朝ごとの食物

クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨 第1週 第1日~第4週 第4日

 

12月の祈り 第31日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(2) 第4週 第4日)

 

主に忠信に奉仕する

 

マタイ25:14-15

天の王国は、ある人が外国へ行こうとして、自分の奴隷たちを呼び、彼らに自分の財産を渡すようなものである。彼はある者に五タラント、ほかの者に二タラント、ほかの者に一タラントを、それぞれの能力にしたがって与えた。そして彼は外国へ出かけた。

 

「マタイ第25章14節から30節が啓示していることは、わたしたちが主の賜物において忠信に奉仕し、主のために利益を得なければならないということです。それはわたしたちが来たるべき王国において、主の喜びの中に入るためです」。

 

 わたしたちはみな、主から霊的な賜物「タラント」を与えられていることを感謝します。忠信に主に仕えて、自分に与えられたタラントを増し加えることができますように。

 

 

「タラント」、霊的な賜物が与えられている

 

 マタイによる福音書第25章14節から30節……で、……「自分の財産」は、召会(エペソ1:18)とすべての信者を表徴しており、彼らは神の家族です(マタイ24:45)。……このたとえにある「タラント」は、霊的な賜物を表徴します(ローマ12:6.Ⅰコリント12:4.Ⅰペテロ4:10.Ⅱテモテ1:6)。……新約は、……神の召会(使徒20:28.Ⅰコリント1:2)、キリストの召会(ローマ16:16)、聖徒たちの召会(Ⅰコリント14:33)について語ります。召会は、すべての聖徒、すべての信者の財産です。  …… すべての罪人[も]主に属します。彼らはみな主の財産です。……主は確かに召会とすべての信者、そしてすべての罪人をわたしたちに渡しておられます。それは、わたしたちが主のために彼らを顧みるためです。(主の現在の動きを実行する方法、第8章)

 

 タラントはわたしたちの能力ではなく、主の財産ですが、わたしたちの能力にしたがって渡されます。わたしたちの能力は、神の創造とわたしたちの学びによって構成されます。わたしたちの能力の容量は、わたしたちの心からの自発性に基づいています。もしわたしたちの心に自発性がないなら、タラントを受ける容量を持たないでしょう。(マタイによる福音書ライフスタディ(3)、第65編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第30日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(2) 第4週 第3日)

 

酔っ払いどもと食べたり飲んだりしない

 

マタイ24:48-51

しかし、その邪悪な奴隷が心の中で、「わたしの主人は来るのが遅れる」と言い、奴隷仲間を打ちたたき始め、酔っ払いどもと食べたり飲んだりするなら、その奴隷の主人は、思いがけない日、知らない時に来て、彼を断ち切り、偽善者たちと同じ目に遭わせる。

 

「酔っ払いどもと食べたり飲んだりすることは、この世的な事柄で酔っ払っているこの世の人と付き合うことです(マタイ24:49後半.参照、エペソ5:18)。信者たちの神聖な性質と聖なる立場のゆえに、彼らは未信者と共にくびきを負うべきではありません。

 

 主よ、あなたの慈愛は永遠です。わたしたちをこの世の人と同じようになることから守ってください。主がすぐに来るという感覚と臨在の中で生きることができますように。

 

 

主に対して忠信でなくなり、危険に陥る

 

 マタイによる福音書第24章の主の言葉はたとえです。それはたとえであるので、解釈されなければなりません。「酔っ払いどもと」[49節後半]食べたり飲んだりすることは、この世的な事柄で、この世的な享受で酔っ払っているこの世の人と付き合うことです。……これが、わたしたちが自分の賜物を用いないことの危険性です。いったんわたしたちがこの世の人と付き合う人となるなら、主がわたしたちに与えた賜物を用いることで、わたしたちは主に対して忠信でなくなり、危険に陥るでしょう。(リー全集、1979年、第2巻(上)、「奉仕についての基本的学課」、第13編)

 

 (51節)の断ち切るとは、ばらばらに切断することを意味するのではありません。わたしたちは救われたとき、キリスト、油塗られた方に結び付けられました(Ⅱコリント1:21)。たとえわたしたちが後退した状態の中にあるとしても、主はわたしたちを切り離さないでしょう。しかし、わたしたちが忠信でなく、怠惰なままであるなら、彼は戻って来る時、この結合からわたしたちを切り離されます。彼は、わたしたちと彼との間を断ち切ることを実行するでしょう。わたしたちは彼の栄光の臨在から、偽善者の分け前である場所へと切り離されます。未信者の分け前は永遠の滅びですが、怠惰な奴隷の分け前は一時的な経綸上の懲らしめです。(主の現在の動きを実行する方法、第10章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第29日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(2) 第4週 第2日)

 

主人は、思いがけない日、知らない時に来る

 

マタイ24:48-50

しかし、その邪悪な奴隷が心の中で、「わたしの主人は来るのが遅れる」と言い、奴隷仲間を打ちたたき始め、酔っ払いどもと食べたり飲んだりするなら、その奴隷の主人は、思いがけない日、知らない時に来て。

 

「わたしたちの心の中で、わたしたちの主人は来るのが遅れると言うことは、現在の邪悪な時代を愛して、主の出現を愛さないことです(マタイ24:48.Ⅱテモテ4:8,10.参照、使徒26:16)」。

 

 主よ、あなたはすぐに来られます。「主イエスよ、来たりませ!」、「主はすぐに来られる」という感覚が強められますように。主よ、あなたをさらに愛させてください。

 

 

主はすぐに来られるという態度と願望を持つ

 

  [マタイによる福音書第24章48節で奴隷は言いました]、「わたしの主人は来るのが遅れる」。その奴隷は、主が再び来られることを信じていましたが、主は来るのが遅れることも信じていました。主がすぐに来られることを信じない者はすべて、邪悪な奴隷です。その奴隷が過ちを犯した理由は、主が言われたことによれば、48節にあります。彼は自分の口では、主はすぐに来られると言いましたが、心の中では依然として、主は来るのが遅れると考えていました。このような人は危険です。もし人が、主はすぐに来られるという態度を取らなければ、彼は目を覚ましていないでしょう。

 

 多くの人々は、主がすぐに来られることを望んでいません。彼らは、主が来られると、自分たちの計画を破壊し、終わらせることを恐れます。彼らはヨハネの祈りをすることができません。「アーメン。主イエスよ、来たりませ!」(啓22:20)。わたしたちは、主がすぐに来られることを願う態度と願望を持たなければなりません。……もしあなたが、主は来るのが遅れると思うなら、主はあなたが思っているよりも早く来られるでしょう。(ニー全集、第15巻、第24章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第28日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(2) 第4週 第1日)

 

時に応じて食物を与える忠信で思慮深い奴隷

 

マタイ24:45-46

そこで、主人が家族の上に任命して、時に応じて彼らに食物を与える忠信で思慮深い奴隷は、だれであろうか?  主人が来た時、そのように行なっているのを見られる奴隷は幸いである。

 

 神は、忠信で思慮深い奴隷を彼ご自身の家族の上に立てて、家庭の管理者、執事、供給の経路とならせ、定められた時に彼の民に食物を与えさせました(マタイ24:45.Ⅰコリント9:17.エペソ3:2.Ⅰコリント4:1.Ⅰペテロ4:10.ピリピ1:25)。

 

 主よ、わたしたちを忠信で思慮深い奴隷としてください。御言葉を勤勉に追い求めて、人々に良い食物を給仕することができますように。主をわたしたちの霊的食物として享受することができますように。

 

 

適切な食物を主の家族に供給する

 

 食物を給仕する人はだれでも、応じるべき時を知っています。あなたは毎日、食物を給仕しているなら、朝食、昼食、夕食を作らなければなりません。…… 同じように、わたしたちが共に集まる時はいつも、これは適切な食物を主の家族に供給する適切な時、定められた時の一つです。…… このたとえの文脈[マタイ24:45-51]によれば、忠信な人は勤勉な人です。…… わたしたちは集会に来るとき、御言を追い求めることで勤勉になり、用意して良い食物を給仕することができなければなりません。

 

 彼らを顧みるとは、ただ彼らを養うこと、彼らに食物を供給することです。罪人に対して、わたしたちが供給する正しい食物はキリストの福音です。病院の看護師は、患者にさまざまな食事を給仕しなければならないことを知っています。…… それはわたしたちについても同じです。全地は病院であって、病気で満ち、あらゆる種類の病人で満ちています。召会でさえ良い意味で、病人で満ちた病院です。ですから、わたしたちは時に応じて、さまざまな言葉を彼らに供給しなければなりません。・・・・・・信者、召会、さらにすべての罪人が、あなたの周りにいます。彼らに食物を供給するのは、あなたの義務、責任です。(主の現在の動きを実行する方法、第8章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第26日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第3週 第6日)

 

信仰を持って魂を獲得する

 

ヘブル10:39

しかし、わたしたちは、退いて崩壊に至る者ではなく、信仰を持って魂を獲得するに至る者です。

 

 わたしたちの魂を獲得すること、あるいは救うことは、わたしたちが救われ、再生された後、わたしたちが主に従うことにおいてどのように魂を対処するかにかかっています。魂を獲得することは、主に従う勝利者たちに対する王国の褒賞となります(ヘブル10:35.マタイ16:22-28)。

 

 主よ、わたしたちが今の時代に苦難を受けて、次の時代に主の喜びの中に入り、享受することができますように。主を愛して、忠信に従う者にしてください。

 

 

来たるべき時代に魂を獲得する

 

 来たるべき時代に魂を獲得することは、この時代にキリストに従うことでのわたしたちの苦難に対する大いなる褒賞です(ヘブル10:35)。もしわたしたちが自分の魂の享受、心理的な喜びを顧みて、今日、キリストに忠信に従わないなら、来たるべき時代にわたしたちの魂において主の懲らしめを受けるでしょう。もし今日わたしたちが主のためにわたしたちの魂の享受を進んで失うなら、来たるべき時代にわたしたちの全存在のために、特にわたしたちの魂のために、主の完全な享受を持つでしょう。それは今日のわたしたちの苦難に対する褒賞となります。

 

 福音書において主はわたしたちに何度も告げていますが、もしこの時代にわたしたちが主と福音のために自分の魂を失うなら、次の時代の彼の再臨の時に、それを得ます(マタイ16:25.ルカ9:24.17:33)。(ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)、第46編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第25日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第3週 第5日)

 

わたしたちの信仰が試される

 

Ⅰペテロ1:7-9

あなたがたの信仰が試されることは、……火によって試され……、イエス・キリストの出現の時に、賛美と栄光と誉れとなって現れるのです.あなたがたは、その方を見たこともないのに愛しており、その方を今、見ていないのになお信じており、言葉では言い尽くせない、栄光に満ちた喜びをもって歓喜しています.それは、あなたがたの信仰の結果である魂の救いを受けているからです。

 

 「わたしたちの信仰が試されて、賛美と栄光と誉れとなって現れることは、わたしたちの信仰の結果であるわたしたちの魂の救いを受けることになります(Ⅰペテロ1:7-9)」。

 

 主よ、わたしたちは試練の中で、信仰が試されています。この苦難の中で主に従い、感謝と賛美がありますように。

 

 

わたしたちの魂の救いを受ける

 

 ペテロの第一の手紙第1章9節は7節の直接の継続です。わたしたちの信仰が試されて、賛美と栄光と誉れとなって現れることは、わたしたちの信仰の結果であるわたしたちの魂の救いを獲得するとう結果となります。9節における救いは完全な救い、三つの段階、すなわち初期の段階、前進の段階、完成の段階における救いです。わたしたちは三部分、すなわち霊、魂、体から成っています。わたしたちの霊は再生を通して救われました(ヨハネ3:5-6)。わたしたちの体は来たるべき変貌を通して救われ、贖われます(ローマ8:23.ピリピ3:21)。主の出現の時に、わたしたちの魂は苦難から救われて、主を完全に享受します。

 

 このために、わたしたちはこの時代に、自分の魂、自分の魂の命を、そのすべての享楽と共に、否まなければなりません。それはわたしたちが来たるべき時代に、主に対する享受の中で魂を得るためです(マタイ10:37-39.16:24-27.ルカ17:30-33.ヨハネ12:25)。主の出現の時、ある信者たちは主の裁きの座を通して主の喜びの中に入り(マタイ25:21、23.24:45-46)、ある人たちは泣き叫んだり歯がみしたりして苦難を受けます(マタイ25:30.24:51)。主の喜びの中に入ることはわたしたちの魂の救いです(ヘブル10:39)。(ペテロの第一の手紙ライフスタディ、メッセージ7)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第24日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第3週 第4日)

 

人の子の前に立つことができるように

 

ルカ21:34

あなたがたの心が酩酊、泥酔、生活の思い煩いで押しつぶされているところへ、その日が罠のように、突然あなたがたに襲いかかることがないように、気をつけなさい。

 

 ルカ第21章34節から36節で主イエスはわたしたちに、気をつけ、絶えず目を覚まし、祈り求めているようにと警告しています。それはわたしたちが、「これらの起ころうとしているすべての事から逃れ、人の子の前に立つことができる」ためです。

 

 主よ、わたしたちは目を覚まして、祈ることができますように。全地に臨もうとしている試練の時から、わたしたちを守ってください。

 

 

絶えず目を覚まし、祈り求める

 

 ルカによる福音書第21章36節で人・救い主は、目を覚ましているようにわたしたちに命じられます。麻ひさせられ、麻酔をかけられるのではなく、わたしたちは油断しない必要があります。さらに、絶えずわたしたちは祈り求める必要があります。これは一般的な方法で祈ることではありません。それは特別な方法で祈って、わたしたちが勝利を得て、起ころうとしている事から逃れるためです。……

 

 このように勝利を得るとは、大患難を逃れる力と能力を持つことです。わたしたちは今日のこの世の傾向に捕らえられるべきではありません。むしろ、わたしたちはこの傾向から逃れる必要があります。逃れる力と能力は、目を覚まして祈り求めることからやって来ます。わたしたちは特別な方法で祈るなら、勝利を得て、起ころうとしているすべての事から逃れることができるでしょう。(ルカによる福音書ライフスタディ、メッセージ48)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第23日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第3週 第3日)

 

勝利者の携え上げにあずかる

 

ルカ17:32-34

ロトの妻を思い出しなさい。すべて自分の魂の命を保とうとする者はそれを失い、すべて魂の命を失う者はそれを生かす。わたしはあなたがたに言う.その夜、二人が一つの寝床にいると、一人は取られ、一人は残される。

 

  「わたしたちは主イエスに従う者たちとして、この時代に自分の魂の命を失うことによって、この世の放縦な生活の麻ひさせる影響に勝利を得る必要があります(ルカ17:31-33)」。

 

 主よ、あなたをさらに愛する者にしてください。ロトの妻の警告から学ぶことができますように。主のあわれみが豊かにありますように。

 

 

塩の柱になったロトの妻

 

 ロトの妻が塩の柱になったのは、彼女がとどまってソドムを振り返って見たからです。その見ることが示していることは、神が裁き、徹底的に滅ぼそうとしていた邪悪なこの世を、彼女が愛し、尊んでいたということです。彼女はソドムから救い出されましたが、ロトが到達した安全な場所には到達しませんでした(創19:15-30)。彼女は滅びませんでしたが、完全には救われませんでした。彼女は味を失った塩のように(ルカ14:34-35)、恥の場所に残されました。これは、この世を愛している信者たちにとって厳粛な警告です。

 

 ルカによる福音書第17章34節と35節の両方で、主は「一人は取られ」と言われます。「取られ」のギリシャ語は文字どおりには「連れて行かれる」を意味します。この言葉は勝利者の携え上げを示します。勝利者はこの時代のこの世的な事柄を愛することによって、彼らの魂の命を保持しない人たちです。このように取られる人たちは大患難の前に携え上げられます(マタイ24:21)。大患難は人の住む全地に臨もうとしている厳しい試練となります(啓3:10)。こうして携え上げられることは、地上に住む者を試すために人の住む全地に臨もうとしている試練の時から守られることです(啓3:10)。(ルカによる福音書ライフスタディ、メッセージ39)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第22日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第3週 第2日)

 

主だけを愛し、地的な事柄を捨て去る

 

ルカ14:26

だれでもわたしの所に来て、自分の父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらに自分の魂の命までも憎むのでなければ、わたしの弟子になることはできない。

 

ルカ14:34-35

だから、は良いものであるが、塩であっても味を失えば、何によって塩味が取り戻されるであろうか? 土地にも肥やしにも役に立たず、人々は外に投げ捨てるであろう……。

 

「信者たちは地の塩であり(マタイ5:13)、彼らの塩味は、彼らが地的な事柄を捨て去ることにかかっています(ルカ14:33-34)」。

 

 主よ、わたしたちは地の塩として、あなただけを愛させてください。わたしたちが地的な事柄を捨てて、塩味を持つことができますように。

 

 

塩味を失わないようにする

 

 ルカ第14章26節から35節で主がわたしたちに教えたことは、彼に従うことで絶対的になるということと、また、わたしたちが彼に忠信に従うことからそらし、妨害し、妨げるあらゆるものを憎み、さらにはわたしたち自身の魂の命さえも憎むということです。

 

 もし信者たちが彼らの塩味、すなわち、彼らの機能を失ってしまうなら、彼らは土地にも肥やしにも役に立たなくなります。土地は、神の農場としての召会を表徴しており(Ⅰコリント3:9)、来たるべき王国をもたらします(啓11:15)。肥やしは、地獄、宇宙の汚れた場所を表徴しています(啓21:8)。彼らはすでに永遠の滅びから救われていますが、来たるべき王国には役に立たないので、千年期の王国の栄光から外に投げ捨てられ、わきに置かれて、懲らしめられます(ルカ14:35)。(クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第3週) 

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第21日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第3週 第1日)

 

主のために魂の命を失うなら、魂の命を救います

 

ルカ9:23-24

だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、日ごとに自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。すべて自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、すべてわたしのために自分の魂の命を失う者はそれを救う。

 

 「もしわたしたちが主のために、この時代にわたしたちの魂にその享受を失わせるなら、王国時代にわたしたちの魂にその享受を持たせます。わたしたちは、全地を支配する主の喜びにあずかります(マタイ25:21,23)」。

 

 主よ、わたしたちはこの時代に、自分の魂の享受を失なうことができますように。そして、 来たるべき王国時代に、魂の享受を持つことができますように。

 

 

来たるべき王国時代に、魂の享受を持つ

 

 わたしたちはこの時代に、自分の魂、すなわち、自分の魂の命を、そのすべての享楽と共に、否まなければなりません。それはわたしたちが来たるべき時代に、主に対する享受の中で魂を得るためです(Ⅰペテロ1:9)。

 

 魂の命を救うとは、魂にその享受を持たせ、苦しませないことです。魂の命を失うとは、魂にその享受を失わせることです。もし人・救い主に従う者たちが、この時代に自分の魂にその享受を持たせるなら、来たるべき王国時代に、自分の魂にその享受を失わせるでしょう。彼らは人・救い主のためにこの時代に彼らの魂に享受を失わせるなら、来たるべき王国時代に、彼らの魂にその享受を持たせるでしょう。彼らは全地を支配する主の喜びにあずかります(マタイ25:21、23)。(ルカによる福音書ライフスタディ、メッセージ21)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第19日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第2週 第6日)

 

思慮深い者になる

 

マタイ25:8-9

「愚かな者たちは思慮深い者たちに言った、『あなたがたの油を少し下さい.わたしたちのともし火が消えそうですから』。しかし、思慮深い者たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたのためには、おそらく十分でないでしょう.それよりも、売る者たちの所に行って、自分のために買いなさい』」

 

 「油を買うための代価は、この世を放棄すること、自己を対処すること、すべてにまさって主を愛すること、キリストのゆえにすべての事を損失と勘定することなどを含んでいます(マタイ16:24-26.マルコ12:30.ピリピ3:7-8)」。

 

 主よ、今の恵みの時代に、代価を払って油を買うことができますように。主よ、あなたを愛し、あなたを最高の宝とすることができますように。

 

 

代価を払って余剰の油を買う

 

 油を買うとは、代価を払うことを意味します。わたしたちは代価を払って、わたしたちの魂の中でその霊によって満たされる必要があります(マタイ25:4.参照、箴23:23.啓3:18)。わたしたちの霊の中へと入って来たその霊は(ローマ8:16)、無代価で与えられました。しかし、わたしたちの魂を満たす余剰の油としての浸透する霊は、無代価ではありません。これは、わたしたちが代価を払って買わなければならないものです。

 

 愚かな処女たち、すなわち器の中に油を持っておらず、主イエスが来る時に準備をしていない人たちは、婚宴にあずかり損ねます。わたしたちが早く携え上げられて婚宴に入るかどうかは、わたしたちが日ごとにその霊を買っているかどうかにかかっています(マタイ25:10-12.啓19:7-9.Ⅱコリント4:16.テトス3:5)。

 油を得る、すなわちその霊をさらに多く受ける最も良い方法の一つは、神の言葉を思い巡らすことによって、祈りの霊と雰囲気の中で彼と親密な交わりを持つことです(詩119:15,23,25,27,48,78,97,99,148.ヨハネ6:63.エペソ6:17-18)。(クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨のアウトラインより)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第18日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第2週 第5日)

 

花婿を迎えに出て行く、思慮深い者たち

 

マタイ25:1,4

その時、天の王国は、十人の処女が自分のともし火を持って、花婿を迎えに出て行くようなものである。4 しかし、思慮深い者たちは、自分のともし火と共に、器に油を持っていた。

 

 マタイ第25章1節から13節の主の言葉は、目を覚ましていることのたとえです。処女は、命の面から見た信者を表徴します。王国の民である信者は貞節な処女に似ており、暗い時代に主の証し(ともし火)を携え、この世から出て行って主を迎えます。このために彼女たちは、聖霊の内住だけでなく、聖霊の充満をも必要とします(Ⅱコリント11:2.ルカ11:13)。

 

 主よ、わたしたちが花婿を迎えることで思慮深い者でありますように。わたしたちの霊の中にともし火があるだけでなく、わたしたちの魂(器)の中に余剰の油を持つことができますように。

 

 

魂(器)の中にその霊の余剰を持つ

 

 ともし火は信者たちの霊を表徴し、それは油としての神の霊を内容としています(箴20:27.イザヤ61:1.ヘブル1:9.ローマ8:16)。そして、信者たちは、彼らの霊の内側から神の霊の光を輝かせます。神聖な光が人の内側の各部分を照らすために、油としての神の霊が、灯心としての人の霊にしみ込み(ミングリングし)(参照、ローマ8:16)、人の霊と共に「燃え」なければなりません(ローマ12:11)。こうして信者たちは世の光となり、主の証しを担って神の栄光を現します。

 「出て行く」(マタイ25:1)とは、わたしたちはこの世から出て行って、わたしたちの花婿である来臨するキリストを迎えることです。

 

 器は信者たちの魂を表徴します(ローマ9:21,23-24)。ともし火に油があるとは、神の霊をわたしたちの霊に内住させていることです。器に油を持っているとは、神の霊をわたしたちの魂に満たし浸透させており、わたしたちが主の証しのために処女の生活をすることができるということです(マタイ25:4,9-10)。わたしたちは、その霊をわたしたちの再生された霊の中に持っていますが、一つの問いは、わたしたちが魂の中にその霊の余剰を持っているかどうかです。(クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨より)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第17日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第2週 第4日)

 

主の花嫁になるために用意し準備する

 

マタイ24:44

だから、あなたがたも用意していなさい.思いがけない時に、人の子は来るからである。

 

啓3:10

あなたはわたしの忍耐についての言を守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試すために人の住む全地に臨もうとしている試練の時から、あなたを守る。

 

「主によって取られるために、わたしたちは彼の目前に迫った来臨のために目を覚まし、彼の花嫁になるために用意し準備している必要があります(マタイ24:32-44.啓19:7)。それは、わたしたちが大患難の前に携え上げられるためです(啓3:10.ルカ21:36)」

 

 主よ、あなたの来臨のために目を覚まして祈り、花嫁の用意をすることができますように。御言葉を読むとき、明けの明星がわたしたちの心に昇ってきますように。あなたの臨在の中に保ってください。

 

 

明けの明星がわたしたちの心に昇る

 

 携え上げの意味は、主の臨在の中へと取られることです。もしわたしたちが主の臨在の中へと取られようとするなら、わたしたちは今日、主の臨在の中にいなければなりません(Ⅱコリント2:10.詩16:11.27:8.43:4.使徒3:19-20.出33:14-16.参照、創4:16)。わたしたちは主の出現(主の再来)を慕う者となるために、今日、主がわたしたちに出現すること、現れることを尊んでいなければなりません(Ⅱテモテ4:8.使徒26:16.ヨハネ14:21)。携え上げられる準備をすることは、祈ることによって極みまでキリストで満たされて、わたしたちが命において成長し円熟するという事柄です(エペソ3:16-17前半.詩歌298番)。

 

 主は盗人のように(マタイ24:43-44)、彼を愛している人たちの所へひそかにやって来て、彼らを彼の宝として取り去ります。特に、これらの終わりの日に、わたしたちは夜が明けて明けの明星がわたしたちの心に昇るまで、預言者の言を、暗い所に輝くともし火のように、よくよく心にとめている必要があります(Ⅱペテロ1:19)。わずかしかない日々に、わたしたちは主を愛し、主に仕える者となり、日々復興され、勝利する者となりましょう。そしてこの世を過ぎゆかせて、準備し、心を尽くして主の二度目の来臨を待ち望む者となりましょう。(クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨より)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第16日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第2週 第3日)

 

不法の奥義がすでに働いています

 

Ⅱテサロニケ2:3,7

……まず背教が起こり、そしてあの不法の者、すなわち滅びの子が出現しなければ、それは来ないからです。7 なぜなら、不法の奥義がすでに働いているからです.ただしそれは、今、阻止している者が取り除かれるまでのことです。

 

 主の二度目の来臨のしるしは、彼の多くの信者が信仰に欠けることです。「人の子が来る時、地上に信仰を見いだすであろうか?」(ルカ18:8)。主の二度目の来臨のもう一つのしるしは、「不法がはびこるので、多くの人の愛が徐々に冷えてくる」ことです(マタイ24:12.啓2:4)。

 

 主よ、不法の奥義が働いています。主よ、わたしたちの信仰がなくならないようにしてください。主の来臨のビジョンを見て、主のみこころの成就のために生きることができますように。主よ、あなたと召会を愛します。(参照ルカ22:32)

 

 

目前に迫った来臨の前の明確なしるし

 

 主の二度目の来臨の時には、多くの信者たちにはほとんど信仰がありません[ルカ18:8]。信者たちが信仰に欠けることは主の二度目の来臨のしるしです。(聖書の重要な真理、第6巻、第60章)

 主の目前に迫った来臨の前には、明確なしるしがあるでしょう。この期間に、人々はかつてないほどに富を蓄えるでしょう。……主が再来される直前の時代ほど、富を見る時代は他にないでしょう。物質的な享受が増大するだけでなく、情欲に満ちた放縦も増大します。

 

 わたしがこのことを語っているのは、世界中のすべての兄弟姉妹に、主の日が近づいていることを知らせるためです! わたしたちは、金銭がまだ役に立つ間に、わたしたちが持っている物をすべて、主のために使わなければなりません。(ニー全集、第61巻、「主の回復の円熟した導き」、第18編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第15日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第2週 第2日)

 

主の二度目の、目前に迫った来臨のしるしを見る

 

マタイ24:14

そしてこの王国の福音は、すべての民に対する証しのために、人の住む全地に宣べ伝えられる.それから終わりが来る。

 

 この時代の終わり(大患難の最後の三年半が始まろうとする時)の最大のしるしは、王国の福音が人の住む全地に宣べ伝えられることです(マタイ24:14.啓6:2)。

 

 主よ、わたしたちは恵みの福音によって救われたことを感謝します。主よ、わたしたちが王国の福音のビジョンを見て、その実際と生活を持つことができますように。そして、王国の福音を宣べ伝えることができますように。

 

 

王国の福音は、恵みの福音を含んでいます。

 

 王国の福音は、恵みの福音を含んでおり(使徒20:24)、それは人々を神の救いにもたらすだけでなく、天の王国へもたらします(啓1:9)。恵みの福音は、罪の赦し、神の贖い、永遠の命を強調しますが、王国の福音は、神の天的支配と主の権威を強調します。この王国の福音は、この時代の終わりが来る前、すべての民に対する証しのために、全地に宣べ伝えられるでしょう。ですから、啓示録第6章1節から2節の第一の封印の白い馬で表徴されるこの宣べ伝えは、この時代の満了のしるしです。(マタイ24:14、フットノート1)

 

マタイ24:32-33

しかし、いちじくの木からたとえを学びなさい.その枝がすでに柔らかくなり、葉を出すようになれば、夏の近いことがわかる。そのようにあなたがたも、これらすべての事を見たなら、それは戸口まで近づいていると知りなさい。

 

 いちじくの木は、イスラエルの国家を表徴しており、マタイによる福音書第21章19節でのろわれました。第一世紀から1948年までの長い冬を経過しましたが、1948年にイスラエルの国家が復興しました。その時その枝は柔らかくなり、葉を出しました。……枝が柔らかくなるとは、命が戻って来たことを表徴し、葉を出すことは、外側の活動を表徴します。冬は枯渇している時、患難の時(マタイ24:7-21)を表徴し、夏は(復興された)王国の時代を表徴します(ルカ21:30-31)。その時代は、主の二度目の来臨の時に始まります。

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第14日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第2週 第1日)

 

来臨(パルシーア)は、臨在を意味します

 

マタイ24:27,30

いなずまが東から出て西へひらめき渡るように、人の子の来臨もそのようである。……その時、人の子のしるしが天に現れる.そして地のすべての部族は嘆き悲しみ、人の子が力と大いなる栄光をもって、天の雲に乗って来るのを見る。

 

 「来臨(パルシーア)」は、「臨在(同在)」を意味します。キリストの来臨は、彼と彼の民が同在する時です。彼のパルシーアは、大患難の前に男の子(啓12:5)と初穂(14:1-4)が携え上げられることで始まり、大患難の終わりに彼と聖徒たちが共に地上に現れることで終わります(マタイ24:27,30.Ⅱテサロニケ2:8.ユダ14節)。

 

 主よ、かの日の主の来臨は、今日の主の隠された臨在として始まっています。この臨在の中にとどまることができますように。この奥義の時代に、見えない主と信仰によって親密な時を持たせてください。

 

 

主の来臨は、初めは隠されており秘密です

 

 主のパルシーアは、大患難の始まる前に主が勝利者を天に携え上げて彼と共にいるようにされる時に始まります。この時に始まって、主のパルシーア、すなわち、主の来臨は彼の出現が現されるまでの三年半の間、続きます。この出現……あるいは現されることは、聖書が主の来臨(パルシーア)の出現(エピファネイア)と呼んでいるものです[Ⅱテサロニケ2:8]。主の戻って来られることは、ある期間、パルシーア(来臨)と、ある時点、「エピファネイア(出現)」を含みます。……ですから、テサロニケ人への第二の手紙は主のパルシーアの「エピファネイア」について語っているのです(8節)。……

 

 聖書が示しているのは、主の二度目の来臨は実際に来ることであり、主ご自身が天から下って来て人々の前に現されるということです。信者たちに関する主の来臨は、長い期間、すなわち彼が臨在する期間を含んでおり、それは大患難の前に始まり、大患難の終わりに終わります。……大患難の終わりに、主が地に来て人々に現れる時、主の臨在の来臨が現されます。主の来臨は、初めは隠されており、秘密ですが、終わりには現され、公になります。(聖書の重要な真理、第6巻、第60章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第12日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第1週 第6日)

 

信仰は、望んでいる事柄を実体化します

 

ヘブル11:1

さて信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を確認することです。

 

Ⅱコリント4:18

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目をとめます.なぜなら、見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠であるからです。

 

「キリスト・イエスにある信仰を通して、わたしたちはキリストとの有機的な結合の中へともたらされます。この有機的な結合の中で、わたしたちはキリストを経験し、キリストを生きます(ガラテヤ2:16,20.ヨハネ14:17.エペソ3:17)」。

 

 主よ、わたしたちは信仰によって、見えないものに目をとめます。信仰を通して、望んでいる事柄を実体化することができることを感謝します。信仰を通してさらにキリストを経験し、キリストを生きることができますように。

 

 

 信仰によって歩く、クリスチャン生活

 

 聖書だけが、すなわち、本の中の本だけが、見えない事柄をわたしたちに告げています。……わたしたちは目に見えない事柄に、すなわち、見えないが聖書に啓示されている事柄に目をとめます(Ⅱコリント4:18)。…… クリスチャン生活は、見えるものの生活ではなく、見えないものの生活です。……信仰によって歩くことは、わたしたちが目に見えない事柄に目をとめることを意味します。召会生活の中で、わたしたちは見えるもの、現れによってではなく、信仰によって歩いています(Ⅱコリント5:7)。

 

 信仰は、わたしたちの感覚にしたがっていません。信仰は、その霊によって神の言葉を通して、わたしたちの存在の中へと注入された神聖な要素です。神聖な要素が、聖書の言葉から、印刷されたメッセージから、あるいはわたしたちの霊から受けたビジョンを通してわたしたちの中へと注入されるとき、何かが自然に、わたしたちの内側で起こり、神が言われることは何であれ信じるようにさせます。これが信仰です。(リー全集、第1975―1976年、第3巻(上)、第8編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第11日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第1週 第5日)

 

奥義の時代は、信仰の時代です

 

ヘブル11:6

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません.というのは、神に進み出る者は、「神はある」ことを信じ、彼を熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方であることを、信じるはずだからです。

 

 奥義の時代は、信仰の時代です(ヘブル11:1,6.啓10:7.Ⅰテモテ3:9)。神の奥義は、信仰によって知らされます(啓10:7)。真の信仰とは、キリストご自身であり、彼はわたしたちの中へと注入されて、彼を信じるわたしたちの能力となります。主イエスはわたしたちの中へと注入された後、自然にわたしたちの信仰となります(ローマ3:26)。

 

 主よ、わたしたちが主イエスを信じ受け入れた時、わたしたちの中へとご自身を注入してくださったことを感謝します。あなたはわたしたちの信仰となってくださいました。日々、信仰を活用して生活することができますように。

 

 

神が与えられた信仰を活用する

 

 今日、神の奥義は信仰によって知られます。奥義の時代は主が肉体と成った時に始まりましたが、彼が再び現れる時、奥義の時代は終わるでしょう。……今日、イエスを信じない人たちは、その時、彼に会うでしょう。しかしながら、今日、霊的なものはすべて奥義です。……ですから、わたしたちはわたしたちの神が与えられた信仰を活用しなければならないのです。

 

 すべてのクリスチャンは、内側に信仰と呼ばれるものを持っています。わたしたちはそれについて説明することはできませんが、それを持っています。神とキリストと聖書を信じれば信じるほど、わたしたちは幸いになります。キリストがわたしたちの中におり、わたしたちの中にご自身のホームを造っておられることを信じれば信じるほど、わたしたちは幸いになり、生き生きとします。…… 神聖な霊がわたしたちの霊に内住しており、働き、動き、活動していることを信じれば信じるほど、わたしたちは幸いになります。……わたしたちは、自分には霊があり、神の霊はわたしたちに内住しているという全体的な信仰と完全な確信を持たなければなりません。(1990年秋 訓練生へ語られたメッセージ、第8章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第10日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第1週 第4日)

 

神の奥義は、神の隠されている定められた御旨です

 

エペソ3:8-9

すべての聖徒のうちで最も小さい者よりも小さいわたしに、この恵みが与えられたのは、キリストの計り知れない豊富を、異邦人に福音として宣べ伝えるためであり、それはまた、万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるかを、すべての人を照らして明らかにするためであり。

 

「神の奥義は、神の隠されている定められた御旨であり、それはご自身を神の選ばれた人々の中へと分与することです。このゆえに、神の奥義のエコノミーがあります(エペソ3:9)。

 

 主よ、キリストの測り知れない豊富を感謝します。わたしたちが救われた日から、この奥義的な豊富が分与されていることを感謝します。隠されてきた奥義のエコノミーが何であるか、さらに明らかにしてください。

 

 

キリストの計り知れない豊富を分与する

 

 エペソ人への手紙第3章における大いなる事柄は、9節にある奥義のエコノミーです。エコノミーとは豊富の分与、分配です。使徒パウロは特別な働きを行なっていました。すなわち彼は、豊富にあるキリストを人々の中へと分配していました。わたしたちは真のクリスチャンとして、最初に主の御名を呼び求めた日から、奥義的なものがわたしたちの存在の中へと加えられ、…… 分与されました。キリストの奥義は、すべての豊富において経験されたキリストです。……

 

 わたしたちがキリストを経験すればするほど、ますます彼はわたしたちの中へと分与されます。彼の豊富をわたしたちの中へと分与することが奥義のエコノミーです。永遠の、奥義的な、理解できず、しかも甘く、豊富で、高いものがわたしたちの存在の中へと分与されており、わたしたちを喜ばしく、生きた、力強く、愛すべき、愛らしいものとします。これはキリストの豊富を享受することです。(パウロの書簡に啓示されたキリストの経験の極めて重要な面、第5章――英文)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第9日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第1週 第3日)

 

キリストの奥義である召会が啓示される

 

エペソ3:4-6

あなたがたがそれを読むなら、キリストの奥義に関するわたしの理解を、知ることができます.その奥義は、今や彼の聖なる使徒たちと預言者たちに、霊の中で啓示されていますが、別の世代では、そのように人の子たちに知らされていませんでした.それは、キリスト・イエスの中で、異邦人が福音を通して、共に相続人となり、共に一つからだとなり、共に約束にあずかる者となることです。

 

 召会はキリストの奥義です(エペソ3:4-6)。  召会時代(奥義の時代)の間に、キリストは、召会、キリストのからだを建造して、彼の花嫁とならせつつあります(マタイ16:18.ローマ12:4-5.Ⅰコリント12:12,27.エペソ4:16.コロサイ1:18.啓19:7-9)。

 

 主よ、召会はキリストの奥義であり、キリストのからだです。わたしたちにさらに啓示してください。主が、キリストのからだを建造して、花嫁の用意を整えさせておられることを感謝します。その実際を享受することができますように。

 

 

召会はキリストの奥義である

 

  エペソ人への手紙第3章4節によれば、召会には一つの特別な称号があります。それは、キリストの奥義です。神は奥義です。神は実際で、生きており、全能ですが、目に見えません。いまだかつて、神を見た者はいません(ヨハネ1:18前半)。ですから、神は奥義です。この奥義的な神は、キリストの中に具体化されています。このゆえに、キリストは神の奥義です(コロサイ2:2)。エペソ人への手紙第3章4節において、パウロは「キリストの奥義」という表現を用いて、神の永遠のエコノミーにおけるキリストのからだとしての召会を説明し、召会がキリストの奥義であることを示しています。

 

 キリストの奥義、すなわち召会は、「別の世代では、……人の子たちに知らされていませんでした」(エペソ3:5)。キリストのからだである召会は、旧約時代には隠されていました。……ノアは、箱船を建造するという神の命令を受けましたが、召会の建造については知りませんでした。……モーセは、幕屋を建造するという啓示を受けましたが、召会の奥義を知らず、どのように召会を建造するかを知りませんでした。この奥義はまた、サムエルやダビデやソロモンにも隠されていました。・・・・・ この奥義は、万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されており、また旧約の聖徒たちに隠されていましたが、新約において啓示されました。(真理課程――第4段階、1巻、第12課)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第8日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第1週 第2日)

 

キリストは神の奥義です

 

コロサイ2:2

それは、彼らの心が慰められ、彼らが愛の中で結び合わされ、理解力から来る全き確信のあらゆる豊富へと至るため、すなわち、神の奥義なるキリストを知る全き知識へと至るためです。

 

コロサイ2:9

なぜなら、キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいるからです。

 

キリストは神の奥義です(コロサイ2:2)。神は奥義です。神の具体化として神を表現するキリストは、神の奥義です。キリストは神の奥義として、神の具体化です。 

 

 主よ、わたしたちが神の奥義なるキリストを知る全き知識へと至ることができますように。そのために、わたしたちの心が養われ、温められ、わたしたちが神聖な愛を享受して結び合わされますように。

 

 

神の奥義なるキリストを啓示している

 

 神聖な奥義は、まず神の奥義であり、次にキリストの奥義です。わたしたちは、コロサイ人への手紙とエペソ人への手紙を読み、学び、祈る必要があります。なぜなら、これらは神の奥義であるキリストを啓示しているからです。ユダヤ人は名目上、神を持っていますが、実際において、神を持っていません。彼らは奥義において、神を持っています。彼らが実際において、神を持っていないのは彼らが神の奥義を知らないからです。神の奥義はキリストです! もしあなたが神を知らないなら、そしてもし神に出会ったことがないなら、ただキリストに来てください。なぜなら神は、キリストの中に具体化されているからです。神たる方の全豊満は、肉体のかたちをもってこのキリストの中に住んでいます(コロサイ2:9)。

 もしキリストを持たないなら、神を持っていません。キリストはすばらしいです。なぜなら彼は、神の奥義、答え、解釈、具体化、実際であるからです。…… 全宇宙で、神はキリストの中におられます。キリストのおられる所に、神がおられます。(リー全集、1977年、第2巻(上)、「神のエコノミーにおける二つの偉大な奥義」、第1編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第7日

(朝ごとの食物  クリスチャン生活、召会生活、この時代の満了、主の来臨(1) 第1週 第1日)

 

この時代(すなわち、奥義の時代)の満了

 

マタイ28:20

……見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる。

 

啓10:7

しかし、第七の御使いが声を発する日、彼がラッパを吹こうとしている時に、神の奥義は完成される.……

 

「キリストの肉体と成ることから千年王国までの時代(すなわち、召会時代、恵みの時代)では、あらゆることは奥義です(Ⅰテモテ3:9)。キリストの肉体と成ることは奥義であり、奥義の時代の開始です。キリストの肉体と成ることを通して、無限の神は有限な人の中へもたらされました(Ⅰテモテ3:16)」。

 

 主よ、わたしたちは今、召会の時代、恵みの時代にいます。すべてが隠されているこの奥義の時代に、主をさらに親密に経験し享受することができますように。神の奥義なるキリストを知る全き知識へと至ることができますように。

 

 

神の奥義は完成されます

 

 第七の御使いがラッパを吹こうとしている時に、神の奥義は完成されます[啓10:7]。アダムからモーセまでの時代と、モーセからキリストまでの時代では、あらゆることは明らかに示され、現されて、奥義はありませんでした。それは、千年王国の時代でも、新しい天と新しい地でも、同じです。あらゆることは明らかに示され、もはや奥義はありません。しかし、キリストから千年王国までの時代では、あらゆることは奥義です。

 キリストの肉体と成ることは奥義であり、この奥義の時代の開始です(Ⅰテモテ3:16)。キリストご自身(コロサイ2:2)、召会(エペソ3:4-6)、天の王国(マタイ13:11)、福音(エペソ6:19)、キリストの内住(コロサイ1:26-27)、そしてこの奥義の時代の終わりとしての、聖徒たちの来たるべき復活と変貌(Ⅰコリント15:51-52)はすべて、世々にわたって隠されていた奥義です(ローマ16:25.エペソ3:5.コロサイ1:26)。第七のラッパが吹き鳴らされるとき、これらすべての奥義は終わり、完成し、成就します。第七のラッパが吹き鳴らされるとき、地に対する神の激怒の裁きだけでなく、「神の奥義は完成され」ます[啓10:7]。

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2020年 サンクスギビングデー特別集会

12月の祈り 第5日

(サンクスギビングデー特別集会 メッセージ6)

 

神のエコノミーにしたがった宇宙の歴史、すなわち、人類歴史の内側にある神聖な歴史は、実際において一人の新しい人を持つという主の心の願いを成就する。

 

ヨエル1:4

かみ切るいなごが残したものは、群がるいなごが食べ、群がるいなごが残したものは、なめ尽くすいなごが食べ、なめ尽くすいなごが残したものは、食い尽くすいなごが食べた。

 

啓示録19:7

わたしたちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰そう.小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである。

 

◎ この宇宙には、二つの歴史があります。すなわち、人の歴史(人類歴史)と神の歴史(神聖な歴史)です。前者は、外側の殻のようなものであり、後者は、殻の内側の核のようなものです(参照、ヨエル1:4)。人類歴史の内側にある神聖な歴史は、聖書の中でかなり詳細にわたって啓示されています。神の歴史はわたしたちの歴史です。なぜなら、神はわたしたちと結合されているからです。

 

 主よ、わたしたちは人類歴史の中で生まれましたが、神聖な歴史の中で再び生まれ、再生されたことを感謝します。召会生活の中で神聖な事柄を経験し、享受することができますように。

 

 

人類歴史の内側にある神聖な歴史

 

 神聖な歴史、すなわち、人の中での神の歴史は、キリストが肉体と成ることから開始し、ご自身の昇天を経て、命を与える霊と成り、それから、再生、聖別、更新、造り変え、同形化、栄光化という神の有機的な救いを通して、彼がわたしたちに内住することをもって継続し、わたしたちを一人の新しい人の完全な実際の中へともたらして、わたしたちをキリストの栄光の花嫁とします(エペソ4:22-24.ローマ5:10.啓19:7-9)。

 

 わたしたちはみな人類歴史の中で生まれましたが、神聖な歴史の中で再び生まれ、再生されました。もし、わたしたちの生活がこの世にあるなら、わたしたちは人類歴史の中で生きています。しかし、もしわたしたちが、一人の新しい人の実際としての召会の中で生きているなら、わたしたちは神聖な歴史の中で生きています。召会生活の中で、神の歴史はわたしたちの歴史です。今や両者、すなわち、神とわたしたちは、一つの歴史、すなわち神聖な歴史を持っています。(2020年 サンクスギビングデー特別集会アウトライン)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第4日

(サンクスギビングデー特別集会 メッセージ5)

 

イエスにあるあの実際にしたがってキリストを学ぶことによって、わたしたちの文化の生活をするのではなく、一人の新しい人の生活をする

 

エペソ4:20-21

しかしあなたがたは、そのようにキリストを学んだのではありません.もしあなたがたが真に彼に聞き、そして彼の中で、あのイエスにある実際にしたがって教えられているのであれば、

 

 ◎ わたしたちの生活の標準は、わたしたちの文化にしたがっているのではなく、イエスにあるあの実際、すなわち、主イエスが地上にいた時に生かし出した実際にしたがっていなければなりません(エペソ4:20-21)。

 

 主よ、あなたが地上におられた時の生活の実際にしたがって、キリストを学ぶことができますように。わたしたちの召会生活が、一人の新しい人の生活となりますように。

 

 

 「イエスにあるあの実際」を学ぶ

 

 主イエスが地上で生きた方法は、新しい人が今日生きるべき方法です(マタイ11:28-30.ヨハネ6:57.4:34.5:17, 19, 30.6:38.17:4)。「イエスにあるあの実際」(エペソ4:21)とは、四福音書に記録されているような、イエスの生活の実際の状態を指しています。イエスは神の中で、神と共に、神のために、すべてのことを行なう生活をしました。神は彼の生活の中におられ、彼は神と一でした。

 イエスは常に神の義と聖に符合した方法で生活しました。イエスの生活の中で、あの実際の義と聖が常に展覧されました(エペソ4:24)。イエスの人の生活は、この実際にしたがっていました。そして、この実際(栄光が現され、表現された神)の義と聖の中で、新しい人は創造されました。

 

 わたしたちはキリストを学び、彼の中で教えられて、実際の生活をする必要があります。キリストを学ぶことは、ただキリストの模範の中へと鋳込まれること、すなわちキリストのかたちに同形化されることです(エペソ4:20-21.ローマ8:28-29.Ⅱヨハネ1節.ヨハネ4:23-24)。そして、新しい人は団体の人として、イエスにあるあの実際にしたがって、実際の生活をすべきです。それは、神を表現する生活です。  (2020年 サンクスギビングデー特別集会アウトライン)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第3日

(サンクスギビングデー特別集会 メッセージ4)

 

復活の命の新鮮な供給をもって日ごとに新しくされて、わたしたちの文化を置き換え、新エルサレムのように新しくなることによって、実際において一人の新しい人となる

 

エペソ4:22-24

あなたがたは、以前の生活様式において、あの欺きの情欲によって腐敗している古い人を、脱ぎ捨ててしまったのです.そして、あなたがたの思いの霊の中で新しくされ、また、あの実際の義と聖の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着たのです。

 

◎ わたしたちは、思いのむなしさにしたがって生きるべきではなく、思いの霊にしたがって生きるべきです。これが、団体の一人の新しい人の日常生活のかぎであり、神の特性、キリストの香り、その霊の一で満たされた召会生活を持つ秘訣です(エペソ4:3-4, 17-18, 23-24)。

 

 主よ、わたしたちが思いの霊の中で新しくされますように。復活の命の新鮮な供給をもって、日ごとに新しくしてください。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

日ごとに新しくされるために、朝ごとに復興される

 

 わたしたちが主を愛することによって、また日々霊を活用して祈り、御言を読むことによって、わたしたちの思いはミングリングされた霊で満たされます。これがわたしたちの思いを変え、新しくします。わたしたちの思いの中で新しくされるとは、聖書の教えと聖霊の照らしによって、人生の事物に関する古い観念を除き去り、新しくされることです(詩119:105, 130.Ⅱテモテ3:15-17.申17:18-20)。

 

 わたしたちが思いの霊の中で新しくされることは、キリストのかたちへと日ごとに造り変えられるためです。このことは、わたしたちの外なる人がわたしたちの環境において苦難を受けることによって朽ちることを通してであり、それはわたしたちの内なる人が新しくされるためです(Ⅱコリント4:16)。わたしたちは日ごとに新しくされるために、朝ごとに復興される必要があります(マタイ13:43.ルカ1:78-79.箴4:18.士5:31.Ⅱコリント4:16)。(2020年 サンクスギビングデー特別集会アウトライン)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第2日

(サンクスギビングデー特別集会 メッセージ3)

 

一人の新しい人の構成要素――文化に置き換わる、すべてを含む、無限に拡張するキリスト

 

コロサイ3:10-11

新しい人を着たのです.その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです.その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません.キリストがすべてであり、すべての中におられるのです。

 

コロサイ1:27後半

それはあなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みです.

 

 ◎ キリストをわたしたちの分け前として享受した結果、わたしたちは彼を一人の新しい人の内容また構成要素として経験します。最終的に、わたしたちが享受するキリストが新しい人の構成要素となります(コロサイ1:12.3:11)。

 

 主よ、わたしたちは新しい人としての召会の中にいます。新しくされつつあることを感謝します。キリストがすべてであり、すべての中におられます。主よ、わたしたちの内にいますキリストが、わたしたちの栄光の望みです。主に感謝します。

 

 

 新しい人の構成要素としてのキリスト

 

 新しい人の構成要素として、キリストはすべてであり、すべての中におられます。キリストはすべての肢体であり、すべての肢体の中におられます(コロサイ3:11)。ですから、この新しい人としての召会では、キリストがあらゆる人であり、彼はまたあらゆる人の中におられます(コロサイ1:27.3:11)。

 一方で、新しい人の中では、天然の人に地位はありません。なぜなら、キリストがすべての肢体であるからです。もう一方で、キリストがすべての中におられるという事実が示しているのは、各肢体は依然として存在していても、キリストなしに存在するのではなく、キリストに内住されている人として存在するということです(コロサイ1:27)。

 わたしたちはキリストをわたしたちの命また構成要素とするとき、わたしたちがキリストと一であり、キリストがわたしたちであるという深い感覚を持ちます。また同時に、わたしたちはキリストがわたしたちの中におられるというさらに深い感覚を持ちます(コロサイ3:4)。(2020年 サンクスギビングデー特別集会アウトライン)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第1日

(サンクスギビングデー特別集会 メッセージ2)

 

わたしたちの文化を生きずに、すべてを含む、無限に拡張するキリストを生きる

 

ピリピ1:20-21前半

そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、

 

◎ 「聖書の中心思想は、わたしたちがキリストのからだ、一人の新しい人としての召会のためにキリストを生きることを、神が願っているということです(ピリピ1:21前半.エペソ2:15-16)。キリストを生きることは、ひとりのパースン、すなわちキリストご自身を生きることです(コロサイ1:27.ローマ8:10)」。

 もしわたしたちが光を得て、どのようにしてキリストがわたしたちの日常生活において置き換えられているかを見るなら、わたしたちは主に対して、わたしたちがキリストによって生きるよりも文化によって生きていることを告白するでしょう(Ⅰヨハネ1:7)。

 

 主よ、わたしたちの生活が文化によってではなく、キリストを生きる生活となりますように。すべてを含む、無限に拡張するキリストのビジョンを見せてください。

 

 

キリストを生きるとき、文化から救い出される

 

 極めて重要な事は、すべてを含む、無限に拡張するキリストのビジョンを、わたしたちが見ることです。わたしたちはキリストのそのようなビジョンなしに、わたしたちの文化を捨てようと奮闘すべきではありません(使徒26:19.エペソ1:17-23)。

 もしわたしたちが、内住する、すべてを含む、無限に拡張するキリストについてのそのようなビジョンを見るなら、自然にわたしたちの文化を捨てるでしょう(コロサイ3:10-11)。わたしたちはキリストを生きるとき、自然に文化から救い出されます。また、わたしたちの生きるキリストは、自動的にわたしたちの文化に置き換わってくださいます。これが、コロサイ人への手紙の中にある啓示です(コロサイ1:15, 18, 27.2:2, 9-10.3:4, 10-11)。

(2020年 サンクスギビングデー特別集会アウトライン)

 

 

 (JGW日本福音書房 回復訳聖書より)