9月の祈り 第30日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第2週5日)

 

ベテルを経過して、時代は転換しました

 

列王下2:2

エリヤはエリシャに言った、「ここにとどまっていなさい.エホバがわたしをベテルにまで遣わされたからです」。エリシャは言った、「エホバは生きておられ、あなたの魂も生きています.わたしはあなたを離れません」。そこで彼らはベテルに下って行った。

 

創12:8

[アブラム]はそこからベテルの東の山に進んで、天幕を張った.……そして彼はエホバのため、そこに祭壇を築いて、エホバの御名を呼び求めた。

 

「ベテルを経過して、時代は転換しました。ベテルは、この世を放棄し、完全に神に立ち返り、神をすべてとする場所です。ベテルはこの世に対する勝利を指しています(創12:8.Ⅰヨハネ2:15)。創世記第12章8節によれば、ベテルは、アブラハムが祭壇を築いた場所、神との交わりと交流の場所です。ベテルは、わたしたちが自分自身を神にささげ、完全に彼に明け渡してこの世に勝利する場所です(創13:3-4)」。

 

 主よ、あなたを愛し、あなたの御名を呼びます。主よわたしたちはベテルにおいて、祭壇を築き、天幕を張って、この世に対して勝利することができますように。また、主よ、わたしたちはエリコにおいて神の言葉に依り頼み、天にある地位に立って、サタンと彼の邪悪な霊どもに勝利することができますように。

 

 

エリコを経過して、時代は転換しました

 

 エリコを経過して、時代は転換しました。エリコは、ヨシュアとイスラエルの民が良き地に入った時、打ち破らなければならなかった最初の町であり、神の敵サタンを表徴します(ヨシュア第6章.啓12:11)。エリコが陥落したのは、力によるのではなく、イスラエル人が神の言葉に依り頼み、彼らの地位に堅く立つことによってでした。

 

 邪悪な霊どもの攻撃に勝利するために、第一にわたしたちは、あらゆる状況や感覚を無視し、神の約束の言葉を信じなければなりません。これが敵を打ち破るでしょう。第二にわたしたちは、キリストがわたしたちに与えてくださった、天にある地位に立たなければならず、またサタンと彼の邪悪な霊どもを、自分たちよりも低い地位に下ろさなければなりません。神の言葉がなければ、またわたしたちが信仰を活用して、神が与えてくださった地位を選ぶのでなければ、わたしたちは敵に勝利を得ることはできません。(ニー全集、第9巻、第23号)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第29日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第2週4日)

 

四つの場所、ギルガル、ベテル、エリコ、ヨルダン川を経過して時代は転換します

 

列王下2:1

エホバがたつまきによってエリヤを天に取り上げようとされたとき、エリヤはエリシャと共にギルガルから出て行った。

 

ピリピ3:3

なぜなら、わたしたちこそ割礼の者であり、神の霊によって仕え、キリスト・イエスの中で誇り、肉を頼みとしていないからです.

 

「ギルガルを経過して、時代は転換しました。ギルガルは、神の民が割礼されて彼らの肉を対処した場所でした。ギルガルは、肉が裁かれる場所であり、神がわたしたちに光を与えて肉を裁かせる場所です(ヨシュア5:2-9.ガラテヤ5:24.ピリピ3:3-8)」。

 

 主よ、わたしたちが時代のビジョンにしたがって、四つの極めて重要な場所を経過することができますように。主よ、わたしたちもエリシャのようにギルガルから出て行き、ベテル、エリコ、ヨルダン川を渡るこれら四つの行程を旅して、学課を学ぶことができますように。

 

 

わたしたちはギルガルから出て行って、ヨルダン川を渡るまでの四つの行程を進みます

 

 エリヤは旧約エコノミーを伴う旧約時代の予表であり、エリシャは新約エコノミーを伴う新約時代の予表です。四つの場所、すなわちギルガル、ベテル、エリコ、ヨルダン川を経過して(列王下2:1-8)、時代は転換しました。ギルガルは、神の民が割礼されて彼らの肉を対処した場所でした(ヨシュア5:2-9)。(列王下2:1、フットノート1)

 

 [列王紀下第2章1節から14節]には、四つの行程があります。これらには、ギルガルから出て行くこと、ベテルへの行程、エリコへの行程、ヨルダン川を渡ることが含まれます。エリヤが天へと取られて、エリシャが聖霊の二倍の分を受ける前に、彼らはこれら四つの場所を経過しました。もしわたしたちが、天へと取られたエリヤのようでありたければ、また聖霊の外套(すなわち、外側の衣のように彼の上に下った聖霊)を受けたエリシャのようでありたければ、わたしたちがこれら四つの行程を旅しなければならないことが、決定的に重要な学課となります。わたしたちは、携え上げられるのであれ、聖霊の力を受けるのであれ、みなギルガルから出て行って、ヨルダン川を渡るまで行程を進まなければなりません。(ニー全集、第9巻、第23号)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第28日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第2週3日)

 

神はご自身を隠される神です

 

列王上19:11-12

……エホバは風の中にはおられなかった。……エホバは地震の中にもおられなかった。……エホバは火の中にもおられなかった。火の後に、かすかな静かな声があった。

 

「エリヤが神の山にいたとき、突然エホバが通り過ぎ、彼は風、地震、火の中にいませんでした。火の後、神はエリヤに、「かすかな静かな声」で語りました。これは、神がエリヤを新約時代にもたらしていたことを示します。神は新約時代に彼の民に、雷によってではなく、かすかに静かに語ります(列王上19:11-12.ローマ8:6後半.Ⅱコリント2:13.Ⅰヨハネ2:27)」。

 

 主よ、あなたはご自身を隠される神です。主よ、あなたの最も真実な働き、わたしたちの中での神の隠された働きを知る者とならせてください。わたしたちの内側で語られるかすかな静かな声、小さな声を聞くことができますように。

 

 

神は新約時代に彼の民に、かすかな静かな声で語ります

 

 神はご自身を隠される神であり、彼の働きは常に隠されています。大いなる接触、大いなるビジョン、大いなる光景を望み続けないでください。それらは必ずしも神からのものではありません。わたしは神のすべての子たちに告げたいのですが、神の最も真実な働きは、わたしたちの中での神の隠された働きです。すなわち、ほんの小さな声、小さな感覚、小さな考えであり、それは神の行動のようにも思えるし、わたしたち自身の印象のようにも思えます。さらに、それはしばしば非常にかすかで、気のせいのように思えます。これが神の最も尊く、最も真実な働きです。

 

 ときどき、わたしたちの存在の最も深い部分に、小さな考え、感覚、声、言葉があって、わたしたちに、「これはあなたの肉です。これは十字架を経過していません。これは主からのものではありません」と告げます。これはわたしたちの中での神の最も力強く、最も大いなる働きです。神がわたしたちの中で働いていない日は一日もなく、働いていない時は一瞬もありません。……わたしたちは冷めたり、後退したり、さらには集会に来なくなったり、彼を最も悲しませることを行なったりすることさえあるかもしれません。しかし、この時点で、この実際は依然としてわたしたちの内側にあります。これはわたしたちが救われていることの動かぬ証拠です。(ご自身を隠される神、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第27日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第2週2日)

 

勝利者たちは自分自身の命を顧みず、神のみこころだけを顧みます

 

列王上18:37

わたしに答えてください.エホバよ.わたしに答えてください.エホバよ、あなたが神であること、あなたが彼らの心を再び戻されたことを、この民が知りますように。

 

「エリヤは、自分自身の命を顧みないで神の証しを維持するという原則を表します。彼は強く勇敢であって、王、民、バアルの預言者四百五十人の前に立ちました。召会が荒廃し、信者たちの大部分がなまぬるいとき、神は勝利者たちを起こして反対の証しとならせます。彼らは自分自身の命を顧みず、神のみこころだけを顧みます(啓2:13-14.12:11)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。召会が荒廃したときに、あなたは勝利者たちを起こして反対の証しとならせます。主よ、わたしたちも神のみこころだけを顧みることができますように。主よ、わたしたちにエリヤの霊、エリヤの勇気、エリヤの証しを持たせてください。

 

 

荒廃の時に反対の証しとして立つために、エリヤの霊、エリヤの勇気、エリヤの証しを持ちます

 

 エリヤは強く勇敢でした。彼はバアルの預言者四百五十人とイスラエルのすべての民に反対しました。荒廃の時に反対の証しとして立つためには、エリヤの霊、エリヤの勇気、エリヤの証しを持たなければなりません。荒廃の時代はいつも、エリヤのような勝利者が進み出る必要があります。すべての人が偶像の後を行っているときに、立ち上がって、すべての人の間違いを糾弾することのできる人が必要です。今日、召会は依然として荒廃の中にあります。

 

 こういうわけで、エリヤのような人が立ち上がって、反対の証しとなり、自分自身の命を顧みず、外側の反対の程度を顧みず、多数の反対者を気にしないことの必要が依然としてあります。最後に、すべての預言者は死にましたが、エリヤは死にませんでした。むしろ、彼は生きたまま携え上げられました(列王下2:1)。わたしたちは死を恐れる必要はありません。…… 神はわたしたちを携え上げたいのです。これがエリヤの証しでした。(リー全集、1954年、第4巻、「レビ記からネヘミヤ記にかけての啓示」、第10編、英文)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第26日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第2週1日)

 

時代のビジョンを持つ時代の奉仕者に従います

 

ピリピ3:7-8

……わたしにとって益であった事柄を、わたしはキリストのゆえに、損失と勘定するようになりました。……わたしはまた、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定します.わたしは……それらをちりあくたと勘定します.それは、わたしがキリストを獲得するためで[す]……。

 

「エリヤは彼の時代のために、ビジョンを持つ時代の奉仕者でした(参照、マラキ4:5-6.ルカ1:13-17,76-80.マタイ17:1-13.啓11:3-12)。主はあらゆる時代に、達成したい特別な事柄を持っています。彼はご自身の回復と、行なうべきご自身の働きを持っています。彼が一つの時代に行なう特別な回復と働きは、その時代の務めです」。

 

 主よ、わたしたちがパウロのように、自分にとって益であった事柄をキリストのゆえに、損失と勘定する者となりますように。主よ、わたしたちがこの時代のビジョンを持っている時代の奉仕者に従うことができますように。

 

 

人がその時代の務めを見て、過去の務めを捨てることができるのは、神のあわれみです

 

 人がその時代の務めを見て、それに出会うことができるのは、神のあわれみです。しかしながら、人が勇気を出して過去の務めを捨てることは、全く別の事です。……しかしながら、人が自分の過去の務めをわきへ置くことができるかどうかは、完全に神のあわれみにかかっています。(ニー全集、第57巻、「ウオッチマン・ニーの務めの回復」、第25編)

 

 エリヤの務めは、反対の証しでした。全イスラエルが偶像を拝んでいたとき、エリヤは彼らに彼らが拝んでいる偶像は偽の神々であり、エホバだけが真の神であることを告げました(列王上18:18、21、36.列王下1:16)。……エリヤは、反対の証しとなって、偶像礼拝が神を怒らせる罪であると、彼らに告げました。(リー全集、1954年、第4巻、「レビ記からネヘミヤ記にかけての啓示」、第10編、英文)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

2022年9月 全国特別集会

9月の祈り 第24日

(9月 全国特別集会M4から 第6日)

 

召会は最終的に、聖くて傷のない栄光の召会になります

 

エペソ5:26,27

それはキリストが召会を聖化し、言葉の中の水の洗いによって召会を清めるためであり、またそれは、しみやしわや、そのようなものが何もなく、聖くて傷のない栄光の召会を、彼がご自身にささげるためです。

 

「エペソ第5章27節が啓示しているのは、キリストの花嫁としての召会が最終的に、しみやしわや、そのようなものが何もなく、聖くて傷のない栄光の召会、神を表現する召会になるということです。パウロは洗う過程を伴う言葉について語るとき、「レーマ」というギリシャ語を用いています(エペソ5:26)。ロゴスは聖書に記録されている客観的な神の言であり、レーマは特定の場合にわたしたちに語られる神の言葉です(マルコ14:72.ルカ1:35-38.5:5.24:1-8)」。 

 

 主よ、聖書に記録されている客観的な神の言ロゴスが、わたしたちを洗う言葉レーマとなりますように。主が現在わたしたちに語る言葉がいつもありますように。主の語りかけがあるとき、わたしたちの内側に主の臨在がありますように。

 

キリストの語りかけは、まさに命を与える霊の臨在です

 

 命を与える霊として、キリストは語る霊です。彼が語ることは何であれ、わたしたちを洗う言葉です。これが指しているのは、恒常的な言葉であるロゴスではなく、即時的な言葉を意味するレーマ、すなわち、主が現在わたしたちに語る言葉です(マタイ4:4.ヨハネ6:63.啓2:7.22:17前半.参照、イザヤ6:9-10.)。 レーマは、わたしたちに何かを個人的に直接的に啓示します。それは、わたしたちが何を対処する必要があり、何から清められる必要があるのかを示しています(青銅の洗盤は鏡であり、映し、暴露することができました――出38:8)。わたしたち一人一人にとって重要な事は、このことです。すなわち、神は今日わたしに彼の言葉を語っているでしょうか?

 

 わたしたちが常に尊んでいる一つの事は、主が今日もなお、わたしたちに個人的に直接、語っているということです。命における真の成長は、わたしたちが直接、神から言葉を受けることにかかっています。わたしたちの中での彼の語りかけだけに、真の霊的価値があります(ヘブル3:7-11,15.4:7.詩95:7-8)。とても実際的な意味で、主の臨在は彼の語りかけと一つです。彼が語るときはいつも、わたしたちは自分の内側にある彼の臨在を認識します。キリストの語りかけは、まさに命を与える霊の臨在です。

 

(9月 全国特別集会アウトラインより)


9月の祈り 第23日

(9月 全国特別集会M4から 第5日)

 

神聖な分与は、わたしたちをキリストのために聖い栄光の花嫁とならせる

 

エペソ第5章25節から27節は、三つの段階においてキリストをわたしたちに提示する、神の全体的な救い全体を啓示しています。

 

①.過去、贖い主としてのキリストは、召会のためにご自身を捨てられました。それはわたしたちの法理的な贖いのためです――「夫たちよ、キリストが召会を愛して、彼女のためにご自身を捨てられたように、あなたがたの妻を愛しなさい」(エペソ5:25) 

 

②.現在、命を与える霊としてのキリストは、彼の要素を召会に浸透させることによって召会を性情において聖別し、召会が彼の配偶者となるようにしています。これは、花嫁を美しくし花嫁を用意するための有機的な救いです――「それはキリストが召会を聖化し、言葉の中の水の洗いによって召会を清めるためであり」(エペソ5:26) 

 

③.将来、花婿としてのキリストは、召会を彼の配偶者としてご自身にささげ、満足を得ます――「それは、しみやしわや、そのようなものが何もなく、聖くて傷のない栄光の召会を、彼がご自身にささげるためです」――これはわたしたちの栄光化であり、花嫁をささげるためです(エペソ5:27) 

 

 主よ、あなたが召会のためにご自身を捨てられたことを感謝します。今日、言葉の中の水の洗いによって召会を聖化してください。そして、わたしたちが聖くて傷のない栄光の召会となり、あなたの配偶者としてご自身にささげられますように。

 

 

召会はキリストのために美しく、聖い、栄光の花嫁となります

 

 回復における主の主要な働きは、彼の花嫁を用意する真の働きです。エペソ第5章26節で語られている継続的な性情の聖別なしに、花嫁が用意される道はなく、それゆえに、啓示録第19章7節から9節が成就される道もありません。神聖なエコノミーのための神聖な分与は、性情の聖別の過程であり(Ⅰテサロニケ5:23-24)、それはわたしたちが美しくされて、キリストのために美しく、聖い、栄光の花嫁となるためです。

 

 命を与える霊としてのキリストは、言葉の中の水の洗いにしたがって召会を清めることによって、召会を聖化します。神聖な観念によれば、ここの「水」は、流れる水によって予表される、神の流れる命を指しています(出17:6.Ⅰコリント10:4.ヨハネ7:37-39.啓7:17.21:6.22:1,17)。わたしたちは今そのような洗う過程の中にいます。それは、召会が聖くて傷のないものとなるためです。

 

(9月 全国特別集会アウトラインより)


9月の祈り 第22日

(9月 全国特別集会M3から 第4日)

 

神の永遠のエコノミーの完成のために、クリスチャンのレースを走り、賞を得る

 

ヘブル12:1

こういうわけで、こんなにも大勢の証し人である雲に囲まれているのですから、わたしたちも、あらゆる重荷と、いとも容易にまといつく罪をかなぐり捨てて、前に置かれているレースを、忍耐をもって走ろうではありませんか.

 

「クリスチャンの生涯はレースです。すべての救われたクリスチャンは、レースを走って、賞を勝ち取らなければなりません(Ⅰコリント9:24)。この賞は、一般的な意味における救いではなく(エペソ2:8.Ⅰコリント3:15)、特別な意味における褒賞です(ヘブル10:35.Ⅰコリント3:14)。使徒パウロはレースを走って、賞を勝ち取りました(9:26-27.ピリピ3:13-14.Ⅱテモテ4:7-8)」。

 

 主よ、わたしたちがクリスチャンの生涯のレースを走り通すことができますように。主よ、わたしたちの信仰の創始者、完成者であるイエスを、ひたすら見つめさせてください。主よ、わたしたちの信仰の霊を活用して、見えるものにではなく、見えないものに目をとめさせてください。

 

 

わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめます

 

「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい(ヘブル12:2)。信仰は、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を把握し、確認することです。ですから、信仰は、見えない事柄の証拠、証明です(ヘブル11:1)。わたしたちの生活は望みの生活であるべきであり、それは信仰を伴っており、また信仰と共にあります(Ⅰペテロ1:21.Ⅰコリント13:13)。わたしたちは、「わたしたちの父アブラハム…の…信仰の足跡にしたがって歩く」(ローマ4:12)者たちとなるべきです。彼は、「望み得ないのに、なおも望んで信じました」(18節)。

 

 わたしたちは、わたしたちの信仰の霊を活用して、見えるものによってではなく、信仰によって歩く必要があります(Ⅱコリント4:13.5:7)。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに」目をとめ、見つめます。「なぜなら、見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠であるからです」(Ⅱコリント4:18)。

 

(9月全国特別集会アウトラインより)


9月の祈り 第21日

(9月 全国特別集会M2から 第3日)

 

主イエスを愛することを回復することは、神のエコノミーを完成するためです

 

啓示録2:4,5

しかし、わたしには、あなたを責めるべき事が一つある.あなたは初めの愛を離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めのわざを行ないなさい.…

 

「神のエコノミーは、信仰の領域と要素の中にあり、信仰は愛を通して働きます(ガラテヤ5:6)。召会の堕落は、主に対する初めの愛からわたしたちが離れることに始まります。愛以外の何ものも、わたしたちを主との正常な関係に保つことはできません(啓2:4-7)」。

 

 主よ、わたしたちが初めの愛をもって主を愛することができますように。主よ、朝ごとに復興される生活をして、夜明けの胎から出る露のようになりますように。また、神の言葉を愛し、尊び、思い巡らすことができますように。

 

 

初めの愛をもって主を愛することは、すべての事で主を第一位とし、主をあらゆるものとして受けることです

 

 初めの愛、最上の愛をもって主を愛することは、すべての事で主を首位、第一位とし、彼の愛に押し迫られ、彼をわたしたちの生活の中であらゆるものとし、あらゆるものとして受けることです(啓2:4.コロサイ1:18後半.Ⅱコリント5:14-15.マルコ12:30.詩73:25-26.80:17-19)。あらゆる人の主に対する愛の起点は、彼のパースンのビジョンです。主に対する初めの愛を離れることは、歴代、召会の失敗の根源また主要な原因でした。ただ愛だけが、わたしたちを主との正常な関係の中に保つことができます(ピリピ3:8.マタイ26:6-13.エペソ3:16-19.6:24.啓2:4-5.参照、3:20)。

 

 初めの愛をもって主を愛すること、すべての事で彼を第一位とすることは、主との個人的で、愛情に満ちた、ひそかで、霊的な関係を持つことです(雅1:1-4)。また、日々朝ごとの復興の生活をして、夜明けの胎から出る露のようなキリストの若者となることによって、彼を満足させ(詩110:3)、教えを受けた者の舌を持って、疲れた者を言葉をもって、いかに支えるかを知ることです(イザヤ50:4-5)。また、神の言葉を愛し、尊び、思い巡らす(口ずさむ)ことです(詩119:11,14-15,23,48,72,78)。

 

(日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第20日

(9月 全国特別集会M1から 第2日)

 

神の永遠のエコノミーの回復

 

使徒26:19

こういうわけで、アグリッパ王よ、わたしは天のビジョンに背かず…

 

 わたしたちは、神の永遠のエコノミーの天的ビジョンの真理、神の永遠のエコノミーの的の真理、神の永遠のエコノミーの目標の真理の中を歩かなければなりません。このビジョンはわたしたちの中で日ごとに更新されて、わたしたちの生活と働きと活動のすべてを制御するビジョンとならなければなりません(箴29:18前半.使徒26:16-19.Ⅰヨハネ1:7.Ⅲヨハネ3-4節)。

 

 主よ、日ごとに神の永遠のエコノミーの天的ビジョンを見せてください。主よ、このビジョンによって、わたしたちの生活と働きと活動が制御されますように。主よ、わたしたちが見えるものから、見えないものへと回復されますように。

 

 

信仰の霊を活用して信仰によって歩きます

 

 神のエコノミーは「信仰の中に」あり(Ⅰテモテ1:3-5)、「信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を確認することです」(ヘブル11:1,5-7,26-27)。すばらしいイエスは、「わたしたちの信仰の創始者、また完成者」です(ヘブル12:2)。信仰とは、「神はある」ことと(11:6)、わたしたちはないことを信じることです(創5:22-24)。 こういうわけで、わたしたちは、主の回復がわたしたちを見えるものから、見えないものへと回復することであると言うことができます。このゆえに、わたしたちは見えるものによって歩くのではなく、信仰の霊を活用して信仰によって歩く者たちである必要があります(Ⅱコリント4:13,16-18)。

 

 1.主の回復は、キリストを、肉体と成ること、包括、強化におけるキリストの満ち満ちた務めにおける、わたしたちの中心、実際、命、すべてとして回復することです(コロサイ1:17後半,18後半.ヨハネ1:14.Ⅰコリント15:45後半.ヨハネ6:57.14:21,23)。

 

2.主の回復は、キリストのからだの一を回復することです(ヨハネ17:11,21-23.エペソ4:3-4前半.啓1:11)。

 

3.主の回復は、キリストのからだのすべての肢体の機能を回復することです(エペソ4:15-16.ローマ15:16.Ⅰペテロ2:5,9)。

 

(日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第19日

(9月 全国特別集会から 第1日)

 

2022年 メモリアルデー特別集会の導入

 

命の木としてのキリストを享受する道を取る

 

創2:8-9

そして、エホバ・神は……園を植えられた.そして彼は形づくった人をそこに置かれた。エホバ・神はその土地から、見て喜ばしく、食べるのに良い、すべての木を生えさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪知識の木とを生えさせられた。

 

「命の木は、人に命を分け与えまた人を喜ばせ満足させるキリストを予表します」(創世記ライフスタディ(1)、第11編)。

 

「命の木を食べること、すなわち、キリストをわたしたちの命の供給として享受することは、召会生活の主要な事柄であるべきです」(啓2:7、フットノート6、第4段落)。

 

 主よ、わたしたちが初めの愛をもって主を愛することができますように。主を命の木として食べて享受することができますように。主よ、わたしたちのあらゆる種類の問題は、命の不足の結果であることを見せてください。

 

 

命の木についてのメッセージは、各地の召会の復興のために基礎を据えました

 

「1943年5月……わたしは深刻な結核に感染しました。……わたしは二年半のわたしの病の期間に、命の木を見ました。その二年半にわたしは、主の回復において、また主の働きにおいて、わたしたちが命に欠けていることを見ました。あらゆる種類の問題は、それが何であっても、命の不足の結果です。わたしはこのことを見た時、非常に後悔し、主の御前で多く告白し、徹底的な悔い改めを持ち、また主の御前で多くの対処を持ちました。……命の木についてのメッセージは南京において、多くの聖徒たちを救い、また多くの兄弟姉妹を解放しました。上海に在る召会における四年間の騒動のゆえに、聖徒たちは長年にわたって落胆し、意気消沈して、何もすることができませんでした。これらのメッセージは彼らの霊を解放し、彼らの心を照らしました。……主に感謝します。命の木についてのメッセージを通して、上海に在る召会はいやされました。……命の木についてのメッセージは、上海に在る召会の復興のために基礎を据えました」――ウイットネス・リー全集、1981年、第2巻(上)、「主の回復の歴史と啓示」、第8編。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

朝ごとの食物

9月の祈り 第17日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第1週6日)

 

わたしたちは選ばれた種族、王なる祭司の体系です

 

ローマ5:17

…… あふれるばかりの恵みとあふれるばかりの義の賜物を受ける者たちは、さらにいっそう一人の方、イエス・キリストを通して、命の中で王として支配します。

 

Ⅰペテロ2:9

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王なる祭司の体系、聖なる国民……です.……

 

「[歴史書の]王たちは新約の信者たちの予表です。 新約において、すべての信者は王また祭司となるために救われています(Ⅰペテロ2:9.啓1:6.5:10.Ⅱテモテ2:12)。新約の信者たちは、神のエコノミーにおける王たちの予表の成就であるべきです(ローマ5:17, 21)」。

 

 主よ、わたしたちが選ばれた種族、王なる祭司の体系、聖なる国民であることの実際を生きることができますように。主よ、イエス・キリストを通して、命の中で王として支配するということが、わたしたちにおいて成就しますように。

 

 

新約において、わたしたち信者は王、祭司、預言者です

 

 イスラエルはおもに良き地を享受していました。……最高の水準で良き地を享受していた最高の者は、王でした。これらの王たちは、新約の信者たちの予表です。なぜなら、新約の信者はみな王となるために神によって救われたからです。新約のあらゆる信者は王であり、祭司です(Ⅰペテロ2:9.啓1:6.5:10.Ⅱテモテ2:12)。王も祭司も神の代理権威です。神の代理権威は、語るべき神の託宣と支配する神の権威から成っています。

 

 祭司は神のために語るとき、神の代弁者、神の口となり、これらは預言者です。ですから新約において、わたしたち信者は王、祭司、預言者です。旧約の王たちは予表であり、この予表は、新約の信者たちが王であることによって成就されます。これらはキリストを極みまで享受している人々です。……神は支配しますが、直接、支配するのではありません。神は王としてのわたしたちを通して、信者を通して支配します。新約の信者たちは、神のエコノミーにおける王の予表の成就であるべきです。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)、「神の啓示の高嶺にしたがった生活をする」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第16日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第1週5日)

 

イスラエルの歴史は、召会全体の予表であり、また神のエコノミーの予表です

 

エペソ1:10

時代の満了時のエコノミー[経綸]へ至るためです.すなわち、キリストの中で、天にあるもの地にあるもの、すべてのものを、彼の中でかしらにつり上げようとされたのです。

 

「列王紀上、下における内在的な啓示は、予表を通して明らかにされ伝達されています。イスラエルの歴史は、召会全体の予表であるだけでなく、神のエコノミーの予表でもあります(Ⅰテモテ1:4)。イスラエルは、新約における神の選民としての召会を予表しています(Ⅰコリント5:7.10:6)。イスラエルの国によって予表される、この団体的なからだのために、神はご自身を団体的なイスラエルの中へと造り込みました。それは、彼らが地上における神の家、神の住まいとなるためでした(出25:8-9.40:34)」。

 

 主よ、ご自身をキリストのからだとしての召会の中に分与してください。わたしたち召会が地上における神の家、神の住まいとなりますように。主よ、神のエコノミーの完成のために生きることができますように。

 

 

団体的なイスラエルは、キリストのからだとしての召会の予表です

 

 神の意図は、団体的なからだを得ることです。イスラエルの国はこのからだの予表でした。このために、神は創世記から出エジプト記に進み、ご自身を団体的なイスラエルの中へと造り込まれました。それは、彼らが神の家、すなわち地上における神の住まいとなるためであり、その住まいイスラエル人のただ中にある幕屋で予表されています。この団体的なイスラエルは、キリストのからだとしての召会の予表であって、人々の間の地上における神の住まいです。(「神のエコノミーとキリストのからだの建造」、第2章)

 

 旧約にはイスラエルがあり、新約には召会があります。……この二つの民は、神が成した一つの事の記述であり、この一つの事は神のエコノミーの完成です。……神のエコノミーの中で、イスラエルの民はまさに予表、型、影です。……イスラエルは召会を予表します。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)、「神の啓示の高嶺にしたがった生活をする」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第15日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第1週4日)

 

新約の全書簡はキリストのからだのためです

 

ローマ12:5

わたしたちも数は多いのですが、キリストの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです。

 

「ローマ人への手紙から啓示録までが明らかにしているのは、すべてを含む、命を与える霊が、造り変えを通して諸召会を建造して、究極的に完成された三一の神の有機体、すなわちキリストのからだとならせるということであり、このからだは新エルサレムにおいて究極的に完成して、究極的に完成された三一の神の永遠の拡大となります(ローマ1:3-4.12:4-5.16:20.啓21:2, 9-11)」。

 

 主よ、わたしたちにキリストのからだのビジョンを与えてください。主よ、わたしたちが神の長子としてのキリストのかたちへと造り変えられますように。そして、わたしたちが三一の神の有機体、キリストのからだの実際を持つことができますように。

 

 

キリストのからだは、新エルサレムにおいて究極的に完成され、三一の神の永遠の拡大、表現となります

 

 ローマ人への手紙第12章5節は、新約聖書全体の中で、キリストのからだを述べている最初の節です。これは、全書簡がキリストのからだのためであることを示しています。キリストのからだについて語る他の書簡は、コリント人への第一の手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙です。これら四つの書簡(ローマ人への手紙、コリント人への第一の手紙、エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙)は、新約聖書の主要な書です。もしこれらの書が取り去られていたら、新約聖書はむなしくなったことでしょう。

 

 ローマ人への手紙から啓示録までが明らかにしているのは、すべてを含む、命を与える霊が諸召会を建造して、究極的に完成された三一の神の有機体、すなわちキリストのからだとならせるということです。それは彼らを神の長子としてのキリストのかたちへと造り変えることによってであり、このからだは新エルサレムにおいて究極的に完成して、究極的に完成された三一の神の永遠の拡大また表現となります。(「三一の神の啓示と彼の行動」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第14日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第1週3日)

 

わたしはわたしの王を、わたしの聖なる山シオンに立てた

 

詩2:6,12

しかし、わたしはわたしの王を、わたしの聖なる山シオンに立てた。 12  御子に口づけせよ.彼が怒って、あなたをその道で滅ぼすことがないようにせよ.彼の怒りは、今まさに発火しようとしているからだ。幸いである、すべて彼の中に避け所を得る者たちは。

  

「旧約は神の永遠のエコノミーの、絵図であり、新約は神の永遠のエコノミーの、実際的な成就です。ヨシュア記からエステル記までの十二巻の歴史の書が明らかにしているのは、三一の神が彼の選ばれた民の中で行動して、彼らに彼の約束したすべてを含むキリストを良き地として所有させ、受け継がせ、享受させるということです(ヨシュア1:1-9, 13.エステル4:13-14)」。

 

 主よ、わたしたちがすべてを含むキリストを良き地として所有し、受け継ぎ、享受することができますように。また、歴史の書にある神の選ばれた民の失敗から、新約にいるわたしたち召会の民への警告を受けることができますように。 

 

 

旧約において、すべてを含むキリストの生き生きとした描写を提示しています

 

 旧約聖書に提示された神の永遠のエコノミーの比喩的な描写は、三十九巻の書に及びますが、それは予表、歴史、詩、預言のただ四つの区分にあります。予表の区分は五つの書から成っており、創世記から申命記までです。歴史の区分は十二の書から成っており、ヨシュア記からエステル記までです。詩の区分は五つの書から成っており、ヨブ記から雅歌までです。預言の区分は十七の書から成っており、イザヤ書からマラキ書までです。……

 

 [旧約]のすべての要点は、旧約での神の永遠のエコノミーの中にあり、またそのためであるすべてを含むキリストの生き生きとした描写を提示します。予表において、キリストが神の永遠のエコノミーの中心性と普遍性であり、神のすべての選ばれた民にとって神聖な祝福であることを見ます。歴史において、すべてを含むキリストが神の約束された良き地であり、神のすべての選ばれた民が取り、所有し、受け継ぎ、極みに至るまで、さらには王職の段階に至るまで享受すべきであることを見ます。(リー全集、1994年―1997年、第3巻(上)、「三一の神の啓示と彼の行動」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第13日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第1週2日)

 

イスラエルの王たちの歴史は、神のエコノミーと関係があります

 

マタイ16:16,18

シモン・ペテロが答えて言った、「あなたはキリスト、生ける神の子です」。 18  そこでわたしもあなたに言う.あなたはペテロである.わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる.ハデス[陰府]の門も、それに勝つことはない

 

「わたしたちは列王紀上、下を読むとき、旧約の歴史書と新約との結び付きを見る必要があります。この結び付きは、キリストのため、またキリストのからだのための神のエコノミーです(エペソ1:22-23.3:17.4:16)」。

 

 主よ、わたしたちが旧約の歴史書と新約との結び付きを見ることができますように。主よ、キリストとキリストのからだのための神のエコノミーを開いて見せてください。イスラエルの歴史が、神の永遠のエコノミーを完成することと関係があることを見せてください。

 

 

歴史書は、キリストと召会に関する神の永遠のエコノミーの観点から書かれています

 

 ソロモンがキリストを予表するのは(マタイ12:42)、神の知恵の言葉を語ることにおいて(13:35)、神の宮としての召会を建てることにおいてです(16:18.Ⅰコリント3:16.エペソ2:21-22)。そして宮が予表するのはキリスト(マタイ12:6)と、宇宙における神の唯一の建造としての召会です。この両者(キリストと彼のからだ、すなわち召会)は、神の永遠のエコノミーの中心、実際、目標です。

 

 ソロモンと彼が建てた宮は、イスラエルの歴史の中で最も強力な役割を果たし、このような歴史において広大な領域を占めているので、ソロモンと彼が建てた宮は旧約において、予表の方法で、イスラエルの歴史が神の永遠のエコノミーを完成することと大いに関係があることの強力な証拠です。……キリストと召会が神のエコノミーの中心性と普遍性であることは、新約と旧約の両方において普遍的です。わたしたちは、歴史書が、キリストと召会に関する神の永遠のエコノミーの観点から書かれたことを、はっきりと見る必要があります。(「列王紀上、下ライフスタディ」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第12日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第1週1日)

 

聖書は神の永遠のエコノミーに関する神聖な啓示の記録です

 

エペソ3:9

……万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるかを、すべての人を照らして明らかにするためであり。

 

エペソ5:32

この奥義は偉大です.実は、わたしはキリストと召会について言っているのです。

 

「聖書は神のエコノミーの書です(創1:1, 26-28.啓21:1-2, 9-11)。全聖書は、旧約も新約も、まず神のエコノミーの絵であり、次に神のエコノミーの完全な定義と成就です(エペソ1:10)。Ⅰテモテ1:4。聖書は神の永遠のエコノミーに関する神聖な啓示の記録であり、キリストは神のエコノミーの中心また実際です(ヨハネ14:6.コロサイ1:15.3:11)」。

 

 主よ、神の中に隠されてきた奥義のエコノミーをわたしたちに啓示し見せてください。主よ、神のエコノミーというかぎを用いて聖書が開かれますように。キリストは神のエコノミーの中心また実際であり、召会はキリストの有機的なからだです。ハレルヤ!

 

 

聖書は神の霊の霊感の下で、神の永遠のエコノミーと関係がある方法で書かれています

 

 わたしたちは、神のエコノミーに関する旧約における予表の新約における成就を見る必要があります。旧約にあるものは予表学、一連の予表です。そして新約にあるものは、神のエコノミーに関するその予表の完全な成就です。ですから、全聖書は、旧約も新約も、まず神のエコノミーの絵であり、次に神のエコノミーの完全な定義と成就です。一方で、わたしたちは旧約を知りたいなら、新約の定義に来なければなりません。……もう一方で、新約を知りたいなら、時間を費やしてこれらすべての絵を見なければなりません。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(上)「神の啓示の高嶺にしたがった生活をする」、第1編)

 

 聖書は歴史の書ではありません。聖書は神の永遠のエコノミーに関する神聖な啓示の記録であり、キリストは神のエコノミーの中心また実際です。キリストは三一の神の具体化であり、召会はキリストの有機的なからだです。これら二つの項目が、聖書の基本的な構造です。…… ですから、わたしたちは聖書のどの書を理解するにも、特に列王紀のライフスタディにおいて、この観点を保持すべきです。一見すると、この二巻はイスラエルの王たちの歴史です。実は、それは神の霊の霊感の下で、神の永遠のエコノミーと関係がある方法で書かれた書です。(「列王紀上、下ライフスタディ」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第10日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第6週6日)

 

わたしは復活であり、命である

 

マタイ16:18

……わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる.ハデス[陰府]の門も、それに勝つことはない。

 

ヨハネ11:25

イエスは彼女に言われた、「わたしは復活であり、命である……」。

 

「神からのものは命によって特徴づけられ、サタンからのものは死によって特徴づけられます。召会において、神から出るすべてのものは命であり、サタンから出るすべてのものは死です(ヨハネ11:25.ヘブル2:14)。わたしたちの中にある永遠の命は、わたしたち自身の中でも、また召会の他の肢体の中でも死に打ち勝つことができます(Ⅰヨハネ5:11-13,16)」。

 

 主よ、あなたは復活であり、命です。わたしたちの内にある死に打ち勝った永遠の命を感謝します。主よ、この命が兄弟姉妹に供給されて、内側の死を飲み尽くしてくださいますように。

 

 

わたしたちの内側の永遠の命は、死に打ち勝つことができます

 

 ヨハネの第一の手紙第5章14節から17節におけるヨハネの意図は、わたしたちの内側の永遠の命が、わたしたち自身の中でも、召会の他の肢体の中でも死に打ち勝つことができるのを見せることです。永遠の命はわたしたちの内側の死と、他の肢体の内側の死を飲み尽くします。

 

 召会はからだであるので、わたしたちはからだの肢体仲間たちと共に生きます。わたしたちはからだの中にいるので、他の肢体仲間たちと共に肢体です。永遠の命はわたしたち自身の必要を顧みるだけではありません。それはまたわたしたちの周りの肢体仲間たちの必要も顧みます。それはわたしたちの内側の死に打ち勝ち、またわたしたちの兄弟たちの内側の死に打ち勝ちます。特に、それは弱い人たちや問題を持っている人たちの中の死に打ち勝ちます。(「ヨハネの第一の手紙ライフスタディ」、メッセージ37-38)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第9日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第6週5日)

 

命を解き放つキリストの死の中で主と一になります

 

出17:6

見よ、わたしはホレブのあの岩の上で、あなたの前に立っている.あなたがその岩を打つと、水がそこから出て、民は飲むことができる。……

 

ヨハネ7:38

わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る。

 

「命の流れ出を持つことは、わたしたちが、命を解き放つキリストの死の中で彼と一になることを必要とします。これは、打たれた岩によって予表される、打たれたキリストと一体化されることです(ヨハネ19:34.出17:6)」。

 

 主よ、わたしたちがキリストの死の中で、キリストと一になりますように。そして、生ける水がわたしたちの内側から流れ出るようにしてください。

 

 

打たれたキリストと一体化されるときに、命の水が流れ出ます

 

 命の水を流そうとするなら、わたしたちはまた打たれたキリストと一体化される必要があります(出17:6、ヨハネ7:38)。打たれた岩は、十字架における肉体と成ったキリストを表徴します。……十字架上で、キリストは神によって打たれました。わたしたちはこの打たれた方と一体化される必要があります。これは、わたしたちの人の命、天然の命が打たれ、生ける水が流れるようにしなければならないことを意味します。……

 

 わたしたちはただ打たれたキリストと一であり、彼と一体化されるなら、自分の天然の命を十字架につけることを経験するでしょう。そのとき、キリストの人の命が打たれることを通して、彼の神聖な命が生ける水として流れ出たように、わたしたちも天然の命が打たれることを通して、命の水が流れることを経験します。わたしたちの天然の命が打たれるときはじめて、神聖な命はわたしたちから流れ出るでしょう。(「出エジプト記ライフスタディ(3)」、第45編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第8日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第6週4日)

 

外なる人が朽ちていき、内なる人は日ごとに新しくされていきます

 

Ⅱコリント4:16,12

こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます。 12 こうして、死はわたしたちの中で働き、命はあなたがたの中で働くのです。

 

「命は神の内容であり、神の流れ出です。神の内容は神の存在であり、神の流れ出は、ご自身を命としてわたしたちに分け与えることです(エペソ4:18.啓22:1)。命がわたしたちの霊から解放されるために、わたしたちの外なる人は対処され、砕かれなければなりません(Ⅱコリント4:16.ヘブル4:12)」。

 

 主よ、わたしたちの内なる人が日ごとに新しくされていくことを感謝します。主よ、わたしたちの思い、感情、意志が砕かれている人になりますように。そして、神聖な命がわたしたちから流れ出ますように。

 

 

わたしたちが砕かれるほど、神の命がわたしたちから流れ出ます

 

 神の命の純粋な流れがあるために、わたしたちは砕かれなければなりません。……ガラテヤ人への手紙第2章20節で……「わたしは……十字架につけられました.……もはやわたしではありません」という発言は、砕かれる経験を指しています。砕かれている人だけがキリストと共に十字架につけられ、「もはやわたしではありません」と言うことができます。「キリストがわたしの中に生きておられるのです」という発言は、神聖な命が流れ出ることを指しています。キリストがわたしたちを通して表現されることは、命がわたしたちから流れ出ることです。……

 

 コリント人への第二の手紙第4章12節において語られている、わたしたちの内側で死が働くことは、殺すことです。死が働くことは、わたしたちが砕かれることです。わたしたちが砕かれれば砕かれるほど、ますます神の命がわたしたちから流れ出ます。(「神の家を建造するための奉仕」、4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第7日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第6週3日)

 

召会の奉仕は、命を供給する奉仕です

 

ヨハネ15:4-5

わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。・・・・・ わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。

 

「召会の奉仕は、命を供給する奉仕、すなわち、神聖な命を他の人たちに供給する奉仕です(Ⅱコリント4:12)。わたしたちはこの点に印象づけられ、主を仰ぎ望む必要があります。そうすれば、わたしたちの奉仕は、主の命の出口となります(ヨハネ11:25.Ⅰヨハネ1:2)」。

 

 主よ、命の供給を感謝します。わたしたちの奉仕が、神聖な命を他の人たちに供給する奉仕となりますように。主よ、わたしたちの奉仕が、主の命を流し出す命の出口となりますように。

 

 

わたしたちの奉仕は仕事が成功することにあるのではなく、命が流れ出て主の命の出口となることです

 

 わたしたちの奉仕が何であっても、わたしたちは自分の奉仕が命を他の人たちに供給する手段であるということがはっきりとしているべきです。…… わたしたちの焦点は命を供給することにあるのであって、何かを達成することにあるのではありません。

 召会は社会とは異なります。…… 召会において、要点とは、わたしたちがうまくやるかどうかではなく、命が供給されるかどうかです。もし召会が事柄を顧みるだけであって、命を供給しないなら、召会はその性質を失い、社会となってしまうでしょう。聖徒たちはこの点を保持しなければなりません。……

 

 わたしは、わたしたちが自分の奉仕においていい加減になることができると言っているのではありません。…… わたしたちは他の人たちが命の供給を受ける方法で奉仕しなければなりません。……主を仰ぎ望む必要があります。それはわたしたちの奉仕が主の命の出口となるためです。わたしたちは間違いから救い出されたいのですが、そのように救い出されることの焦点は、仕事が成功することにあるのではなく、命が流れ出ることにあります。(「神の家を建造するための奉仕」、4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第6日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第6週2日)

 

キリストの複製として、命を供給する務めを持ちます

 

Ⅰヨハネ5:11-12

これが証しです.すなわち、神がわたしたちに永遠の命を与えられ、そしてこの命が彼の御子の中にあるということです。御子を持つ者は命を持っています.神の御子を持たない者は命を持っていません。

 

「わたしたちは命の木であるキリストの複製として、命を供給する務めを持ちます(Ⅰヨハネ5:16.Ⅱコリント4:12)。命を供給することは、命を分け与えることです。わたしたちは命の余剰を持つとき、この供給から他の人たちに供給することができます(Ⅰヨハネ1:1-2.2:25.5:11-13, 16)」。

 

 主よ、わたしたちが御子を持ち、永遠の命を持っていることを感謝します。主よ、わたしたちをあわれんで、さらに多くの命を持つようにしてください。主よ、わたしたちが命の余剰を持って、他の人たちに供給することができますように。

 

 

わたしたちは命の余剰を持つとき、他の人たちに供給することができます

 

 だれか兄弟か姉妹が罪を犯すとき、わたしたちは、これが彼あるいは彼女が命に不足しているという強いしるしであることを学ぶ必要があります。助けとなるためには、まず自分が命を持っているかどうかを調べなければなりません。わたしたちは命の余剰を持っているでしょうか? わたしたちは自分が必要とする以上に…… 持っていないなら、わたしたちは豊かな供給を得るまで、祈りと断食をもって主を待ち望まなければなりません。そうすれば、わたしたちはこの供給から他の人たちに供給することができます。……

 

 ヨハネが強調しているのは、わたしたちが他の人たちに供給する必要のあるこの命が、神ご自身にほかならないということです。それは神の御子です。「これが真の神、また永遠の命です」[Ⅰヨハネ5:20]。わたしたちの必要は、主イエスのさらに大きな分け前を持つことです。そうすれば、わたしたちは他の人たちに供給するための余剰を、すなわち、知識や教理の余剰ではなく、神の余剰を持つでしょう。(リー全集1980年、第2巻(下)、「ヨハネの繕う務め」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第5日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第6週1日)

 

わたしたちは命の木としてのキリストの複製となる

 

Ⅰペテロ2:21

あなたがたが召されたのはこのためです.なぜなら、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、あなたがたが彼の足跡に従うようにと、原型を残されたからです.

 

「命の木は創世記第2章9節で唯一でしたが、命の木はわたしたちの中へと植えられました。そしてわたしたちの中で成長しつつあり、わたしたちを小さな命の木とならせます」。

 

 主よ、あなたはご自身をわたしたちの霊の中に、命の種としてまかれたことを感謝します。主よ、わたしたちが小さな命の木となるように成長させてください。

 

 

命の木はわたしたちの中で生長し、わたしたちを小さな命の木にしています

 

 木を生長させるのに、二つの主要な方法があります。一つの方法は、種をまくことです。桃の種をまくなら、桃の木が生長します。第二の方法は、桃の苗木を地に植えることです。この苗木は、生長して桃の木になります。……聖書は、神がご自身をわたしたちの霊の中に命の種としてまき、一本の木、すなわち命の木のひな型を生長させられたことを告げています。

 

 命の木は創世記第2章9節で唯一でしたが、今日、命の木はわたしたちすべての中で生長し、わたしたち一人一人を小さな命の木にしています。小さな命の木として、わたしたちは成長する必要があります。わたしたちキリストにある信者たちはすべて、神がご自身をわたしたちの中に命の種としてまくことによって、再生されました。その日以来、命の木が出て来ました。(「神と人との関係における有機的結合」、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第3日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第5週6日)

 

正しい召会生活の集会において、キリストの最高の分け前を享受します

 

申12:5-7

エホバ・あなたがたの神が……彼の御名を置かれる場所、すなわち彼の住まい……へ行かなければならない。そして、あなたがたの全焼のささげ物と犠牲と十分の一と……挙げるささげ物と誓願と自発のささげ物とあなたがたの牛の群れの初子……を、そこに持って行かなければならない.その所で、エホバ・あなたがたの神の御前で食べ、あなたがたと家族は、……喜び楽しまなければならない。

 

「新約の信者たちがキリストを享受することにも、二つの面があります。一般的で、個人的な面では、いつでもどこでもキリストを享受します。特別な、団体的な面では、一の唯一の立場、神に選ばれた場所で、正しい召会生活の集会において、キリストの最高の分け前を享受します」。

 

 主よ、わたしたちが個人的に、いつでも、どこでもキリストを享受することができますように。また、団体的に召会の集会において、キリストの最高の分け前を享受することができますように。

 

 

キリストを享受することには、個人的な面と団体的な面があります

 

 イスラエルの子たちは二つの方法で良き地の豊かな産物を享受することができました。一般的な方法は、いつでも、どこでも、だれとでも良き地の豊かな産物の一般的な分け前を享受することでした。特別な方法は、神によって選ばれた唯一の場所で、最高の分け前、すなわち初穂、初子を享受することでした。この場所の際立った特徴は、神の御名と神の住まいでした。このすべてはわたしたちがキリストを享受することについての明確な絵です。

 

 わたしたちがキリストを享受することにも、二つの面があります。すなわち、いつでもどこでもキリストを享受する一般的な面と、神が選ばれた場所でキリストを享受する特別な面です。この唯一の場所には神の御名と神の住まいがあります。… わたしたちが召会の集会に来るときはいつでも、キリストの享受は高く、また豊かです。わたしたちはみな個人的な生活と召会生活との両方で、キリストを享受する必要があります。(リー全集、1975-1976年、第3巻(下)、「青年の訓練」、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第2日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第5週5日)

 

キリストにあるわたしたちは、ひれとうろこを持ちます

 

Ⅱコリント6:14,17

未信者と不釣り合いなくびきを負ってはなりません。義と不法とに何のかかわりがあるでしょうか? 光と暗やみとに何の交わりがあるでしょうか?17 それゆえ、「主は言われる、彼らのただ中から出て、分離されよ.また汚れているものに触れてはならない.そうすれば、わたしはあなたがたを喜び迎えよう」.

 

「ひれとうろこを持つ水生動物(レビ11:9)が表徴するのは、この世で自由に行動し、活動して、同時にその影響に対抗することができる人たちです。ひれは、魚が水中で随意に行動し、活動するのを助けます。魚にはひれがあるので、流れに逆らって泳ぐことさえできます」。

 

 主よ、わたしたちが聖なる方法で生活するために、魚のようにひれとうろこを持ち、この世の影響に対抗することができますように。また、主よ、わたしたちが人々と不注意に接触しないように守ってください。

 

 

聖なる方法で生活するために、人々との接触に注意する必要があります

 

 ひれは魚が行動するのを強め、うろこは魚が塩に浸されることから保護します。キリストにある信者として、わたしたちはひれとうろこを持つべきであり、それゆえにこの世の海で自由に活動することができ、この世の海によって塩に浸されることはありません。…… ひれとうろこがない友人、隣人、親族でさえ注意してください。[ある人は]……こう言うかもしれません、「人々の家庭を訪問して福音を宣べ伝えるのはどうなのですか?……」。ドアノックすること自体がわたしたちを保護する大きなうろこです。それにもかかわらず、福音を宣べ伝えることでさえ、わたしたちは人々と接触することに注意する必要があります。わたしたちはこの世の塩で塩に浸されたくありません。……

 

 わたしたちは聖なる方法で生活しようとするなら、人々との接触に注意する必要があります。人々と接触することは、特にわたしたちクリスチャンにとって、とても重要な事柄です。わたしたちは他の人と不注意に接触するべきではなく、不注意に友情を形成するべきではありません。聖書は、不注意な友情はわたしたちを腐敗させることを示しています。(「レビ記ライフスタディ(2)」、第36編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り 第1日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第5週4日)

 

ひづめが分かれていて反芻するような人と接触します

 

ピリピ1:9

……わたしはこう祈ります.あなたがたの愛が、全き知識とあらゆる識別力において、なお一層あふれ、

 

レビ11:3

獣のうちでひづめが分かれているもの、すなわち、ひづめが二つに割れていて、反芻するものはすべて食べてもよい。

 

「わたしたちが彼を食べることができるのは、正しい人と接触することによってです(レビ11:1-3, 9, 13, 21)。食べることは、わたしたちの外側の物と接触し、それらをわたしたちの中へと受け入れて、その結果、それらが最終的にわたしたちの内なる構成となることです」。

 

 主よ、わたしたちが行動するときに識別力がありますように。主よ、神からのものとサタンからのものを識別し、天的なものと地的なものとの識別がありますように。また、 牛が反芻するように、神の言葉を考慮し再考する者にしてください。

 

 

行動において識別力があり、多くの再考をもって神の言葉を受ける人たちと接触します

 

  レビ記第11章には五つの部類の動物があります。…… ひづめが分かれていて反芻する獣(2-3節)が表徴するのは、行動において識別力があり、多くの再考をもって神の言葉を受ける人たちです。分かれたひづめは識別力を表徴します。馬は完全なひづめを持っていて、分かれていません。ですから、馬は、物事を識別する力、強さを持たない人を表徴します。このような人は、何が神からのもので何がサタンからのものか、何が天的なものであり何が地的なものであるか、何が霊的なものであり何が肉的なものであるかを識別することができません。わたしたちは、何が良く何が悪いかを識別するだけでなく、何が自分の霊からのもので何が自分の肉からのものか、また何が新しい人からのものか何が古い人からのものかを識別する必要があります。

 

 反芻するとは、多くの考慮と再考をもって神の言葉を受けることを表徴します。牛が反芻するように、わたしたちは神の言葉を考慮し再考するべきです。わたしたちは朝早く祈り読みするとき、これを行なっているでしょう。わたしたちは祈り読みしているとき、言葉を考慮し再考しているでしょう。これが、反芻して、神の言葉から受け入れたものを再考することによって養分を受けることです。(「レビ記ライフスタディ(2)」、第36編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)