千葉に在る教会ホームページへようこそ!


3月の祈り第19日

(年二回の訓練12月 第5週2日)

 

キリストと接触し、犠牲となる彼の命を経験します

 

ローマ12:1

兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみを通して、あなたがたに勧めます.あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた犠牲としてささげなさい.それが、あなたがたの理にかなった奉仕です。

 

「わたしたちが、ぶどうの木によって予表されるキリストと接触し、犠牲となる彼の命を経験するなら、彼はわたしたちに活力を与えて犠牲の生活をさせ、ぶどう酒を生み出して他の人と神を幸いにします(ローマ12:1.エペソ5:2.Ⅱコリント1:24)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたの命は犠牲の命であることを感謝します。主よ、わたしたちには犠牲になる力はありませんが、あなたと接触して、犠牲となるあなたの命を経験することができますように。そして、わたしたちの日常生活の中でキリストを適用することができますように。

 

 

キリストの命だけが犠牲の命です

 

 わたしたちには犠牲になる力はありません。なぜなら、わたしたちの命は天然の命、利己的な命であるからです。キリストの命だけが犠牲の命です。あなたがこのキリストと接触し、犠牲となる彼の命を経験するなら、主はあなたに活力を与え、あなたを強めて、神のためまた他の人のために犠牲とならせます。そしてあなたは最も幸いな人になり、幸いで酔いしれるでしょう。これがキリストをぶどうの木として経験することです。この経験によって、あなたは他の人にとってぶどうの木となります。あなたと接触する人はみなあなたに対して幸いであり、またあなたは神を幸いにします。

 

 ぶどうをぶどう酒にするには……圧搾されなければなりません。神と人を幸いにするために、あなたは圧搾されなければなりません。あなたは喜んで、キリストが大麦であること、すなわちあなたの内側の復活したキリストであることを学び、彼があらゆる状況に十分に応じられることを学びます。……  あなたは、さまざまな面でキリストを認識し、あなたの日常生活の中でキリストを適用するでしょう。(「すべてを含むキリスト」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第18日

(年二回の訓練12月 第5週1日)

 

ぶどうの木は、すべてを犠牲にしたキリストを予表しています

 

申8:8

小麦と大麦とぶどう……のある地、油のオリブの木と蜜のある地であり。

 

士9:13

しかし、ぶどうの木は彼らに言った、「わたしは、神と人を活気づけるわたしの新しいぶどう酒を捨て置[かなければ]……ならないのでしょうか?

 

「ぶどうの木は、犠牲となるキリスト、すなわち、ご自身のすべてを犠牲にしたキリストを予表しています。キリストは彼の犠牲から新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけました(申8:8.士9:13.詩104:15前半)。キリストはぶどうの木として、神のための幸いと他の人のための幸いを生み出します」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはぶどうの木として、ご自身のすべてを犠牲にされたことを感謝します。主よ、あなたの犠牲から生み出された新しいぶどう酒を飲み、神と人を活気づけることができますように。主よ、わたしたちが神を幸いにし、他の人を幸いにする方としてキリストを経験させてください。

 

 

キリストは彼の犠牲から新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけました

 

 今、木について何かを見ましょう。最初はぶどうの木です。ぶどうの木は何を表しているでしょうか?……ある意味で、それは犠牲となるキリスト、すなわちご自身のすべてを犠牲にしたキリストを描写しています。しかしこれは主要な点ではありません。主要な意義は、彼が犠牲から新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけたことです(「すべてを含むキリスト」、第5章)。ぶどうの木は、ご自身を犠牲にし、十字架上で「圧搾されて」新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づける方(マタイ9:17)としてのキリストを表徴します(士9:12、フットノート1)。

 

 あなたはそのようなキリストの経験をしたことがあるでしょうか?…… 時には主の主権の下で、わたしたちはある状況の中に置かれ、その中で自分自身を犠牲にして他の人を幸いにし、また主を幸いにしなければならないようにされます。わたしたちはこの状況の中で主に来て主と接触するとき、ぶどう酒を生み出すぶどうの木として主を経験します。わたしたちは、神を幸いにし、他の人を幸いにする方としてキリストを経験します。この経験からわたしたちはぶどうの木になります。わたしたちは人と神の両方を幸いにするものを生み出す者となるのです。(「すべてを含むキリスト」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第16日

(年二回の訓練12月 第4週6日)

 

神に信頼する人は、水のほとりに移植された木のようです

 

エレミヤ17:7-8

エホバに信頼[する]……者は幸いである。彼は水のほとりに移植された木のようになり、その根を川のそばに伸ばし、暑さが来ても恐れない.その葉は茂ったままで、干ばつの年にも心配することはなく、実を結ぶことをやめない。

 

「神のエコノミーによれば、神に信頼する者は、水のほとりに移植された木のようです。これは、神が生ける水の源泉であることを表徴しています。木は水のほとりで、その水のすべての豊富を吸収することによって生長します。これは、神の神聖な分与によって遂行される神のエコノミーの絵です(エレミヤ17:7-8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちは良き地であるキリストの中に根ざしていることを感謝します。主よ、自分の本当の状態で神に来て自分を開き、祈り、神を吸収し、神の豊富を享受することができますように。

 

 

祈ることは、自分の本当の状態で神に来ることです

 

 わたしたちは自分の内側の状態を神の御前に出して、自分はあらゆる事柄において欠けていると彼に告げさえすべきです。わたしたちの内側の状態がどうであれ、わたしたちはそれを神にもたらすべきです。「わたしの本当の状態によれば」(詩歌724番、全訳)という詩歌があります。これは、わたしたちが自分の状態を改善しようとしたり、変えようとしたりしないで、自分の本当の状態で神に来るべきであることを意味します。

 

 祈ることは、自分の本当の状態で神に来ることです。わたしたちが自分の本当の状態に近ければ近いほど、良いのです。……たとえわたしたちは弱く、混乱し、悲しみ、語ることがなかったとしても、なおも神に来ることができます。……  わたしたちは、自分の状態を顧慮するのではなく、神を仰ぎ望み、神を見つめ、神を賛美し、神に感謝をささげ、神を礼拝し、神を吸収することによって、神の臨在の中へと入って神と接触します。これは甘い学課です。わたしたちがこの学課を学ぼうとするなら、神の豊富を享受し、彼の甘さを味わいます。(「祈りの意義と目的」、第1、2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第15日

(年二回の訓練12月 第4週5日)

 

歓喜をもって、救いの泉から水をくみます

 

イザヤ12:3-5

……あなたがたは歓喜をもって、救いの泉から水をくむ.……「エホバに感謝せよ.彼の御名を呼び求めよ! 彼のみわざをもろもろの民の間に告げ知らせよ.彼の御名が高く上げられることを思い起こさせよ。エホバに詩をもって歌え.彼は偉大なことをなされたからだ!…。

 

「わたしたちは、救いの泉から水をくみ、そして命の水を飲み、流し出すという習慣を建て上げる必要があります(イザヤ12:3-6.ヨハネ7:37-39.箴11:25)。わたしたちは、主に対して語ること、主によって語ること、主のために語ることによって、歓喜をもって、救いの泉から水をくむ必要があります(イザヤ12:3-6.ピリピ4:6-7, 12.参照、詩歌210番)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが救いの泉から水をくむことができることを感謝します。主よ、わたしたちが命の水を飲み、流し出すという習慣を建て上げることができますように。神聖な救いの泉から水をくむ道を歩ませてください。

 

 

救いの泉から水をくみ、そして命の水を飲み、流し出します

 

 イザヤ書第12章は、水をくむことについて語っています(3節)。疑いもなく、これは飲むためです。……4節は言います、「その日、あなたがたは言う、『エホバに感謝せよ.彼の御名を呼び求めよ!』」。エホバを賛美することと彼の御名を呼び求めることが、一つにされています。わたしたちが主の御名を呼び求めるときはいつも、それは賛美を暗示します。わたしたちが「おお、主イエスよ」と言うとき、それはただ呼ぶだけでなく、賛美しているのです。わたしたちが、「おお、主イエスよ、あなたを愛します」と言うとき、これは賛美し呼吸することです。……

 

 今やわたしたちは、神聖な救いの泉から水をくむ道を考えてみたいと思います。まず、わたしたちは、悔い改めて神の怒りは去り、神の赦しの慰めを得る者となる必要があります(1節)。わたしたちはまた、エホバを賛美し、彼の御名を呼び求める者となる必要があります(4節前半)。さらに、わたしたちは救いの泉から水をくむために、神の救いのみわざをもろもろの民の間に告げ知らせ、彼の御名を彼らの間で高く上げるべきです(4節後半)。わたしたちはまた、彼が偉大なことをなされたゆえに、彼に向かって歌う必要があり、これを全地に知らせなければなりません(5節)。(「イザヤ書ライフスタディ(2)」、第40編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第14日

(年二回の訓練12月 第4週4日)

 

二つの悪事とは、生ける水の源泉を捨てて、壊れた水ためを掘ることです

 

エレミヤ2:13

まことに、わたしの民は二つの悪事を犯したからである.彼らはわたし、この生ける水の源泉を捨てて、自分たちのために水ため、水をためることがない壊れた水ためを掘ったのだ。

 

「エレミヤ書第2章13節は言います、「わたしの民は二つの悪事を犯したからである.彼らはわたし、この生ける水の源泉を捨てて、自分たちのために水ため、水をためることがない壊れた水ためを掘ったのだ」。神の民が犯した悪事とは、彼らの源泉、源である神を捨てて、神以外の源へと向かうことでした」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、生ける水の源泉としての神に感謝します。主よ、わたしたちが日ごとに生活の源である神に来て、生ける水を飲むことができますように。

 

 

二つの悪事とは、生ける神を捨てて、神以外の源に向かうことです

 

 神のエコノミーにおける神の意図は、生ける水の源泉、源となって、彼の選ばれた人を満足させ、彼らの享受となることです。この享受の目標は、神の増し加わり、神の拡大としての召会を生み出して、神の豊満とならせ、彼を表現することです。これが、神のエコノミーにおける神の心の願い、大いなる喜びです(エペソ1:5、9)。この思想の完全な発展は新約にありますが、それはエレミヤ書第2章13節に種としてまかれています。……

 

 エレミヤ書第2章13節でわたしたちは、積極的なもの、すなわち生ける水の源泉だけでなく、消極的なもの、すなわちイスラエルの子たちがこの源泉を捨てて、自分たちのために水をためることがない壊れた水ためを掘ったことを見ます。この消極的な事は、創世記第3章のアダムのように、イスラエルが堕落したことを示しています。アダムが堕落したのは、命の木を捨てて別の木、すなわち善悪知識の木に向かうことによってでした。イスラエルが堕落したのは、生ける水の源泉としての神を捨てて、神以外の源に向かうことによってでした。この源は水ためによって表徴されており、イスラエルは自分たちのために労苦して掘ったのです。(「エレミヤ書ライフスタディ」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第13日

(年二回の訓練12月 第4週3日)

 

谷は十字架の経験であり、山々はキリストの復活の経験です

 

Ⅱコリント4:10-12

絶えずこの体に、イエスの致死力が働いています.それはまた、イエスの命が、わたしたちの体に現されるためです。なぜなら、わたしたち生きている者はイエスのために、絶えず死に渡されているからであり、それはイエスの命が、わたしたちの死ぬべき肉体に現されるためです。こうして、死はわたしたちの中で働き、命はあなたがたの中で働くのです。

 

「水が「谷間と山々に流れて」(申8:7後半)いることは、生ける水としてのキリストがさまざまな環境の中で流れることを示しています(参照、列王上20:23, 28)。谷は、十字架の経験、すなわち、キリストの死の経験です。山々は、キリストの復活の経験です(Ⅱコリント1:9.4:11, 14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの体に、イエスの致死力が働いていることを感謝します。主よ、わたしたちがイエスのために死に渡され、イエスの命がわたしたちの死ぬべき肉体に現されますように。わたしたちの天然の人、外なる人、肉が衰えさせられて、わたしたちの内なる人が成長し、新しくされていきますように。

 

 

主の生活は、十字架の殺しの下で復活の命を現す生活でした

 

 [ここでの]わたしたちの経験の中で、これはイエスのために、キリストのからだのために、新契約の務めのために、わたしたちに臨む苦難、迫害、対処です。これは、旧創造にあるすべての人が受ける苦難、困難ではありません。すなわち、病気、災害など、あるいは、罪、過ち、責任を果たすことでの失敗のゆえに被る懲らしめ、矯正、訓練などではありません。このイエスの死に至らせる力は、わたしたちの天然の人、外なる人、肉を衰えさせます。こうして、わたしたちの内なる人は、成長し、新しくされる機会を持つのです(16節)。(Ⅱコリント4:10、フットノート1)

 

 十字架の殺しは、復活の命の現れという結果をもたらします。この日ごとの殺しは、復活の中で神聖な命を解き放つためです(Ⅱコリント4:10、フットノート2)。コリント人への第二の手紙第4章10節から11節の「イエス」という名称は、主イエスが地上で生きられたのと同じ生活を、使徒たちが生きたことを意味します。主の生活は、十字架の殺しの下で復活の命を現す生活でした。このような生活は、主のパースンが主の務めと一であり、また主の生活が主の務めである生活でした(ヨハネ6:14-15.12:13、19、23-24)。(Ⅱコリント4:11、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第12日

(年二回の訓練12月 第4週2日)

 

水の流れ、泉、源泉は、流れる霊としてのキリストを表徴します

 

申8:7

それはエホバ・あなたの神が、あなたを良き地に導こうとしておられるからである.そこは水の流れ、泉、源泉があり、谷間と山々に流れている地であり。

 

詩36:8-9

……あなたは彼らにあなたの楽しみの川から飲ませられます。あなたと共に、命の源泉があり、……

 

「水の流れ、泉、源泉は、流れる霊としてのキリストを表徴します(ヨハネ4:10, 14.7:37-39.啓22:1)。また、谷間と山々は、さまざまな種類の環境を表徴しており、その中でわたしたちは流れる霊としてのキリストを経験することができます。全聖書を通して、水としての三一の神に関する一つの路線があります(創2:10-14.出17:5-6.詩36:8-9.46:4.ヨハネ4:10, 14.7:37-39.Ⅰコリント10:4.啓7:17.22:1)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが水の流れ、泉、源泉であることを感謝します。主よ、谷間と山々のようなさまざまな種類の環境の中で、水の流れ、泉、源泉を経験させてください。主よ、流れる霊としてのキリストを享受することができますように。

 

 

谷間と山々の中で、流れる霊としてのキリストを経験します

 

 良き地、カナンの地は、すべてを含むキリストの満ち満ちた、完全で、究極的な予表です。キリストは三一の神の具体化であり(コロサイ2:9)、すべてを含む、命を与える霊として(Ⅰコリント15:45.……)、神の民に割り当てられた嗣業として実際化され、彼らの享受となります……

 

 申命記第8章7節から9節における良き地の豊富は、キリストの計り知れない豊富のさまざまな面を予表します(エペソ3:8)。それらは、彼の霊の中の信者たちに対する満ちあふれる供給です(ピリピ1:19)。水の流れ、泉、源泉は、あふれ流れる霊としてのキリストを表徴します(ヨハネ4:14.7:37-39.啓22:1)。谷間と山々は、さまざまな種類の環境を表徴しており、その中でわたしたちは流れる霊としてのキリストを経験することができます(参照、Ⅱコリント6:8-10)。(申8:7、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第11日

(年二回の訓練12月 第4週1日)

 

アブラハムの祝福は約束されたその霊の祝福です

 

ガラテヤ3:14

……アブラハムの祝福が、キリスト・イエスの中で異邦人に及ぶためであり、わたしたちが信仰を通して、約束されたその霊を受ける……

 

ピリピ1:19

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです。

 

「神がアブラハムに約束した祝福の物質的な面は、良き地でした(創12:7.13:15.17:8.26:3-4)。それは、すべてを含むキリストの予表です(コロサイ1:12)。キリストは最終的に、すべてを含む命を与える霊として実際化されているので(Ⅰコリント15:45.Ⅱコリント3:17)、約束されたその霊の祝福は、アブラハムに約束された地の祝福と一致します」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、アブラハムの祝福は、約束されたその霊の祝福であり、キリストイエスの中でわたしたち異邦人に及んだことを感謝します。日々イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を享受させてください。

 

 

わたしたちの経験において、キリストの実際化であるその霊は、良き地です

 

 その霊は、神がアブラハムに約束されたすべての諸国民に対する祝福であり、キリストにある信仰を通して信者たちが受けたことを、この節[ガラテヤ3:14]は示しています。その霊は、……複合の霊であり、実は肉体と成ること、十字架、復活、昇天、降下を通して、その三一の中で手順を経られた神ご自身です。それは、わたしたちが彼をわたしたちの命、またあらゆるものとして受けるためです。これが神の福音の焦点です。

 

 神がアブラハムに約束された祝福の物質的な面は、良き地でした(創12:7.13:15.17:8.26:3-4)。それは、すべてを含むキリストの予表です(参照、コロサイ1:12とフットノート2)。キリストは最終的に、すべてを含む命を与える霊として実際化されているので(Ⅰコリント15:45.Ⅱコリント3:17)、約束された霊の祝福は、アブラハムに約束された地の祝福と一致します。実は、わたしたちの経験においてキリストの実際化であるその霊は、良き地であり、わたしたちが享受する神の満ちあふれる供給の源です。(ガラテヤ3:14、フットノート3)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第9日

(年二回の訓練12月 第3週6日)

 

大麦のパンとしてのキリストを適用することを学びます

 

ヨハネ11:25

イエスは彼女に言われた、「わたしは復活であり、命である.わたしの中へと信じる者は、たとえ死んでも生きる」。

 

ピリピ4:13

わたしは、わたしを力づけてくださる方の中で、いっさいの事柄を行なうことができるのです。

 

「わたしたちは自分自身で自分の必要を満たすことはできませんが、わたしたちの内側では大麦のパン、すなわち、制限されない、復活したキリストの分け前があらゆる必要を満たし、さらには余剰を生み出すことができます(ヨハネ11:25)。復活したキリストは大麦のパンです。何も彼を妨げたり制限したりすることはできません」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの内側に大麦のパン、制限されない、復活したキリストの分け前があることを感謝します。主よ、大麦のパンとしてのキリストを適用することを学ばせてください。主よ、あなたはできます。主よ、わたしは進んで完全にあなたに信頼し、完全にあなたに依り頼みます。

 

 

復活したキリスト、制限されない、無尽蔵の方を適用します

 

 キリストがあなたの中で大麦であることを覚えていてください。集会に来るとき、彼を一つの大麦のパンとして適用し、あなたの祈りによって、あるいはあなたの証しによって他のすべての人を養いなさい。それをしてみなさい……あなたは実行によって豊かにされます。集会はあなたに関係ないと、決して言ってはなりません。……あなたはキリストを適用することを学ばなければならず、持っているキリストを用いなければなりません。……

 

 兄弟姉妹、あなたがわたしの言葉を受け取るなら、復活したキリストを信じ、彼を適用しなさい。あなたの中に残っているものは、あなたが始めたものより多いことを見いだすでしょう。これが大麦です。これは単に教えではなく、わたしたちが毎日すべての状況の中で経験し適用することです。復活したキリスト、制限されない、無尽蔵の方を適用しなさい。彼に告げなさい、「主よ、わたしは必要を満たすことができず、その状況に直面することができません。しかし、わたしは何とあなたを賛美することでしょう。あなたはできます。わたしは進んで完全にあなたに信頼し、完全にあなたに依り頼みます」。(「すべてを含むキリスト」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第8日

(年二回の訓練12月 第3週5日)

 

小麦は死の谷ですが、大麦は復活の山です

 

ヘブル13:12-13

こういうわけで、イエスもご自身の血を通して民を聖別するために、門の外で苦しまれたのです。ですから、わたしたちは彼のそしりを担い、営所の外に出て、彼へと行こうではありませんか。

 

「小麦は死の谷ですが、大麦は復活の山です。わたしたちは、小麦、すなわち制限を受けたイエスを経験するために、大麦、すなわち制限されないキリストを適用する必要があります。わたしたちは、復活したキリストの力の中で、制限を受けたイエスに従って行きます(ヘブル13:12-13)」。

 

 主よ、あなたを愛します。決して制限を受けることのない復活したキリストを感謝します。主よ、わたしたちの中には、復活したキリスト、大麦である方がおられます。主よ、復活したキリストを自分の忍耐として適用し、キリストを大麦として経験させてください。

 

 

復活したキリストの力の中で、制限を受けたイエスに従って行きます

 

 わたしは復活したキリストがわたしの中に生きておられることを認識していますが、わたしが持っているキリストはあまりにも少ないのです。わたしには五つのパンさえありません。わたしにはただ一つのパンがあるだけです」。そうです。あなたはただ一つのパンしか持っていないかもしれませんが、それが大麦のパンであり、決して制限を受けることのない復活したキリストのパンであることを覚えていてください。あなたにはほんの少ししかないかのようですが、それは重要ではありません。なぜなら彼には制限がないからです。少しがその状況に応じるのに十分以上です。……

 

 しかし、できる方、大麦である方がおられます。大麦のパンがあなたの内側にあります。ごくわずかの復活したキリストがあなたの中におられます。それで十分です。復活したキリストは制限を受けません。彼をその状況に適用しなさい。彼は決して使い尽くされることができません。復活したキリストの力によって、あなたは肉体と成ったイエスの足跡に従うことができます。復活したキリストの命をもって、あなたは制限を受けたイエスの命を生かし出すことができます。(「すべてを含むキリスト」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第7日

(年二回の訓練12月 第3週4)

 

大麦は復活した制限されないキリストの予表です

 

ヨハネ6:9-10

「ここに、五つの大麦のパンと二匹の魚を持っている少年がいます.しかし、こんなに大勢では何になりましょう?」。イエスは言われた、「人々を座らせなさい」。その場所には草が多かった。男たちは座ったが、その数はおよそ五千人であった。

 

「良き地において、大麦は他のどの穀物よりも早く熟します。ですから、それは初穂です(Ⅰコリント15:20)。大麦は早く熟すので、それは収穫の初穂、すなわち復活した制限されないキリストの予表です(20節)。わたしたちは、キリストが大麦、すなわち、わたしたちの内側の復活したキリストであることと、またキリストがあらゆる状況に応じることができることを知って、喜んでいます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは小麦として死に、葬りを経過して、今復活したキリストであることを感謝します。主よ、わたしたちがキリストを小麦と大麦の両方として持っていることを感謝します。主よ、わたしたちが小麦と大麦の両方を常食とすることができますように。

 

 

復活の中ではキリストはとても豊富で、何の制限もありません

 

 小麦は[キリストの]肉体と成ること、死、葬りを指しており、これに続いて大麦は彼の復活、復活したキリストを指しています。それをどのようにして証明することができるでしょうか? カナンの地で、大麦は常に最初に熟し、すべての穀物の間で大麦が最初です。……イエスは五千人を養ったとき、大麦で作られた五つのパンで養われました。……もしそれらが小麦のパンであったなら、何かが間違っています。しかしそれは小麦ではなく、大麦のパンでした。大麦のパンとして、それは五千人の人々を養うことができ、十二かごのパンのかけらが残りました。これが復活です。

 

 キリストは彼の復活の中でのみ、わたしたちに対して豊富です。彼は肉体と成ることにおいて非常に制限を受けていますが、復活の中では彼はとても豊富です。復活したキリストとして、彼には何の制限もありません。キリストは肉体と成ったとき、ただ一粒の麦、小さなナザレ人、卑しい大工にすぎませんでした。しかし彼は復活の中へと入って来たとき、制限を受けませんでした。時間と空間と物質的なものはもはや彼を制限することはできませんでした。五つのパンがありましたが、実際には数え切れないパンがありました。……これが復活の中のキリストです。(「すべてを含むキリスト」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第6日

(年二回の訓練12月 第3週3日)

 

キリストは一粒の麦として、わたしたちの内側で制限を受けた方の生活をします

 

ヨハネ12:23-24

イエスは彼らに答えて言われた、「人の子の栄光が現される時が来た。まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ」。

 

「わたしたちは、わたしたちを制限し圧迫する状況のただ中で、キリストを一粒の麦として経験することができます(ヨハネ12:24)。わたしたちの命なるキリストは、一粒の麦としてわたしたちの内側にいて、肉体と成った方、すなわち、制限を受けた方の生活をします(コロサイ1:27.3:4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが一粒の麦としてわたしたちの内側にいて、制限を受けた方の生活をしてくださることを感謝します。主よ、制限し圧迫する状況のただ中で、キリストを一粒の麦として経験することができますように。主よ、わたしたちが進んで制限を受け、進んで十字架につけられ、進んで葬られますように。

 

 

キリストを小麦として食べる道は、制限を受け、十字架につけられることです

 

 人の子としてのイエスの栄光が現されるとは、彼が復活させられること、すなわち、彼の神聖な要素、彼の神聖な命が、彼の人性という殻の内側から解き放たれて、復活の中で多くの信者たちを生み出すことでした(Ⅰペテロ1:3)。それは、一粒の麦(ヨハネ12:24)が地に落ちるとき、その命の要素を解き放ち、地から成長して多くの実を結ぶ、すなわち、多くの穀粒を生み出すようにです。(ヨハネ12:23、フットノート1)

 

 制限は常に十字架に至ります。…… わたしたちは十字架につけられればつけられるほど、ますます小麦はわたしたちの内側で成長します。キリストを小麦として食べる道は、制限を受け、十字架につけられることです。あなたは進んで制限を受け、十字架につけられようとしないなら、全く小麦を持つことはないでしょう。あなたはどのように小麦を食べるかについて語る必要はないでしょう。なぜなら、食べる小麦が全くないからです。あなたは小麦を成長させてはじめて、小麦を食べることができます。そして小麦を成長させるために、あなたは制限を受け、十字架につけられなければなりません。この制限と十字架のゆえにハレルヤ! (リー全集、1977年、第1巻(上)、「聖書の核心」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第5日

(年二回の訓練12月 第3週2日)

 

キリストの人性は殻となって、彼の神性と彼の栄光を隠しました

           

ヨハネ1:14

そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた.それは恵みと実際に満ちていた。わたしたちは彼の栄光を見た.それは、父からのひとり子としての栄光であった。

 

ルカ12:50

しかし、わたしにはバプテスマされるべきバプテスマがある.それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど圧迫されることであろう!

 

「肉体と成ることを通してキリストの人性は殻となって、彼の神性を隠し、それによって彼の栄光を隠しました(ヨハネ1:14.12:23-24.ルカ12:50)。主は、肉体の死を経る必要がありました。それは、彼の神聖な命を伴う制限されない無限の神聖な存在が、ご自身の肉体から解き放たれるためでした」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、十字架の死を通して神聖な命を解き放ってくださったことを感謝します。主よ、あなたは制限されない神でしたが、肉体となられ、空間においても時間においても制限されて生きられました。主よ、わたしたちが小麦として制限されたイエスを、毎日の生活の中で経験することができますように。

 

 

一粒の小麦としてキリストは、空間においても時間においても制限されて生きました

 

 主は肉体と成ることにおいて、ご自身の上に着た肉の中に、拘束されていました。彼は肉体の死を経て、バプテスマされる必要がありました。それは彼の神聖な命を伴う制限されない無限の神聖な存在が、ご自身の肉体から解き放たれるためでした。彼の神聖な命は、彼の肉体の死を通して解き放たれた後、復活の中で、彼の信者たちの霊の命の衝撃力となりました。(ルカ12:50、フットノート2)

 

 ヨハネによる福音書第12章24節において、主イエスはご自身が一粒の小麦であることをはっきりと示しました。……小麦は肉体と成ることと十字架におけるキリストを表徴します。……永遠においてキリストは制限されない神であり、空間においても時間においても制限されていなかったのですが、ある日、彼は肉体と成り、制限を受けるようになりました。……制限されない神が三十年間、大工の家の中で生活したことは、信じ難いことです。これがわたしたちの命としてのイエスであり、その方によってわたしたちが生きるイエスです。こういうわけで、小麦は制限されたイエスを表徴します。(リー全集、1977年、第1巻(上)、「聖書の核心」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第4日

(年二回の訓練12月 第3週1日)

 

小麦が予表しているのは、肉体と成って十字架につけられ葬られたキリストです

  

申8:8

小麦と大麦とぶどうといちじくの木とざくろのある地、油のオリブの木と蜜のある地であり。

 

ヨハネ12:24

まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ。

 

「申命記第8章8節前半の小麦が予表しているのは、肉体と成って十字架につけられ葬られたキリストです(ヨハネ12:24)。キリストは、彼の満ち満ちた務めの肉体と成ることの時期において、無限の神を有限な人の中へともたらしました(ヨハネ1:1, 14)。肉体におけるキリストは有限な人として、時間と空間において制限を受けていました(ヨハネ7:6,10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは、肉体と成って十字架につけられ、葬られたキリストであることを感謝します。主よ、わたしたちが自分の困難な環境の中で、キリストと生きた接触を持つことができますように。地に落ちて死に、葬られた一粒の小麦としてのキリストの命を経験させてください。

 

 

拘束され圧迫される環境の中で、キリストを小麦として経験します

 

  小麦はキリストのどの面を表しているのでしょうか? わたしたちはヨハネによる福音書第12章24節から、主が地に落ちて死に、葬られた一粒の小麦であるのを見ることができます。小麦は肉体と成ったキリストを表します。キリストは、肉体と成って人と成り、地に落ち、死んで葬られた神です。これが小麦です。それは、肉体と成ったキリスト、死んだキリスト、葬られたキリストを予表します。…       

 

 小麦の経験を考えましょう。……あなたは主の主権によって、制限を受け圧迫される状況の中へと置かれるときはいつでも、主を小麦として経験することができます。制限し圧迫する状況のただ中であなたが主と接触するとき、彼はあなたにとってまさしく一粒の小麦のようです。…… それは小さな大工、肉体と成った方、制限を受けた方の命です。あなたは拘束され圧迫されるある環境の中にいるとき、キリストと生きた接触を持つなら、こう言うでしょう、「おお、主よ、あなたは無限の神ですが、有限な人に成られました。あなたの中にはいかなる種類の制限にも耐える力があります」。あなたはキリストを小麦として経験します。(「すべてを含むキリスト」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)



2024年    1月1日

朝の祈りの集会 

 

わたしは神の祭壇に、わたしの歓喜と喜びである神に行きます

 

2024年1月1日午前7時から祈りの集会で、わたしたちは詩編第43篇3節-4節の言葉を祈り読みをして、詩歌285を歌い、また家族の救いなどを祈り、享受しました。祈りと共に新しい年を開始できたことを感謝します。

                                             

詩歌285

高き山の上でただ主を見たし、天のみこえを聞き、新鮮な空気を吸う

さらに高嶺へと導きたまえ、霊のいずみ飲みて、さらに主享受す

 

詩篇第43篇3節-4節

 3 あなたの光とあなたの真理を送ってください.それらはわたしを導きます.それらはわたしを、あなたの聖なる山に、あなたの幕屋に連れて行きます。4 わたしは神の祭壇に、わたしの歓喜と喜びである神に行きます.神よ、わが神よ、わたしは竪琴をもってあなたをほめたたえます。

 

詩篇43篇3節、4節フットノート

3-1  光と真理(実際)は分離されたものではなく、一つのものの二つの面です。真理は光の輝きであり、光は真理の源です(Ⅰヨハネ1:5-6と6節のフットノート6、最後の段落)。光がわたしたちの上に輝くと、わたしたちは真理、実際を受けます。わたしたちは交わりの中で神に行くと、光の中にいます。この節によれば、神聖な光と神聖な真理は神の捕囚の聖徒たちを、神の聖なる山と彼の幕屋に導きます。幕屋は諸地方召会を予表します。光と真理は召会の中にあります(Ⅰテモテ3:15)。

 

4-1  詩第42篇から第44篇を書いた詩篇の作者は、捕囚の中で神を愛する者でした(42:6)。彼らは神を慕いあえぎ、神に渇き(42:1-2)、エルサレムに戻りシオンの山に行って祭壇に到達することを願いました。こうして、彼らは宮の中に入って、彼らの歓喜と喜びである神に会うことができました。こういうわけで彼らは、神が彼らに光と真理を与えてくださり(3節)、どのようにして捕囚から解放され、神の住まいに戻るかを知るようにと祈ったのです。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)



第14回オープン福音ルーム

6/25:不思議なキリスト

コリント人への第一の手紙 第15章45節後半

最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。

 


第13回オープン福音ルーム

ヨハネによる福音書 第15章13節

人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、誰も持つことはない。

 11/6

ダウンロード
主イエスは罪人たちの友です.pdf
PDFファイル 1.7 MB

ダウンロード
神は肉体において現された.pdf
PDFファイル 1.1 MB

9/4:神は肉体において現わされた

テモテへの第一の手紙 第3章16節前半

そして確かに、偉大なのは敬虔の奥義です. この方は肉体において現わされ、


ダウンロード
神の愛と慈しみを受ける.pdf
PDFファイル 1.1 MB

6/25:神の愛と慈しみを受ける

読み語り旧約聖書・メピボセテの受けた愛と慈しみ

ローマ10:12

ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません. 同じ主が、すべての者の主であって、彼を呼び求めるすべての者に、彼は豊かです。


第10回 オープン福音ルーム

ダウンロード
真の平安に来る
4月24日 福音集会アウトライン.pdf
PDFファイル 1.0 MB

マタイ11:28

すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.  そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。


2.27 オープン福音ルーム

ダウンロード
命の光を持つ
22年2月27日 アウトライン.pdf
PDFファイル 1.5 MB

ヨハネ8:12

こうして、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしは世の光である.  わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」。 

詩歌:226 補117

集会についてのお知らせ

千葉にある教会は、ひき続き行動自粛に努めてまいります。しかし、主日(日曜日)には、小規模のパンさきのためのあつまりを、三密(密集・密閉・密接)にならないように注意し、マスク着用で行っております。電車・バスで来られる方もマスク着用の上、ソーシャルディスタンスに注意し、状況が許される範囲でご参加ください。なお体温が37.2°以上の方はひき続き参加はご遠慮ください。

 

集会に参加される方は、まずご自宅で検温をお願いします。集会所では、非接触型赤外線温度計を用意しております。それを用いて、集会当日検温していただくこととなりました。記録して残します。そのさい37.2°を超える値が出たときは、もう一度別の体温計にて再検温していただきます。その後最終判断させていただくという手順になります。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

 

また、zoomを用いてリモートで集会にあずかることも可能です。こちらの方法での参加についてはご相談ください。参加していただけるようパスワード等をお知らせいたします。集会にリモートで参加してくださる方々においても、積極的な申言・交わりをお願いいたします。

 

今後、集会の変更があった時は、LINE,ホームページ等でお知らせします。主イエス・キリストから恵みと平安が、みなさま一同と共にありますように。