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7月の祈り第27日

(メモリアルデー特別集会 第1週6日)

 

外なる人が砕かれて、内なる人が解放され、表現されます

 

Ⅱコリント4:16

こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます。

 

「わたしたちは、わたしたちが経過するあらゆることにはただ一つの目的があることを認識する必要があります。それは、神の命がわたしたちを通して解放され、わたしたちの中で表現されることです。どうかわたしたちの外なる人がそのような程度にまで砕かれて、内なる人が解放され、表現されることができますように。これが尊いことであり、これが主のしもべの道です(ヨハネ12:24-26.Ⅱコリント4:12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの外なる人が朽ちていっても、内なる人は、日ごとに新しくされていくことを感謝します。主よ、わたしたちが環境の案配の中に、神の御手を見ることができますように。自己愛から解放されて、神の命がわたしたちを通して表現されるようにしてください。

 

 

神の命がわたしたちを通して解放され、表現されます

 

 何であれ生まれながらのものは、それが良くても悪くても、有用であってもなくても、すべて天然ですから、聖霊が神聖な命をわたしたちの存在の中へと構成することで、妨げとなります。このゆえに、わたしたちの天然の力、天然の知恵、天然の聡明さ、天然の個性、天然の欠点、天然の美徳、天然の属性、それに加えてわたしたちの性格と習慣は、必ず取り壊されなければなりません。

 

 それは、聖霊がわたしたちの内に新しい性質、新しい性格、新しい習慣、新しい美徳、新しい属性を形成するためです。この再構成の働きを成就するために、神の聖霊はわたしたちの内に運行し、神聖な命をもってわたしたちを照らし、霊感を与え、導き、浸透します。彼はまたわたしたちの環境の中で働き、あらゆる人、事、物のいっさいの細部に至るまで案配して、わたしたちの天然のものを取り壊されます。……[そして]、わたしたちをキリストの形に同形化しておられます。(「今の時代における神聖な啓示の先見者――ウオッチマン・ニー」、第15章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第26日

(メモリアルデー特別集会 第1週5日)

 

わたしたちは聖霊の管理を受け入れます

 

エレミヤ48:11

モアブは若い時から安らかであった.彼は……器から器へあけられたことがなく、捕らえられて行ったこともなかった。それゆえ、彼の味は彼の中に残り、彼のにおいは変わっていない。

 

「クリスチャン生活をすることは、聖霊の管理を受け入れることです。神が願っているのは、わたしたちが聖霊の管理を受け入れること、すなわち、神がわたしたちを器から器へあけて、わたしたちの天然の外なる人の澱、くずを取り除くことによって、わたしたちの[風味]を変えることであって、ついにわたしたちがキリストの純粋な味を持ち、キリストの純粋な香りを醸し出すに至るということです(エレミヤ48:11.Ⅱコリント2:14-15.雅4:16.列王下4:8-9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神はわたしたちを子として扱ってくださることを感謝します。聖霊の管理を受け入れて、キリストの香ばしい香りを放つ者にしてください。

 

 

神と争ったり議論したりしないで、神の取り扱いを受け入れます

 

 エレミヤ書第48章11節は、主の御前に少しの懲らしめも苦難も被らなかった人々を描写しています。モアブ人は、若い時から安らかでした。彼らは、苦難や苦痛を経験しませんでした。… 彼らは、ぶどう酒の澱の上にじっとたまっているぶどう酒のようになりました。… ぶどう酒をきれいにするために、それは器から器に注がれなければなりません。… 神の取り扱いは本当に貴重です! 彼はわたしたちを根こそぎにして、わたしたちを器から器にあけたいのです。わたしたちが自分の元のにおいを失って、平安の義の実を生むようにと、神はわたしたちを取り扱い、多くの方法でわたしたちを対処します。…

 

 人はこの実を得るために、神と平安でなければなりません。取り扱いの時、最も悪い事は、不平を言い、平安を失って、反逆することです。人は取り扱いによって悲しみにくれることがあります。しかし、不平を言ったり、反逆してはなりません。多くの人の問題は、彼らに平安がないということです。… もしあなたが平安の実が欲しいなら、最初に取り扱いを受け入れることを学ばなければなりません。もし内側の実が平安であるなら、外側の表現は義です。もしあなたの内側に平安の実があるなら、自然に神の聖にあずかります。(ニー全集、第50巻、「初信者を成就するメッセージ(3)」、第41編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第25日

(メモリアルデー特別集会 第1週4日)

 

神の召しにふさわしく歩くことの「五つ」の項目を享受します

 

エペソ4:15

むしろ、愛の中で真実を固く保って、わたしたちはすべての事で、彼すなわちかしらであるキリストの中へと成長し込むのです。

 

エペソ5:15,18

ですから、あなたがたはどのように歩くか、よくよく注意しなさい.……18  また酒に酔ってはいけません.そこには放蕩があるからです.むしろ霊の中で満たされ、

 

「神の召しにふさわしく歩くことの第一の項目は、わたしたちが神聖な属性によって、また神聖な属性をもって強められた、造り変えられた人性の美徳をもって、キリストのからだの実際であるその霊の一を保つことを熱心に努めることです(エペソ4:1-4)。神の召しにふさわしく歩くことの第五の項目は、わたしたちが霊の中で満たされてキリストをあふれ流すことによって生きることです(エペソ5:18)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神は霊であり、愛であり、光であることを感謝します。主よ、わたしたちが愛の中を歩き、光の子供たちとして歩き、霊の中で満たされて、神の召しにふさわしい生活をすることができますように。

 

 

神の召しにふさわしい生活をします

 

 霊の中で満たされることによって生きることは、神の召しにふさわしく歩くことの第五の面です。第一の面は一を保つことです。これはからだの生活、召会生活のためです。第二の面は、すべての事でかしらであるキリストの中へと成長し込むことです。これは建造のためです。これに続いて、わたしたちは原型、すなわちイエスにある実際にしたがった生活の標準の中に入れられることによって、キリストを学びます。わたしたちクリスチャンは高い標準を持っており、引き上げられた原則を伴い、わたしたちの日常の歩みを支配します。キリストを学ぶことは、彼を標準とし、彼の生活を原則とすることです。

 

 第四に、神の召しにふさわしい生活は、愛の中の、また光の中の生活です。わたしたちは実際(真理)にしたがって、恵みによって生きるだけでなく、光の中で、また愛の中で生きなければなりません。わたしたちは、神との親密さの中で生き、彼の臨在の中を歩む者となる必要があります。わたしたちの日常生活は、絶対に神の心にしたがった、彼の臨在の中にあるものでなければなりません。ふさわしく歩くことのこれら四つの項目を持つなら、わたしたちは自然に霊の中で満たされるでしょう。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(3)」、第51編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第24日

(メモリアルデー特別集会 第1週3日)

 

神の召しにふさわしく歩きなさい

 

エペソ4:1-3

こういうわけで、主の中の囚人であるわたしは、あなたがたに懇願します.召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩きなさい.謙虚と柔和を尽くし、辛抱強さをもって、愛の中で互いに担い合いつつ、平和の結合するきずなの中で、その霊の一を保つことを熱心に努めなさい。

 

「クリスチャン生活をすることは、召されたわたしたちが、その召しにふさわしく歩くことです(エペソ4:1-4)。神の召しにふさわしく歩くことの第一の項目は、わたしたちが神聖な属性によって、また神聖な属性をもって強められた、造り変えられた人性の美徳をもって、キリストのからだの実際であるその霊の一を保つことを熱心に努めることです(エペソ4:1-4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが召してくださったその召しにふさわしく歩くことができるために、その霊の一を保ち、かしらであるキリストの中へと成長し込むことができますように。

 

 

わたしたちは造り変えられてイエスの人性を持ち、その霊の一を保ちます

 

 神の召しにふさわしく歩くことの第一の項目は一を守ることであり、第二はかしらであるキリストの中へと成長し込むことです。第三の項目は、イエスにあるあの実際にしたがってキリストを学ぶことです。エペソ人への手紙第4章2節で語られた美徳を持つためには、造り変えられた人性を必要とします。わたしたちの天然の人性には、謙虚、柔和、辛抱強さはありません。しかしこれらの美徳は、わたしたちの造り変えられた人性の中に、すなわち、イエスの人性の中に見いだされます。……柔和と謙虚はイエスの人性の特徴です[マタイ11:29]。

 

 わたしたち自身の中に持っているかのように見えるどの柔和も謙虚も見せかけであり、真のテストに耐えることはできません。主を賛美します、復活の命の中のイエスの人性が、今日わたしたちのものとなることができます! わたしたちは造り変えられれば造り変えられるほど、ますます多くイエスの人性を持ちます。復活したキリストの人性を持つことによって、わたしたちは自然に、その霊の一を保つのに必要とされる美徳を持ちます。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(2)」、第46、36編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第23日

(メモリアルデー特別集会 第1週2日)

 

キリストの目の中で表現されたパースンにしたがって生き、行動します

 

Ⅰヨハネ4:19

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

 

Ⅱコリント2:10

しかし、何かの事であなたがたが赦す人を、わたしも赦します.……もしわたしが何かを赦したとしたら、わたしの赦したことは、あなたがたのためにキリストの御前で赦した……

 

「クリスチャン生活をすることは、キリストのパースンの中で、すなわち、キリストの御顔の中で、すべての事を行なうことです(Ⅱコリント2:10.4:6-7)。使徒パウロは、信者たちにとって模範であり(Ⅰテモテ1:16)、キリストの目の中で表現された彼のパースン全体の表示にしたがって、キリストの臨在の中で生き、行動しました」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの霊の中には価値のある宝、キリストご自身の御顔があることを感謝します。主よ、わたしたちが主の目の表示を見つめて、自分の感情や思想にしたがってではなく、内にいます主の感情、思想にしたがって振る舞うことができますように。

 

 

目の周りの顔の部分は内側のすべての思想や感情の表示です

     

 コリント人への第二の手紙第2章10節は、「キリストの御前」を述べています。アメリカ標準訳はこの句を「キリストの臨在」と訳しています。…… このギリシャ語の言葉は顔、目の周りの部分を意味し、それは内側のすべての思想や感情の表示であって、その人全体の提示を表徴します。目の周りの顔の部分は内側のすべての思想や感情の表示であり、人が何を思い、内側でどのように感じているかを表徴します。パウロはキリストのパースンの中で、彼の目の中で表現された彼のパースン全体の表示にしたがって、その兄弟を赦しました。パウロは主の臨在の中で生きただけでなく、キリストの内側の感情や思想の表示の中で生きました。これは実に深く、柔和で、繊細です。……  

 

 パウロは主の目の表示を見つめ、その兄弟を赦さなければならないことを知りました。彼が赦したのは彼の感情にしたがってではなく、彼の思想にしたがってではなく、彼の内側に内住する方の感情、思想にしたがってでした。彼はキリストのパースンの中で振る舞いました。彼は赦したとき、キリストのパースンの中で赦しました。(リー全集、1967年、第2巻(上)、「霊の中の人の自叙伝」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第22日

(メモリアルデー特別集会 第1週1日)

 

クリスチャン生活は、キリストを生きる生活です

 

マルコ12:30

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主であるあなたの神を愛しなさい。

 

ヨハネ14:23

イエスは……答え[ら]れた、「だれでもわたしを愛する者は、わたしの言を守る.そしてわたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」。

 

「クリスチャン生活は、キリストを生きる生活です。わたしたちの生きることはキリストであるべきであり、キリストを生きる道はキリストを愛することです(ピリピ1:19-21前半.ガラテヤ2:20)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。主よ、わたしたちがキリストを生きるために、さらにキリストを極みまで愛することができますように。 

 

 

キリストを生きる道はキリストを愛することです

 

 わたしたちクリスチャンは清い良心を保つべきですが、わたしたちのクリスチャン生活の主要な点は、キリストを生きることです。キリストを生きることがわたしたちの目標であるべきです。……キリストを生きることが主要なことであるべきです。わたしたちのクリスチャン生活におけるすべての問題は、わたしたちがキリストを生きていないことのゆえに来ます。わたしたちは日々の活動に従事しているとき、わたしたちの生きることはそれらの活動ではなく、キリストであるべきです。

 

 わたしたちの思いはキリストに集中しているべきですが、わたしたちの思いが集中することは、キリストに対するわたしたちの愛にかかっています。こういうわけで新約聖書はわたしたちに、キリストを愛するように命じているのです(マルコ12:30.啓2:4-5.ヨハネ14:23.21:15-17.Ⅰペテロ1:8)。わたしたちはキリストを愛さないなら、キリストを生きることはできません。…… キリストを生きることは、わたしたちが彼を極みまで愛することを要求します。(「命の経験と成長」、メッセージ5)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第20日

(国際長老責任者集会 第8週6日)

 

賜物のある人たちは、ただ一つの務めを持っており、キリストのからだを建造します

 

エペソ4:11-12

そして彼ご自身は、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧する者また教える者として与えられました.それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり。

 

「使徒、預言者、伝道者、牧する者また教える者は(11節)、12節で述べられているように、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと至らせるためです。11節の賜物のある多くの人は、ただ一つの務めを持っています。それは、キリストを供給して、キリストのからだを建造することです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがそれぞれの部分の度量に応じた活動を通して、結合され組み合わされますように。そして、わたしたちが成就されて、キリストのからだの建造へと至ることができますように。

 

 

成就された聖徒たちがキリストのからだを建造します

 

[エペソ人への手紙第4章11節]における賜物のある多くの人は、ただ一つの務めを持っています。それはキリストを供給して、召会であるキリストのからだを建造することです。これが新約エコノミーにおける唯一の務めです(Ⅱコリント4:1.Ⅰテモテ1:12)。文法の構造によれば、[エペソ人への手紙第4章12節の]「キリストのからだの建造へと至らせる」という句は、「その務めの働きへと」という句と同格です。これは、両方の句が同じことを指していることを示しています。それゆえに、その務めの働きはからだの建造です。

 

 使徒、預言者、伝道者、牧する者また教える者は、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと至らせます。12節の「へと至らせる」という言葉は、「という結果になる」、「の目的で」、「をもくろんで」を意味します。これは、聖徒たちを成就することがキリストのからだを建造するという目的のためであることを意味します。…… しかしながら、この建造は賜物のある者たちによって直接、完成されるのではなく、賜物のある者たちによって成就された聖徒たちによって完成されます。(「新約の結論(20)」、メッセージ340)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第19日

(国際長老責任者集会 第8週5日)

 

さまざまな角度からの同じ語りかけがあります

 

Ⅰコリント1:10

さて兄弟たちよ、わたしは、わたしたちの主イエス・キリストの御名を通して、あなたがたに懇願します.どうか、あなたがたがみな同じ事を語り、あなたがたの間に分裂がなく、同じ思いの中で、また同じ意見の中で調和されますように。

 

エペソ4:12

それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり。

 

「新約の務めはキリストのからだの奉仕であるので、またからだには多くの肢体がいるので、あらゆる肢体にはそれ自身の務めがあります(エペソ4:11-12)。さまざまな角度からの同じ語りかけがあるべきです(Ⅰコリント1:10)。わたしたちはみなこの務めに分があります。これはさまざまな機能、さまざまな角度、さまざまな面を持つ一つの務めです(エペソ4:11-12)。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちすべてが同じ事を語り、同じ思いの中で、同じ意見の中で調和されますように。主よ、わたしたちがみな成就されて、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至るようにしてください。

 

 

聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせます

 

 新約の務めは唯一無二であり、団体的なものです。しかし、この務めはキリストのからだの奉仕であるので、またからだには多くの肢体がいるので、あらゆる肢体にはそれ自身の務めがあります。こういうわけで、肢体の面から言えば、多くの務めがあります。しかしながら、からだ全体の面から言えば、ただ一つの務めがあるだけです。あなたの務めは、団体的な務めから分離しているべきではありません。

 

 からだには団体的な務めがあり、からだのすべての肢体には個々の務めがあります。すでに見てきたように、肢体のすべての務めを共に加えると、団体的な務めに等しいのです。…… わたしたちはみな同じ事を供給すべきであるとわたしが言うとき、わたしが意味しているのは、わたしたちが新約の方法にしたがって同じ事を語るべきであるということです。(リー全集、1978年、第3巻(下)、「真理メッセージ」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第18日

(国際長老責任者集会 第8週4日)

 

一つからだの中で主イエスから受けた個人的な務めを全うします

 

使徒20:24

しかし、わたしが自分の行程と、主イエスから受けた務めを全うして、神の恵みの福音を厳かに証しするためには、自分の命を尊いとは思いません。

 

使徒21:19

そこで、パウロは彼らにあいさつしてから、神が異邦人の間で、彼の務めを通して行なわれた事柄を一つ一つ述べた。

 

「使徒第20章24節は、パウロの個人的な務めを指しています。なぜならパウロは、彼が主から受けた務めについて語っているからです。この節の務めは個人的な務めです。パウロはキリストと一であり、キリストで構成されていました。こういうわけで、彼の務めは、彼の存在の中へと構成されていたキリストの務めでした」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストのからだは一つの団体的な務めを持っています。主よ、わたしたちが純粋な御言に戻り、キリストがわたしたちの存在の中へと構成されますように。

 

 

わたしたちは新約エコノミーにしたがった唯一の務めの中にいます

 

 これらの節は[使徒1:17、25.Ⅱコリント4:1.Ⅰテモテ1:12]、新約における務めが団体的なものであることを啓示していますが、他のいくつかの節は、務めが個人的なものであることを示しているかのようです。……使徒行伝第20章24節はパウロの個人的な務めを指しています。なぜなら、パウロは彼が主から受けた務めについて語っているからです。このゆえに、この節の務めは個人的な務めです。

 

 使徒行伝第21章19節は[また]、明確に、はっきりとパウロの個人的な務めに言及しています…… 個人的な務めについて語っている節を考えるとき、わたしたちはすべての信者が一つからだの肢体であることを認識する必要があります。全体として、からだは一つの団体的な務めを持っているのであって、多くの務めを持っているのではありません。からだの中には多くの機能がありますが、からだの中の務めは一つです。(リー全集、1978年、第3巻(下)、「真理メッセージ」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第17日

(国際長老責任者集会 第8週3日)

 

新しい契約の奉仕者として、資格づけてくださいました

 

Ⅱコリント3:6

神はまたわたしたちを新しい契約の奉仕者として、資格づけてくださいました.それは、文字ではなく、霊の奉仕者です.なぜなら、文字は人を殺しますが、その霊は人に命を与えるからです。

 

Ⅰテモテ1:12

わたしは、わたしを力づける方、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています.この方はわたしを忠信な者と認めて、その務めに任命してくださいました。

 

「Ⅱコリント第3章6節は、神はわたしたちを「新しい契約の奉仕者として、資格づけて」くださったと告げています。その霊、すなわち手順を経た三一の神の究極的表現は、神聖な命を、さらには神ご自身を信者たちと使徒たちの中へと分け与えて、彼らを新しい契約の奉仕者とします。ですから、彼らの務めは、命を与える霊によって、命である三一の神で構成されています(Ⅰコリント15:45後半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちを新しい契約の奉仕者として、資格づけ てくださったことを感謝します。キリストのからだを建造する団体的な務めに、わたしたちを任命してくださったゆえに、主を賛美します。

 

 

わたしたちは、キリストのからだを建造する団体的な務めに任命されました

 

 新約エコノミーにおける務めは団体の務めであり、何千人という、賜物のある人々を含む務めです。……コリント人への第二の手紙第4章1節でパウロは、……「わたしたちは……この務めを受けた」と言っています。パウロ、彼の同労者、他の使徒たちはみな、この務め、新約における一つの務めを持っていました。務めは奉仕です。すべての奉仕者は奉仕する者たちであって、この奉仕を遂行します[Ⅱコリント3:6]。多くの奉仕者には多くの奉仕があるのではなく、一つの奉仕、一つの務めがあります。

 

 テモテへの第一の手紙第1章12節で……パウロは、「彼はわたしを、わたしの務めに任命してくださいました」とは言っていません。パウロは、主が彼を唯一無二の団体的な新約の務めに任命してくださったと言っています。わたしたちはみな、主が彼のあわれみと恵みによって、キリストのからだを建造する団体的な務めにわたしたちを任命してくださったゆえに、主を賛美する必要があります。(リー全集1978年、第3巻(下)、「真理メッセージ」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第16日

(国際長老責任者集会 第8週2日

 

わたしたちはあわれみを得て、この務めを受けました

 

Ⅱコリント4:1

こういうわけで、わたしたちはあわれみを得て、この務めを受けたのですから、落胆しません。

 

Ⅱテモテ4:5

しかし、あなたはすべての事柄に冷静であり、苦難に耐え、伝道者のわざを行ない、あなたの務めを十分に果たしなさい。

 

「コリント人への第二の手紙における務めは、新約の奉仕者たちの団体的な務めです。すべての奉仕者には、その務めにおいて彼ら自身の分があります。この団体的な務めにおいて、テモテにはテモテの分がありました(Ⅱテモテ4:5後)。わたしたちはこれらすべての分を共に加えるとき、新約の務めである「この務め」を持ちます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。新約の奉仕者たちの団体的な務めを感謝します。わたしたちが神の新約エコノミーの唯一の務めにあずかり、キリストを人々に供給して、キリストのからだを建造することができますように。

 

 

新約の務めの働きは、キリストのからだを建造することです

 

 コリント人への第二の手紙第4章1節で、パウロは「わたしたち」という代名詞を使って、多くの奉仕者に言及しました。次にテモテへの第二の手紙第4章5節でパウロはテモテに、彼の務めを十分に果たすようにと命じました。……これはテモテの個人的な務めでしたが、この個人的な務めは団体の務め、「この務め」[Ⅱコリント4:1]、新約の唯一の務めの一部でした。コリント人への第二の手紙第4章1節の務めは、新約のすべての奉仕者の団体の務めです。この団体の務めにおいて、パウロにはパウロの分があり、ペテロにはペテロの分があり、テモテにはテモテの分がありました。すべての奉仕者には、その務めの彼ら自身の分があります。わたしたちはこれらすべての分を共に加えるとき、新約の務めである「この務め」を持ちます。

 

 新約の務めの働きは、キリストのからだを建造することにおいて、召会に関する神の新約エコノミーを完成することです(エペソ3:9-10)。エペソ人への手紙第4章12節は、すべての聖徒たちは成就されて、「その務めの働きへと」至ると言っています。これは、何百何千の聖徒たちが成就されて、その務めの働きへと至ることができることを意味します。(「新約の務めと、使徒たちの教えと交わり」、第1章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り第15日

(国際長老責任者集会 第8週1)

 

主の目には、新約時代にはただ一つの務めがあるだけです

      

使徒1:17,25

ユダはわたしたちの間に数えられ、この務めの分を割り当てられていました。…… ユダがそれて自分の場所へ落ちてしまったこの務めと使徒職の地位を、継がせられるのでしょうか。

 

「主の目には、ただ一つの務めがあるだけです(Ⅱコリント4:1.エペソ4:12)。ペテロはユダの代わりが必要であることについて語って、「ユダはわたしたちの間に数えられ、この務めの分を割り当てられていました」と言いました(使徒1:17)。使徒は十二人いましたが、彼らの務めは唯一無二でした。「この務め」とは、キリストのからだの原則にある一つの団体的な務めです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主の目には、新約時代にはただ一つの務めがあるだけです。わたしたちはあわれみを得て、この務めを受けたことを感謝します。わたしたちすべてが唯一無二のこの務めを遂行することができますように。

 

 

新約時代の間、神の唯一の意図はからだを建造することです

 

 主の目には、新約時代にはただ一つの務めがあるだけです。……十二使徒はすべて「この務め」の中にいました[使徒1:17、25]。このことは、新約において唯一無二の務めがあることを示しています。何年か前、わたしはこのことを見ていませんでした。しかし、他の者たちの務めを受け入れることに関する論争のゆえに、わたしは時間を費やして、この事柄に関する純粋な御言を学びました。わたしの目は開かれて、十二使徒がすべて「この務め」の中にいたことを見ました。ですから、使徒たちはユダの代わりについて祈った時、主が「この務め……を、継がせ」るためにだれを選ばれたのかを示してくださるよう求めました(25節)。

 

 新約時代の間、神の唯一の意図はからだを建造することです。神が宇宙を創造し、人を形づくり、贖いを完成されたのはすべてこのためでした。この一つの目的のために、神は一つの務めを持っておられます。神はこの新約時代に二つの活動を持っておられるのではありません。神は一つの活動と一つの務めを持っておられます。(「リー全集、1978年、第3巻(下)、「真理メッセージ」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)





2024年    1月1日

朝の祈りの集会 

 

わたしは神の祭壇に、わたしの歓喜と喜びである神に行きます

 

2024年1月1日午前7時から祈りの集会で、わたしたちは詩編第43篇3節-4節の言葉を祈り読みをして、詩歌285を歌い、また家族の救いなどを祈り、享受しました。祈りと共に新しい年を開始できたことを感謝します。

                                             

詩歌285

高き山の上でただ主を見たし、天のみこえを聞き、新鮮な空気を吸う

さらに高嶺へと導きたまえ、霊のいずみ飲みて、さらに主享受す

 

詩篇第43篇3節-4節

 3 あなたの光とあなたの真理を送ってください.それらはわたしを導きます.それらはわたしを、あなたの聖なる山に、あなたの幕屋に連れて行きます。4 わたしは神の祭壇に、わたしの歓喜と喜びである神に行きます.神よ、わが神よ、わたしは竪琴をもってあなたをほめたたえます。

 

詩篇43篇3節、4節フットノート

3-1  光と真理(実際)は分離されたものではなく、一つのものの二つの面です。真理は光の輝きであり、光は真理の源です(Ⅰヨハネ1:5-6と6節のフットノート6、最後の段落)。光がわたしたちの上に輝くと、わたしたちは真理、実際を受けます。わたしたちは交わりの中で神に行くと、光の中にいます。この節によれば、神聖な光と神聖な真理は神の捕囚の聖徒たちを、神の聖なる山と彼の幕屋に導きます。幕屋は諸地方召会を予表します。光と真理は召会の中にあります(Ⅰテモテ3:15)。

 

4-1  詩第42篇から第44篇を書いた詩篇の作者は、捕囚の中で神を愛する者でした(42:6)。彼らは神を慕いあえぎ、神に渇き(42:1-2)、エルサレムに戻りシオンの山に行って祭壇に到達することを願いました。こうして、彼らは宮の中に入って、彼らの歓喜と喜びである神に会うことができました。こういうわけで彼らは、神が彼らに光と真理を与えてくださり(3節)、どのようにして捕囚から解放され、神の住まいに戻るかを知るようにと祈ったのです。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


第15回オープン福音ルーム

3/31:神・人ー主イエス「わたしもあなたを罪に定めない」

 詩歌:292


第14回オープン福音ルーム

6/25:不思議なキリスト

コリント人への第一の手紙 第15章45節後半

最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。

 


第13回オープン福音ルーム

ヨハネによる福音書 第15章13節

人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、誰も持つことはない。

 11/6

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9/4:神は肉体において現わされた

テモテへの第一の手紙 第3章16節前半

そして確かに、偉大なのは敬虔の奥義です. この方は肉体において現わされ、


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6/25:神の愛と慈しみを受ける

読み語り旧約聖書・メピボセテの受けた愛と慈しみ

ローマ10:12

ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません. 同じ主が、すべての者の主であって、彼を呼び求めるすべての者に、彼は豊かです。


第10回 オープン福音ルーム

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真の平安に来る
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マタイ11:28

すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.  そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。


2.27 オープン福音ルーム

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命の光を持つ
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ヨハネ8:12

こうして、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしは世の光である.  わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」。 

詩歌:226 補117

集会についてのお知らせ

千葉にある教会は、ひき続き行動自粛に努めてまいります。しかし、主日(日曜日)には、小規模のパンさきのためのあつまりを、三密(密集・密閉・密接)にならないように注意し、マスク着用で行っております。電車・バスで来られる方もマスク着用の上、ソーシャルディスタンスに注意し、状況が許される範囲でご参加ください。なお体温が37.2°以上の方はひき続き参加はご遠慮ください。

 

集会に参加される方は、まずご自宅で検温をお願いします。集会所では、非接触型赤外線温度計を用意しております。それを用いて、集会当日検温していただくこととなりました。記録して残します。そのさい37.2°を超える値が出たときは、もう一度別の体温計にて再検温していただきます。その後最終判断させていただくという手順になります。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

 

また、zoomを用いてリモートで集会にあずかることも可能です。こちらの方法での参加についてはご相談ください。参加していただけるようパスワード等をお知らせいたします。集会にリモートで参加してくださる方々においても、積極的な申言・交わりをお願いいたします。

 

今後、集会の変更があった時は、LINE,ホームページ等でお知らせします。主イエス・キリストから恵みと平安が、みなさま一同と共にありますように。