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8月の祈り16日

(メモリアルデー特別集会 第2週 第6日)

 

神はアダムのあばら骨をもって女を建造しました

 

創2:23

すると、その人は言った、「今度こそ、これがわたしの骨の骨、わたしの肉の肉である.この者を『女』と呼ぶことにしよう.それは、この者が『男』から取り出されたからである」。

 

エペソ5:32

この奥義は偉大です.実は、わたしはキリストと召会について言っているのです。

 

 「創世記第2章22節は、エバが創造されたのではなく、建造されたと言っています。アダムの脇から取られたあばら骨でエバを建造することは、復活の命をもって召会を建造することを予表します。この復活の命は、キリストの十字架上での死を通して彼から解き放たれ、彼の復活の中で彼の信者たちの中へと分け与えられました(ヨハネ12:24.Ⅰペテロ1:3)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストと召会という偉大な奥義を賛美します。神は今やキリストの復活の命をもって召会を建造しておられます。召会はキリストのものであり、復活のものであり、天のものです。主よ、わたしたちがキリストと召会のビジョンをはっきりと見ることができますように。

 

神は復活の命をもって召会を建造しました

 

 創世記第2章において、キリストの花嫁がどのようにして存在するようになるかの絵があります。…… 創世記第3章になってはじめて、罪が入って来ました。こういうわけで、アダムの脇から出てきたのは、あばら骨であり、血はありませんでした。しかしながら、キリストが十字架上で眠っていた時には、罪の問題がありました。こういうわけで、彼の死はこの罪の問題を対処しなければなりません。血が贖いのためにキリストの脇から流れ出ました。血に続いて、水が流れ出ました。それは召会を生み出すための流れる命です。この神聖な、流れる、非受造の命は、アダムの脇から取り出されたあばら骨によって予表されています。

 

 アダムから取り出されたあばら骨は復活の命を表徴し、神はアダムのあばら骨をもって女を建造しました。。……エバはアダムの骨の骨であり、アダムの肉の肉です。今日、わたしたちは召会としてキリストの一部分です(エペソ5:30-32)。(リー全集、1969年、第2巻(下)、「聖書の中の命についての重要な啓示」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り15日

(メモリアルデー特別集会 第2週 第5日)

 

アダムの深い眠り(十字架上の死)を通して、エバが生み出されました

 

創2:21

そこで、エホバ・神が、その人を深い眠りに陥らせられたので、彼は眠った.そして彼のあばら骨の一つを取って、その場所を肉でふさがれた。

 

ヨハネ12:24

まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ。

 

「アダムが深い眠りに陥って彼の妻としてのエバを生み出すことは、キリストが十字架上で死んで、彼の配偶者としての召会を生み出すことを予表します(エペソ5:25-27)。聖書の中で、眠りは死を意味します(Ⅰコリント15:18.Ⅰテサロニケ4:13-16.ヨハネ11:11-14)。キリストの死を通して、彼の内側の神聖な命が解き放たれました。そして彼の復活を通して、彼の解き放たれた神聖な命が彼の信者たちの中へと分け与えられて、召会を構成しました(ルカ12:49-50.参照、ローマ12:11.啓4:5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。一粒の麦が地に落ちて死んで、多くの実を結んだことを賛美します。キリストの死を通して、神聖な命が解き放たれ、復活を通して神聖な命がな命がわたしたちの中へと分け与えられたことを感謝します。花嫁としての召会が命と性質と表現において、主と同じになりますように。

 

キリストの十字架上の死を通して、召会が生み出されました

 

 ある日、真のアダムは十字架上で眠りに就かれました。……これは創世記第2章で、「神が、その人を深い眠りに陥らせられた」、また「彼のあばら骨の一つを取って」彼に一人の妻を建造したと言う句で予表されています(創2:21)。アダムの眠りは、召会を生み出すためのキリストの十字架上の死の予表でした。これは命を解き放ち、命を分け与え、命を増殖させ、命を繁殖させ、命を複製するキリストの死です。それは一粒の麦が地に落ちて死に、成長して多くの穀粒を生み出し(ヨハネ12:24)、からだ、すなわち召会であるパンとなる(Ⅰコリント10:17)ことで表徴されます。

 

 召会をこのように生み出すことによって、キリストにある神は、命として人の中へ造り込まれました。まず、神は人と成られました。次に、神聖な命と性質のあるこの人は、死と復活を通して多くの信者たちの中に増殖し、彼らは多くの肢体となって、彼に符合する、また彼を補完する真のエバを構成しました。この過程を通して、神はキリストにあって、彼の命と性質を伴って、人の中へと造り込まれてきました。それは、人が命と性質において彼と同じになって、彼の補完として彼に符合することができるためです。(「創世記ライフスタディ(1)」、第17編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り14日

(メモリアルデー特別集会 第2週 第4日)

 

神の目的は、勝利を得たキリストに加えて勝利を得た召会を得ることです

 

創2:18,20

それから、エホバ・神は言われた、「その人が独りでいるのは良くない.わたしは彼に、彼の配偶者としての助け手を造ろう」。……こうして、その人は、すべての家畜と空の鳥と野のあらゆる動物に名を付けたが、アダムのために、彼の配偶者としての助け手が見当たらなかった。

 

「わたしたちは、神がご自身のための配偶者を生み出すために、何を行なったかを見る必要があります。創世記第2章は、アダムとエバの予表において、キリストと彼の花嫁の絵を啓示しています。アダムが予表するのは、神がキリストの中で、真の宇宙的な夫であり、ご自身のために妻を捜し求めているということです(ローマ5:14.参照、ヨハネ3:29.Ⅱコリント11:2.エペソ5:31-32.啓19:7-9.21:9-11)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは悪魔のわざに打ち勝ったキリストに加えて、悪魔のわざを打ち倒した召会を得ることを願っておられます。わたしたち召会がキリストに符合して、神の定められた御旨が成就しますように。

 

神が召会に求められることは、あらゆることでキリストと同じであることです

 

 神はアダム「とエバ」の両方を持つことを願望されました(参照、創2:18)。神の目的は、勝利を得たキリストに加えて勝利を得た召会を得ることです。神の目的は、悪魔のわざに打ち勝ったキリストに加えて、悪魔のわざを打ち倒した召会を得ることです。神の目的は、支配するキリストと支配する召会を得ることです。これが、神がご自身の喜びのために計画されたことです。そして、彼はご自身の満足のためにそれを成し遂げられました。……

 

 神はキリストを持とうと願われました。また神はキリストと同じ召会を持とうと願われました。神は、キリストが支配することを願われただけでなく、召会がキリストと共に支配することを願われました。神は地上に悪魔を許されました。なぜなら、彼は「彼らに」、すなわちキリストと召会に、「治めさせよう」と言われたからです[1:26]。神はキリストの配偶者としての召会がサタンを対処することに分を持つことを定められました。もし召会がキリストに符合しないなら、神の定められた御旨は成就しません。戦いにおいて、…… 栄光を得ることにおいても、彼は助け手を必要とされます。神が召会に求められることは、あらゆることでキリストと同じであることです。キリストが助け手を持つことが、神の願いです。(ニー全集、第34巻、「栄光の教会」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り13日

(メモリアルデー特別集会 第2週 第3日)

 

神がまずわたしたちを愛してくださいました

 

Ⅰヨハネ4:21

神を愛する者は、自分の兄弟をも愛すべきです.この戒めを、わたしたちは彼から受けています。

 

Ⅱコリント5:14

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに押し迫っているからです.そこでこう判断しました.ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。

 

「神と彼の民が一になるためには、両者の間に相互の愛がなければなりません。聖書の中で明らかにされている神と彼の民との間の愛は、おもに男女の間の愛情深い愛のようです(ヨハネ14:21,23.エレミヤ2:2.31)。神がまずわたしたちを愛し、彼の愛をわたしたちに注入し、わたしたちの内側で愛を生み出しました。わたしたちはこの愛をもって、神を愛し、兄弟たちを愛します(Ⅰヨハネ4:19-21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神は愛であり、神がまずわたしたちを愛してくださったことを感謝します。日ごとの生活において、神が愛であることの生活を生かし出し、兄弟姉妹を愛し、命を供給することができますように。

 

わたしたちの愛としての神をもって人を愛します

 

 わたしたちは神の種族です。なぜならわたしたちは神から生まれて、神の命と性質を持っているからです(ヨハネ1:12-13)。わたしたちは再生されて神の種族、神の種類となりました。神は愛です。わたしたちは命と性質において神となっているので、愛でもあるべきです。神は愛ですから、神の種族として、わたしたちは愛であるべきです。

 神は、わたしたちが天然の愛をもって愛するのではなく、わたしたちの愛としての神をもって愛することを願われます。神は人をご自身のかたちに創造されました(創1:26)。これは、神が何であるかにしたがって人を創造されたことを意味します。……

 

 聖書の啓示によれば、神の第一の属性は愛です。……創造された人に愛の実際はありませんが、創造された存在の中には人を愛することを願うものがあります。……しかしそれは人の美徳、愛の神聖な属性の表現であるにすぎません。わたしたちが再生されたとき、神は愛としてのご自身をわたしたちに注入されました。わたしたちが神を愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです[Ⅰヨハネ4:8、19]。神がこの愛を開始されました。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(上)、「バイタルグループ」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り12日

(メモリアルデー特別集会 第2週 第2日)

 

新エルサレム[花嫁]は、神の満ち満ちた表現となります

 

啓示録19:7-8

わたしたちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰そう.小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである。彼女は輝く清い細糸の亜麻布の衣を着ることを許された.その細糸の亜麻布の衣は、聖徒たちの義である。

 

「聖霊が歴代にわたって絶えず働くことによって、この時代の終わりにこの目標に到達します。その時、花嫁、すなわち勝利を得た信者たちは用意が整えられており、神の王国が到来します(マタイ26:29.13:43)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちは神の民として、神との愛の関係の中へと入るとき、神の命を受けます。この命がわたしたちを神と一にならせることを感謝します。小羊の婚姻の時が来た時に、わたしたち召会が主の花嫁として用意を整えていることができますように。

 

新エルサレム[花嫁]は、敵を服従させ、地を征服し、神の権威を行使します

 

 創世記第2章において見られる命は、流れる命、造り変える命、建造する命です。この命はわたしたちの内側で流れており、わたしたちを造り変え、最終的にわたしたちをキリストの花嫁として建造します。この花嫁、新エルサレムは、神の定められた御旨の二つの面を成就します。第一に、新エルサレムは、神の満ち満ちたかたちにおける神の満ち満ちた表現となります(啓21:11、参照、4:3)。第二に、この新エルサレムは敵を服従させ、地を征服し、神の権威を行使して全宇宙を、特に這うものを治めます(22:5、21:15、参照、8節、20:10、14-15)。……

 

 こういうわけで、神の定められた御旨は、完全に新エルサレムによって成就されます。それは命の成果、結果、究極的な完成です。わたしたち信者に必要なのは命であり、この命は三一の神ご自身、すなわち御子の中におられる御父、その霊としての御子にほかなりません。どうかわたしたちがみな、この流れる、造り変える、建造する命の享受と経験の中へともたらされて、花嫁として整えられ、キリストの再来をもたらしますように。(リー全集、1969年、第2巻(下)、「聖書の中の命についての重要な啓示」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り11日

(メモリアルデー特別集会 第2週 第1日)

 

キリストの花嫁は、三一の神の建造です

 

創2:22

こうして、エホバ・神は、その人から取ったあばら骨を一人の女に建造し、彼女をその人の所に連れて来られた。

 

啓示録21:2

わたしはまた聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て神から下って来るのを見た。

 

「神の建造は、全聖書の中心的な事柄です。キリストの花嫁は、三一の神の建造です。全聖書は建造の説明書にたとえることができます。聖書における神聖な啓示の開始であるエデンの園に関する啓示と、聖書における神聖な啓示の終わりである新エルサレムに関する啓示は、互いに反映しています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の建造は、全聖書の中心的な事柄です。神聖な命を解き放ったキリストの死の結果である彼の補完としての召会を得られたことを賛美します。わたしたちの全存在をキリストで再構成し、召会が神の栄光を表現するようになりますように。

 

宇宙的な夫である神は、再生された人性と共に永遠に生きます

 

 脇が開かれて、あばら骨を取り出すためのアダムの眠りの結果は、彼が彼に符合する補完としてのエバを得たことでした。これは、キリストの脇が突き刺され、神聖な命を解き放った彼の死の結果が、彼の補完として召会を彼が得られたことであったことを表徴します。これ以後、神はもはや独りではありません。キリストは彼に符合する花嫁を得られました。……

 

 アダムとエバは一つになって、共に生きました。これは、宇宙的な夫である神が、再生された人性と共に永遠に生きられることを描写しました。……永遠において、キリストにある神は、人の生活の中心、実際、命となり、人は命としてのキリストにある神によって生きるでしょう。人は神の栄光を表現し、新しい地で神の権威を行使するでしょう。神と人、人と神は、永遠に結婚生活の中で共に生きるでしょう。(「創世記ライフスタディ(1)」、第17編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り9日

(メモリアルデー特別集会 第1週 第6日)

 

小羊の婚宴に招かれている者は幸いである

 

啓19:9

御使いはわたしに言った、「小羊の婚宴に招かれている者は幸いである、と書き記しなさい」。彼はまたわたしに言った、「これらは神の真実な言である」。

 

マタイ22:2,14

天の王国は、王が自分の息子のために婚宴を用意するようなものである。…… なぜなら、招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないからである。

 

「小羊の婚宴(marriage dinner)は、結婚の婚宴(wedding feast)、すなわち、千年王国であって、それは神の目には一日のようです。それは勝利を得た信者たちにとって褒賞となります(9節.マタイ22:2,11-14.Ⅱペテロ3:8)。キリストの婚宴に招かれるのは幸いなことであり、これは勝利を得た信者たちを、千年期の享受の中へと導き入れます(啓19:9)。召される(招かれる)とは、救いを受けることです(ローマ1:7.Ⅰコリント1:2.エペソ4:1)。選ばれるとは、褒賞を受けることです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストの婚宴に招かれている者は幸いです。主よ、わたしたちが勝利を得た信者たちとなり、小羊の花嫁となりますように。わたしたち召会がこの恵みの時代に主イエスを愛して、千年期の享受の中へと導き入れられますように。

 

勝利を得た信者たちは、千年期の享受の中へと導き入れられます

 

 小羊の花嫁と[啓示録第19章9節にある]小羊の婚宴に招かれている客は、同じグループの人たちを指しています。言い換えれば、キリストの花嫁を構成する人たちは婚宴に招かれている客です。小羊の婚宴は[9節]、マタイによる福音書第22章2節の婚宴です。それは勝利を得た信者たちに対する褒賞となります。……マタイによる福音書第25章8節から13節の五人の愚かな処女はそれを逃します。しかしながら、王国時代に主によって対処された後、彼らは永遠に新エルサレムにあずかります。

 

 このゆえに、キリストの婚宴に招かれることは、勝利を得た信者たちを千年期の享受の中へと導き入れることであり、幸いなことです。小羊の婚宴に招かれた勝利を得た信者たちはまた小羊の花嫁となります。……招かれて婚宴に出席することは、キリストと共に共同の王として千年王国にあずかる特権を持つことです。(「新約の結論(25)」、メッセージ424)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り8日

(メモリアルデー特別集会 第1週 第5日)

 

細糸の亜麻布の衣は、聖徒たちの義である

 

啓19:8

彼女は輝く清い細糸の亜麻布の衣を着ることを許された.その細糸の亜麻布の衣は、聖徒たちの義である。

 

ピリピ3:9

そして、キリストの中に見いだされるためです.それは、律法に基づくわたし自身の義を持つのではなく、キリストにある信仰を通しての義、すなわち、信仰に基づく神からの義を持って、

 

「[啓示録第19章8節で]……「清い」は性質を指しており、「輝く」は表現を指しています。「義(複数)」と訳されたギリシャ語は、「義なる行ない」とも訳すことができます。……わたしたちが救いのために受けた義は客観的であり、わたしたちが義なる神の要求を満たすことができるようにしますが、啓示録第19章8節の勝利を得た聖徒たちの義は主観的であり(ピリピ3:9)、彼らが勝利を得たキリストの要求を満たすことができるようにします」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの救いのための義の衣を感謝します。わたしたちはまた第二の衣を必要とします。主よ、今日の召会生活の中で、勝利を得る命としてのキリストを生かし出して、輝く清い細糸の亜麻布の衣を用意することができますように。

 

第二の衣は、日常生活の中でわたしたちの生かし出されたキリストです

 

 全聖書の啓示によれば、わたしたち救われた者たちは二枚の衣を必要とします。すなわち、一枚はわたしたちの救いのためのものであり、もう一枚はわたしたちの褒賞のためのものです。わたしたちの救いのためには、わたしたちを覆う衣を必要とします。この衣はルカによる福音書第15章で放蕩息子に着せられた衣です。……わたしたちはみなこの第一の衣を持っており、それはわたしたちの義としての、わたしたちの義認としてのキリストであって、わたしたちが義なる神の御前に立つことができるようにします。

 

 しかしながら、わたしたちはまた第二の衣を必要とします。この衣はわたしたちの救いのためではありません。そうではなく、それはわたしたちの褒賞のためであり、わたしたちが神の御子の婚宴に出席するように資格づけます。第一の衣は、わたしたちの救いのために、わたしたちが神と会うように資格づけます。……この第二の衣は、わたしたちの内側での聖霊の働きです。実は、それはキリストであって、わたしたちは彼によって生き、また彼を生かし出します。それは、わたしたちの日常生活の中でわたしたちを通して表現されるキリストです。(「新約の結論(25)」、メッセージ424)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り7日

(メモリアルデー特別集会 第1週 第4日)

 

花嫁の用意は、勝利者の命における円熟にかかっています

 

啓19:7

……小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えた……

 

ヘブル6:1

こういうわけで、キリストの初歩的な言を後にして、再び基礎を据えることをしないで、円熟にもたらされようではありませんか.……

 

「彼の妻は用意を整えた」(啓19:7後)。「彼の妻」は召会(エペソ5:24-25、31-32)、キリストの花嫁(ヨハネ3:29)を指しています。啓示録第19章8節から9節によれば、妻(キリストの花嫁)は、千年期の間の勝利を得た信者たちだけから成っています。花嫁の用意は、勝利者の命における円熟にかかっています(19:7.ヘブル6:1.ピリピ3:12-15.エペソ4:13)。勝利者は、命において円熟しているだけでなく、一人の花嫁として共に建造されています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 花嫁の用意は、勝利者の命における円熟にかかっています。主よ、わたしたち召会が思慮深い処女たちとして、器に十分な油を持つことができますように。また、召会生活の中で建造されて、花嫁の用意を整えることができますように。

 

勝利者は、命において円熟しており、一人の花嫁として共に建造されています

 

 わたしたちは「彼の妻は用意を整えた」という句に注意を払う必要があります。マタイによる福音書第25章1節から13節は十人の処女のたとえについて語っています。このたとえにおいて、器に油を持っていた思慮深い処女たち、すなわち神の霊が彼女たちの魂を満たし、充満している者たちは「用意のできた」者たちであったので、小羊の再来の時、花婿と共に「婚宴の」中へと入り(10節)、小羊の婚宴の享受の中へと入ります。これが示しているのは、何世紀にもわたる神の働きがご自身を人の中へと建造することであるということです。……

 

 彼はご自身をわたしたちの中へと建造するとき、神の性質と天の要素をわたしたちの中へと構成されます。彼にご自身をわたしたちの中へと造り込んでいただけばいただくほど、わたしたちはますます神の要素と天の要素をわたしたちの中に持ちます。……わたしたちが聖霊に服従し、神にご自身をわたしたちの中へと造り込んでいただくとき、わたしたちの内側に神の臨在と天の味わいを持ちます。……花嫁が用意を整えたとは、召会が完全に建造されたことであり、成長して円熟へと至ったことを意味します。(「新約の結論(25)」、メッセージ424)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り6日

(メモリアルデー特別集会 第1週 第3日)

 

花嫁を持つ者は花婿である

 

啓19:7

わたしたちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰そう.小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである。

 

ヨハネ3:29

花嫁を持つ者は花婿である.花婿の友は立って花婿の声を聞き、その声のゆえに喜び歓喜する。こうして、わたしはこの喜びに満たされている。

 

「ヨハネは彼の福音書の開始において、小羊と花婿について語っており、啓示録においては、小羊の婚姻の時が来たと言っています(ヨハネ1:29.3:29)。「彼の妻は用意を整えた」(啓19:7後)。「彼の妻」は召会(エペソ5:24-25、31-32)、キリストの花嫁(ヨハネ3:29)を指しています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストは世の人の罪を取り除く小羊であり、また花嫁を持つために来られた花婿です。今、わたしたちは地上で花嫁となって主に会うための用意をしています。わたしたちが団体の花嫁となるために、三一の神で浸透され、円熟へと至ることができますように。

 

小羊は贖いのためであり、花婿は婚宴のためです

 

 啓示録第19章7節から9節は、主イエスが花婿としての小羊であることを明らかにしています。同じように、ヨハネによる福音書において、キリストは小羊と花婿の両方として提示されています。ある日、バプテスマのヨハネは宣言しました、「見よ、世の人の罪を取り除く神の小羊!」(1:29)。この節は、キリストが世の人の罪を取り除く小羊として来られたと、はっきり啓示しています。後にバプテスマのヨハネもキリストが花婿であることを示しました[3:29]。……

 

 このゆえに、ヨハネによる福音書において、キリストは罪を取り除くために来られた小羊と、花嫁を持つために来られた花婿の両方として啓示されています。……小羊は贖いのためであり、花婿は婚宴のためです。贖いは神の小羊としてのキリストによって達成されました。そして婚姻は、キリストが来たるべき花婿として彼の花嫁をめとる時に起こります。……キリストの目標は、罪を取り除くことではありません。それは花嫁を持つことです。(「新約の結論(25)」、メッセージ424)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り5日

(メモリアルデー特別集会 第1週 第2日)

 

小羊の婚姻は、神の新約エコノミーの完成の結果です

 

啓21:2,9-10

わたしはまた聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て神から下って来るのを見た。 ……「ここに来なさい.あなたに小羊の妻である花嫁を見せよう」。そして彼はわたしを霊の中で、大きな高い山へ連れて行き、聖なる都エルサレムが、天から出て神から下って来るのをわたしに見せたが。

 

「小羊の婚姻は、神の新約エコノミーの完成の結果です。神の新約エコノミーとは、彼の法理的な贖いを通して、また彼の神聖な命における有機的な救いによって、キリストのために花嫁、すなわち、召会を得ることです(創2:22.ローマ5:10.啓19:7-9.21:2,9-11)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの花婿であるキリストを賛美します。神の法理的な贖いと、彼の神聖な命における有機的な救いによって、わたしたちが夫のために着飾った花嫁のように整えられますように。

 

全聖書の究極的完成は、この宇宙的な夫婦です

 

 福音書は、わたしたちの救い主としてのキリストの完全な記録を与えています。しかしながら、あなたはかつて、四福音書はまたキリストが花婿として来られたことも告げていることに、気づいたことがあるでしょうか(マタイ9:15.マルコ2:19.ルカ5:34.ヨハネ3:29)? 彼は彼の花嫁のために来られたのです。バプテスマのヨハネの弟子たちが、多くの人がヨハネを捨てて主イエスに従って行くのを見た時、ヨハネは彼らに、当惑しないように、キリストは花婿であり、すべての増し加わりは彼に属すると言いました(30節)。……花嫁はキリストの増し加わりです。

 

 書簡では、キリストと召会が、夫と妻として描かれています(エペソ5:25-32.Ⅱコリント11:2)。……わたしたちは書簡の中に何が啓示されているかを知るなら、キリストがわたしたちの夫として啓示され、信者は彼の配偶者、彼の妻として啓示されているのを見るでしょう。……啓示録第19章では、キリストが婚宴を享受されることを見て、第21章では、新エルサレムが彼の妻になることを見ます。……全聖書の究極的完成が、この宇宙的な夫婦――夫と妻であることを見ます。(「ローマ人への手紙ライフスタディ(1)」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り4日

(メモリアルデー特別集会 第1週 第1日)

 

聖書は宇宙的な夫婦の神聖なロマンスです

 

マタイ25:6

真夜中に、「見よ、花婿だ! 彼を迎えに出よ!」と叫ぶ声がした。

 

Ⅱコリント11:2

わたしは神のねたみをもって、あなたがたをねたんでいます.なぜなら、あなたがたを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです。

 

 「最も純粋で、最も聖なる意味で、聖書は宇宙的な夫婦のロマンスです。すなわち、神はキリストの中で花婿であり、神の贖われた人は花嫁です(ヨハネ3:29.マタイ25:6.啓19:7.21:2.22:17)。神は何世紀にもわたって、人とのロマンスを持ってきました。神が人を創造した目的は、配偶者を持つことでした(創1:26)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。聖書は宇宙的な夫婦のロマンスであることを感謝します。キリストは花婿であり、神の贖われた人は花嫁です。日常生活の中で、わたしたちの全存在を主の上に置き、主を愛することができますように。 

 

わたしたちは主を信じるだけでなく、主を愛することが必要です

 

 コリント人への第一の手紙第2章9節でパウロは言います、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を愛する者たちのために備えてくださった」。神がわたしたちのために定め、備えられた深く隠された事柄を認識し、それにあずかるために、わたしたちは彼を信じるだけでなく、彼を愛することが必要です。神を畏れ、神を礼拝し、神を信じる(すなわち神を受け入れる)ことだけでは不十分です。彼を愛することが、不可欠の条件です。神を愛するとは、わたしたちの全存在――霊、魂、体を、心、魂、思い、力と共に(マルコ12:30)――完全に彼の上に置くことを意味します。

 

 これは、わたしたちの全存在を彼に占有していただき、わたしたちの全存在が彼の中で失われることです。その結果、彼がわたしたちのすべてとなられ、わたしたちは日常生活の中で、実際的に彼と一になります。このようにして、わたしたちは神と最も近く、最も親密な交わりを持ちます。そして、わたしたちは神のみこころの中に入って、心の秘密をすべて理解することができます(詩73:25.25:14)。こうして、神のこれらの深く隠された事柄を認識し、経験し、享受し、十分にあずかるのです。(「コリント人への第一の手紙ライフスタディ(1)、第16編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り2日

(国際長老責任者訓練 メッセージ6 第6日)

 

あなたがたを神と、神の恵みの言にゆだねます

 

使徒15:40

しかし、パウロはシラスを選び、兄弟たちによって主の恵みにゆだねられて出発した。

 

使徒 20:32

今わたしは、あなたがたを神と、神の恵みの言にゆだねます.その言はあなたがたを建造し、また聖別されたすべての人の間で、あなたがたに嗣業を与えることができます。

 

「パウロは主の恵みにゆだねられていました。パウロが兄弟たちによって主の恵みにゆだねられたという事実は、彼が正しい道を取っていたことを示しています。神のあふれるばかりの恵みの言は、聖徒たちを建造することができます。神の恵みの言は機能して、聖別されたすべての人の間で、わたしたちに嗣業を与えます。神の嗣業にあずかるために、わたしたちは聖別される必要があり、聖別されるためには、神の恵みの言を必要とします」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の満ちあふれる恵みの言を感謝します。わたしたちが神聖な命において成長し、神の恵みの言によって聖別されますように。そして、神の嗣業にあずかることができますように。

 

神のあふれるばかりの恵みの言は、聖徒たちを建造します

 

 使徒行伝第20章32節でわたしたちは、神の恵みの言の機能を見ます。第一に、この言は聖徒たちを建造することができます。聖徒たちを建造することは、神聖な命における成長を必要とし、神聖な命における成長は、神聖な要素の養いと神聖な知識による啓発と装備を必要とします。このすべては、神の満ちあふれる恵みの言によってのみ、なすことができます。恵みとは、肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天のすべての手順を経て、聖徒たちに享受として与えられた三一の神ご自身です。

 

 第二に、神の恵みの言葉は機能して、わたしたちに「聖別されたすべての人の間で……嗣業」を与えます。神聖な嗣業とは三一の神ご自身であって、彼の贖われた人々のために、彼が持っているすべて、彼が行なったすべて、彼が行なおうとしているすべてを伴っています。この三一の神はすべてを含むキリストの中に具体化され(コロサイ2:9)、キリストは聖徒たちに彼らの嗣業として割り当てられています(コロサイ1:12)。聖徒たちに与えられた聖霊は、この神聖な嗣業の前味わい、保証、手付金です(ローマ8:23.エペソ1:14)。(「使徒行伝ライフスタディ(2)」、第55編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り1日

(国際長老責任者訓練 メッセージ6 第5日)

 

主は彼の恵みの言を証しされました

 

使徒14:3

それでも、彼らはかなりの期間とどまって、主にあって大胆に語っていた.主は……彼の恵みの言を証しされた。

 

使徒 26

そして、そこからアンテオケに船で渡った.そこは、彼らが成し終えた働きのために、神の恵みにゆだねられて送り出された地であった。

 

「わたしたちは、3節にある「彼の恵みの言」という表現の意義を見る必要があります。「彼の恵みの言」という句は、ある時代に関する特定の点を示しています。主の恵みの言は、律法に置き換わります。パウロを動機づけ、彼の中で活動していた恵みは、生けるパースン、復活したキリスト、父なる神の具体化であり、すべてを含む命を与える霊と成って、彼のすべてとして彼の中に住んでいました(Ⅰコリント15:10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。律法に置き換わった主の恵みの言を感謝します。主よ、あなたはすべてを含む命を与える霊と成って、わたしたちの中に住んでおられます。わたしたちの中のこの恵みを、生けるパースン、復活したキリストとして、日ごとの生活において経験し、享受することができますように。

 

この恵みによって、パウロはすべての使徒よりも多く労苦しました

 

 [使徒行伝第14章26節で述べられた]この恵みとは、復活したキリストが命を与える霊と成って(Ⅰコリント15:45)、復活における手順を経た三一の神をわたしたちの中へともたらし、わたしたちの命と命の供給となって、わたしたちが復活の中で生きるようにすることです。ですから、恵みとは、わたしたちの命またすべてとなられる三一の神です。

 

 この恵みによって、罪人のかしらであるタルソのサウロは(Ⅰテモテ1:15-16)最も前面の使徒となって、すべての使徒よりも多く労苦しました(Ⅰコリント15:10)。この恵みによる彼の務めと生活が、キリストの復活にとって否定することができない証しでした。彼を動機づけ、彼の中で活動した恵みは、……それは生けるパースン、復活したキリスト、父なる神の具体化であり、すべてを含む命を与える霊と成って、彼のすべてとして使徒の中に住んでおられました。(「使徒行伝ライフスタディ(2)」、第40編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り31日

(国際長老責任者訓練 メッセージ6 第4日)

 

大いなる恵みが、すべての者の上にありました

 

使徒4:33

使徒たちは大いなる力をもって、主イエスの復活の証しをした.そして、大いなる恵みがすべての者の上にあった。

 

使徒 11:23

……[バルナバ]は到着した時、神の恵みを見て喜んだ.そして、心に決意して主にとどまるようにと、彼らをみな励ました.

 

「わたしたちは、「大いなる恵みがすべての者の上にあった」という句を高く評価します。この事は、ペンテコステの時に起こりました。何千人もの人々が主にもたらさていました(使2:41.4:4)。この恵みは、行動する、確信させる、服従させる、解放する、引き上げる、超越している生けるイエスにほかなりませんでした。わたしたちは神の恵みを受けているので、今その中にとどまる必要があります」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。大いなる恵みがすべての者の上にあったことを感謝します。恵みとは、わたしたちの命またすべてになっておられる三一の神です。わたしたちは神の恵みを受けています。今日、その中にとどまらせてください。

 

神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられます

 

 ペテロの第一の手紙第5章5節は言います、「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」。わたしたちはへりくだっており、高ぶらないことを学ばなければなりません。もしわたしたちが高ぶるなら、神はわたしたちを拒絶されます。わたしたちがへりくだるなら、神はわたしたちに恵みを与えられます。(リー全集、1994年-1997年、第1巻(下)、「ローマ人への手紙における結晶の学び」、第21、24編)

 

 恵みとは、わたしたちにとって命またすべてになっておられる三一の神です。バルナバが見た恵みは、信者たちが受け入れ、享受された三一の神に違いなく、彼らの救いにおいて、命の変化において、聖なる生活において、彼らの集会の中で活用された賜物において表現されました。人はそれらをすべて見ることができました。バルナバは「心に決意して主にとどまるようにと」信者たちを励ましました[使徒11:23]。とどまることは、持続的に主に対して忠信であり、彼に忠実であり、彼との緊密な交わりの中に生きることです。(「使徒行伝ライフスタディ(1)」、第33編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り30日

(国際長老責任者訓練 メッセージ6 第3日)

 

神にゆだねられた神の恵みの執事職を遂行します

 

エペソ3:2

あなたがたのために、わたしに与えられた神の恵みの執事職について、あなたがたは確かに聞いていることでしょう。

 

エペソ4:29

腐敗した言をあなたがたの口から出すことなく、必要に応じて、建造するのに良い言だけを語り、聞く人たちに恵みを与えるようにしなさい。

 

「主の十分な恵み、キリストの覆う力が、わたしたちの弱さにおいて完全に現れることを経験します(Ⅱコリント12:9)。苦しみを受けた後、神のあらゆる恵みによって、成就され、堅固にされ、力づけられ、土台づけられます(Ⅰペテロ5:10)。神によってゆだねられた神の恵みの執事職を遂行します。すなわち、キリストの豊富を神の恵みとして人々に分与します(エペソ3:2,8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの弱さにおいて完全に現れる十分な恵みを感謝します。今日、恵みを経験させてください。わたしたちの生活において、建造するための言葉を語り、恵みを人々に与えることができますように。

 

主の十分な恵み、キリストの覆う力は、わたしたちの弱さにおいて完全に現されます

 

 信者が神のエコノミーの中で恵みを経験することは、主の十分な恵み、キリストの覆う力が、わたしたちの弱さにおいて完全に現れることを経験することです(Ⅱコリント12:9)。……人が弱くて何もすることができないとき、主は来て彼のためにすべての事を行なわれます。人は強いとき、他の人を必要としません。……あなたが強いとき、主はあなたのために何を行なう立場もなく、何もすることができません。このゆえに、あなたは安息を享受することができないのです。あなたが弱いとき、主は直ちにあなたのために事を行なう立場を持たれ、行なうことができます。主があなたのためにすべてのことを行なわれるとき、あなたは主をあなたの安息として享受します。……

 

 わたしたちが神のエコノミーの中で恵みを経験することは、わたしたちが苦しみを受けた後、神のあらゆる恵みによって、成就され、堅固にされ、力づけられ、土台づけられるということです(Ⅰペテロ5:10)。 わたしたちは神のエコノミーの中で恵みを経験することにおいて、神によってゆだねられた神の恵みの執事職を遂行します。すなわち、キリストの豊富を神の恵みとして、彼の選ばれた人々に分与して、召会を生み出し建造します(エペソ3:2,8)。(「神のエコノミーにおける神の律法と恵み」、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り29日

(国際長老責任者訓練 メッセージ6 第2日)

 

主の際限なく満ちあふれる恵みを通して、信仰と愛を持ちます

 

Ⅰテモテ1:14

そして、わたしたちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛を伴って、際限なく満ちあふれるようになりました。

 

Ⅱコリント9:8

そして神は、すべての恵みをあなたがたに満ちあふれさせることができます.それはあなたがたが、あらゆることでいつも十分に満ち足りて、あらゆる良いわざに満ちあふれるためです。

 

「わたしたちはキリストにある信者として、新約に啓示されているように、主の恵みを経験する必要があります。主の際限なく満ちあふれる恵みを通して信仰と愛を持っています(Ⅰテモテ1:14)。恵みの中で、永遠の慰めと良い望みを享受します(Ⅱテサロニケ2:16)。時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に、恵みの御座に進み出ます(ヘブル4:16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 新約に啓示されている主の恵みが、際限なく満ちあふれる恵みであることを感謝します。わたしたちが時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、恵みの御座に進み出ることができますように。そして、神の増し加わる恵みを絶えず享受させてください。

 

大胆に、恵みの御座に進み出ます

 

 恵みはキリストです。クリスチャンの霊的経験のすべては、恵みとしてのキリストを経験することであるべきです。神のエコノミーの中で恵みを経験することで、まずわたしたちは主の際限なく満ちあふれる恵みを通して信仰と愛を持っています(Ⅰテモテ1:14)。……信仰と愛は主の恵みの産物です。信仰を通して主を受け入れ、わたしたちは愛を通して受け入れた主を享受します。……

 

 さらに、信者たちは神のエコノミーの中で恵みを経験することにおいて、時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に、恵みの御座に進み出ます(ヘブル4:16)。天の御座に座しておられるキリストはまた今や神の住まいがあるわたしたちの霊の中におられます(エペソ2:22)。今日わたしたちの霊は神の住まいの場所であるので、わたしたちが霊に戻るときはいつでも、天の御座に触れ、この御座はわたしたちにとって恵みの御座です。わたしたちは恵みの御座に進み出るとき、時機を得た助けとなる恵みとしてのキリストを得ます。(「神のエコノミーにおける神の律法と恵み」、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り28日

(国際長老責任者訓練 メッセージ6 第1日)

 

使徒行伝における恵みを享受します

 

エペソ2:7

それは神が、キリスト・イエスの中で、わたしたちに対する慈愛の中の彼の恵みの卓越した豊富を、来たるべき時代において展覧するためでした。

 

Ⅰコリント15:10

しかし、神の恵みによって、今のわたしがあるのです.そしてわたしに対する神の恵みは、無駄にはなりませんでした.それどころか、わたしは彼らのだれよりも多く労苦してきました.しかし、それはわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです。

 

「わたしたちは神の恵みを認識し、経験し、享受する必要があります(エペソ2:7)。新約によれば、恵みとは実は、わたしたちの享受のために、神がわたしたちにとって何であるかです(ヨハネ1:16-17.Ⅱコリント12:9。Ⅰコリント15:10)。恵みはイエス・キリストを通して来ました(ヨハネ1:17)。この事は、恵みがパースンであることを示しています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちに対する慈愛の中の神の恵みを感謝します。恵みはイエス・キリストを通して来ました。 パウロにとって、恵みとは生けるパースンでした。わたしたちの召会生活の中で、わたしたちと共にある神の恵みを享受することができますように。

 

神の恵みは、極めて重要な意義のある事柄です

 

 新約によれば、恵みとは実は、わたしたちの享受のために、神がわたしたちにとって何であるかです(ヨハネ1:16-17.Ⅱコリント12:9)。……恵みとは、おもに神がわたしたちのために行なう働きではありません。恵みとは、三一の神ご自身がわたしたちの存在の中へと分与され、わたしたちによって経験されて、わたしたちの享受となることです。簡潔に言って、恵みとは、三一の神がわたしたちによって経験され、享受されることです。

 

 ヨハネによる福音書第1章17節は、恵みはイエス・キリストを通して来たと言います。……恵みがパースンとなったものが神ご自身です。パウロはこの事を、次のように言ったときに認識していました、「それはわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです」(Ⅰコリント15:10)。パウロにとって、恵みとは生けるパースンでした。パウロの中で、このパースンが恵みそのものとなり、彼はこの恵みによって労苦しました。(「新約の結論(1)」、メッセージ10)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り26日

(国際長老責任者訓練 メッセージ2 第6日)

 

一つ思いであることができるのは、時代のビジョンを持っているからです

 

箴29:18

ビジョンがない所では、民は勝手に振る舞う……

 

使徒26:19

こういうわけで、アグリッパ王よ、わたしは天のビジョンに背かず。

 

「今日わたしたちが一つ思いであることができるのは、一つのすべてを含むビジョン、すなわち、時代のビジョンを持っているからです(箴29:18前半.使徒26:19)。主がご自身の回復に与えているビジョンは、すべてを含むビジョン、すなわち、聖書におけるすべてのビジョンの究極的完成です(啓21:2,10-11)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちにすべてを含むビジョン、時代のビジョンを与えてください。自己とこの世から完全に救い出されて、一つ思いで働くために、十字架につけられ、復活し、昇天したキリストのビジョンを見させてください。 

 

百二十人の弟子たちは、一つ思いでひたすら祈り続けていました

 

 ペンテコステの日に、その霊が注ぎ出されたのは、百二十人の弟子たちが、「婦人たち、イエスの母マリア、イエスの兄弟たちと共に、一つ思いでひたすら祈り続けていた」からです(使徒1:14)。もしこれらの弟子たちが一つ思いで祈っていなければ、その霊が注ぎ出されることはなかったでしょう。彼の三年半の地上での務めをとおして、主イエスは大勢の人々の上で労苦しました。しかしながら、ペンテコステの時までに、主が得たのは百二十人の弟子たちだけでしたが、彼らは彼に対して絶対的でした(13-15節)。

 

 百二十人の弟子たちはうまずたゆまず祈ることができました。なぜなら、彼らは、十字架につけられ、復活し、昇天したキリストのビジョンを見たからです。彼らは主イエスがゴルゴタで十字架につけられるのを見ました(ヨハネ19:17-18)。彼の十字架と葬りの後、弟子たちは失望しましたが、復活したキリストとしての彼のビジョンを見ました。(リー全集、1993年、第1巻、「Southern California Elders' and Co-workers' Meetings(南カリフォルニアの長老と同労者の集会)」、第13編[英文])

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り25日

(国際長老責任者訓練 メッセージ2 第5日)

 

一つ思いとなるために、一つの心と一つの道を持つ必要があります

 

Ⅰコリント1:10

さて兄弟たちよ、わたしは……あなたがたに懇願します.どうか、あなたがたがみな同じ事を語り、あなたがたの間に分裂がなく、同じ思いの中で、また同じ意見の中で調和されますように。

 

ローマ15:5-6

どうか忍耐と励ましの神が、キリスト・イエスにしたがって、互いに対する同じ思いを、あなたがたに与えてくださいますように.それは、あなたがたが一つ思いをもって、一つの口で、わたしたちの主イエス・キリストの神また父に栄光を帰すためです。

 

「わたしたちは一つ思いとなるために、一つの心と一つの道を持つ必要があります(エレミヤ32:39.使徒1:14.2:46.4:24)。信者たちは一つの心を持つべきです。それは神を愛し、神を求め、神を生き、神で構成されて、神の表現となるという心です。また一つの道を持つべきです。それは、内なる命の法則またその神聖な能力としての三一の神ご自身です(マルコ12:30.Ⅱコリント13:14.エペソ3:16-17.エレミヤ31:33-34.ヨハネ14:6前半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが一つ思いとなるために、一つの心と一つの道を持つことができますように。神を愛し、神を求め、神を生き、神で構成されて、神の表現となるという心を持って、一つの道を歩むことができますように。

 

「一つ思い」は、同じ事を語ること、同じ事を考え、同じ事を思うことです

 

 新約で啓示されている一つ思いは大きな事柄です。こういうわけでパウロはローマの聖徒たちに、一つ思いであることを顧みなければならないことを示したのです(ローマ15:5-6)。コリントに在る召会には多くの問題がありましたが、このすべての問題の真の要因は異議でした。ある人は、自分はパウロにつくと言い、パウロを称賛しました。他の人は、自分はアポロにつくと言い、おそらくアポロの聖書の教える方法を称賛したでしょう。また他の人はケパ、あるいはペテロを称賛しました(Ⅰコリント1:12)。これは不和であり、異議です。…… 

 

 パウロはコリント人への第一と第二の手紙で「一つ思い」という言葉を用いませんでしたが、同じ事を語ることを強調しました。…… わたしたちはみな、「わたしはキリストにつく」と言わなければなりません。……パウロはまたコリントに在る召会への第二の手紙で、「同じ事を考え」るようにと命じました(13:11)。同様に、ピリピ人への手紙で、パウロは同じ事を思うようにと聖徒たちに命じました(2:2、4:2)。(「長老訓練、第7巻:主の動きのための一つ心」、第1章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り24日

(国際長老責任者訓練 メッセージ2 第4日)

 

一つ思い(one accord)であるとは、わたしたちの全存在において一であることです

 

ピリピ1:27

ただ、キリストの福音にふさわしく振る舞いなさい.……あなたがたが一つ霊の中でしっかりと立ち、一つ魂をもって、福音の信仰と共に奮闘しており。

 

ピリピ2:2

どうかあなたがたは同じ事を思い、同じ愛を持ち、魂において結合され、一つの事を思って、わたしの喜びが満ちるようにしてください。

 

「わたしたちは一つ思いを実行するとき、一つ霊の中で、一つ魂をもっている必要があります(ピリピ1:27.2:2,5.4:2)。わたしたちは同じ思いの中で、また同じ意見の中で調和されるべきです。これは、わたしたちの魂の中で一であることです(Ⅰコリント1:10.ピリピ1:27.2:2,5.4:2)。一つ思い(one accord)であるとは、わたしたちの全存在において一であることです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちに一つ思いを実行することを学ばせてください。日常生活において、キリストをわたしたちの中心またすべてとすることができますように。わたしたちが同じ事を思い、同じ愛を持ち、魂において結合され、一つの事を思っていることができますように。

 

召会の中の一つ思いは、からだの真の一を実行することです

 

 召会の中の正当な一つ思いは、からだの真の一を実行することです。主は……一のために祈る前、……弟子たちを訓練して一つ思いを実行させられました。……わたしたちは一つ思いを実行するとき、一つ霊の中で、一つ魂をもっていることを学ばなければなりません(ピリピ1:27)。わたしたちは同じ部屋に体をもって共に座っていても、もしわたしたちの霊の中で一でないなら、確かに魂の中で一ではありません。一つ思いを実行するためには、わたしたちの霊に戻り、霊をもって魂の中に入り、一つ思いとなることを学ばなければなりません。

 

 一つ思いを実行するために、わたしたちは同じ思いの中で、また同じ意見の中で調和されなければなりません(Ⅰコリント1:10)。……わたしたちの思いの中の考えが語ることによって表現されるとき、それはわたしたちの意見となります。……考え方の違いが意見として表明されるとき、それらは問題をひき起こすでしょう。(「長老訓練、第10巻:長老職と神の定められた道(2)」、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り23日

(国際長老責任者訓練 メッセージ2 第3日)

 

一つ思いは、使徒たちの教えにしたがっています

 

使徒2:42,46

そして、彼らは使徒たちの教えと交わりを堅く持ち続け、パンをさくことと祈りを堅く持ち続けた。…… また日ごとに、一つ思いで宮に堅く居続け、家から家でパンをさき、歓喜して純真な心で食物にあずかり、

 

 「一の実行、すなわち一つ思いは、使徒たちの教えにしたがっています(使徒2:42,46)。信者たちの間に一つ思いがありました。一つ思いにある者たちは、使徒たちの教えを堅く持ち続けました(使徒2:42)。使徒たちはすべての場所とすべての召会で、すべての聖徒たちに同じ事を教えました。  使徒たちの教えは、一つ思いを保持する要因です(使徒2:42,46)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。使徒たちの教えと交わりを感謝します。わたしたちが日ごとに一つ思いの中で、召会生活を持ち続けることができますように。一つ思いとなって、キリストが求める一を維持して、神の祝福と恵みにあずかることができますように。

 

兄弟たちが和合して住んでいるのは、ヘルモンの露がシオンの山々に下って来るようだ

 

 いかなる種類の社会、団体、運動においても、一つ思いを持つことを期待するなら、同じ種類の認識から出てくる同じ種類の考えを必要とします。……一つ思いがなければ、いかなる政党も何も達成することはできません。どの社会、団体、運動も、同じ種類の思想、同じ種類の認識から出てくる一つ思いを必要とします。ですから、使徒行伝は、一方で、弟子たちの間に一つ思いがあり、もう一方で、一つ思いの中にある人たちはみな、使徒たちの教えを持ち続けたと告げているのです(2:42)。使徒たちの教えが、一つ思いを保持する要因でした。もし一つ以上の教えがあるなら、それは一つ思いを保持する要因を破壊するでしょう。(「長老訓練、第7巻:主の動きのための一つ心」、第8章)

 

 わたしたちは一つ思いとなって、キリストが求める一を維持しなければなりません。神の祝福と恵みは、一つ思いの状態の上にのみ臨むことを、わたしたちは十分に認識しなければなりません。この状態は一を実行することです。旧約で、詩篇第133篇は言います、「見よ、何とすばらしく、何と喜ばしいことであろう.兄弟たちが和合して住んでいる!それは、……また、ヘルモンの露がシオンの山々に下って来るようだ。まことに、エホバはそこに祝福を命じられた.すなわち命を永遠まで」。神は一つ思い、すなわち、一を実行することにのみ、恵みと祝福を与えられます。(「主の切望にしたがった一と一つ心、そして彼の喜びにしたがったからだの生活と奉仕」、第1章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り22日

(国際長老責任者訓練 メッセージ2 第2日)

 

一つ思いは、新約におけるあらゆる祝福のマスターキーです

 

マタイ18:19

また、まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたのうちの二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致するなら、それは天におられるわたしの父によって成就される。

 

「一つ思いは、新約におけるあらゆる祝福のマスターキーです(エペソ1:3.詩第133篇)。一つ思いは、わたしたちの内なる存在における、わたしたちの思いと意志における調和を指しています(使徒1:14)。わたしたちは、わたしたちの魂と心との周りと内側で、同じ思いと同じ意志の中で、同じ目的を持つべきです。百二十人が一つ思いにあったことは、彼らの全存在が一であったということを意味します(14節)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。一つ思いは、あらゆる祝福のマスターキーであることを感謝します。わたしたちがどんな事でも一つ思いとなり、地上で調和一致して祈ることができますように。そして、天におられる父によって成就されることを経験することができますように。

 

わたしたちが一つ思いを持つとき、神の目に神にとってメロディーとなります

 

 一つ思いは、「すべての部屋を開くマスターキー」、新約におけるあらゆる祝福のマスターキーです。こういうわけでパウロはユウオデヤとスントケに、この一つ思いが必要であると告げたのです(ピリピ4:2)。パウロはこの姉妹たちが主を愛していたのに、一つ思いを失っていたことを知っていました。……

    

 マタイによる福音書第18章19節で、ギリシャ語の「シィムフォネオ(sumphoneo)」が、一つ思いを表徴するのに用いられています。この言葉は、「調和する、あるいは一致する」を意味し、楽器や人の声の調和ある音を指しています。……わたしたちは一つ思いを持つとき、神の目に神にとってメロディーとなります。わたしたちは、書くことにおける詩となるだけでなく、音における、声における、メロディーにおける詩となります。…… 使徒行伝で福音が衝撃力として広がっていく三つの主要な要因は、祈り、その霊、御言です。聖書によれば、また歴史によれば、この三つの項目は、福音が優勢になる唯一の道です。一つ思いは、祈り、その霊、御言のかぎであり、命脈です。(「長老訓練、第7巻:主の動きのための一つ心」、第8章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り21日

(国際長老責任者訓練 メッセージ2 第1日)

 

召会における真の一つ思いは、からだの一を実行することです

 

エペソ4:4-6

一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの一つ望みの中で召されたようにです.一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ.すべてのものの神また父は一つ、この方はすべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです。

 

「召会における真の一つ思いは、からだの一を実行することであり、からだの一はその霊の一です(エペソ4:3-6)。召会の中で真に一つ思いを実行することは、一を適用することです。一が実行されるとき、それは一つ思いとなります(使徒1:14.2:46)。福音書と使徒行伝を分ける境界石は、百二十人の間の一つ思いです(使徒1:14)。彼らはからだの中で一となっていました。そしてその一の中で、一つ思いでひたすら祈り続けていました(エペソ4:3-6.使徒1:14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。一つからだと一つ霊を感謝します。主よ、わたしたちが召会の中で一つ思いを持って、わたしたちの間のすべての違いを飲み尽くすことができますように。そしてからだの中で一となり、一つ思いでひたすら祈り続けることができますように。

 

召会の中で真に一つ思いを実行することは、一を適用することです

 

 厳密に言って、真の一は召会の事柄ではなく、からだの事柄です。それは、からだ自身の有機的な一です。エペソ人への手紙第4章4節で、パウロはその霊の一を保つようにと述べた後、「一つ召会と一つ霊」と言わずに、「一つからだと一つ霊」と言いました。召会は、さまざまな地方の諸召会のように複数になるかもしれませんが、からだは決して複数形にはなり得ません。それを地方的に見たとしても、宇宙的に見たとしても、からだは一つです。それとは対照的に、召会は宇宙的には一つですが、地方的には多いのです。

 

 からだの中で、わたしたちは一を必要とします。諸召会の中で、また諸召会の間で、わたしたちには一つ思いが必要です。一つ思いは、わたしたちの実行のためです。一は、おもに実際のためであり、事実のためです。ヨハネによる福音書第17章で、主イエスはそのような事実のために祈られました。そしてペンテコステの日に、究極的に完成された霊としてご自身を注ぎ出すことによって、彼はその祈りを達成されました。……一の実際が達成された後には、一の実行が必要です。……一つ思いとは一を実行することです。(「長老訓練、第10巻:長老職と神の定められた道(2)」、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り19日

(国際長老責任者訓練 メッセージ1 第6日)

 

パウロの四回目の務めの行程は、逆境の中でキリストを大きく表現する生活でした

 

ピリピ1:19-21

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです.そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。

 

「パウロの四回目の務めの行程は(使徒第27章―第28章)、特別な方法で彼の生活、すなわち彼がキリストを生き、キリストを大きく表現し、キリストの中でいっさいの事柄を行ない、キリストを追い求めて、キリストの中に見いだされるという生活を見せています(ピリピ1:19-21前半.3:8-9,14.4:13)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。兄弟姉妹の祈りと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を感謝します。パウロのように、わたしたちも十字架につけられ、復活し、高く上げられたキリストを追い求めて、生ける証し人となることができますように。

 

パウロは監禁された航海の間中、すばらしい、卓越した、奥義的な神・人でした

 

 嵐の海で、主はすでに使徒を、同船の仲間たちを所有する者としただけでなく……彼らの命を保証する者、彼らを慰める者ともされました(使徒27:22-25)。……使徒の長い、不幸な、監禁された航海の間中、主は使徒を主の超越性の中に保ち、思い煩いの領域をはるかに超えた生活をすることができるようにされました。この生活は、完全に威厳があり、最高水準の人性の美徳を伴っており、最も卓越した神聖な属性を表現しました。それは、何年も前に、主ご自身が地上で生きられたような生活でした。

 

 これは、神性によって豊かにされた人性の中で、再び地上で生きられたイエスでした! これは、すばらしい、卓越した、奥義的な神・人であり、彼は福音書の中で生き、彼の多くの肢体の一人を通して、使徒行伝の中で生き続けられました! これが、肉体と成り、十字架につけられ、復活し、神が高く上げたキリストの生ける証し人でした! パウロはその航海中、キリストを生きて、大きく表現しました。(「使徒行伝ライフスタディ(2)」、第71編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り18日

(国際長老責任者訓練 メッセージ1 第5日)

 

パウロはキリストを生きてキリストを大きく表現し、キリストの継続となりました

 

ピリピ3:9

そして、キリストの中に見いだされるためです.それは、律法に基づくわたし自身の義を持つのではなく、キリストにある信仰を通しての義、すなわち、信仰に基づく神からの義を持って、

 

「使徒パウロは、すべての信者(キリストのからだの肢体)の模範として、キリストを生きてキリストを大きく表現し、キリストの継続となりました(ピリピ1:19-21前半.使徒9:4-5,15.26:18-19.Ⅰテモテ1:16)。パウロはキリストの弟子であり、キリストを見て、キリストに聞き、イエスにあるあの実際にしたがってキリストを学びました(使徒9:1-19,25-27.22:14-15.エペソ4:20-21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。「イエスの霊」の中には苦難を受ける命、苦難を受ける力があることを感謝します。パウロがキリストを生きて、キリストを大きく表現し、キリストの継続となったように、わたしたちも召会生活の中でキリストを追い求めて、彼の中に見いだされることを願います。

 

パウロの生活は、キリストを生き、キリストを大きく表現する生活でした

 

 使徒行伝[第27章と第28章]の絵は……パウロの生活、振る舞い、性格を見せています。わたしたちは、パウロがその状況に超越していることを見ます。わたしたちはまた、彼の人の生活の知恵と威厳を見ます。疑いもなく、パウロの生活は、キリストを生き、キリストを大きく表現する生活でした。この部分を注意深く読むなら、パウロがピリピ人への手紙第3章で生きることを切望したその生活を、ここでしていたことを見るでしょう。あの章でパウロは、キリストを追い求めて、彼の中に見いだされようとしたと言っています(9、12節)。

 

 使徒行伝第27章と第28章を読むとき、わたしはパウロをキリストの中に見いだします。荒れた困難な航海を通して、パウロは超越性と威厳と知恵に満ちた生活をしました。彼は囚人でしたが、王のように振る舞いました。……あらゆる環境の中で、パウロは超越した生活をしました。(「使徒行伝ライフスタディ(2)」、第70編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)



集会についてのお知らせ

千葉に在る教会は、コロナの流行により集会参加の際に、注意していただきたい点を掲載してまいりました。しかし政府により、この感染症に対する警戒ランクが引き下げられました。したがって集会時の、注意及び要望を解除いたします。しかし通常のインフルエンザ等における程度の対応は、各自の責任においてお願いします。なお、引き続きZoomを用いて、リモートで集会にあずかることは可能です。こちらの方法での参加についてはご相談ください。参加していただけるようパスワード等をお知らせいたします。集会にリモートで参加してくださる方々においても、積極的な申言・交わりをお願いいたします。

 

今後、集会の変更があった時は、LINE,ホームページ等でお知らせします。主イエス・キリストから恵みと平安が、みなさま一同と共にありますように。