで、待たなければなりません。
こういうわけで、わたしたちは主に近づくとき、わたしたちの弱さと失敗を手放すべきです。主はすでにわたしたちの弱さと失敗を知っておられます。……わたしたちは祈るとき、わたしたちの問題を下ろす学課を学ぶ必要があります。わたしたちが真に絶望的であり、終わっているとき、主は来られます。これが復活であり、これが救いです。(祈りの意義と目的、第4章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第16日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第4週4日)
永遠の命に至る永存する食物を求めます
ヨハネ6:27
朽ちる食物のためにではなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい.これこそ、人の子があなたがたに与えるものである.……
「わたしたちは主に近づき主と接触するとき、主ご自身を、見える物質的なものとして尋ね求めるのではなく、見えない霊的なものとして尋ね求めるべきです(ヨハネ6:27, 31-33.Ⅱコリント4:18.ヘブル11:27)」。
主よ、わたしたちが物質的なものではなく、永遠の命に至る永存する食物を求めることができますように。主を見えない霊的なものとして、尋ね求めさせてください。主よ、わたしたちがまず父の王国と義を求めることができますように。
主ご自身を、見えない霊的なものとして尋ね求めます
第三の原則は、ヨハネによる福音書第6章の五千人を養う事例において見られます。大群衆が主と接触したので、主は彼らを養うために奇跡を行ないました。翌日、群衆が満腹するために戻ってきた時、主は言われました、「朽ちる食物のためにではなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい」(27節)。主は物質の食物ではなく、永遠の命に至る永存する食物を求めるように群衆に教えていたのです。これはもう一つの原則です。主は、わたしたちが祈りにおいて彼と接触するとき、物質的なことを求めたり、物質的なことに望みを置いたりしてほしくないのです。……
わたしたちが主と接触するとき、常に物質的なことについて述べるのを主は欲しておられません。主はすでにこれらのものについて知っておられます。わたしたちは主と接触するとき、霊的なこと、命のことに焦点を合わせるべきです。これが、まず彼の王国と彼の義を求めることです。もしわたしたちがこれらのことに焦点を合わせるなら、主は物質的なものをわたしたちに加えられます(マタイ6:31-33)。(祈りの意義と目的、第4章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第15日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第4週3日)
わたしたちが真に神に触れ、神を吸収するとき、神はわたしたちの内側で語ります
詩27:8
「わたしの顔を尋ね求めよ」とあなたが言われるとき、あなたに向かって、わたしの心は言います、「エホバよ、あなたの御顔を尋ね求めます」。
「真の祈りは、わたしたちが神に来て、神にわたしたちの内側で語っていただき、神がわたしたちに語った事柄を、神に語り返すことです。「『わたしの顔を尋ね求めよ』とあなたが言われるとき、あなたに向かって、わたしの心は言います、『エホバよ、あなたの御顔を尋ね求めます』(詩27:8)」。
主よ、あなたはわたしたちの内側で語る神です。主よ、わたしたちに語られた神の言葉を、あなたに語り返して祈ることができますように。
真の祈りは、神がわたしたちの内側で語ったことを、わたしたちが神に語り返すことです
わたしたちは祈るとき、語るべきです。しかしながら、問題はこうです。わたしたちが何を言うのでしょうか? わたしたちの祈りの中で、わたしたちは神がわたしたちの内側で言っておられることを言うべきです。神はわたしたちの内側で語られます。そして、祈るとは彼が語ったことを、彼に語り返すことです。これが詩篇第27篇8節の原則です……そのような祈りは、神がわたしたちの内側で語ることにしたがったものです。
ですから、わたしたちが祈りの中で発する言葉は、わたしたちの内側での語りかけの表現なのです。外側では人が語っていますが、内側では神が語っています。いったん神が内側で語るなら、わたしたちは外側で語ります。祈りとは、わたしたちが語ることを通して何かを求めることではなく、神がわたしたちの内側で語ったことをわたしたちが表現することです。ですから、わたしたちの祈りは神の表現となるのです。これが真の祈りです。(祈りの意義と目的、第1、2章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第14日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第4週2日)
良き地としてのキリストの中に根ざし、成長して建造されます
コロサイ2:7,19
すでに彼の中に根ざしており、そして建造されながら、また教えられたように信仰において堅固にされながら、感謝にあふれて、……19 この方から、からだ全体は、節と筋によって豊かに供給され、結合され、神の増し加わりによって成長するのです。
「コロサイ第2章6節から7節が啓示しているのは、良き地としてのキリストが豊富な土壌であり、わたしたちがその中に根ざしており、わたしたちがその土壌から吸収する要素をもって成長するということです(参照、Ⅰコリント3:6, 9.コロサイ2:19)。わたしたちは命としてのキリストの中で成長し(エペソ4:15-16)、命の中で造り変えられて神の建造のための尊い材料となります(Ⅰコリント3:12)」。
主よ、わたしたちがキリストの中に根ざし、キリストから吸収して、成長することができますように。主よ、わたしたちが命の中で造り変えられて、神の建造のための尊い材料となることができますように。
わたしたちの中で神が増し加わることによって成長し建造されます
命において成長することは、神の増し加わりによって成長することです。それは神の増加によって成長することです。真の成長は神の増加、神が加えられることです。神はご自身において、増し加わる必要はありません。彼は永遠で、完全で、全体的です。しかしながら、神はわたしたちの中で増し加わる必要があります。(コロサイ人への手紙ライフスタディ(2)、第44編)
コロサイ第2章7節は、根ざすことと、共に建造されることを一緒にしています。これは根ざすことが成長のためであり、成長が真の建造であるからです(エペソ4:15-16.Ⅰコリント3:6,9)。キリストの中に深く根ざす唯一の道は、土壌としての彼と接触し、日ごとに言葉の中の水を吸収することです(エペソ5:26)。こうしてわたしたちは「下に根を張り、上に向かって実を結」びます(イザヤ37:31)。
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第13日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第4週1日)
祈りの意義は神を吸収することです
詩27:1,4
エホバはわたしの光、わたしの救いです.……エホバはわたしの命の力です.……4 わたしは一つの事をエホバに願いました.わたしはそれだけを求めます.わたしの命の日の限り、エホバの家に住んで、エホバの麗しさを見つめ、彼の宮で尋ね求めることを。
「祈りの意義は、神を吸収することです。わたしたちは神と接触すればするほど、ますます神を吸収し、神を吸収すればするほど、神をわたしたちの光、わたしたちの救いとしてますます享受します」。
主よ、わたしたちが必要とするものは神ご自身です。わたしたちが自分の本当の状態で主に来て、主に接触し、主を吸収することができますように。
祈りの中で神を吸収して、神と救いを享受します
祈ることは神と接触することであり、その接触の中で神を吸収することです。ですから、祈りの重要性は、わたしたちがどれほど神に告げるかではなく、どれほど神に向かって叫び求めるかでもなく、どれほど神と接触するかにかかっています。わたしたちは神と接触すればするほど、ますます神を吸収し、神を吸収すればするほど、ますます神と救いを享受します。・・・・・
ダビデは自分の経験から啓示を受けて、神が自分の光であり、また自分の救いであることを見ました[詩27:1]。……ダビデは、神を見つめることによって神と接触し、神を吸収しました。ダビデは神と接触したとき、内側で照らされました。そして彼は神を吸収したとき、内側で救いを受けました。ダビデは神を見つめることによって、神を彼の光また救いとして得ました。これは神を経験するための大きなかぎ、また大きな秘訣です。(祈りの意義と目的、第1章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第11日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第3週6日)
神の愛が聖霊を通して、わたしたちの心の中に注がれています
ローマ5:5
そして望みは、わたしたちに恥をかかせることはありません.なぜなら、わたしたちに与えられている聖霊を通して、神の愛がわたしたちの心の中に注がれているからです。
Ⅰヨハネ4:19
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
「わたしたちに与えられている聖霊をもって、神はわたしたちの心の中に神の愛を注いで、わたしたちの内側の動機づける力としました。それによってわたしたちは、わたしたちのすべての患難の中で勝ち得て余りがあるようになります(ローマ5:5.8:39)」。
主よ、神がまずわたしたちを愛してくださったことを感謝します。主は十字架上で血を流して、わたしたちを神に和解させてくださいました。これは何という愛でしょう。
わたしたちのすべての患難の中で勝ち得て余りがあります
わたしたちが初めて主イエスを呼び求めた日から、神の愛が聖霊を通してわたしたちの心の中に注がれてきました。これは、その霊が神の愛をもってわたしたちに啓示し、確証し、保証することを意味します。内住する聖霊はこう言っておられるかのようです、「疑ってはならない。神はあなたを愛しておられる。あなたはなぜ苦しまなければならないか、今は理解できないが、ある日あなたは、『父よ、わたしが通り抜けた困難や試練のゆえにあなたに感謝します』と言う」。あなたは永遠の門に入る時、こう言うでしょう、「わたしの旅路で臨んだ苦難や試練のゆえに、主を賛美します。神はそれらを用いて、わたしを造り変えてくださいました」。……
わたしたちはただこう祈るべきです、「主よ、あなたの道を進めてください。わたしはあなたが願われることだけを願います。わたしはすべてを完全にあなたの御手にゆだねます」。これが、神がわたしたちを愛し、彼の愛が聖霊を通してわたしたちの心の中に注がれていることを新たに知る時の、神に対するわたしたちの応答です。(ローマ人への手紙ライフスタディ(1)、第9編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第10日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第3週5日)
愛は、豊富な三一の神を経験し、享受し、生かし出すためです
Ⅰコリント2:9
このように書かれているとおりです、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を愛する者たちのために備えてくださった」。
「愛は、計り知れない豊富な三一の神を経験し、享受し、生かし出すためです(マルコ12:30.Ⅱコリント13:14)。愛は信仰から来て、わたしたちがキリストの中へと信じた者たちと共に、キリストにある三一の神のすべての豊富を生かし出すことができるようにします。それは、三一の神が栄光に満ちた団体的な表現を持つことができるためです(エペソ3:19-21)」。
主よ、あなたを愛します。主よ、初めの愛、最上の愛をもって、さらに主を愛させてください。また、兄弟姉妹が互いに愛し合うことができますように。
神がわたしたちのために定め、備えられた深く隠された事柄を認識するために神を愛します
神がわたしたちのために定め、備えられた深く隠された事柄を認識し、それにあずかるために、わたしたちは神を信じるだけでなく、彼を愛することが必要です。神を畏れ、神を礼拝し、神を信じる(すなわち神を受け入れる)ことだけでは不十分です。神を愛することが、不可欠の条件です。神を愛するとは、わたしたちの全存在を(霊、魂、体を、心、魂、思い、力と共に――マルコ12:30)完全に彼の上に置くことです。
これは、わたしたちの全存在を彼に占有していただき、わたしたちが神の中で失われることです。その結果、神がわたしたちのすべてとなられ、わたしたちは日常生活の中で、実際的に彼と一になります。このようにして、わたしたちは神と最も近く、最も親密な交わりを持ちます。そして、わたしたちは神の心の中に入って、心の秘密をすべて理解することができます(詩73:25.25:14)。(Ⅰコリント2:9、フットノート3)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第9日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第3週4日)
信仰は、三一の神の無限の豊富を評価し、実体化します
ヨハネ3:15
それは、彼の中へと信じる者がすべて、永遠の命を持つためである。
テトス3:15
わたしと共にいる者たち一同が、あなたによろしく。わたしたちを信仰の中で愛している人たちによろしく。恵みがあなたがた一同と共にありますように。
「信仰は、三一の神の無限の豊富を評価し、実体化し、受け入れるためです(ヨハネ1:12.エペソ3:16-17前半)。信仰は、神によってわたしたちに与えられます。それは信仰によってわたしたちが、三一の神の具体化であるキリストを受け入れ、それによって三一の神の中へと入り、彼と結合されて一となり、彼をわたしたちの命、命の供給、すべてとするためです(Ⅱペテロ1:1)」。
主よ、わたしたちは主イエスの中へと信じて、、永遠の命を持っていることを感謝します。主の中へと信じることによって、主であるすべて、主が経過し、成し遂げ、到達し、獲得したすべてにおいて、主とさらに一体化されますように。
主の中へと信じることによって、主であるすべて、主が成し遂げたすべてにおいて、主と一体化されます。
主を信じるとは、主を受け入れることを意味します(ヨハネ1:12)。主は受け入れることができます。主は今や命を与える霊であり、主の完全な贖いを伴い、わたしたちが主を受け入れるのを待ち、期待しておられます。わたしたちの霊は受け入れる器官です。わたしたちは主を信じることによって、主の霊をわたしたちの霊の中へと受け入れることができます。ひとたびわたしたちが主を信じると、主はその霊として、わたしたちの霊の中へと入られます。その時、わたしたちは命を与える霊である主によって再生され、主と一つ霊になります(Ⅰコリント6:17)。……
わたしたちは主を信じる時、主の中へと信じます。わたしたちは主を信じることによって、主の中へと入って彼と一となり、…… 主であるすべて、主が経過し、成し遂げ、到達し、獲得したすべてにおいて、主と一体化されます。(ヨハネによる福音書ライフスタディ(1)、第9編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第8日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第3週3日)
神に進み出る者は、「神はある」ことを信じます
ヘブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません.というのは、神に進み出る者は、「神はある」ことを信じ、彼を熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方であることを、信じるはずだからです。
「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい」(ヘブル12:2前半)。信仰と愛は、キリストにある信者たちの、二つの切り離せない卓越した美徳です(Ⅰテモテ1:14.Ⅱテモテ1:13.テトス3:15.ガラテヤ5:6)。信仰によって、わたしたちは主を受け入れ、それゆえ神を喜ばせます。愛によって、わたしたちは主を享受し、それによって主の言葉を守ります(ヘブル11:6.ヨハネ14:23)」。
主よ、わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、見つめさせてください。 主よ、あらゆることで、「わたしではなく、キリストです」と言って、主に信頼することができますように。
「神はある」ことを信じることは、神を幸いにし、神を喜ばせる唯一の道です
ヘブル人への手紙第11章6節は、信仰がなくては、神に喜ばれることはできないと言います。これはとても強力な言葉です。神に喜ばれることは、神を幸いにすることです。…… 信仰だけが、神を幸いにすることができます。そして信仰は、「神はある」ことを信じることです。わたしではなく、キリストです。「神はある」ことを信じることは、神を幸いにし、神を喜ばせるただ一つの道、唯一の道です。……あなたは髪をとかしているとき、「もはやわたしではなく、キリストです」と言うべきです。
兄弟たちが来てわたしを訪問するとき、しばしばわたしは祈ります、「主よ、兄弟たちがわたしに会いに来ようとしています。わたしは彼らの必要に応じることができる者ではありません。主よ、あなたがその方です」。…… わたしはあらゆることで自分自身を否み、あらゆることで彼に信頼すべきです。あなた自身を否み、彼に信頼することが信仰です。これが、「神はある」ことを信じることです。(リー全集1994年-1997年、第1巻(下)、「ローマ人への手紙における結晶の学び」、第7編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第7日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第3週2日)
愛を通して働く信仰だけが、効力があります
ガラテヤ5:5-6
ですからわたしたちは、その霊により、信仰に基づいて、義の望みを熱心に待ち望んでいるのです。なぜなら、……愛を通して働く信仰だけが、効力があるからです。
エペソ6:23
父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちに平安と、信仰を伴う愛がありますように。
「愛を通して働く信仰だけが、効力が」あります(ガラテヤ5:6)。生ける信仰は活動的です。それは愛を通して働きます。信仰は命の霊を受けます。ですからそれは、力に満ちています(ガラテヤ3:2)。信仰は愛を通して働き、神の定められた御旨を成就します。信仰を伴う愛は、わたしたちがキリストにあずかりキリストを経験する手段です(Ⅰテモテ1:14)」。
主よ、愛を通して働く信仰を増し加えてください。主よ、わたしたちが信仰を伴う愛を通して、キリストにあずかりキリストを経験することができますように。
召会は、信仰を伴う愛の中で、キリストを享受します
信仰を伴う愛は、わたしたちがキリストにあずかりキリストを経験する手段です(Ⅰテモテ1:14)。信仰はキリストを受けるためであり(ヨハネ1:12)、愛は彼を享受するためです(ヨハネ14:23)。[エペソ人への手紙第6章23節]では、信仰と愛ではなく、愛と信仰でもなく、信仰「を伴う」愛です。これは、わたしたちの愛にふさわしく、それを支える信仰が必要であることを示します。信仰を伴う愛が必要です。これが、召会についての[エペソ人への手紙]の結びです。
召会は、信仰を伴う愛の中で、キリストを享受する必要があります。この信仰は、愛を通して働きます(ガラテヤ5:6)。愛は神からわたしたちに来て、信仰はわたしたちから神に行きます。この愛と信仰の往来によって、平安はわたしたちの分け前として保たれます。……この往来はまた、わたしたちを絶えざる恵みの供給の中に、主の享受の中に守ります(エペソ6:24)。(エペソ6:23、フットノート2)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第6日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第3週1日)
わたしたちは主イエスを見たこともないのに愛しています
Ⅰペテロ1:8-9
あなたがたは、その方を見たこともないのに愛しており、その方を今、見ていないのになお信じており、言葉では言い尽くせない、栄光に満ちた喜びをもって歓喜しています.それは、あなたがたの信仰の結果である魂の救いを受けているからです。
「わたしたちは主にあるわたしたちの信仰と、主(わたしたちが見たことのない方)に対するわたしたちの愛とを、発展させ完成させる必要があります(Ⅰペテロ1:8.ヘブル12:2前半.Ⅰヨハネ2:5.4:12, 17-18)。わたしたちが見たこともない方を愛しているのは、信じているゆえです。すなわち、生ける言葉を聞くことを通してわたしたちの中へと注入された、信仰のゆえです(ガラテヤ3:2)」。
主よ、生ける言葉を聞くことを通してわたしたちの中へと注入された信仰を感謝します。主よ、さらに生ける言葉を聞くことを通して、主に対するわたしたちの愛を発展させてください。
わたしたちは栄光に浸された喜びをもって歓喜しています
主は今日わたしたちと共におられますが(マタイ28:20)、それは隠され、覆われた方法においてです。彼の再来は彼の出現であり、その時、彼はすべての人に公に見られます。
わたしたちは主イエスを決して見たこともないのに、彼を愛しています。わたしたちは彼を今、見ることができないのに、なお彼を信じています[Ⅰペテロ1:8]。信者たちが見たことのない方を愛するということは、驚異であり奥義です。
わたしたちが見たこともない方を愛しているのは、信じているゆえです。すなわち、生ける言葉を聞くことを通してわたしたちの中へと注入された、信仰のゆえです(ガラテヤ3:2)。「栄光に満ちた」喜びは[Ⅰペテロ1:8]、栄光に浸された喜びです。わたしたちは栄光に浸された喜びをもって歓喜しています。この喜びは、栄光としての主に浸されています。ですから、それは主の表現で満ちています。この喜びはまた、言葉では言い尽くせません。それはわたしたちの言い表す能力を超えた喜びです。(新約の結論、(22)、メッセージ382)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第4日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第2週6日)
神は霊であるから、霊と真実の中で礼拝します
ヨハネ4:24
神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない。
「神は、わたしたちが霊の中で神を礼拝するとき幸いです。神の永遠のエコノミーは、わたしたちのミングリングされた霊に焦点づけられ、わたしたちのミングリングされた霊によって遂行されます。ミングリングされた霊とは、神聖な霊とわたしたちの人の霊が共にミングリングされて、一つ霊となった霊です(ヨハネ4:23-24.ローマ8:16.Ⅰコリント6:17.ローマ1:9)」。
主よ、神聖な霊とわたしたちの人の霊が共にミングリングされて、一つ霊となったことを感謝します。主よ、わたしたちが霊と真実の中で、神を礼拝することができますように。
わたしたちの霊は、わたしたちが神を礼拝する新しい器官となりました
ヨハネによる福音書第4章23節と24節において、神は霊の中で礼拝されるべきであることをわたしたちは告げられています。「中で」という言葉は手段としての前置詞と考えてもよいので、「もって」とも訳すことができます。わたしたちは、わたしたちの霊をもって礼拝します。このことは、わたしたちの霊が一つの器官としての役割を果たすことを示します。
わたしたちは目をもって見て、耳をもって聞き、わたしたちの霊をもって礼拝します。わたしたちが霊の「中で」礼拝すると言うとき、霊の領域において礼拝するということを意味しています。わたしたちの霊を「もって」礼拝すると言うとき、霊がわたしたちの存在の一部であり、その部分によってわたしたちは礼拝するという意味です。そうして、霊は新しいパースン、内なる人となっただけでなく、またわたしたちが神を礼拝する新しい器官となったのです。(リー全集、1978年、第2巻(下)、「ライフメッセージ、第1巻」、第38、33編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第3日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第2週5日)
わたしたちが日ごとに内なる人の中へと増強されますように
ヨハネ15:4
わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。……
エペソ3:17
またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.
「神は、わたしたちが日ごとに内なる人の中へと増強され、キリストが信仰を通してわたしたちの心の中にご自身のホームを造るとき幸いです。わたしたちの内なる人はわたしたちの再生された霊であり、それは神の命をその命として持っています(エペソ3:16-17.ヨハネ3:6後半.ローマ8:10)」。
主よ、わたしたちが日ごとに内なる人の中へと増強されますように。そして、主よ、わたしたちの心の中にご自身のホームを造ってくださいますように。
キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造ることができますように
主の回復は、教理や外側の実行のためではありません。それは内なる人の中へと増強されるという経験のためであり、それはキリストがわたしたちの全存在を占有し、ついにはわたしたちが神で満たされて、神の完全な表現へと至るためです。……このように祈りなさい、「父よ、キリストが住んでおられるわたしの再生された霊のゆえにあなたに感謝します。あなたの栄光の豊富にしたがい、あなたの力に満ちた霊を通して、わたしを内なる人の中へと増強してください。わたしの霊から広がり、またわたしの心の中に定住してください。わたしの内側の全存在にあなたのホームを造ってくださり、わたしがあなたで満たされて、あなたの完全な表現へと至りますように」。
どうか御父がわたしたちすべてを内なる人の中へと増強してくださいますように。またキリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造ることができますように。そしてわたしたちが共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至りますように。これが神の大いなる喜びです。(リー全集、1978年、第2巻(下)、「ライフメッセージ、第1巻」、第37、36編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第2日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第2週4日)
神の大いなる喜びのために、神はわたしたちの内で活動しています
ピリピ2:13
なぜなら、神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたがたの内で活動する神だからです。
ヨハネ5:30
……わたしは自分の意志を求めないで、わたしを遣わされた方のみこころを求める……。
「神はわたしたちの内で活動して、「神の大いなる喜びのために、願わせ働かせる」ことに幸いです(ピリピ2:13)。からだの生活の供給があるクリスチャン生活は(1:19)、幸いな生活です。わたしたちの内側の喜びは、わたしたちが神の大いなる喜びにしたがって生き、歩いていることのしるしです。獄にいるパウロによって書かれたピリピ人への手紙は(1:13.4:22)、キリストを経験し享受することと関係があり、それは喜びと歓喜で満ちた書です(1:4, 18, 25.2:2, 17-18, 28-29.3:1.4:1, 4)」。
主よ、神の大いなる喜びのために、神はわたしたちの内で活動しておられることを感謝します。主よ、わたしたちが自分の意志と栄光をわきに置いて、キリストを生きることができますように。
神の大いなる喜びにしたがっているクリスチャン生活は幸いです
わたしたちの生活、クリスチャン生活と召会生活は、神の大いなる喜びにしたがっています。クリスチャン生活は幸いな生活です。新約聖書は何度もわたしたちに、幸いであるようにと勧めています。「主の中でいつも喜びなさい.わたしは繰り返して言います.喜びなさい」(ピリピ4:4)。わたしたちは日ごとに、自分自身の中ではなく、主の中で喜んでいるべきです。……
[わたしたちが幸いであるのは]わたしたちの内で活動する神を持っており、彼が神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるからです[ピリピ2:13]。……わたしたちは幸いであるとき、神の幸いをわたしたちの内側に感じます。わたしたちの内側の喜びは、わたしたちが神の大いなる喜びにしたがって生き、歩いていることのしるしです。
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
12月の祈り 第1日
(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(1) 第2週3日)
これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ
マタイ3:16-17
イエスはバプテスマされると、直ちに水から上がられた.すると見よ、天が彼に開かれた.……すると見よ、天からの声が言った、「これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ」。
ガラテヤ1:15-16
……わたしを選び分け[てくださった]……神が、喜んで御子をわたしの中に啓示し[てくださいました]。
「神の大いなる喜び、神の心の願いは、神を幸いにするものです。神は肉体と成ることに幸いです(ルカ2:9-14)。イエスは不思議な助言者、大能の神、永遠の父、平和の君であり、唯一の主権者であって、三一の神の主権は彼の肩にあります(イザヤ9:6-7)。彼はわたしたちの救い主またインマヌエル、神・人であり、人と結合され、ミングリングされ、合併されている方です(マタイ1:21, 23.ヨハネ14:9-11, 16-20)」。
主よ、御子をわたしたちの中に啓示してくださったことを感謝します。主よ、インマヌエルとしてのキリストとミングリングされて、共に生きることができますように。
神の大いなる喜びはわたしたち「人」を含んでいます
神の大いなる喜びはわたしたちを含んでいます[参照、ガラテヤ1:15-16]。わたしたちが救われた日に、天では喜びがありました。なぜなら、神の御子がわたしたちの中に啓示されたからです。この神の喜びは、神を喜ばせた他のすべての事柄と関係があります。もし地がなかったなら、どうしてイエスはナザレで生活することができたでしょうか? 人の創造なしに、どうしてインマヌエル、神がわたしたちと共におられるということがあり得るでしょうか? 地と人がないなら、神の御子の肉体と成ること、十字架、復活もあり得ませんでした。彼が神の御子だけにとどまるのでなく、人の子となられたのは、彼が人とミングリングすることによってでした。
神がわたしたちの中へと入られたとき、地の意義、人の意義、肉体と成ることの意義、十字架の意義、復活の意義はすべて、わたしたちの分け前となりました。今日、キリストはどこにおられるのでしょうか? 彼は宇宙的です。彼は神と人の両方です。彼は天におられ、また地におられます。わたしたちは彼と一です。(リー全集、1978年、第2巻(下)、「ライフメッセージ、第1巻」、第33編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)