朝ごとの食物

エレミヤ書と哀歌 結晶の学び(2) 第4週 第4日~(3) 第8週 第6日

 

10月の祈り 第31日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第8週 第6日)

 

キリストの天の務めに応答する

 

ヘブル4:16

ですから、わたしたちがあわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に、恵みの御座に進み出ようではありませんか。

 

ヘブル10:22

……真実な心で、信仰の全き確信をもって、至聖所に進み出ようではありませんか。

 

「もしわたしたちが、新しい契約の中のすべての祝福の適用を受けようとするなら、キリストの天の務めに応答する者となる必要があります(ヘブル12:1-2.コロサイ3:1)」。

 

 主よ、今日わたしたちが恵みの御座に進み出ることができますように。そして、キリストの天の務めに応答する者とならせてください。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

天のキリストの天の務めにあずかる

 

 ヘブル人への手紙は幕の内側の天のキリストを見せた後、わたしたちに幕の内側に入るよう励ましています(ヘブル10:19-20、22)。幕の内側で、わたしたちは彼をひたすら見つめることができ(12:2)、彼をよくよく考えることができます(12:3.3:1)。わたしたちは[このようにして]、彼の浸透と注入を受けなければなりません。もちろん、わたしたちは、霊を活用してはじめて、これを行なうことができます。……わたしたちの霊は天の至聖所に結合されています。わたしたちは霊に戻り、霊を活用する時、幕の内側に入ります。ここでわたしたちは、天のキリストの天の務めにあずかります。ここでわたしたちは、すべての神聖な豊富で飽和され、浸透され、それはわたしたちを、神の表現のための神の長子の団体的な複製とします。ここでわたしたちは恵みを受け、力づけられて、営所の外に出て行き、十字架の道を主に従って行きます。(ヘブル人への手紙ライフスタディ、第57編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第30日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第8週 第5日)

 

心に書き記された新しい契約

 

エレミヤ31:33-34

しかし……契約はこれである……わたしはわたしの律法を彼らの内なる各部分に置き、それを彼らの心に書き記す.わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。……彼らのうちの小さな者から彼らのうちの大きな者まで、彼らはみなわたしを知るようになるからであると、エホバは告げられる.まことに、わたしは彼らの罪科を赦し、もはや彼らの罪を思い出さないからである。

 

「キリストは天の御座に座している昇天した方であり、彼が遺言としてわたしたちに遺贈した新しい契約を今や執行しており、わたしたちのためにとりなし、わたしたちに供給しています。それはわたしたちが、新しい遺言の中に含まれているすべての遺贈を認識し、経験し、享受するためです(ヘブル12:2.7:25.8:1-2)」。

 

 主よ、わたしたちに遺贈された新しい契約を感謝します。それは、いまわたしたちの心に書き記されています。わたしたちの認識と経験、享受を深めてください。このために、とりなしてくださっていることを感謝します。

 

 

新しい契約を新約全体の光の中で理解する

 

 わたしたちはエレミヤ書第31章31節から34節のこの短い一箇所を説明するために、新約の二十七巻の書すべてを必要とします。もしわたしたちが新約全体の光の中でこの部分を理解するなら、この新しい契約の中には、召会、神の王国、神の家族、わたしたちの霊の中にある神の住まいとしての神の家、新しい人、手順を経て究極的に完成された三一の神の豊満としてのキリストのからだがあることを、わたしたちは見ます。最終的に、この新しい契約は千年王国をもたらします。究極的な完成においては、新天新地の新エルサレムをもたらして、永遠へと至ります。(エレミヤ書ライフスタディ、第39編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第29日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第8週 第4日)

 

キリストが新しい契約とそのすべての祝福の実際である

 

エレミヤ31:31-32

見よ、その日々が来ようとしていると、エホバは告げられる.その時、わたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶ.その契約は、わたしが彼らの父祖を、その手を取ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと立てたようなものではない.わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはわたしの契約を破ったとエホバは告げられる。

 

「エレミヤ書は全聖書の要約です。エレミヤの預言が示している事は、キリストだけが神のエコノミーを成就することができ、キリストだけが神のエコノミーにおける神の要求に対する答えであるということです。エレミヤによって描写された絵は、わたしたちが無であることと、キリストがわたしたちにとってすべてであることを示しています」。

 

 主よ、あなたはご自身の血をもって新しい契約を制定してくださいました。わたしたちを贖って、神のすべてを受け継ぐようにしてくださったことを感謝します。あなたは新契約の実際です。主を賛美します。

 

 

新しい契約はキリストご自身です

 

 キリストは彼の血をもって新しい契約(それは新しい遺言、遺言書となりました)を制定し、神の民の違反を贖いました(マタイ26:28.ヘブル9:15)。…… 主は神の義の要求にしたがってわたしたちのために死なれ、彼が死を通して流した血は用いられて契約を形成しました。彼ご自身でさえ、主の食卓の杯は彼の血にある新しい契約の象徴であると言われました(Ⅰコリント11:25)。彼はわたしたちを神に贖い戻し、資格づけて神のすべてを受け継ぐようにしてくださいました。これが新しい契約です。実は、この新しい契約はキリストご自身です。復活において、キリストは新しい遺言の遺贈、仲保者、執行者となって、新しい遺言を執行されました(ヘブル9:15-17)。これは、キリストがその契約であることを暗示します。(イザヤ書ライフスタディ、第46編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第28日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第8週 第3日)

 

神と共に安息し、神を享受して神と一であるという「しるし」を持つ

 

出31:13

……あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない.それは、あなたがたの代々にわたる、わたしとあなたがたとの間のしるしであって、わたしがあなたがたを聖別するエホバであることを、あなたがたが知るためである。

 

「神の民としてのわたしたちが帯びなければならない「しるし」とは、わたしたちが神と共に安息しており、神を享受しており、まず神で満たされているということです。それから、わたしたちを満たしている方と共に、わたしたちは働きます。さらに、わたしたちは、神と一であることによって働き、働くための力また労苦するための活力としての神を持ちます(出31:13, 17)。

 

 主よ、わたしたちが神と共に安息して、神を享受し、神と一であるという「しるし」を持つことができますように。その時あなたは、わたしたちがあなたのために働く力、また労苦する活力です。主を賛美します。

 

 

安息日に関する基本的な学課を学ぶ

 

 わたしたちはみな安息日に関する基本的な学課を学ぶ必要があります。……安息日が意味するのは、わたしたちが神のために働く前に、神を享受し、彼で満たされる必要があるということです。わたしたちが神を享受したなら、そして神で満たされているなら、神のために働く用意ができています。そのような働きは、自分自身によるのではなく、神によります。……わたしたちが帯びるしるしとは何でしょうか? そのしるしとは、わたしたちが神と共に安息しており、神を享受しており、まず神で満たされているということです。それから、わたしたちを満たしている方と共にわたしたちは働きます。さらにまた、わたしたちは、神と共に働くだけでなく、神と一である者として働きます。(出エジプト記ライフスタディ、第172編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第27日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第8週 第2日)

 

神を享受した後に、神と共に働く

 

エレミヤ17:21-22

……あなたがたの魂に気をつけよ.安息日に何の荷も負わないようにし、エルサレムの城門を通って何も持ち込まないようにせよ。また、安息日には、どの荷もあなたがたの家から運び出してはならない.何の仕事もしてはならない.わたしがあなたがたの父祖に命じたように、安息日を聖別しなさい。

 

「人が創造されたのは、まず働くためではなく、神をもって満足し、神と共に安息するためでした。神聖な原則とは、わたしたちが神に対する満ち満ちた享受を持った後、神と共に働くことができるということです(参照、マタイ11:28-30)」。

 

 主よ、わたしたちがあなたを享受して、あなたで満たされますように。そうして、あなたと共に働くことができますように。この神聖な原則を感謝します。

 

 

主と共に安息して働く、神聖な原則

 

 [出エジプト記第31章12節から17節に]安息日に関するこの挿入が幕屋を建造する働きの命令に続くという事実が示すのは、主がこれらの建造する者、これらの働く者たちに、どのように主と共に安息するかを学ぶように告げていたということです。……もしわたしたちが、どのように主のために働くかを知っているだけで、どのように主と共に安息するかを知らなければ、わたしたちは神聖な原則に反して行動しているのです。

 わたしたちが享受を得るまで、神がわたしたちに働くことを求めないのは、神聖な原則です。・・・・・・

 この原則のとても良い例証が新約に見いだされます。……ペンテコステの日に……その霊が彼らの上に下って来て彼らを満たすまで、主は彼らに待つように告げていました。弟子たちはその霊で満たされたとき、……彼らは主の享受で満たされました。彼らがその霊で満たされたので、他の人は、彼らがぶどう酒で酔っているのだと思いました。実は、彼らは天のぶどう酒の享受で満たされていたのです。彼らはこの享受で満たされた後はじめて、神と共に働き始めました。これが神と共に働く道、神との一の中で働く道です。(出エジプト記ライフスタディ、第172編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第26日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第8週 第1日)

 

エレミヤ書における神のエコノミーと神の分与

 

エレミヤ17:7-8

エホバに信頼し、その信頼がエホバである者は幸いである。彼は水のほとりに移植された木のようになり、その根を川のそばに伸ばし、暑さが来ても恐れない.その葉は茂ったままで、干ばつの年にも心配することはなく、実を結ぶことをやめない。

 

「わたしたちは命において成長してキリストのからだを建造するために、神を吸収して、下に根を張り、上に向かって実を結ぶ必要があります(イザヤ37:31)。これが意味する事は、わたしたちは神との隠された交わりの時間を持つ必要があるということです(マタイ6:6.14:22-23)」。

 

 主よ、あなたは生ける水の源泉であることを感謝します。あなたを吸収してわたしたちの命が成長しますように。また、下に根をはり、上に向かって実を結ぶことができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

神が成長させてくださる

 

 エレミヤ書第17章7節から8節の思想は、コリント人への第一の手紙第3章6節の思想と同じです。そこにおいてパウロは言います、「わたしは植え、アポロは水を注ぎました.しかし、神が成長させてくださったのです」。水を注ぐことは、木が吸収するためです。そして吸収することは、神の分与を受けることです。木は、供給する方また供給としての神をもって生長します。供給は、植物としてのわたしたちの中へと分与された、供給する神の豊富です。それによってわたしたちは成長して、神の度量へと至ります。最終的に、植物と神、神と植物は、一となって、同じ要素、本質、構成、外観を持ちます。・・・・・・ わたしたちすべてが見る必要のある極めて重要な意義とは、わたしたちが生ける水としての神を吸収し、彼の要素と本質をもって構成されるということです。(エレミヤ書ライフスタディ、第16編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第24日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第7週 第6日)

 

主を待ち望む者は幸いである

 

哀3:25

エホバは彼を待ち望む者と、彼を求める魂に対してすばらしく善い。

 

イザヤ30:18

それゆえ、エホバは待っていて、あなたがたに恵み深くある.それゆえ、彼は高い所にとどまって、あなたがたに深く同情される.エホバは公正の神だからである.すべて彼を待ち望む者は幸いである。

 

「神は真で、生きており、あわれみ深く、信実ですが、彼の民を試みるために、しばしば彼の言葉を成就することを遅らせます(詩27:14.130:6.イザヤ8:17.30:18.64:4)」。

 

 主よ、あなたは信実な神です。わたしたちの困難な状況を知っておられ、恵み深いことを感謝します。自分自身が終わらされて、わたしたちが主を待ち望む学課を学ぶことができますように。

 

 

あわれみ深く、信実な神

 

 エレミヤの時代に、イスラエルの民の状態は良くありませんでした。神はそれほど愛し、親切で、あわれみ深く、信実であるようには見えませんでした。……わたしたちはエレミヤのように、神が依然としてわたしたちの分け前であること、わたしたちが彼を望み、彼を待ち望み、彼の御名を呼び求めるべきであることを認識する必要があります(哀3:55)。しかしながら、たとえわたしたちはこれらの事を行なっても、状況が直ちに変わることを期待すべきではありません。直ちに変わらないかもしれないので、わたしたちは続けて主を待ち望む必要があります。

 エレミヤの事例で、主を待ち望むことは実に長かったのです。復興の時代についての彼の予言の成就は、まだ来ていません。・・・・・・今日は究極的完成の時代ではありません。ですから、わたしたちは主を待ち望まなければなりません。(哀歌ライフスタディ、第2編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第23日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第7週 第5日)

 

エホバはわたしの分け前です

 

哀3:24

「エホバはわたしの分け前です」とわたしの魂は言う.それゆえ、わたしは彼を待ち望む。

 

詩73:26

わたしの肉と心は衰えますが、神は永遠にわたしの心の岩、わたしの分け前です。

 

「エレミヤはエホバを彼の分け前として享受し、自分自身や他の何をも待ち望んだのではなく、ただエホバを待ち望みました(哀3:24)。詩篇の作者は、神の聖なる所へと入り、自分の状況に対して神聖な見方と理解を持ったとき、神は永遠に自分の分け前であると言うことができました(詩73:17, 26)」。

 

 主よ、あなたがわたしたちの分け前であることを感謝します。わたしたちはこの世のものではなく、あなただけを待ち望むことができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

神を尋ね求める

 

 [詩篇第73篇2節から16節]は、神を尋ね求める詩篇の作者の苦難と困惑の記録です。2節は、……詩篇の作者が悪しき者の繁栄した状況に、ほとんどつまずいていたことを示します(3-12節)。……

 わたしたちは[詩篇第73篇]17節から28節で、詩篇の作者が神の聖なる所で解決を得たことを見ます。…… 今日、神の聖なる所はどこにあるのでしょうか? 第一に、神の聖なる所、彼の住居は、わたしたちの霊の中にあります。第二に、神の聖なる所は召会です。こうして、神の聖なる所へと行くために、わたしたちは霊に転向して、召会の集会に行く必要があります。いったんわたしたちが聖なる所、すなわち霊の中と召会の中にいるなら、悪しき者に関する状況に対して別の見方、特別な理解を持つでしょう。…・・

 25節は、神を純粋に尋ね求める者が、神を天における彼の唯一の所有、また地で唯一の慕うものとしていることを啓示しています。神は詩篇の作者の唯一の目標でした。詩篇の作者は、神と彼を獲得すること以外、何も顧みませんでした。(詩篇ライフスタディ(2)、第30編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第22日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第7週 第4日)

 

エホバの慈愛

 

哀3:22-23

わたしたちが滅ぼされないのは、エホバの慈愛である.まことに、彼のあわれみは尽きることがないからだ.それらは朝ごとに新しい.「あなたの信実は偉大です」。

 

「エホバの慈愛は尊く、永存し、天よりも高く、神の建造の隅の石としてのキリストに導きます(詩36:7, 9-10.108:4.118:1-4, 22-29.136:1, 26)」。

 

 主よ、わたしたちが朝ごとに新鮮な主にあずかることができるのは、あなたのあわれみです。わたしたちは何度も失敗しましたが、あなたの慈愛は永遠であることを感謝します。

 

 

神のあわれみは尽きることがない

 

 神はどれほどイスラエルを懲らしめても、彼らを完全に消滅させることをしませんでした。エレミヤと他の多くの人は残りました。これは神の慈愛でした。イスラエルの民は失敗しましたが、神のあわれみは尽きることがありませんでした。彼のあわれみはイスラエルの残された者[レムナント]を守り、神のエコノミーを完成するようにしました。エレミヤ第23章5節から6節と6節のフットノート3を参照。(哀歌3:22のフットノート1)

 

エホバの慈愛を深く思う

 

 詩篇の作者はエホバに言いました、「わたしは、あなたの満ちあふれる慈愛の中で、あなたの家に入ります」(詩5:7)。シオンの山の宮に入る特権を持っている者はみな、神の慈愛の下にいなければなりませんでした。実は、宮そのものに入ることは、神の満ちあふれる慈愛を享受することでした。エホバの宮のただ中でエホバの慈愛を深く思うことは、わたしたちが召会の中で彼の慈愛に触れることを示しています。(エレミヤ書と哀歌 結晶の学び(3)第7週、アウトライン)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第21日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第7週 第3日)

 

あなたの御座は代々に至ります

 

哀5:19

エホバよ、あなたは永遠にいまし、あなたの御座は代々に至ります。

 

詩45:6

神よ、あなたの御座は永遠であり、あなたの王国の王の杖は公正の王の杖です。

 

「エルサレムは覆され、宮は焼かれ、神の民は連れ去られましたが、エホバ、宇宙の主はなおも彼の行政を執行しています。人の領域で、変化はあらゆる面で起こりますが、神の永遠の存在に変化はありません。神は永遠に同じままです」。

 

 主よ、わたしたちの人生は、平穏で満ち足りているときもありますが、それはまた変化するものです。その味わいが変わり、過ぎ去ってしまいます。しかし、主よあなたは永遠にいまし、あなたの御座は永遠に変わりません。ハレルヤ、主を賛美します。

 

 

神のパースンと神の御座に触れる

 

 新約によれば、神の救いは彼の愛(ヨハネ3:16)、彼の恵み(エペソ2:8)、彼の義(ローマ1:17)の事柄です。神の愛と恵みは変わるかもしれませんが、神の義は変わることができません。なぜなら彼の義は、彼の行政と関係があるからです(詩89:14)。愛と恵みはいずれも神の心と関係があります。神の心は変わるかもしれませんが、彼は依然として義です。神の義は変わることができません。なぜなら、彼は常に義でなければならないからです。

 エレミヤは哀歌を神の慈愛、あわれみ、信実をもってではなく、神の永遠の存在と彼の御座をもって終えました。これは、エレミヤが哀歌を書いたとき、神のエコノミーに触れたという有力なしるしです。彼の哀歌はあまりにも彼の人の感情、味わい、愛、思いやりの中にありましたが、最後に彼は人であることから出て来て、神の神性の中へと入りました。哀歌、第5章19節で彼は、神のパースンと神の御座に触れたのです。

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第20日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第7週 第2日)

 

万軍のエホバ.彼こそ栄光の王

 

詩24:9-10

城門よ、あなたがたの頭を上げよ.長く耐え忍ぶ戸よ、上げよ.栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか? 万軍のエホバ.彼こそ栄光の王!セラ

 

  「万軍のエホバ」という称号は、エホバ・神が大能者、天の全軍の主、全軍を統帥する方であることを示します(エレミヤ20:12.30:8.48:1.50:18.列王上22:19)。

 

 主よ、万軍のエホバよ、あなたは栄光の王です。栄光の王よ、来てください。そして、全地を所有して王国をもたらしてください。あなたが地に戻って来られる前に、わたしたちの召会に入って来てください。わたしたちの心の中に来て、わたしたちを完全に得てください。主を賛美します。

 

 

栄光の王が入って来られる

 

 詩篇第24篇の背景にはシオンの山がありましたが、契約の箱は失われていました。今や契約の箱が入って来ます。キリストが入って来られます。契約の箱が入って来るとき、ダビデは言いました、「城門よ、あなたがたの頭を上げよ.長く耐え忍ぶ戸よ、上げられよ.栄光の王が入って来られる」[7節]。わたしたちはシオンの山におり、地方召会であるかもしれませんが、栄光の王はそれほど完全にはその内側におられません。わたしたちは開かれる必要があり、上げられて、あらゆる方法で栄光の王に入って来ていただく必要があります。その時、召会は、主が戻って来て地を所有するための踏み石、足がかりとなるでしょう。(リー全集、1969年、第3巻(上)、「詩篇において啓示され予表されたキリストと召会」、第5編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第19日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(3) 第7週 第1日)

 

永遠の神であるエホバの慈愛、あわれみ、信実において彼を認識する

 

エレミヤ10:10

しかし、エホバは真の神である.彼こそ、生ける神、永遠の王である。……

 

出3:14

神はモーセに言われた、「わたしは、『わたしはある』である」。また彼は言われた、「イスラエルの子たちにこう言いなさい、『「わたしはある」が、わたしをあなたがたに遣わされた』」。

 

「エホバ」は、「わたしは、『わたしはある』である」を意味し、エホバが永遠の方、すなわち過去におられ、今おられ、未来の永遠におられる方であることを示します(出3:14.啓1:4)。

 

 主よ、あなたは真の神、生ける神です。そして、「わたしはある」という方です。主よ、わたしたちの必要とするすべてのものの実際はあなたです。主に感謝します。

 

 

「エホバ」は、「わたしはある」方である

 

 「わたしはある」として、神はわたしたちが必要とするすべてです。「わたしはある」という言葉に、わたしたちが必要とするものを何でも加えることができます。あなたは疲れているでしょうか? 「わたしはある」はあなたの安息です。あなたは飢えているでしょうか? 彼はあなたの食物です。あなたは死にかかっているでしょうか? 彼は命です。新約で、主は多くのものを用いてご自身を記述しておられます。「わたしはまことのぶどうの木であり」(ヨハネ15:1)、「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)、「わたしは……光である」(ヨハネ8:12)。「わたしはある」として、神はあらゆるもの、すなわち天、地、空気、水、木、鳥、家畜です。これは汎神論、神を物質の宇宙と同一視する宗教的信仰ではありません。わたしはあらゆるものが神であると言っているのではなく、神はすべての積極的なものの実際であると宣言しているのです。(出エジプト記ライフスタディ(1)、第5編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


10月の祈り 第17日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第6週 第6日)

 

ダビデのために義なる若枝を起こす

 

エレミヤ23:5-6 ……わたしはダビデのために義なる若枝を起こす.……『エホバわたしたちの義』、これが、彼が呼ばれる彼の名である。

 

「わたしたちは神と一になるために、キリストをわたしたちの贖いまた義認となるダビデの若枝として必要とします」。

 

 主よ、あなたは義なる若枝となられたことを感謝します。わたしたちの贖いとなり、義認となってくださいました。いま、三一の神がわたしたちの中へと入ってきて、わたしたちの命、パースン、すべてとなられたことを感謝します。

 

 

三一の神をわたしたちの中へともたす、新しい契約

 

 エレミヤ書は歴史的な順序にしたがって書かれたのではありませんが、この書には確かに霊的な順序があります。まずエレミヤはわたしたちに、神の民の基本的な罪、すなわち神を捨て、自分の水ためを掘ることを示します。次に、人の心が偽り、いやされることがないものであることが徐々に暴露されます。わたしたちは悪く望みがなく、変えることができない堕落した性質を持っています。わたしたちは神と一になるために、キリストをわたしたちの贖いまた義認となるダビデの若枝として必要とします。この事は、三一の神をわたしたちの中へともたらして、わたしたちの命、わたしたちの内なる命の法則、わたしたちの能力、わたしたちのすべてとならせます。これが新しい契約です(エレミヤ31:33)。(エレミヤ書ライフスタディ、第32編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第16日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第6週 第5日)

 

主の臨在を持ち、主と一になる

 

Ⅱコリント2:10 ……何かの事であなたがたが赦す人を、わたしも赦します.なぜなら、もしわたしが何かを赦したとしたら、わたしの赦したことは、あなたがたのためにキリストの御前で赦したからです.

 

「もしわたしたちが主の臨在を持ち、主と一になるなら、知恵、洞察力、先見性、事物に関する内なる認識を持つようになります。主の臨在は、わたしたちにとってすべてです(ローマ8:4.Ⅱコリント2:10.ガラテヤ5:16、25)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたの臨在がいつもわたしたちにありますように。主よ、あなたの御顔の輝きが内側にありますように。主に感謝します。

 

 

キリストの臨在の中で生き、行動した人

 

  [Ⅱコリント2:10キリストの御前]は、文字どおりには、顔の中で。Ⅱコリント第4章6節でも同じです。目の周りの部分を言っています。表情は、内側の思想や感覚の表示であって、その人全体を表明し、現します。これが示していることは、使徒が、キリストの目に表されているキリストのパースン全体の表示にしたがって、キリストの臨在の中で生き、行動した人であったということです。……ですからこの書[Ⅱコリント]は、ある程度まで彼の自叙伝と考えられます。わたしたちがこの自叙伝の中で見るのは、第一の手紙でキリストについて書いた事にしたがってキリストを生き、キリストと最も親しく親密な接触を持ち、キリストの目の表示にしたがって行動した人です。また、キリストと一であり、キリストに満ちており、キリストで浸透された人です。(Ⅱコリント2:10のフットノート3)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第15日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第6週 第4日)

 

キリストの卓越した価値を見る

 

エレミヤ15:19 それゆえ、エホバはこう言われる……もし、あなたが価値のないことを言わず、尊いことを言い出すなら、あなたはわたしの口のようになる……。

 

「わたしたちは、心の目が照らされて、キリストの卓越性、無上の価値、超越した価値を、ご自身の信者たちにとっての尊さとして見て、キリストを獲得し、キリスト以外のすべての事を損失であると勘定する必要があります(ピリピ3:7-8.Ⅰペテロ2:7, 参照、4, 6節)」。

 

 主よ、わたしたちのこころの目を照らして、開いてください。あなたがどんなに尊いのか、その価値を見ることができますように。わたしたちの価値観を変えてください。あなたを選択し、あなたを獲得することができますように。主のあわれみが豊かにありますように。

 

 

パウロの価値観の変化

 

 [ピリピ人への手紙第3章7節から8節によれば]、わたしたちは……パウロの価値観に変化があったことを見ます。彼にとって益であった事柄を、彼はキリストのゆえに損失と勘定しました。なぜパウロは、彼にとって益であった事柄を拒絶することができたのでしょうか? 彼はキリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、それらを損失と考えることができました。パウロは神が油塗られた方を、主、王、最も卓越した方と考えました。キリストのゆえに、彼はすべてのことで損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定しました。これが、クリスチャンに起こる評価の変化というものです。

 エレミヤ書第15章19節は、もしわたしたちが価値のないことを言わず、尊いことを言い出すなら、わたしたちは神の口のようになると[言い]ます。もしわたしたちが物事の正しい価値がわからないなら、神はわたしたちを拒絶し、わたしたちを投げ捨てるでしょう。……わたしたちは、価値観のそのような変化の重要性を見なければなりません。どうか主がわたしたちに光を与えてくださり、わたしたちの価値観に徹底的な変化があり、わたしたちが最も卓越した分け前を選択することができますように。(ニー全集、第60巻、第45編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第14日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第6週 第3日)

 

命の木から食べて神と一になる

 

創2:8-9 ……そして彼は……人をそこに置かれた。エホバ・神はその土地から、見て喜ばしく、食べるのに良い、すべての木を生えさせ、さらに園の中央に命の木……を生えさせられた。

 

「神は人を命の木の前に置きました。この事が示しているのは、神が人と一になるという願い、すなわち、神が人の命、命の供給、すべてとなるという願いです(創2:8-9)」。

 

 主よ、命の木から食べて、神と一になる道を感謝します。主よ、あなたが語る言葉は霊であり命です。今日、霊を活用してあなたの言葉を食べることができますように。主を賛美します。

 

 

神は命の木の前に人を置かれた

 

 神は人を創造した後、命としての神を表徴する命の木の前に人を置かれました。神はこうすることによって、人が他の何ものでもなく、命の木にあずかることを、ご自身が願っていたことを示しておられました。命の木にあずかることは、神をわたしたちの唯一の源、またわたしたちのあらゆるものの源とすることです。(エレミヤ書ライフスタディ、第32編)

 

命の木を食べることは主要な事柄である

 

 命の木を食べること、すなわち、キリストをわたしたちの命の供給として享受することは、召会生活における主要な事柄であるべきです。キリストを食べることによってキリストを受け入れることは、有機的に、また新陳代謝的に、キリストをわたしたちの存在の中へと吸収することであり、ご自身とわたしたちとをミングリングすることです(啓2:7.ヨハネ6:57, 63)。(エレミヤ書と哀歌の結晶の学び(2)、第6週アウトライン)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第13日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第6週 第2日)

 

神・人の生活をする

 

啓示録4:3 座している方は、碧玉や赤めのうのようであり……。

 

啓示録21:11 それは神の栄光を持っていた。その光は最も尊い宝石のようであり、水晶のように透明な碧玉のようであった。

 

「最終的に、神・人たちは勝利を得る者、勝利者、エルサレムの内側のシオンとなります。わたしたちの日常生活のすべての詳細において神・人の生活をすることは、歴史上決して見られたことのない、新しい復興をもたらします。この事は、この時代を終結させます――詩篇48:2とフットノート1を読んでください」。

 

 主イエスよ、わたしたちが毎日、主イエスを食べて、主と同じかたちへと造り変えられますように。神・人の生活をすることができますように。新エルサレムの碧玉のようになりますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

最終的に、神と人は、碧玉の外観を持つようになる

 

 新エルサレムの光は、啓示録第21章によれば、最も尊い宝石のようであり、碧玉のようです(11節後半)。城壁は碧玉で築かれており、城壁の第一の土台も碧玉です(18節前半, 19節)。城壁は碧玉であり、城壁の第一の土台は碧玉であり、都の光は碧玉であり、御座に座しておられる神は碧玉のようです。最終的に、神と人、人と神はすべて、碧玉の外観を持つようになります。これが聖書の結論です。聖書の究極的完成は、新エルサレム、すなわち神性と人性とのミングリングです。神性は人性の住まいとなり、人性は神性のホームとなります。この都において、神の栄光は人の中で、輝かしく、また光り輝いて現されます。その時、わたしたちはそこにいるでしょう。今、わたしたちはその途上にあります。わたしたちは、神(碧玉)と同じように見える「神の一部分」とされる過程にあります。(歴代志上・下ライフスタディ、メッセージ4、13)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第12日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第6週 第1日)

 

神と一になることの原則

 

 創1:26 神は言われた、「われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう……。

 

使徒7:56 彼は言った、「見よ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。

 

「神が人と一になり、人が神と一になるという神の願いは、神と人がかたちと姿において似ていることに見ることができます。神が創造したものは、ご自身の種類、すなわち、神の種類にしたがっていました。神は命の息を人に与えて、霊を創造しました。それは、人が神と接触し、神を受け入れるためです(創1:24-26.2:7)」。

 

 主よ、神と人が一になるという神の願いを感謝します。わたしたちが神と接触し、神を受け入れるために、わたしたちの中に霊を創造してくださいました。命の木としてのあなたを食べて、あなたとさらに一になりますように。主を賛美します。

 

 

人は、神のかたちを持つ、神の種類

 

 創世記第1章26節は、人は神の種類にしたがっていることを示しています。この節は言います、「われわれ[神聖な三一]のかたちに、われわれの姿にしたがって人(ヘブル語、「アダム」、赤い土くれを意味する)を造ろう」。このゆえに、神がここで造られたものは、ご自身の種類、すなわち、神の種類にしたがっていました。…… 神は赤い土くれからご自身のかたちに、ご自身の姿にしたがって何かを創造されたのです。

 神のかたちを持つ、この赤い土くれから造られたものは、神のように見えました。少なくとも、わたしたちはこの土くれが神の種類にしたがって造られた神の型であったと言うことができます。ですから、それは神の種類でした。

(歴代志上・下ライフスタディ、メッセージ13)

 

               

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第10日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第5週 第6日)

 

土の器の中の宝は、イエス・キリストの御顔です

 

Ⅱコリント3:18

しかし、わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです。

 

Ⅱコリント4:7

わたしたちはこの宝を土の器の中に持っています。

 

「わたしたちはこの宝を、すなわち、栄光の神としてのキリストを、土の器であるわたしたちの内側に住まわせています。わたしたちに内住している「この宝」は、「イエス・キリストの御顔」、キリストの臨在、「キリストの御前(原文は御顔)」(Ⅱコリント2:10)です」。

 

 わたしたちは土の器ですが、この中に宝があることを感謝します。この宝であるイエス・キリストの御顔をいつも見つめさせてください。栄光から、栄光へと主と同じかたちへと造り変えてください。主の恵みが豊かにありますように。 

 

イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を、輝かせてくださる

 

 コリント人への第二の手紙第4章7節のかぎは、その前の節です、「イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を、輝かせてくださったからです」(6節)。ギリシャ語で、「御顔」という言葉は、コリント人への第二の手紙第2章10節の「御前」に用いられているのと同じ言葉です。それは、目の周りの表示を意味します。これは、もしわたしたちがイエスの御顔の表示を持たないなら、彼は決してわたしたちにとって宝ではあり得ないことを意味します。わたしたちはイエスの御顔を見るまで、内側に宝を持っているとは決して感じないでしょう。わたしたちは彼の臨在を享受しているとき、彼がわたしたちの内側のそのような尊い宝であると感じます。……

 これは個人的な経験と享受のことです。わたしたちは彼の御前で生きれば生きるほど、ますますイエスの尊さに対する感覚を持つでしょう。これが彼の内住を享受することです。(リー全集、1973-1974年、第1巻(下)、「新約正典の中の内住のキリスト」、第10編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第9日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第5週 第5日)

 

神のあわれみ深い慈しみのゆえに賛美し礼拝します

 

ルカ1:78

わたしたちの神のあわれみ深い慈しみのゆえに、昇る太陽が高い所からわたしたちを訪れ、

 

ヘブル4:16

「ですから、わたしたちがあわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に、恵みの御座に進み出ようではありませんか」( 参照、ヘブル4:15.ルカ15:20-24)。

 

「父なる神はご自身の主権において、わたしたちをあわれみました。ですから、わたしたちは、父なる神の主権あるあわれみのゆえに、彼を賛美し、礼拝しなければなりません」。

 

 御父よ、あなたのあわれみと恵み、慈愛を、わたしたちは味わいました。感謝します。あなたのあわれみは、あなたの臨在と御顔をわたしたちにもたらします。あなたのあわれみのゆえに、今あなたを礼拝し、賛美し、ほめたたえます――(詩歌23番3節より)。

 

主のあわれみのゆえに、主に感謝し祈ります

 

 もしあなたが神の選びのゆえに神を礼拝するなら、責任を担うことで彼があなたを担われます。わたしたちは自分で責任を担おうとすればするほど、ますます内側で苦しむでしょう。わたしたちの内側の味わいは、苦いものとなるでしょう。しかし主のあわれみのゆえに主を礼拝し、責任を担うことで彼がわたしたちを担われることを経験するなら、わたしたちの内側の味わいは、蜜のように甘くなるでしょう。わたしが日ごとに幸いである一つの理由は、わたしが主のあわれみに信頼し、そのゆえに彼を礼拝することを学んだからです。何年も前、わたしはよく、自分のために多くの事をしてくださるよう主に求めました。しかし今では、彼のあわれみのゆえに彼に感謝することによって祈ります。彼はあわれもうとする者をあわれみ、慈しもうとする者を慈しむと言われました。主のあわれみを享受し、彼の選びのゆえに彼を礼拝するなら、わたしたちは天上にいるでしょう。(ローマ人への手紙ライフスタディ、第58編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第8日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第5週 第4日)

 

あわれもうとする者をあわれむ神

 

ローマ9:15-16

なぜなら、彼はモーセに言っておられるからです、「わたしは自分があわれもうとする者をあわれみ、慈しもうとする者を慈しむ」。ですから、それは人が決意することによるのではなく、走ることによるのでもなく、神があわれみを示されることによるのです。

 

「もしわたしたちが神の新約エコノミーにおいて神に仕えたいなら、この事が完全に、神の主権あるあわれみの事柄であることを認識する必要があります(ローマ9:15-16.ヘブル4:16)」。

 

 主よ、あなたはあわれもうとする者をあわれむ神であることを感謝します。神の主権あるあわれみの中で、わたしたちは選ばれ、救われて、召会生活をしています。主を賛美します。さらに、主を愛させてください。

 

すべては神のあわれみである

 

 パウロがローマ人への手紙第9章を書いていた時、彼の思いは完全に神のあわれみによって占有されていました[参照、16節]。……わたしたちが信者であること、そして召会生活の中にいることは、完全に神のあわれみによります。すべては神のあわれみであるので、わたしたちには何の誇るものもありません。……尊い栄光のあわれみの器として、わたしたちは主権あるあわれみにしたがって神に選ばれました(ローマ9:11-16)。

 「主権あるあわれみ」という表現が意味するのは、神のあわれみが完全に、神の主権の事柄であるということです。あわれみの器であることは、わたしたちの選択の結果ではありません。その起源は神の主権です。わたしたちが彼ご自身を内容とするあわれみの器として創造されたことは、神の主権から出たことです。神の主権が、彼の選びの基礎です。(新約の結論(7)、メッセージ110, 10)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第7日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第5週 第3日)

 

あわれみに富んでおられる神

 

エペソ2:1,4

ところであなたがたは、自分の違犯と罪の中に死んでいて、…… 4 しかし、あわれみに富んでおられる神は、わたしたちを愛してくださった彼の大きな愛のゆえに、

 

ヘブル4:16

ですから、わたしたちがあわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に、恵みの御座に進み出ようではありませんか。

 

「神はわたしたちの陶器師として、ご自身の主権において権威を持っており、ご自身が選び召した者たちを、尊い栄光のあわれみの器とします(ローマ9:11, 18, 21-24)」。

 

 主よ、わたしたちは不従順でしたが、神のあわれみによって救われたことを感謝します。神のあわれみを受けて、いつも恵みの御座に進み出ることができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

神の恵みにあずからせるのは、常に神のあわれみです

 

 あわれみは神の属性のうちで、最も遠くに到達するものです。あわれみは恵みより遠くまで到達します。神の愛は神の恵みほど遠くへは到達しませんし、神の恵みは神のあわれみほど遠くへは到達しません。……わたしたちは自分の天然の状態によれば、神から遠く離れており、神の恵みに全くふさわしくありませんでした。わたしたちは神のあわれみを受けるのにふさわしいだけでした。…… 

 わたしたちの所にまで到達したのは神のあわれみです。わたしたちのうちだれ一人として、神の恵みにふさわしい状況にいる人はいませんでした。……神のあわれみはわたしたちを神の恵みの中にもたらしてくださいました。わたしたちはどれほどこのことを認識し、彼のあわれみのゆえに神を礼拝する必要があることでしょう! 救われて、神の命の豊富にあずかった後でさえ、わたしたちは依然としていくつかの点で、神のあわれみを必要とする状況の下にあります。こういうわけで、ヘブル人への手紙第4章16節は、まずわたしたちはあわれみを受ける必要があり、次に時機を得た助けとなる恵みを見いだすことができると言います。おお、何とわたしたちは神のあわれみを必要とすることでしょう! わたしたちは神の恵みを評価するのと同じほど彼のあわれみを尊ぶべきです。わたしたちを資格づけて神の恵みにあずからせるのは、常に神のあわれみです。(新約の結論(1)、メッセージ10)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第6日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第5週 第2日)

 

主は、飢えている者を良いもので満たす

 

使徒9:15

……この人は、わたしの名を異邦人、王たち、イスラエルの子たちの前で担うわたしの選びの器である。

 

ルカ1:53

彼は、飢えている者を良いもので満たし、富んでいる者をむなしく帰されました。

 

「人を創造することにおける神の目的は、人を神の器、土くれの容器とし、人が命であるキリストを内容として、彼で満たされるようにして、神の偉大な団体の器としてのキリストのからだを建造し、ご自身の表現を得させることでした(創2:7.使徒9:15.ローマ9:21, 23.Ⅱコリント4:7)」。

 

 主よ、わたしたちは、あなたの選びの器とされました。主を内容とし、主で満たされますように。絶えず空にされて、主に開き続けることができますように。

 

 

霊的な進歩は、絶えず空にされ、絶えず満たされることです

 

 聖霊の最初の働きは、わたしたちに不満足な感覚を与えて、……さらに良くなりたいという願いを起こさせることです。……これが霊の進歩の始まりです。別の言い方をすれば、すべての失敗と衰退は自己満足の結果です。……自分に満足しない感覚は、聖霊がわたしたちの中でご自身の働きを始められたことを示すものであり、それはわたしたちが前進する時です。……衰退は自己満足から始まります。進歩は飢え渇きから始まります。これは一つの事実であり、わたしたちのクリスチャン生活の全行程においてそうです。例外なしに、まず聖霊はわたしたちの内側にさらに切なる願いを起こし、次に神は来られて、わたしたちを満足させ、わたしたちを満たされます。神は彼の満たす働きをするために、まず空にする働きを行なわれなければなりません。わたしたちが空になる時に神は満たされるのです。

 これは主がわたしたちに見せてくださった原則です。すなわち、霊的な進歩は、絶えず空にされ、絶えず満たされることです。……一度、空にされたので、もう空になる必要がないと考えてはなりません。わたしたちの内の十字架の働きは絶えず増し加わり、絶えず深まりゆくものです。(ニー全集、第37巻、第22編)

 

 

 (JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第5日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第5週 第1日)

 

陶器師としての神の主権のビジョンを見る

 

エレミヤ18:6

イスラエルの家よ、この陶器師が行なうように、わたしはあなたがたに行なうことができないだろうか? エホバは告げられる。見よ、粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。

 

「わたしたちの主権ある陶器師としての神は、ご自身の陶器としてのわたしたちに対して完全な権利を持っています。わたしたちが神の主権のビジョンを見ることは極めて重要です(エレミヤ18:1-10.イザヤ64:8.ダニエル4:3, 34-35.ローマ9:19-23)」。

 

 主よ、あなたのあわれみを感謝します。わたしたちを、あなたを入れる神の器としてくださいました。主よ、さらに神の主権を認識することができますように。

 

陶器師として神は主権者です

 

 ローマ人への手紙第9章20節と21節で、「主権者」や「主権」という言葉は使われていませんが、これらの節は確かに神の主権に言及しています、「しかし人よ、あなたは何者なので、神に口答えするのですか? 形造られたものが、それを形造った者に向かって、『なぜあなたは、わたしをこのように造ったのか?』と言えるでしょうか? それとも陶器師は土くれに対して、同じかたまりから一つを尊い器に、もう一つを卑しい器に、造る権威を持っていないのですか?」。わたしたちはみな自分が何者であるのかを認識する必要があります。わたしたちは神の被造物であり、神はわたしたちの創造主です。わたしたちは神の被造物として、彼の定められた御旨に逆らうべきでなく(19節)、また創造主である彼に口答えすべきではありません。……それからパウロは、陶器師としての神が土くれに対して、同じかたまりから一つを尊い器に、もう一つを卑しい器に造る権威を持っていることを続けて指摘します。神は陶器師であり、わたしたちは土くれです。陶器師として神は主権者です。神は粘土に対して権威を持っています。もし神が願うなら、神は一つを尊い器に、もう一つを卑しい器に造ることができます。これはわたしたちの選択にはよらず、神の主権によります。(新約の結論(1)、メッセージ11)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第3日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第4週 第6日)

 

心の中に、ご自身のホームを造る

 

エペソ3:16-17

力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように.またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.……

 

「わたしたちは、キリストの言をわたしたちの内に住まわせる必要があります。それは、わたしたちが、わたしたちの内側で活動している、またキリストの豊富をわたしたちの存在の中へと供給している神の言葉の機能を経験するためです(エペソ3:8)」。

 

 主よ、あなたの言葉をわたしの内で第一とすることができますように。信仰を通して、わたしたちの心の中に主のホームを造ってください。

 

神の言葉に第一位を与える必要があります

 

 わたしたちはみな、多くの時、主の言葉がわたしたちに来ているのに、内側に十分な余地を与えなかったことを告白しなければなりません。かえって、わたしたちは神の言葉を制限し、抑制しました。ときどき神の言葉を受けますが、それに、わたしたちの中にホームを造る自由を与えていません。…時には、わたしたちはキリストの言葉を首位とし、それを第一にならせます。しかしながら、それよりもさらに多くの時、わたしたち自身が第一です。…ひそかな方法で、わたしたちは自己のために第一位を保ちます。外側では、第一位は神の言葉のために保たれているかのように行動するかもしれません。しかしひそかに、第一位はわたしたちのためであるのです。

 

 わたしたちは、キリストの裁定する平安がわたしたちを一の中に保って、主がわたしたちに語ってくださることを必要とします。そしてわたしたちは、神の言葉に第一位を与える必要があります。こうするなら、わたしたちは神の言葉の機能を経験するでしょう。それは、照らし、養い、わたしたちの渇きをいやし、強め、洗い、建造し、完成し、成就します。わたしたちは神の言葉から何という益を受けることでしょう!(コロサイ人への手紙ライフスタディ(3)、第64編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第2日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第4週 第5日)

 

キリストの言を豊かに住まわせる

 

コロサイ3:16

知恵を尽くして、キリストの言をあなたがたの内に豊かに住まわせ、詩と詩歌と霊の歌とをもって、互いに教え戒め合い、恵みをもって、心から神に向かって歌いなさい。

 

「パウロは、キリストの言を人格化していると言ってもよいでしょう。パウロは、この言葉を、生けるパースンであるかのように、わたしたちの内に住まわせるようにとわたしたちに告げています(コロサイ3:16.参照、エペソ3:17)。

 

 主よ、あなたが語られた言葉を感謝します。御言を豊かに内に住まわせることができますように。わたしたちの生活が、詩と詩歌と霊の歌で満ちあふれますように。主を賛美します。

 

知恵を尽くして、キリストの言を豊かに住まわせる

 

 [コロサイ3:16の言は]、 キリストによって語られた言葉です。神の新約エコノミーにおいて、神は御子の中で語られます。御子は、福音書の中でご自身によってだけでなく、使徒行伝、書簡、啓示録の中で、彼の肢体、使徒たちと預言者たちを通して語られます。これらすべての語りかけは、彼(キリスト)の言葉と考えることができます。

 

 コロサイ3章16節では、賛美と歌となってあふれ出る霊の命の満たしは、言葉と関係があります。しかし、ここと類似している節であるエペソ人への手紙第5章18節から20節では、霊の命の満たしはその霊と関係があります。これは、言葉がその霊であることを示しています(ヨハネ6:63後半)。正常なクリスチャン生活は、言葉で満たされており、その霊が信者たちの内側から、賛美と歌のしらべとなってわき上がってくる生活です。

 

 コロサイ書の中心は、わたしたちのかしらと命であるキリストです。彼がご自身の頭首権を行使し、彼の豊富をわたしたちに供給する道は、彼の言葉を通してです。ですから、強調点はキリストの言葉にあります。エペソ人への手紙は、キリストのからだとしての召会に関するものです。わたしたちが正常な召会生活を生きる道は、霊の中で満たされて、神の全豊満へと至ることです。ですから、その霊が強調されています。(コロサイ3:16のフットノート1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第1日

(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第4週 第4日)

 

栄光に満ちた喜びをもって歓喜する

 

エレミヤ15:16

あなたの言葉はわたしにとって、心の楽しみ、また喜びとなりました.

 

ヨハネ15:11

これらの事をあなたがたに語ったのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

 

Ⅰペテロ1:8

あなたがたは、その方を見たこともないのに愛しており、その方を今、見ていないのになお信じており、言葉では言い尽くせない、栄光に満ちた喜びをもって歓喜しています。

 

「エレミヤは他のすべての預言者たちよりも苦しみましたが、神の言葉を見いだして、それを食べたときはいつでも、彼の心の中で楽しみ、また喜びを持ちました(エレミヤ15:16」。

 

 聖書には命を供給する能力があることを感謝します。神の言葉を食べて、喜びと満足を味わうができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 神の言葉を食べた後に、供給されて楽しみと喜びとなる

 

 エレミヤは神の言葉を見いだしたとき、それを聞いただけでなく、それを食物として食べました[参照、エレミヤ15:16]。彼は神の言葉を食べた後、直ちに内側が供給され、楽しみと喜びを感じました。

  わたしたちは主の言葉を食べるとき、霊的に新鮮にされます。命を供給する能力がある本は一冊もこの世にありません。聖書だけがそのような能力を持っています。なぜなら、聖書の言葉はその霊を伝達し、神は言葉の中に具体化されているからです。多くの信者たちは、神の言葉によって供給されてきました。神の言葉は人を供給する能力を持つだけでなく、また人を完全に変えることができます。わたしたちが食べる食物がわたしたちの命を支え、わたしたちを健康にし、わたしたちの構成要素を変えるように、言葉はわたしたちを喜ばせ、満足させるだけでなく、またわたしたちを主のかたちへと徐々に造り変えていきます。(どのようにして神は人の享受となるのか、第4章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)