朝ごとの食物

ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び第1週1日~第4週6日

 

2月の祈り 第27日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第4週6日)

 

わたしたちの内側にある二本の木

 

ローマ8:5-6

なぜなら、肉にしたがっている者は、肉の事柄を思い、霊にしたがっている者は、その霊の事柄を思うからです。肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。

 

 「キリストにあるあらゆる真の信者は小型のエデンの園です。信者の霊の中には命の木としての神がおり、信者の肉の中には善悪知識の木としてのサタンがいます(創2:9.ローマ8:2,5-6)」。

 

 主よ、わたしたちの中には、命の木と善悪知識の木があります。主よ、わたしたちの思いを霊に付けることによって、命と平安を得ることができますように。

 

 

霊に付けた思いは命と平安です

 

 人は三部分から成っています。人には霊、魂、体があります。霊はわたしたちの最も内側の部分であり、体はわたしたちの最も外側の部分であり、魂はわたしたちの存在の主要部分であって、霊と体の間にあります。堕落の結果、知識の木であるサタンが、人の肉の中へと入って来ました。わたしたちがキリストを信じた結果、命の木である神が、わたしたちの霊の中へと入って来られました。ですから、かつて園の中で人の外側にあった二本の木は、今やわたしたちの内側にあります。一つはわたしたちの肉の中にあり、もう一つはわたしたちの霊の中にあります。(創世記ライフスタディ(1)、第14編)

 

 わたしたちがローマ人への手紙第8章から学ぶことは、… ただわたしたちの存在をわたしたちの霊に内住しておられる生ける方へと向け、彼と共にとどまることです。…… わたしたちの存在をミングリングされた霊に付けるために、わたしたちは祈る必要があります。… わたしたちの思いはとても速やかに他の事に引き付けられます。ですから、わたしたちの思いを霊に付け続けるよう祈る必要があります。…… わたしたちが思いを霊の中の生ける方に付ければ付けるほど、ますます彼はご自身をわたしたちから生かし出されます。(ローマ人への手紙ライフスタディ(2)、第39編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第26日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第4週5日)

 

命の原則にしたがって生きる

 

Ⅰヨハネ5:11

これが証しです.すなわち、神がわたしたちに永遠の命を与えられ、そしてこの命が彼の御子の中にあるということです。

 

箴16:25

人には正しいと見える道があっても、その終わりは死の道である。

 

 「創世記第2章9節の二本の木(命の木と善悪知識の木)は、生活の二つの原則を表しています。わたしたちは主イエスを受け入れ、新しい命を獲得したとき、もう一つの生活の原則を得ました。それは命の原則です。もしわたしたちがこの原則を知らないなら、命の原則をわきに置き、正しいか間違っているかの原則に従うでしょう」。

 

 主よ、わたしたちに永遠の命が与えられていることを感謝します。主よ、わたしたちを命の原則にしたがって生きるクリスチャンにしてください。

 

 

わたしたちの内側で立ち上がって語る命

 

 創世記第2章で、二本の木がそこに置かれていたのは、人、特にクリスチャンが二つの異なる原則にしたがって地上で生きることがあり得るということをわたしたちに示すためです。人は、正しいか間違っているかの原則にしたがって、あるいは命の原則にしたがって生きることがあり得ます。あるクリスチャンは、正しいか間違っているかを彼らの生活の標準としますが、他のクリスチャンは、命の原則を生活のための彼らの標準とします。 ・・・・・・  

 

 わたしたちが何かを行なおうとする時はいつでも、わたしたちの内側で立ち上がってわたしたちと共に語る命があるのです。わたしたちが内側で正しいと感じる時、わたしたちの内側で命が動いているのを感じる時、わたしたちが内側で強く、油塗りを感じる時、わたしたちは命を持っていることを知ります。……

 今日、わたしたちにはただ一つの問いがあります。すなわち、わたしたちの内なる命は何と言っているでしょうか? もし命がわたしたちの内側で強く活動的であれば、わたしたちはこれを行なうことができます。もし命がわたしたちの内側で冷たくなえているなら、わたしたちは行なうべきではありません。(ニー全集、第56巻、第37号)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第25日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第4週4日)

 

命の木のビジョンを持つ

 

啓22:14

自分の衣服を洗う者たちは幸いである.彼らは命の木への権利を持ち、門を通って都の中へと入ることができる。

 

ヨハネ6:48 

わたしは命のパンである。

 

 「わたしたちは命の木のビジョンを持つ必要があります(創2:9.啓22:1-2,14)。命の木が表徴しているのは、三一の神がご自身をキリストの中で、食物の形で彼の選ばれた人の中へと命として分与するということです(創2:9)」。

 

 主よ、わたしたちが命の木としての神ご自身を食べることができることを感謝します。主を食べることからそらされないように守ってください。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

命の木としてのご自身を食べさせる

 

 創世記第2章9節における命の木の図形の成就であるキリストに関して、啓示録第2章7節はこう言っています、「勝利を得る者には、神のパラダイスにある命の木から食べさせよう」。人が命の木から食べることは、神の当初の意図でした。堕落のゆえに、命の木は人に対して閉ざされました(創3:22-24)。キリストの贖いを通して、命の木、すなわち、人の命であるキリストにおいて、神ご自身に触れる道が再び開かれました(ヘブル10:19-20)。……

 

 命の木は、食物の形でわたしたちの命となる、三一の神の具体化としてのキリストを指しています。… 彼は今日、召会の中におられ、その究極的完成は新エルサレムであり、そこにおいて、十字架につけられ復活したキリストは、神の贖われたすべての民の永遠にわたる享受のために、命の木となるでしょう(啓22:2,14)。(新約の結論(3)、メッセージ41)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第24日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第4週3日)

 

命の木の領域の中へと入れられる

 

ヨブ2:3

… おまえはわたしのしもべヨブを心にとめたか?まことに、地上で彼のような者はいない.彼は完全で正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっている。…… なおも彼は自分の高潔さを堅く保っている。

 

ヨハネ11:25

イエスは彼女に言われた、「わたしは復活であり、命である.…」。

 

 「神の意図は、善悪知識の木の路線にあるヨブを得ることではなく、命の木の路線にあるヨブを得ることでした。ヨブと彼の友は、善悪知識の木の領域にいました。神は彼らをこの領域の中から救い出して、命の木の領域の中へと入れようとしました(ヨブ1:1.2:3.19:10)」。

 

 主よ、わたしたちを善悪知識の木の領域から、命の木の領域へと移してください。毎日、小さな事で祈り、主と一つ霊になることができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

主と一つ霊であるように祈る

 

 わたしたちは日常生活において、善悪知識の木の領域にいるべきではなく、命を与える霊の領域にいるべきです。わたしたちは善悪にしたがって何も行なうべきではありません。そうではなく、あらゆることをその霊にしたがって、主と一つ霊になることによって行なうべきです。

 

 例えば、わたしたちは語ることにおいて主と一つ霊になる必要があります。わたしは主のために語る前、一つの簡単な祈りをします。「主よ、わたしと一つ霊になって、わたしがあなたと一つ霊であるようにしてください。主よ、わたしが語る中で語り、わたしの語ることをあなたの語ることにしてください」。これは、神の永遠のエコノミーの分与の中で生きることです。わたしたちはこのように生きて語るとき、神聖な分与を享受し、キリストはわたしたちの内側で増し加わります。キリストはわたしたちの中で成長され、わたしたちはキリストの中で成長します。(ヨブ記ライフスタディ、第4,6,12編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第23日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第4週2日)

 

水晶のように輝く命の水の川

 

啓22:1-2

また御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた.それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた。その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、……

 

 「第一の道は、命の道、すなわち狭められている道であり、人に神を追い求めさせ、神を獲得させ、永遠の命の中で供給としての神を享受させます。第二の道は、死と善悪の道、すなわち幅広い道であり、人をサタンに従わせ、サタンの子供たちとならせます(マタイ7:13-14.使徒9:2.Ⅰヨハネ3:10前半)。

 

 主よ、命の道は狭められている道ですが、神を獲得し、神を享受する道であることを感謝します。この命の道を歩み続けることができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

命の道は狭められている道です

 

 二つの道としての二つの路線は、二つの源に起源があります。第一の道は、命の道、すなわち狭められている道であり(マタイ7:14)、この「道」(使徒9:2.19:9、23.22:4.24:22)、真っすぐな道(Ⅱペテロ2:15)、義の道(Ⅱペテロ2:21)、救いの道(使徒16:17)、神の道(マタイ22:16.使徒18:26)、主の道(使徒18:25)であり、人に神を追い求めさせ、神を獲得させ、永遠の命の中で供給としての神を享受させるためであり、目標としての神の永遠の命へと至ります。それは、彼らが神の命と性質において神から生まれ(ヨハネ1:12-13)、彼の栄光のかたちへと造り変えられ、同形化され(Ⅱコリント3:18.ローマ8:29)、栄光としての彼の中で栄光化され(ローマ8:30.Ⅰペテロ5:10前半.ヘブル2:10前半)、極みまで彼を獲得し、彼にあずかるためです。

 

 この命の道には、アベル、セツ、エノス、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ、サムエル、旧約のすべての預言者、新約のすべての信者がいます(ヘブル11:39-40)。ヨブを対処することでの神の意図は、ヨブを善悪の道からこの命の道に転向させることでした。それは、ヨブが最も満ち満ちた程度にまで神を獲得するためでした。(ヨブ記ライフスタディ、第37編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第22日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第4週1日)

 

命の木から食べて生きる

 

創2:9

エホバ・神はその土地から、見て喜ばしく、食べるのに良い、すべての木を生えさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪知識の木とを生えさせられた。

 

創2:17

ただし、善悪知識の木からは、食べてはならない.それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ。

 

 「聖書の神聖な啓示によれば、二本の木、二つの源、二つの道、二つの原則、二つの終局があります。命の木が表徴しているのは、人と神との関係における、人の命である三一の神です。善悪知識の木が表徴しているのは、神の御前での人の堕落における、人の死である悪魔サタン、すなわち、あの悪しき者です(創2:9,17.詩36:9前半)」。

 

 主よ、わたしたちは毎日、朝ごとに命の木から食べることができますように。主を食べ、主を飲んで生かされますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

命の木が水の都で終わる

 

 創世記第2章には二本の木(命の木と善悪知識の木)があります。しかしながら、啓示録第21章と第22章でわたしたちは、聖なる都に一本の木(命の木)だけを見ます。この都の中央には神と小羊の御座があり(啓22:1)、それは神の行政を示しています。…… 神と小羊の御座から、すなわち、ひとりの神から、一つの川が流れ、この川の両側には命の木が成長しています(啓22:2前半)。原則によれば、命の木が水の都で終わるなら、善悪知識の木は火の池で終わるはずです。啓示録第22章のすべて邪悪なものは、火の池と関係があります。ですから、二つの終局は水の都と火の池です。二つの源と二つの終局の間には二つの路線があり、それは二つの道となります。それぞれの源は一つの路線をもたらし、それは道となって一つの終局において究極的に完成します。(ヨブ記ライフスタディ、第37編)

 

 二本の木は、人がその実を食べるためです(創3:3、6後半)。命の木の実は、人にとって養い、命を分与する食物となり、善悪知識の木の実は、人にとって殺す毒となります。食べることは、わたしたちの外側にあるものを取り入れ、それを消化し、吸収することを意味します。わたしたちは食べるものに注意深くなければなりません。(ヨブ記ライフスタディ、第37編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第20日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第3週6日)

 

日ごとに新しくされていきます

 

Ⅱコリント4:16-17

こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます。なぜなら、わたしたちの受けるつかの間の軽い患難は、ますます卓越した永遠の重い栄光を、わたしたちにもたらすからです。

 

 「わたしたちはパウロと同じように、苦難と圧迫の環境の中にいます。この環境は、その霊と共に働いて、わたしたちの天然の人を殺します。わたしたちは、わたしたちの霊と魂と体において、内住する霊と協力し、外側の環境を受け入れるべきです。なぜならわたしたちは、一時的な苦難である見えるものにではなく、永遠の栄光である見えないものに目をとめるからです(ピリピ1:19-20.Ⅱコリント4:18.ヘブル11:1,27.Ⅱコリント5:7)」。

 

 主よ、復活の力を感謝します。わたしたちが人の間違いを赦し、また忘れることができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

人を赦し、人の間違いを忘れる

 

 わたしたちクリスチャンは、復讐や報復の感情を持つべきではありません。……人の間違いを赦し、忘れることは、キリストの死に同形化されることです。

 わたしたちの中にはこれを行なうことのできる能力があります。この能力は復活の力です。…… 一つの小さい種の中にあるのは命だけではなく、それには復活も含まれています。もし種が地に落ちて死ぬなら、最終的に地面の下から芽が出てきます。これが復活の力です。わたしたちは小さい種のようです。わたしたちは死の中に入れられれば入れられるほど、ますます復活の力の表現を持ちます。こういうわけで、わたしたちは人を赦し、人の間違いを忘れることを願うのです。

 

 もしクリスチャン生活がただ楽しいだけの生活であったなら、使徒パウロは、喜びなさいと命令する必要はなかったでしょう(ピリピ4:4)。わたしたちは苦しみ、涙をぬぐう一方で、喜ぶべきです。… パウロは、主の中で泣くようにわたしたちに命じているのではなく、主の中で喜ぶようにわたしたちに命じています。もしわたしたちが、わたしたちを殺す環境のただ中で霊を活用して、喜ばなければ、わたしたちは全く喜ぶことができません。(クリスチャン生活、第14,15章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第19日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第3週5日)

 

イエスの命が、わたしたちの死ぬべき肉体に現される

 

Ⅱコリント4:11-12

なぜなら、わたしたち生きている者はイエスのために、絶えず死に渡されているからであり、それはイエスの命が、わたしたちの死ぬべき肉体に現されるためです。こうして、死はわたしたちの中で働き、命はあなたがたの中で働くのです。

 

 「わたしたちの環境の中で、イエスの致死力は内住する霊と協力して、わたしたちの体と魂から成るわたしたちの天然の人(わたしたちの外なる人)を殺します。わたしたちの外なる人が、死の殺す働きによって消耗させられつつあるとき、わたしたちの内なる人は、復活の命の新鮮な供給をもって日ごとに新しくされていきます(Ⅱコリント4:16)」。

 

 主よ、イエスの致死力が働いていることを感謝します。わたしたちに与えられている環境の中で、内住する霊と協力することができますように。

 

 

キリストの死と復活を経験する

 

 主を愛し、主との交わりを保っているクリスチャンは、自分たちの内側で何かが動いているという感覚を常に持っています。その動きが油塗りであり、油塗りは三一の神によるキリストの死と復活を分与します。この分与は、神性、キリストの人性、キリストの死、キリストの死の効力、キリストの復活、キリストの復活の力というこれらすべての要素から成っています。

 

 キリストの死を経験するのは、わたしたちがこの分与、油塗り、内住する霊の動きの下にいる時です。わたしたちは短気を起こそうとするとき、自分自身を停止して、祈ることができます。わたしたちが祈った後、わたしたちの怒りは消えてしまいます。これは、わたしたちの祈りが、内住する霊の動きを開始させ、この動きの中には殺す力があるからです。・・・・・

 わたしたちは日々主の殺しを、彼の致死力を経験する必要があります。そうすれば、わたしたちはキリストの復活にあって日々勝利と喜びを持ちます。(クリスチャン生活、第9、14章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第18日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第3週 4日)

 

キリストがわたしの中に生きておられる

 

ガラテヤ2:20

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはも中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。

 

 「今、わたしたちのクリスチャン生活において、わたしたちは死を通して生きます(ガラテヤ2:20.Ⅰコリント15:31,36.ヨハネ12:24.Ⅱコリント4:11)。死を通して生きることが、十字架を負うことの正しい意義です(マタイ16:24-26.詩歌461番)」。

 

 主よ、わたしたちはキリストと共に十字架につけられ、今、主がわたしたちの中に生きておられることを感謝します。日ごとにキリスト共に「死を通して生きる」ことを、さらに経験することができますように。

 

 

再生されて十字架につけられ、死を通して生きる

 

 わたしたちは再生されて十字架につけられており、死を通して生きます(Ⅰコリント15:36)。わたしたちは生まれて死んでおり、今や死を通して生きます。「死を通して生きる」とは、キリストの十字架の下で生きることを意味します。日ごとに、わたしたちは死につつあります。パウロは日ごとに死んでいると言っています(Ⅰコリント15:31.Ⅱコリント4:11)。

 

 わたしたちの環境は毎日、わたしたちを死に渡します。わたしたちが死ぬことは継続的な事柄です。クリスチャン生活は生涯にわたって死ぬ生活です。毎日、わたしたちは死を通して生きます。わたしたちは再び生まれて十字架につけられ、今や死を通して生きます。これがキリストの十字架の下にある生活です。…… 一方で、パウロは終結させられていましたが、もう一方で、復活したパウロは再生されて、なおも生きていました。パウロはキリストと共に十字架につけられましたが、キリストが彼の中に生きており、また彼はキリストを生きました(ピリピ1:21前半)。キリストとパウロは一つの命と一つの生活を持っていました。(クリスチャン生活、第12章、13章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第17日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第3週 3日)

 

わたしたちの霊の中で神聖な霊に触れることを学ぶ

 

イザヤ57:15

…… わたしは高くて聖なる所に住み、また、霊が砕かれたへりくだった人と共に住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす。

 

 「わたしたちは、わたしたちの霊の中で神聖な霊に触れることを学ぶ必要があります。これが、クリスチャンの生活と働きの内在的な意義です。これが、人の中での神の行動であり、また神の中での人の行動であって、神のエコノミー、神のご計画を成就します。すなわち、神ご自身をキリストの中でその霊として、人の中へと分与します。そして、キリストのからだを建造し、キリストの花嫁の用意を整え、新エルサレムを究極的に完成します(Ⅱコリント2:13.ピリピ3:3.ローマ1:9)。

 

 主よ、わたしたちがへりくだりの霊の中で神を尋ね求めることができますように。わたしたちが集まるとき、まず、霊を活用して祈ることができますように。

 

 

霊を活用して互いに交わる

 

 ヨブは苦難を受けており、彼の三人の友は来て彼を慰めました。エリフもそこにいてその状況を助けました。しかしながら、これらの敬虔な人々はヨブのために祈らず、彼らがみなある量の霊的な供給を受けるようにと、霊を活用して互いに交わることもしませんでした。…… わたしたちが集まるときに最初に行なわなければならないことは、祈ることです。……

 

 あなたの霊の中で神聖な霊に触れること……これが、クリスチャン生活であり、これがクリスチャンの働きでもあるべきです。これが、人の中の神の行動であり、また神の中での人の行動であって、神のエコノミー、キリストと彼のからだに関する神のご計画を成就します。わたしたちは地上でこのためにいます。… 

 そのような人になる道はとても簡単です。その道はわたしたちの霊の中にいることです。……わたしたちはみなヨハネから学び、霊の中にいて[参照、啓1:10、12]、ビジョンを見て主を享受し、からだを享受し、諸召会に対するその霊の語りかけを享受する必要があります。(ヨブ記ライフスタディ、第27、28編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第16日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第3週 2日)

 

つかの間の軽い患難は、永遠の重い栄光をもたらす

 

Ⅱコリント4:17

なぜなら、わたしたちの受けるつかの間の軽い患難は、ますます卓越した永遠の重い栄光を、わたしたちにもたらすからです。

 

 「ヨブも彼の友も、神がヨブを対処する目的について、使徒パウロが新約の信者に告げたようには知りませんでした。信者が受けている患難は、彼らに永遠の重い栄光をもたらすためであり、それは栄光の神が彼らの栄光なる分け前となって、彼らに獲得させ享受させて、永遠に至るということです(Ⅱコリント4:17)」。

 

 イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を感謝します。主よ、わたしたちが受ける患難は、永遠の重い栄光をもたらすという認識と経験を持つことができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

苦難を受けて、永遠の重い栄光にあずかる

 

 ヨブは自分の受けた患難をとても重いものと考えましたが、パウロは自分の患難をつかの間の軽いものと考えました。わたしたちは自分の患難を気にするのではなく、重い栄光が増し加わることに注意する必要があります。わたしたちがどれほどの重い栄光を持つかは、主のためにどれほどの患難にあずかっているかにかかっています。パウロは……苦難を受ければ受けるほど、永遠においてますます重い栄光にあずかることを知っていました。

 パウロはイエス・キリストの霊の満ちあふれる供給によって、生きるにも死ぬにも、キリストを生きることによってキリストを大きく表現しました(ピリピ1:19-21前半)。これがクリスチャン生活です。神は人を創造したとき、人がこのような生活をすることを願われました。……

 

 最終的に、神の意図は、ヨブを神の人とし(Ⅰテモテ6:11.Ⅱテモテ3:17)、神の具体化であるキリストで満たし、神の豊満とならせて、キリストの中で神を表現させることであり、…… そのような人は、神のエコノミーにしたがって神で構成されており、決してどのような困惑や問題にも惑わされず、自分の生まれた日をのろったり、生きることより死ぬことを願ったりはしません。(ヨブ記ライフスタディ、第4編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第15日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第3週 1日)

 

生きることはキリストであり、死ぬことは益である

 

ピリピ1:20-21

そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。

 

 「ヨブは極みまで憂慮し、困惑し、惑わされました。なぜなら、彼は完全で、正しく、高潔であったにもかかわらず、災いが彼の所有物と彼の子供たちに臨み、災いの病が彼の体に臨んだからです」。

 

 主よ、あなたはわたしたちの日ごとの救い、時々刻々の供給であることを感謝します。旧約におけるヨブのようにではなく、新約におけるパウロのように、苦難の中で喜ぶ者にしてください。

 

 

パウロは苦難の中で喜んでいた

 

 旧約でヨブが神の消耗させることとはぎ取ることを経験することは、新約におけるパウロの経験にはるかに及びませんでした。神が消耗させることは、わたしたちを疲れ果てさせることです。神がはぎ取ることは、わたしたちから豊かさを取り去ることです。まず、神はヨブの所有物をはぎ取り、次に神は彼を消耗させました。ヨブが体への災いに苦しんだことは、消耗させることでした。… 新約では、神の消耗させることとはぎ取ることは、喜ばしい事となります。パウロは回心した日から、神の消耗させることとはぎ取ることの下にいた人でした(Ⅱコリント4:16)。

 

 パウロはキリストのために苦悩していたとき(Ⅱコリント12:10)、十分に喜んでおり、幸いであり、自分の経験のゆえに主の中で歓喜さえしていました(コロサイ1:24)。苦難に対するパウロの反応は、ヨブの場合と大いに異なっていました。ヨブは歓喜せず、絶えずいら立っていました。

 パウロはキリストの苦難の交わりの中で、キリストの死に同形化されることを追い求めました(ピリピ3:10)。彼はキリストの死を、自分の生活の原型としました。パウロにとって、キリストの死にかたどられることは大いなる喜びでした。(ヨブ記ライフスタディ、第3編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第13日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第2週 6日)

 

男の子が神の御座に携え上げられた

 

啓12:5

彼女は一人の子、男の子を産んだ.この子は鉄の杖で、すべての諸国民を牧養することになっている.彼女の子供は、神に、神の御座に携え上げられた。

 

啓12:11

兄弟たちは、小羊の血のゆえに、また彼らの証しの言のゆえに、彼に打ち勝った.彼らは死に至るまでも、自分の魂の命を愛さなかった。

 

 「男の子が神の御座に携え上げられた後、天で戦いがあり、サタンとその使いたちは地に投げ落とされ、神の王国が現れます(啓12:5,7-11)。男の子は勝利者たちから成っており、彼らは召会に代わって立ち、全召会が取るべき地位を取り、召会の働きを行ないます(啓2:7後半,11後半.12:5)。

 

 主よ、わたしたちが男の子となるために、今日、地上でサタンを打ち破る必要があります。サタンに対して神の言葉を取り、主イエスの勝利を宣言し、主に絶対的であらせてください。

 

 

神の言葉を取り、サタンに宣べ伝える

 

 男の子が天に携え上げられた直後に、ミカエルとその御使いたちは、サタンに対して戦いを始めます。これは男の子、すなわち神の民のうちの強い部分が、常に神の敵サタンとの戦いに従事していることを示します。勝利者は絶えず、死に至るまでも、サタンと戦ってきて、地上で彼を打ち破りました。しかし、天がなおも待っているのは、彼らがそこにやって来て、戦いを進行させ、サタンを天から投げ出すことです。

 

 主はわたしたちに、敵を打ち破る最も有効な道を見せてくださいました。わたしたちがなすべきことは契約、すなわち神の言葉を取ること、そして主がわたしたちのために成就されたことに関してサタンに宣べ伝えることです。…… 問題の根源(サタン)に行って、彼に宣べ伝え、「サタンよ、おまえは十字架上に釘づけられてしまっている」と言いなさい。サタンに宣べ伝えれば宣べ伝えるほど、あなたはますます解放されます。(啓示録ライフスタディ、第38編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第12日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第2週 5日)

 

平安の神がサタンをあなたがたの足の下に踏み砕く

 

ローマ16:20

今や平安の神が速やかに、サタンをあなたがたの足の下に踏み砕かれます。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。

 

 「サタンをわたしたちの足の下に踏み砕く方が平安の神であることは、意義深いのです。神の平安がわたしたちの心と思考を護衛し、歩哨に立ちます。なぜなら、平安の神はキリストの中でわたしたちの心と思考の前を巡回し、わたしたちを落ち着かせ、静めてくださるからです(ピリピ4:7)」。

 

 わたしたちが内側から聖別されて、あらゆる事で神と人に対して、平和を持つことができますように。その時、サタンはキリストのからだによって踏み砕かれます。ハレルヤ!

 

 

からだによって打ち破る

 

 ローマ人への手紙第16章20節の「あなたがた」と訳されたギリシャ語は複数であり、からだを指しています。神はサタンをからだの足の下に踏み砕かれます。ローマ人への手紙第16章は、宇宙的な意味でのからだを指しているのではなく、からだの地方的な実行上の表現を指しています。これは、サタンはただ諸地方召会におけるからだの実行上の表現の足の下にのみ、踏み砕かれることを意味します。……わたしたちがからだの実行上の表現としての正当な地方召会を持つときはじめて、サタンはわたしたちの足の下に踏み砕かれます。……

 

 霊の中で、わたしたちは命としてのキリストだけでなく、からだをも経験します。霊の中で、キリストは個人的にわたしたちの命であり、からだの命です。ですから、神聖な命を伴う、またキリストのからだを伴う霊の中で、サタンは征服され、わたしたちの足の下に踏み砕かれさえします。サタンは個人によってではなく、からだによって打ち破られます。(ローマ人への手紙ライフスタディ、第49編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第11日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第2週 4日)

 

キリストの中でサタンに対して勝利を得る

 

エペソ6:12

というのは、わたしたちの格闘は血肉に敵対するものではなく、支配者たちに、権威者たちに、この暗やみの世の主権者たちに、天上にいるあの悪の霊の勢力に、敵対するものだからです。

 

 「キリスト・イエスにある信者、また神の子供たちとして、わたしたちはキリストの中でサタンに対して勝利を得ることを学ぶ必要があります(エペソ6:12.Ⅰペテロ5:8-9.Ⅰヨハネ5:18)。わたしたちは神のすべての武具を身に着けて、悪魔の策略に敵対して立つことができるようになる必要があります(エペソ6:11)。

 

 キリストの中で、わたしたち召会がサタンに対して勝利することができますように。召会の中で、神のすべての武具を身に着けて、悪魔の策略に敵対して立たせてください。

 

 

神のすべての武具を身に着ける

 

 悪魔は彼の働きにおいて悪巧みのある方法を用いるだけではなく、策略も用います。… わたしたちは神のすべての武具を身に着け、悪魔の策略に敵対して立つ必要があります。悪魔はあらゆる種類の人、事、物を彼の策略として用いて、わたしたちを罠にかけます。…… 

 個人的なクリスチャンは神のすべての武具を身に着けることができません。それは召会が着なければなりません。わたしたちはすべての聖徒と共に、悪魔の暗やみの権威と戦わなければなりません。エペソ人への手紙第6章における戦いは、召会と悪魔の暗やみの権威との間の戦いです。ですから、エペソ人への手紙第6章における武具は、召会が着なければなりません。悪魔に敵対して立つために、わたしたちが召会、キリストのからだの中に生き、すべての聖徒と共に神のすべての武具を身に着けるなら、悪魔に敵対して立ち、わたしたちは悪魔に勝利を得て、神の王国をもたらします。(聖書の重要な真理、第6巻、第53章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第10日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第2週 3日)

 

キリストは勝利を得られた

 

Ⅰヨハネ3:8

… 神の御子が現れました.それは、彼が悪魔のわざを破壊するためです。

 

ヘブル2:14

… それは、彼が死を通して、死の権能を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼすためであり。

 

 「サタンは彼の王国、すなわち暗やみの権威を持っています(マタイ12:26.使徒26:18.コロサイ1:13)。支配者たち、権威者たち、この暗やみの世の主権者たちは、反逆の天使たちであり、彼らはサタンに従って神に反逆しました。そして今や天上で、この世の諸国民を支配しています(ダニエル10:20)」。

 

 主よ、あなたが十字架上で死を通して、サタンに勝利を得られたことを賛美します。わたしたちがあなたと結合される時、わたしたちも勝利を得ることを感謝します。

 

 

神の御子は悪魔のわざを破壊する

 

 わたしたちの主イエス・キリスト以外に勝利者はいません。「神の御子が現れました.それは、彼が悪魔のわざを破壊するためです」(Ⅰヨハネ3:8)。「彼[女の子孫]はおまえ[蛇、サタン]のかしらを砕く」(創3:15)。キリストは勝利者です。彼は、悪魔のわざを破壊し、蛇のかしらを砕いた方です。キリストは勝利を得られました。

 

 もしわたしたちが絶えずこの事実を認め、自分自身をキリストへと結合させるなら、絶えず勝利を得るでしょう。サタンは、わたしたちが絶えずこの証しの言葉を語って(啓12:11)、キリストを勝利者とすることを、最も恐れます。「このような」証しの言葉は、サタンを追い払うでしょう。キリストは勝利を得られました。ハレルヤ! 主を賛美します!(参照、マルコ1:24、27.3:11)。(ニー全集、第1巻、第9章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第9日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第2週 2日)

 

神は、はぎ取るためにサタンを用いる

 

ヨブ2:4-7

サタンは……言った、「……まことに人は、自分の命のためなら、持っているすべてを与えます。しかし、あなたの御手を伸べて、彼の骨と肉に触れてみてください.彼は必ずあなたの御顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。エホバはサタンに言われた、「見よ、彼はおまえの手にある.ただ彼の命に触れるな」。サタンはエホバの面前から出て行き、ヨブを足の裏から頭の頂まで、ひどい腫れ物で討った。

 

 「ヨブ記第1章と第2章における光景は、ヨブについて天で持たれた二つの会議を描写しています(ヨブ1:6-12.2:1-7)。[それが]、わたしたちに見せているのは、サタンがなおも自由であり、ことさら神によって醜悪な道具として用いられ、神の愛する者に対する神の厳格な対処を執行するということです(参照、ルカ22:31-32)」。

 

 神がご自身を愛する者を対処する目的は、わたしたちが神を獲得するためです。主よ、わたしたちがはぎとられるために、サタンが道具として用いられていることの意味を見ることができますように。

 

 

サタンの邪悪な観念は、損得の商業的な原則に基づいている

 

 イザヤ書第14章15節とエゼキエル書第28章16節から17節で、サタンは神によって罪定めされ、神によって判決を受けさえしました。しかし、神は彼の知恵と主権において、サタンに対する彼の裁きを執行されませんでした。神はなおもサタンにある限定的な時間を与えて、…… いくつかの消極的な必要に応じさせ、神のエコノミーを完成するようにされました。… サタン以外に、ヨブを傷つける醜悪な働きを行なう者はだれもいませんでした。それは、ヨブのあらゆるものをはぎ取り、ヨブが神に満たされるためでした。(ヨブ記ライフスタディ、第2編)

 

 神がご自身を尋ね求める人を対処することに関するサタンの邪悪な観念は、損得の商業的な原則に基づいています。サタンは商売人、商人であり、サタンの思想は商業的な原則にしたがっています。神がご自身を愛する者を対処する目的は、彼らが神以外のすべてを失うことを超越して、最も満ち満ちた程度にまで神を獲得することであり、また神が彼らを通して表現されて、神が人を創造した目的が成就されることであることを、サタンは知りません(創1:26)。(ヨブ記ライフスタディ、第2編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第8日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(1) 第2週 1日)

 

神、人、サタンの事柄を知る

 

イザヤ14:12-14

暁の星、夜明けの子よ、おまえは天から落ちてしまった! ……おまえは地に切り倒されてしまった! おまえは心の中で言った、「わたしは天に昇ろう.わたしは神の星の上に、わたしの座を高く上げよう。わたしは北の果てにある集会の山に座ろう。わたしは雲の高い所の上に昇ろう.わたしはいと高き方のようになろう」。

 

 「全聖書は、神、人、サタンについての事柄の記録です。ですから、わたしたちは聖書を読むとき、神と人についての事柄を知るだけでなく、サタンについての事柄も知る必要があります(創1:1,26-28.3:1,4,15.イザヤ14:12-14.エゼキエル28:12-19)」。

 

 主よ、全聖書を通して、神、人、サタンについての事柄を知ることができますように。また、わたしたちの心の中の高ぶり、野心を照らしてください。わたしたちが主に従う者になりますように。

 

 

命の木と善悪知識の木を知る

 

 聖書は神と人について語っているのと同様に、サタンについても語っています。わたしたちは忘れるべきではありませんが、人が創造された直後に、神は人を二本の木の前に置かれました。すなわち一本は命の木であり、もう一本は善悪知識の木でした。……命の木は神を表しており、善悪知識の木はサタンを表しています。……全聖書は、これら三当事者[神、サタン、人]に関する事柄の記録です。ですから聖書を読むとき、わたしたちは神と人に関する事柄を知るだけでなく、サタンに関する事柄も知るべきです。わたしたちがこれら三つの路線、すなわち神の路線、人の路線、サタンの路線に関して十分に把握するなら、聖書はわたしたちにとって水晶のように透明になるでしょう。(聖書における十の路線、第10章)

 

 サタンの反逆の目的は、自分自身を高く上げて神と同等になることでした。イザヤ書第14章13節から14節で、サタンは反逆の時に、五度、「わたしは……しよう」と言ったことを見いだします。……サタンは神と同等になりたかったのです。それが、彼が神に反逆した目的でした。地位への野心が、聖書に記録されているあらゆる反逆の動機でした。(創世記ライフスタディ、第2編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第6日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び(1) 第1週 6日)

 

今、わたしの目はあなたを見ています

 

ヨブ42:5-6

わたしはあなたのことを耳にしていました.しかし今、わたしの目はあなたを見ています.それゆえ、わたしは自分を忌み嫌い、ちりと灰の中で悔い改めます。

 

ピリピ4:11

わたしは乏しいから言うのではありません.というのは、わたしはどんな境遇でも、満ち足りることを学んだからです。

 

 「神がヨブに現れた時、ヨブは神を見て、彼の個人的な経験において神を獲得し、自分を忌み嫌いました(ヨブ38:1-3.42:1-6)。わたしたちは神を見れば見るほど、ますます自分自身を否み、憎むようになります(ヨブ42:5-6.イザヤ6:5.ルカ14:26)」。

 

 主よ、わたしたちが苦難の中で神を見ることができますように。そして、わたしたちの霊の中で満ち足りることを学ぶことができますように。

 

 

わたしたちの霊の中で神を見る

 

 今日わたしたちが神を見る方法は、完全に霊の中の事柄です。わたしたちが見ている神は、究極的に完成された霊です。わたしたちはわたしたちの霊の中で彼を見ることができます。・・・・ わたしたちの朝ごとの復興の時、たとえわずか十五分か二十分であっても、主と共にいる時、その霊の中にとどまる時を持ちます。そのような時に、わたしたちは主の言葉を祈り読みし、彼に語り、彼に短い祈りをもって祈ってもよいでしょう。そのときわたしたちは、神の要素を受けている、神の豊富をわたしたちの存在の中へと吸収しているという感覚を持つでしょう。

 

 わたしたちのクリスチャン生活は外側の変化ではなく、神聖な要素がわたしたちの内なる存在の中へと加えられ、わたしたちの古い要素に置き換わることによって、内側から造り変えられる生活です。これは完全に、すべてを含む霊である、手順を経て究極的に完成された神を見ることによります。(ヨブ記ライフスタディ、第21編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第5日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び(1) 第1週 5日)

 

ミングリングされた霊

 

ガラテヤ3:14

それは、アブラハムの祝福が、キリスト・イエスの中で異邦人に及ぶためであり、わたしたちが信仰を通して、約束されたその霊を受けるためなのです。

 

ガラテヤ5:25

もしわたしたちが霊によって生きているならば、霊によって歩こうではありませんか。

 

 「人を神化し、神のエコノミーを完成し、神の団体的な表現を持つという三一の神の行動は、ミングリングされた霊の中に完全にあります。このミングリングされた霊は、神聖な霊とわたしたちの人の霊がミングリングされて、一となったものです(Ⅰコリント6:17.啓1:10.4:2.17:3.21:10.参照、ヨブ12:10.32:8)」。

 

 主よ、神聖な霊とわたしたちの人の霊がミングリングされて一となることを感謝します。わたしたちの霊を活用して、主をさらに経験し、享受することができますように。

 

 

手順を経た三一の神と、再生された人とのミングリング

 

 ガラテヤ人への手紙第3章14節は、その霊が、わたしたちに与えられた福音の[すべてを包含し、すべてを含む]神聖な祝福の総合計、集大成であることを見せています。……そのような祝福は、贖い、再生、神聖な命、義、義認、聖別、造り変え、更新を含みます。……

 

 神聖な霊はわたしたちの中で生きて祈り、聖書を読み、神の言葉を語り、わたしたちの配偶者を愛し、罪人を訪問して福音を宣べ伝えられます。そのような生活は、手順を経た三一の神と、再生された三部分から成る人とのミングリングです。これが新約における神聖な啓示であり、ヨブの苦難に対する答え、また神が人を創造し、神が彼の選ばれた民を対処する目的に関する大いなる質問に対する答えです。(ヨブ記ライフスタディ、第16編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第4日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び(1) 第1週 4日)

 

復活の神を経験する

       

ピリピ3:8

しかしさらに、わたしはまた、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定します.その方のゆえに、わたしはすべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定します.それは、わたしがキリストを獲得するためであり。

 

 「この宇宙における苦難の主要な目的は、特に神の子供たちに関しては、苦難を通して神の性質が人の性質の中へと造り込まれ、最も満ち満ちた程度にまで人が神を獲得することです(Ⅱコリント1:8-9.4:16)」。

 

 主よ、苦難を通して神の性質をわたしたちの中に造り込んでください。わたしたちが生ける神を経験するだけでなく、苦難を通して復活の神を経験することができますように。

 

 

神の命と性質を造り込む

 

 神が働いているのは、外側の行為においてご自身の大能を知らせるためではなく、ご自身を人の中へと分け与え、造り込むためです。神は環境を用いて、ご自身の命と性質をわたしたちの中へと造り込みます(ガラテヤ4:19.Ⅱコリント4:7-12.Ⅰテサロニケ3:3.ヨハネ16:33)。(ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び(1)アウトライン)

 

 なぜわたしたちは生ける神と復活の神の区別を強調するのでしょうか? それは、生ける神が人のために多くの事を行なうことができても、生ける神の性質は人の性質とブレンディングされることはできないからです。もう一方で、復活の神が働くとき、彼の性質そのものが人の性質の中へと造り込まれます。……生ける神があなたのために……働いても、彼の性質から何もあなたに分け与えません。生ける神は人のために働くことができますが、生ける神の性質は人の性質と結合されることはできません。もう一方で、復活の神が働くとき、彼は人のために行なうことによって、ご自身を人に伝達します。(生ける神と復活の神、第3章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第3日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び(1) 第1週 3日)

                  

神をもって構成された神の人とする

 

ヨハネ10:10

……わたしが来たのは、羊が命を得、しかも豊かに得るためである。

 

Ⅰコリント15:45

……最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。

 

ローマ8:6

肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。

          

 「わたしたちは聖書を読むとき、神聖な分与のための神の永遠のエコノミーに注意を集中させる必要があります。……ヨブに対する神の意図は、ヨブを、神の神聖なエコノミーにしたがって、神をもって構成された神の人とすることでした」。

 

 主よ、わたしたちが、命の木から食べて、神で構成されますように。そして、わたしたちがキリストを生き、キリストを表現することができますように。

 

 

神聖な三一をもって再建する

 

 聖書は、開始としての創造における神で始まり、新エルサレムで終わります。新エルサレムは、三一の神と彼の選ばれ、贖われ、再生され、造り変えられ、同形化され、栄光化された三部分から成るすべての人とのミングリングです。新エルサレムは神と人の構成であって、神を永遠に表現します。・・・・ 

 

 ヨブと彼の三人の友、エリパズ、ビルダデ、ゾパルは、善悪知識の木の領域にいました。たとえヨブの水準が彼の友よりいくらか高くても、彼と彼らは依然として同じ領域にいたのです。神は彼らをその領域から救い出して、命の木の領域へと入れようとしておられました。神が行なわなければならなかった第一の事は、ヨブをはぎ取り、消耗させ、取り壊して、彼を苦難の下で何ものでもない人とならせることでした。これは、神がヨブを神聖な三一をもって再建する基礎となり、ヨブは新しい人、神の新創造の一部分となって、神の永遠のエコノミーを完成し、神を表現することができるためでした。(ヨブ記ライフスタディ、第9編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第2日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び(1) 第1週 2日)

 

神を獲得するために、はぎ取られる

 

エペソ3:9

それはまた、万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるかを、すべての人を照らして明らかにするためであり。

 

 「ヨブと彼の友は、ヨブが苦難を受けているのは神の裁きの事柄であると思いました。しかしながら、ヨブの苦難は神の裁きではなく、神が彼をはぎ取り、消耗し尽くすことでした。それは神がヨブを獲得し、ヨブが神をさらに獲得するためでした」。

 

 主よ、わたしたちが苦難を受け対処されるのは、主を獲得するためです。この神の心の願いを、さらに知ることができますように。

 

 

神ご自身を永遠の分け前として与える

 

 ヨブの三人の友は、神が彼の民を対処する目的について正しくありませんでした。なぜなら、彼らの観念は、善悪の原則、善悪知識の木に基づいていたからです。それは、主要な路線としての命の木のそばにある脇道です。……

 神は、彼の漸進的な啓示において、神が彼の民を対処する目的を、当時のヨブに明らかにされませんでした。しかしながら、神はこれを新約において、信者たちに明らかにされました。

 

 今日… 、神はわたしたちをはぎ取り消耗させることによってわたしたちを対処した後、また彼の目的が達成された後、わたしたちに彼の物質の祝福を与えられます。しかしながら、神が彼の民を対処する目的は、彼らに物質の祝福を与えることではなく、ご自身を彼らの永遠の分け前として与えることであり、この分け前は最終的に新エルサレムにおいて究極的に完成します(啓第21章―第22章)。(ヨブ記ライフスタディ、第30編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第1日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び(1) 第1週 1日)

 

神が彼の民を対処する目的は何でしょうか

 

ヨブ10:2,13

わたしは神に言おう、「…… なぜあなたがわたしと争われるのか、知らせてください」。 13 しかし、あなたはこれらの事を、あなたの心に秘めておかれました.わたしは、これがあなたと共にあるのを知っています。

 

 「ヨブ記の四十二の章は、わたしたちに大いなる質問を残します。この質問には二つの部分があります。すなわち、神が人を創造した目的は何でしょうか? そして神が彼の選ばれた民を対処する目的は何でしょうか?(ヨブ1:1.10:2後半,12-13.参照、11:12.13:4)」。

 

 主よ、なぜわたしたちに苦難があるのでしょう? 主よ、あなたの心に隠されていることを、わたしたちに開いて見せてください。

 

 

神の心に隠された奥義

 

 ヨブは、神が自分(ヨブ)が悪しき者でないことを知っていても、…… ヨブは、神が自分を対処する理由を見いだすことができませんでしたが、神の心には秘められたいくつかの理由があるに違いないと信じたということです。ヨブは正しかったのです。ある事が神の心に秘められていました。エペソ人への手紙第3章9節は、神の中に隠された奥義について告げています。この奥義は各時代の奥義です。(ヨブ記ライフスタディ、第8編)

 

 新約はヨブの質問に対する長い答えです。……神の心に隠された奥義は神の永遠のエコノミーであり(エペソ1:10.3:9.Ⅰテモテ1:4)、それは神の永遠の意図と彼の心の願いであって、それはご自身を彼の神聖な三一において、御父として、御子の中で、その霊によって彼の選ばれた人々の中へと分与して、彼らの命また性質とならせることです。それによって彼らは彼の複製として彼であるのと同じになり(ローマ8:29.Ⅰヨハネ3:2)、有機体、新しい人としてのキリストのからだとなり(エペソ2:15-16)、また神の豊満、神の表現となって(エペソ1:22-23.3:19)、新エルサレムにおいて究極的に完成します(啓21:2―22:5)。(ヨブ10:13、フットノート1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)