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9月の祈り18日

2025年9月全国特別集会 メッセージ3

 

聖徒に対する使徒たちの牧養

 

聖書:

ヨハネ10:11,16.21:15-17.Ⅰテモテ1:16.Ⅰテサロニケ2:7-8,11-12.使徒20:19-20,27,31. Ⅱコリント6:11,13.7:2-3.11:28-29.12:15

 

ヨハネ第21章は、キリストの天の務めと協力する使徒の務めを啓示しています。ヨハネ第21章はヨハネによる福音書の完成とまとめです。

 

・ヨハネによる福音書には二十一の章がありますが、実際は第20章で終わっています。ですから、第21章は補いであると……言うのは正しいのですが、この21章はヨハネによる福音書全体をまとめ、キリストの天の務めと使徒たちの地上での務めが共に協力して、神の新約エコノミーを完成することをわたしたちに示しています。

 

主は彼の小羊を養い、彼の羊を牧養することをペテロに託しました(ヨハネ21:15-17)。

 

・主は復活の後、昇天の前に、彼の弟子たちと共にとどまっていたとき、彼の一つの現れにおいて、彼がここにいないで天にいる間、彼の小羊を養い、彼の羊を牧養することをペテロに託しました。これは、使徒の務めとキリストの天の務めを合併して、神の羊の群れ、すなわち召会を顧みることであり、その結果、キリストのからだをもたらします。

 

使徒パウロは、キリストの天の務めにおける牧養と協力して、聖徒を牧養する模範です(ヘブル13:20-21.7:25-26.Ⅰテモテ1:16.Ⅱコリント1:3-4,使徒20:20)。

 

・パウロが聖徒たちを牧養したのは、養う母として、また勧めをする父としてでした(Ⅰテサロニケ2:7-8,11-12)。パウロと彼の同労者は、信者たちを彼らの養育する顧みの下にある子供たちと考えました。親が子供たちを顧み、養育して成長させるように、使徒たちは新しい信者たちを顧みました。

 

・パウロがエペソの聖徒たちを牧養し、彼らに「公にも、また家から家でも」教え(使徒20:20)、また三年の間、彼ら一人一人を涙をもって訓戒し(31,19節)、彼らに神のみこころをすべて言い表しました(27節)。 パウロの心は広く、命を供給する親密な心遣いを持っていました(Ⅱコリント7:2-3.Ⅰテサロニケ2:8.ピリピ2:19-20)。

 

・パウロは弱い人たちの水準に下って来たので、彼らを得ることができました(Ⅱ コリント11:28-29.Ⅰコリント9:22.参照、マタイ12:20)。Ⅰコリント第9章22節でパウロは言います、「弱い人には弱くなりました.弱い人を得るためです」。これは、わたしたちが弱い人の水準にまで下りて来るべきであることを意味します。これが、訪問することによって人を牧養する道です。

 

・パウロは召会を愛する者として、召会を愛するキリストとの一の中にあり、進んで聖徒たちのために彼が持っていたもの(彼の財物を指す)と、彼であるもの(彼自身を指す)とを費やして、キリストのからだを建造しました(エペソ5:25.Ⅱコリント12:15.11:28-29)。

 

(全国特別集会アウトライン)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り18日

6月訓練 キリストを経験し、享受し表現する(3) 第25週(M1)第4日

 

日常生活に問題を持つとき、ただ主に告げる必要があります

 

ピリピ4:6-7

何事にも思い煩うことなく、あらゆることにおいて、感謝をささげることを伴う祈りと願い求めによって、あなたがたの要望を神に知らせなさい.そうすれば、人知をはるかに超えた神の平安が、あなたがたの心と思考を、キリスト・イエスの中で護衛してくださいます。

 

「わたしたちは日常生活に問題を持つとき、人からのアドバイスを求める必要はありません。…… あなたは何か問題があるなら、ただ主に告げる必要があります。主はあなたの中にいて、あなたと面と向かっておられます。三一の神(父、子、霊)はわたしたちの中にいて、わたしたちを煩わせているのではなく、わたしたちのパラクレート、慰め主、支える方となっておられます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはわたしたちのパラクレート、慰め主、支える方であることを感謝します。わたしたちが日常生活に問題を持つとき、ただわたしたちの要望を主に告げることができますように。主よ、わたしたちが出遭うすべてのことは主のみこころです。あらゆることにおいて、主に感謝するという学課を学ばせてください。

 

わたしたちの祈りも願い求めも、主に感謝をささげることを伴うべきです

 

 ピリピ人への手紙第4章6節でパウロは、祈り、願い求め、感謝をささげることについて語っています。祈りは一般的であり、礼拝と交わりの本質を含みます。願い求めは特別であり、特別な必要に関するものです。……日ごとにわたしたちは、時間を取って主と接触し、彼と交わり、彼を礼拝する必要があります。わたしたちは交わりの過程の中で、特別な要望があるかもしれません。ですから、わたしたちは一般的に祈るだけでなく、特別な方法で主に願い求めます。

 

 わたしたちの祈りも願い求めも、主に感謝をささげることを伴うべきです。最近わたしは再び、主に感謝するという学課を学びました。わたしは主に健康を回復してくださるように求めた時、今も自分にあるいくらかの健康のゆえに主に感謝しなかったために、主に責められました。……「主よ、わたしはまだある程度まで健康であるがゆえに、あなたに感謝します。主よ、わたしは病んでいますが、キリストを聖徒たちに供給することができないまでに病んではいません。しかし、主よ、あなたはわたしが完全に健康でないことをご存じです。ですから、わたしの健康を回復し、再び完全に健康にしてくださるようあなたに求めます」。わたしたちはみなこのように主に願い求めることを学ぶ必要があります。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(3)」、第62編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り17日

2025年9月全国特別集会 メッセージ2

 

新約における彼の民に対するキリストの牧養

 

聖書:

ヨハネ第10章.Ⅰペテロ2:25.5:4.ヘブル13:20.啓7:16-17

 

ヨハネによる福音書は、主が命(11:25.14:6)であることだけでなく、主が良い牧者であり、彼が来たのは、わたしたちが命を得、さらに豊かに得るためであることをわたしたちに告げています(10:10-11)。

 

・キリストは牧者であり、彼の民を囲いから出てくるように召しています。彼は羊の先頭を歩み、彼の羊は彼に従います(ヨハネ10:2-4,7-11)。羊の囲いは律法、あるいは律法の宗教としてのユダヤ教を象徴します。キリストが来るまでは、神の選びの民はその中で保たれ、後見の中に守られていました(1節.ガラテヤ3:23-25)。主は牧者であり、ご自身の羊の名を呼びます(3節)。わたしたちは主を知っており、主もわたしたちを知っており、彼はわたしたちの名を呼びます(ルカ19:3-4)。

 

・キリストが彼の魂の命を捨てたのは、羊が神の命を得るためです(ヨハネ10:10 後半-11)。ヨハネ第10章10節から11節の「命」の原文は二つの異なる文字です。10節において、ギリシャ語はゾーエ(zoe)であり、この言葉は、新約で永遠の、神聖な命に用いられています。11節において、ギリシャ語はプシュケ(psuche)であり、魂、魂の命、すなわち人の命を意味します。この二つの節は、主イエスは二種類の命を持っていることを示しています。主は人であり、プシュケの命、人の命を持っています。彼はまた神であり、ゾーエの命、神の命を持っています。

 

・重要なのは、主は外側の活動でわたしたちを牧養するのではなく、命の方法をもって内側でわたしたちを牧養していることを、わたしたちが知ることです。これは、主が内側からわたしたちを牧養していることを意味します(ヨハネ10:10後半)。わたしたちの内側には、わたしたちの牧者としての主がおり、主は命であり命の中にある牧者です(2,9,10節後半)。わたしたちは、主が内側からわたしたちの命となってわたしたちを牧養していることを見る必要があります。わたしたちは、わたしたちの命としての主によって生きるとき、主の牧養を享受します(10節後半)。

 

歴代の信者は、みな良い牧者である主の牧養の下にいました(Ⅰペテロ2:25)。

 

・主は牧者の長であり(5:4)、神の羊の群れの大牧者であり(ヘブル13:20)、神の小羊の身分をもって彼はわたしたちを牧養し、永遠に至るまで、わたしたちを命の水の源泉に導き、わたしたちを永遠に満たし、渇くことも飢えることもないようにしてくださいます(啓7:16-17)。彼がこのように行なうのは、神の有機的な救いの大部分を完成させるためです。

 

(全国特別集会アウトライン)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り17日

6月訓練 キリストを経験し、享受し表現する(3) 第25週(M1)第3日

 

謙虚温柔さはすべてを含む美徳であり、キリストご自身です

 

ピリピ1:19-20

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです.そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。

 

「謙虚温柔さはすべてを含む美徳であり、キリストご自身です。キリストが謙虚温柔さであるので、パウロが生きることは謙虚温柔さでした(ピリピ1:21前半)。わたしたちは、どのような環境、状況、境遇の中にあっても、造り変えられる秘訣として、すなわち、わたしたちの天然の命において新陳代謝的に変えられる秘訣として、キリストを学ぶ必要があります(ピリピ4:12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストご自身が謙虚温柔さであることを賛美します。わたしたちの天然の命において新陳代謝的に造り変えられる秘訣として、キリストを学ばせてください。そして、どのような環境、状況、境遇の中にあっても、キリストがわたしたちの体において大きく表現されますように。

 

謙虚温柔な人は、キリストを表現する生活をします

 

 「謙虚温柔さ」のギリシャ語は、……「理にかなっている、思いやりがある、適合する、適切である」を意味します。謙虚温柔な人は、常に適合する人であり、彼の行為は常に適切です。ある聖徒たちは良いのですが、適合しません。彼らは場所から場所に移動しますが、どこに行っても幸いではありません。これらの聖徒たちが適合しないのは、謙虚温柔でないからです。環境や状況がどうであっても、謙虚温柔な人は、常に適合する人であり、彼の行為は常に適切なものです。……

 

 主イエスだけが謙虚温柔さに満ちた生活をされました。キリストだけが今日、わたしたちの完全な謙虚温柔さとなることができます。キリストの人性の美徳の総合計を総括するのに最も適切な言葉は、「謙虚温柔さ」です。わたしたちの謙虚温柔さを知らせるとは、キリストを表現する生活をすることです。この生活は、わたしたちがその方によって生きるキリストを表現します。そのような生活は、すべての人性の美徳の総合計としてのキリストご自身です。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(3)」、第57,27編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り16日

2025年9月全国特別集会メッセージ1

 

主題:牧養のビジョンと委託

 

メッセージ 1

旧約における神の民に対する神の牧養

 

聖書:

創49:24.詩28:9,80:1前半.伝12:11.雅1:7前半,8節後半,2:16,6:3.イザヤ40:9-11.エゼキエル第34章,37:24.ゼカリヤ11:7,13:7

 

牧養することは、羊の群れに対してすべてを含む優しい顧みを行なうことです(ヨハネ21:15-17.使徒20:28)。牧養は、羊のすべての必要を顧みることを指しています(詩第23篇)。すべての羊は十分な備えを得て、良い世話を受ける必要があります。

 

旧約は、神はイスラエル人の牧者であると語り、またキリストが牧者として来ることを預言しています(創49:24.詩28:9.80:1前半.伝12:11.エゼキエル37:24.ゼカリヤ11:7.13:7)。

 

神の永遠のエコノミーの主要な目的と究極的完成のために神の羊の群れを牧養するこの事柄は、雅歌でも言及されています。「わたしの魂の愛する方、わたしに告げてください.あなたはどこであなたの羊の群れを飼っているのですか?…… 」(雅1:7前半)。

 

イザヤ書第40章9節から11節はキリストが神・牧者であることを預言しています。 イザヤ書第40章によると、キリストは神の牧者として、わたしたちを牧養し、導き、案内します。

 

エゼキエル書第34 章において、主ご自身は牧者として来てご自身の羊を捜し、彼らを尋ね出します(エゼキエル34:11-31.ルカ15:3-7.マタイ9:36.ヨハネ10:11.21:15-17.ヘブル13:20.Ⅰペテロ5:3-4)。

 

・主は彼の羊を捜し、彼らを尋ね出します(エゼキエル34:11.ルカ15:4-9)。

 

・主は、彼の民を未信者の間から連れ出して、ご自身へともたらします(エゼキエル34:12-13前半.参照、エペソ2:12-13)。

 

・主は彼の民をご自身の地へと導きます(エゼキエル34:13後半.参照、コロサイ1:12)。わたしたちの良き地はキリストです。良き地は今日、召会生活の中にもあります(使徒20:32.26:18.コロサイ1:12)。

 

・主は彼の民を小川のほとりに連れ戻します(エゼキエル34:13.啓22:1.Ⅰコリント12:13.詩36:8)。小川は、命を与える霊、その霊の生ける水を表徴します(ヨハネ7:37-39)。

 

・主は小川のほとりで彼の羊の群れを養います(エゼキエル 34:13.啓 22:1-2 前半)。

 

・主は彼の民を良い肥えた牧場に連れ戻します(エゼキエル34:14.詩23:2.ヨハネ10:9.参照、Ⅰテモテ1:4)。

 

・主は彼の民を伏させ、彼らに内側の安息を与えます(エゼキエル34:15.雅1:7.マタイ11:28-30)。

 

・主は傷ついた者を包み、病んでいる者(弱い者)を力づけます(エゼキエル34:16 前半.イザヤ61:1-2.ルカ4:18-19.マタイ9:9-13)。

 

・キリストは真のダビデ、真の牧者であって、ひとりの牧者として立てられて、わたしたちを養い、満たし、満足させます(エゼキエル34:23)。

 

(2025年全国特別集会アウトライン)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り16日

6月訓練 キリストを経験し、享受し表現する(3) 第25週(M1)第2日

 

謙虚温柔さは、クリスチャンのすべての美徳を含んでいます

 

ピリピ1:21

なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。

 

ピリピ4:5

あなたがたの謙虚温柔さを、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

 

「クリスチャンの経験によれば、謙虚温柔さは、すべてを含んでいます。なぜなら、それはクリスチャンのすべての美徳を含んでいるからです。謙虚温柔さは実は、すべてを含む霊の満ちあふれる供給を伴うすべてを含む霊としてのすべてを含むキリストです(ピリピ1:19-21前半)。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。謙虚温柔さはクリスチャンのすべての美徳、自制、忍耐、適度であること、慈愛、温和を含みます。主よ、わたしたちの日常の生活において、すべてを含む霊の満ちあふれる供給にあずからせてください。そして、謙虚温柔さとしてのすべてを含むキリストを経験し、表現することができますように。

 

謙虚温柔さは、すべてを含む霊としてのすべてを含むキリストです

 

 ウエストは彼の「言葉の研究」の中で、「謙虚温柔さ」と訳されたギリシャ語の言葉は、わたしたちが受けるべきものに欠けるとしても、満足することを意味するだけでなく、甘く理にかなったことを意味すると指摘しています。その言葉は自制、忍耐、適度であること、慈愛、温和を含みます。さらに、クリスチャンの経験によれば、謙虚温柔さはすべてを含みます。なぜなら、それはクリスチャンのすべての美徳を含んでいるからです。これは、もしわたしたちが謙虚温柔であることができないなら、どのクリスチャンの美徳も持つことができないことを意味します。……

 

 キリストの恵みによって、[ある兄弟]が受けるべきものに欠けても満足して、妻に対して謙虚温柔になり、彼女を非難したり罪定めしたりしないなら、彼の謙虚温柔さの中で、彼はすべてを含むクリスチャンの美徳を見せるでしょう。彼の謙虚温柔さは、忍耐、へりくだり、自制、主を仰ぎ見ること、主がすべての事で主権を持っておられることを承認する美徳をさえ含んでいます。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(3)」、第56編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り15日

6月訓練 キリストを経験し、享受し表現する(3) 第25週(M1)第1日

 

キリストはわたしたちの美徳、神の平安、わたしたちの秘訣、わたしたちを力づけてくださる方です

 

ピリピ4:5-6

あなたがたの謙虚温柔さを、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。何事にも思い煩うことなく、あらゆることにおいて、感謝をささげることを伴う祈りと願い求めによって、あなたがたの要望を神に知らせなさい。

 

「パウロは、謙虚温柔さと、思い煩いがないことを、キリストを生きる生活の表現の最初の二つの面であると考えています。思い煩いはサタンから来ており、人の生活の総合計であって、信者がキリストを生きる生活を妨げます。謙虚温柔さは神から来ており、キリストを生きる生活の総合計です。両者は相反します(マタイ6:22-34)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。謙虚温柔さは神から来ることを感謝します。思い煩いはサタンから来ます。わたしたちの日常の生活において、謙虚温柔さであることを訓練して、キリストを生きる生活をすることができますように。

 

キリストを生きるなら、謙虚温柔さを持ち、思い煩いがありません

 

 キリストを生きる生活の表現の第一の面は、謙虚温柔さです[ピリピ4:5]。……第二の面は思い煩わないことです。キリストを生きる生活には謙虚温柔さがあり、しかも思い煩い、心配はありません。……キリストを生きる生活は平静で、静かで、平安で、安静です。その反対に、動乱の生活はサタンを生きる生活です。謙虚温柔さは静かな生活の最も重要な要素です。謙虚温柔さは人を取り扱うことで理にかなっており、思いやりがあることです。謙虚温柔であることは、人を取り扱うとき、合法的な権利を厳格に要求しないことです。

 

 謙虚温柔さは忍耐と節度を含み、しかもそれ以上のことです。謙虚温柔さを持っているなら、あなたは人と論争したり、争ったり、討論したりしないでしょう。…… パウロが第4章6節で思い煩いについて語っているのは、それが人の生活の総合計であることを認識していたからです。パウロはまた、謙虚温柔さは正常なクリスチャン生活の総合計であることも認識していました。……ですから、キリストを生きるとは、謙虚温柔さを持ち、しかも思い煩いがないことです。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ」、第27、60編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り13日

(メモリアルデー特別集会 第6週 第6日)

 

キリストの力の中で立つことは、神の敵に敵対して戦うことです

 

エペソ6:11,13

神のすべての武具を身に着けなさい.悪魔の策略に敵対して立つことができるためです。……こういうわけで、神のすべての武具を取りなさい.それは、あなたがたが邪悪な日にあって抵抗することができ、またすべてのことをやり抜いた後も、なお立つことができるためです。

 

「神のすべての武具を身に着けることによって、わたしたちは悪魔の策略、邪悪な計画に敵対して立つことができます(エペソ6:11,13-14)。キリストと共に座ることは、彼が成就したすべてにあずかることです。キリストのからだの中で歩くことは、神の永遠の定められた御旨を成就することです。キリストの力の中で立つことは、神の敵に敵対して戦うことです(エペソ2:6.4:1.5:2,8.6:11,13-14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。霊的戦いのための六つの神の武具を感謝します。わたしたち召会が祈りによって、神のすべての武具を適用することができますように。そして、すべてのことをやり抜いた後も、なお立って、神の敵に対して戦うことができますように。

 

祈りは、神の武具を適用する唯一の方法です

 

 わたしたちはみな、今日の主の回復の中で戦場にいることを見る必要があります。わたしたちは主と協力して、サタンの空中の勢力と戦うべきです。それによってわたしたちは、さらに多くキリストを獲得してキリストのからだを建造し、キリストの花嫁の用意を整え、神の王国を設立し、拡大することができます。こうしてキリストが戻って来て、地を受け継ぐことができるのです。

 

 わたしたちが真理を腰に帯として締め、義の胸当てを身に着け、平和の福音を確固とした土台として足にはくのは、すべての祈りと願い求めによります。さらに、信仰の盾を取り、救いのかぶととその霊の剣、すなわちその霊である神の言葉を受け取るのは、祈りによってです。わたしたちは、武具を身に着けて、武具のどの項目でも取り上げようとする時はいつも、祈る必要があります。わたしたちは祈りなしに、神の武具のどの部分も使うことができませんし、またそうすべきではありません。祈りは、神の武具を適用する唯一の方法です。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(3)」、第66編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り12日

(メモリアルデー特別集会 第6週 第5日)

 

召会は団体の戦士であり、信者たちはこの団体の戦士を構成します

 

エペソ6:14,17-18

ですから立ちなさい.真理を腰に帯として締め、義の胸当てを身に着け。……また救いのかぶとを受け取りなさい.さらにその霊の剣、すなわちその霊である神の言葉を、すべての祈りと願い求めによって受け取りなさい.どんな時にも霊の中で祈り、すべての聖徒のために根気と願い求めの限りを尽くし、このために目を覚ましていなさい。

 

「霊的戦いは、個人の事柄ではありません。それはキリストの花嫁が団体の戦士となる事柄です(エペソ6:13)。召会は団体の戦士であり、信者たちはこの団体の戦士を構成します。わたしたちは霊的戦いを戦うために、神のすべての武具を身に着ける必要があります(エペソ6:11)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。召会がキリストの花嫁であり、団体の戦士でもあることを賛美します。わたしたち召会が霊的戦いを戦うために、神のすべての武具を身に着けることができますように。どんな時にも、すべての聖徒のために、霊の中で祈ることができますように。

 

わたしたちは霊的戦いを戦うために、神のすべての武具を身に着けます

 

 もし召会から分離するなら、あなたは打ち破られるでしょう。サタンの戦略は、あなたを、神の軍隊としての召会から分離させることです。わたしたちが、霊的戦いはからだの事柄であることを認識するのは極めて重要です。これを認識して召会と共にとどまるなら、わたしたちは勝利を得ます。戦いは、個人の信者としてのわたしたちのためではなく、神の軍隊としての召会のためです。……

 

 エペソ人への手紙第6章14節から17節には、武具としてのキリストの六つの面があります。すなわち、真理あるいは実際の帯、義の胸当て、平和の福音の確固とした土台(靴)、信仰の盾、救いのかぶと、その霊の剣です。ですから、神のすべての武具は、帯、胸当て、靴、盾、かぶと、剣から成っています。盾は防衛のためですが、剣は攻撃のためです。事実、剣は戦いで攻撃するための唯一の武具です。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(4)」、第97編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り11日

(メモリアルデー特別集会 第6週 第4日)

 

主の中で、彼の力強い大能の中で力づけられなさい

 

エペソ6:10,12

最後に、主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられなさい。……というのは、わたしたちの格闘は血肉に敵対するものではなく、支配者たちに、権威者たちに、この暗やみの世の主権者たちに、天上にいるあの悪の霊の勢力に、敵対するものだからです。

 

「わたしたちは神の敵を対処するために、キリストを死人の中から復活させ、彼を天上で、空中のあらゆる悪霊のはるか上に座らせた偉大な力で、力づけられる必要があります(エペソ6:10.1:19-22)。召会とサタンとの戦いは、主を愛し、彼の召会の中にいるわたしたちと、天上にいる悪の勢力との戦いです(エペソ6:12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストを死人の中から復活させ、彼を天上で神の右に座らせた偉大な力を賛美します。主よ、わたしたちが天上にいる悪の勢力との戦いを、自分の中でではなく、主の中で戦うことができますように。

 

わたしたちは自分の中でではなく、ただ主の中でのみ戦うことができます

 

 エペソ人への手紙第6章10節で「力づけられる」と訳されたギリシャ語は、第1章19節の「力」と同じ語根です。わたしたちは神の敵を対処し、暗やみの邪悪な勢力に敵対して戦うために、キリストを死人の中から復活させ、彼を天上で、空中のあらゆる悪霊のはるか上に座らせた偉大な力で、力づけられる必要があります。わたしたちが主の中で力づけられるべきであるという事実は、サタンと彼の邪悪な王国に敵対する霊的戦いで、わたしたちは自分の中でではなく、ただ主の中でのみ戦うことができることを示しています。わたしたちは、自分の中にいるときはいつも打ち破られます。

 

 「力づけられなさい」という命令は、わたしたちの意志を活用する必要があることを暗示しています。霊的戦いのために力づけられようとするなら、わたしたちの意志が強く、訓練されなければなりません。わたしたちはくらげのように、意志が弱くてぐらついている者であってはなりません。実は、意志の強い人は、最も強く悔い改めることができる人です。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(3)」、第62編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り10日

(メモリアルデー特別集会 第6週 第3日)

 

霊的戦いがあるのは、サタンの意志が、神の意志と対抗しているからです

 

エペソ1:5

みこころの大いなる喜びにしたがい、イエス・キリストを通して、わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました。

 

マタイ6:10

あなたの王国が来ますように.あなたのみこころが天で行なわれているように、地でも行なわれますように。

 

「霊的戦いが必要であるのは、サタンの意志が、神の意志と対抗しているからです(エペソ1:5,9,11.マタイ6:10:4:12-14)」。すべての戦いは、サタンの意志と神の意志の間の衝突にその源があります。霊的戦いは、神の王国とサタンの王国の間の戦いです。天の王国が確立されるためには、霊的戦いの必要があります(マタイ12:26,28.啓12:11)。わたしたちは、真理にしたがい恵みによって歩き、愛と光の中を生き、戦ってサタンの意志を征服します(エペソ4:1.5:2,8.6:12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。霊的な戦いがあるのは、サタンの意志と神の意志の間の衝突があるからです。わたしたちは、人に与えられた自由意志を用いて、サタンの意志から神の意志へ立ち返り、主イエスを信じ、バプテスマされて、神の愛する御子の王国に移されたことを感謝します。天の王国が確立されるために霊的戦いを戦うことができますように。

 

罪人は悔い改め、主イエスを信じ、バプテスマされて、神の王国へ立ち返ります

 

 宇宙には三つの意志があります。それは神の意志、サタンの意志、人の意志です。……神の意志は、自ら存在し、永遠であり、非受造のものです。創造されたものとして、天使たちも意志を持っています。これらの天使の一人、天使長は、神によって任命されて、アダムの創造の前に存在していた宇宙を支配していました。彼の高い地位と彼の美しさのゆえに、この天使長は高ぶるようになり、……邪悪な意図をひき起こし、それはサタンの意志となりました。ですから、神の意図、神の意志に加えて、第二の意図、第二の意志があります。なぜなら、今やサタンの意志が、神の意志と対抗しているからです。……

 

 聖書は、わたしたちは王国のために悔い改めなければならないと言っています(マタイ4:17)。神の王国とは実は、神の意志の行使です。罪人は神の王国のために悔い改めるとき、サタンの側から神の側へ、すなわち神の王国へ、神のみこころ(意志)へ立ち返ります。人はサタンの意志から神の意志へ立ち返った後、主イエスを信じ、バプテスマされなければなりません。バプテスマを通して、人は暗やみの権威、サタンの意志から連れ出されて、神の愛する御子の王国に移されます(コロサイ1:13)。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(3)」、第62編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り9日

(メモリアルデー特別集会 第6週 第2日)

 

シュラムの女はソロモンの女性形であり、勝利者たちはキリストと同じになります

 

雅6:13

「帰れ、帰れ、シュラムの女よ.帰れ、帰れ、わたしたちはあなたを見たい」。「どうして、あなたがたはシュラムの女を見るのか? 二つの陣営の踊りを見るように」。

 

ローマ8:37

しかし、これらすべての事柄において、わたしたちを愛してくださった方を通して、わたしたちは勝ち得て余りがあります。

 

「主の回復は、キリストの花嫁の用意を整えるためです(19:7-9.21:2)。究極的に、わたしたちは同形化されて、すばらしいシュラムの女となります。シュラムの女は、ソロモンの複製として、キリストの配偶者、花嫁である新エルサレムの最大で究極的な型です(雅6:13.啓21:2,9-10.22:17前半)。シュラムの女は、神の目に、二つの陣営あるいは二つの軍隊(ヘブル語は「マハナイム」)の踊りのようです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。シュラムの女は、神の目に二つの陣営あるいは二つの軍隊であることを賛美します。わたしたち召会が自分自身に信頼するのではなく、愛、力、あわれみである主に依り頼むことができますように。そして、勝利者になるのにふさわしいと数えられますように。

 

今日わたしたちは、神の軍隊(マハナイム)の実際です

 

 啓示録第3章8節で、主はヒラデルヒヤの者たちが、「少しばかりの力」を持っていると言われました。主は彼らが絶対的に忠信に、できることは何でも行なうことを称賛されました。……彼はなおも勝利者を召しておられます。 わたしたちが「主よ、わたしは勝利を得ることができません」と言うなら、主は言われます、「……わたしがあなたのために行なう。わたしは高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与える」。これが二つの軍隊(マハナイム)の踊りの原則です。この二つの軍隊がヤコブの妻たちと子供たちから成っていることを覚えていてください。

 

 最終的に、彼らのだれもエサウと戦いませんでした。神が、エサウの態度を変えることによって彼と戦われたのです。創世記第32章はマハナイムの歴史です。今日わたしたちは神の軍隊(マハナイム)の実際です。「シュラムの女」は「ソロモン」の女性形であり、今や勝利者たちがキリストと同じになったことを示します。……シュラムの女は田舎娘でした。今や、彼女はソロモンの配偶者として、神のエコノミーを遂行するために、命、性質、表現、機能において、ソロモンと同じになりました。(リー全集、1994年―1997年、第3巻(上)、「雅歌の結晶の学び」、第12編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り8日

(メモリアルデー特別集会 第6週 第1日)

 

召会は花嫁として、神を表現し、神の敵を対処します

 

雅6:4

わが愛する者よ、あなたは美しいことテルザのよう、愛すべきことエルサレムのよう、恐ろしいこと旗印を持った軍隊のようである。

 

雅6:13

「帰れ、帰れ、シュラムの女よ.帰れ、帰れ、わたしたちはあなたを見たい」。「どうして、あなたがたはシュラムの女を見るのか? 二つの陣営の踊りを見るように」。

 

「勝利を得た、キリストの愛する者は、神と一になって神の住まいとなるとき、神の目に美しいことテルザのようであり、愛すべきことエルサレムのようです。しかしながら、敵にとって、彼女は恐ろしいこと旗印を持った軍隊のようです(雅6:4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。花嫁が団体の戦士であることを賛美します。花嫁としての召会は美しいことテルザのようであり、愛すべきことエルサレムのようです。この勝利者は、敵にとって、恐ろしいこと旗印を持った軍隊のようです。主よ、わたしたちがこの実際を経験し、享受して、主の召しに応じる勝利者となることができますように。

 

花嫁は美しいことテルザのようであり、恐ろしいこと旗印を持った軍隊のようです

 

 わたしたちは神と一になって神の住まいとなるとき、神の目に美しいことテルザのようであり、愛すべきことエルサレムのようです[参照、雅歌6:4]。しかしながら、敵にとって、この愛する者、この勝利者は、恐ろしいこと旗印を持った軍隊のようです。旗印は戦う準備ができていることを示しており、また勝利が得られたことを意味します。……彼女は月のように美しく、太陽のように明るくなるとき、また旗印を持った軍隊のように恐ろしくなります(10節)。

 

 彼女は園になるとき、園以上の何ものでもありませんが、テルザとエルサレムになるとき、何かが建造されて、神の美しさと神の愛すべきことを現します。その時、神の敵はおびえます。なぜならこの小さな田舎娘が、旗印を持った軍隊となったからです。……軍隊は神の民が堕落したとき、主の召しに応じる勝利者となって、神の王国のために戦います(啓2:7,11,17,26.3:5,12,21)。(リー全集、1994年―1997年、第3巻(上)、「雅歌の結晶の学び」、第12編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


改修記念集会(2025.9.7)

花嫁の用意

 

Ⅰ. 言葉の中の水の洗いによって召会を清めます

 

エペソ5:25-27

25 ……キリストが召会を愛して、彼女のためにご自身を捨てられた……26 それはキリストが召会を聖化し、言葉の中の水の洗いによって召会を清めるためであり、27 またそれは、しみやしわや、そのようなものが何もなく、聖くて傷のない栄光の召会を、彼がご自身にささげるためです。

 

(1) 過去、キリストは贖い主として、召会のためにご自身を捨てられました。この事は贖いと命の分け与えのためでした(ヨハネ19:34)。現在、彼は命を与える霊として、召会を、分離、浸透、造り変え、成長、建造を通して聖化しつつあります。 将来、彼は花婿として、召会を彼の満足のための配偶者として、ご自身にささげられます。

 

(2) 新約聖書では、「言葉」を示すのに二つのギリシャ語が使われています。

「ロゴス」は、永遠に定められたものと、客観的に用いられるものとの両方を指します。……しかし、「レーマ」は語られる言葉を指しています。…… 真の成長は、わたしたちが神から直接、言葉を受け取ることにかかっています。……神が彼の言葉を通してわたしたちに語られるとき、わたしたちは照らされます。彼の言葉を通して、わたしたちは聖化され……成長させられます。……わたしたちは「レーマ」、神の生ける言葉を持つなら、清められ、聖化されることができます。(ニー全集、第34巻、「栄光の教会」、第3章)

 

Ⅱ. 輝く清い細糸の亜麻布の衣を着ることを許されます

 

啓示録19:7-8

7 わたしたちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰そう.小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである。8 彼女は輝く清い細糸の亜麻布の衣を着ることを許された.その細糸の亜麻布の衣は、聖徒たちの義である。

 

(1)キリストが信者にとって義であることには二つの面があります。第一の面の信者たちの義としてのキリストは、彼らが神に対して悔い改めてキリストの中へと信じる時、彼らを神の御前で客観的に義とします(ローマ3:24-26.使徒13:39.ガラテヤ3:24後半,27)。

 

(2)第二の面の信者たちの義としてのキリストは、神の現れとして信者たちから生かし出されます。この神はキリストの中で信者たちに与えられた義であり、神によって彼らが主観的に義とされるようにします(ローマ4:25.Ⅰペテロ2:24前半.ヤコブ2:24.マタイ5:20.啓19:8)。

 

(3)8節の義は「義なる行ない」と訳すことができます。細糸の亜麻布の衣は、わたしたちの勝利を得る命、勝利を得る生活を示しています。わたしたちの存在から生かし出されるキリストです。

 

Ⅲ. 詩編45篇の王妃は二枚の衣を持っています

 

詩45:13-14

13 王の娘は宮殿の内にいて栄光を極め、彼女の衣は織った物であり、金が織り込まれています。14 彼女は刺繍された着物を着て王の所に導かれ、彼女の背後のおとめたちも、彼女の付き添いたちも、あなたにもたらされます。

 

(1) 詩篇第45篇において王妃は二枚の衣を持っており(13-14節)、一枚はわたしたちの救いのための客観的な義に相当し、もう一枚はわたしたちの勝利のための主観的な義に相当します。

 

(2) 彼女の第一の衣には金が織り込まれており、第二のものは刺繍された着物です。この刺繍は聖霊の造り変えの働きを表徴します。……聖霊は今日わたしたちに働きかけて、わたしたちを造り変えておられます。わたしたちは第一の衣を持っていますが、わたしたちの第二の衣は今、聖霊の刺繍する働きの下で用意されつつあります。この衣はキリストの裁きの座でわたしたちが彼に会うように資格づけます。

 

(3)聖霊の刺繍する働きによって生み出された第二の衣を持っている者たちだけが、小羊の婚宴に出席するよう選ばれ、資格づけられます。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り6日

(メモリアルデー特別集会 第5週 第6日)

 

王妃は二枚の衣、金が織り込まれた衣と刺繍された衣を持っていました

 

啓示録3:4-5

しかしサルデスには、自分の衣を汚さなかった者が数名いる.彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩くであろう.彼らはそれにふさわしいからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる.……

 

「主の花嫁、彼の妻は「用意を整えた……彼女は輝く清い細糸の亜麻布の衣を着ることを許された.その細糸の亜麻布の衣は、聖徒たちの義である」(啓19:7後半-8)。啓示録第19章8節は衣と義を明確に結び付けています。8節の「義」という言葉は複数であり、「義なる行ない」と訳すことができます。細糸の亜麻布は、わたしたちの勝利を得る命、わたしたちの勝利を得る生活を示しています。小羊の婚宴に招かれている勝利を得た信者たちは、小羊の花嫁でもあります(啓19:7)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。詩編45篇の王妃の二枚の衣のビジョンを感謝します。わたしたちは主イエスを信じた時に客観的な義に相当する衣を受けたことを感謝します。今、日ごとに召会生活の中で 聖霊の造り変えの働きによる刺繍された衣を用意することができますように。

 

聖霊の刺繍する働きによって生み出された第二の衣が必要です

 

 詩篇第45篇において王妃は二枚の衣を持っており(13-14節)、一枚はわたしたちの救いのための客観的な義に相当し、もう一枚はわたしたちの勝利のための主観的な義に相当します。後者は、マタイによる福音書第22章11節と12節の婚宴の礼服に等しいです。詩篇第45篇の王妃は召会を表徴します。彼女の第一の衣には金が織り込まれており、第二のものは刺繍された着物です。聖書において金は神の性質を表徴します。わたしたちの救いの時、わたしたちは神の御前にいることができる金の衣を受け取りました。

 

 これに加えて、わたしたちはもう一枚の衣、刺繍された衣を必要とします。この刺繍は聖霊の造り変えの働きを表徴します。……聖霊は今日わたしたちに働きかけて、わたしたちを造り変えておられます。わたしたちは第一の衣を持っていますが、わたしたちの第二の衣は今、聖霊の刺繍する働きの下で用意されつつあります。この衣はキリストの裁きの座でわたしたちが彼に会うように資格づけます。日ごとにわたしたちは聖霊の縫い針、造り変えの働きの下にいます。これは、わたしたちが義認だけでなく是認をも必要とするからです。……聖霊の刺繍する働きによって生み出された第二の衣を持っている者たちだけが、小羊の婚宴に出席するよう選ばれ、資格づけられます。(「新約の結論(25)」、メッセージ424)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り5日

(メモリアルデー特別集会 第5週 第5日)

 

啓示録第19章の花嫁は、聖徒たちの義である白い亜麻布を着ています

 

啓示録19:7-8

わたしたちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰そう.小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである。彼女は輝く清い細糸の亜麻布の衣を着ることを許された.その細糸の亜麻布の衣は、聖徒たちの義である。

 

「啓示録第19章7節から8節で、わたしたちは花嫁の義を見ます。キリストが信者にとって義であることには二つの面があります。第一の面の信者たちの義としてのキリストは、彼らが神に対して悔い改めてキリストの中へと信じる時、彼らを神の御前で客観的に義とします(ローマ3:24-26.使徒13:39.ガラテヤ3:24後半,27)。キリストは聖徒たちの主観的な義として彼らから生かし出され、彼らの婚宴の礼服となります(啓19:8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが悔い改めてキリストの中へと信じた時、神の御前で客観的に義とされたことを感謝します。主よ、わたしたちが日ごとにその霊の中の命を生きることによって、主観的な義としての婚宴の礼服を用意することができますように。

                    

日ごとにその霊の中の命を生きることによって、婚宴の礼服を用意します

 

 啓示録第19章7節から8節の花嫁は、贖われ造り変えられた三部分から成る人を指しています。この花嫁は、聖徒たちの義である白い亜麻布を着るでしょう。輝く清い義で飾られているこの花嫁にあずかろうとするなら、わたしたちは自分自身を義で飾る必要があります。日ごとに、わたしたちは自分を覆う、輝く亜麻布を用意する必要があります。これはわたしたちの日ごとの義です。そのような義の衣を、どのようにして生み出すことができるのでしょう? 

 

 それを生み出すのは、日ごとに命の霊にしたがって歩くことにより、またその霊の命である命を持つことによります。そのようなその霊の中の命を生きることによって日ごと、月ごと、年ごとに、わたしたちの婚宴の礼服を用意するなら、主が来られる時、わたしたちは裸で見いだされることはないでしょう。むしろ、彼が来られる時、わたしたちは輝く清い婚宴の礼服を着ているでしょう。(「コリント人への第二の手紙ライフスタディ(1)」、第29編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り4日

(メモリアルデー特別集会 第5週 第4日)

 

義が住む、新しい天と新しい地を待ち望んでいます

 

Ⅰペテロ2:24

わたしたちが罪に死んで、義に生きるために、彼はわたしたちの罪を、ご自身の体において、木の上で担われました.その方の打たれた傷によって、あなたがたはいやされたのです。

 

Ⅱペテロ3:13

しかし、わたしたちは彼の約束にしたがって、義が住む、新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

 

「義が新しい天と新しい地に住む(Ⅱペテロ3:13)と言うことが意味するのは、あらゆるものが秩序の中にあり、かしらにつり上げられ、規制されるということです。あらゆるものが統治され、制御され、正当な支配の下にあるようになります。なぜなら、神の御座、王国、神聖な行政がそこにあるからです。その結果は平和と喜びです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。新契約の務めはキリストをその霊として人に供給し、またキリストを義として人に供給することです。この務めによって、わたしたちが召会生活において、内側で命の供給を得て、外側で神の表現となることができますように。

 

義としての神の表現、神のかたちは王国をもたらします

 

 ペテロの第二の手紙第3章13節で使われているように、「義」という言葉は意義が豊富です。義が新しい天と新しい地に住むと言うことが意味するのは、あらゆるものが秩序の中にあり、かしらにつり上げられ、規制されているということです。あらゆるものが統治され、制御され、正当な支配の下にあるようになります。なぜなら、神の御座、王国、神聖な行政がそこにあるからです。その結果は平和と喜びです。……

 

 新契約の務めは、キリストをその霊として人に供給して内側で命の供給とならせ、キリストを義として人に供給して外側で神の表現とならせます。義としての神の表現、神のかたちは王国をもたらし、そこではあらゆるものが規制され、秩序があり、かしらにつり上げられています。これは、来たるべき王国の前味わいと、新天新地における新エルサレムの前味わいを与えます。これが新契約の務めの機能です。わたしたちはみなその務めを遂行して、キリストを命を与える霊として、また義として供給しなければなりません。(「コリント人への第二の手紙ライフスタディ(1)」、第29編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り3日

(メモリアルデー特別集会 第5週 第3日)

 

神の王国は食べ飲みすることではなく、義と平和と聖霊の中の喜びとです

 

ローマ14:17

なぜなら、神の王国は食べ飲みすることではなく、義と平和と聖霊の中の喜びとであるからです。

 

ローマ8:4

それは律法の義の要求が、肉にしたがってではなく、霊にしたがって歩くわたしたちにおいて、満たされるためです。

 

「義は神の王国と関係があります(ローマ14:17)。召会生活は神の王国であり、神の王国は義です。神の御座は、土台としての義をもって確立されています(詩89:14)。神の義がある所に、神の王国もあります(イザヤ32:1.ヘブル1:8-9)。旧約において、義はしばしば王国と同義語です。義がある所では、あらゆるものは正しい方法でかしらにつり上げられます。これが王国です。義はまず神のかたちという結果になります。義は次に神の王国を確立します。ローマ第8章には義と神のかたちがあります。ローマ第14章には義と神の王国があります。かたちと王国はいずれも義に基づいています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の王国は、義と平和と聖霊の中の喜びとであることを賛美します。召会生活は神の王国であり、神の御座は土台としての義をもって確立されています。主よ、わたしたちが命の霊にしたがって歩き、律法の義を満たし、神の御子のかたちに同形化される道を歩むことができますように。

 

命の霊にしたがって歩き、律法の義を満たし、神の御子のかたちに同形化されます

 

 わたしたちがその霊にしたがって歩くので、律法の義の要求はわたしたちにおいて満たされ、わたしたちは義を持ちます。……わたしたちは義を持つ時、わたしたちが仕え礼拝する神の表現を持ちます。わたしたちが命の霊によって生かし出す自然な義としてこの表現を持つので、人は納得し、征服させられるのです。

 

 ローマ人への手紙第8章4節でパウロは、律法の義の要求について語り、そして29節では神の御子のかたちについて語ります。「なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです」。この節を2節と4節と一緒にするなら、霊、義、かたちがあります。日ごとに、わたしたちは命の霊にしたがって歩き、律法の義を満たす必要があります。これは、神の御子のかたちに同形化されることと等しいです。(「コリント人への第二の手紙ライフスタディ(1)」、第29編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り2日

(メモリアルデー特別集会 第5週 第2日)

 

わたしたちが主の中で神の義となるためです

 

Ⅱコリント5:21

神は罪を知らなかった方を、わたしたちに代わって罪とされました.それは、わたしたちが彼の中で神の義となるためです。

 

エペソ4:24

また……義……の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着たのです。

 

「義には四つの面の定義があります。① 義は、神の義なる厳格な要求にしたがって、神の御前で、人、事、物に対して正しくあることです(マタイ5:20)。② 義は、その霊としてわたしたちの中に生きるキリストの外側の表現です(Ⅱコリント3:8-9)。これは神のかたちとしての義です(エペソ4:24.コロサイ3:10)。③ 義は神の王国の事柄です(マタイ6:33.詩89:14)。神の王国は義です。④ 義はわたしたちの存在において神に対して正しいという事柄です(Ⅱコリント5:21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 わたしたちが神の御前で、人、事、物に対して正しくあることができますように。義は神の王国の事柄です。 主よ、わたしたちが命を与える霊によって注入され、浸透されますように。そして、わたしたちの内なる存在が水晶のように透明になり、神の心を知ることができますように。

 

その霊を経験して、わたしたちは水晶のように透明になり、神の心を知ります

 

 わたしは召会の集会で命を与える霊の供給を受けるので、集会に行かないことはほとんどありません。……わたしの唯一の願いは、集会にいること、そして供給を受けることです。特に、わたしはアナハイムに在る召会の祈りの集会を享受しています。その集会の中で、わたしはその霊で注入され浸透されます。その後、あらゆるものが金色であり、わたしの内側には命の木が成長し、命の川が流れているようです。

 

 わたしたちの中に生きて働いておられるその霊を経験した結果、わたしたちは義しくなります。自然に、わたしたちの内なる存在は透き通っており、水晶のように透明になり、神の心を知ります。直ちに、努力なしに、わたしたちは主の思いを知り、彼のみこころと働きについて明確な理解を持ちます。その時、わたしたちが行なうことは、主の思いとみこころにしたがっています。これが義です。(「コリント人への第二の手紙ライフスタディ(1)」、第27編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り1日

(メモリアルデー特別集会 第5週 第1日)

 

義と公正はあなたの御座の土台です

 

Ⅰヨハネ1:9

もし、わたしたちが自分の罪を告白するなら、神は信実で義であられるので、わたしたちの罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださいます。

 

Ⅱコリント3:8-9

ましてその霊の務めは、栄光の中にないわけがありましょうか? 罪定めする務めに栄光があるなら、まして義とする務めは、なおさら栄光にあふれるのです。

 

「神の義とは、神が彼の公正と義なる行ないにおいて何であるかです(啓15:3.ローマ1:16後半-17前半.ヨハネ3:16.Ⅰヨハネ1:9)。わたしたちのキリストに対する経験は、神の義の土台にかかっています。この土台は、神の義、すなわち、神の御座の揺り動かされない土台です(詩89:14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神は信実で義であられることを賛美します。神の義の土台は、神の御座の揺り動かされない土台です。神はわたしたちの罪を赦すことによって、神の義を明らかにしてこられました。主に感謝します。わたしたちの日常の生活の中で、神に対して、人に対して、自分自身に対して義しくあるような方法で、冷静であることができますように。

 

わたしたちのキリストに対する経験は、神の義の土台にかかっています

 

 神は聖いだけでなく、義でもあります。聖は神の内側の性質と関係がありますが、義は神の外側の行ない、方法、行為、活動と関係があります。神が行なうあらゆることはすべて義です。神の義とは、神が彼の公正と義において何であるかです。……神が彼の公正と義において何であるかが、彼の義を構成します。

 

 わたしたちのキリストに対する経験は、神の義の土台にかかっています。この土台はわたしたちの熱心であるとか、勝利を得たとかではなく、神の義、すなわち、神の御座の揺り動かされない土台です(詩89:14)。神はわたしたちの罪を赦すことによって、彼の義を明らかにしてこられました。このようにして、神はご自分が義であることを証明してこられたのです。今や、そのような神の義がわたしたちの確固とした土台です。(「新約の結論(1)」、メッセージ9)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)



集会についてのお知らせ

千葉に在る教会は、コロナの流行により集会参加の際に、注意していただきたい点を掲載してまいりました。しかし政府により、この感染症に対する警戒ランクが引き下げられました。したがって集会時の、注意及び要望を解除いたします。しかし通常のインフルエンザ等における程度の対応は、各自の責任においてお願いします。なお、引き続きZoomを用いて、リモートで集会にあずかることは可能です。こちらの方法での参加についてはご相談ください。参加していただけるようパスワード等をお知らせいたします。集会にリモートで参加してくださる方々においても、積極的な申言・交わりをお願いいたします。

 

今後、集会の変更があった時は、LINE,ホームページ等でお知らせします。主イエス・キリストから恵みと平安が、みなさま一同と共にありますように。