朝ごとの食物

歴代史,エズラ,ネヘミヤ,エステル記 結晶の学び第11週1日~

 

5月の祈り 第31日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第2週3日)

 

円熟は  命の豊満を持つに至るということです

 

ヘブル12:10-11

……霊の父は、益のために、わたしたちが彼の聖にあずかるようにと取り扱われるのです。どの取り扱いも、その時は喜ばしいこととは思われず、むしろ苦しいことと思われます.しかし、後になると、それによって訓練された者たちに、平安の義の実を結ばせます。

 

「円熟は、神聖な命がわたしたちの中へと何度も分け与えられて、ついにはわたしたちが命の豊満を持つに至るという事柄です(ヨハネ10:10後半)。命における円熟は、聖霊の取り扱いを受けることの総合計です(ヘブル12:5-11)。神は主権をもって、人、物、出来事を用い、わたしたちを満たしていたあらゆるものを空にし、占有していたあらゆるものを除き去って、わたしたちの度量を増し加え、神で満たされるようにします(ルカ1:53.マタイ5:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは主権を持ってわたしたちの環境を案配しておられます。わたしたちがこの聖霊の管理を受け入れて、わたしたちの度量が増し加わり、神で満たされるようにしてください。

 

 

聖霊の管理(取り扱い)を受けて、神で満たされるようになります

 

 円熟は、度量が拡大されるという事柄です。あなたは神に時間を与えていただき、計り知れない苦難を受けなければなりません。そうすれば、あなたの度量は拡大します。……重要なのは、環境の中で神の案配を受け入れることです。この案配は聖霊の管理(取り扱い)です。一度でも神の案配を逃れることは、わたしたちの度量を拡大する機会を失うことです。……信者は苦難を通過した後、決して前と同じではありません。……このゆえに、信者が苦難を通過している時には必ず注意を払い、また命における円熟は聖霊の管理(取り扱い)を受けることの総合計であることを、認識しなければなりません。(「今の時代における神聖な啓示の先見者――ウオッチマン・ニー」、第19章)

 

 ヤコブのように、わたしたちが変えられた後、神は主権をもって、人、物、出来事を用い、わたしたちを満たしているあらゆるものを空にし、占有していたあらゆるものを除き去って、わたしたちの度量を増し加え、神で満たされるようにします。わたしたちはヤコブの経験から、わたしたちに起こるあらゆる事が、わたしたちの造り変えと円熟のために神の主権の下にあることを見ます。何も偶然ではありません。神の永遠の定められた御旨は、わたしたちの造り変えと円熟を通してのみ完成されることができます。(「創世記ライフスタディ(6)」、第92、93編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第30日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第2週2日)

 

円熟するとは、わたしたちを造り変える神聖な命で満たされることです

 

ヘブル6:1

こういうわけで、キリストの初歩的な言を後にして……円熟にもたらされようではありませんか。

 

マタイ5:48

だから、あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい。

 

「円熟することは、キリストがわたしたちの内に形づくられることです(ガラテヤ4:19)。造り変えの最後の段階は円熟、すなわち命の豊満です。神の永遠の定められた御旨は、わたしたちの造り変えと円熟を通してのみ完成されることができます(創1:26.コロサイ1:28.2:19.4:12)。円熟は、神聖な命がわたしたちの中へと何度も分け与えられて、ついにはわたしたちが命の豊満を持つに至るという事柄です(ヨハネ10:10後半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの思いを新しくして、わたしたちを造り変えてください。主よ、わたしたちを神聖な命で満たし、円熟へと至らせてください。

         

 

人は苦難の後に完全に円熟し、神聖な命で満たされ、神の表現と神の統治権を持ちます

 

 造り変えられるとは、わたしたちの天然の命において変えられることです。円熟するとは、わたしたちを変える神聖な命で満たされることです。……創世記第37章から第45章は、ヤコブが円熟する過程についての記録です。この過程は第37章1節に始まり、第45章28節まで続きました。……おそらく、ヤコブは全生涯の中で、この九つの章で苦しんだほどに、苦しんだことは決してなかったでしょう。それらは真にヤコブの苦難の物語です。これらの章には、ヤコブの生涯の最後の段階における対処があります。ここで彼が受けた苦難は、彼個人の感覚に深く触れました。これらの章の後、ヤコブにはさらなる対処はありませんでした。むしろ、彼は完全に円熟し、神聖な命で満たされ、神の表現と神の統治権を持ちました。

 

 神の表現と統治権のために、円熟の必要があります。円熟した命だけが神のかたちを帯びて、神の統治権を行使することができます。第37章においてさえ、ヤコブは神のかたちを帯びることも、神の統治権を行使することもできませんでした。彼は造り変えられましたが、まだ円熟していませんでした。……ですから、神は主権をもってヤコブを御手の下に置き、彼が円熟するようにされたのです。(「創世記ライフスタディ(6)」、第92編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第29日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第2週1日)

 

主の来臨は、わたしたちの成長と円熟を必要とします

 

ヤコブ5:7

こういうわけで、兄弟たちよ、主の来臨まで辛抱強くありなさい。見よ、農夫は前の雨と後の雨を得るまで、地の尊い実を切に待っています。

 

「ヤコブは彼の書簡の中で、農夫が地の尊い実を辛抱強く待ち望むという例証を用いています(ヤコブ5:7)。わたしたちが主の来臨を辛抱強く待ち望んでいるとき、彼は真の農夫として、わたしたちが命において円熟して畑の初穂また収穫物となることを、忍耐して待ち望んでいます(啓14:4, 14-15)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはあなたの来臨を待ち望んでいます。主よ、わたしたちが命において成長し、あなたの再来を早めることができますように。主イエスを食べ続けて、辛抱強さと忍耐を働かせることができますように。

 

 

命において成長するために、辛抱強さと忍耐を働かせる必要があります

 

 主の来臨は、わたしたちの成長と円熟を必要とします。わたしたちが霊的に未熟のままである限り、主の来臨を遅らせます。……神聖な命におけるわたしたちの円熟が早ければ早いほど、主の収穫をますます早めます。わたしたちはみなイエスを食べることによって成長する必要があります。彼を食べて成長すればするほど、彼の再来をますます早めます。ただ「主イエスよ、すぐに来たりませ」と宣言するだけでは十分ではありません。

 作物が熟すまで農夫はそれを収穫することができないように、十分な数の信者が円熟するまで主イエスは再来されないでしょう。このゆえに、わたしたちはイエスを常食とし続ける必要があります。(リー全集、1972年、第1巻(下)、「主の再来のために用意する」、第5編)

 

 わたしたちは、主の来臨がわたしたちの命における成長と関係があることを認識する必要があります。わたしたちが命において成長する条件を満たすなら、主はさらに早く戻って来る条件を満たすでしょう。ですから、わたしたちは命において成長する必要があり、そして成長しつつあるとき、辛抱強さと忍耐を働かせる必要があるのです。これが主の再来を待ち望む正しい道です。(「ヤコブの手紙ライフスタディ」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第27日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第1週6日)

 

わたしたちは主を愛して、主の来臨を待ち望みます

 

Ⅱテモテ4:8

……義の冠がわたしのために用意されているのです.かの日には、義なる審判者である主が、それをわたしに授けてくださいます.わたしだけではなく、主の出現を慕ってきたすべての人にも授けてくださいます。

 

「主を愛し、主の来臨を待ち望み、主の出現を愛する者たちは、勝利を得ます(Ⅰコリント2:9.Ⅱテモテ4:8.啓22:20.17:14)。主の出現を愛することは、今日わたしたちが主を愛しており、主のために生きていることの証拠です。ですから、それはまた、わたしたちが主の褒賞を受けるための条件となります(Ⅱテモテ4:8,18)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。またあなたの出現を愛します。主よ、わたしたちはあなたを命とし、あなたの中で生き、日ごとに正常な生活をする中で、主の来臨を待ち望むことができますように。

 

 

主の出現を愛するなら、正常な生活をする必要があります

 

 わたしたちが真に主を愛するなら、彼の出現、すなわち彼の来臨を愛さなければなりません。ヨハネによる福音書第21章は、主を愛する事柄を啓示しています。そこでは主がペテロに、主を愛するかと三度尋ねました(15-17節)。テモテへの第二の手紙第4章は、主の出現を愛する事柄を啓示しています[8節]。……もしわたしたちが真にだれかを愛するなら、その人がやって来ることを熱心に期待するでしょう。…… わたしたちが主を愛するなら、確かに彼の出現を愛するでしょう。(リー全集、1972年、第1巻(下)、「主の再来のために用意する」、第1編)

 

 テモテへの第二の手紙第4章8節でパウロは、……義の冠が主の出現を愛しているすべての人にも用意されていると言います。わたしたちは主に告げなければなりません、「主イエスよ、あなたを愛します。またあなたの出現を愛します。わたしはあなたを愛するので、あなたの出現を愛するのです」。しかし、主の出現を愛することは、わたしたちが正常な生活をすべきではないということを意味するのではありません。むしろ、彼の出現を愛すれば愛するほど、わたしたちはますます今日、正常な生活をする必要があります。(「啓示録ライフスタディ(2)」、第30編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第26日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第1週5日)

 

思いが新しくされることによって造り変えられます

 

ローマ12:2

またこの時代にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになるためです。

 

「主の出現を愛することは、今の世(今の時代)を愛することと相対します(Ⅱテモテ4:8, 10)。ローマ第12章2節でパウロは、わたしたちがこの時代にかたどられるのではなく、思いが新しくされることによって造り変えられるように勧めています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが今の世を愛さないで、あなたの出現を愛することができますように。わたしたちの思いが新しくされることによって造り変えられますように。主よ、あなたのみこころである召会、キリストのからだの中に生きさせてください。

 

 

この時代にかたどられないで、キリストのからだの中に生きます

 

 ローマ人への手紙第12章2節でパウロは、わたしたちがこの時代にかたどられるのではなく、思いが新しくされることによって造り変えられるように勧めています。…… この時代にかたどられることは、今の時代の現在の流行を取り入れることを意味します。造り変えられるとは有機的な要素がわたしたちの存在へと造り込まれ、その結果、内側の新陳代謝的変化をもたらすことです。…… わたしたちがキリストのからだの中に生きたいのなら、現在の時代にしたがったり、この時代の様にかたどられたりするべきではありません。

 

 わたしたちは思いが新しくされることと、魂の造り変えを必要とします。それは、「何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを」、わたしたちが「わきまえるようになるためです」。この節の神のみこころは、わたしたちの個人的な人の状況、すなわち、結婚や職業や住宅の事柄を指してはいません。ローマ人への手紙第12章によれば、神のみこころとは、からだの生活です。思いが新しくされることによる造り変えを通して、わたしたちは、神のみこころがからだを獲得することであるのをわきまえ、識別することができます。(「真理課程―第3段階、4巻、第61課)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第25日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第1週4日)

 

全世界は邪悪な者の中に横たわっています

 

Ⅰヨハネ2:15

世と世にあるものを愛してはいけません。だれでも世を愛するなら、御父への愛は彼の中にありません。

 

Ⅰヨハネ5:19

わたしたちは神から出た者であり、そして全世界は邪悪な者の中に横たわっていることを、わたしたちは知っています。

 

「全世界」、すなわちサタンの体系は、「邪悪な者の中に横たわって」います(Ⅰヨハネ5:19後半)。「全世界」は、サタンのこの世の体系と世の人々(堕落した人類)から成っています。「横たわって」とは、邪悪な者が強奪し操る領域の中で、受け身的にとどまっていることを意味します。全世界と世の人々は、邪悪な者であるサタンが強奪し操る手の下で、受け身的に横たわっています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、全世界は邪悪な者の中に横たわり強奪されています。主よ、わたしたちは三一の神へと、神の御言へと逃れて、保護されることを願います。

     

 

わたしたちは三一の神と彼の御言に逃れる必要があります

 

 新約にある「コスモス」(世)という言葉のさまざまな意味を理解することは重要です。…… この言葉が用いられるのは、物質の宇宙、サタンによって腐敗させられ強奪された堕落した人類、サタンによって打ち立てられた、神に敵対する世の体系を示すためであり、神に敵対する世の体系は、神の定められた御旨を成就するために、神によって創造された人を強奪するためです。「コスモス」の最後に述べられた意味が、ヨハネの第一の手紙第2章15節に当てはまります。この節で世は、サタンによって形成された神に敵対する世の体系を指しています。あらゆる物、あらゆる人、あらゆる事柄は、邪悪な者、神の敵によって体系化され、彼の世の体系の一部分とされました。

 

 そのような状況の中で、わたしたちはどこへ行くのでしょうか? ……わたしたちは三一の神へ行く必要があります。三一の神だけが、サタンによって体系化されていないのです。三一の神へ行くと共に、わたしたちはまた神の御言へ行く必要があります。…… あらゆる物、あらゆる人、あらゆる事柄がサタンによって体系化されているので、わたしたちは三一の神と彼の御言に逃れる必要があります。神の御言はわたしたちの逃れ場、わたしたちの保護です。(「ヨハネの第一の手紙ライフスタディ」、メッセージ20)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第24日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第1週3日)

 

世と世の情欲は過ぎ去っていきます

 

Ⅰヨハネ2:15,17

世と世にあるものを愛してはいけません。だれでも世を愛するなら、御父への愛は彼の中にありません.…… 世と世の情欲は過ぎ去っていきます.しかし、神のみこころを行なう者は永存するのです。

 

「この世は邪悪な体系であり、サタンが体系化した案配です(Ⅰヨハネ2:15-17.ヤコブ4:4)。神はご自身の定められた御旨を成就するために、人を創造して地に住まわせました。しかし神の敵サタンは、神の創造された人を強奪するために、文化、教育、工業、商業、娯楽、宗教をもって、人を体系化することによって、神に反対するこの世の体系をこの地上に形成しました(エペソ3:11.創1:26-28.2:8-9.4:16-24)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。世と世の情欲は過ぎ去っていきます。主よ、世と世にあるものを愛することから、わたしたちを救ってください。主よ、あなたがわたしたちを愛してくださったその愛を持って、あなたを愛させてください。

 

 

神のみこころを行なう者は永存するのです

 

 神はご自身の定められた御旨を成就するために、人を創造して地に住まわせました。しかし神の敵サタンは、神の創造された人を強奪するために、神に敵対するこの世の体系をこの地上に形成しました。それは宗教、文化、教育、工業、商業、娯楽をもって、人を体系化することによって、また人の情欲、享楽、追求における、さらには人の生活の必要(衣、食、住、交通手段)を放縦することにおける人の堕落した性質を通して人を体系化することによってです。そのようなサタン的な体系全体は、邪悪な者の中に横たわっています(Ⅰヨハネ5:19)。そのような世を愛さないことが、邪悪な者に打ち勝つための立場です。ほんの少しでも世を愛するなら、邪悪な者にわたしたちを打ち破り、占有する立場を与えてしまいます。

 

 Ⅰヨハネ第2章15節でヨハネは、もしわたしたちが世を愛するなら、御父への愛はわたしたちの中にないと言います。ここの御父への愛は、彼の愛によってわたしたちの内側に生じた彼に対するわたしたちの愛です。わたしたちは、彼がわたしたちを愛してくださったその愛をもって彼を愛するのです。(「ヨハネの第一の手紙ライフスタディ」、メッセージ20)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第23日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第1週2日)

 

主イエスよ、来たりませ!

 

啓22:12,20

見よ、わたしはすぐに来る.わたしの報いはわたしと共にあり、それぞれの働きにしたがって与える。これらの事を証しする方が言われる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アーメン。主イエスよ、来たりませ!

 

「主の出現、主の再臨は、わたしたちにとって警告、励まし、動機づけです(Ⅱテモテ4:1, 18)。わたしたちは主の出現を愛し、切なる期待と喜びをもってそれを待ち望むべきです(啓22:20)。そして、わたしたちは主の出現を愛する生活をすべきです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは「すぐに来る」と言われます。わたしたちは「アーメン。主イエスよ、来たりませ!」と言います。主よ、わたしたちは切なる期待と喜びをもって主の来臨を待ち望んでいます。

 

 

わたしたちは主の出現を愛する生活をすべきです

 

 啓示録第22章12節で主イエスは、「見よ、わたしはすぐに来る」と言われました。20節で主は、「しかり、わたしはすぐに来る」とも言われました。わたしたちの慕わしい応答は、「アーメン。主イエスよ、来たりませ!」であるべきです(22:20.Ⅱテモテ4:8)。……わたしたちは常に彼の来臨を求めるべきです。これは彼の再来に対するわたしたちの応答となります。わたしたちは主の二回目の来臨がとても尊いことを知っているので、主の出現を愛すべきです。わたしたちは主に告げなければなりません、「主イエスよ、わたしはあなたを愛し、あなたの出現を愛します。わたしはあなたを愛するので、あなたの出現を愛します」。……

 

 テモテへの第二の手紙第4章1節で、パウロはテモテに言います、「わたしは神の御前と、生きている者と死んだ者を裁かれるキリスト・イエスの御前で、彼の出現と彼の王国によって、厳かにあなたに命じます」。これはパウロが殉教する直前の勧めです。……主の裁きと王国によって、わたしたちが主の出現を愛する生活をすべきであることを、パウロはテモテに思い起こさせました[参照、6-8節]。(「新約の結論(25)」、メッセージ435)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第22日

(朝ごとの食物 国際華語特別集会  第1週1日)

 

主の出現を愛することは、主ご自身を愛することです

 

Ⅱテモテ4:1,8

わたしは神の御前と、生きている者と死んだ者を裁かれるキリスト・イエスの御前で、彼の出現と彼の王国によって、厳かにあなたに命じます。…… 今からは、義の冠がわたしのために用意されているのです.かの日には、義なる審判者である主が、それをわたしに授けてくださいます.

 

「主の再来がわたしたちにとって尊いなら、わたしたちは彼の出現を愛するでしょう(慕うでしょう)(Ⅱテモテ4:8)。主の出現を愛することと、主ご自身を愛することは、分離することができません(Ⅰコリント2:9.Ⅱテモテ4:8)。4:8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。また、あなたの出現を愛します。主イエスよ、あなたは義なる審判者として来られます。主よ、わたしたちが主の出現と王国の事柄を真剣に受けとめることができますように。主よ、わたしたちが日常生活の中で、主の来臨を真に期待と喜びをもって待ち望むことができますように。

 

 

主の出現を愛するなら、また主の王国にあずかります

 

 わたしたちは主の出現を愛する(慕う)ことによって、天の王国へと入るという褒賞を受けることができます。主の出現を愛することは、主ご自身を愛することから分離されることはできません。わたしたちは本当に主を愛するなら、主の出現を愛するでしょう。わたしたちは主の出現を愛するなら、パトモス島にいたヨハネのようになるでしょう。彼は主のためであり、言いました、「主イエスよ、来たりませ!」(啓22:20)。わたしたちはヨハネのように主の出現を愛するなら、また主の王国にあずかります。(「聖書の重要な真理」、第5巻、第48章)

 

 テモテへの第二の手紙第4章1節におけるパウロの命令によれば、テモテは主の出現と彼の王国の光の中で生きるべきでした。王国が将来、拒絶することは何であれ、今日わたしたちの生活の中でも拒絶されなければなりません。主の出現の中に生きているなら、わたしたちは必ず争いを差し控えるでしょう。…… 使徒たちは主の出現を考慮して生きていました。主の出現は、彼らにとって絶えず警告となり、彼らの生活を規制しました。……わたしたちが主の出現と王国の事柄を真剣に受けとめるなら、それはわたしたちの日常生活に大いに影響を与えるでしょう。キリストの出現は、わたしたちの日常生活の中の基本的な要因でなければなりません。(「新約の結論(21)」、メッセージ365)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第20日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第12週6日)

 

結び付ける信仰は、勝利者に対する神聖な要求です

 

ルカ18:8

……人の子が来る時、地上に信仰を見いだすであろうか?

 

啓示録6:9-10

……彼らは大声で叫んで言った、「聖なる真実なるご主人さま、いつまであなたは地上に住む者たちを裁かず、わたしたちの血の報復をなさらないのですか?」。

 

「わたしたちがそれを通して救われた信仰は、初期の段階の信仰です。わたしたちをキリストとの命の結合の中へともたらした信仰は、結び付ける信仰、すなわち、わたしたちが三一の神と絶えず接触することを通してわたしたちの中へと入って来る信仰です。それは、わたしたちが神の御子によって生きるためです(ローマ1:17.ガラテヤ2:20.ヨハネ14:19)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが戻って来られるとき、わたしたちが自分自身にではなく、あなたに信頼する者として見いだされることを願います。主よ、あなたが再来されるときに、わたしたちが主の結び付ける信仰の人として見いだされますように。

 

 

結び付ける信仰は、生ける神であって、彼の計り知れない豊富に結び付けます

 

 結び付ける信仰は、勝利者に対する神聖な要求です。それは、キリストが勝利のうちに再来される時、勝利者がキリストにまみえるためです。これはルカによる福音書第18章8節に基づいています。…… 主が戻って来られるとき、あなたとわたしが信じる者であって、いつも自分自身にではなく彼に信頼し、いつも自分には何の確信もない者として、主が見いだすことができるようにと、わたしは望みます。わたしたちの全き確信は彼にあります。これが結び付ける信仰です。この信仰は勝利者たちに資格を与えます。……

 

 最終的に、主は何人かの少数の勝利者を見いだされるでしょう。彼らは、主が再来されるとき、結び付ける信仰によって生きています。……結び付ける信仰……はわたしたちの中で行動する生ける神であって、わたしたちを彼の計り知れない豊富すべてに結び付けます。……この勝利の信仰は、主の勝利者たちを資格づけます。彼らは主の再来を待ち望み、熱心に期待しており、主は彼の再来の時に、彼の結び付ける信仰の人として(ルカ18:8)、彼の統治の千年間における彼の王国の宝として、彼らを見いだされるでしょう。(リー全集、1994年-1997年、第1巻(下)、「ローマ人への手紙における結晶の学び(ローマ人への手紙における結晶)」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第19日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第12週5日)

 

わたしたちは祈りの中で、神を煩わすほど根気よく祈るべきです

 

ルカ18:7-8

まして神は、日夜ご自身に叫び求める選ばれた者の復讐を決してしないで、彼らをいつまでもほうったままにしておくことがあろうか? わたしはあなたがたに言う.彼は速やかに彼らの復讐をなしてくださる。しかし、人の子が来る時、地上に信仰を見いだすであろうか?

 

「わたしたちを訴える者がわたしたちを迫害している間、わたしたちの神は義でないかのようです。なぜなら、神は、彼の子供たちが不義な迫害を受けるのを許しているからです(Ⅰペテロ2:20.3:14, 17.4:13-16, 19)。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、あなたはあなたの子供たちが不義な迫害を受けるのを許しておられます。主よ、この時代に、あなたに根気よく祈ることを学ばせてください。主よ、あなたはまた裁く神であることを知ることができますように。

 

 

時代の終わりにおいて、主は裁く神です

 

 多くの時わたしは、主が彼の回復を擁護してくださるように祈ることに疲れてしまいました。主が擁護してくださるように祈れば祈るほど、擁護はますます少ないかのようです。……それにもかかわらず、わたしは、わたしたちが祈りの中で神を煩わす必要があること、失望しないで、しつこく(根気よく)彼に祈るべきであることを学びました。……わたしたちの夫が表面上、不在で、わたしたちが地上にやもめとして残されているとき、一時的に、わたしたちの神は不義な裁判官であるかのようです。神は不義であるかのようですが、わたしたちは依然として彼に訴え、しつこく(根気よく)祈り、彼を何度も煩わさなければなりません。。(「ルカによる福音書ライフスタディ」、メッセージ40)

 

 聖書はまた、神が裁く神であると言っています。……彼は人の最初の堕落以来、裁く神です。……彼の性質と相いれないどのようなものも存続せず、揺り動かされ、火によって滅ぼされます。神のものだけが彼の性質と一致し、揺り動かされずに残ります。…… 時代の終わりにおいて彼は裁く神であって、裁きの座に座しておられます(啓4:2.6:16)。「わたしたちはそれぞれ、神に自分自身の言い開きをすることになるのです」(ローマ14:12)。(「生ける神と復活の神」、第5章) 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第18日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第12週4日)

 

ルカ18章の不義な裁判官のように見える隠れた神を認識する必要があります

 

ルカ18:1-3

またイエスは、彼らが絶えず祈るべきであり、また失望しないように、たとえを話して言われた、「ある町に、神を恐れず、人を尊重しない裁判官がいた。その町にあるやもめがいて、いつも彼の所に来ては、『わたしを訴える者に復讐してください』と言っていた」。

 

「ルカ第18章1節から8節のたとえの意義は深遠です。わたしたちは、隠れた神として啓示されている神を認識する必要があります。3節のやもめは、信者たちを表徴しています。ある意味で、キリストにある信者たちは、今の時代ではやもめです。なぜなら、信者たちの夫であるキリストが表面上、彼らと共におられないからです(Ⅱコリント11:2)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは御自身を隠す神です。主よ、わたしたちには訴える者から受ける苦難があります。この時代、主よ、あなたがおられないかのように見えるこの時、わたしたちが失望しないで絶えず祈り続けることができますように。

 

 

主が表面上、不在の期間に、わたしたちはやもめとして根気よく祈るべきです

 

 ルカによる福音書第18章3節のやもめは、信者たちを表徴しています。ある意味で、キリストにある信者たちは、今の時代ではやもめです。なぜなら、彼らの夫であるキリストが(Ⅱコリント11:2)、彼らと共におられないからです。やもめは、彼女を訴える者に復讐するよう裁判官に求めました。「復讐してください」と訳されたギリシャ語は、「正義をもたらしてください」とも訳されます。

 

 主はこのたとえで、キリストにある信者たちには訴える者がいることを示しておられます。この訴える者は悪魔サタンであり、この訴える者に関して、わたしたちは神に復讐していただく必要があります。わたしたちはこの復讐を求めてしつこく(根気よく)祈るべきであり(参照、啓6:9-10)、失望してはなりません。…… ルカによる福音書第18章1節から8節のたとえは、主が表面上、不在の期間に、わたしたちを訴える者からわたしたちが受ける苦難を示しています。実は、主は不在ではありません。彼はおられます。しかし主が表面上、不在の期間、わたしたちはやもめであり、わたしたちを訴える者は常にわたしたちを悩ませます。(「ルカによる福音書ライフスタディ」、メッセージ40)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第17日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第12週3日)

 

エステル記は、イスラエルの隠れている神の記録です

 

エステル4:14

もし、あなたがこの時に黙っているなら、ユダヤ人のための助けと救いが別の所から起こり、……あなたがこの王国に来たのは、このような時のためでなかったと、だれが知るであろう?

 

「エステル記は、イスラエルの隠れている神が、どのように離散の中でしいたげられている神の選民をひそかに顧み、捕囚の中で迫害されている神の選民を公に救ったかの生き生きとした記録を与えます(エステル1:1-22.2:1-23)。こういうわけでエステル記は、神の御名が述べられるべきである所でさえ、神の御名を述べていないのです(エステル4:3,16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは、ひそかな方法でイスラエルのために多くの事を行なわれました。主よ、召会時代の今日も、あなたはご自身を隠しておられます。主よ、わたしたちが、神は生きていて真実であることを認識し、経験することができますように。

 

 

イスラエルの隠れている神は、捕囚の中にいる神の選民をひそかに顧みました

 

 イスラエルの民は彼らの捕囚の中で散らされ、離散していました。彼らはおそらく、彼らが生活していた間にいた異邦人に、自分たちの神はエホバであると告げたでしょう。異邦人、特に支配者たちは、イスラエル人にこう言ったかもしれません、「あなたがたのエホバはどこにいるのか? あなたがたのエホバは真実で生きているのか? もしそうなら、なぜあなたがたはここで奴隷として捕囚の中にいるのか?」。捕囚の時代の間、神は隠れておられました。そして彼はなおも隠れておられます。

 

 召会時代の今日でさえ、神はご自身を隠しておられます。イスラエルの子たちにも、今日のわたしたちにも、この宇宙に神はおられないかのようです。わたしたちは、神は生きていて真実であることを認識する必要がありますが、彼は隠れておられます。彼はご自身を隠される神です(イザヤ45:15)。(「エステル記ライフスタディ」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第16日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第12週2日)

 

隠れておられるあなたの父に祈りなさい

 

マタイ6:1,6

あなたがたは、人に注目されようとして、自分の義を人の前で行なうことがないように注意しなさい.…… あなたは祈るとき、自分の密室に入り、戸を閉めて、隠れておられるあなたの父に祈りなさい.そうすれば、隠れて見ておられるあなたの父は、あなたに報いてくださる。

 

「わたしたちが認識する必要があるのは、わたしたちが仕えている全能の神が、今もなおご自身を隠しているということです。特に、彼がわたしたちを助けている時はそうです(ヨハネ14:26.ローマ8:28)。ご自身を隠す神は、わたしたちの中で静かに、しかし力強く活動しています(ピリピ2:13)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはご自身を隠す神です。わたしたちの中で静かに、力強く活動しておられます。主よ、わたしたちの内側にあるあなたの声に、穏やかで、静かな声に応答することができますように。

 

 

神が絶えずご自身を隠すことは、彼の神聖な特徴の一つです

 

 神の性格は、彼が隠れ続けることを好まれるということです。……神は絶えずすばらしい事柄を行なってきましたが、決してご自身を現すことを好まれません。……神は宇宙を支配しておられますが、彼を見ることができる人はいません。彼はこれまで二千年間、召会と共におられましたが、この常に存在する神を見ることのできた人はいません。……わたしたちは自分の経験から知っていますが、彼はいつでも、どこでもわたしたちと共におられます。彼はわたしたちの内側で働き、わたしたちに語りかけ、わたしたちに啓示を与えられます。

 

 しかしながら、わたしたちは決して彼を見たことがありません。彼は隠されています。彼はご自身を隠されるので、彼がわたしたちの内側で働き活動して、わたしたちにある事柄を感じさせるときでさえ、わたしたちが疑うほどにまでなりました。……彼が絶えずご自身を隠すことは彼が事を行なう気質です。これは彼の神聖な特徴の一つです。(リー全集、1956年、第2巻、「ご自身を隠される神」、第1編、[英文])

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第15日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第12週1日)

 

神は、ご自身を隠す神です

 

イザヤ45:15

まことに、イスラエルの神、救い主よ、あなたはご自身を隠す神です。

 

ヨハネ1:18

いまだかつて、神を見た者はいない.父の懐におられるひとり子、この方だけが、父を明らかに示されたのである。

 

「聖書が神を、ご自身を隠す神として語っていることを知っている神の子供たちは、ほとんどいません(イザヤ45:15)。神はイスラエルの子たちの間で数えきれないほどの事を行ない、また彼らの個人的な生活の中で数えきれないほどの事を行ないましたが、ご自身を隠しました。彼は絶え間なく働いていましたが、いつも隠れていました(イザヤ45:15)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはいつもわたしたちの中におられます。主よ、あなたはナザレ人イエスの中に御自身を隠された神です。主よ、今わたしたちの中に隠れておられるこの命なる主を深く認識し、経験することができますように。

 

 

神はナザレ人イエスの中に隠されていました

 

 わたしたちは宇宙の歴史、人類歴史、旧約の歴史、新約の歴史を注意深く調べるなら、同じ結論に到達するでしょう。すなわち、神はご自身を隠す神です。宇宙は神によって創造されました。天は神の働きであり、地は神の産物です。宇宙には多くの事柄と多くの物語がありますが、六千年間、神を見た者はいません。ヨハネによる福音書第1章18節は、旧約時代に、いまだかつて神を見た人はいなかったと明確に言っています。新約時代に、御父のふところにおられるひとり子は、来て神を明らかに示されました。

 

 この明らかに示すことも隠されていました。ひとり子は神を明らかに示すというまさにその目的のために来られましたが、神は人、さらには見苦しい人の内側に隠されていました。この人の顔立ちと形は損なわれていました。彼には見るべき形もなく、美しい姿もありませんでした(イザヤ53:2)。……彼はガリラヤという取るに足りない州におけるナザレという小さな町で育ちました。…… ですから、ナザレ人イエスが現れた時、彼が預言者と考える人はほとんどおらず、まして神が彼の中におられると考える人はほとんどいませんでした。しかし、神は彼の内側に隠されていたのです。(リー全集、1956年、第3巻、「ご自身を隠される神」、第1編、[英文])

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

2023年5月全国特別集会

5月の祈り 第13日

(2023年5月 全国特別集会メッセージ)

 

主題:

ピリピ人への手紙に啓示されているキリストを認識し、経験する

 

標語:

ピリピ人への手紙に啓示されているキリストを認識し、経験する

――キリストを獲得し、キリストの中に見いだされ、キリストと彼の復活の力を知り、キリストを追い求めて、格別な復活に到達する

 

メッセージ1

キリストを獲得する――信者たちがキリストを追い求めることの目標

 

Ⅰ. ピリピ第3章3節から16節でキリストは、信者たちが追い求める目標として提示されています。

 

Ⅱ.パウロはキリストを知る知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定しました(ピリピ3:8前半)。 

 

Ⅲ.パウロはキリストのゆえに、すべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定しました。それは、彼がキリストを獲得するためでした(ピリピ3:7,8後半)。

 

メッセージ2

キリストの中に見いだされ、 キリストの信仰を通しての神の義を持つ 

 

Ⅰ.パウロの切なる願いは、キリストの中に見いだされることでした(ピリピ3:9)。 

 

 Ⅱ.キリストの中に見いだされる必要条件は、自分自身の義を持つことではなく、キリストの信仰を通しての神の義を持つことです(ピリピ3:9)。 

 

メッセージ3

キリストと彼の復活の力を知る 

 

Ⅰ.パウロは、キリストを知ることを切望していました(ピリピ3:10)。 

 

Ⅱ.パウロは、キリストの復活の力を知ることを切望しました(ピリピ3:10)。 

 

メッセージ4

格別な復活に到達する 

 

Ⅰ.キリストの死に同形化された結果は、わたしたちが死人の中からの格別な復活に到達することです(ピリピ3:11)。

 

Ⅱ.格別な復活に到達することは、格別な復活にたどり着くことです。これは、わたしたちが賞を得るために勝利の中でレースを走ることを要求します(Ⅰコリント9:24-26.Ⅱテモテ4:7-8.ヘブル12:1-2)。 

 

Ⅲ.格別な復活とは、卓越した復活、特別な復活であって、それは勝利を得た聖徒たちへの賞となります(啓20:4, 6)。

 

Ⅳ.格別な復活に到達するとは、わたしたちの全存在が徐々に、絶えず復活させられることを示しています(Ⅰテサロニケ5:23)。 

 

Ⅴ.格別な復活は、旧創造から出て新創造の中へと入って行く復活です(ガラテヤ6:15.Ⅱコリント5:17)。

 

Ⅵ.パウロにとって生きることは、格別な復活としてのキリストでした(ピリピ1:21前半.3:11)。 

 

Ⅶ.ピリピ第3章12節で、パウロは信者の共通の信仰によって、信者の共通の救いをすでに得ていましたが、復活の格別な分を得てはいませんでした。 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第12日

(2023年5月 全国特別集会メッセージ4 続き)

 

メッセージ 4(続き)

格別な復活に到達する 

 

ピリピ3:10,11,13,14

キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて、何とかして、死人の中からの格別な復活に到達するためです。……兄弟たちよ、わたしはまだ自分自身、捕らえたとは思っていません.ただ一つの事、すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばしつつ、…… キリスト・イエスの中でわたしを上に召してくださった神の賞を得るために、目標に向かって追い求めています。

 

格別な復活は、旧創造から出て新創造の中へと入って行く復活です

 

 格別な復活の中にいることは、旧創造のすべてのものから離れて、神の中へともたらされることを意味します。ですから、格別な復活の中には、旧創造の要素はありません。むしろ、すべてのものは神聖な要素に満ちています(啓21:5前半)。パウロにとって生きることは、格別な復活としてのキリストでした(ピリピ1:21前半.3:11)。格別な復活とは、実はキリストの愛すべき、尊い、卓越したパースンです。彼は、十字架と復活を通して、旧創造から出て来て神の中へと入った方です(ヨハネ14:3, 20.ヘブル6:19-20)。わたしたちが生きるべきキリストは、格別な復活であるキリストご自身です(ピリピ1:21前半.3:11.ヨハネ11:25)。 

 

わたしたちはキリストの死に同形化されて、死人の中からの格別な復活に到達します

 

 ピリピ第3章12節で、パウロは信者の共通の信仰によって、信者の共通の救いをすでに得ていましたが、復活の格別な分を得てはいませんでした。その分を得るために、彼は追い求め、走り、彼の行程を勝利のうちに走り終えなければなりませんでした(Ⅱテモテ4:7-8)。 ピリピ第3章12節の「追い求めている」のギリシャ語は、「迫害する」と同じ言葉です。…… そのようにして、パウロはレースを走り、賞を得て円熟に到達しようとしました。 パウロは救われる前、キリストを迫害しましたが、彼は救われた後、積極的な方法でキリストを迫害するほどにまで、キリストを追い求めました。 

 

 わたしたちはキリストの死に同形化されて、何とかして、死人の中からの格別な復活に到達する必要があります。これが、主が彼の回復を前進させる唯一の道であり、主が彼の召会を建造する唯一の道であり、花嫁を用意する唯一の道であり、主の再来をもたらす唯一の道です(ピリピ3:10-11.マタイ16:18.啓19:7-9前半.22:14,20)。 (2023年5月 全国特別集会メッセージ アウトライン)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第11日 

(2023年5月 全国特別集会メッセージ4 )

 

メッセージ4

格別な復活に到達する

 

ピリピ 3:10,11,12

キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて、何とかして、 死人の中からの格別な復活に到達するためです。わたしは、すでに得たとか、すでに完成されているとか言うのではありません。 わたしは、それを捕らえようと追い求めているのですが、それはわたしが、キリスト・イエスによって捕らえられているからです。

 

「キリストの死に同形化された結果は、わたしたちが死人の中からの格別な復活に到達することです (ピリピ 3:11) 。格別な復活に到達することは、格別な復活にたどり着くことです。 これは、わたしたちが賞を得るために勝利の中でレースを走ることを要求します(Ⅰコリント 9:24-26.Ⅱテモテ 4:7-8.ヘブル12:1-2)」。

 

格別な復活は、勝利を得た聖徒たちへの賞となります

 

 格別な復活とは、卓越した復活、特別な復活であって、 それは勝利を得た聖徒たちへの賞となります (啓 20:4, 6)。 キリストにあって死んだすべての信者は、主の再来の時、 死人の中からの復活にあずかりますが (Ⅰテサロニケ4:16.Ⅰコリント 15:52)、 主の勝利者たちは、その復活の特別な、 傑出した分、すなわち、彼らがその中で王国の褒賞を受ける復活を享受します。 これは、 使徒パウロが追い求めたものです (ヘブル11:35, 26) 。格別な復活は、わたしたちのクリスチャン生活の目標、目的であるべきです (ピリピ3:11-15前半)。

 

わたしたちの全存在が徐々に、絶えず復活させられて、格別な復活に到達します

 

 格別な復活に到達するとは、わたしたちの全存在が徐々に、絶えず復活させられることを示しています ( Ⅰテサロニケ 5:23) 。神はまず、 わたしたちの死んでいた霊を復活させました。 神は、わたしたちの全存在、すなわち霊、魂、 体が、 神の命によって、 神の命をもって、わたしたちの古い存在から完全に復活させられるまで、続けてわたしたちの魂と死ぬべき体を復活させます (エペソ 2:5-6.ローマ 8:6, 11)。 これは、わたしたちが経なければならない命の過程であり、賞としての格別な復活に到達するまでわたしたちが走らなければならないレースです (ピリピ3:11-14)。 わたしたちがキリストの死に同形化されるなら、わたしたちの存在のあらゆる部分は徐々に復活させられます。こういうわけで、クリスチャン生活は復活の過程です。

 

( JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第10日

(2023年5月 全国特別集会メッセージ3 )

 

メッセージ 3

キリストと彼の復活の力を知る

 

ピリピ3:10,11

キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて、何とかして、死人の中からの格別な復活に到達するためです。

 

「パウロは、キリストを知ることを切望し、キリストの復活の力を知ることを切望しました(ピリピ3:10)。パウロは極めて多くキリストを経験し、獲得していましたが、完全に経験した、あるいは極みまで獲得したとは考えませんでした。このゆえに、彼はなおも目標に向かって前進していました。その目標とは、最も満ち満ちた程度にまでキリストを獲得することでした(ピリピ3:12-14)」。 

 

パウロは、キリストを知ることを切望していました(ピリピ3:10)

 

 ピリピ第3章8節のキリストを知る知識の卓越性を持つことは啓示によりますが、10節のキリストを知ることは経験によります。パウロはまずキリストの啓示を受けました。それから、パウロはキリストを経験することを追い求めました。すなわち、経験的な方法でキリストを知り享受することを追い求めました。キリストを知ることは、ただ彼に関する知識を持つだけでなく、彼というパースンを獲得することです(Ⅱコリント2:10.参照、コロサイ2:9, 16-17)。キリストを獲得するとは、代価を払って、キリストの計り知れない豊富すべてを経験し、享受し、所有することです(エペソ3:8)。

 

パウロは、キリストの復活の力を知ることを切望しました(ピリピ3:10) 

 

 キリストの復活の力は、キリストを死人の中から復活させた、彼の復活の命です(エペソ1:19-20).キリストの復活とその力が複合されたその霊は(ピリピ1:19.出30:23-25)、わたしたちの霊の中に内住して(ローマ8:10-11)、キリストの復活とその力をわたしたちの霊と魂に分与するだけでなく(6節後半, 10節)、わたしたちの死ぬべき体にも分与しています(11, 13節後半.Ⅱコリント4:11)。

 

 ですから、わたしたちは復活の霊と協力して、自分がキリストと共に復活させられたことを認め(コロサイ2:12.エペソ2:6前半)、キリストの復活の力を追い求めるべきです。わたしたち、キリストを愛する者は、このキリストの復活の力によって、わたしたちの自己を否んで十字架を負うことを決意し(マタイ16:24.参照、雅2:8-9)、また、この復活の力によって、彼の死に同形化され、彼の十字架と一になることができます(ピリピ3:10.参照、 雅2:14-15)。 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第9日

(2023年5月 全国特別集会メッセージ2 )

 

メッセージ2

キリストの中に見いだされ、キリストの信仰を通しての神の義を持つ 

 

ピリピ3:9

そして、キリストの中に見いだされるためです.それは、律法に基づくわたし自身の義を持つのではなく、キリストにある信仰を通しての義、すなわち、信仰に基づく神からの義を持って、

 

「パウロの内側の深みには、キリストの中に見いだされるという切望がありました。パウロは、彼の全存在がキリストに浸され、キリストで浸透されて、彼を観察したすべての人が、完全にキリストの中に彼を見いだすということを切望しました(ピリピ3:9)」。 

 

キリストの中に見いだされる必要条件は、自分自身の義を持つことではなく、キリストの信仰を通しての神の義を持つことです(ピリピ3:9)。 

 

キリストが信者の義であることには二つの面があります: 

 

 第一の面は、信者が神へと悔い改めてキリストの中へと信じた時に、キリストが彼らの義となることであり、それは彼らが神の御前で客観的に義とされるためです(ローマ3:24-26.使徒13:39.ガラテヤ3:24後半,27)。 

 

 第二の面は、キリストが神の現れとして信者から生かし出され、彼らの義となることです。神はキリストの中で信者に与えられた義であり、それは彼らが神によって主観的に義とされるためです(ローマ4:25.Ⅰペテロ2:24前半.ヤコブ2:24.マタイ5:20.啓19:8)。 

 

これら二つの面は、ルカ第15章22節とマタイ第22章11節から12節における衣によって予表されています。 

 

ピリピ第3章9節における神の主観的な義は、実は、わたしたちの日常生活となる神ご自身、すなわち、神と人に対して正しい生活となる神ご自身です: 

 

 信仰に基づく神からの義は、わたしたちから生かし出された神ご自身であり、キリストにある信仰を通して、わたしたちの義となります。そのような義は、わたしたちの中に生きている神の表現です(ピリピ3:9)。わたしたちは神の注入を享受する状態の下で、キリストの中に見いだされることを切望すべきです。それによって、わたしたちはその霊の供給、命の言、信仰を通しての神の義を通して、彼を生かし出すことができます(ピリピ1:19-21前半.2:16)。 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第8日

(2023年5月 全国特別集会メッセージ1 )

 

標語:

ピリピ人への手紙に啓示されているキリストを認識し、経験する―― キリストを獲得し、キリストの中に見いだされ、 キリストと彼の復活の力を知り、キリストを追い求めて、格別な復活に到達する 

 

メッセージ 1 

キリストを獲得する――信者たちがキリストを追い求めることの目標

 

ピリピ3:8

しかしさらに、わたしはまた、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定します.その方のゆえに、わたしはすべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定します.それは、わたしがキリストを獲得するためであり、

 

「キリストがわたしたちの目標であることは、彼が最高の享受であることを意味します。わたしたちの目標はキリストを獲得することですから、わたしたちは他のすべての事を捨てて、ただキリストだけを追い求めるべきです(ピリピ3:7-8)」。 

 

 

パウロはキリストを知る知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定しました(ピリピ3:8前半):

 

 パウロはキリスト・イエスを知る知識の卓越性に、大きな価値を置きました。これは「わたしの主」という言葉によって示されており、「わたしの主」は、キリストに関するパウロの親密な、優しい感覚を伝達します。 パウロの目は開かれて、すばらしい、すべてを含むキリストの卓越性を見ました。彼はこの卓越性のゆえに、宗教的な益や天然的な益に関するものであっても、すべての事を損失であると勘定しました。わたしたちはキリストを知る知識の卓越性を持てば持つほど、宗教的で天然的なあらゆるものを、ますます損失と勘定するようになります(ピリピ3:4-8前半)。 

 

パウロはキリストのゆえに、すべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定しました。それは、彼がキリストを獲得するためでした(ピリピ3:7,8後半):

 

 8節の「すべての事」は、宗教、哲学、文化に属する事を含んでいます。パウロがこれらすべての事で損失を被ったのは、それらがキリストの代替物であって、サタンによって用いられた罠であり、人々をキリストとキリストに対する経験から離れさせたからです。 わたしたちがキリストを獲得するのは、かつて自分にとって益であったすべての事で損失を被ることによってであり、またそれらをちりあくたと勘定することによってです(ピリピ3:4,8)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

朝ごとの食物

5月の祈り 第6日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第11週6日)

 

神のすべての武具を身に着け、からだの中で戦います

 

エペソ6:11

神のすべての武具を身に着けなさい.悪魔の策略に敵対して立つことができるためです。

 

申32:30

彼らの岩が彼らを売らず、エホバが彼らを渡されなかったなら、どうして一人が千人を追い、二人が万人を逃げ去らせたであろうか?

 

「わたしたちはからだの中で戦うことによって、城壁を建造して召会を保護しなければなりません(ローマ16:20)。霊的戦いは、この原則によります。すなわち、一人が千人を追い、二人が万人を逃げ去らせるということです(申32:30.伝4:9-12.出17:11-13)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。戦いの武具は召会に与えられています。主よ、わたしたちがからだの中で戦うことによって、城壁が建造されて、召会が保護されますように。

 

 

霊的な戦いの原則は、一人が千人を追い、二人が万人を逃げ去らせます

 

 エペソ人への手紙第6章11節では、暗やみの主権者たちと戦うために、「神のすべての武具」を身に着けるように命じています。しかし、戦いの武具は、個人の信者に与えられているのではなく、召会に与えられているのです。「すべての武具」は、からだだけが身に着けることのできるものであり、個人の肢体が着ることのできるものではありません。霊的な戦いは、この原則によります。すなわち、一人が千人を追い、二人が万人を逃げ去らせるということです(申32:30)。……

 

 数学的に言えば、もし一人が千人を追うことができるなら、二人が追えるのは二千人だけです。しかし霊的な数学では、一人では千人ですが、二人では万人を追うのです。二人の人が力を合わせれば、それぞれを別個に考えた時の五倍になるのです。二人というのは、最も小さい団体の数です。二人の人が別々に敵を追うなら、一万人を打ち負かすことはできません。これが原則です。団体のからだの力は、非常に大きいのです。神は団体のからだに注意を払われます。(ニー全集、第44巻、第100、105編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第5日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第11週5日)

 

勝利を得る者には、あの隠されたマナを与えよう

 

啓2:17

……勝利を得る者には、あの隠されたマナを与えよう.また白い石を与えよう.その石の上には、それを受ける者のほか、だれも知らない新しい名が記されている。

 

「わたしたちは霊の中で生きることとキリストを隠されたマナとして食べることとによって、この世に打ち勝ち、神の建造となることができます(Ⅰヨハネ5:4,18-19,21.啓2:12-17.参照、ヨハネ14:30)。わたしたちは、バビロンの偶像のこの世から完全に分離される必要があります。バビロンの偶像のこの世は、商売や商業の悪によって特徴づけられており、むさぼり、欺き、金銭愛とかかわりがあります。……わたしたちのクリスチャンの生活には、金銭愛はあるべきではありません(ゼカリヤ5:5-11.Ⅰテモテ3:3,8.6:5-10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがキリストを隠されたマナとして食べることによって、この世に打ち勝ち、神の建造となりますように。主よ、隠されたマナとしてのキリストを日ごとの供給として享受することができますように。

 

 

キリストを隠されたマナとして食べて、バビロンの偶像、この世から分離されます

 

 マナは、神の民を彼の道に進ませる天からの食物としてのキリストを予表します。そのマナの一部分は、契約の箱の中に隠されている金のつぼに保存されていました(出16:32-34.ヘブル9:4)。公のマナは、主の民が公に享受するためでした。隠されたマナは、隠されたキリストを表徴し、特別の分け前であって、この世的な召会の堕落に打ち勝つ、彼の勝利を追い求める者たちのために取っておかれています。召会がこの世の道を行くとき、これらの勝利者は、前に進んで至聖所の神の臨在の中に住み、そこで隠されたキリストの特別の分け前を、彼らの日ごとの供給として享受します。

 

 今日、この約束は、正当な召会生活の中で成就されつつあり、また来たるべき王国において完全に成就されます。わたしたちが主を追い求め、この世的な召会の堕落に打ち勝ち、今日、主の特別な分け前を享受するなら、隠されたマナである彼は来たるべき王国で、わたしたちの褒賞となります。もしわたしたちが今日、召会生活の中でわたしたちの特別の分け前としての彼を得損なうなら、必ず来たるべき王国で、彼を褒賞として享受し損ないます。(啓2:17、フットノート2)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第4日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第11週4日)

 

わたしたちは、恵みで再構成されます

 

Ⅰペテロ5:10

しかし、あらゆる恵みの神、キリスト・イエスにあってあなたがたをご自身の永遠の栄光の中へ召してくださった方は、あなたがたがしばらく苦しみを受けた後、彼自らあなたがたを成就し、堅固にし、力づけ、土台づけてくださいます。

 

啓21:14

……十二の土台……の上には小羊の十二使徒の十二の名があった。

 

「わたしたちは、恵みで再構成される必要があります。この恵みは、手順を経た三一の神がわたしたちの命またすべてとなることです(Ⅰペテロ5:10.Ⅱコリント13:14.ヘブル10:29)。十二使徒は新約の恵みを表します。これが表徴するのは、恵みが、新エルサレムを生み出すための源、要素、手段であるということです(啓21:14)」。

 

 主よ、あなたを愛します。あなたはあらゆる恵みの神です。主よ、わたしたちがキリストの計り知れない豊富をもって構成されますように。主よ、わたしたちを成就し、堅固にし、力づけ、土台づけてください。そして、共に建造されて、神の永遠の住まいとなりますように。

 

 

都は神の恵みの上に建てられています

 

 宝石は、主なる霊の造り変える働きによって生み出されるだけでなく、キリストの計り知れない豊富をもって構成されます(エペソ3:8)。……恵みとはまさにキリストであり、キリストの具体化です。ですから、恵みによって構成されるとは、新エルサレムの構成要素であるキリストによって構成されることであるのです。わたしたちはキリストを経験すればするほど、キリストを獲得すれば獲得するほど、ますますキリストの神聖な要素にあずかり、ますます新エルサレムの構成要素となって、神によって選ばれ造り変えられた人たちと共に建造されて、神の永遠の住まいである聖なる都となるでしょう。(「新約の結論(15)」、メッセージ260)

 

 [啓示録第21章14節の]使徒たちは、新約の恵みを表しており、新エルサレムが神の恵みの上に建てられることを表徴します。聖なる都に入るのは、神の律法にしたがっていますが、都は神の恵みの上に建てられています。ここの「使徒」は、新エルサレムが、イスラエルで表される旧約の聖徒たちだけでなく、使徒たちで表される新約の聖徒たちによっても構成されることを暗示しています。(啓21:14、フットノート2)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第3日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第11週3日)

 

主の回復は新しい文化(新しい人の神・人の文化)です

 

エズラ7:6

このエズラはバビロンから上って来た.彼はエホバ・イスラエルの神が与えられたモーセの律法に精通した学者であった.エホバ・彼の神の御手が彼の上にあったので、王は彼のすべての願いをかなえた。

 

ネヘミヤ13:24

彼らの子供……のだれもユダヤの言葉を語ることができず、それぞれの民の言葉を語った。

 

「わたしたちは教育を受け、真理をもって他の人たちを教育する必要があります。それは神の証し、すなわち、神の団体的な表現のためです(Ⅱテモテ2:2.Ⅰテモテ3:15-16.6:3.Ⅰコリント14:31)。わたしたちは、新しい文化(新しい人の神・人の文化)の中にある新しい言語、すなわち、「ユダヤの言葉」を用いることを学ばなければなりません(ネヘミヤ13:23-24)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが御言葉の内在的な意義を把握して、命の光で満たされますように。主の回復において、神のエコノミーの言葉を学び、神性と人性とのミングリングを享受することができますように。

 

 

主の回復において、新しい言語を取り上げることを学びます

 

 主の回復の新しい言語の中で、……肉体と成ることが意味するのは、神がご自身を人の中へともたらし、彼の神性を人性とミングリングして、神と人を一つの実体としたということです。これが新しい言語です。神が人と成ったことを理解するのは容易ですが、神がご自身を人の中へともたらし、彼の神性を人性とミングリングしたということを理解するのはさらに難しいのです。神性と人性とのミングリングは、肉体と成ることの最高の解釈です。…… 肉体と成ることが意味するのは、神がご自身と人とをミングリングし、ご自身を人と一つの実体にするということです。これは神が人と成ったと言うことよりも深いのです。

 

 わたしたちはみな主の回復において、この新しい言語を取り上げることを学ばなければなりません。……主の回復は新しい文化です。わたしは、すべての聖徒がこの新しい文化の新しい語彙、新しい言語、言葉の中へと入ることを望みます。(リー全集、1994-1997年、第4巻(上)、「アナハイムにおけるさまざまな集会」、第8編

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第2日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第11週2日)

 

言葉の中の水の洗いによって召会を清めます

 

エペソ5:26

それはキリストが召会を聖化し、言葉の中の水の洗いによって召会を清めるためであり。

 

Ⅰペテロ1:22

あなたがたは真理に対する従順によって、自分の魂をきよめて、偽りのない兄弟愛へと至ったのですから、純粋な心から互いに熱く愛し合いなさい。

 

「新エルサレムを生かし出し、成し遂げることは、エズラの務めとネヘミヤのリーダーシップとの内在的な意義の中で生活し、仕えることです。わたしたちは、すべての混合からきよめられる過程の中にとどまって、主と彼の永遠のエコノミーの権益とをわたしたちの唯一の目標とする必要があります(エズラ9:2.マタイ5:8.Ⅰテモテ3:9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたの御言葉を愛します。主よ、わたしたちが神の言葉を毎日読んで、言葉の中の水の洗いによって清められますように。主よ、わたしたちが何度も御言を読んで、この世から救い出されて、神へと分離されますように。 

 

 

神の言葉は神の実際をもたらし、わたしたちを聖別します

 

 今日、神は彼の言葉の中におられます。この言葉は、神の実際、すなわち神ご自身を内容としています。この実際である神ご自身は、特別な機能を持っています。それはわたしたちを聖別することです。神の言葉を読むわたしたちは、しばしばこの経験を持ちます。聖書を理解してもしなくても、朝、神の言葉を少し読んで、昼間この御言を少し考えるなら、わたしたちは聖別されます。

 わたしたちが何度も主の御言を読むと、わたしたちの中にあるこの世の事柄はすべて取り除かれ、わたしたちは清められ、聖別されます。神の言葉は神の実際をもたらし……わたしたちを聖別し、この複雑なこの世から救い出して、神へと分離されるようにします。(「主の切望にしたがった一と一つ心、そして彼の喜びにしたがったからだの生活と奉仕」、第1章)

 

 ペテロの第一の手紙第1章22節から25節における……わたしたちの魂のきよめは、その霊がわたしたちの性情を聖別することです。それはわたしたちが神の聖なる性質の中で聖い生活を送るためです(15-16節)。(「ペテロの第一の手紙ライフスタディ」、第14編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り 第1日

(朝ごとの食物 12月訓練 歴代志,エズラ・・  第11週1日)

 

エズラの務めの内在的な意義は、「きよめ」、「教育」、「再構成」です

 

啓21:11-12,18

……その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった。それには大きな高い城壁があり…… 城壁は碧玉で築かれ、都は純金であって、透き通ったガラスのようであった。

 

啓 4:3

座している方は、碧玉……のようであり……

 

「エズラの務めの内在的な意義は、「きよめ」、「教育」、「再構成」という言葉に具体化されています。ネヘミヤのリーダーシップの内在的な意義は、「分離」、「保護」、「表現」という言葉に具体化されています。わたしたちは主の天の務めと協力し、この内在的な意義にしたがって、新エルサレムを生かし出し、成し遂げることによって、召会を神の家また神の王国として建造する必要があります(列王上8:48.詩48:1-2.Ⅰテモテ3:15.エペソ2:21-22)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが神の聖なる性質できよめられますように。聖書の教えを通して思いが更新されますように。城壁が碧玉で築かれたように、わたしたちが再構成されますように。主よ、わたしたちが神の頭首権の下で分離され、保護され、神の命の豊かさが表現されますように。

 

 

ネヘミヤのリーダーシップの内在的な意義は、「分離」、「保護」、「表現」です

 

 御座に座しておられる神は碧玉のように見え、[新エルサレムの]城壁全体は……碧玉で築かれています。さらに、城壁の第一の土台は碧玉です。碧玉は、啓示録第21章11節によれば、「最も尊い宝石……水晶のように透明」です。その色は深緑色であるに違いありません。それは命の豊かさを表徴します。神の外観が碧玉のようであることは、神の外観が命の豊かさであることを意味します。碧玉は神の外観であり、また聖なる都、新エルサレムの外観でもあります(11節)。都全体は外観において、神と同じように見えます。…… 

 新エルサレムの城壁には、七つの意味が含まれています。城壁は、造り変え、建造、神のかたち、神の表現、イエスの証し、分離、保護の意味を含んでいます。城壁は常に、ある空間の特別な部分を他のすべての空間から分離します。城壁はまた、その中にあるものをあらゆる種類の消極的で邪悪なものから保護します。(「神の新約エコノミー(下)」、第36章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)