朝ごとの食物

神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (1) 第3週2日~

 

2月の祈り 第28日

(朝ごとの食物  サムエル記上、下 結晶の学び (1) 第1週1日)

 

神のエコノミーを成就するために、人の協力を必要とします

 

ローマ5:17

もし一人の違犯によって、死が一人を通して王として支配したなら、あふれるばかりの恵みとあふれるばかりの義の賜物を受ける者たちは、さらにいっそう一人の方、イエス・キリストを通して、命の中で王として支配します。

 

「サムエル記上、下の中心思想とは、神のエコノミーを成就することが、人の協力を必要とするということです(肉体と成ることの原則)。肉体と成ることの原則とは、神が人の中へと入り、ご自身を人とミングリングさせて、人をご自身と一にすることです。こういうわけで神は人の中にいて、人も神の中にいて、一つの命と一つの生活を持ちます(ヨハネ15:4-5.ガラテヤ2:20)」。

 

 主よ、あなたは神のエコノミーを成就するために、人の協力を必要としています。主よわたしたちが、ハンナ、サムエル、ダビデのように、積極的な意味で神と協力する者となることができますように。

 

 

新約の信者たちがキリストを享受した結果、永遠の命の中で王として支配します

 

 サムエル記上と下の中心思想とは、神のエコノミーを成就することが、人の協力を必要とするということです。それはサムエルの母ハンナ、サムエル、ダビデの歴史によって、積極的な意味で例証されており、そしてエリとサウルの歴史によって、消極的な意味で例証されているようにです。そのように協力することは、良き地に対する個人的な享受と関係があります。良き地は、すべてを含む、すべてに拡張するキリストを予表します。

 

 ですから、サムエル記上、下は、ヨシュア記、士師記、ルツ記の継続であり、神の与えられた良き地の享受に関する詳細を与えているのです。神と協力する者が享受する良き地は神の王国となり、その中で彼らは王として支配しました。これは新約の信者たちがキリストを享受することの予表であり、その結果、彼らは永遠の命の中で王として支配します(ローマ5:21)。(サムエル記上、下ライフスタディ、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第26日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (3) 第6週6日)

 

小羊の七つの目は全地に遣わされた神の七つの霊です

 

啓示録5:6

わたしはまた、御座と四つの生き物の間、長老たちの間に、ほふられたばかりのような小羊が立っているのを見た.それには七つの角と七つの目があった.それは全地に遣わされた神の七つの霊である。

 

「啓示録第5章6節によれば、神の七つの霊は、小羊の七つの目です。キリストは御座の上の贖う小羊として、観察し探り求める七つの目を持っており、神の裁きを宇宙に対して執行し、神の永遠の定められた御旨を成就します。この事は、新エルサレムを建造することにおいて究極的に完成します(啓4:5.21:2, 9-10)」。

 

 主よ、七倍に強化された霊を感謝します。主よ、あなたの目をもってわたしたちを観察し、探り求める七つの目をもってわたしたちを照らし、ご自身を注入し、わたしたちを造り変えてください。

 

 

神の七倍に強化された霊の照らし探り求めることを通して、ご自身をわたしたちの中へと注入し、わたしたちを造り変えます

 

 キリストは贖う小羊として、観察し探り求める七つの目を持っており、神の裁きを宇宙に対して執行し、神の永遠の定められた御旨を成就しています。この事は、新エルサレムを建造することにおいて究極的に完成します。ですから、ゼカリヤ書第3章9節で、彼は石、すなわち、神の建造のための七つの目を持つ頂石(ゼカリヤ4:7)として預言されています。これらの七つの目は全地に遣わされた神の七つの霊であり、「全地を行き巡」ります(10節)。

 

 七つの霊は小羊の七つの目として、注入するためでもあります。キリストが七つの目でわたしたちを見つめるとき、七つの霊であるこれらの目は、キリストの要素をわたしたちの中へと注入します。主はわたしたちを照らし裁くとき、わたしたちを見つめ、目としての七つの霊を通してご自身をわたしたちの中へと注入し、わたしたちを造り変えます。(新約の結論(6)、メッセージ80)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第25日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (3) 第6週5日)

 

今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方

 

啓示録1:4-5

ヨハネがアジアの七つの召会に書き送る.恵みと平安があなたがたにあるように.今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方から、また彼の御座の前の七つの霊から、また忠信な証人、死人の中から最初に生まれた方、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストからあるように。

 

「神聖な三一を完全に経験し享受することが究極的に完成されるのは、今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方によってであり、七つの霊によってであり、忠信な証人、死人の中から最初に生まれた方、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストによってです(啓1:4-5)」。

 

 主よ、あなたは、今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方である神です。主よ、わたしたちが  「わたしはある」である神、永遠から永遠へと存在している神聖な三一を経験し享受することができますように。

 

 

「わたしはある」という方は命、光、他のあらゆる積極的な事物です

 

 神は……今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方です。これがエホバという御名の意味です。ヘブル語のエホバが意味しているのは、「わたしは、『わたしはある』である」です。彼が、「わたしはある」であることが表徴しているのは、彼が永遠から永遠へと存在している方であるということです。

 

 「わたしはある」という彼の称号は、彼が存在するだけでなく、積極的な意味で、彼がすべてであることを示します。彼は命、光、他のあらゆる積極的な事物です。あなたは命を必要とするでしょうか? 神が命です。あなたは光を欲するでしょうか? 神が光です。あなたは聖を願うでしょうか? 神が聖です。神は永遠から永遠へと存在し、彼はすべてです。これがわたしたちの神です。(啓示録ライフスタディ(1)、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第24日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (3) 第6週4日)

 

神聖な三一には源、経路、流れがあります

 

ヨハネ3:16

神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。

 

ヨハネ1:17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと実際はイエス・キリストを通して来たからである。

 

「父なる神の愛は、御子キリストの恵みにおいて表現されており、御子キリストの恵みは、霊なる神の交わりの中にあり、信者たちに伝達されています(ヨハネ3:16.1:17, 16)。聖霊の交わりを通して、恵みはわたしたちに到達することができます(Ⅱコリント13:14)。神聖な三一には源、経路、流れがあります(Ⅱコリント13:14)」。

 

 主よ、父なる神の愛が、御子キリストの恵みにおいて表現され、聖霊の交わりを通して、わたしたちに伝達されていることを感謝します。主よ、わたしたちが召会生活の中に流れている神聖な三一の循環の中にとどまることができますように。

 

 

キリストの恵みは、神の愛から出て来て、聖霊の交わりを通して、わたしたちに伝達されます

 

 父なる神の愛は、御子キリストの恵みにおいて表現されます。この恵みの源は神の愛です。愛は隠された源です。愛が表現されるとき、それは恵みとなります。……キリストの恵みがその源である神にまでさかのぼるとき、それは愛ですが、神の愛がキリストを通して表現されるとき、それは恵みです。恵みは愛の表現であり、愛は恵みの源です。キリストの恵みは完全に神の愛から出て来ます。……神聖な愛がわたしたちに現れるとき、それは恵みとなります。(新約の結論(19)、メッセージ322)

 

 わたしたちの内側には二つの循環があります。一つの循環は、わたしたちの肉体の中にある血液の循環であり、もう一つの循環は、わたしたちの霊の中にある神聖な三一の循環です。これらの循環のどちらかがなくなれば、わたしたちは肉体的に死ぬか、あるいは霊的に死ぬでしょう。コリント人への第二の手紙第13章14節は、この内側の、霊的な循環の詳細の記述を与えています。この循環は、わたしたちのクリスチャン生活と召会生活における供給です。(神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる、第13章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第23日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (3) 第6週3日)

 

神の愛、主イエス・キリストの恵み、聖霊の交わりを享受します

 

Ⅱコリント13:14

主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように。

 

「神聖な三一を完全に経験し享受することは、神の愛、主イエス・キリストの恵み、聖霊の交わりにあずかることです(Ⅱコリント13:14)。父なる神の愛は源です。神は起源であるからです。主の恵みは、神の愛の経路です。主は神の表現であるからです。その霊の交わりは、神の愛を伴う主の恵みの分け与えです。その霊は神を伴う主の伝達であって、それは、わたしたちが三一の神、すなわち、父、子、聖霊を経験し享受するためであるからです(Ⅱコリント13:14.マタイ28:19)。

 

 主よ、わたしたちの内側に流れている満ちあふれる供給を感謝します。主よ、神の愛、主イエス・キリストの恵み、聖霊の交わりを感謝します。主よ、わたしたちの内側で活動している神聖な三一を経験し享受することができますように。

 

 

神の愛、キリストの恵み、聖霊の交わりにあずかり、神聖な三一を完全に享受します

 

 神聖な三一を完全に享受するとは、神の愛、キリストの恵み、聖霊の交わりにあずかることです。コリント人への第二の手紙第13章14節は、……神聖な三一は神学の教理的な学びのためではなく、わたしたちの経験と享受のためであることを見せています。父なる神の愛は源であり、子なる神であるキリストの恵みは神の愛の経路です。愛が現れる時、それは恵みとなります。そして聖霊の交わりは、父なる神の愛を伴うキリストの恵みの伝達、交流です。

 

 愛は父なる神です。愛の流れ出としての恵みは子なるキリストです。そして交わりは聖霊の伝達であって、御子が恵みとして何であるか、御父が愛として何であるかを伝達します。聖霊は神聖な豊富をわたしたちの中に伝達します。この伝達が交わりです。今日わたしたちは、そのようなすばらしい方法で内側に活動しておられる神聖な三一を持っています。(神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる、第13章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第22日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (3) 第6週2日)

 

わたしたちは三一のパースンの中へとバプテスマされます

 

マタイ28:19

だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして。

 

エペソ1:13

……真理の言、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、また彼の中で信じ、彼の中であなたがたはまた約束の聖霊で証印を押されました。

 

「三一のパースンの中へとバプテスマされることは、手順を経た三一の神の究極的完成である、すべてを含む、究極的に完成された霊の中でバプテスマされることです(マタイ28:19)。このことは、御父の豊富の中へと、御子の豊富の中へと、その霊の豊富の中へとバプテスマされることです(エペソ3:8)。わたしたちは今、バプテスマされた者として、三一の神との有機的な結合の中にいます」。

 

 主よ、わたしたちが三一のパースンの中へとバプテスマされて、三一の神との有機的な結合の中にいることを感謝します。主よ、わたしたちがあなたの弟子となって、三一の神の豊富を経験し、享受することができますように。

 

 

わたしたちはバプテスマされて、三一の神との有機的な結合の中にいます

 

 主イエスは、マタイによる福音書第28章19節で記録されている彼の弟子たちに対する命令を与えた時までに、すでに十字架上ですべてを含む死を遂げており、葬られ、ハデス[陰府]の中へと入って、死の力とそれに関するすべてに打ち勝ち、死から出て来て、復活の中へと入りました。さらに、霊なるキリストである彼は、すでにご自身を命を与える霊として弟子たちの中へと息吹き込まれていました(ヨハネ20:22)。

 

 主はこのすべてを行ない、彼らに諸国民を弟子とし、彼らを三一の神の中へともたらすように命じました。それは彼らが彼との有機的な結合を持つためです。……信者たちを父、子、聖霊の名の中へとバプテスマすることは、実は手順を経た三一の神の中へとバプテスマすることです。(新約の結論(6)、メッセージ97)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第21日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (3) 第6週1日)

 

父と子と聖霊の名の中へとバプテスマされます

 

マタイ28:19

だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして。

 

「新約における神聖な三一の最も明確な啓示は、マタイ第28章19節にあります。この節は、「父と子と聖霊の名の中へと」バプテスマすることについて語っています。神は唯一無二ですが、三つのパースン、すなわち父、子、霊があります(マタイ28:19)」。

 

 主よ、わたしたちが父と子と聖霊の名の中へとバプテスマされたことを感謝します。主よ、わたしたちが神聖なパースンとの有機的な結合を持って、三一の神の経験と享受の中へともたらされますように。

 

 

三一の神との有機的な結合は、わたしたちを三一の神の深い享受と豊かな経験の中へともたらします

 

 主は……マタイによる福音書第28章19節で……三つのパースン、すなわち父、子、霊についてはっきりと語っておられます。しかし、彼がここで父、子、霊の名について語るとき、「名」は原文では単数形です。これが意味するのは、父、子、霊は三ですが、その名は一であるということです。それは真に奥義的です。三つのパースンに対して、一つの名があります。もちろん、これは「三・一」あるいは「三一」という表現が意味することです。……この名は三、すなわち父、子、聖霊を含んでおり、神が三・一であるとわたしたちに告げています。神は唯一無二ですが、三つのパースン、すなわち父、子、霊の事柄があります。(リー全集、1970年、第3巻(上)、「三一の神、すなわち、父、子、霊に関して」)

 

 人々を三一の神の名の中へとバプテスマすることは、彼らを三一の神のパースンの中へともたらすことです。それは彼らがこの神聖なパースンとの有機的な結合を持つためです。わたしたちと三一の神との有機的な結合は、わたしたちを三一の神の深い享受と豊かな経験の中へともたらします。(神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる、第13章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第19日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第5週6日)

 

イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給

 

ピリピ1:19

……イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことが……救いとなる……。

 

ピリピ4:11-12

……わたしはどんな境遇でも、満ち足りることを学んだからです。…… あらゆる事において、またいっさいの事柄において、わたしは飽くことにも飢えることにも、豊かであることにも乏しくあることにも、秘訣を学びました。

 

「満ちあふれる供給」は、使徒によって用いられた特別な豊かな言葉であって、イエス・キリストの霊の満ちあふれる豊かな供給を示しています(ピリピ1:19)。それは、神性(神聖な命と性質を伴う神聖なパースン)、引き上げられた人性(正常な命と生活と性質とパースンを伴う人性)、十字架上での主のすばらしいすべてを含む死、キリストの復活と昇天を[含んでいます](ヨハネ1:1, 14, 29.ガラテヤ2:20.ルカ24:5-6, 50-51)。

 

 主よ、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給があることを感謝します。主よ、わたしたちが日常生活の中で秘訣を学び、真の服従や真の愛を経験することができますように。

 

 

あらゆる事において、またいっさいの事柄において秘訣を学びます

 

 十字架上で主イエスはすばらしい死を遂げられました。キリストのすべてを含む死は、宇宙におけるあらゆる消極的な事柄を対処しました。彼の死によって、すべての罪深い事柄は終結させられました。このすばらしい死はまた、その霊の満ちあふれる供給の中に含まれています。キリストの復活と昇天も含まれています。

 

 わたしたちが日ごとに必要とする服従や愛も、その霊の満ちあふれる供給の中に見いだされます。…… わたしたちはその霊の満ちあふれる供給を享受するとき、気づかないでこの供給の成分にあずかっています。例えば、わたしたちは、自分が愛しているという事実を意識しないで他の人たちを愛するかもしれません。同じように、わたしたちは服従していることを認識しないで服従しているかもしれません。……真の愛や真の服従は常に自然なものであって、わたしたちが意識するものではありません。(新約の結論(23)、メッセージ403)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第18日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第5週5日)

 

わたしたちは、苦難を受けるイエスの霊と復活したキリストの霊にあずかります

 

ピリピ1:19

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです.

 

「イエス・キリストの霊」は、苦難を受けるイエスの霊と復活したキリストの霊を指しています(ピリピ1:19:19)。イエスの霊は主の苦難を特に指しており、キリストの霊は彼の復活を特に指しているので、イエス・キリストの霊は、彼の苦難と彼の復活の両方と関係があります。イエス・キリストの霊は、地上で苦難の生活をしたイエスの霊でもあり、今や復活の中にいるキリストの霊でもあります(使徒16:7.ローマ8:9.ピリピ1:19)」。

 

 主よ、イエス・キリストの霊を感謝します。主よ、わたしたちもパウロのように、主の人性における苦難の生活の中で、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を経験し享受することができますように。

 

 

イエス・キリストの霊は、地上で苦難の生活をしたイエスの霊でもあり、今や復活の中にいるキリストの霊でもあります

 

 [ピリピ人への手紙第1章19節の]イエス・キリストの霊は、ヨハネによる福音書第7章39節で述べられているその霊です。これは、単に主が肉体と成る前の神の霊ではなく、主の復活の後の神の霊、神性を伴う聖霊であり、主の肉体と成ること(人性)、十字架の下での人の生活、十字架、復活と複合されています。出エジプト記第30章23節から25節の聖なる塗り油、すなわちオリブ油と四種類の香料との調合物は、この神の複合の霊の完全な予表でした。この霊は今やイエス・キリストの霊です。……

 

 パウロは彼の苦難の中で、主の人性における苦難と主の復活の両方を経験しました。ですから、パウロにとって、その霊はイエス・キリストの霊、すなわち、三一の神の複合の、すべてを含む、命を与える霊でした。パウロのような、キリストの人の生活と復活の中で彼を経験し享受している人にとって、そのような霊は、満ちあふれる供給を持っており、満ちあふれる供給でさえあります。(新約の結論(6)、メッセージ79)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第17日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第5週4日)

 

キリストの霊は、死を経過して復活の中へと入った方の霊です

 

ローマ8:9-10

しかし、確かに神の霊があなたがたの中に住んでいるなら、あなたがたは……霊の中にいるのです。もしだれでもキリストの霊を持っていないなら、その人はキリストのものではありません。しかし、キリストがあなたがたの中におられるなら、体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに命です。

 

 「キリストの霊」は、復活におけるキリストの霊を指しています(ローマ8:9)。肉体と成ること、十字架、復活の過程を通して、神の霊はキリストの霊となっています(ローマ8:9)。キリストの霊は、実はキリストご自身であって、……復活の命また復活の力としてわたしたちの中へと分け与えて、わたしたちの性質の中の死を対処します(ローマ8:2, 9)。

 

 主よ、キリストの霊には、肉体と成ること、十字架、復活の過程が含まれていることを感謝します。主よ、わたしたちがすべてを含むキリストと、彼のすべてを含む死と復活を経験することができますように。

 

 

キリストの霊の強調点は、復活と命を分け与えることにあります

   

 使徒行伝第16章7節で、「イエスの霊」がありますが、ローマ人への手紙第8章9節では「キリストの霊」があります。ローマ人への手紙第8章9節で「キリストの霊」は、「神の霊」と交換的に用いられています。それは今日、神の霊がキリストの霊であると告げています。「イエスの霊」の強調点は、人性と苦難のための力とにあります。しかし「キリストの霊」の強調点は、復活と命を分け与えることにあります。

 

 使徒行伝第16章で直面した状況における迫害は、人性における苦難を耐え忍ぶための力を必要としました。しかし、ローマ人への第8章で取り扱われているわたしたちの性質における死は、命を分け与えることにおける復活の力を必要としています。ですから、使徒行伝第16章で「イエスの霊」が、迫害の下での福音の宣べ伝えにおいて導きました。しかし、ローマ人への手紙第8章で「キリストの霊」が、あらゆる種類の死の要素からわたしたちを復活させ、わたしたちの中に命を分け与えることによって活気づけてくださいます。(リー全集、1965年、第1巻(下)、「キリストのすべてを含む霊」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第16日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第5週3日)

 

人性におけるイエスとして、人の生活と十字架の死を経過したイエスの霊

 

使徒16:6-7

また、彼らはアジアで御言を語ることを、聖霊に禁じられたので、フルギヤとガラテヤの地方を通って行った。彼らがムシヤに来た時、ビテニヤに入って行こうとしたが、イエスの霊が彼らを許さなかった。

 

「神がわたしたちの内で活動することには、「イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給」があります(ピリピ1:19)。「イエスの霊」は、神の霊に関する特別な表現であり、肉体と成った救い主の霊を指しています。彼は、人性におけるイエスとして、人の生活と十字架の死を経過しました(使徒16:7.ルカ1:31, 35.マタイ1:21)」。

 

 主よ、人性におけるイエスとして、人の生活と十字架の死を経過したイエスの霊を感謝します。主よ、わたしたちがイエスの霊に含まれている神の神聖な要素、主の人の生活の要素、主の死の苦難の要素を経験することができますように。

 

 

わたしたちが正常な人の生活をしてその苦難に耐えるための、イエスの中にある、人性を伴う人なるイエスの霊

 

 [使徒行伝第16章7節の]イエスの霊と6節の聖霊が交換可能な方法で使われていることは、イエスの霊が聖霊であることを啓示しています。聖霊は、新約では神の霊の一般的な称号です。「イエスの霊」は、神の霊に関する特別な表現であり、肉体と成った救い主の霊を指しています。彼は、人性におけるイエスとして、人の生活と十字架の死を経過しました。これは、イエスの霊には、神の神聖な要素があるだけではなく、人の要素と彼の人の生活の要素と彼の死の苦難の要素もあることを示しています。パウロの宣べ伝えの務め、すなわち人の命において人の間で遂行され、人のために苦難を受ける務めには、そのようなすべてを含む霊が必要でした。

 

 キリストの霊がキリストの実際であるように、イエスの霊もまたイエスの実際です。もしわたしたちがイエスの霊を持たなければ、イエスはわたしたちにとって実際ではありません。しかし、今日イエスはわたしたちにとって実際です。なぜなら、わたしたちはイエスの霊をイエスの実際、実際化として持っているからです。(新約の結論(6)、メッセージ79)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第15日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第5週2日)

 

神がわたしたちの内で活動しています

 

ピリピ1:20-21

そこで、わたしの切なる期待と希望は……生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。

 

「ピリピ人への手紙において取り扱われているあらゆるものは、神の活動する行動の下にあります。第1章がわたしたちに示しているのは、わたしたちがキリストを生き、キリストを大きく表現して、キリストにわたしたちの生活と表現になっていただく必要があるということです(ピリピ1:20-21)」。

 

 主よ、あなたはわたしたちの内で活動しておられます。主よ、ピリピ人への手紙の各章で啓示されているキリストを、わたしたちに経験させてください。

 

 

ピリピ人への手紙の各章において、神がわたしたちの内で活動しておられ、わたしたちが経験すべきキリストを見ます

 

 神がわたしたちの内で活動されるのを見るために、ピリピ人への手紙を簡潔に見ることは助けになるでしょう。ピリピ人への手紙は、わたしたちがキリストを経験することに関する書です。……第2章が示していることは、わたしたちがキリストを模範とし、キリストを提供するということです。第3章は、キリストをわたしたちの目標として追い求め、獲得するということです。第4章が示しているのは、わたしたちがキリストを満足の秘訣として持つということです。第4章12節で、パウロは秘訣を学んだと宣言しています。彼は、ここで、秘密結社に入門して、その基本原則を伝授された人を比喩に用いています。実は、第4章のこの「秘密結社」とは、キリストのからだです。

 

 結論として、ピリピ人への手紙の第1章では、キリストがわたしたちの生活と表現であり、第2章では、彼はわたしたちの模範であり、第3章では、彼はわたしたちの目標であり、第4章では、彼はわたしたちの秘訣です。四つの章はいずれも、わたしたちが経験すべきキリストのある面を啓示しています。(神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる、第12章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第14日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第5週1日)

 

神がわたしたちの内で活動しています

 

ピリピ2:12-13

そういうわけで、わたしの愛する人たちよ、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、わたしがいない今はなおさら、恐れとおののきをもって、あなたがた自身の救いを成し遂げなさい.なぜなら、神の大いなる喜びのために、願わせ働かせるのは、あなたがたの内で活動する神だからです。

 

「ピリピ第2章12節から13節は啓示していますが、ピリピ人への手紙の全体的な、すべてを網羅する、包括的な思想とは、神がわたしたちの内で活動しているということです」。

 

 主よ、わたしたちは再生されて、人の命に加えて、神聖な命を持っていることを感謝します。主よ、わたしたちの内側で神は静かに、細やかに活動していることを認識させてください。

 

 

わたしたちの内側での神の行動は、とても静かで、細やかな活動です

 

 わたしたちの神は、わたしたちの内で絶えず生きており、行動しており、活動しています。わたしたちは、神がわたしたちの内で活動することを顧慮すべきです(ピリピ2:13)。… わたしたちの内で神が活動しておられるのは、血液の循環、または電気の流れにたとえることができます。体内の血液の流れが停止するなら、わたしたちの命も停止するでしょう。血液の循環は、わたしたちの中で活動している命です。電気の流れは電気の活動です。電気の流れが建物の中で停止するなら、そこに光はなくなるでしょう。……

 

 長年にわたり神を経験するにつれて、わたしは神のわたしたちの内側での行動がとても静かで、細やかな活動であることを認識するようになりました。神は、わたしたちの内で静かに、細やかに活動されます。(神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる、第12章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第12日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第4週6日)

 

わたしたちは、死人を復活させる神に信頼します

 

Ⅱコリント1:8-9

……わたしたちは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みをさえ失ったほどです。実に、わたしたちは自ら、自分自身のうちに死という答えを持ちました.それは、わたしたちが自分自身に信頼するのではなく、死人を復活させる神に信頼するためでした。

 

「芽を出した杖が表徴するのは、復活した方であるキリストがわたしたちの命、わたしたちの生活、わたしたちの内側の復活の命となるべきであり、この命が芽を出し、開花し、実を結んで円熟すべきであるということです(民17:8)」。

 

 主よ、わたしたちが自分自身に信頼することから救ってください。主よ、わたしたちは死人を復活させる神に信頼します。主よ、わたしたちが、ただ神を通してできる復活を経験することができますように。

 

 

復活が神の選びの根拠であり、また権威の根拠です

 

 神は十二人の族長たちにイスラエルの十二の部族にしたがって十二本の杖を取り、それらを集会の天幕の中にある契約の箱の前に置くように命じられました。それから彼は言われました、「わたしが選ぶ人の杖は芽を出す」(民17:5)。……十二本の杖はすべて葉がなく、根がなく、枯れて、死んでいました。芽を出した杖はどれであれ神によって選ばれた杖でした。ここでわたしたちは、復活が神の選びの根拠であることを見ます。それはまた権威の根拠でもあります。

 

 復活は、わたしたちの天然の命からでないもの、自分自身からでないもの、わたしたちの能力に基づいていないものすべてです。復活が語っているのは、わたしたちを超越している事、すなわちわたしたちが自分自身では行なうことができない事です。どの杖にも花を彫刻したり色を塗ったりすることはできますが、だれもそれに芽を出させることはできません。……これは神の働きです。・・・・・胎が閉ざされた後に…サラはイサクを産みました(ローマ4:19)。これは、神が行なわれたことでした。ですから、サラは復活を予表します。……復活は、人が自分自身によっては何もできず、ただ神を通してできることを意味します。(ニー全集、第47巻、「権威と服従」、第15編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第11日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第4週5日)

 

主イエスは彼の御父によって、人の命を生きました

 

ヨハネ5:19

……子は、父が行なわれることを見ないでは、自分から何もすることができない.父が行なわれることは何であれ、子も同じように行なう。

 

ピリピ3:10キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて。

 

「イエスの人性は、復活における彼の人の命です。主が魅了することと、はぐくむことは天然的なことではなく、人性における彼の復活の命によります。彼は復活において、自分自身によってではなく、別の源、すなわち彼の御父によって、人の命を生きました(ヨハネ5:19, 30.14:24)」。

 

 主よ、わたしたちも自分の天然の命を拒絶して、主の復活の命を生きることができますように。主よ、わたしたちがキリストと彼の復活の力を知り、彼の死に同形化されますように。

 

 

主イエスはご自身の天然の人性を否み、復活において人の生活をされました

 

 アダムを創造した方は、来て人と成り、復活において人の生活をされました。彼はご自身の天然の人性を否みました。彼は決してご自身からは何も行ないませんでした(ヨハネ5:19、30)。……わたしたちも自分の天然の命の中で何も行なうべきではなく、キリストの復活の命の中で行なうべきです。イエスは彼の肉においてこの地上で生き歩いていましたが、この肉を拒絶しました。彼は彼の天然の命を拒絶しました。

 

 ある人は、生まれつき彼らの天然の人性において魅了し、引き寄せ、はぐくみます。……しかしながら、天然の人性において魅了する人は、真のものではありません。…… 天然の人性において人々をはぐくむのは真実ではありません。こういうわけでわたしたちは、イエスの人性の中で人々をはぐくまなければなりません。主が魅了することと、はぐくむことは天然的なことではなく、人性における彼の復活の命によります。(バイタルグループ、メッセージ10)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第10日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第4週4日)

 

復活したキリストにわたしたちの中で生きていただきます

 

ヨハネ11:25

……わたしは復活であり、命である.わたしの中へと信じる者は、たとえ死んでも生きる。

 

ローマ8:13……その霊によって体の行ないを死に渡すなら、あなたがたは生きます。

 

「神聖な三一と共に生きることは、復活したキリストにわたしたちの中で生きていただくことです(ガラテヤ2:20後半.ピリピ1:19-21前半)。わたしたちのクリスチャン生活において、わたしたちは、内住する霊によって、またわたしたちの外側の環境を通して、キリストの死の殺しの下にいます。外側の環境は、内側の霊と協力して、わたしたちの天然の人を殺し、復活したキリストがわたしたちの内側で現されるようにします(ローマ8:9-10, 13後半, 28-29.Ⅱコリント4:7-18)」。

 

 主よ、わたしたちが神によって案配された環境を受け入れることができますように。そして、主よ、内住する霊によってキリストの死の殺しの下にいて、復活したキリストが現されますように。

 

 

わたしたちはキリストの死の殺しの下にいて、彼の引き上げる復活を経験します

 

 人の生活は、問題、心配、あらゆる種類の悲しみに満ちています。わたしたちはこれらの事柄から、復活、すなわちその霊である神によってのみ逃れることができます。その霊は殺し、その霊はまた復活させます。……わたしたちは複合の霊を享受するとき、内なる殺しと内なる復活を経験します。この殺しプラス復活を持つ限り、わたしたちは神を持っています。殺しプラス復活は神です。神はわたしたちの中で行動し、わたしたちの中で働き、わたしたちの中で機能されます。……主はご自身を、わたしたちがクリスチャン生活をするのに必要とするあらゆるものとして与えてくださいます。

 

 わたしたちは、キリストの復活とその力についてのその霊の適用を、絶えず経験する必要があります。……わたしたちは神がわたしたちのために案配された環境から逃げようとするなら、喜びと平安を持ちません。わたしたちは制限された環境にとどまるとき、復活を経験することができます。(クリスチャン生活、第10、14章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第9日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第4週3日)

 

主の臨在、主の笑顔が支配する原則です

 

出33:14

エホバは言われた、「わたしの臨在があなたと共に行って、わたしはあなたに安息を与える」。

 

詩27:8

「わたしの顔を尋ね求めよ」とあなたが言われるとき、あなたに向かって、わたしの心は言います、「エホバよ、あなたの御顔を尋ね求めます」。

 

「わたしたちは良き地の実際としてのすべてを含むキリストに入り、所有し、享受しようとするなら、主の臨在によってそのようにしなければなりません。主はモーセに約束しました、「わたしの臨在があなたと共に行って、わたしはあなたに安息を与える」(出33:14)。神の臨在は、神の道、すなわち「地図」であって、神の民であるわたしたちが取るべき道をわたしたちに示します」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、あなたの御顔を尋ね求めます。主よ、あなたの臨在と笑顔がいつもわたしたちにありますように。主の直接の臨在によって管理されるように学ばせてください。

 

 

わたしたちはただ主の直接の臨在によって守られ、支配され、管理され、導かれることを学びます

 

 主は、「『わたしの臨在』があなたと共に行って」と言われました。何という宝でしょう! 主の臨在、笑顔が支配する原則です。わたしたちは主から何を受けても、彼の臨在を失うことを恐れなければなりません。……主ご自身はあなたに何かを大いに与えられるかもしれませんが、まさにその事があなたから彼の臨在を奪うでしょう。彼はあなたを助け、あなたを祝福されますが、まさにその助けと祝福が、あなたを彼の臨在から引き離すことがあり得るのです。

 

 わたしたちはただ主の臨在によって守られ、支配され、管理され、導かれることを学ばなければなりません。わたしたちは主に、彼の直接の臨在以外の何も欲しくないと告げなければなりません。わたしたちは間接的な臨在を欲しくありません。……それは直の、直接のものではないのです。主の直接の、直の臨在によって管理されるように努めてください。(すべてを含むキリスト、第11章)

 

 (詩歌308 「…主の喜び、臨在 失せないために」。W・ニー全集、第61巻 第8編p110-112  参照)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第8日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第4週2日)

 

インマヌエルとしてのキリストと共に生きます

 

ヨハネ14:17

それは実際の霊である.世の人はその方を受けることができない.それは、世の人が彼を見ないし、知りもしないからである.しかし、あなたがたは彼を知っている.彼はあなたがたと共に住んでおり、またあなたがたの中におられるようになるからである。

 

「神聖な三一と共に生きることは、インマヌエルとしてのキリストと共に生きることです。『見よ、処女が身ごもって男の子を産む.人々は彼の名をインマヌエルと呼ぶ』(インマヌエルは、神われらと共にいますと訳される)(マタイ1:23)」。

 

 主よ、わたしたちがインマヌエルとしての主の臨在を持っていることを感謝します。主よ、わたしたちが三一の神の臨在としての実際の霊を経験することができますように。

 

 

インマヌエルとして主の臨在を持つなら、わたしたちは知恵、洞察力、先見性、物事に関する内なる認識を持ちます

 

 実行上のインマヌエルは、わたしたちの霊の中におられる究極的に完成された三一の神の臨在としての実際の霊です。彼の臨在は、わたしたちの霊の中で、日ごとに…常にわたしたちと共にあります(ヨハネ1:14.14:16-20.Ⅰコリント15:45後半.Ⅱテモテ4:22)。わたしたちは主の臨在を持つなら、知恵、洞察力、先見性、物事に関する内なる認識を持つようになります。主の臨在は、わたしたちにとってすべてです(Ⅱコリント2:10.4:6-7.ガラテヤ5:25.創5:22-24.ヘブル11:5-6)。

  

 わたしたちは、別の方が一日中わたしたちと共におられることを認識しなければなりません。彼は外側でわたしたちと共にいるだけでなく、内側のわたしたちの霊の中で、その日の一瞬ごとわたしたちと共におられます。……わたしたちはインマヌエルのさらなる経験を持ったなら、うわさ話のような、今日行なっている多くの事を行なおうとしないでしょう。……わたしたちはみな、わたしたちの救い主である主イエスが、インマヌエルでもあるという認識と感覚を持たなければなりません。(三一の神が三部分から成る人の命となる、第9章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第7日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (2) 第4週1日)

 

神聖な三一の中で生きて、神聖な三一と共に生きます

 

Ⅰヨハネ4:13

彼はわたしたちに、彼の霊を与えてくださいました.このことから、わたしたちが彼の中に住み、そして彼がわたしたちの中に住んでおられることを知るのです。

 

 神聖な三一の中で生きることは、彼の中に住むこと、彼の中にとどまること、わたしたちのホームとしての彼の中に居住することです。神聖な三一と共に生きることは、彼がわたしたちの中に住んで、わたしたちがわたしたちと共にある彼の臨在、彼のパースンを持って、享受することです(ヨハネ15:4)。

 

 主よ、わたしたちが主の中に住んで、神聖な三一の中で生きることができますように。そして、主がわたしたちの中に住むことによって、わたしたちが神聖な三一と共に生きることができますように。

 

 

神聖な三一と共に生きることは、彼の臨在、彼のパースンを持って享受することです

 

 神聖な三一の中で生きることは、わたしたちのホームとしての彼の中に居住することです。彼の中で生きることは、彼の中に住むこと、彼の中にとどまることです。……彼がわたしたちの中に住むかどうかは、わたしたちが彼の中に住むことにかかっています。キリストの中で生きること、キリストの中に住むことは、わたしたちが三一の神を享受することの第一の部分です。……

 

 わたしたちの享受の第二の部分……は、彼がわたしたちの中に住むことに関する主の言葉によって伝えられています。彼がわたしたちの中に住むことは、彼の臨在をわたしたちにもたらすので、わたしたちは彼と共に生きます。彼の中で生きることは、主を享受する地位へとわたしたちを置きます。彼と共に生きることは、享受そのものです。神聖な三一と共に生きることは、神聖な三一を享受することです。(神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる、第10章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第5日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (1) 第3週6日)

 

イエスの焼き印は、パウロが生きた生活を表徴しています

 

ガラテヤ6:17,18

これからは、だれもわたしを煩わさないでいただきたい.わたしは、イエスの焼き印をこの身に帯びているのですから。18 兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。アーメン。

 

「霊的には、イエスの焼き印は、パウロが生きた生活の特徴を表徴しており、それは主イエスが地上で生きた生活と同じです。そのような生活は、絶えず十字架につけられており(ヨハネ12:24)、神のみこころを行ない(6:38)、自分の栄光ではなく神の栄光を求め(7:18)、十字架の死に至るまでも、神に服従し、従順であるのです(ピリピ2:8)」。

 

 主よ、パウロはイエスの焼き印を帯びて、平安と恵みを享受しました。主よ、わたしたちも十字架につけられた命を生きることができますように。

 

 

イエスの焼き印を帯びることによって、わたしたちは平安に保たれ、恵みを享受します

 

 パウロが平安[ガラテヤ6:16]と恵み[18節]を述べている中間に、イエスの焼き印についての言葉[17節]を挿入した理由を知ることは重要です。……彼は平安と恵みについて書いていた時、自分はイエスの焼き印を帯びているので、平安を享受しているという認識を内側に持っていました。……恵みを享受することを通して、パウロは平安の状態にもたらされました。彼はイエスの焼き印を帯びることによって、この平安の中に維持されていました。

 

 イエスの焼き印を帯びることはまた、わたしたちを平安に保つでしょう。しかし、もしこれらの焼き印を帯びることを拒むなら、……その時、わたしたちは平安を失ってしまい、恵みを享受し続けることは難しいでしょう。……主イエス・キリストの恵みは、実は命を与える霊の満ちあふれる供給、すべてを含む享受です。一方で、わたしたちはイエスの焼き印を帯びて、迫害され、十字架につけられた生活をしています。もう一方で、わたしたちはキリストの恵みを享受し、その霊の満ちあふれる供給を経験します。おお、すべてを含む霊の豊かな満ちあふれる供給が、わたしたちの霊と共にあります!(ガラテヤ人への手紙ライフスタディ(2)、第31編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第4日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (1) 第3週5日)

 

時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、恵みの御座に進み出ます

 

ガラテヤ6:18

兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように。アーメン。

 

ヘブル4:16

ですから、わたしたちがあわれみを受け、また時機を得た助けとなる恵みを見いだすために、大胆に、恵みの御座に進み出ようではありませんか。

 

「恵みを受けて享受する道は、わたしたちの霊に戻り、わたしたちの霊を活用し、主に御座に着いていただくことです。わたしたちは霊に戻ることによって恵みの御座に来る時はいつも、主に御座に着いていただき、わたしたちの内側で彼に頭首権、王権、主権を与えるべきです(ヘブル4:16.ローマ5:17, 21.コロサイ1:18後半.啓2:4)」。

 

 主よ、わたしたちの霊の中にある恵みの御座に進み出ることができますように。主よ、いつも主に御座に着いていただき、主に頭首権、王権、主権を与えることができますように。

 

 

恵みの御座は、天にあるだけではなく、それはわたしたちの霊の中にもあります

 

 恵みの御座は、天にあるだけではありません。それはまたわたしたちの霊の中にもあります。もしそれが、天と同じようにわたしたちの霊の中にもあるのでないなら、どうしてわたしたちは、そこに近づくことができるでしょうか? ……わたしたちが恵みの御座に近づくことができるという事実は、経験的に、それがわたしたちの霊の中にあることを示しています。わたしは経験から、霊に戻って「主イエスよ」と呼ぶとき、恵みの御座がわたしの霊の中にあるという感覚を、直ちに持っていることを知ります。

 

 わたしたちは、霊に戻って主の御名を呼び求めることによって恵みの御座に近づくときはいつも、主に御座に着いていただくべきです。わたしたちは内側で彼に頭首権、王権、主権を与えなければなりません。……わたしたちが主を御座に着かせないときはいつも、恵みの流れは止まります。わたしたちが祈っているときに、主に内側で御座に着いていただき、彼をかしら、主、王としてあがめる必要があります。その時、恵みはわたしたちの内側を川のように流れるでしょう。(ガラテヤ人への手紙ライフスタディ(2)、第36編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)                                              


2月の祈り 第3日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (1) 第3週4日)

 

キリストの計り知れない豊富は福音です

 

ピリピ4:4

主の中でいつも喜びなさい.わたしは繰り返して言います.喜びなさい。

 

エペソ3:8

すべての聖徒のうちで最も小さい者よりも小さいわたしに、この恵みが与えられたのは、キリストの計り知れない豊富を、異邦人に福音として宣べ伝えるためであり.

 

「キリストを生きてキリストを大きく表現することは、命におけるキリストの救いにあずかることです。この中でわたしたちは、キリストを生きないという失敗から救われ、またキリストを大きく表現しないという敗北から救われます(ローマ5:10)」。

 

 主よ、わたしたちがキリストを生きて、命におけるキリストの救いにあずかることができますように。わたしたちの忍耐としてのキリストは無尽蔵であることを感謝します。主よ、キリストの計り知れない豊富をさらに享受させてください。

 

 

キリストの無限の偉大さを告げ知らせます

 

 パウロはピリピ人への手紙を書いた時、老齢の人でした。疑いもなく、看守たちは彼が入獄によって疲れ果てていると思いました。しかし疲れ果てるどころか、パウロは喜びに満ちており、主の中で喜んでいました。パウロはキリストを輝かし出し、彼を表現していたと、わたしは確信します。そのような表現は、キリストの無限の偉大さを告げ知らせることであり、キリストが無尽蔵であることを告げ知らせることでした。

 

 わたしたちの天然の忍耐には限りがありますが、わたしたちの忍耐であるキリストには限りがありません。わたしたちはみないくらか忍耐を持っていますが、ある程度にすぎません。ですから、挑発されて怒るのです。……わたしたちの天然の忍耐はそのように限りがありますが、忍耐としてのキリストは無尽蔵であり、計り知れません。

 パウロは獄中で虐待されていたに違いありませんでしたが、幸いであり、キリストの無限の偉大さを看守たちに展覧することができました。特に、パウロはキリストの無尽蔵の忍耐を展覧しました。キリストは確かにパウロの肉体において、大きく表現されました。(ピリピ人への手紙ライフスタディ(1)、第4編、6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第2日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (1) 第3週3日)

 

イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通してキリストを大きく表現します

 

ピリピ1:19-20

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、…… わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。

 

「わたしたちが神聖な三一の中で生きるのは、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給によって、キリストを生きてキリストを大きく表現することによってです(ピリピ1:19-21前半)。使徒が体において苦難を受けたとき、キリストは大きく表現されました(ピリピ1:20)」。

 

 主よ、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を感謝します。主よ、わたしたちもパウロのように環境の中で苦難を受けたときに、キリストを大きく表現することができますように。

 

 

パウロは獄中で彼を監視していた人たちの目の前で、キリストを大きく表現しました

 

 その霊の満ちあふれる供給の中には、キリストの神性、人性、十字架、復活、昇天があります。その霊は今日、…… 肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天の手順を経過して、その霊は今やイエス・キリストの霊です。彼の内側には生ける供給があり、それはあらゆる種類の神聖で、霊的で、天的な成分を含んでいます。イエス・キリストの霊のこの満ちあふれる供給を通して、パウロの環境は彼の救いとなりました。彼はこの満ちあふれる供給を通して絶えず、即座に救われました。

 

 パウロが肉体において苦難を受けたとき、キリストは大きく表現されました。…… いかなる環境の下でもキリストを大きく表現することは、最高の享受をもってキリストを経験することです。…… 彼は人の目の前で、特に獄中で彼を監視していた人たちの目の前で、キリストを大きく表現しました。その結果、何人かがついにキリストに転向しました。このことの証拠はピリピ人への手紙第4章22節に見いだされます。…… パウロがキリストを大きく表現することを通して、カイザルの家の者でさえ救われました。(ピリピ人への手紙ライフスタディ、第5、6、48編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


2月の祈り 第1日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (1) 第3週2日)

 

霊的食物としてのキリストを食べて、彼のゆえに生きます

 

ヨハネ6:57

生ける父がわたしを遣わされ、わたしが父のゆえに生きているように、わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる。

 

「わたしたちは、霊的食物としてのキリストを食べて、彼のゆえに生きることができます(ヨハネ6:57)。キリストを食べることは、わたしたちの霊を活用して、彼の言葉を祈り読みし口ずさむことによって、彼の言葉を食べることです。それによって彼の言葉は、わたしたちの心の楽しみ、また喜びとなります(エレミヤ15:16.詩119:15-16.ヨシュア1:8-9)」。

 

 主よ、わたしたちが霊的食物としてのキリストを食べることができますように。そして、主を食べて、主のゆえに生きることができますように。

 

 

わたしたちはキリストの復活の中でキリストを生き、キリストを食べることによってキリストを生きます

 

 わたしたちは、キリストによって生きてキリストをわたしたちの道具とするのではありません。そうではなく、わたしたちはキリストのゆえに生きて、キリストをわたしたちの生きる要因として取るのです。わたしたちが食べる食物は道具ではなく、供給する要因です。…… 食物はわたしたちを供給して、わたしたちがその供給のゆえに生きることができるようにします。……食べなければ、食物はわたしたちの生きる要因となることはできません。わたしたちはキリストの復活の中でキリストを生き、キリストを食べることによってキリストを生きます。……

 

 キリストはわたしたちによって食べられました。そして今や彼はわたしたちの内側におり、わたしたちの内側で生きておられます[ガラテヤ2:20]。……キリストがわたしたちの中に生きる方法は、わたしたちによって消化されることによってです。主は今や、わたしたちがそれをもって生きる供給、要因となられました。わたしたちは供給する要因としてのキリストをもって生きます。(命の経験と成長、メッセージ3)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)