朝ごとの食物


1月の祈り第31日

(サンクスギビングデー特別集会 第4週3日)

 

神の奥義はかしらなるキリストです

 

コロサイ2:2-3

それは、彼らの心が慰められ、彼らが愛の中で結び合わされ、理解力から来る全き確信のあらゆる豊富へと至るため、すなわち、神の奥義なるキリストを知る全き知識へと至るためです.このキリストの中には、知恵と知識のすべての宝が隠されています。

 

「コロサイ人への手紙は神の奥義に関してです。神の奥義はかしらなるキリストです。キリストの中には、真の知恵と知識のすべての宝が隠されています(3節)。これは、キリストと召会に関する神聖なエコノミーの霊的な知恵と知識です。知恵は、わたしたちの霊と関係があり、知識は、わたしたちの思いと関係があります(エペソ1:8, 17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストの中には、知恵と知識のすべての宝が隠されています。主よ、わたしたちが、神の奥義なるキリストを知る全き知識へと至りますように。 キリストと召会に関する神聖なエコノミーの霊的な知恵と知識を与えてください。

 

 

キリストの中には、真の知恵と知識のすべての宝が隠されています

 

 愛の中で結び合わされることは、感情と関係がありますが、理解力から来る全き確信の豊富は、思いと関係があります。わたしたちの心が慰められ、愛の中で結び合わされ、思いが正しく機能するとき、わたしたちは神の奥義なるキリストを知る全き知識を持ちます。(コロサイ2:2、フットノート4)。エペソ人への手紙はキリストの奥義に関してです。キリストの奥義は召会、からだです(3:4)。コロサイ人への手紙は神の奥義に関してです。神の奥義はキリスト、かしらです(コロサイ2:2、フットノート5)

 

 使徒はコロサイ人に、キリストの中には、真の知恵と知識のすべての宝が隠されていると告げました。これは、キリストと召会に関する神聖なエコノミーの霊的な知恵と知識です。知恵は、わたしたちの霊と関係があり、知識は、わたしたちの思いと関係があります(エペソ1:8、17)。(コロサイ2:3、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第30日

(サンクスギビングデー特別集会 第4週2日)

 

コロサイ書の多くの重要な語句は、キリストに対するわたしたちの経験です

 

コロサイ2:6-7,19

それで、あなたがたはキリスト、主なるイエスを受け入れたのですから、……彼の中で歩きなさい。…… かしらに結び付いて……この方から、からだ全体は、節と筋によって豊かに供給され、結合され、神の増し加わりによって成長するのです。

 

「コロサイ人への手紙において、多くの重要な語句がキリストに対するわたしたちの経験を指しています。これらの表現は、キリストに対する正しい経験の全体的な絵をわたしたちに与えます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはわたしたちの中におられ、わたしたちはあなたの中にいることを感謝します。わたしたちがキリストの中で完全に成長し、主の中で歩くことができますように。主よ、わたしたちがキリストを主観的に経験することができますように。

 

 

この方からからだ全体は神の増し加わりによって成長します

 

 コロサイ人への手紙において、多くの重要な語句あるいは表現が、キリストに対するわたしたちの経験を指しています。……  わたしたちの内にいますキリストは、拡張した、測りがたい、計り知れない方です。そのようなキリストがわたしたちの内におられるとは、何と驚くべきことでしょう!  わたしたちはそのようなキリストの中で完全に成長し、主の中で歩き、主にしたがっている必要があります。わたしたちはキリストと共に死に、彼と共に生かされており、かしらとしての彼に結び付くべきであり、この方からからだ全体は神の増し加わりによって成長します。

 

 これらの九つの表現は、キリストに対する正しい経験の全体的な絵をわたしたちに与えます。これに関して、わたしたちは、「中で」、「にしたがって」、「と共に」、「から」という前置詞に特別な注意を払う必要があります。さらに、これらの点に関するすべての節を祈り読みすることは、大きな助けになります。…[これらの九つの表現は]、キリストが近く、便利で、適用できることを示します。……このすべての点は、キリストの主観的な経験と関係があります。(「コロサイ人への手紙ライフスタディ(2)」、第42編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第29日

(サンクスギビングデー特別集会 第4週1日)

 

わたしたちの内にいますキリストは、栄光の望みです

 

コロサイ1:18,27

そして御子は、召会であるからだのかしらです.彼は初めであり、死人の中から最初に生まれた方です.それは彼ご自身が、万物のうちで第一位となるためです。…… 神は彼らに、異邦人の間にあるこの奥義の栄光の豊富がどんなものであるかを、知らせたいと願われました.それはあなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みです。

 

「わたしたちがコロサイ人への手紙に啓示されているすべてを含むキリストを認識し、経験することができることは、祝福です。旧創造と新創造の両方において、キリストは第一であり、第一位を占有しています。キリストは、わたしたちの霊の中に住んでわたしたちの命とパースンとなっており、わたしたちの栄光の望みです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの内にいます栄光の望みであるキリストを感謝します。主よ、わたしたちが成長して、キリストの中で完全に成長することができますように。そして円熟へと至ることができますように。

 

 

主は初めであり、死人の中から最初に生まれた方です

 

 キリストはわたしたちの内におられます。しかし今やわたしたちは成長して、キリストの中で完全に成長するに至る必要があります。この成長は文化によって妨げられるのです。

  わたしたちが創造のすべての項目の中にキリストを見ることができることを認識するのは極めて重要です。わたしたちは天、地、物質の事柄についてのわたしたちの観念を落とす必要があります。

 

 わたしたちは、キリストが旧創造の中で最初に生まれた方であり、新創造の中で最初に生まれた方であることを見る必要があります。ですから、キリストはすべてです。彼はすべてを含みます。キリストがすべてであることを見たので、このキリストはわたしたちの内にいて、わたしたちの栄光の望みであるという認識を持つ必要があります。わたしたちが今日、必要とすることは、彼の中で成長して円熟へと至ることです。(「コロサイ人への手紙ライフスタディ(2)」、第34編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第27日

(サンクスギビングデー特別集会 第3週6日)

 

わたしたちの思いは更新される必要があります

 

Ⅱテサロニケ3:5

主があなたがたの心を、神の愛の中へと、またキリストの忍耐の中へと、導いてくださいますように。

 

エペソ3:16-17

どうか御父が、彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように.またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.……

 

「わたしたちは、神の命がわたしたちの心の中で出遭う主観的な障害を見る必要があります。第一の主観的な問題は、わたしたちの思いの問題です。わたしたちの思いが霊に付けられるとき、わたしたちの外側の行動はわたしたちの内なる人と一致し、わたしたちと神との間に食い違いはありません。彼とわたしたちには平和があり、敵意はありません。その結果は、わたしたちが内側で平安の感覚を持つということです(ローマ8:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の愛、キリストの忍耐を感謝します。主よ、わたしたちの思いを更新してください。わたしたちの思い、感情、意志が、聖霊の活動と、また主の感覚と協力することができますように。

 

 

わたしたちの思い、感情、意志は、主の感覚と協力しなければなりません

 

 聖書はまた、わたしたちの思いが更新される必要があり、わたしたちがキリストの思いを持ち、神がわたしたちの決定の中で働くことができるようにとも語っています(エペソ4:23、ローマ12:2、Ⅰコリント2:16、ピリピ2:5、13)。新約を書いた使徒たちは、聖霊の意図を知りました。彼らは、わたしたちの思いの更新とわたしたちの意志の対処なしに、神の命がわたしたちを通して表現され得ないことを認識していました。こういうわけで新約は、わたしたちの思い、感情、意志について多く語っているのです。……

 

 わたしたちは大きな原則を見る必要があります。神の命がわたしたちの中で道を得るために、わたしたちは感情から転換し、強い柔軟な意志を持ち、わたしたちの思いの中で更新される必要があります。……わたしたちの魂のそれぞれあらゆる部分、すなわちわたしたちの思い、感情、意志は、わたしたちの中にある聖霊の活動と、また主の感覚と協力しなければなりません。そのとき、神ご自身がわたしたちから生かし出されます(「命と召会を知る」、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第26日

(サンクスギビングデー特別集会 第3週5日)

 

わたしたちの中のキリストの感覚に服従しないという罪があります

 

Ⅱコリント10:4-5

わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前に力があって、要塞をも破壊し、神の知識に逆らい立っている議論や、あらゆる高ぶりを破壊し、あらゆる思想をとりこにして、キリストに対して従順にならせます。

 

「神の命がわたしたちの中で出遭う第三の問題は、反逆です(Ⅱコリント10:4-5)。わたしたちが最もしばしば、また最もひどく犯す罪は、外側の見えるものではありません。そうではなく、わたしたちの中のキリストの感覚に服従しないという罪です。キリストはわたしたちの中に生きており、絶えずわたしたちに命の内側の感覚を与えています(ローマ8:6.Ⅰヨハネ2:27.参照、エペソ3:1.4:1.6:20.Ⅱコリント2:12-14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、あなたはわたしたちの中に生きており、絶えずわたしたちに命の内側の感覚を与えてくださることを感謝します。主よ、わたしたちが内側の感覚に服従して、主の導きを受け入れ、十字架の砕きを経験することができるようにしてください。

 

 

最もひどく犯す罪は、キリストの感覚に服従しないという罪です

 

 神の命がわたしたちの中で出遭う第三の問題は、反逆です。キリストがわたしたちの中で活動し、わたしたちを感動して、わたしたちに対する主のみこころが何であるか、わたしたちに対する要求…… 主の導き…… 対処が何であるかを、わたしたちにはっきりとさせます。しかしながら、もしわたしたちが内側の感覚に服従せず、主の導きを受け入れず、代価を払わないなら、このように願わないことや反対することは反逆です。……わたしたちには自由と選択があるかもしれませんが、命の道がないでしょう。……

 

 わたしたちが最もしばしば、また最もひどく犯す罪は、外側の見える罪ではなく、わたしたちの中のキリストの感覚に服従しないという罪です。キリストはわたしたちの中に生きていて、絶えずわたしたちに命の内側の感覚を与えておられます。わたしたちは主に服従すべきですが、しばしば主に服従しません。…… キリストの命がわたしたちの中で妨げられないことを願うなら、わたしたちは十字架の砕きを経験して、これらの障害が対処され、取り除かれるようにしなければなりません。これは、キリストの命がわたしたちから生かし出されるようにするでしょう。(「命と召会を知る」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第25日

(サンクスギビングデー特別集会 第3週4日)

 

わたしたちは、神の命がわたしたちの心の中で出遭う障害を見る必要があります

 

ガラテヤ2:20

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。

 

「神の命がわたしたちの中で出遭う第一の問題は、わたしたちが人の観念の暗さを認識していないということです(Ⅱコリント3:14.4:4)。多くの人が救われた後に、霊的な命の上で困難を持つのは、彼らが命の道を認識しておらず、キリストを彼らの命としていないからです(ローマ8:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはわたしたちの中で命となられたことを感謝します。 主よ、わたしたちが人の観念によってではなく、キリストをわたしたちの命として生きることができますように。わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きることができますように。

 

 

わたしたちの人の観念はすべて暗やみの中にあります

 

 わたしたちは神の命がわたしたちの中で出遭う障害を見る必要があります。……わたしたちが持っているあらゆるものは、良くても悪くても、承認されても承認されなくても、神の命に対する妨げとなり得ます。わたしたちが賢いか愚かであるか、高い教育を受けているか教育を受けていないかは重要ではなく、わたしたちの人の観念はすべて暗やみの中にあり、……わたしたちにわたしたちの中で命としてのキリストを知らせないようにします。……

 

 神の命がわたしたちの中で出遭う第一の問題は、わたしたちが人の観念の暗さを認識していないということです。たとえそれらが正しく真っすぐであるように見えても、わたしたちの観念は、実は暗やみに満ちていて命がないことを、わたしたちは認識していません。わたしたちは救われた日、生けるキリストを受け入れ、彼はわたしたちの中で命となられました。……重要な唯一の事は、わたしたちの中の生けるキリストを、わたしたちがどのように取り扱うかということです。(「命と召会を知る」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第24日

(サンクスギビングデー特別集会 第3週3日)

 

神は、わたしたちの心が愛する心であることを願っています

 

Ⅰテモテ1:5

しかし、この命令の目的は、純粋な心……から出て来る愛です。

 

ピリピ4:7

そうすれば、人知をはるかに超えた神の平安が、あなたがたの心と思考を、キリスト・イエスの中で護衛してくださいます。

 

「神は、わたしたちの心が愛する心であることを願っています。愛する心とは、感情が神を愛し、神を求め、神を渇望し、神を慕い求め、主と個人的で、愛情に満ちた、私的で、霊的な関係を持っている心です(詩42:1-2.雅1:1-4)。わたしたちは心を何度も何度も主に向け、心を絶えず新しくしていただかなければなりません。(Ⅱコリント3:16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちを引き寄せてください。わたしたちの心を何度も主に向けさせてください。そして、わたしたちの心が絶えず新しくされて、主を深く愛することができるようにしてください。

 

 

霊的な経験はすべて、心の中の愛から始まります

 

 心の機能は、主を愛することです。なぜなら、心はわたしたちの存在の愛する器官であるからです。これは、マルコによる福音書第12章30節によって証明されます、「心を尽くし……て、主であるあなたの神を愛しなさい」。心は、主を愛する目的のために創造されました。……愛は心の事柄です。……心が愛を活用することのできる唯一の器官です。……あらゆる人は何かを、すなわち、主ご自身か、何か他のものを愛しています。わたしたちは心を主に向ければ向けるほど、ますます心を活用して主を信じ、ますますわたしたちの心はすすがれて邪悪な良心から離れ、更新されます。……これが、更新された心の機能です。毎朝わたしたちは心を更新しなければなりません。それは、わたしたちが主をますます愛するためです。

 

 霊的な経験はすべて、心の中の愛から始まります。もしわたしたちが主を愛さなければ、どんな霊的な経験も持つことができません。実は、わたしたちのクリスチャン生活の第一の経験である救いは、主イエスを愛するわたしたちの心を含んでいます。真に悔い改めた人で、心の中で主に対する愛を持っていない人は一人もいません。おそらく彼にはそれを表現する言葉がないかもしれませんが、内側には愛の甘い感覚があります。彼には認識がありませんが、救いに対する彼の最初の経験は、彼の心の中の主に対する愛の反応、あるいは反映です。(リー全集、1964年、第3巻(上)、「神の永遠のご計画(エコノミー)」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第23日

(サンクスギビングデー特別集会 第3週2日)

 

わたしたちは心を対処することで、主と協力する必要があります

 

エゼキエル36:26

わたしはまた、あなたがたに新しい心を与え、新しい霊をあなたがたの内に置く.わたしは石の心をあなたがたの肉から取り去り、あなたがたに肉の心を与える。

 

マタイ13:8

しかし、あるものは、良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。

 

「わたしたちの命における成長は、キリストのからだとしての召会を建造します。これはわたしたちの心の中の命の種であるキリストの成長によって起こります(Ⅰヨハネ3:9.Ⅰペテロ1:23.コロサイ2:19.エペソ2:21.4:15-16.マタイ13:18-23)。わたしたちは、心を対処することによって主と協力する必要があります」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、石の心をわたしたちから取り去り、肉の心を与えてくださることを感謝します。主よ、わたしたちの心が、かたくななこと、不純なこと、愛さないこと、平安でないことを対処してください。わたしたちの心が良い地となり、命の種であるキリストが成長することができるようにしてください。

 

 

心にある四つの問題とは、かたくななこと、不純なこと、愛さないこと、平安でないことです

 

[マタイによる福音書第13章8節の]良い地は、世の往来によってかたくなにされていない、隠された罪のない、時代の思い煩いや富の惑わしのない良い心を表徴します。そのような心は、その土地の隅々までを提供して、御言葉を受け入れるので、御言葉は成長し、実を結び、百倍さえ生み出すようになります(23節)。(マタイ13:8、フットノート1)

 

 心は命と極めて重要な関係にあるので、神はわたしたちの心を対処せざるを得ません。それは神の命がわたしたちから規制されるためです。神に対して、わたしたちの心は四つの大きな問題があります。それは、かたくななこと、不純なこと、愛さないこと、平安でないことです。かたくななことは意志の事柄であり、不純なことは思いの事柄だけでなく、感惰の事柄でもあり、愛さないことは感情の事柄であり、平安でないことは良心の事柄です。……[神は]これら四つの面を対処します。それによってわたしたちの心は柔らかく、純粋で、愛するようになり、平安になります。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第22日

(サンクスギビングデー特別集会 第3週1日)

 

心は命の入り口と出口です

 

マタイ5:8

心の純粋な人たちは幸いである.彼らは神を見るからである。

 

箴4:23

何ものにもまさってあなたの心を見守れ.そこから命の流れが出てくるからである。

 

「わたしたちは主の臨在の光の中でわたしたちの心を対処して、わたしたちの内側の神聖な命の種を成長させ、わたしたちが命において円熟へと至るようにしなければなりません。心は人の内なる各部分の集合体であり、人の主要な代表であり、人の行動する機関です」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちに新しい心を与え、新しい霊を内に置いてくださったことを感謝します。主よ、あなたの臨在の光の中でわたしたちの心を照らし、対処してください。主よ、わたしたちの内側の神聖な命の流れが出てくるように、何ものにもまさってわたしたちの心を見守ることができますように。

 

 

主の臨在の光の中でわたしたちの心が対処されて、命において円熟へと至ります

 

 命が霊の中へと入ろうとするなら、それは心を経過しなければなりません。もし命が霊から流れ出ようとするなら、それはまた心を経過しなければなりません。こういうわけで、心は、命が必ず通る道です。それは命の入り口と出口であると言うことができます。……さらに、心は命のスイッチでもあります。もし心が閉じられているなら、命は入って来ることや、規制されることもできません。しかしながら、いったん心が開くなら、命は入って来ることができます。……

 

 心のどの部分が閉じていても、神の命はその部分を規制することができません。心のどの部分が開いていても、神の命はその部分を規制することができます。こういうわけで、心は真に命のスイッチです。命は大きな力を持っていますが、その大きな力はわたしたちの小さな心によって制御されます。命が成し遂げられるかどうかは完全に、わたしたちの心が開いているかどうかにかかっています。それは発電所の電力が強くても、わたしたちの部屋の中の電灯の小さなスイッチによって制御されることのようです。もしスイッチを入れないなら、電気は入って来ることができません。(「命の認識」、第10編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第20日

(サンクスギビングデー特別集会 第2週6日)

 

栄光に満ちた喜びをもって歓喜しています

 

Ⅰペテロ1:8

あなたがたは、その方を見たこともないのに愛しており、その方を今、見ていないのになお信じており、言葉では言い尽くせない、栄光に満ちた喜びをもって歓喜しています.

 

ピリピ4:11

……わたしはどんな境遇でも、満ち足りることを学んだからです。

 

「わたしたちが主の中にいるとき、主はわたしたちの喜びです(ローマ14:17)。わたしたちが主の中に住んでいるとき、どんな問題があろうと、わたしたちは喜びに満ちています。そして、どんな困難も、主にあるわたしたちの喜びを深めます(ヨハネ15:4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。生ける言葉を聞くことを通して、信仰がわたしたちの中へと注入されたことを感謝します。主よ、わたしたちがあなたの中に住んで、どんな境遇でも、満ち足りることを学ぶことができますように。

 

 

どんな境遇でも、満ち足りることを学んで、喜んでいます

 

 主は今日わたしたちと共におられますが(マタイ28:20)、それは隠され、覆われた方法においてです。彼の再来は彼の出現であり、その時、彼はすべての人に公に見られます。わたしたちは主イエスを一度も見たことがないのに、彼を愛しています。現在、わたしたちは彼を見ることができないのに、なお彼を信じています。……わたしたちが見たこともない方を愛しているのは、信じているからであり、すなわち信仰が、生ける言葉を聞くことを通してわたしたちの中へと注入されたからです(ガラテヤ3:2)。

 

 ペテロの第一の手紙第1章8節によれば、信者たちは「言葉では言い尽くせない、栄光に満ちた喜びをもって歓喜しています」。……この喜びは、栄光である主の中に浸されています。こういうわけで、それは主の表現で満ちているのです。この喜びはまた、言葉では言い尽くせません。それはわたしたちの言い表す能力を超えた喜びです。……わたしたちは主の中へと信じ、主を愛することによって、大いなる喜びを獲得します。クリスチャンの正常な状態とは、「言葉では言い尽くせない、栄光に満ちた喜びをもって歓喜」することです。(「新約の結論(22)」、メッセージ382)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第19日

(サンクスギビングデー特別集会 第2週5日)

 

わたしの霊は、神・わたしの救い主の中で歓喜しました

 

ヘブル4:12

なぜなら、神の言は生きていて効力があり、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思考と意図を識別することができるからです。

 

ルカ1:46-47

すると、マリアは言った、「わたしの魂は主を大きく表現します.わたしの霊は、神・わたしの救い主の中で歓喜しました」。

 

  「わたしたちが忠信で正常で適切なクリスチャンになるために、わたしたちが顧みる必要のある主要な事柄は、主を享受することです。これは、わたしたちにとってビジョンとなる必要があります(箴29:18.使徒26:19)。神の愛する御子の王国である召会の中で、わたしたちはすべてを含むキリストを経験し享受します(コロサイ1:12-13,27.2:9,16-17.3:1,4,11)。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、あなたはわたしたちに割り当てられた分け前、神聖な嗣業であることを感謝します。キリストを享受することがわたしたちのビジョンとなりますように。主よ、わたしたちが多くの問題を持つとき、すべてを含むキリストを経験し、享受することができますように。

 

 

わたしたちのすべての問題に対する唯一の解決は、キリストを享受することです

 

 わたしは信じますが、主はご自身の回復において信者たちがキリストを享受することを回復されます。今日、多くの信者が弱いのは、彼らが教えに欠けているからではなく、栄養失調であり、養いに欠けているからです。…… 今日わたしたちはキリストに欠けているので、多くの問題を持つのです。わたしたちはキリストを享受することから生じる養いに欠けています。わたしたちは日ごとにキリストを享受するなら、何の問題も持ちません。…… もし夫がキリストを享受しないなら、遅かれ早かれ彼の妻に対する問題に直面するでしょう。それは召会生活においても同じです。……

 

 わたしたちのすべての問題に対する唯一の解決は、キリストを享受することです。わたしたちがキリストを享受するとき、わたしたちの存在の中にある消極的な要素や「病原菌」はすべて飲み尽くされ、すべての積極的な要素と霊的なビタミンの不足は満たされます。このようにして、わたしたちの問題はすべて解決されます。…… キリストはわたしたちの日ごとの養いであり、わたしたちは日ごとの方法で主を味わい、食べ、主にあずかる必要があります。(リー全集、1969年、第2巻(上)、「霊を活用することによって召会生活を実行する」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第18日

(サンクスギビングデー特別集会 第2週4日)

 

三一の神の喜びが、わたしたちの喜びとなります

 

ヨハネ6:57

生ける父がわたしを遣わされ、わたしが父のゆえに生きているように、わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる。

 

Ⅰコリント10:4

みな同じ霊の飲み物を飲みました.すなわち彼らは、彼らについて来た霊の岩から飲んだのです.そしてその岩はキリストです。

 

「三一の神の喜びが、わたしたちの喜びとなりつつあります。キリストは彼のパースンにおいてわたしたちの喜びです。もしわたしたちが主の中に住み、また主の愛の中に住むことによって主の中に住み続けるなら、わたしたちは喜びで満たされます(ヨハネ15:10-11)。(57節.Ⅰコリント10:4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたの血によって立てられた新しい契約を感謝します。主を食べる者は、主のゆえに生きます。主とわたしたちがミングリングされるために、日々主を食べ、飲み、享受し、真に主を記念する生活をすることができますように。

 

 

クリスチャン生活は、日々、主を食べ、飲み、享受する生活です

 

 わたしたちが主を記念することの焦点は、彼を食べ飲みすることです。主は言われました、「これは、あなたがたのために与えるわたしの体である.これを行ない、わたしの記念としなさい。……この杯は、わたしの血によって立てられた新しい契約である.それを飲むたびに、これを行ない、わたしの記念としなさい」(Ⅰコリント11:24-25)。主の言葉ははっきりと述べていますが、主を記念することは、わたしたちのために与えられた方として主を受けることであり、また主が達成されたすべてを受けることです。

 

 このゆえに、わたしたちは来て主を記念するたびに、単に思いの中で思い巡らすことによって主を記念すべきではありません。わたしたちは主と主が達成されたすべてを、わたしたちの霊の中で内側の享受として受け、主にわたしたちとさらにミングリングしていただく必要があります。これが真に主を記念することです。パンさきの意義は、わたしたちのクリスチャン生活の意義でもあります。クリスチャン生活は、主にわたしたちとミングリングしていただくために、日々主を食べ、飲み、享受する生活です。…… これはわたしたちの日常生活であるべきです。救われた者たちとして、わたしたちは主を食べ飲みすることによって生きます。(「初信者課程(上)」、第11課)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第17日

(サンクスギビングデー特別集会 第2週3日)

 

恵みと実際はイエス・キリストを通して来たからである

 

創2:9

エホバ・神はその土地から、見て喜ばしく、食べるのに良い、すべての木を生えさせ、さらに園の中央に命の木……を生えさせられた。

 

ヨハネ1:16-17

わたしたちはみな、彼の豊満から、恵みの上にさらに恵みを受けた。……恵みと実際はイエス・キリストを通して来たからである。

 

 「神の願いは、ご自身をわたしたちに与えて、わたしたちの享受になるということです(ネヘミヤ8:10)。クリスチャン生活の秘訣は、どれだけわたしたちが彼のために働くかではなく、どれだけわたしたちが彼を吸収し、彼を享受するかということです(ヨハネ15:4-5.コロサイ2:6-7)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが命の木として来られたことを感謝します。主よ、わたしたちがあなたを命として得て、さらに豊かに得ることができますように。 主よ、あなたを食べて吸収し、享受することができますように。

 

 

わたしが来たのは、人が命を得、しかも豊かに得るためである

 

 聖書の中で、ある事柄を最初に述べることに関して非常に重要な原則があり、それは残りの聖書を貫くその事柄のための永遠に支配する原則を定めます。…… 神と人の関係に対して聖書の中で最初に述べられている事は、神がご自身を食物として人に提示しているということです。これが示している事は、神が人にご自身を享受してもらいたいということです。神は人を造られた後、人を命の木の前に置き、それによって人がその木の実を享受するようにしました。命の木は、神ご自身を表徴します。これは、神が人の享受になるのを望んでおられることを示します。人を創造した後の神の最初の考えは、人が食べて飲むことであり、この食べて飲む対象は神ご自身でした。…… 

 

 「わたしは、天から下って来たパンである。……わたしは、あなたがわたしを受け入れ、わたしを享受することを願う。わたしは命の木である。命はわたしの中にある。わたしは命であり、わたしが来たのは、人が命を得、しかも豊かに得るためである(ヨハネ10:10)。わたしは、エデンの園にあった命の木のようである。……わたしは、あなたの中へと自分自身を分与したい。わたしは食物となってあなたの中に入り、あなたの命となりたい。わたしの考えはただ、あなたがわたしを享受することである」。(「どのようにして神を享受するか、またどのようにして神を享受することを訓練するか(上)」、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第16日

(サンクスギビングデー特別集会 第2週2日)

 

神の王国は、義と平和と聖霊の中の喜びです

 

ローマ14:17

なぜなら、神の王国は食べ飲みすることではなく、義と平和と聖霊の中の喜びとであるからです。

 

ガラテヤ5:22

しかし、その霊の実は、愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信実。

 

「聖霊の中には喜びがあります(ローマ14:17)。神は、わたしたちが彼を享受し、彼の定められた御旨のために生きることを願っています(ネヘミヤ8:10.エペソ3:11)。神の言の中で啓示されている甘い思想は、キリストの中で神がご自身を恵みとしてわたしたちに与えて、わたしたちの享受になったということです(ヨハネ1:14,16-17.Ⅱコリント13:14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。召会生活の実際である神の王国が聖霊の中の喜びであることを感謝します。主よ、日ごとに わたしたちがその霊の中にいて、神をもって喜びに満たされ、神を賛美することができますように。

 

 

神の霊は、神聖な命と神聖な愛と神聖な喜びとの霊です

 

 ローマ人への手紙第14章17節は、召会生活の実際である神の王国が、聖霊の中の喜びであると言っています。テサロニケ人への第一の手紙第1章6節は、信者たちは「大きな患難の中で、聖霊の喜びをもって言を受け入れ[た]」とわたしたちに告げています。さらに、ガラテヤ人への手紙第5章22節は、喜びは聖霊の実であると言っています。

 

 すべての人は喜びを必要としています。クリスチャンとして、わたしたちは神の愛と神聖な命で満たされるとき、喜びを持ちます。愛は命から来ますが、喜びは愛から来ます。神の霊は、神聖な命と神聖な愛と神聖な喜びとの霊です。……ですから、わたしたちは聖霊の中で喜びを持ち、その霊に属する喜びを持ちます。……もしわたしたちがその霊の中にいるなら、わたしたちは神をもって喜びに満たされ、神を賛美するでしょう。(「新約の結論(6)」、メッセージ83)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第15日

(サンクスギビングデー特別集会 第2週1日)

 

すべての喜びと平安で、あなたがたを満たします

 

ローマ15:13

今や望みの神が、信じることによるすべての喜びと平安で、あなたがたを満たしてくださいますように.それはあなたがたが、聖霊の力の中で望みに満ちあふれるためです。

 

ヨハネ15:11

これらの事をあなたがたに語ったのは、わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

 

「神は享受の神です。わたしたちの経験において、もしわたしたちが神を恵みとして享受するなら平安を持ち、そして、……喜びを持ちます。わたしたちが神聖なぶどうの木の枝となることは、喜びの事柄、すなわち、喜びの生活です。わたしたちの喜びは、わたしたちが主の中に住むことから、わたしたちが主の愛の中に住むことから、いつもやって来ます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、あなたは享受の神です。主よ、わたしたちが神を恵みとして享受し、平和を持つことができることを感謝します。主よ、わたしたちが神聖なぶどうの木の枝として、主の中に住み続けて、多くの実を結び、喜びで満ちることができますように。

 

 

わたしたちの喜びは、主の中に住み、主の愛の中に住むことからやって来ます

 

 ローマ人への手紙第15章13節は……喜びが神の属性の一つであることを示しています。神は享受の神です。わたしたちの経験において、もしわたしたちが神を恵みとして享受するなら、平和を持ち、そして、もしわたしたちが平和を持つなら喜びを持ちます。主のパースンにおいて、キリストは信者たちにとって喜びです。……

 

 ヨハネによる福音書第15章11節は、ぶどうの木とその枝が有機体であって、神聖な命の豊富を表現することによって、御父の栄光を現すことに関する主の言葉です(1-11節)。わたしたちが神聖なぶどうの木の枝となって、実を結び、神聖な命を表現することは、喜びの事柄、すなわち喜びの生活です。もしわたしたちが主の中に住み、彼の愛の中に住むことによって彼の中に住み続けて、多くの実を結んで、彼の命の豊富を表現して御父の栄光を現すなら、わたしたちは喜びに満たされるでしょう。…… このような種類の生活において、わたしたちは喜びで満ちており、この喜びは実はキリストご自身です。(「新約の結論」、メッセージ10、53)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第13日

(サンクスギビングデー特別集会 第1週6日)

 

神が賜わったのは、力と、愛と、冷静な思いとの霊です

 

Ⅰコリント13:4

愛は辛抱強く、愛は親切で、ねたみません。愛は誇ることがなく、思い上がることもありません。

 

Ⅱテモテ1:7

というのは、神がわたしたちに賜わったのは、臆する霊ではなく、力と、愛と、冷静な思いとの霊であるからです。

 

「わたしたちが愛するキリストは、召会を愛するキリストです(エペソ5:25)。わたしたちは彼を愛するとき、彼が愛するように召会を愛します。召会生活は兄弟愛の生活であり(Ⅰヨハネ4:7-8.Ⅱヨハネ5-6節.ヨハネ15:12, 17.啓3:7.エペソ5:2.参照、ユダ12節前半)、からだは愛の中でそれ自身を建て上げます(エペソ4:16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神はわたしたちに、力と、愛と、冷静な思いとの霊を賜ったことを感謝します。主よ、あなたが召会を愛されるように、わたしたちも召会を愛することができますように。燃える愛の霊をもって、召会生活をすることができますように。

 

 

燃える愛の霊をもって語り、事を行ないます

 

 神がわたしたちに賜わった霊は、聖霊によって再生され、聖霊が内住している人の霊です。この霊は愛の霊です。ですから、それは力と冷静な思いとの霊です(Ⅱテモテ1:7)。…… パウロは、わたしたちは自分の賜物を燃え立たせる必要があると言います(6節)。神がわたしたちに賜わった主要な賜物は、神の霊、神の命、神の性質を伴った、わたしたちの再生された人の霊です。わたしたちはこの賜物を燃え立たせなければなりません。これは、わたしたちが霊をかき立て、霊が燃やされなければならないことを意味します。

 

 ローマ人への手紙第12章11節は、わたしたちは霊の中で燃えているべきであると言います。……わたしたちが持たなければならないのは愛の燃える霊であって、権威の燃える霊ではありません。それは損害を与えます。……わたしたちは常に、燃え立たせられている愛の霊をもって語り、事を行なうべきです。これが、回復が必要とするものです。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第12日

(サンクスギビングデー特別集会 第1週5日)

 

その霊はすべての事柄、神の深みさえも探られます

 

Ⅰコリント2:9-10

このように書かれているとおりです、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を愛する者たちのために備えてくださった」。しかし、神はわたしたちに、その霊を通してそれらを啓示されました.その霊はすべての事柄、神の深みさえも探られるからです。

 

「わたしたちが主を愛することは、わたしたちが主の心の中へと入って、そのすべての秘訣を把握することができるようにするために必ず必要なことであり、また神がわたしたちのために定め用意した深く隠れた事柄を、わたしたちが認識し、それにあずかるために必ず必要なことです(Ⅰコリント2:9-10.マタイ22:37-38.詩73:25.116:1-2)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがあなたを信じるだけでなく、あなたを愛することができますように。主よ、あなたの愛でわたしに押し迫ってください。主よ、あなたの愛であふれさせてください。

 

 

神の深く隠れた事柄を認識し、それにあずかるために、主を愛することが必要です

 

 神がわたしたちのために定め用意した深く隠れた事柄を、認識し、それにあずかるために、わたしたちは彼を信じるだけでなく、彼を愛することが必要です。神を畏れ、神を礼拝し、神を信じる(すなわち神を受け入れる)ことだけでは不十分です。主を愛することが、必ず必要なことです。神を愛するとは、わたしたちの全存在――霊、魂、体を、心、魂、思い、力と共に(マルコ12:30)――完全に彼の上に置くことを意味します。

 

 すなわち、これは、わたしたちの全存在を彼に占有していただき、わたしたちが主の中で失われることです。その結果、主がわたしたちのすべてとなられ、わたしたちは日常生活の中で、実際的に主と一になります。このようにして、わたしたちは神と最も近く、最も親密な交わりを持ちます。そして、わたしたちは神の心の中に入って、そのすべての秘訣を把握することができます(詩73:25.25:14)。こうして、神のこれらの深く隠れた事柄を認識するだけでなく、経験し、享受し、十分にあずかるのです。(Ⅰコリント2:9、フットノート3)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第11日

(サンクスギビングデー特別集会 第1週4日)

 

主のあわれみは尽きることがなく、朝ごとに新しい

 

哀3:22-24

わたしたちが滅ぼされないのは、エホバの慈愛である.まことに、彼のあわれみは尽きることがないからだ.それらは朝ごとに新しい.「あなたの信実は偉大です。エホバはわたしの分け前です」とわたしの魂は言う.それゆえ、わたしは彼を待ち望む。

 

「わたしたちの環境における外側の平和、わたしたちの個人的な心地よさや安楽、わたしたちの財産は、わたしたちにとって偶像となって、わたしたちをそらす可能性があります。しかし神は信実であって、これらの事物を取り除き、わたしたちが生ける水の源泉としての彼から飲むようにします」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、あなたの慈愛、あわれみは尽きることがないことを感謝します。主よ、わたしたちの外側の平和、心地よさ、安楽、財産などは、わたしたちの偶像となってしまいます。主よ、わたしたちが生ける水から飲み、神を賛美し、あらゆることで神に感謝し、神を享受することができますように。

 

 

平和、心地よさや安楽、財産は、わたしたちにとって偶像となる可能性があります

 

 悪しき者どもの邪悪な状態は、彼らが主に来て主を食べ享受することをしないことです(参照、イザヤ55:1-2)。……神の目に、これほど邪悪なことはありません。(イザヤ57:20、フットノート1)。イスラエルは生ける水の源泉としての神から飲むのではなく、彼らの偶像から飲みました。ですから、神はバビロン人を用いてこれらの偶像を対処し、またエルサレムと宮をさえ破壊されました。それらが彼らにとって偶像となっていたのです。

 

 わたしたちは、自分がイスラエルより良くないことを見る必要があります。いかなるものでも、わたしたちにとって偶像になり得るのです。しかし神は、彼のエコノミーを成就することで信実です。彼は信実の中でわたしたちの偶像を対処し、わたしたちに彼から飲ませられます。わたしたちはみな生ける水の源泉としての神から飲み、キリストをわたしたちの中へと受け入れ、彼を消化する必要があります。それは、彼が増し加わって神のエコノミーを成就し、彼の配偶者を通して彼の表現を持たれるためです。(「エレミヤ書ライフスタディ」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第10日

(サンクスギビングデー特別集会 第1週3日)

 

神は信実であり生ける水の源泉です

 

エレミヤ2:13

まことに、わたしの民は二つの悪事を犯したからである.彼らはわたし、この生ける水の源泉を捨てて、自分たちのために水ため、水をためることがない壊れた水ためを掘ったのだ。

 

ヨハネ4:14

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである。

 

「神は信実であり、わたしたちを彼の御子の交わりへと、享受へと召していますが、多くの時わたしたちは、彼がわたしたちをご自身の意図へと召すことに対して不忠信です(Ⅰコリント1:9.エレミヤ2:13.哀3:22-24)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、あなたは信実な神です。わたしたちが生ける水の源泉を捨てて、壊れた水ためを掘ることから救ってください。わたしたちがいつも生ける水の源泉としてのあなたから飲み、あなたを流し出すことができますように。

 

 

神の信実はわたしたちの偶像を対処し、神から飲ませます

 

 神は生ける水の源泉です[エレミヤ2:13]……生ける水の源泉となって神の選民が飲むのを求めることでの神の目的は、彼が増し加わり、拡大することです。神が彼の選民に対して生ける水の源泉となる必要があるのは、彼がエコノミーを持っておられるからであり、彼のエコノミーはご自身のために配偶者、花嫁を生み出すことです。神のエコノミーの目的は、神がもはや独りではなく妻を持ち、それを彼の増し加わり、彼の拡大とし、こうして夫としての彼に符合させることです。……

 

 [神がわたしたちに] 困難を持たせるとき、神は彼の定められた御旨において信実であって、わたしたちを偶像から転向させ、ご自身に連れ戻されることを、わたしたちは認識する必要があります。わたしたちの平安、安全、健康、財産は、わたしたちにとって偶像となるかもしれません。神は信実であって、これらのものを取り去り、わたしたちが生ける水の源泉としての彼から飲むようにされます。……神の信実は、これらの偶像を対処し、わたしたちに彼から飲ませるという事柄です。(「エレミヤ書ライフスタディ」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第9日

(サンクスギビングデー特別集会 第1週2日)

 

同じ愛を持ち、魂において結合され、一つの事を思います

 

ピリピ3:14

キリスト・イエスの中でわたしを上に召してくださった神の賞を得るために、目標に向かって追い求めています。

 

ピリピ2:2

どうかあなたがたは同じ事を思い、同じ愛を持ち、魂において結合され、一つの事を思って、わたしの喜びが満ちるようにしてください。

 

「わたしたちは、「一つの事」を思っている者となる必要があります。ピリピ人への手紙における「一つの事」は、キリストに対する主観的な認識と経験と享受を指しています。一つの事とは、キリストを追い求めて彼を獲得し、彼を所有することです(ピリピ2:2, 5.1:20-21.3:7-14.4:13)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、キリスト・イエスによって捕らえられていることを感謝します。わたしたちが後ろにあるものを忘れて、キリストを追い求めることができますように。主よ、わたしたちが同じ事を思い、同じ愛を持ち、魂において結合され、一つの事を思うことができますように。

 

 

魂において結合されて、同じ事を思い、「一つの事」を思います

 

 ピリピ人がパウロの喜びを満たすことができた方法は、同じ事を思い、一つの事をさえ思うことでした(ピリピ2:2)。本書全体の文脈によれば、「一つの事」は、キリストに対する主観的な認識とキリストの経験を指しているに違いありません(1:20-21.2:5.3:7-9.4:13)。キリスト、ただキリストだけが、わたしたちの全存在の中心性と普遍性であるべきです。わたしたちの思考は、キリストを知る知識とキリストの経験の卓越性に、焦点づけられるべきです。それ以外のどんな事に焦点づけることも、わたしたちに異なった思いを持たせ、こうして、わたしたちの間に不和をつくり出します。

 

 ピリピの聖徒たちは善良で、その都市に在る召会は十分に確立されていました。しかしながら、彼らの間に不和がありました。彼らは霊の中では一つでしたが、一つ魂をもって共に奮闘していませんでした。彼らはみな主を愛していましたが、同じ事を思っていませんでした。……[パウロ]は心の重荷からピリピ人に、魂において結合されることによって、また同じ事を思うことによって、彼の喜びが満ちるようにしてもらいたいと訴えたのです。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(1)」、第9編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第8日

(サンクスギビングデー特別集会 第1週1日)

 

キリストを享受することが、召会におけるすべての問題を解決します

 

Ⅰコリント1:2

……キリスト・イエスの中で聖別された者たち、召された聖徒たち、それと共に、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての者へ.彼は彼らのもの、またわたしたちのものです。

 

Ⅰコリント1:9

神は信実です.この方を通して、あなたがたは彼の御子、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの交わりへと召されたのです。

 

 「コリント人への第一の手紙で、使徒パウロの意図は、コリントの聖徒たちの間の問題を解決することでした。すべての問題、特に分裂の事柄に対する唯一の解決は、すべてを含むキリストを享受することです。わたしたちはキリストに集中すべきであって、キリスト以外のいかなる人、物、事柄にも集中すべきではありません(Ⅰコリント1:9.コロサイ1:17後半, 18後半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神は信実であり、わたしたちが主イエス・キリストの交わりへと召されたことを感謝します。主よ、わたしたちが主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めて、すべてを含むキリストをわたしたちの分け前として享受することができますように。

 

 

わたしたちの主イエス・キリストの交わりへと召されたのです

 

 [コリント人への第一の手紙第1章9節で]「交わりへと」は、神の御子、イエス・キリストとの結合の交わりにあずかること、彼にあずかることを示します。神がわたしたちをそのような交わりへと召されたのは、わたしたちが、神の与えられたわたしたちの分け前としてのキリストを享受するためです。この言葉は、2節のキリストは彼らのもの、またわたしたちのものという言葉のように、キリストが信者たちの唯一の中心であって、彼らの間の諸問題、特に分裂の問題の解決であるという極めて重要な事実を、再び強調しています。……

 

 「交わり」……は、わたしたちとキリストが一になったことを意味します。それがまた意味するのは、わたしたちがキリストとキリストであるすべてを享受することであり、また彼がわたしたちとわたしたちであるものを享受されることです。その結果、相互の交流だけでなく、あらゆる方法での相互性があります。キリストであるすべてがわたしたちのものとなり、わたしたちであるすべてが彼のものとなります。(「コリント人への第一の手紙ライフスタディ(1)」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第6日

(長老責任者訓練 第8週6日)

 

わたしたちがみな真理の全き知識へ到達することを願います

 

テトス1:1

神の奴隷、またイエス・キリストの使徒であるパウロから.わたしが使徒とされたのは、神の選ばれた人たちのその信仰と、敬虔に合う真理の全き知識にしたがい、

 

Ⅰテモテ2:4

神はすべての人が救われて、真理の全き知識へ至ることを願っておられます。

 

「召会が真理の柱また基礎として機能するために、わたしたちはみな真理の全き知識へ到達する必要があります(Ⅰテモテ2:4.4:3.Ⅱテモテ2:25.3:7.テトス1:1)。あらゆる兄弟姉妹が命と真理に満ちているとき、召会は生ける神の家として、真理の柱また基礎として、力強くなります。この事が、今日の主の回復において必要とされていることです(Ⅰテモテ3:15)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたはすべての人が救われて、真理の全き知識へ至ることを願っておられます。主よ、わたしたちがあわれみを受け、十分な恵みが与えられて、命と真理で満たされますように。そして、真理の全き知識へ至ることができますように。

 

 

兄弟姉妹が命と真理に満ちているとき、召会は生ける神の家、真理の柱また基礎として、力強くなります

 

 実際は、聖書の知識プラス天的な照らしと個人の経験から来ます。……実際を見るために、わたしたちはまず御言の中で時間を費やして、養われ、聖書の教理に慣れ親しむ必要があります。照らすことの基礎は、教理に対するわたしたちの知識です。そしてわたしたちは日ごとにキリストの中で歩き、主を見つめて彼の照らしを求める必要があります。……いったん主の光によって実際を見るなら、実際はわたしたちの経験となるでしょう。そしてわたしたちは命と真理を持ちます。

 

 あらゆる兄弟姉妹が命と真理に満ちているとき、召会は生ける神の家として、真理の柱また基礎として、力強くなります。この事が、今日の主の回復において必要とされていることです。どうか主がわたしたちすべてをあわれみ、またわたしたちに十分な恵みを与えて、正しい実行を持たせ、命と真理で満たされるようにしてくださいますように。(リー全集、1978年、第3巻(上)、「キリストを召会の中のすべてとして回復する」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第5日

(長老責任者訓練 第8週5日)

 

生ける神の召会は、真理の柱また基礎です

 

ヨハネ18:37

……イエスは答えられた、「わたしが王であると、あなたは言っている。わたしはこのために生まれ、このために世に来たのである.それは、真理を証しするためである……

 

Ⅰテモテ3:15

……神の家とは生ける神の召会であって、真理の柱また基礎です。

 

「召会は真理を支える柱、また真理を保持する基礎です(Ⅰテモテ3:15)。Ⅰテモテ第3章15節の「真理」は、神の新約エコノミーにしたがった、新約において啓示されているキリストと召会に関する実際の事柄を指しています(マタイ16:16,18.エペソ5:32)。召会は実際としてのキリストを担います。召会は全宇宙に、キリストが実際であり、またキリストだけが実際であることを証しします(ヨハネ1:14,17.14:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、神の奥義であるキリストとキリストの奥義である召会を愛します。召会が全宇宙に、キリストだけが実際であることを証することができますように。  

 

 

召会は真理を支える柱、また真理を保持する基礎です

 

  [比喩的な言い方で、]パウロは、「真理の柱また基礎」としての召会について語りました[Ⅰテモテ3:15]。柱は建物を支え、基礎は柱を保持します。召会はそのような、真理を支える柱、真理を保持する基礎です。……その真理は神の新約エコノミーの実際と内容です。このエコノミーは二つの奥義から成っています。すなわち神の奥義としてのキリストと(コロサイ2:2)、キリストの奥義としての召会です(エペソ3:4)。キリストと召会、すなわち、かしらとからだは、神の新約エコノミーの実際の内容です。召会は、これらすべての実際を支える柱であり、保持する基礎です。地方召会は、キリストと召会の真理、実際を保持し、担い、証しする、このような建造であるべきです。

 

 神に対して召会は、宇宙の実際(真理)としての神であるすべてを担う機能を持っています。……召会は教理を保持するためではなく、神であるすべての実際を保持するためにあります。宇宙において、神だけが実際です。神であるすべてが実際であり、それは召会によって担われます。わたしたちは、召会、すなわち神の家また家族としてここにおり、神であるすべての実際を保持します。  (「新約の結論(21)」、メッセージ363)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第4日

(長老責任者訓練 第8週4日)

 

召会は真理としての主を認識し、命としての主を受け入れ享受します

 

ヨハネ14:6

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、実際であり、命である」……

 

ヨハネ17:17

彼らを真理の中で聖別してください.あなたの言は真理です。

 

「主は、彼の召会が真理としての彼を認識し、命としての彼を受け入れ享受することを願っています(Ⅰヨハネ1:1-2,5-6.ヨハネ11:25.14:6.18:37後半)。「真理」は「実際」を意味し、神の御言に啓示されたすべての実際の事柄を指しており、それはおもに神の具体化としてのキリストと、キリストのからだとしての召会です(Ⅰテモテ2:4.コロサイ2:9,19)。召会は、キリストにある神聖な命をもって建造されます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の具体化としてのキリストと、キリストのからだとしての召会を愛します。主よ、わたしたちが真理としての主を認識し、命としての主を受け入れ、享受することができますように。この命は破壊されることができないものであることを感謝します。主よ、神の御言に啓示されたすべての実際の事柄を認識することができますように。

 

 

召会は、キリストにある神聖な命をもって建造されます

 

 テモテへの第二の手紙第2章19節でパウロは言明します、「……神の堅固な土台はこの証印を帯びて立っています。その証印には、『主はご自分の者たちを知っておられる』、また『主の御名を呼ぶ者はみな不義から離れよ』とあります」。……ここの土台は召会の土台としてのキリストを指しているのではなく、真理の土台としての召会を指しているのです[参照、15、18、25節]。これは「真理の基礎」に一致します。それは真理を(Ⅰテモテ3:15)、特にキリストの復活の真理を保持します(使徒4:33)。

 

 召会は、キリストにある神聖な命をもって建造されます。この命は破壊されることができない、征服されることができないものであり(ヘブル7:16、使徒2:24)、あらゆる源から来る、死に至らせる衰退に抵抗することができます。ですから、召会は神の堅固な土台であり、いかなる異端にも敵対して永遠に立ちます。どのような種類の異端が来ても、あるいはいかに広範囲にえそが広がっても、この堅固な土台は立ちます。(「テモテへの第二の手紙ライフスタディ」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第3日

(長老責任者訓練 第8週3日)

 

わたしたちは共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至ります

 

Ⅰペテロ2:5

あなたがた自身も生ける石として、霊の家に建造されていきながら……

 

エペソ2:21

その方の中で、建物全体が共に組み合わされ、主の中にある聖なる宮へと成長していき。

 

「召会は神の家として、神の住まい、すなわち神が彼の安息を持ち、彼の信頼を置くことができる場所です(エペソ2:22)。また、召会は神の家、すなわち御父の家として、拡大された宇宙的な、神性と人性の合併であり、それは御父により、神聖な栄光をもってキリストの栄光が現されたことの結果です(ヨハネ12:23.13:31-32.14:20)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 神の住まいが、わたしたちの霊の中にあることを感謝します。 主よ、わたしたちが生ける石として、霊の家に建造されていきますように。主よ、召会の中で、神の新約エコノミーが実行され、主の願いが語り出され、主の栄光が現されますように。

 

 

召会は肉体における神の現れです

 

 召会は神の住まいですから、召会は神がご自身を表現する所です。……あなたがどのような人であるかは、あなたの家によって表現されます。……神は彼の家、住まいの中で、地上でご自身を表現されます。こういうわけで、テモテへの第一の手紙第3章16節は、召会は肉体における神の現れであることを啓示しているのです。……彼は召会の中で、彼の新約エコノミーを実行し、彼の願いを語り出し、彼の栄光を現すことを求めておられます。彼であるすべて、行なっているすべて、獲得したいすべては、彼の住まいである召会の中で現され、表現されます。

 

 エペソ人への手紙第2章22節は、神の住まいは信者たちの霊の中にあると告げています。パウロはここで、わたしたちは「共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至る」と言っています。ここの霊は、神の聖霊によって内住された、信者たちの再生された人の霊を指しています。神の霊は住む方であって、住まいではありません。住まいは信者たちの霊の中にあります。神の霊はわたしたちの再生された霊の中に住まわれます。ですから、神の住まいは、わたしたちの霊の中にあります。わたしたちの霊は、神の住まいの場所です。(「新約の結論(13)」、メッセージ208)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第2日

(長老責任者訓練 第8週2日)

 

生ける神は、召会にとって主観的です

 

Ⅰテモテ3:15

それは、もしわたしが遅れた場合、神の家の中でどのように振る舞うべきかを、あなたに知ってもらうためです.神の家とは生ける神の召会であって、真理の柱また基礎です。

 

Ⅰコリント3:16

あなたがたは神の宮であって、神の霊があなたがたの中に住んでおられることを、知らないのですか?

 

「神の召会は、生ける神の家です(Ⅰテモテ3:15)。パウロは神の家としての召会について語るとき、神が生ける神であることに言及しています(Ⅰテモテ3:15)。召会の中で生きている生ける神は、召会にとって主観的でなければならず、客観的であるだけであってはなりません(Ⅰコリント3:16)。神は生きているので、神の家としての召会も、彼の中で、彼によって、彼と共に生きています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 神の召会は、生ける神の家であることを感謝します。生ける神がわたしたちの間で生き、動き、語り、行動しておられます。わたしたち召会も、主の中で、主によって、主と共に生きることができますように。

 

 

生ける神がわたしたちの間で生き、動き、語り、行動しておられます

 

 生ける神と生ける召会は共に生き、行動し、働きます。生ける召会は生ける神の家です。ですから、わたしたちは集会、奉仕、務めにおいて、生ける神がわたしたちの間で生き、動き、語り、行動しておられるという印象を人に与えるべきです。召会、生ける神の家は、御父の御名と御父の命の中で生きています。これは、召会が御父の実際の中に生きていることを意味します。 

 

 神の家は、御父の命と実際の中にある、彼の多くの子供たちの生ける構成体です。これは、神の家がある所に、命と実際を伴う父なる神がおられることを意味します。これは、召会がキリストのからだであることに似ています。キリストはからだの肢体から分離されていません。なぜなら、からだのかしらとして、キリストはすべての肢体の中に住んでおられるからです。(「新約の結論(13)」、メッセージ208)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り第1日

(長老責任者訓練 第8週1日)

 

神の召会は、生ける神の家です    

 

Ⅰテモテ3:15

それは、もしわたしが遅れた場合、神の家の中でどのように振る舞うべきかを、あなたに知ってもらうためです.神の家とは生ける神の召会であって、真理の柱また基礎です。

 

「召会は「神の」召会です。なぜなら召会は、源である神から生み出され、神をその性質と本質として持っているからです。その性質と本質は神聖であり、宇宙的であり、永遠です(Ⅰコリント3:16-17)。そして、神の召会は、生ける神の家です(Ⅰテモテ3:15)。神の家は神の家族です(Ⅰペテロ1:3.2:5.Ⅰコリント3:16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。また生ける神の召会を愛します。主よ、わたしたちが神の命をもって再生され、神の住まいとなっていることを感謝します。わたしたち神の召会が、生ける神の家として成長することができますように。

 

 

召会は生ける神の家であり、この家は成長します

 

 神の家と神の家族は両方とも一つの実体、すなわち、再生され、召され、神ご自身が内住している一つの団体です。これらの召された者たち、すなわち、神によって彼の命をもって再生され、この生ける神によって、彼であるすべてをもって内住されている人たちは、神の住まいと神の家族の両方です。……これは人々の団体や組織とは異なります。これは有機的なもの、すなわち、神聖な命において有機的であり、神聖な性質において有機的であり、三一の神の中で有機的です。

 

 ある人たちは「エクレシア」を大いに強調しましたが、召会の有機的な面に多くの注意を払いませんでした。彼らは神の家族としての召会についてあまり多く言いませんでした。しかし、わたしたちは、召会が有機的であることを認識しなければなりません。それは神の生ける家です。パウロは、召会は生ける神の家であり(Ⅰテモテ3:15)、この家は成長すると言っています(エペソ2:21)。あるものが成長するために、それは生きていなければなりません。……成長するものはすべて有機的であり、命を持っています。ハレルヤ、わたしたちは成長しつつあります!(リー全集、1983年、第3巻(下)、「聖書における基本的啓示」、第5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)



2024年    1月1日

朝の祈りの集会 

 

わたしは神の祭壇に、わたしの歓喜と喜びである神に行きます

 

2024年1月1日午前7時から祈りの集会で、わたしたちは詩編第43篇3節-4節の言葉を祈り読みをして、詩歌285を歌い、また家族の救いなどを祈り、享受しました。祈りと共に新しい年を開始できたことを感謝します。

                                             

詩歌285

高き山の上でただ主を見たし、天のみこえを聞き、新鮮な空気を吸う

さらに高嶺へと導きたまえ、霊のいずみ飲みて、さらに主享受す

 

詩篇第43篇3節-4節

 3 あなたの光とあなたの真理を送ってください.それらはわたしを導きます.それらはわたしを、あなたの聖なる山に、あなたの幕屋に連れて行きます。4 わたしは神の祭壇に、わたしの歓喜と喜びである神に行きます.神よ、わが神よ、わたしは竪琴をもってあなたをほめたたえます。

 

詩篇43篇3節、4節フットノート

3-1  光と真理(実際)は分離されたものではなく、一つのものの二つの面です。真理は光の輝きであり、光は真理の源です(Ⅰヨハネ1:5-6と6節のフットノート6、最後の段落)。光がわたしたちの上に輝くと、わたしたちは真理、実際を受けます。わたしたちは交わりの中で神に行くと、光の中にいます。この節によれば、神聖な光と神聖な真理は神の捕囚の聖徒たちを、神の聖なる山と彼の幕屋に導きます。幕屋は諸地方召会を予表します。光と真理は召会の中にあります(Ⅰテモテ3:15)。

 

4-1  詩第42篇から第44篇を書いた詩篇の作者は、捕囚の中で神を愛する者でした(42:6)。彼らは神を慕いあえぎ、神に渇き(42:1-2)、エルサレムに戻りシオンの山に行って祭壇に到達することを願いました。こうして、彼らは宮の中に入って、彼らの歓喜と喜びである神に会うことができました。こういうわけで彼らは、神が彼らに光と真理を与えてくださり(3節)、どのようにして捕囚から解放され、神の住まいに戻るかを知るようにと祈ったのです。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)