命の木としてのキリストを享受する道を取る 第1週1日~

 

8月の祈り 第31日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第5週3日)

 

御父のみこころを行なうことは、主を食べることです

 

ヨハネ17:4

わたしは、あなたがわたしに行なわせようとして与えられたわざを成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。

 

エペソ4:20-21

しかしあなたがたは、そのようにキリストを学んだのではありません.もしあなたがたが真に彼に聞き、そして彼の中で、イエスにあるあの実際にしたがって教えられているのであれば。

 

「わたしたちが主を食べることができるのは、御父のみこころを行なって飢え渇いた人を満足させることによってであり、また地上で神・人の生活をして、手順を経た三一の神の栄光のために御父の栄光を現すことによってです(マタイ24:45-47.ピリピ1:19-21前半)」。

 

 主よ、あなたは地上で、わたしたちのために模範を設立してくださったことを感謝します。主よ、あなたの命の豊富をもって、わたしたちの中でご自身を複製してください。そして、わたしたちが神を表現することができますように。

 

 

イエスにあるあの実際にしたがって、キリストを学びます

 

 わたしたちは、主イエスを信じて救われた時、神はわたしたちを鋳型としてのキリストの中に入れられました。この鋳型は四福音書に記録されたイエスの生活、完全に実際にしたがった生活です。実際(真理)は光の輝き、光の表現です。神は光ですから(Ⅰヨハネ1:5)、実際(真理)は神の表現です。福音書に記録されたイエスの生活のあらゆる面は、神の表現です。彼が言い、行なったあらゆることで、彼は神を表現されました。この神の表現は光の輝きです。ですから、それは実際です。

 

 実際にしたがったイエスのこの生活は、神がわたしたちをその中に置かれた模範です。わたしたちはこの模範の中で、イエスにあるあの実際にしたがって、キリストを学んできました。これは、わたしたちが福音書に示された実際にしたがって、すなわち、神の実際に完全にしたがった主イエスの生活にしたがって、キリストを学んできたことを意味します。この生活は光の輝きです。光の輝きは実際(真理)であり、実際(真理)は神の表現です。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(2)」、第46-47編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第30日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第5週2日)

 

主イエスの言葉を食べて、正常で霊的な消化を持つ必要があります

 

エゼキエル3:1-4

……「人の子よ、あなたが見つけるものを食べなさい.この巻物を食べ、行って、……語りなさい」。そこで、わたしが口を開くと、彼はわたしにその巻物を食べさせた。……わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家に行って、わたしの言葉を彼らに語りなさい」。

 

「わたしたちは主イエスの言葉を食べることによって彼を食べるとき、正常で霊的な消化を持つ必要があります(エゼキエル3:1-4.エレミヤ15:16.啓10:9-10)。わたしたちが良く消化するなら、食物は順調にわたしたちの内側の存在のあらゆる部分に入り込みます」。

 

 主イエスの言葉を食べて、霊的な消化を持ち、豊富な養分を吸収することができますように。主よ、わたしのあらゆる部分に入り込み、わたしを得てください。

 

 

主イエスの言葉を食べて消化し、キリストの豊富の養分をすべて享受し吸収します

 

 わたしたちは食べることによって消化し、消化することによって吸収し、この吸収することによってイエスの豊富の実際的な養分をわたしたちの存在の中へと取り入れます。キリストのすべての豊富は最終的に、わたしたちの有機的な組織へと成長します。そのとき、わたしたちはキリストになります。生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです。わたしにとって生きることはキリストです。

 

 主を呼び求め、彼を食べ飲みした後、わたしたちは言わなければなりません、「主よ、わたしをあわれんでください。わたしの存在のあらゆる部分をあなたに対して開かせてください。わたしの全存在の内側を順調に通ってください」。そのとき、わたしたちは良く吸収するために良く消化し、キリストの豊富の養分をすべて享受し吸収するようになります。そのとき、キリストはわたしたちの存在そのものとなられます。(リー全集、1972年、第1巻(上)、「キリストを享受する生きた実行上の道」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第29日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第5週1日)

 

神の御言を思い巡らして、霊と命である彼の言葉を食べます

 

エレミヤ15:16

あなたの言葉が見いだされて、わたしはそれを食べました.あなたの言葉はわたしにとって、心の楽しみ、また喜びとなりました.……

 

「わたしたちは主イエスをわたしたちの霊の食物として食べて、享受し、彼を命を与える霊として受け入れることができます。それはすべての祈りによって、また彼の言葉を思い巡らす(口ずさむ)ことによって、霊と命である彼の言葉を食べることを通してです――ヨハネ6:57, 63.エレミヤ15:16とフットノート.エペソ6:17-18.詩119:15とフットノート.マタイ4:4.詩119:103」。

 

 主よ、命の木である主イエスをわたしたちの霊の食物として食べて、享受することができますように。主よ、神の御言を思い巡らすことによって主を吸い込み、霊的な養いを受けることができますように。

 

 

夜明け前に起き上がり、叫び求めて、神の言葉を待ち望みます

 

 神の御言を思い巡らすことは、神の御言を神の息として享受することです。それは御言の中で神と接触すること、御言を通して御言をもって彼と交わりを持ち、彼を礼拝し、彼に祈ることです。このように神の御言を思い巡らすことによって、わたしたちは神によって注入され、彼をわたしたちの中へと吸い込み、霊的な養いを受けます。

 御言を思い巡らすことについて、詩篇第119篇147節は言います、「わたしは夜明けに先立って目覚め、叫び求めます.わたしはあなたの言葉を待ち望みます」。ここでわたしたちは、詩篇の作者が夜明け前に起き上がり、叫び求めて、神の言葉を待ち望んだことを見ます。……

 

 御言を思い巡らすことは、単に御言を黙想すること以上のものを含んでいます。わたしたちが御言を思い巡らすのは、神に語り、彼を礼拝し、彼を享受し、彼から恵みを受け、主の臨在の中で自分自身と会話することによってです。わたしたちは神の御言を思い巡らすなら、御言によって自分自身を喜ばせるでしょう。時にはわたしたちは主の御前で泣き、あるいは彼に対する賛美の歌を歌うでしょう。(「出エジプト記ライフスタディ(3)」、第57編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第27日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第4週6日)

        

神が「接ぎ木されている」人は、 神・人です

 

ガラテヤ2:20

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。

 

「わたしたちがぶどうの木の中に住むとき、神はわたしたちの中へと分与され、命の木から命が枝の中へと分与されます。この分与は、わたしたちを神・人にならせます(ローマ8:10, 6, 11)」。

 

 主よ、あなたはわたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださったことを感謝します。主よ、わたしたちがあなたの中で、神・人のミングリングされた生活をすることができますように。

 

 

わたしたちは、神・人のミングリングされた生活をします

 

 神には、わたしたちが人であることをやめるという意図はありません。神には、わたしたちが霊であるという意図はありません。神は、わたしたちが神・人、神が「接ぎ木されている」者であることを願われます。そのような事はわたしたちの概念にありません。わたしたちの概念では、ただわたしたち自身であって、自分はそれほど悪くないと考えます。しかしながら、わたしたちは十分に良くはありません。まだいくらかの欠点があります。その結果、わたしたちは改善を必要とし、さらに良くなるための変化を期待します。さらに良くなるために変化するというのは人の観念です。

 

 学校は、人が改善して前より良くなるという望みをもって人を教育します。このような改善は、表面的には少し効果があるように見えますが、最後に、人は前よりも悪くなり、改善される望みがなくなります。神はこれを願っておられません。……彼はわたしたちが神で満たされて、生ける命の水がわたしたちから川のように流れ出ることを願われます。これは神聖な命が人の命に加えられること、神の命が人の命へと接ぎ木されること、二つの命が一つの命となり、こうして神・人のミングリングされた生活をすることです。(「神聖な分与におけるさらに深い学び」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第26日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第4週5日)

 

わたしたちは主を受け入れ、主から飲み、主を食べ、主の中に住みます

 

ヨハネ15:4-5

わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。…

 

「命の木は、神聖な命をわたしたちの中へと分与するためです。わたしたちは枝としてぶどうの木の中に住むとき、命の木から命の分与を受け、命の木の一部分として生きます(ヨハネ15:5.ローマ8:2, 10, 6, 11.参照、ピリピ4:13」)」。

 

 主よ、わたしたちはぶどうの木としてのあなたの中に住んで、実を結ぶことができますように。主を受け入れ、主から飲み、主を食べ、主の中に住んで、命の木の享受と経験を深めさせてください。

 

 

わたしたちは枝としてぶどうの木の中に住むとき、命の木の一部分として生きます

 

 この命を与える霊は、キリストご自身であり、また神であった言、神の御子、三一の神の実際であって、わたしたちの内側におられます。わたしたちは主を常食とし、彼から食べるだけでなく、主の中に住むことも学ばなければなりません。ヨハネによる福音書第1章12節から13節がわたしたちに告げているのは、わたしたちは主を受け入れなければならないということであり、また主を信じることは彼を受け入れることであるということです。ヨハネによる福音書がまたわたしたちに告げているのは、わたしたちは主から飲まなければならないということであり(4:14.7:37)、またわたしたちは主を食べなければならないということです(6:57)。

 

 その上さらに、ヨハネによる福音書がわたしたちに告げているのは、わたしたちは主の中に住まなければならないということです(15:4)。ヨハネによる福音書における順序は、主を受け入れること、主から飲むこと、主を食べること、そして主の中に住むことです。主の中に住むためには、わたしたちはまず彼を受け入れなければなりません。それからわたしたちは、どのようにして主から飲み、彼を常食とするかを学ばなければなりません。彼から飲み、彼を常食とすることによって、わたしたちは彼の中に住むことができます。(リー全集、1965年、第2巻(上)、「命の木」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第25日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第4週4日)

 

接ぎ木された命の中で、人の命は強められ、引き上げられ、豊かにされます

 

ローマ6:5

もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結合して生長したなら、彼の復活の様の中でも彼と結合して生長するのです。

 

「接ぎ木された命の中で、人の命は取り除かれるのではなく、神聖な命によって強められ、引き上げられ、豊かにされます(ガラテヤ2:20.4:19.エペソ3:16-17前半)。接ぎ木された命の中で、神聖な命はわたしたちの中で働いて、消極的な要素を排出します」。

 

 主よ、わたしたちの中にある神聖な命を感謝します。主よ、わたしたちの内側の消極的な要素が排出され、わたしたちを造り変えて、あなたに同形化してください。

 

 

接ぎ木された神聖な命は、わたしたちの内側の消極的な要素を排出します

 

 神聖な命がわたしたちの内側で働いて、わたしたちを造り変え、同形化するとき、それはわたしたちの内側の消極的な要素を排出します。こういうわけで、だれもわたしたちを調整する必要はありません。神聖な命は、わたしたちの中で徐々に働いて、消極的で天然的なものをすべて取り除きます。神聖な命は[また]わたしたちを復活させます。……神が創造されるものは何であれ善です。神は彼の創造を放棄することをしないで、神聖な命の復活の力によってそれを取り戻し、回復されます。神聖な命は消極的なものを排出するとき、働いて、神の当初の創造を復活させます。

 

 神はわたしたちを、思い、感情、意志、魂、心、霊をもって創造されました。そして神はわたしたちの存在のこれらすべての面を、復活の中へともたらすことを意図しておられます。わたしたちは救われる前、思いは鈍く、感情は不均衡で、意志は不正常であったかもしれません。しかしわたしたちが主に触れて、彼を経験すればするほど、ますますわたしたちの思いは明確で冷静になり、ますます感情は正しく均衡がとれ、ますます意志は調整されてきます。これはわたしたちの天然の性格ではなく、復活させられた性格です。(ローマ人への手紙ライフスタディ(2)、第65編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第24日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第4週3日)

 

わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である

  

ヨハネ15:4-5

わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。…… わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。

 

「わたしたちがキリストの中へと接ぎ木されるために、キリストは肉体と成ること、十字架、復活の手順を経過して、命を与える霊と成らなければなりませんでした(ヨハネ1:14.Ⅰコリント2:2.15:45)。わたしたちは命の木としてのキリストの中へと接ぎ木されており、この接ぎ木はわたしたちを彼と一にしました(ローマ11:24)」。

 

 主よ、わたしたちは野生の枝ですが、あなたの中へと接ぎ木されたことを感謝します。今、わたしたちはミングリングされた霊によって、接ぎ木された命を生きることができますように。

 

 

わたしたちはキリストと共に接ぎ木された後、ミングリングされた霊によって生きます

 

 接ぎ木する人は、接ぎ木を成功させるために、接ぎ木する部分の両方が切られ、死ななければならないことを知っています。まず、接ぎ木する部分が死に、次に、接ぎ木される部分も死ななければなりません。両側の枝が死んではじめて、接ぎ木が完成されることができます。ある日、キリストの側で、ダビデの枝として[ゼカリヤ3:8.エレミヤ23:5.33:15]、彼は十字架上で死なれました。しかしながら、… 主は死と復活を通して、命を与える霊と成りました(Ⅰコリント15:45後半)。そのような霊と成ることによって、キリストは接ぎ木される用意ができました。

 

 わたしたちの側で、わたしたちは罪人として、悔い改めて主を受け入れる必要があります。……[そして]命を与える霊としての彼はわたしたちの霊の中へと入り、神聖な命をわたしたちの中に入れます。 わたしたちはキリストと共に接ぎ木された後、もはや自分自身によって生きるべきではありません。そうではなく、霊なるキリストにわたしたちの中で生きていただくべきです。…… わたしたちはミングリングされた霊、キリストに接ぎ木された霊によって生きるべきです。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(下))

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第23日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第4週2日)

 

神と人が共に接ぎ木されて、有機的な結合の中で一となります

 

ローマ11:17-18

ところが、もし枝の中のあるものが折られて、野生のオリブの木であるあなたが、彼らの間に接がれ、オリブの木の根の豊かな養分に共にあずかる者となったとしても、それらの枝に対して誇ってはなりません.しかし、あなたが誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えていることを覚えていなさい。

 

「神が人と持つことを願っている関係は、神と人が共に接ぎ木されて、有機的な結合の中で一となることです(ローマ6:3-5.ヨハネ15:4-5)。接ぎ木された命は交換された命ではなく、人の命と神聖な命とのミングリングです(Ⅰコリント6:17)。接ぎ木において、二つの似た命は結合されて、共に有機的に成長します(ローマ11:24)」。

 

 主よ、わたしたちは接ぎ木されて、オリブの木の豊かな養分に共にあずかる者とされたことを感謝します。主と共に葬られ、主と共に命の新しさの中を歩くことができますように。

 

 

わたしたちはキリストの中に接ぎ木され 結合されて、共に有機的に成長します

 

 A・B・シンプソンによる詩歌365番の一行で、あわれな木は、さらに良い木に接ぎ木されて、さらに豊かで、さらに甘い命を得ます。そのあわれな木の命は、消えるのではありません。むしろ、それは豊かで甘い木の命と、一つの単位として共に成長します。再び、これは交換された命ではなく、接ぎ木された命であることを見ます。

 

 さらに、神によって定められた自然の法則によれば、貧しい命がより豊かな命に影響を与えるのではなく、より豊かな命が貧しい命に影響を与えるのです。事実、豊かな命は貧しい命のすべての欠点を飲み尽くし、貧しい命を造り変えます。同じ原則で、わたしたちがキリストの中に接ぎ木されるとき、キリストはわたしたちの欠点を飲み尽くしますが、わたしたち自身の命を除き去るのではありません。その反対に、彼はわたしたちの欠点を飲み尽くす時、わたしたちの人性を引き上げられます。彼はわたしたちの思い、意志、感情、すべての美徳を引き上げられます。(ローマ人への手紙ライフスタディ(2)、第63編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


 8月の祈り 第22日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第4週1日)

 

神の願いは、神と人が一となることです

 

Ⅰコリント 6:17

しかし、主に結合される者は、主と一つ霊になります。

 

エペソ4:3

平和の結合するきずなの中で、その霊の一を保つことを熱心に努めなさい.

 

「聖書は啓示していますが、神が人と持つことを願っている関係は、神と人が一となることです(Ⅰコリント6:17)。神のエコノミーの中心路線は、神と人、人と神とを、一つの実体にして、両者が一つの命と一つの性質によって一つの生活を持つということです(啓22:17)」。

 

 主よ、あなたの願いは神と人が一になることです。主よ、わたしたちが主に結合されて、主と一つ霊になっていることを感謝します。主よ、わたしたちがあなたと一つの命と一つの性質によって、一つの生活を持つことができますように。

 

 

神のエコノミーの中心路線は、神と人が一つの命と一つの性質によって一つの生活を持つことです

 

 神のエコノミーの中で、神はただ一つの意図を持っておられます。それはご自身のために有機体を得ることです。過去の永遠に、神は彼のエコノミーの中で一つの事を行なうことを決定されました。それは、ご自身のために有機体、キリストのからだを創造することでした。神はこの目的のために、宇宙と人を創造されました。そして人は堕落しましたが、神は人に、彼が女を通して来て人と成り、ご自身を人と結合し、人と一になることを約束されました(創3:15)。

 

 最後に、彼は人と成ってこの地上で生活し、人々に神・人の生活を見せました。その後、彼は十字架に行き、わたしたちの罪のために死んだだけでなく、宇宙におけるあらゆる問題を対処されました。そして彼は復活させられました。彼は肉体と成ることにおいて、神を人の中へともたらし、彼の復活の中で人を神の中へともたらして、神と人が一になることができるようにされました。(詩篇ライフスタディ(1)、第16編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第20日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第3週6日)

 

主を愛すれば愛するほど、主との交わりの中で主の臨在を持ちます

 

ヨハネ14:21,23

……わたしを愛する者は、わたしの父に愛される.わたしも彼を愛して、わたし自身を彼に現す。 23 イエスは彼に答えて言われた、「だれでもわたしを愛する者は、わたしの言を守る.そしてわたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る。

 

「わたしたちが主を愛するとき、主はご自身をわたしたちに現します。そして、主と御父はわたしたちの所にやって来て、わたしたちと共に住まいを造ります(ヨハネ14:21, 23)。わたしたちは主を愛すれば愛するほど、ますます主との交わりの中で主の臨在を持つようになります」。

 

 主イエスよ、わたしはあなたを愛します。主よ、わたしたちを引き寄せてください。主よ、わたしたちがさらに主を愛して、あなたの臨在を享受することができますように。主よ、神聖な三一の神がわたしたちの中に住んでおられることを享受することができますように。

 

 

御父が御子と共に、御子を愛する者たちの所にやって来て、彼らと共に住まいを造ります

 

 ヨハネによる福音書第14章21節と23節は、御子がご自身を彼の愛する者たちに現すこと、また御父が御子と共に、御子を愛する者たちの所にやって来て、彼らと共に住まいを造ることを見せています。その霊がわたしたちの中に住んだ後、御子はご自身を彼の愛する者たちに現されるでしょう。イエス・キリストの信者になっても、彼を愛する者でない可能性があります。わたしたちが彼を信じるとき、神聖な三一の三者が来て、わたしたちの中に住まわれます。

 

 しかし、彼を信じた後、彼がわたしたちの中に住んでおられることを知り、彼を愛する必要があります。……わたしたちはキリストの信者ですが、わたしたちの間のどれほどがイエスを愛する者でしょうか? 対象としての御父は、具体化としてのイエスの中におられます。この具体化は、彼の実際化としてのその霊の中におられます。この実際化は、今わたしたちすべての中に住んでおられるまさにその霊です。(「神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる」、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第19日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第3週5日)

 

主の回復は、初めの愛をもって主イエスを愛することの回復です

 

雅1:2-4

彼の口の口づけをもって、わたしに口づけしてください!あなたの愛はぶどう酒にまさるのです。あなたの塗り油はかぐわしい香りを放ち、あなたの名は注がれた香油のようです.それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。わたしを引き寄せてください.わたしたちはあなたの後を走ります……。

 

「主の回復は、初めの愛、すなわち最上の愛をもって主イエスを愛することの回復であり、また主イエスを命の木として食べることの回復であり、キリストの有機的なからだを建造するためです。それは、神の永遠のエコノミーの目標としての新エルサレムを建造することです(エペソ4:15-16.啓22:14)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしをあなたの愛の中に保ってください。あなたご自身をもってわたしを魅了してください。わたしをいつもあなたの愛すべき臨在の中に保ってください。

 

 

いったんイエスの愛を見るなら、わたしたちは深く押し迫られ、深く捕らえられ、深く魅了されるでしょう

 

 命は一人のパースンです。そして愛以外に、このパースンを適用し享受する道はありません。わたしたちは主を愛する必要があります。過去の世紀において、何人かの聖徒たちは、よくこのように祈っていました、「主よ、わたしがあなたを愛するために、あなたの愛を見せてください」。わたしたちは同じ祈りをする必要があります。いったんイエスの愛を見るなら、わたしたちは深く押し迫られ、深く捕らえられ、深く魅了されるでしょう。わたしたちは自然に主を愛するでしょう。そして、…… 主を享受するでしょう。これが命です。そしてこの命は一人のパースンであるので、愛以外に、わたしたちが主を経験する道はないのです。ただイエスを愛することによってのみ、わたしたちは主を享受することができます。

 

 もしわたしたちがこのパースンとやりとりしようとするなら、わたしたちは常に主と接触していたいという、熱い愛する心、愛情に満ちあふれた心を持たなければなりません。……雅歌は、いかに主イエスが全く愛らしいかを説明しています。この書は、いかに主が魅力的であるか、またいかにわたしたちが主を愛する者たちであるかを見せています。(リー全集、1972年、第1巻(上)、「雅歌において描写されている命と建造」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第18日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第3週4日)

 

キリストをわたしたちの命の供給として享受することは、召会生活の主要な事柄です

 

啓2:5,7

そこで、あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めのわざを行ないなさい.しかし、そうしないなら、わたしはあなたの所へ行く.そして、もしあなたが悔い改めないなら、あなたの燭台をその所から除き去る。7 ……勝利を得る者には、神のパラダイスにある命の木から食べさせよう。

 

「命の木を食べること、すなわち、キリストをわたしたちの命の供給として享受することは、召会生活の主要な事柄であるべきです。命の木としてのキリストは、「食べるのに良い」ものであり(創2:9)、それによってわたしたちは、彼を食べてわたしたちの享受とすることができ、また彼で構成されて神の表現となることができます(創1:26.ヨハネ6:57, 63)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、あなたを食べて享受します。わたしたちが金の燭台として、イエスの証しとして輝いていることができますように。

 

 

キリストを食べて主を享受することを維持する時、直ちに召会生活はパラダイスとなります

 

 あなたが初めの愛を失うことに打ち勝ち、キリストを食べること、主を享受することを維持する時、直ちに召会生活は、あなたにとってパラダイスとなります。…… わたしたちがあらゆる事において主を首位とし、彼を命の木として一日中、享受するなら、直ちに召会は、その状態がどうであっても、わたしたちにとってパラダイスとなります。こういうわけで、わたしたちは神のパラダイスの中で命の木を食べなければならないと、主は言われるのです。

 

 わたしたちは初めの愛を離れることに打ち勝ち、命の木としてのキリストを食べることを維持し、燭台としての神聖な光を輝かし出す必要があります(啓2:5後半)。愛は命と関係があり、命は光と関係があります。愛、命、光は三一です。もしキリストをあらゆる事において初めとするなら、あなたは愛を持ちます。もしこの愛を持つなら、命を持ち、主を享受するでしょう。あなたが命を持つなら、この命はあなたにとって光となります。燭台、召会の光は、召会時代の暗い夜の中で、個人主義に対抗して、団体的に輝き出ます。(「勝利者」、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第17日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第3週3日)

 

あらゆる事において主イエスを首位とし、初めの愛を回復します

 

啓示録2:4

しかし、わたしには、あなたを責めるべき事が一つある.あなたは初めの愛を離れてしまった。

 

マルコ12:30

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主であるあなたの神を愛しなさい。

 

「啓示録第2章1節から7節のエペソに在る召会への主の手紙には、四つの主要な点があります。それは「愛(love)」、「命(life)」、「光(light)」、「燭台(lampstand)」です。わたしたちはあらゆる面において、またあらゆる事において、主イエスを首位とし、初めの愛を回復しなければなりません。そうすれば、わたしたちは主を命の木として享受します。そして、この命は命の光となります(ヨハネ8:12.エペソ5:8-9,13)」。

 

 主よ、わたしたちがあらゆる事においてあなたを首位として、初めの愛を回復することができますように。主よ、わたしたちが大きな事柄だけでなく、小さな事柄においても初めの愛を離れることに打ち勝つことができますように。

 

 

キリストは大きな事柄だけでなく、小さな事柄でも初めとなるべきです

 

 全宇宙で、神は初めです。神は始まりです[参照、創1:1]。神は初めです。コロサイ人への手紙は、わたしたちのキリストは第一でなければならないと言います(1:18後半)。……初めの愛を回復するとは、主イエスをあらゆることで初めと考えることです。キリストをわたしたちの生活ですべてとするなら、それは、わたしたちが初めの愛を失うことに打ち勝ったことを意味します。キリストは大きな事柄だけでなく、小さな事柄でも初めとなるべきです。……わたしたちは、服装や髪型の方法で、キリストを首位とすべきです。わたしたちがあらゆる事において、キリストを首位とするとき、これが初めの愛を回復することです。…… 

 

 わたしは身なりを整えているとき、主にこう言います、「主よ、あなたはこのワイシャツが好きでしょうか? あなたはこの靴が好きでしょうか?」。そのような会話は、初めの愛としての主に対してとても親密です。初めの愛を回復することは、大きな事柄と同時に、小さな事柄でも、彼を首位とすることです。夫は妻と会話する方法で、キリストを首位とすべきです。わたしたちは、主を首位としなかったすべての事柄のために、赦してくださるよう主に求める必要があります。(「勝利者」、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第16日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第3週2日)

 

キリストとからだとしての召会を愛します

 

エペソ5:25

夫たちよ、キリストが召会を愛して、彼女のためにご自身を捨てられたように、あなたがたの妻を愛しなさい.

 

エペソ6:24

不朽不滅の中で、わたしたちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みがありますように。

 

「エペソ人への手紙の目標は、わたしたちを神の内なる実質である愛の中へともたらすことです。それはわたしたちが、愛としての神を享受し、神聖な愛の甘さの中で神の臨在を享受して、それによってキリストと同じように他の人たちを愛するためです(エペソ1:15.2:4.3:19.5:2, 25.6:23.参照、Ⅰヨハネ4:16-19)」。

 

 主よ、わたしたちが主に対する初めの愛を失うことがないようにしてください。主よ、わたしの好みにしたがってではなく、あなたの心の願いにしたがって、あなたを愛することができますように。

 

 

不朽不滅の中で主を愛します

 

 エペソ人への手紙において、「愛の中で」という感覚豊かな句が、繰り返し用いられています……。その後、エペソに在る召会は、主に対する初めの愛を失ったために、主に叱責されました(啓2:4)。……キリストのからだなる召会は、キリストの花嫁、キリストの妻でもあります。からだに関して、強調点はキリストを命とすることです。妻に関して、強調点はキリストを愛することです。……この書簡を受け取ったエペソに在る召会は、主を愛する事において失敗しました。そのような失敗は、各時代における召会の失敗の源となり、そのおもな原因となりました(啓第2章―第3章)。(エペソ6:24、フットノート2)

 

 わたしたちは…… 不朽不滅の中で主を愛する必要があります。このような愛の中でわたしたちは聖くされ、傷のない者となり、根ざし土台づけられ、からだの一のために互いに担い合い、真実を、すなわち、かしらとしてのキリストとからだとしての召会を固く保つことができます。それによってわたしたちは有機体としてのからだの中で共に結合され、組み合わされ、建造されることができます。(リー全集、1988年、第1巻、551、554-556ページ[英文])

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第15日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第3週1日)

 

初めの愛から離れるなら、命の木としてのキリストの真の享受を失います

 

Ⅱコリント11:2-3

わたしは神のねたみをもって、あなたがたをねたんでいます.なぜなら、あなたがたを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです。ところが、わたしが恐れるのは、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが腐敗させられて、キリストに対する単純さと純潔を失いはしないかということです。

 

「アジアの諸召会は、エペソに在る召会を含めて、使徒パウロの婚約させる務めから離れ去っていました(Ⅱテモテ1:15.Ⅱコリント11:2-3)。こういうわけで、わたしたちが見るのは、およそ二十六年後、使徒ヨハネがエペソに在る召会に書簡を書いたとき、彼らはすでに初めの愛を離れていて、命の木としてのキリストの真の享受を失っていたということです(啓2:4-5, 7)」。

 

 主よ、わたしたちが初めの愛をもって、あなたを愛することができますように。主よ、わたしたちが命の木としてのキリストを真に享受することができるように守ってください。

 

 

主の真の務めは、わたしたちの命の供給としての主を享受させます

 

 主の回復の目標……は、わたしたちが愛する唯一の夫としてのキリストご自身を回復することです。わたしたちはただ彼に属すべきです。わたしたちが清純な処女としてこの夫にもたらされ、彼を愛し、彼を高く評価し、彼に属する限り、保護されるでしょう。これがわたしたちを守り、聖別し、浸透し、造り変えます。……わたしたちは主のためであり、主に引き付けられ、主を愛し、主を高く評価し、主を尊ぶべきです。

 

 Ⅱコリント第11章3節……で使徒パウロは、ユダヤ教宣教者たちの教えが、創世記第3章で蛇がエバに語った欺きの言葉に比べられ得ることを示しています。……その教えは蛇からです。しかしながら、主の真の務めは常に、わたしたちの命の供給としての主を享受することで、わたしたちを強めます。(「コリント人への第二の手紙ライフスタディ(2)」、第52-53編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第13日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第2週6日)

 

わたしたちは命の原則にしたがって生活します

 

Ⅱコリント11:2

わたしは神のねたみをもって、あなたがたをねたんでいます.なぜなら、あなたがたを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです。

 

「わたしたちは命の原則にしたがって生活するなら、物事を正しいか間違っているかにしたがってではなく、命か死かにしたがって識別します(Ⅱコリント11:3)」。

 

 主よ、善悪知識の木は複雑です。命の木は単純で命の供給に満ちています。 主よ、命か死を識別して、命の供給としてのキリストを享受させてください。

 

 

真の務めは常にわたしたちを強めて、命の供給としてのキリストを享受させます

 

 命の木は単純です。この木には、ただ一つの要素があり、その要素は命です。命の木は命という結果になります。その反対に、善悪知識の木は複雑であり、また複雑化します。この木には、善、悪、知識、死があります。聖書は全体として、この二本の木の発展です。命の木は、キリストにある神がその霊として、わたしたちの命であることを表徴します。……サタンは死の力です。善悪知識の木は死としてのサタンを表徴し、知識、善、悪を含みます。蛇は複雑さのある善悪知識の木によって、エバを命の木からそらしました。エバはそらされ捕らえられたので、神に対する単純さと純潔を失いました。その結果、エバは堕落し、死がその堕落を通して入って来ました。これは、いかに蛇がエバを神のエコノミーからそらしたかの物語です。……

 

 しかしながら、主の真の務めは、常にわたしたちを強めて、わたしたちの命の供給としてのキリストを享受させます。主に対する享受からあなたを断ち切るものは蛇からです。しかし、あなたが主を享受するのを増し加えさせるものは、その霊からであり、新約の務めからのものです。(「コリント人への第二の手紙ライフスタディ(2)」、第53編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第12日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第2週5日)

 

死の感覚と、命と平安の感覚を認識させてください

 

ローマ8:6

肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。

 

エペソ4:18-19

彼らは、理解することで暗くなり、……神の命から遠ざけられ、感覚を失ってしまい、…

 

「わたしたちは命の原則にしたがって生活するために、命の内なる感覚に従う必要があります(ローマ8:6.エペソ4:18-19.イザヤ40:31)。命の感覚は主観的で、個人的で、実際的です。積極的な面で、命の感覚は命と平安の感覚であり、力、満足、安息、明るさ、心地よさの感覚を伴います(ローマ8:6節後半)」。

 

 主よ、わたしたちが命の感覚と死の感覚を識別することができますように。わたしたちの生活の中で、思いを霊に付けて、力、満足、平安、安息、解放などの命の感覚の中で生きることができますように。

 

 

消極的な面で、命の感覚は死の感覚であり、積極的な面で、命の感覚は積極的な命と平安の感覚を与えます

 

 消極的な面で、命の感覚は死の感覚であり、一種の消極的な感覚です。… ローマ人への手紙第8章6節が完全に感覚についての節であることを認識しなければなりません。…あなたは思いを肉に付けるとき、死の感覚を持ちます。あなたは死がそこにあるのを感じます。死の感覚は、……弱さ、むなしさ、不安、落ち着かないこと、意気消沈、渇き、暗やみ、内側の痛みなどの内なる感覚です。これは死がそこにあることを示します。死があるとき、これはあなたが思いを肉に付けていることを意味します。……これは命の感覚の消極的な機能です。

 

 積極的な面で、命の感覚は機能して、以下の積極的な事柄の感覚をわたしたちに与えます。すなわち力、満足、平安、安息、解放、生き生きしていること、潤い、明るさ、心地よさなどです(6節後半)。……これらすべては、わたしたちが命の感覚の機能から持つ積極的な感覚です。わたしたちはこのような感覚を持つとき、これは命の感覚の働きであることを認識しなければなりません。(リー全集、1979年、第1巻(上)、「命についての基本的学課」、第11課)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第11日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第2週4日)

 

わたしたちの霊は、魂、心、思い、感情、意志とは異なります

 

ヘブル4:12

なぜなら、神の言は生きていて効力があり、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思考と意図を識別することができるからです。

 

「わたしたちは命の原則にしたがって生活しようとするなら、霊を魂から識別して、霊を知る必要があります(ヘブル4:12.Ⅰコリント2:14-15)。また、わたしたちは、わたしたちの霊と、その他の内側の各部分との違いを知る必要があります(詩51:6.エゼキエル36:26.Ⅰペテロ3:4)」。

 

 主よ、あなたはわたしたちの霊の中におられます。主よ、わたしたちの霊が魂、心、思い、感情、意志とは異なることを認識することができますように。主よ、わたしたちが魂の命を否んで、主に従うことができますように。

 

 

わたしたちの霊と、その他の内側の各部分との違いを知る必要があります

 

 人は内側に多くの部分を持っています。その中には、霊、魂、心、思い、感情、意志、良心が含まれます。…… 心のすべての部分である思い、感情、意志は、魂すなわち天然の命、自己を構成する三部分です。これらの三部分は、霊の一部ではありません。……わたしたちが自分の思い、感情、意志に従っているなら、あるいは従おうとするなら、これはわたしたちが主に従っていないことを示します。なぜなら、主はこれらの部分におられるのではなく、わたしたちの霊の中にいるからです。

 

 しばしばわたしたちは多くのことを考えて、わたしたちの霊を消してしまいます。またある時には、主に逆らって事を行ないます。なぜなら、わたしたちは意志の中でとても強いからです。その上、わたしたちはしばしば感情の影響を受けています。これはまたわたしたちを主に逆らわせます。これは、わたしたちが主に従いたいなら、わたしたちの思い、感情、意志を否まなければならないことを示しています。……わたしたちは霊に従うとき、主ご自身に従っています。なぜなら、主はわたしたちの霊の中におられるからです。主は思い、感情、意志の中におられるのではなく、わたしたちの霊の中におられます。(リー全集、1963年、第2巻(上)、「キリストと召会に関する神の意図」、第10編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第10日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第2週3日)

 

内側の主に尋ねて、喜びを感じることを行ないます

 

ローマ8:6,11

肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。 11 そして、イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたがたの中に住んでいるなら、・・・・・ あなたがたの死ぬべき体にも、命を与えてくださいます。

 

「クリスチャン生活は、内なる命に基づいています(ローマ8:2, 6, 10-11)。わたしたちの生活の原則は、善と悪を区別することではありません。わたしたちは神の御前に来て、何が命のもので何が死のものであるかを決定しなければなりません(ローマ8:6.Ⅰヨハネ3:14)」。

 

 主よ、わたしたちは神の御前で、何が神の命の感覚か死の感覚かを知ることができますように。主よ、わたしたちが内側で喜びを感じ、油塗りを感じることを行なうことができますように。

 

 

神の命の感覚か死の感覚かによって、わたしたちの道を決めます

 

 クリスチャン生活の標準は、悪である事柄を対処するだけでなく、善である正しい事柄も対処します。多くの事柄は、人の標準によれば正しいのですが、神聖な標準は、それらが間違っていると宣言します。なぜなら、それは神聖な命に欠けているからです。……すべての事に対するかぎはこの点です。他の人はその事柄を正しいと言うかもしれません。わたしたちも同時に、それは正しいと言うかもしれません。しかし、…… わたしたちが何事かを行ない始める時、わたしたちは油塗りを感じるでしょうか、それとも圧迫されていると感じるでしょうか? ……

 

 命は外なる是非の標準によって決められるのではなく、神の命の感覚か死の感覚かによって決められるのであり、内側で神の命が盛り上がるか、それともしぼむかによって決められるべきです。…… わたしたちは内側の主に尋ねなければなりません。主が与える内なる感覚はどうでしょうか? わたしたちは、この事柄について内側で喜びを感じるでしょうか? わたしたちは霊的な幸いと平安を持つでしょうか? これらが、わたしたちの霊的な道を決定する事柄です。(ニー全集、第56巻、第37号、「生活の二つの原則―命の原則と是非の原則」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第9日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第2週2日)

 

クリスチャン生活は、内なる命に基づいています

 

創2:9,17

……園の中央に命の木と、善悪知識の木…… 17 ただし、善悪知識の木からは、食べてはならない.それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ。

 

「わたしたちのクリスチャン生活は、内なる命に基づいているのであって、正しいか間違っているかの外なる標準に基づいているのではありません。わたしたちの生活の原則は内側のものであって、外側のものではありません。もしわたしたちが正しいか間違っているかの原則によって生きるなら、わたしたちはこの世の人々と同じです(エペソ4:17)」。

 

 主よ、わたしたちを正しいか間違っているかで行なう生活から救ってください。主よ、わたしたちが内なる命から来るものだけを行なうことができるようにしてください。

 

 

わたしたちが内側に命があると感じるなら、その事柄は正しいです  

 

 わたしたちのクリスチャン生活は、内なる命に基づいているのであって、正しいか間違っているかの外なる標準に基づいているのではありません。この世的な多くの人々は、…… 是非の原則にしたがって生きています。もしあなたやわたしも是非の原則によって生きるなら、わたしたちはこの世の人々と同じです。クリスチャンがクリスチャンでない人々と違っているのは、わたしたちが外なる標準や律法によって生きないからです。…… わたしたちは、人の批評や意見によって、ある事が正しいか間違っているかを決めるのではありません。今日、わたしたちにはただ一つの問いがあります。すなわち、わたしたちの内なる命は何と言っているかです。

 

 もし命がわたしたちの内側で強く活動的であれば、わたしたちはその事を行なうことができます。もし命がわたしたちの内側で冷たくなえているなら、わたしたちはその事を行なうべきではありません。わたしたちの生活の原則は内側のものであって、外側のものではありません。…… 正しいか間違っているかが決定されるのは、外なる標準によるのではなく、内なる命によります。(ニー全集、第56巻、第37号、「生活の二つの原則―命の原則と是非の原則」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第8日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第2週1日)

 

命の木と善悪知識の木は、生活の二つの原則を見せています

 

創2:9,17

エホバ・神はその土地から、見て喜ばしく、食べるのに良い、すべての木を生えさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪知識の木とを生えさせられた。 17 ただし、善悪知識の木からは、食べてはならない.それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ。

 

「創世記第2章9節の二本の木(命の木と善悪知識の木)は、生活の二つの原則を表します。二本の木が見せているのは、クリスチャンが二つの異なる原則(正しいか間違っているかの原則、あるいは命の原則)にしたがって生活することがあり得るということです(Ⅰコリント8:1)」。

 

 主よ、わたしたちは正しいか間違っているかの知識によって生きてきましたが、主イエスを受け入れて新しい命を獲得しました。主よ、わたしたちは命の木を食べて、命の原則にしたがった生活をすることができますように。

 

 

わたしたちは命の原則をわたしたちの生活の標準として取ります

     

 神は人を創造した後、……人が自分の生活のために食物に依存していたのと同じ方法で、自分の生活のために神に依存するよう、人に求められました。「なぜなら、わたしたちは神にあって生き、動き、存在しているからです」(使徒17:28)。……命の木と善悪知識の木は一種のたとえです。それらはわたしたちに、人は異なる二種類の食物を持っており、命によってか、あるいは善悪知識、すなわち正しいか間違っているかの知識のどちらかによって生きることができることを見せています。多くの人々は創世記第2章の二本の木について読んだことがあります。

 

 しかし、わたしたちが強調したいのは、二本の木がそこに置かれていたのは、人、特にクリスチャンが二つの異なる原則にしたがって地上で生活することがあり得るということをわたしたちに見せるためであるということです。…… 何人かのクリスチャンは、是非の原則(正しいか間違っているかの原則)を自分たちの生活の標準として取りますが、他のクリスチャンは、命の原則を自分たちの生活の標準として取ります。(ニー全集、第56巻、第37号、「生活の二つの原則―命の原則と是非の原則」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第6日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第1週6日)

 

すべての真のクリスチャンは、エデンの園の縮図です

 

ローマ8:2,6

なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです。 6  肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。

 

「わたしたちは霊にしたがって歩き、また思いを霊に付けることによって、命の霊の法則に「スイッチを入れて」、三一の神を命として、わたしたちの三部分から成る存在の中へと分与していただかなければなりません(ローマ8:2, 4, 6, 10-11)」。

 

 主よ、わたしたちの中には命の木と善悪知識の木があります。 主よ、わたしたちが思いを霊に付けることによって、命の霊の法則に「スイッチを入れる」ことができますように。そして、命と平安を得ることができますように。

 

 

肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です

 

 すべての真のクリスチャンは、エデンの園の縮図です。あなたの魂の思いはあなたの自己を表し、あなたの肉の中の罪はサタンを表し、あなたの霊の中のその霊は[命の木としての]神を表します。 ローマ人への手紙第8章で……わたしたちは二本の木の出現を見ます。ローマ人への手紙第8章6節は、肉に付けた思いは死であり、霊に付けた思いは命と平安であると言っています。創世記第2章で、二本の木は客観的でした。ローマ人への手紙第8章では主観的です。

 

 この二本の木はもはや自分にないと、決して言うべきではありません。あなたがこのメッセージを読んでいる時でさえ、それらはあなたの内側にあります。……ローマ人への手紙第8章2節は命の霊の法則を述べており、それはわたしたちを罪と死の法則から解放します。ですから、ローマ人への手紙第8章には二つの法則、すなわち命の法則と死の法則があります。これら二つの法則は、わたしたちの主観的な経験における二本の木の二つの原則です。(創世記ライフスタディ(1)、第14編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第5日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第1週5日)

 

わたしたちは命の道にとどまります

 

詩119:147-148

わたしは夜明けに先立って目覚め、叫び求めます.わたしはあなたの言葉を待ち望みます。わたしの目は夜の見張りに先立って目覚め、あなたの言葉を思い巡らします。

 

「わたしたちが命の道にとどまるのは、御言を祈り読みし、言葉を思い巡らす(口ずさむ)ことを通してイエスを食べることによってであり、またわたしたちの信仰の霊を活用することを通してその霊である言葉を人の中へと供給することによってです(ヨハネ6:57, 63.エレミヤ15:16.詩119:15.マタイ4:4.24:45.Ⅰコリント2:4-5, 13)」。

 

 主よ、わたしたちが命の道にとどまるために、御言を祈り読みし、言葉を思い巡らすことができますように。主よ、朝早く御言の中で主を食べ、享受して、毎日の新しい開始を持つことができますように。

 

 

朝早く御言の中で主を享受して、毎日の新しい開始を持ちます

 

 わたしたちはまた、朝早く御言の中で主を享受して、毎日の新しい開始を持たなければなりません(詩119:147-148)。神の創造における原則によれば、神は新しい年、新しい月あるいは新月、新しい日を持つことを定められました。毎年、わたしたちは三百六十五の新しい開始を持つことができます。…… 今日わたしたちは失敗するかもしれませんが、主に感謝します。まだ明日がここでわたしたちを待っています。明朝、新しい開始を持つもう一つの機会があります。…

 

 新しい開始を持つことは難しくありません。それはとても簡単です。ただ少し早く起きて、「おお、主イエスよ。おお、主イエスよ」と言ってください。大きな声で叫んで人に迷惑をかける必要はありません。ただ「おお、主イエスよ」と言ってください。このように言うことは、大きな違いを生じます。…… そしてわたしたちは御言の短い箇所を、どこでも二節から四節、祈り読みする必要があります。わたしたちは祈り読みを通して、神の御言をもって、神の御言の中で主を享受することができます。わたしたちは毎日、朝にこれを行なって、良い、新しい開始を持つべきです。(「キリストのからだの建造のためにキリストを語る」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第4日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第1週4日)

 

命の木としてのキリストを享受することによって、命の道、命の路線にとどまります

 

ヨハネ10:10

……わたしが来たのは、羊が命を得、しかも豊かに得るためである。

 

啓22:1-2

また御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた.それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた。その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって、……

 

「わたしたちは、命の木としてのキリストを享受することによって、命の道、命の路線にとどまり、命を維持して、命における神の建造のために、わたしたちの命を成長させなければなりません(ヨハネ10:10後半.啓22:1-2.エペソ4:16.2:21-22.コロサイ2:19)」。

 

 主よ、命の木としてのキリストを食べて享受することができますように。主よ、命の道、命の路線にとどまらせてください。主よ、命における神の建造のために、わたしたちの命を成長させてください。

 

 

命における神の建造のために、わたしたちの命を成長させます

 

 命の木の原則と善悪知識の木の原則は、全聖書を通して実際とされています。聖書のすべての消極的なものは、知識の木の路線にあり、すべての積極的なものは、命の木の路線にあります。わたしは、第一の路線を知識の路線、第二の路線を命の路線と呼びます。これら二つの路線に従って行くなら、それらは全聖書を通してわたしたちを運びます。

 人は知識の木を食べるように誘われました。その結果、人は堕落しました。堕落した人の子孫は全く神に依り頼みませんでした。彼らは自分の知識に頼りました。……

 

 厳密に言えば、命の路線はアダムに始まりました。アダムは堕落し、また贖われ、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、そして多くのイスラエル人が続きました。この命の路線に、ノアの天幕、アブラハムの天幕、幕屋、宮があります。知識の路線はカインで始まり、すべての不信仰な人たちに続きました。この知識の路線には、エノクの町、バベルの町、ソドムの都、パロの財宝の都、バビロン、すなわち命の路線のものを捕虜にした都があります。(創世記ライフスタディ(1)、第14編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


 8月の祈り 第3日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第1週3日)

 

命は命の木で始まり、新エルサレム、すなわち命の水の都で終ります

 

ヨハネ15:5

わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。

 

「命の木は人を神に依存させますが(ヨハネ15:5)、知識の木は人を神に敵対して反逆させ、神から独立させます(参照、創3:5)。死は知識の木で始まり(創2:17)、火の池で終わっています(啓20:10, 14)。命は命の木で始まり、新エルサレム、すなわち命の水の都で終わっています(啓22:1-2)」。

 

 主よ、わたしたちは知識の木から食べて死の路線の中で、神から独立していました。主の救いを感謝します。主よ、今わたしたちは命の木から食べて、神に依存しています。主よ、新エルサレムへと至る、命の路線を歩み続けさせてください。

 

 

わたしたちは救われる前、死の路線にいましたが、救われた後、命の路線に置かれました

 

 創世記第1章と第2章のほとんどすべてのものは、神聖な啓示の種です。二本の木はそのような種です。……これらの種は続く聖書の各書で成長し、啓示録で収穫として刈り取られます。啓示録第20章10節と14節で、死が火の池の中へと投げ込まれるのを見ます。啓示録第22章2節で、命が新エルサレムに住むのを見ます。聖書の始まりに死と命を見いだし、聖書の終わりに再び死と命を見ます。

 

 聖書の両端の間に二つの路線、死の路線と命の路線が引かれています。二つの路線とも創世記で始まり、啓示録で終わります。死は善悪知識の木で始まり、火の池で終わっています。命は命の木で始まり、新エルサレムで終わっています。わたしたちは救われる前、死の路線にいました。わたしたちは救われた後、命の路線に置かれました。(創世記ライフスタディ(1)、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第2日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第1週2日)

 

善悪知識の木から食べるなら、必ず死にます

 

創2:16-17

そして、エホバ・神はその人に命じて言われた、「……善悪知識の木からは、食べてはならない.それから食べる日に、あなたは必ず死ぬ」。

 

「善悪知識の木は、人にとって死の源であるサタンを表徴します(ヘブル2:14)。この木はまた、神以外のすべてのものを表徴します。神ご自身でないものは何であれ、善いことも、さらには聖書的なことや宗教的なことも含めて、こうかつな者であるサタンに利用されて、死を人にもたらす可能性があります(ヨハネ5:39-40.Ⅱコリント3:6後半)。善と悪は二本の木で表徴されているのではなく、一本の木、すなわち第二の木で表徴されています。ですから、神以外の善いものを追い求めることは、サタンに属します」。

 

 主よ、わたしたちが命の木から食べて、あなたに依存することができますように。主よ、善悪知識の木の背後にはサタンが隠れています。主よ、わたしたちが善悪知識の木から食べることがないように守ってください。

 

 

善悪知識の木ではなく、命の木を選択する必要があります

 

 選択の最初のものは命の木であり、それは命としての神ご自身を意味しました。命の木の内容は命です。それは単純に、純粋に、絶対的に命です。この木の性質とこの木の結果も命です。命がその内容、性質、結果です。すべてが命です。……命の木の原則とは何でしょうか?  その原則は依存することです。わたしたちはみな依存していなければなりません。

 

 第二の選択は知識の木であり(創2:17)、それは命の木の反対でした。この木は単に悪の知識ではなく、善悪知識の木と呼ばれたことに注意してください。善の知識と悪の知識の両方が同じ木から来ます。知識が善の知識であるか悪の知識であるかは重要ではありません。それが知識である限り、命の木に属していません。それは知識の木に属しています。

 善悪知識の木はサタンを表徴していますが、……間接的にサタンを表徴します。なぜなら、サタンは神以外のものの背後に隠されているからです。サタンは自分を隠すことを好みます。ですから、知識の木は間接的に彼を表します。(創世記ライフスタディ(1)、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第1日

(朝ごとの食物  命の木としてのキリストを享受する道を取る 第1週1日)

 

神は、人が命の木である彼を選択することを願われました

 

創2:8-9

そして、エホバ・神は……園を植えられた.そして彼は形づくった人をそこに置かれた。エホバ・神はその土地から、見て喜ばしく、食べるのに良い、すべての木を生えさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪知識の木とを生えさせられた。

 

「命の木が表徴しているのは、三一の神の具体化であるキリストが、食物の形で人の命であるということです。それは、人が彼を享受し、彼をもって構成されて、彼の栄光、彼の団体的な表現となり、こうして神の永遠のエコノミーにしたがって神の当初の意図を完成するためです(創1:26.イザヤ43:7.創2:9.啓2:7.22:14.ヨハネ1:4.14:6前半.10:10後半.6:35, 57, 63.啓21:10-11.参照、4:3)」。

 

 主よ、わたしたちの前にはいつも二本の木があります。主よ、わたしたちがいつも命の木を選択することができますように。主よ、わたしたちが命の木としてのキリストを食べて享受し、主によって構成されますように。

 

 

神の具体化であるイエスは命の木です

 

 神は今日も同じです。神は決してだれにも強いて彼を受け入れさせません。主イエスが来た時、人々が彼について来るよう強制されませんでした。彼はご自身を人々に提供しましたが、常に彼らの選択の自由を尊重されました。……  神がアダムを、二つの源を意味する二本の木の前に置かれた時、同じ原則がエデンの園で働きました。神は人が、命の木である彼を選択することを願われました。

 

 命の木は象徴であり、正当な源である神を表徴しました(参照、詩36:9.ヨハネ1:4.10:10後半.11:25.14:6.Ⅰヨハネ5:12.コロサイ3:4)。もし創世記第2章だけを読むなら、命の木の意義を理解することはできないでしょう。しかしながら、ヨハネによる福音書が、命の木によって示された命を具体的に啓示しています。ヨハネによる福音書第1章4節は、「彼の中に命があった」と言い、第15章5節は、イエスはぶどうの木であると告げています。この二つの節を一緒にするなら、キリストが命の木であることがわかります。神の具体化であるイエスは命の木です。ですから、創世記第2章の命の木は、命の源である神の象徴です。(創世記ライフスタディ(1)、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)