キリストを経験し、享受し、表現する(第4週2日~第8週4日)
10月の祈り31日
(年二回の訓練(7月)第8週4日)
主の中へと信じる者は、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出ます
ヨハネ7:37-39
……イエスは立って叫んで言われた、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」。イエスはこれを、彼の中へと信じる者たちが受けようとしているその霊について言われたのである.まだイエスの栄光が現されていなかったので、その霊はまだなかったからである。
「キリストは最後のアダムとして、彼の復活を通して、また彼の復活の中で、命を与える霊と成って、命を分け与え、彼の信者たちの中へと入って、生ける水の川々として流れ出ました(ヨハネ7:37-39.啓21:6.22:17)」。
主イエスよ、あなたを愛します。キリストは命を与える霊と成ったことを感謝します。わたしたちが「主イエスよ」と呼び求めて、究極的に完成されたその霊がわたしたちの中へと入り、生ける水の川々として流れ出ることを日々経験させてください。
その霊は、彼の信者たちの中へと入り、生ける水の川々として流れ出ます
復活は人なるイエスが人性の殻から出て、神聖な命を解き放すことでした。そして、この復活は栄光化と呼ばれています。キリストがこのように栄光化される前に、その霊はまだなかったのです。ヨハネが「その霊はまだなかった」[ヨハネ7:39]と言った時、彼はその霊が信者たちから生ける水の川々として流れ出るのはまだであったということを意味していました[38節]。……キリストの復活を通して、またキリストの復活において、最後のアダムとしてのキリストは命を与える霊と成り、彼の信者たちの中へと入り、生ける水の川々として流れ出ます(Ⅰコリント15:45後半、啓21:6、22:17後半)。……
霊は創世記第1章2節から流れ始めました。神が来て創造された直後に、霊は動き始めました。それは六十六冊全体を通して聖書の流れの始まりです。この流れは啓示録第22章17節で究極的に完成されます。すなわち、それは「その霊」について語っています。ですから霊の流れは創世記第1章2節から始まりましたが、啓示録第22章17節において究極的に完成されます。聖書の両端の間には一つの長い流れがあります。……人の間で、また人の内側での神の歴史は、その霊の流れから流れるものです。その霊の定義は、人の間で、また人の内側で神の行動の歴史全体を包含します。もしこれを見るなら、わたしたちは聖書を内在的に理解し、聖書の真の意義を捕らえるでしょう。(「わたしたちの霊を伴うその霊」、第2-3章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り30日
(年二回の訓練(7月)第8週3日)
わたしたちはアブラハムのように祭壇と天幕の生活をします
創12:7-8
エホバは、アブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫に、この地を与える」。アブラムは、彼に現れたエホバのため、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東の山に進んで、天幕を張った.……そして彼はエホバのため、そこに祭壇を築いて、エホバの御名を呼び求めた。
「わたしたちはアブラハムの信仰の足跡を歩こうとするなら、祭壇と天幕の生活をし、キリストをわたしたちの命とし、召会をわたしたちの生活としなければなりません(ローマ4:12.ヘブル11:9.創12:7-8.13:3-4,18)。祭壇を築くことは、わたしたちの生活が神のためであること、神がわたしたちの命であること、わたしたちの生活の意義が神であることを意味します(出40:6,29.詩43:4前半.レビ1:3,9)」。
主イエスよ、あなたを愛します。 わたしたちはアブラハムの信仰の足跡を歩くために、祭壇と天幕の生活をし、キリストをわたしたちの命とし、召会をわたしたちの生活とすることができますように。わたしたちはこの世にではなく、別のふるさとに属していることをいつも宣言させてください。
アブラハムはベテルとアイの間の地に、もう一つの祭壇を築きました
祭壇は、わたしたちが自分のために何も保たないこと、……この地上に神のためにいることを、……わたしたちの生活は神のためであること、神がわたしたちの命であること、わたしたちの生活の意義は神であることを意味します。ですから、わたしたちはあらゆるものを祭壇の上に置くのです。…… アブラハムはモレで主に対して祭壇を築いた後、その地を旅し……ベテルとアイの間の地に来ました。……この場所に、アブラハムはもう一つの祭壇を築きました(創12:8、13:3-4)。ベテルは「神の家」を意味し、アイは「崩壊の堆積」を意味します。ベテルとアイは互いに対比しています。……
この対比は、召された者の目に、神の家だけが価値があることを意味します。他のあらゆるものは崩壊の堆積です。今日のわたしたちにとって、原則は同じです。一方で、ベテル、神の家、召会生活があります。これに相対するものは、崩壊の堆積です。召会生活に相対するものはすべて、崩壊の堆積です。……アブラハムについて言えば、主要な事柄は、すべてを神にささげること、神を礼拝して神に仕えること、神との交わりを持つことでした。その後はじめて、アブラハムは自分の生活のために天幕を張りました。アブラハムが天幕に住んだことは、彼がこの世に属していないで、人々に対して証しであったことを示しました(ヘブル11:9)。(「創世記ライフスタディ(3)」、第41編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り29日
(年二回の訓練(7月)第8週2日)
仮庵の祭りは荒野から、永遠の幕屋である新エルサレムの安息の中へと入ることを思い起こさせます
ヘブル11:9-10
信仰によって、彼は他国の地にいるように、他国人として約束の地に住み、同じ約束の共同の相続人であるイサクとヤコブと共に、天幕に住みました.なぜなら、彼は土台のある都を熱心に待ち望んでいたからです.その設計者と建築者は神です。
「今日わたしたちがキリストを仮庵の祭りとして享受し、ブレンディングのために団体的に共に来て、良き地の産物としてのキリストの豊富を享受することは、わたしたちがまだ荒野におり、永遠の幕屋である新エルサレムの安息の中へと入る必要があることを思い起こさせます(啓21:2-3)」。
主イエスよ、あなたを愛します。キリストを仮庵の祭りとして、キリストの豊富を享受することができることを感謝します。わたしたちが永遠の幕屋である新エルサレムの安息の中へと入る必要があることを、いつも思い起こさせてください。主よ、わたしたちも地上で旅人また寄留者として、土台のある都を熱心に待ち望むことができますように。
仮庵の祭りは、新天新地における新エルサレムの享受となります
この[仮庵の」祭りは、人々が今日まだ荒野にいて、新エルサレム、すなわち永遠の幕屋の安息の中へと入る必要があることを、思い起こさせるものです(啓21:2-3)。新エルサレムは金、真珠、宝石をもって堅固に建造されますが、幕屋と呼ばれています。新エルサレムは幕屋であり、どのようにして勝利者が、新エルサレムの究極的完成の前の王国時代に、まだ天幕の中で生活していたかの記念です。彼らはまだ定住していませんでした。彼らが新天新地の新エルサレムに入る時、もはや天幕の中で生活していませんが、なおも彼らの永遠の住まいを幕屋と呼んで、彼らが経験したものを記念します。……
仮庵の祭りの実際は、享受の時であり、わたしたちがどのように神を経験したか、神がどのようにわたしたちと共に住んだかを記念することです。わたしたちは天幕の中に住み、神は幕屋の中に住まれました。最終的に、わたしたちの仮庵の祭りは、新天新地における新エルサレムの享受となるでしょう。それは、わたしたちの神に対する経験の、あらゆる収穫の真の完成となるでしょう。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第6編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り28日
(年二回の訓練(7月)第8週1日)
仮庵の祭りにおいて、父祖たちが荒野で天幕の中に住んでいたことを記念しました
レビ23:39,43
そして、あなたがたは地の産物を集め終わった第七の月の十五日から七日間、エホバの祭りを守らなければならない.その一日目は完全な安息であり、また八日目も完全な安息である。…… それは、わたしがイスラエルの子たちをエジプトの地から連れ出したとき、彼らを仮小屋に住まわせたことを、あなたがたの子孫が知るためである.……
「わたしたちはキリストを仮庵の祭りとして享受することができます(ヨハネ7:2.レビ23:39-43)。神が仮庵の祭りを設立したのは、父祖たちが荒野でさまよっている間にどのように天幕(幕屋)の中に住んだかを、イスラエルの子たちが記念するためです。仮庵の祭りという名称の「仮庵」という言葉は、記念の思想を暗示します(申16:13-15)。
主イエスよ、あなたを愛します。仮庵の祭りは、わたしたちのキリストに対する享受の完成です。わたしたちは共に集まる時、神を礼拝し、神と祭りを共にして、良き地の産物であるキリストを享受することができますように。
クリスチャン生活は苦難の生活ですが、最終的に苦難はわたしたちの祭りとなります
レビ記第23章は、神は彼の選びの民のために七つの年ごとの祭りを設立したと言っています。最初のものは過越の祭りであり(5節)、最後のものは仮庵の祭りでした(34節)。過越は開始であり、仮庵の祭りはわたしたちのキリストに対する享受の完成です。過越は、神が彼の民のために設立したすべての祭りの中で第一の祭りです。これが予表するのは、キリストが彼に対するわたしたちの享受の始まりであり、それがわたしたちの霊的生活を開始させるということです。クリスチャン生活全体は祭りであるべきです。……クリスチャン生活は苦難の生活ですが、わたしたちは苦難を受けて、…… 最終的に、わたしたちの苦難はわたしたちの祭りとなります。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第6編)
神が仮庵の祭りを設立されたのは、父祖たちが荒野でさまよっていた時、どのように天幕の中に住み(レビ23:39-43)、良き地の安息に入ることを、彼らが期待していたかをイスラエルの子たちが記念するためでした。すべての者は天幕を持っており、神はこれらの天幕の間に幕屋を持っておられたので、仮庵の祭りは神の物語の記念でした。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第6編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り26日
(年二回の訓練(7月)第7週6日)
わたしたちは主に来て、御言の中のその霊としての彼に触れます
ヨハネ6:48,68
わたしは命のパンである。…… シモン・ペテロが彼に答えた、「主よ、わたしたちはだれに行きましょう? あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。
「ヨハネ第6章63節で、「言葉」はその霊に続きます。主は命を与えるために、ご自身がその霊と成ったということを示しました。それから彼は、ご自身が語る言葉は霊であり、命であると言いました。これは、彼の語る言葉が命を与える霊の具体化であることを示します(63節)。日ごとにわたしたちは主に来て、御言の中のその霊としての彼に触れる必要があります。わたしたちはこのことを行なうなら、命のパンとしてのキリストから養いを得ます(35節)」。
主イエスよ、あなたを愛します。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。主よ、わたしたちがあなたを命のパンとして食べ、消化し、吸収して、キリストで構成されますように。そして、地上におけるあなたの表現となりますように。
命を与える霊は、御言の中に具体化されています
わたしたちは御言の中のその霊に触れないなら、命を受け入れることはできません。その霊は聖書のエキスです。しかも、このエキスは御言の中に具体化されています。今日、肉体と成り、十字架につけられ、復活させられ、昇天したキリストは、命を与える霊であり、この命を与える霊は御言の中に具体化されています。日ごとにわたしたちは主に来て、御言の中のその霊としての彼に触れることができます。わたしたちはこのことを行なうなら、命のパンとしてのキリストから養いを得ます。(リー全集、1982年、第2巻(上)、「ヨハネの文書における幕屋とささげ物の成就(第1編―第24編)」、第18編)
[ヨハネによる福音書第6章]は命の言葉をもって締めくくっています。それは主を受け入れる唯一の道です。……あなたが言葉を受け入れるなら、内側でその霊を持ちます。内側でその霊を持っているなら、キリストを命の内なる供給として持ちます。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ(1)」、第16編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り25日
(年二回の訓練(7月)第7週5日)
最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです
ヨハネ6:63
命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である。
Ⅰコリント15:45
そこで、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」と書かれていますが、最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。
「わたしたちは、命のパンとしての、命の供給としての主イエスを受け入れて、養われるために、彼が命を与える霊であることと、この霊が御言の中に具体化されていることとを見る必要があります(ヨハネ6:63)。主がわたしたちに与えるものは、命を与えるその霊です。この霊は復活における主ご自身です(Ⅰコリント15:45)」。
主イエスよ、あなたを愛します。あなたは最後のアダムであり、命を与える霊と成られたことを感謝します。 わたしたちが日ごとに御言の中に具体化されているその霊を命の供給として、受け入れることができますように。
わたしたちが受け入れたキリストは その霊であるキリストです
あなたはどのようなキリストを受け入れたでしょうか? あなたが受け入れたのは肉体にあるキリストでしょうか、それともその霊としてのキリストでしょうか? 使徒パウロは、ある人たちは前には肉体にあるキリストを知っていたが、今は肉体にあるキリストをもはや知らないと言いました(Ⅱコリント5:16)。今や彼らはその霊としてのキリストを知っています(3:17)。……今わたしたちが受け入れるキリストは肉体にあるキリストではなく、その霊であるキリストです。……
主の復活の夕方、彼が弟子たちに来て彼らの中に息を吹き込んで、「聖霊を受けよ」と言われました(ヨハネ20:22)。それは復活後の彼ご自身でした。なぜなら、彼の復活の後、彼はその霊へと変貌されたからです。彼はもはや、十字架につけられる前のように肉体の中にはおられませんでした。今や、彼はその霊です。ですから、彼らはその霊を受け入れなければなりませんでした。彼の死の前、彼が肉体にあった時、彼がなし得たすべては、彼の弟子たちと共に、またその間にいることでしたが、彼らの内側にいることはできませんでした。今や、その霊として、主は容易にわたしたちの内側におられます。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ(1)」、第16編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り24日
(年二回の訓練(7月)第7週4日)
わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる
ヨハネ6:55-57
わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの中に住み、わたしも彼の中に住む。生ける父がわたしを遣わされ、わたしが父のゆえに生きているように、わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる。
「全聖書において最も強く、最も奇妙な文はヨハネ第6章57節です。食べることは、食物をわたしたちの中へと取り入れて、それがわたしたちの体の中へと有機的に吸収されることです。主イエスを食べることは、彼をわたしたちの中へと受け入れて、再生された新しい人が、彼を命の方法で吸収することです。そうすればわたしたちは、わたしたちが受け入れる方によって生きます。このようにして、復活した方である彼は、わたしたちの中で生きています(ヨハネ14:19-20)」。
主イエスよ、あなたを愛します。キリストは命のパン、天のパン、神のパン、命のパン、生けるパン、まことのパンであることを感謝します。わたしたちの霊を活用して、御言の中に具体化された、命を与える霊であるキリストに触れることができますように。わたしたちの食物の供給としてのキリストを取り入れさせてください。
命のパンである主の五つの特徴
ヨハネによる福音書第6章は、命のパンである主イエスについて多くの詳細を与えています。わたしたちは、命のパンである主の五つの特徴を見てきました。彼は天のパン(41、50、51、58節)、神のパン(33節)、命のパン(35、48節)、生けるパン(51節)、まことのパンです(32節)。わたしたちはクリスチャン生活の中で実行上の方法でその霊に触れる経験を日ごとに必要とします。わたしたちはただ毎日、聖書の二、三章を読むだけで、あるいはモーニングウオッチの御言の箇所を取るだけで満足すべきではありません。
わたしたちは御言に来るときはいつでも、全存在を、特にわたしたちの霊を活用して、今や命を与える霊であるキリストに触れる必要があります。わたしたちは確かに聖書を読む必要があります。しかし、わたしたちの全存在を活用して、御言の中のその霊と接触することは極めて重要です。こうするなら、わたしたちは食物の供給としてのキリストを取り入れるでしょう。わたしたちは天のマナとしてのその霊を受けるでしょう。(リー全集、1982年、第2巻(上)、「ヨハネの文書における幕屋とささげ物の成就(第1編―第24編)」、第19編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り23日
(年二回の訓練(7月)第7週3日)
わたしが与えるパンはわたしの肉であり、世の人の命のために与えるものである
ヨハネ6:51,53
わたしは天から下って来た生けるパンである.だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きる.わたしが与えるパンはわたしの肉であり、世の人の命のために与えるものである。…… イエスは彼らに言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.人の子の肉を食べ、彼の血を飲むのでなければ、あなたがたの内に命はない」。
「ヨハネによる福音書第6章51節後半で主イエスは言いました、「わたしが与えるパンはわたしの肉であり、世の人の命のために与えるものである」。この時点で、パンは肉となります。主はご自身の体、すなわち、ご自身の肉を与え、わたしたちのために死なれました。それはわたしたちが命を持つためでした」。
主イエスよ、あなたを愛します。 わたしたちが信仰によって、人の子の肉を食べ、彼の血を飲むことができることを感謝します。主が完成されたすべてのことを、わたしたちが信仰によって受け入れ、命の供給にあずかることができますように。
主の肉を食べること、彼の血を飲むことは、主が完成したことを信仰によって受け入れることです
ヨハネによる福音書第6章53節で……主は彼の血について語られました。それは贖いのために必要です(19:34.ヘブル9:22.マタイ26:28.Ⅰペテロ1:18-19.ローマ3:25)。「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.人の子の肉を食べ、彼の血を飲むのでなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ6:53)。血と肉の分離は、死を示します。ここで主はご自身の死、すなわち、彼が殺されることを明確に示しました。
主はわたしたちのためにご自身の体を与え、ご自身の血を流しました。それはわたしたちが永遠の命を持つためです。彼の肉を食べることは、彼がわたしたちのためにご自身の体を与えて成し遂げたすべてのことを、信仰によって受け入れることです。彼の血を飲むことは、彼がわたしたちのためにご自身の血を流した時に完成したすべてのことを、信仰によって受け入れることです。……食べ飲みする意義は、何かをわたしたちの存在の中へと受け入れることです。…… 主イエスを食べることは、彼をわたしたちの中へと受け入れて、命の方法で再生された新しい人によって消化されることです。原則は飲むことでも同じです。(「新約の結論(17)、メッセージ279)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り22日
(年二回の訓練(7月)第7週2日)
永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい
ヨハネ6:27,32
朽ちる食物のためにではなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい.これこそ、人の子があなたがたに与えるものである.…… イエスは彼らに言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が、天からのまことのパンを与えてくださるのである。
「ヨハネ第6章の多くの節は、わたしたちの経験と享受のために、キリストが命のパンであることを啓示しています(ヨハネ6:27,32-35,47-58,63前半,68後半)。ヨハネ第6章全体の最も重要な点は、キリストがわたしたちの食物、命のパンであるということです(ヨハネ6:35,48)。主を食べることは一度限りの事柄ではありません。それどころか、わたしたちは日ごとに主と接触し、主を食べる必要があります」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは天から下って来た生けるパン、まことのパンであることを感謝します。わたしたちが霊を活用して、言葉としての、またその霊としての主から食べたものによって生きることができますように。
霊を活用して、言葉としての、またその霊としての主から養いを得ます
ヨハネによる福音書第6章全体で最も重要な点は、主がわたしたちの食物、命のパンであるということです[27、32-35、47-58節、63節前半、68節後半]。主を食べることは一度限りの事柄ではありません。それは日ごとの事柄であり、瞬間ごとの主の経験でさえあるのです。……わたしたちはみな主と接触し、主を食べなければなりません。わたしたちは単に弱い人であるだけでなく、飢えた人でもあって、主をわたしたちの命の供給として必要とします。主は食べることのできる方です。なぜなら、彼は命のパンであるからです。……
わたしたちは霊を活用して、言葉としての、またその霊としての彼から養いを得なければなりません。そうすれば、わたしたちは主をわたしたちの中へと受け入れ、彼を消化し、彼を経験し、そして瞬間ごとに彼を適用します。これがすべてです。ほかに何もありません。わたしたちは自分の行なうこと、働くことを忘れて、キリストを食べること、そしてわたしたちが彼から食べたものによって生きることを学ばなければなりません。これが、わたしたちの日常生活のための神聖な命の道です。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ(1)」、第16編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り21日
(年二回の訓練(7月)第7週1日)
主イエスは天から地に下ってきた命のパンです
ヨハネ6:33,35
なぜなら、神のパンとは、天から下って来て、世の人に命を与える者だからである。…… イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである.わたしに来る者は決して飢えることがなく、……」。
「わたしたちはヨハネ第6章を注意深く読んで、この章について深い印象を持ち、七つの極めて重要な点の順序に注意を払うべきです。主イエスが天から地に下って来た主要な目的は、一つの中心的な事柄、すなわち、ご自身を食物(命のパン)として与えることを成就するためでした。それは彼が霊的養いとしてわたしたちによって食べられ、わたしたちによって消化されて、わたしたちの構成となることができるためでした(ヨハネ6:50-51)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが天から下って来た命のパンであることを感謝します。主よ、あなたを命のパンとして食べて、消化し吸収して、構成される道を歩むことができますように。
人がこのパンを食べて消化するとき、それは彼の構成要素となります
わたしたちはヨハネによる福音書第6章について深い印象を持つべきです。……第一に、主は命のパンです(35、48節)。第二に、主はこの命のパン、すなわち彼の肉を与えて、人に食べさせます(51節)。第三に、主はまたご自身の血を与えて、人に飲ませます(53節)。主が肉と血について語られたとき、それはユダヤ人の過越を背景としていました。この祭りの期間、あらゆる家族は小羊を殺し、その肉を食べ、その血を塗りました。……第四に、主は死なれただけでなく、復活されました(56節)。復活した主は、彼の肉を食べ彼の血を飲むすべての人の中へと入って、その人と結合されミングリングされて一となりました。
第五に、主が人の中に生きているので、人は彼のゆえに生き、神の御前に生きます(57節)。第六に、彼の肉体ではなく、彼の霊が人に命を与え、人を生かします(63節)。第七に、主の霊は彼の語る言葉(レーマ)の中にあります。それはレーマです。彼の言葉は霊であり、命です(63節)。人が主の言葉を聞いて受け入れるとき、主の霊は彼の中へと入って彼の命となられます。(「ヨハネによる福音書における啓示」、第9章――英文)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り19日
(年二回の訓練(7月)第6週6日)
キリストは、ベテルにおける天のはしごです
創28:12
彼は夢を見た.見よ、一つのはしごが地上に立っており、その頂は天に達していた.すると見よ、神の御使いたちが、その上を上り下りしていた。
ヨハネ1:51
そして彼は言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.天が開け、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
「神の言としてのキリストは、神の建造のためにはしごとなって、天(神)を地(人)にもたらし、地(人)を天(神)に結び付けて一とならせることを通して、神のために語ります(ヨハネ1:51.創28:11-22)。ヤコブの夢はキリストの啓示です。なぜならキリストは、ヤコブがベテル、すなわち神の家で見たはしごの実際であるからです(創28:12.ヨハネ1:51)」。
主よ、あなたを愛します。神の言としてのキリストは、神の建造のためにはしごとなって、天をわたしたちにもたらし、わたしたちを天に結び付けてくださることを感謝します。主よ、わたしたちが造り変えられ、建造されて、ヤコブの夢が究極的な実現へといたりますように。
神は彼の住まいとしての建造された家(ベテル)を必要とされます
キリストはまた、ベテルにおける天のはしごであることにおいて、どれほど神が地上でご自身の贖われ造り変えられた選びの民で構成された家を持ち、それによって天を地にもたらし、地を天に結び付け、両者を一にして永遠に至ることを願っているかをわたしたちに語ります。神の言は、創造、肉体と成ること、小羊となること、命を与える霊と成ること、はしごであることにおけるキリストです。これら五つの最大の歴史的な出来事において、キリストは神のために語られます。この意味で、わたしたちは、創造は言であり、肉体と成ることは言であり、小羊は言であり、その霊は言であり、はしごは言であると言ってよいでしょう。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第1編)
創造、肉体と成ること、贖い、油塗りの後、建造があります。この建造は神の家のためです。神はご自身のために住まいを建造しつつあり、造り変えられた人たちを石として用いておられます(ヨハネ1:42)。主を賛美します、わたしたちは造り変えの働きの下にいるだけでなく、建造の過程の中にもあるのです。神が必要とされるのは数多くの石ではなく、一つの家です。永遠のために、神は彼の住まいとしての建造された家、ベテルを必要とされます。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ(1)」、第5編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り18日
(年二回の訓練(7月)第6週5日)
わたしたちは贖われるだけでなく、造り変えられる必要があります
ヨハネ1:32,42
またヨハネは証しをして言った、「わたしはその霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た」。…… そして彼をイエスの所に連れて行った。イエスは彼を見て言われた、「あなたはヨハネの子シモンである.あなたをケパ(訳せばペテロを意味する)と呼ぶことにする」。
「ペテロが回心した時、主は彼にペテロ、すなわち石という新しい名を与えました(ヨハネ1:42)。またペテロがキリストに関する啓示を受けた時、主はさらにご自身が岩、すなわち石であることを啓示しました(マタイ16:16-18)。これら二つの出来事によってペテロは、キリストと彼の信者たちの両方が神の建造のための石であるという印象を受けました(Ⅰペテロ2:4-8)」。
主イエスよ、あなたを愛します。神の言としてのキリストは、油塗る霊と成って、神の贖われた人を造り変えて石としてくださることを感謝します。わたしたちが生ける石として、霊の家に建造されて、新エルサレムへと至りますように。
主はその霊と成って、神の贖われた人を造り変えて石とし、神の家を建造します
御言としてのキリストが語っておられる宇宙の歴史における第四の偉大な出来事は、彼がその霊と成られたことです。ヨハネによる福音書第1章32節は言います、「ヨハネは証しをして言った、『わたしはその霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た』」。これは、はとのように小羊の上に下るその霊です。キリストは小羊でした。次に彼ははと、その霊と成られました。キリストがヨハネによる福音書第1章で啓示されているのは、彼がその霊と成って、新約のために有機的に、神の贖われた人を造り変えて石とし(32-42節)、神の家(ベテル――51節)を建造することにおいてです。……
造り変えの第一段階はわたしたちを再生すること、再び造ることです。わたしたちは神のかたちに、神の姿にしたがって造られましたが、再生されるまで、まだ内側に神の何の実際もありません。わたしたちは再生されて、神の霊的な建造、彼の家のために石へと造り変えられ始める必要があります。神の家、ベテルは、まず召会であり、次にキリストのからだであり、究極的に新エルサレムです。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第1編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り17日
(年二回の訓練(7月)第6週4日)
見よ、世の人の罪を取り除く神の小羊
ヨハネ1:29
その翌日、ヨハネはイエスが自分の所に来られるのを見て言った、「見よ、世の人の罪を取り除く神の小羊!」。
ヘブル9:26
……ところが今や、諸時代の終結に当たって、彼はただ一度、ご自身をいけにえとしてささげ、罪を取り除くために現されたのです。
「神の言としてのキリストは、贖いのための神の小羊となることを通して、神のために語ります(ヨハネ1:29,36)。キリストは、失われた世の人の贖いのために小羊となることにおいて、どのようにして神が、神の義にしたがった手続きとしてのキリストの死を通して、キリストの贖いを法理的に完成したかについて、わたしたちに語ります」。
主イエスよ、あなたを愛します。あなたは人類の罪を取り除く神の小羊として、十字架上で死んでくださったことを感謝します。神の小羊としてのキリストのゆえに、わたしたちは大胆に神の中へと入り、神であるすべてを享受することができますように。
キリストの死を通して、キリストの贖いを法理的に完成したかについて語ります
ヨハネによる福音書第1章3節は、時の初めに万物を創造することにおけるキリストを啓示しています。……キリストが見られるのはまた、目に見えない神が肉体と成って見える人と成り(14節)、人の肉と血にあずかって(ヘブル2:14)、失われた宇宙を贖い、新約時代をもたらすことにおいてです。肉体と成った神は血を持っておられます。使徒行伝第20章28節は、神がご自身の血で召会を買い取られたと言っています。神は人の肉と血にあずかって、失われた宇宙を贖いました。全宇宙は、天を含めて、サタン、…… 神に敵対する彼の反逆の中で汚染されました。この最初の反逆は全宇宙を失われたものとしたので、地上と天の万物は、神によって贖われる必要がありました(コロサイ1:20)。
キリストは、失われた世の人の贖いのために小羊となることにおいて、どのようにして神が、神の義にしたがった手続きとしてのキリストの死を通して、キリストの贖いを法理的に完成したかについて、わたしたちに語ります。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第1編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り16日
(年二回の訓練(7月)第6週3日)
主は肉体と成り、恵みと実際に満ちていました
ヨハネ1:14,16
そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた.それは恵みと実際に満ちていた。わたしたちは彼の栄光を見た.それは、父からのひとり子としての栄光であった。…… わたしたちはみな、彼の豊満から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
「神の言としてのキリストは、肉体と成って神の幕屋となることを通して、神のために語ります(ヨハネ1:14)。言は、肉体と成ることによって、神を人性の中へともたらしただけでなく、人々の間での地上の神の住まいとして神への幕屋ともなり、恵みと実際に満ちていました」。
主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、あなたは肉体と成ることによって、神を人性の中へともたらしてくださったことを感謝します。わたしたちがキリストの中の神を恵みとして、実際として、すべてとして享受することができますように。
神の言としてのキリストは、肉体と成って神の幕屋となりました
キリストは彼の肉体と成る前、言として、奥義的で……触れることも、見ることも、触れることもできませんでした。彼は肉体と成ることによって、確固とした、実際で、目に見え、触れることができるようになられました。…… 彼は肉体と成ることを通して触れることができるようになられましたが、わたしたちが彼を享受することができる前に、それ以上のものを必要としました。ですから、第1章14節は、彼は「恵みと実際に満ちていた」と言います。……
彼は見ることができ、触れることができるようになった時、恵みと実際に満ちておられました。キリストが肉体にあって弟子たちと共におられた時、彼らは彼を見て触っただけでなく、彼を享受しました。……彼が弟子たちに神を明らかに示されたのは、教えることによってではなく、そのように甘い享受を彼らに与えることによってです。彼はただ人々を見つめるだけで、彼らを捕らえることができました。彼の臨在は何と享受があったことでしょう! 彼の臨在はそんなにも魅力がありました。……だれ一人、彼の魅力的な臨在に抵抗することができなかったかのようです。それが神を明らかに示す彼の方法でした。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ(1)」、第3編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り15日
(年二回の訓練(7月)第6週2日)
神が創造された物を通して、神を知ることができます
ヨハネ1:3
すべてのものは、彼を通して成った.成ったもので、彼なしに成ったものはなかった。
ローマ1:20
神の見えない永遠の力と神性の特徴は、世界が創造されて以来、明らかに見られており、造られた物によって認められているので、彼らには弁解の余地がありません。
「神の言としてのキリストは、神の創造を通して神のために語ります(ヨハネ1:3)。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼に言葉を出し、夜は夜に知識を告げる。話もなく、言葉もなく、その声も聞かれない」(詩19:1-3)」。
主よ、あなたを愛します。わたしたち人類のために、神が万物を創造されたことを感謝します。神の見えない永遠の力と神性の特徴は、造られた物によって認められています。わたしたちは神にあって生き、動き、存在していることを感謝します。
見える被造物は、見えない神に関して語っています
ローマ人への手紙第1章20節によれば天と地のすべての物は、神が存在することの証明です。……神が創造された天と地、また彼が造られたすべての物も、彼に関して証しします。これらすべての物は人々に神を知らせ、神の存在を承認しない者たちに弁解の余地を与えません。神は見えませんが、わたしたちは、神が創造された物を通して神を知ることができます。言い換えると、見える被造物は、見えない神に関して語るということです。創造された物が静かに存在するという事実は、それらを創造された神がおられることについて語ります。
詩篇第19篇1節から3節は、天と地の物が神の存在に関して絶えず語ることを[示しています]。……それらの語りかけは静かですが、真実で、信頼できる事実を伝達し、それは見ることができます。それらは創造する神がおられることをわたしたちに告げます。。(リー全集、1932年―1949年、第1巻、「良き知らせ(The Glad Tidings)」、第1編、[英文])
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り14日
(年二回の訓練(7月)第6週1日)
神の言としてのキリスト
ヨハネ1:1
初めに言があった.言は神と共にあった.言は神であった。
ヨハネ1:51
そして彼は言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.天が開け、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
「ヨハネ第1章は、ヨハネによる福音書全体の序言であり、この序言の主要な強調は、キリストが神の言であるということです。彼は奥義的な見えない神の定義、説明、表現です(ヨハネ1:1)。 ヨハネ第1章が言及しているキリストは、永遠の二つの区分と時間の架け橋にある、宇宙の歴史の五つの最も偉大な出来事、すなわち創造、肉体と成ること、贖い、油塗り、建造におけるキリストです(参照、詩90:1-2.ミカ5:2)}。
主イエスよ、あなたを愛します。過去の永遠に計画し、時間の架け橋の上で達成し、未来の永遠に享受される神を賛美します。神の言としてのキリストをわたしたちが見て、経験し享受することができますように。
五つの宇宙的で歴史的な出来事
わたしたちはこれら五つの偉大で歴史的な出来事を、五つの言葉で覚えることができます。それは「創造」、「肉体と成ること」、「小羊」、「霊」、「はしご」です。ヨハネによる福音書第1章は、言としてのキリストで始まり、はしごとしての彼で終わります。言としてのキリストは、創造を通して、肉体と成ることを通して、彼が小羊となることを通して、彼がその霊と成ることを通して、彼がはしごであることを通して語られます。はしごを持つためには、基礎の必要があり、キリストが天のはしごとなるための基礎は神の家、ベテルです。ベテルの実際は召会、次にキリストのからだと新エルサレムです。
これら五つの宇宙的で歴史的な出来事すべてにおいて、神の言であるキリストは、(1)創造における創造主、(2)肉体と成ることにおける人、(3)贖いにおける小羊、(4)造り変えにおけるその霊、(5)地を天に結び付けることでのはしごとして、見えない神を定義し、説明し、表現します。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第1編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り12日
(年二回の訓練(7月)第5週6日)
ヨベルの生活は、あらゆる状況の中でキリストご自身を取る生活です
使徒26:18
彼らの目を開き、彼らを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせるのである.それは、わたしにある信仰によって、彼らが罪の赦しと、聖別された人たちの間での嗣業を受けるためである。
「ヨベルの生活は、わたしたちがあらゆる状況の中で、神ご自身、キリストご自身を取る生活です。その時、彼はわたしたちの中で主要な要因また中心となって、人生のすべての困難を克服します(ヨハネ6:16-21.コロサイ1:17後半,18後半.ピリピ4:6-7,11-12)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせてくださったことを感謝します。わたしたちがあらゆる状況の中で、キリストをわたしたちの嗣業また真の自由として享受するヨベルの生活をすることができますように。
外側の状況がどのようであっても、わたしはただあなたを享受したいのです
ヨベルの生活はキリストを享受する生活です。……わたしたちが持っているすべては主の主権ある御手の中にあり、彼がわたしたちのために案配されることは何であれ、間違っていることはあり得ません。……わたしたちは、自分が努力して頑張ったゆえに今日の自分があると思うかもしれませんが、主の主権ある案配なしに、どれほど頑張って努力したとしても、自分の思うようにはなれないことを認識しなければなりません。……
ですから、わたしたちは自分自身のすべてを空にして、主に告げるべきです、「わたしを満たし、わたしを獲得し、わたしを所有してください。主よ、外側の状況がどのようであっても、わたしはただあなたを享受したいのです。わたしが健康であるなら、あなたに感謝します。健康でなくても、やはりあなたに感謝します。……」。このようにして、貧しくても富んでいても、平穏でも危険でも、わたしたちにとってすべては同じです。それゆえパウロは言いました、「かえっていつものように……生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです」(ピリピ1:20後半)。わたしたちにとって生きることはキリストであり、生きるにも死ぬにも、キリストは絶えずわたしたちにおいて大きく表現されます。このようにして、わたしたちは神を享受し、ヨベルの生活をします。(リー全集、1984年、第4巻(上)、「ヨベル」、第4編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り11日
(年二回の訓練(7月)第5週5日)
命の霊の法則は、罪と死の法則からわたしたちを解放します
ローマ7:24
何とわたしは苦悩している者でしょう! だれがこの死の体から、わたしを救い出してくれるのでしょうか?
ローマ8:2
なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです。
「人はだれも心の深みで、罪を犯したいとは願っていませんが、最終的にあらゆる人は罪を犯します。だれも自分を制御できず、あらゆる人が罪の奴隷となっています(ローマ7:18-23.ヨハネ8:34)。命の霊の法則は、罪と死の法則からわたしたちを解放します。この法則は主ご自身であり、彼は死と復活を経過して、命を与える霊と成りました(ローマ8:2)」。
主イエスよ、あなたを愛します。あなたが命を与える霊と成られたことを感謝します。 わたしたちは救われた後も、罪を犯したいと願ってはいませんが、最終的には罪を犯してしまいます。自分の罪を告白して神に戻って、命を与える霊を享受することができますように。
主イエスは死と復活を経過して、命を与える霊と成りました
心の深みではだれも罪を犯したくないのですが、中毒になり、ベルゼブルにそそのかされてしまうと、従わざるを得なくなります…… 福音の祝福は、神に戻ること、神を所有として得ることです。いったん神を所有として享受すると、わたしたちは自由です。神を享受する者だけが罪を犯すことなく、真に自由です。ヨハネによる福音書第8章36節は言います、「だから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのである」。自由でありたいなら、罪を犯したくないなら、わたしたちは神の御子を得て、彼を享受しなければなりません。
神の御子は今日、命を与える霊です。この命を与える霊は命の霊であって、命の霊の法則としてわたしたちの中におられます。ですから、命の霊の法則は主ご自身であり、彼は死と復活を経過して、命を与える霊、命の霊と成られました。あらゆる命に法則があるように、命の霊にも法則があります。命の霊の法則は、罪の法則からわたしたちを解放します。わたしたちは主を信じた瞬間だけヨベルの自由を享受するのではなく、その日から始まって人生のすべて、また永遠にこの自由を享受すべきです。
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り10日
(年二回の訓練(7月)第5週4日)
マリアは主の足もとに座って、主の言に聞き入っていた
ルカ10:39
彼女にはマリアという姉妹がいたが、マリアは主の足もとに座って、主の言に聞き入っていた。
イザヤ30:15
まことに、主エホバ、イスラエルの聖なる方はこう言われる、「立ち返って安息するなら、あなたがたは救われる.落ち着いて信頼することの中に、あなたがたの力がある」.……
「わたしたちはキリストを、新約のヨベルの自由と祝福の実際として享受する必要があります(ルカ4:18-19)。わたしたちは、キリストをヨベルの実際として享受するために、日ごとに主と時間を費やして、彼の言葉に聞き入り、彼で注入される必要があります(ルカ10:39)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが語る言葉は霊であり、また命であることを感謝します。わたしたちもマリアのように、主イエスの足もとに座って、主の言に聞き入って、主ご自身を注入されますように。日ごとに主を享受して、真の自由を得ることができますように。
主が語る言葉は霊であり、また命です
彼女は主イエスの足もとにいました。…… 彼女はそこで主に近づいていました。これは、命が成長する最も短くて最も速い道です。時々刻々、主に来て、主を愛し、主を礼拝し、絶え間なく主と交わり、主の臨在の中にとどまることよりも良い方法はありません。最も深く神を認識している人たちは、この道を探し出した人です。ガイオン夫人は言いました、「神に近づくことはすべての奉仕を含んでいる」。パウロもかつて言いました、「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)。人がもし顔おおいなしに、自分の内側に住んでおられるキリストと絶え間なく交わるのであれば、その結果、主と同じかたちへと変えられていきます(Ⅱコリント3:18)。……
彼女はそこで御言に聞き入っていました。主が語る言葉は霊であり、また命です。主は言葉を通して、ご自身を人の中へと分与されます。彼女が御言に聞き入っていたことは、主に機会を与えることであり、このことは主ご自身を彼女に分与し、彼女に主を得させ、主に似る者とならせます。彼女はそこでずっと主ご自身を受け入れる人となっていました。彼女は声だけを聞いたのではなく、そこで主と出会っていたのです。(ニー全集、第38巻、第39編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り9日
(年二回の訓練(7月)第5週3日)
ヨベルの告げ知らせは、ルカによる福音書全体の中心思想を支配します
ルカ15:20,23
こうして彼は立って、父の所に帰って来た。ところが、彼がまだ遠く離れていたのに、父は彼を見て深く同情し、走り寄って彼の首を抱き、愛情を込めて口づけした。…… また、あの肥えた子牛を引いて来て、ほふりなさい.食べて楽しもうではないか.
「ルカ第4章におけるヨベルの告げ知らせは、ルカによる福音書全体の中心思想を支配します。ルカ第10章における良きサマリア人のたとえとルカ第15章における放蕩息子のたとえは、ヨベルの卓越した例証です。放蕩息子のたとえにおいて提示された人・救い主は、彼の牧養し、尋ね求め、救う霊を、御父の愛し、赦し、あわれむ心と共に示しています(ルカ15:11-32.参照、9:55-56)」。
主イエスよ、あなたを愛します。 父の家には食べ飲みして享受することだけがあることを感謝します。わたしたちが父の家に戻ることができたことを感謝します。わたしたちを労苦から解放し、父の家で食べて楽しむ者にしてください。
放蕩息子は、自分の所有と父の家に戻り 食べ飲みして享受しました
ルカによる福音書第4章18節から19節のヨベルの告げ知らせは、ルカによる福音書全体の中心思想を支配しており、ルカによる福音書第15章の放蕩息子のたとえは、ヨベルの卓越した例証です。放蕩息子は自分の所有と自分自身を売りました。ある日、放蕩息子は、自分の所有と父の家に戻りました。それはヨベル、すなわち自由であり、あらゆる事は、喜ばしく満足のいくものとなりました。父の家には食べ飲みして享受することだけがあり、労苦はありませんでした。これはレビ記第25章11節と一致します。この節は、人々がヨベルの年に、まいたり刈り取ったりしてはならず、ただ食べて享受しなければならなかったと言っています。……
同じように、ルカによる福音書第15章で父は、息子が自分を「雇っているしもべの一人のようにしてください」と言おうとした言葉を聞きませんでした。むしろ、父は息子に肥えた子牛を与え、食べて享受させることを願いました。だれも資格のない者はありません。みな資格があります。なぜなら神は、「わたしはあなたを受け入れた」と言われるからです。ヨベルは神の受け入れる時代、時です。(リー全集、1984年、第4巻(上)、「ヨベル」、第2編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り8日
(年二回の訓練(7月)第5週2日)
パウロはどんな境遇でも、満ち足りることを学びました
ルカ4:18-19,21
「主の霊がわたしの上にある.彼が貧しい人たちに福音を宣べ伝えるように、わたしに油を塗られたからである.彼はわたしを遣わして、捕らわれ人たちには解放を、盲人たちには視力が回復されることを告げ知らせ、圧迫されている人たちを解放して去らせ、主の受け入れる年、ヨベルの年を告げ知らせるのである」。……今日この聖書は、あなたがたが耳にしたとき、成就した。
「ヨベルの年は、恵みとしてのキリストが、彼の恵みの言葉によってわたしたちの中へと分与されて、わたしたちの享受となる時代です。新約のヨベルは、わたしたちの救いを狂喜する時代です(ルカ4:22.詩45:2.ヨハネ1:14-17.Ⅱコリント6:29)。 わたしたちは、主イエスを真のヨベルとしてわたしたちの中に受け入れなければなりません」。
主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの歓喜と喜びである神に行き、日ごとに神に対する十分な享受を持つことができますように。
ヨベルは外側の人、事、物ではなく、わたしたちの内側のキリストです
「ヨベル」の意味は、悩みや思い煩いがなく、心配や気がかりがなく、欠け目や欠乏がなく、病や災いがなく、何の問題もなく、あらゆる益を受けることです。…… ピリピ人への手紙第4章でパウロは、… 言います、「わたしはどんな境遇でも、満ち足りることを学んだからです。わたしは卑しくなる道を知り、また豊かになる道も知っています.あらゆる事において、またいっさいの事柄において、……秘訣を学びました」(11節後半-13節)。わたしたちがあらゆる種類の状況に直面するとき、わたしたちを静まらせ、悩みから解くことができるのは、外側の人、事、物ではなく、わたしたちの内側のキリストです。
キリストはすでに来られたので、ヨベルの時代はここにありますが、主イエスにわたしたちの中へ入っていただくまでは、内側にヨベルはありません。……たとえわたしたちがキリストの中へと信じて、キリストにわたしたちの中へと入って来ていただいても、もし彼にわたしたちの中で生きていただかないなら、またわたしたちが彼によって生きないなら、わたしたちは実際的にヨベルの中に生きていないのです。ある事柄でキリストによって生き、彼にわたしたちの中で生きていただくなら、わたしたちはその事柄の中でヨベルを享受します。このようにして、その特定の事柄に属するすべては、わたしたちにとって満足のいくものになります。(リー全集、1984年、第4巻(上)、「ヨベル」、第1編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り第7日
(年二回の訓練(7月)第5週1日)
旧約の予表におけるヨベルは、失われた所有地に帰ることと、奴隷状態からの解放です
レビ25:10,13
あなたがたは五十年目の年を聖別し、全土にわたってすべての住民に、解放をふれ示さなければならない。それはあなたがたにとってヨベルである.あなたがたは、それぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族に帰らなければならない。…… このヨベルの年には、それぞれ自分の所有地に帰らなければならない。
「レビ記第25章8節から17節のヨベルの年は、イザヤ書第61章1節から3節で予言として記載されており、ルカ第4章16節から22節で実際に成就されています。ヨベルの年には、二つの主要な祝福がありました。それは、それぞれの人が自分の失われた所有地に帰ることと、奴隷状態からの解放です(レビ25:8-17)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちを神聖な所有地としての神に帰らせてくださったことを感謝します。また神聖な家族としての召会に帰らせてくださったことを感謝します。日々、真のヨベルを享受することができますように。
旧約の予表でヨベルは一年ですが、その成就は新約時代全体、恵みの時代です
ヨベルの年は主の受け入れる年であり、イザヤ書第61章1節から2節で予言され、ルカによる福音書第4章16節から22節で主の来臨によって成就されています。旧約の予表で、ヨベルは一年続きましたが、その成就は新約時代全体、恵みの時代であり、帰って来た罪の捕らわれ人を神が受け入れる時(イザヤ49:8.ルカ15:17-24.Ⅱコリント6:2)、罪の束縛の下にしいたげられていた者が神の救いの解放を享受する時です(ローマ7:14―8:2)。
信者たちが恵みの時代にヨベルを享受すること、すなわち、彼らへの神の恵みとしてのキリストを享受することは、千年期におけるヨベルの満ち満ちた享受、また新天新地の新エルサレムにおける最も満ち満ちた享受をもたらします。(レビ25:10、フットノート1)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り第5日
(年二回の訓練(7月)第4週6日)
キリストの変貌は、彼が彼の王国の中で来られることです
マタイ13:43
その時、義人は彼らの父の王国で太陽のように輝く。聞く耳のある者は、聞くがよい。
ピリピ3:21
キリストは、万物を彼ご自身に服従させることができる彼の活動によって、わたしたちの卑しい体をも変貌させ、それを彼の栄光の体に同形化してくださいます。
「王国の実現の時、わたしたちの人性は、わたしたちの内側の栄光ある神性によって栄光化されます(コロサイ1:27)。ある意味で、主は天から戻って来ますが、別の意味で、彼はわたしたちから出て来ます。彼がわたしたちからご自身を完全に生かし出すとき、それは彼の到来の時となります(マタイ16:27.Ⅱテサロニケ1:10.コロサイ1:27.3:4)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの生活の中で、神聖な性質を伴う神聖な命をもって、わたしたちに浸透してください。わたしたちの卑しい体を変貌させ、あなたの栄光の体に同形化してくださる約束を感謝します。
王国の実現の時、わたしたちの人性は内側の栄光なる神性によって栄光化されます
キリストの変貌(かたちが変わること)は彼が彼の王国の中で来られることであることを認識するクリスチャンは多くありません。……主の到来は突然起こるのではありません。むしろ、それは徐々に来るのです。ある意味で、主は天から戻って来られます。しかし別の意味で、彼はわたしたちから出て来られます。彼がわたしたちから完全にご自身を生かし出される時が、彼の到来の時です。マタイによる福音書第17章1節から2節と第16章28節によれば、彼の到来は彼の変貌であり、彼の変貌は彼の栄光が現されることでした。彼は変貌された時、栄光が現されました。……
わたしたちは今、内側に、神聖な性質を伴う神聖な命を持っています。しかしながら、わたしたちはなおも天然の人性を持っています。どれほど霊的で聖であっても、わたしたちの人性はまだ天然的です。それはまだ神聖な栄光で浸透されていません。しかし王国の実現の時、わたしたちの人性は、内側の栄光なる神性によって栄光化されるでしょう。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第49編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り第4日
(年二回の訓練(7月)第4週5日)
主のために進んで魂を失うなら、変貌を経験します
マルコ8:35-36
なぜなら、すべて自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、すべてわたしのため、また福音のために、自分の魂の命を失う者はそれを救うからである。人が全世界を手に入れても、自分の魂の命を失ったなら、何の益があるだろうか?
「神の王国としての召会は、天然の命の中で存在することはできず、ただ変貌(かたちが変わること)というこの領域の中でのみ存在することができます(ローマ14:17)。主のために進んで自分の魂の命を失うなら、わたしたちは召会生活の中で顕著な変貌を経験します。この変貌は、真の復興となります(マルコ8:35-38.マタイ16:25-27)」。
主イエスよ、あなたを愛します。神の王国としての召会は、天然の命の中で存在することはできません。主よ、わたしたちがあなたのために進んで自分の魂の命を失うことができますように。主よ、召会生活の中で顕著な変貌を経験させてください。
召会の中で自分の魂を失い、魂の享受を失うことを学ぶ必要があります
召会は、わたしたちが主のために進んで魂を失うことによって、かたちが変わります。言い換えれば、それは復興をもたらします。あらゆる真の復興は、キリストの来臨であり、彼の褒賞を伴った現在のキリストの来臨です(物理的な方法における彼の二度目の来臨ではない)。彼は忠信な人に積極的に褒賞を与え、不忠信な人に消極的に報いられます。わたしはこのことが召会生活において起こったのを見たことがあります。復興、すなわち、かたちが変わることが来たとき、ある人は享受し、他の人は暗やみで歯がみしました。……
召会の中で、わたしたちはみな自分の魂を失い、魂の享受を失うことを学ぶ必要があります。わたしたちの魂を失うことによって、かたちが変わることは起こります。そのとき、主のかたちが変わることの中で、わたしたちは積極的に褒賞を受け、主はわたしたちの魂を救われます。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第5編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り第3日
(年二回の訓練(7月)第4週4日)
神の王国は主イエスの変貌(かたちが変わること)です
マルコ9:1-2
イエスはまた彼らに言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.ここに立っている者のうちのある人たちは、死を決して味わわないうちに、神の王国が力をもって来るのを見る」。それから六日の後、イエスはペテロとヤコブとヨハネとを連れて、彼らだけをひそかに高い山へ導いて行かれた。すると、彼は彼らの前でかたちが変わり、
「主イエスが変貌したこと(主イエスのかたちが変わったこと)は、彼の人性が彼の神性で浸透され飽和されたことを意味しました。この変貌は、彼の栄光が現されることであり、彼が王国の中で来ることと等しかったのです(マルコ9:2)。わたしたちが神の王国の種として受けた方は、わたしたちの中で成長して、ついにはわたしたちの内側から開花する必要があります。この開花は、わたしたちの中での、実際の、経験することができる主の変貌(かたちが変わること)です(コロサイ1:27)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが命の種としてわたしたちの心の中へとまかれたことを感謝します。この種がわたしたちのうちで成長し発展して開花し、栄光の中で現されますように。
キリストがわたしたちの内側で変貌するとき、その変貌は神の王国となります
主イエスの変貌(かたちが変わること)は王国の到来です。これは、王国が物質の領域でないことを証明します。……王国は変貌した(かたちが変わった)パースンです。わたしたちは、主イエスの変貌(かたちが変わること)としての王国についてのこの理解を、わたしたちの経験の光の中で考える必要があります。……土壌によって受けられた種が、まだ変貌していない種であるように、わたしたちの経験の中で、わたしたちが受け入れたキリストは、変貌していない(かたちが変わっていない)キリストでした。種の変貌は、その種が成長して円熟した植物となり、その植物が開花することを必要とします。……
同じように、わたしたちが受け入れた主イエスは、わたしたちの中で成長して、わたしたちの内側から開花する必要があります。…… 主イエスがわたしたちの中で、日ごとの生活において実際的な方法で変貌する(かたちが変わる)とき、その変貌は神の王国となり、わたしたちの生活のあらゆるものを支配します。この王国はわたしたちを支配し、またわたしたちに神の完全な享受を与えます。(「マルコによる福音書ライフスタディ(2)」、第66編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り第2日
(年二回の訓練(7月)第4週3日)
マルコ第4章35節から41節の記録は、神の王国が反逆を征服する力であることの絵です
マルコ4:39
イエスは目を覚まして、風をしかりつけ、海に「黙れ! 静まれ!」と言われた。すると風はやんで、大なぎになった。
エペソ6:12
というのは、わたしたちの格闘は血肉に敵対するものではなく、支配者たちに、権威者たちに、この暗やみの世の主権者たちに、天上にいるあの悪の霊の勢力に、敵対するものだからです。
「マルコ第4章35節から41節の記録は反逆の絵であり、また神の王国が反逆を征服する力であることの絵です。主は風をしかりつけ、海に黙るように命じました。それは反逆の天使たちと悪鬼どもが、その背後にいたからです。主が風をしかりつけ、海に語った後、風はやみ、大なぎになりました。それは邪悪な天使たちと悪鬼どもの反逆が、王国の力によって征服されたからです(マルコ4:39)」。
主イエスよあなたを愛します。神の王国が反逆を征服する力であることを賛美します。主よ、わたしたちの格闘は血肉に敵対するものではなく、支配者たちに、権威者たちに、この暗やみの世の主権者たちに敵対するものであることを見ることができますように。
主が風をしかりつけ、海に語られた後、風はやみ、大なぎになりました
奴隷・救い主は、神の王国について強い言葉を語ったすぐ後、彼の弟子たちに言われました、「向こう岸へ渡ろう……」[マルコ4:35]。その時、反逆者サタンは、空中の彼の使いたちと水中の彼の悪鬼どもを使って反逆を引き起こしました。「大きな突風が起こって、波が舟に打ち込み、そのために舟は水浸しになりそうであった」(37節)。この嵐は、主と彼の弟子たちを運ぶ舟が海を渡るのをとても困難にしました。……
主は、その嵐がこれらの天使たちと悪鬼どもによって引き起こされたこと、それは彼が海の向こう岸に行って悪鬼の群れを追い出すのを阻止するためであったことを知っておられました。主がそれらの悪鬼どもを追い出されたとき、それは王国の到来でした。
今やわたしたちは、第4章で主が王国について語り、第5章で悪鬼どもを追い出すことを通して王国を遂行されたのを見ることができます。王国に関する言葉と王国を遂行することの間に、嵐の海の事例があります。主が風をしかりつけ、海に語られた後、風はやみ、大なぎになりました。なぜなら、空中の邪悪な天使たちと水中の悪鬼どもの反逆が征服されたからです。「マルコによる福音書ライフスタディ(1)」、第12、17編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
10月の祈り第1日
(年二回の訓練(7月)第4週2日)
主は神の霊によって悪鬼どもを追い出して、神の王国をもたらしました
マタイ6:10
あなたの王国が来ますように.あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように。
マタイ12:28
しかし、わたしが神の霊によって悪鬼どもを追い出しているのであれば、神の王国はあなたがたに臨んでいるのである。
「主イエスは来て神の王国を建て上げ、神の永遠の定められた御旨を完成します(マルコ1:14-15)。神の王国は、神が彼の権威を行使して、彼のご計画を成就することができる神聖な領域です(マタイ6:10,33.ルカ12:32.コロサイ1:13)。主は神の霊によって悪鬼どもを追い出したとき、サタンの王国を破壊して、神の王国をもたらしていました(マタイ12:28)」。
主イエスよ、あなたを愛します。あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように。わたしたち召会が主イエスと同じように、福音を宣べ伝えることによってサタンを追い出し、神の王国をもたらすことができますように。
主イエスは福音を宣べ伝えることによってサタンの王国を滅ぼし、神の王国をもたらしました
わたしたちは、王国とは人が何かを達成する範囲、あるいは領域であると言うかもしれません。時には、ある人は自分自身の王国を持っていると言います。これが意味するのは、彼が働いて自分の目標に到達し、あるいは自分の計画を成就することができる領域、範囲を持っているということです。ですから、王国とは、人が行ないたいことを行なう領域です。旧約聖書によれば、神の王国と呼ばれる領域があります。神の王国とは、神が彼の永遠の定められた御旨を成し遂げ、彼の目標を達成する範囲、領域です。……
マタイによる福音書第12章28節は、主イエスが福音を宣べ伝えることによってサタンの王国を滅ぼしていたとき、神の王国をもたらしておられたことを示します。……神の霊が力の中にある所に、神の王国があり、そこでは悪鬼どもに何の立場もありません。(「マルコによる福音書ライフスタディ(1)」、第13、12編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)