朝ごとの食物

良き地によって予表されるすべてを含むキリストの上で労苦するのは、キリストのからだとしての召会を建造するためであり、王国の実際と実現のためであり、主の来臨のために花嫁が用意を整えるためである(3) 第11週3日~12週

良い戦いを戦い、行程を走り終え、その信仰を守り通し、主の出現を愛して、義の冠としてのキリストの褒章を受ける(1)

 

5月の祈り第31日

(国際華語特別集会 第2週5日)

 

絶えずイエスを見つめて、地上で天のレースを走ります

 

Ⅱコリント3:18

しかし、わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです。

 

「わたしたちが彼をひたすら見つめるとき、彼は天、命、力をわたしたちに供給し、彼であるすべてをわたしたちに伝達し、注入します。それによってわたしたちは地上で天のレースを走り、天の生活をすることができます(Ⅱコリント3:18)」。

 

   主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが主イエスを見つめるとき、主は天、命、力を供給してくださることを感謝します。主よ、信仰の源であるイエスをひたすら見つめさせてください。わたしたちが地上で天のレースを走り、天の生活をすることができますように。

 

 

信仰は、とても主観的な方法で、わたしたちのために信じるキリストご自身です

 

 「完成者」[ヘブル12:2]と訳されたギリシャ語は、「成就者」、「完結者」と訳すこともできます。……わたしたちが絶えず[イエス]を見つめるなら、イエスは天のレースを走るのに必要とする信仰を成就し、完結してくださいます。イエスは……創設し開始したものを成就し完結されます。…… わたしたちが信仰を持とうとするなら、信仰の源であるイエスをひたすら見つめなければなりません。……イエスはご自身をわたしたちの中に放射し、わたしたちをご自身で充電されます。その結果、自然にわたしたちは信仰を持ちます。

 

 信仰は、わたしたちから始まるのではありません。それはイエスから始まります。信仰は、とても主観的な方法で、わたしたちのために信じるキリストご自身です。主はご自身をわたしたちに注入し、ご自身をわたしたちの中へと造り込んで、はじめてこのパースンである彼が、わたしたちの中で信じる要素となられます。ですから、信じるのはわたしたちではありません。わたしたちの内側で信じるのは主です。このようにして、主はわたしたちを信じる者とならせられます。一見して、わたしたちが信じているようですが、実際には、主が信じておられるのです。これが真の信仰です。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第49編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第30日

(国際華語特別集会 第2週4日)

 

信仰は、まだ見ていない事柄を実体化します

 

Ⅱコリ4:18

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目をとめます.なぜなら、見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠であるからです。

 

Ⅱコリ5:7

(なぜなら、わたしたちは見えるものによってではなく、信仰によって歩くからです)。

 

「信仰は、実体化する能力、まだ見ていない事柄や望んでいる事柄を実体化し、実体を与える能力です(ヘブル11:1)。わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目をとめ、それを見つめます。主の回復は、彼の召会を見えるものから見えないものに回復することです(ヨハネ20:25.Ⅱコリント5:7)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが信仰を通して救われていることを感謝します。主よ、わたしたちのクリスチャン生活と召会生活の中で、わたしたちが見えるものにではなく、見えないものに目をとめることができますように。

 

 

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目をとめます

 

 クリスチャン生活に属するどのようなものも、目に見えません。……わたしたちはミングリングされた見えない霊にしたがって歩くことによって(ローマ8:4)、見えない生ける神を顧慮するとき、正常なクリスチャン生活と召会生活へと回復されつつあるのです。わたしたちは、目に見える事柄に目をとめるために、信仰を必要としません。……信仰によって歩くことは、わたしたちが目に見えない事柄に目をとめることを意味します。…… 

 

 わたしたちは、信仰を通して救われていることを知っています(エペソ2:8)。この信仰は、わたしたちに、神聖な命を伴う神聖な誕生を経験させます。わたしたちが再生されたとき、神聖な命、すなわち、天然の感覚にとって目に見えないものが、わたしたちの中へと分け与えられました。この命の分け与えの結果として、わたしたちは主にある兄弟姉妹となりました。神聖な誕生も神聖な命も見ることができませんが、わたしたちは、互いに神聖な命を実体化することができる能力を内側に持っています。わたしたちの内側にある、目に見えない神聖な命を感じることができるこの実体化する能力は、信仰です(ヘブル11:1)。(リー全集、1975年―1976年、第3巻(上)、「ヘブル人への手紙における重要な点に関する注釈」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第29日

(国際華語特別集会 第2週3日)

 

わたしたちが主を信じるのは、キリストが引き寄せることに対する反応としてです

 

Ⅰコリント9:25

競争する者はみな、すべての事で節制します.彼らは朽ちる冠を受けるためにそうしますが、わたしたちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

 

ヘブル12:2

わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.…

 

「わたしたちの信じることは、キリストが引き寄せることに対する反応として、キリストを高く評価することです(ローマ10:17)。わたしたちがイエスをひたすら見つめるとき、命を与える霊としての彼は(Ⅰコリント15:45後半)、ご自身を、すなわち彼の信じる要素を、わたしたちに注入します」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたを追い求める者たちをご自身へ引き寄せてくださることを感謝します。あなたは、天で御座に着かれ、栄光と尊貴を冠として与えられました。主よ、わたしたちが他のあらゆるものから目を離して、主だけをひたすら見つめることができますように。

 

 

主だけをひたすら見つめるのは、主の魅了する美しさに引き付けられることによります

 

 パウロは……[ヘブル書]では特に、天に座して、多くの面を備え、あらゆる面でわたしたちを顧みてくださるキリストを指摘しています。…… 天のキリストを享受するために、地上のすべての事柄から目を離し、神の御座の右に座しておられる彼をひたすら見つめる必要があります。主は彼の死と復活によって、神と人の両方が必要とするすべての事を達成されました。……

 

 すばらしいイエス、天で御座に着かれ、「栄光と尊貴を冠として与えられた」(ヘブル2:9)この方は、宇宙において最も強い力を持つ魅力です。彼は巨大な磁石のように、すべて彼を追い求める者たちをご自身へ引き付けられます。わたしたちがすべてのものから目を離して、彼だけをひたすら見つめるのは、このような魅了する美しさに引き付けられることによってです。わたしたちを魅了するものがなければ、どうして地上の多くのそらすものから離れて、彼をひたすら見つめることができるでしょうか?(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第50編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第28日

(国際華語特別集会 第2週2日)

 

わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめて走ります

 

ヘブル12:2

わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。

 

「わたしたちがクリスチャンのレースを走るのは、『わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめ』ることによります(ヘブル12:2節前半)。イエスは、信仰の創始者、すなわち信仰の創設者、開始者、源、要因です。信者たちの信仰は、実は彼ら自身の信仰ではなく、彼らの中へと入って彼らの信仰となったキリストです(ローマ3:22.ガラテヤ2:16)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストがわたしたちの中へと入って、わたしたちの信仰となってくださったことを感謝します。わたしたちは主から受けた尊い信仰によって生きます。主よ、わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスをひたすら見つめて、レースを走ることができますように。

 

 

わたしたちはイエスの信仰によって生きるのです

 

 わたしたちは信仰の創始者としてのイエスを必要とします。なぜなら、わたしたちの天然の人によれば、わたしたちには信じる能力はないからです。わたしたちは自分では信仰を持っていません。わたしたちが救われたのは信仰によってであり、その信仰はわたしたちが主から受けた尊い信仰です(Ⅱペテロ1:1)。わたしたちがイエスをひたすら見つめるとき、命を与える霊としての主は(Ⅰコリント15:45)、ご自身を、すなわち彼の信じる要素をわたしたちに注入されます。すると自然に、信じる能力がわたしたちの中に起こり、彼を信じる信仰を持ちます。

 

 この信仰は、わたしたち自身から出たものではなく、彼ご自身を信じる要素としてわたしたちの中へ分け与えてわたしたちに代わって信じてくださる方から出たものです。ですから、彼ご自身がわたしたちの信仰です。わたしたちは、わたしたちの信仰としての主によって生きます。すなわち、わたしたちは主の信仰によって生きるのであって(ガラテヤ2:20)、わたしたち自身の信仰によって生きるのではありません。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第49編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第27日

(国際華語特別集会 第2週1日)

 

主がわたしたちのために定めた、天のレースの行程を走ります

 

Ⅱテモテ4:7

わたしは良い戦いを戦い抜き、行程を走り終え、その信仰を守り通しました。

 

ヘブル12:1

こういうわけで、こんなにも大勢の証し人である雲に囲まれているのですから、わたしたちも、あらゆる重荷と、いとも容易にまといつく罪をかなぐり捨てて、前に置かれているレースを、忍耐をもって走ろうではありませんか。

 

「正常なクリスチャン生活は、行程を走ること、レースを走ることを含みます。それは神の永遠の定められた御旨にしたがって神のエコノミーを遂行するためです(Ⅰコリント9:24.エペソ1:11.3:11)。わたしたちは、主がわたしたちのために定めた旅路を尋ね求め、忠信にその中を歩み、あらゆる代価を払って、心を尽くしてわたしたちの旅路を継続して、ついには目的地に到達する必要があります(Ⅱテモテ4:7中)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。  わたしたちが走っているレースは、キリストご自身です。主がわたしたちのために定めてくださった旅路を尋ね求めて、前に置かれているレースを、忍耐をもって走ることができますように。

 

 

パウロは、前に置かれているレース、行程を走り終えました

 

 わたしたちが走っているレースは、実はキリストご自身です。主イエスは、「わたしは道」であると言われました(ヨハネ14:6)。レースは道、行程です。キリストがレースであるのは、彼が道であるからです。わたしたちが歩いている道は、わたしたちが走っているレースです。……キリストはわたしたちの道ですが、わたしたちはこの道を、単に道として取るべきではありません。むしろ、わたしたちはこの道を、走るべきレースとして取るべきです。……

 

 パウロは主によって所有された後に、天のレースの行程を走り始め、その行程を走り終えるまで(使徒20:24)、走り続けました(Ⅰコリント9:24-26、ピリピ3:12-14)。それから最後になって彼は、「わたしは……行程を走り終え[ました]」と勝ち誇って宣言をしました。彼はまた、主から賞(義の冠)を受けると宣言しました(Ⅱテモテ4:8)。(「真理課程、第四段階」、3巻、第44課)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第25日

(国際華語特別集会 第1週6日)

 

真理のために良い戦いを戦っています

 

Ⅰテモテ3:15

それは、もしわたしが遅れた場合、神の家の中でどのように振る舞うべきかを、あなたに知ってもらうためです.神の家とは生ける神の召会であって、真理の柱また基礎です。

 

Ⅱテモテ4:7

わたしは良い戦いを戦い抜き、行程を走り終え、その信仰を守り通しました。

      

「わたしたちは真理のために良い戦いを戦っています(Ⅰテモテ6:12.Ⅰヨハネ1:6.2:21.4:6)。真理は、三一の神と彼の言葉です(ヨハネ1:1, 14-17.14:6, 16-17.15:26.16:13.17:17.18:37後半)。神聖な真理は絶対的であって、わたしたちは真理に対して絶対的でなければならず、真理の絶対性を保持しなければなりません(14:6.18:37.Ⅲヨハネ3-4, 8節)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。真理は、三一の神と彼の言葉です。主よ、真理がわたしたちの中へと造り込まれ、わたしたちの存在の中へと構成し込まれますように。主よ、わたしたちが自分自身をわきにおいて、真理のために戦うことができますように。

 

 

わたしたちは真理に対して絶対的でなければなりません

 

 神の働きを顧みることを学ぶ際の一つの基本的な学課は、真理に対して絶対的であることです。聖書の中のどの真理も、人の状態とかかわりを持ちません。今日、人は真理に対して絶対的ではありません。なぜなら、自分の状態が真理とかかわりを持っているからです。真理が人の状態とかかわりを持っているので、人がある真理を経験していない時、彼はその真理を語ることができないと感じるのです。しかしながら、人は経験を持っているからある真理に関して語る資格があるわけではないことを、人は認識する必要があります。真理はそれ自身において絶対的です。

 

 ダビデは、人はみな偽りを語ると言いました(詩12:2)。彼がこの言葉を語った時、彼は自分自身のことを考えていませんでした。神の御前で、ダビデは自分を存在しない者と見なしたのです。神のしもべたちは、自分自身の内側を見ることはできません。神の真理は絶対的であり、わたしたちといかなるかかわりも持ちません。真理は絶対的であるので、わたしたちは自分自身をいけにえとしてささげ、自分自身をわきに置かなければなりません。(ニー全集、第57巻、第12編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第24日

(国際華語特別集会 第1週5日)

 

良い戦いを戦い、悪魔の要塞を破壊し、キリストに対して従順にならせます

 

Ⅱコリント10:3-5

なぜなら、わたしたちは肉の中で歩いてはいても、肉にしたがって戦っているのではないからです.わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前に力があって、要塞をも破壊し、神の知識に逆らい立っている議論や、あらゆる高ぶりを破壊し、あらゆる思想をとりこにして、キリストに対して従順にならせます。

 

「わたしたちは、サタンに対してまた暗やみの王国に対して良い戦いを戦っています。わたしたちは神の兵士となるべきであって、良い戦いを戦い、悪魔の要塞を破壊し、人の思想をとりこにして、キリストに対して従順にならせるべきです(Ⅱコリント10:3-5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、神の王国の権益のために、わたしたちを強い祈りの戦士としてください。良い戦いを戦って、神の知識に逆らい立っている議論や、あらゆる高ぶりを、キリストに対して従順にならせることができますように。わたしたちがこの時代において勝利を得て、来るべき時代において王として支配することができますように。

 

 

神の新約エコノミーにしたがった完全な福音の内容のために戦います

        

 神の王国の権益のために、信者たちはサタンと彼の暗やみの王国に対して良い戦いを戦わなければなりません。ですから、テモテへの第二の手紙第4章7節において、パウロは「わたしは良い戦いを戦い抜」いたと言っているのです。テモテへの第一の手紙第6章12節において、パウロは信者たちに「その信仰の良い戦いを戦いなさい」、すなわち、神の新約エコノミーにしたがった完全な福音の内容のために戦うように命じています。この事柄において、わたしたちは神聖な三一の分与を経験する必要があります。(「真理課程―第4段階、3巻」、第44課)

 

 わたしたちは神の兵士となるべきであって、良い戦いを戦い、悪魔の要塞を破壊し、人の思想をとりこにして、キリストに対して従順にならせるべきです。……わたしたちは強い祈りの戦士となるべきです。そうすれば、無数の悪霊はその道を得ることができず、わたしたちはキリストと共に歩き、働き、この時代において勝利を得て、来たるべき時代において王として支配することができるでしょう。(ニー全集、第1巻、「クリスチャン生活と戦い」、第9編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第23日

(国際華語特別集会 第1週4日)

 

パウロは永遠の命の約束を保持していました

 

Ⅱテモテ1:1,10

神のみこころを通し、キリスト・イエスにある命の約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから。……わたしたちの救い主キリスト・イエス……は死を廃棄し、福音を通して命と不朽を現し出されました。

 

「テモテへの第一の手紙で見られる召会に関する神のエコノミーを遂行するために、またテモテへの第二の手紙で見られる召会の衰退傾向に立ち向かうために、またテトスへの手紙で見られる召会の中の良い秩序を維持するためには、この命[永遠の命]が必要条件です」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリスト・イエスにある命の約束を感謝します。環境がどのように変わっても、わたしたちは内側に決して変わらない、永遠の、不朽の神の命を持っていることを感謝します。召会に関する神のエコノミーを遂行し、召会の衰退傾向に立ち向かい、召会の中の良い秩序を維持するために、永遠の命を保持して、良い戦いを戦うことができますように。

 

 

環境がどのように変わっても、この永遠の命は同じままです

 

 パウロはテモテへの第二の手紙を書いていたとき、諸召会が衰退しつつあったことに完全に気づいていました。しかしながら、彼は永遠の命の約束を保持していた者であったので、落胆したり失望したりしませんでした。彼は内側に決して変わらないもの、永遠の、非受造の、不朽の神の命を持っていました。環境がどのように変わっても、この永遠の命は同じままです。パウロ自身は神の命の中で励まされており、その状況によって失望していなかったので、テモテヘの第二の手紙を、若い同労者に対する励ましと力づけとしてだけでなく、また召会の衰退に対抗してキリストのからだ全体のための予防注射としても書きました。

 

 永遠の命(パウロは永遠の命にしたがって使徒になりました)は、不朽で変わることがありません。なぜならこの命は、実は手順を経た三一の神ご自身であるからです。パウロはこの命によって内住されていたので、全ローマ帝国でさえ彼を対処するとき、彼に打ち勝つことができませんでした。パウロは命としての手順を経た三一の神によって強められたのです。(「テモテへの第二の手紙ライフスタディ」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第22日

(国際華語特別集会 第1週3日)

 

その信仰の良い戦いを戦い.永遠の命を保持します

 

Ⅰテモテ6:12,19

その信仰の良い戦いを戦いなさい.永遠の命を保持しなさい.あなたはすでに永遠の命へと召され、多くの証人の前で良い告白を表明したのです。…… 将来に備えて良い土台を宝として、自分自身のために蓄え、あの真の命を保持するように。

 

「その信仰のために戦うことは、神の新約エコノミーのために戦うことを意味します。特に、それは神の具体化としてのキリストのために、またキリストのからだとしての召会のために戦うことです(コロサイ2:9.Ⅰコリント1:2.12:27)。わたしたちは、クリスチャン生活においてその信仰の良い戦いを戦うために、この神聖な命を保持する必要があり、わたしたちの人の命に信頼してはなりません(参照、マタイ16:25-26)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の永遠の命へと召されたことを感謝します。わたしたちが、クリスチャン生活において、この命から離れて何事も行なわないように守ってください。主よ、わたしたちが人の命に信頼しないで、この神聖な命を保持することができますように。

 

 

永遠の命を保持することによって、その信仰の良い戦いを戦います

 

 その信仰のために戦うことは[Ⅰテモテ6:21前半]、神の新約エコノミーのために戦うことを意味します。特に、それは神の具体化としてのキリストのために、またキリストのからだとしての召会のために戦うことです。[テモテへの第一の手紙第6章12節後半の]永遠の命は神聖な命、神の非受造の命であって、永遠のものです。永遠は、神聖な命の時間的な要素よりも、神聖な命の性質を示しています。クリスチャン生活、特にクリスチャンの務めにおいて、その信仰の良い戦いを戦うために、わたしたちはこの神聖な命を保持して、人の命に信頼しないようにする必要があります。……

 

 わたしたちは神の永遠の命へと召されました。わたしたちは人の天然の命から生まれましたが、キリストにあって神によって召された時、わたしたちは神聖な永遠の命から再生されました。わたしたちは永遠の命を保持することによって、客観的にだけでなく、また主観的にその信仰の良い戦いを戦います。わたしたちはこの命から離れて、何事をも行なうべきではありません。良い戦いを戦う者として、わたしたちは永遠の命を保持する必要があります。(「新約の結論(10)」、メッセージ171)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第21日

(国際華語特別集会 第1週2日)

 

信者たちが使徒たちの教えの中に居続けます

 

使徒2:42

そして、彼らは使徒たちの教えと交わりを堅く持ち続け、パンをさくことと祈りを堅く持ち続けた。

 

Ⅰテモテ1:18

わが子テモテよ、あなたに関して前になされた予言にしたがって、良い戦いを戦うようにと、わたしはこの命令をあなたに託します。

 

「良い戦いを戦うことは、異議を唱える者たちの異なる教えに対して戦うことであり、また神のエコノミーを遂行することです(Ⅰテモテ1:4)。この戦いは、恵みの福音と永遠の命に関する使徒の務めにしたがっており、ほめたたえられるべき神の栄光のためです(11-16節)。キリストと召会に関する神のエコノミーを教えて宣べ伝えることは、良い戦いを戦うことです(18節)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが使徒たちの教えと交わりを堅く持ち続け、パンをさくことと祈りを堅く持ち続けることができますように。キリストと召会に関する神のエコノミーを教えて宣べ伝え、その信仰の良い戦いを戦うことができますように。

 

 

異なる教えに対して戦い、神のエコノミーを遂行します

 

 パウロの最初の投獄の期間、諸召会はテストされました。このテストは衰退と堕落が入り込んでいたことを示しました。この衰退は完全に、異なる教え、務めと異なった教えのゆえでした。こういうわけでパウロはテモテに、良い戦いを戦うようにと命じたのです[Ⅰテモテ1:18]。何世紀にもわたって、召会の堕落と衰退には一つの源がありました。それは使徒たちの務めと異なる教えです。使徒行伝第2章42節でわたしたちは、召会生活の当初に、信者たちが使徒たちの教えの中に居続けたことを見ます。これらの教えは「その」務めでした。……

 

 使徒たちの務めの焦点は、肉体と成り、十字架につけられ、復活し、昇天し、栄光が現されたキリストが、わたしたちの救い主、命、すべてとなって、わたしたちが彼のからだ、召会となるということです。これが新約の啓示の極めて重要な焦点であり、これが神のエコノミーです。(「テモテへの第一の手紙ライフスタディ」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第20日

(国際華語特別集会 第1週1日)

 

良い戦いを戦います

 

Ⅰテモテ1:3-4

わたしが……あなたに勧めたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人たちが異なる事を教えたり、作り話や果てしのない系図に、心をとめたりすることがないように命じなさい.そのようなものは、信仰の中にある神のエコノミー[経綸]ではなく、むしろ論議を引き起こすだけです。

 

Ⅱテモテ4:7

わたしは良い戦いを戦い抜き、行程を走り終え、その信仰を守り通しました。

 

「Ⅱテモテ第4章7節において啓示されているように、正常なクリスチャン生活は三重のものです。それは、良い戦いを戦うこと、行程を走り終えること、その信仰を守り通すことと関係があります」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。信仰の中にある神のエコノミーを感謝します。主よ、わたしたちが、律法の原則に基づいている異なる教えによってそらされることがないように守ってください。そして、その信仰の良い戦いを戦い、行程を走り終えることができますように。

 

 

パウロは、その信仰の良い戦いを戦うようにと命じました

 

 信者として、わたしたちは使徒の命令を受けることによって良い戦いを戦う必要があります。テモテへの第一の手紙第1章18節は言います、「わが子テモテよ、あなたに関して前になされた予言にしたがって、良い戦いを戦うようにと、わたしはこの命令をあなたに託します」。……積極面で、この命令は神のエコノミーと関係があり、消極面で、それは異なる教えと関係があります。異なる教えのゆえに、召会はすでに堕落して、その信仰からそれていきました。パウロはテモテに、その信仰からそれていくことに対して戦うように、すなわちその信仰の良い戦いを戦うようにと命じました[6:12]。……

 

 テモテへの第一の手紙第1章で、使徒パウロは、神のエコノミーが異なる教えと反対することを提示しました。神のエコノミーは信仰の中にありますが(4節)、異なる教えは律法の原則に基づいており、律法を中心としています(7-10節)。ですから、ガラテヤ人への手紙第3章で取り扱われているように、信仰は律法に相対します。……信仰の中にある神のエコノミーは、律法の原則に基づき、律法を中心とする教えに反対し、神のエコノミーだけが健康であり、人々がキリストを信じて永遠の命へと至り(Ⅰテモテ1:16)、こうして、信仰の中にある神の永遠のご計画、神のエコノミーにあずかることができるようにします。(「テモテへの第一の手紙ライフスタディ」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第18日

(年二回の訓練12月 第12週6日)

 

共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至ります

 

エペソ2:21-22

その方の中で、建物全体が共に組み合わされ、主の中にある聖なる宮へと成長していき、その方の中で、あなたがたもまた共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至るのです。

 

「わたしたちが良き地としてのキリストのすべてを含む豊富を享受した結果は、宮、すなわち神の住まいとしての、また都、すなわち神の王国としての召会です(エペソ2:21-22)」。 聖なる地は、神が信者たちに割り当てた分け前としてのキリストを予表します……。聖なる都……はキリストにある神の王国を表徴します(詩48:1-2)。聖なる宮……は地上での神の家、召会を表徴します(エペソ2:21.Ⅰテモテ3:15)。これらは神のエコノミーに関する三つの重要な事柄です(列王上8:48、フットノート1)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがキリストのすべてを含む豊富を享受して、神に対して、また互いに対して服従に満ちることができますように。そして、キリストの権威がわたしたちの間にあり、わたしたちが共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至りますように。

 

 

わたしたちの間に服従があるなら、キリストの権威があり、神の住まい、神の宮を拡大します

 

 神の住まいは神の宮です。そしてわたしたちは神の宮を持つなら、神の臨在と神の奉仕を持ちます。しかし、この神の宮は拡大を必要とします。……それは神の権威としてのキリストによって拡大されます。……これは極めて実際的です。あなたとわたしが、わたしたちが示してきた方法でキリストを共に享受するとき、キリストの権威の実際がわたしたちの間にあります。そのような享受の中で、またそのような享受から、わたしたちは神に対して、また互いに対して大いに服従するでしょう。わたしたちは服従に満ちるでしょう。…… 

 

 わたしたちの間に服従があるなら、キリストの権威はわたしたちの間にあります。キリストの権威が、神の住まい、神の宮を拡大するのです。地はキリストご自身であり、宮と都はキリストの豊満です。キリストはかしらであり、キリストの豊満はからだ、召会です。……これが、神が今日求めておられるものです。(「すべてを含むキリスト」、第16章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第17日

(年二回の訓練12月 第12週5日)

 

主が選んだ場所(わたしたちの霊の中と、一の唯一の立場の上)で集まり、礼拝します

 

申12:5-7

エホバ・あなたがたの神が、……選んで彼の御名を置かれる場所、すなわち彼の住まいを尋ね求めて、そこへ行かなければならない。そして、あなたがたの全焼のささげ物と犠牲と十分の一……を、そこに持って行かなければならない.その所で、エホバ・あなたがたの神の御前で食べ、あなたがたと家族は、エホバ・あなたの神が祝福されたあなたの手のすべてのわざを、喜び楽しまなければならない。

 

「わたしたちは、主が選んだ場所(わたしたちの霊の中と、一の唯一の立場の上)で主の子供たちと集まり、団体的に礼拝しなければなりません(申12:5,11,13-14,18.16:16.ヨハネ4:24)。第一に、神の聖なる所、彼の住まいはわたしたちの霊の中にあります(エペソ2:22)。第二に、神の聖なる所は召会です(Ⅰテモテ3:15)。わたしたちの霊の中と召会の中で、わたしたちは神聖な啓示とすべての問題の説明とを受けます(詩73:16-28)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主が選んで御名を置かれる場所で、わたしたち主の子供たちが共に集まり、団体的に礼拝することができますように。わたしたちのミングリングされた霊の中で、神の聖なる所である召会の中で、キリストを喜び楽しみ、神を礼拝することができますように。

 

 

神を礼拝することに関する新約の啓示は、少なくとも四つの面があります

 

 神を礼拝することに関する新約の啓示は、少なくとも四つの面で申命記第12章の啓示に符合します。第一に、神の民は常に一であるべきです。彼らの間に分裂があってはなりません(詩第133篇.ヨハネ17:11、21-23……)。第二に、神の民がその中へと集まるべき唯一の御名は、主イエス・キリストの御名であり(マタイ18:20.Ⅰコリント1:12とフットノート)、その実際はその霊です(3節)。  第三に、新約で神の住居、彼の住まいは、特にわたしたちの霊の中に設けられています。それは、わたしたちのミングリングされた霊、再生され、神聖な霊によって内住されているわたしたちの人の霊です(ヨハネ3:6後半.ローマ8:16.Ⅱテモテ4:22.エペソ2:22)。

 

 第四に、わたしたちは神を礼拝するとき、祭壇で表徴されるキリストの十字架を真に適用し、肉、自己、天然の命を拒絶し、キリスト、ただキリストをもって神を礼拝しなければなりません(マタイ16:24.ガラテヤ2:20)。ですから、神の民が神を礼拝する集会は、主イエス・キリストの御名の中で、神の住まいの場所としてのミングリングされた霊の中で、十字架がある場所で、十分の一、ささげ物、犠牲の実際としてのキリストの享受を伴うべきです(参照、ヨハネ4:24のフットノート4)。(申命記12:5、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第16日

(年二回の訓練12月 第12週4日)

 

集会でわたしたちは、労苦して、享受し、経験したキリストを展覧します

 

Ⅰコリント14:26

それでは兄弟たちよ、どうなのですか? あなたがたがいつも集まるときには、それぞれの人に詩歌があり、教えがあり、啓示があり、異言があり、解釈があります。すべての事を、建造のために行ないなさい。

 

「わたしたちは共に集まって、わたしたちがその上で労苦したキリスト、すなわちわたしたちが享受し経験したキリストを展覧しなければなりません(申14:22-23)。わたしたちはすべての集会の中で、神への、また参加者への自発のささげ物として語るものをいつも持っているべきです(Ⅰコリント14:26)。集会に来る前、わたしたちは集会のために自分自身を準備し、主の何かを持っているべきです。それは、わたしたちが主を経験することを通して、あるいは主の言葉を享受し、祈りの中で彼と交わりを持つことを通してです」。

 

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが知恵を尽くして、キリストの言をわたしたちの内に豊かに住まわせることができますように。そして、集会の中で、享受し経験したキリストの豊富を、自発のささげ物として展覧することができますように。

 

 

古代の仮庵の祭りで、イスラエルの子たちは良き地で労苦して収穫した産物を、携えて来て主にささげました

 

[コリント人への第一の手紙第14章26節は]、わたしたちが召会の集会に来るとき、人に分け与える主の何かを持っていなければならないことを示します。……集会に来た後、わたしたちは霊感を待つべきではありません。待つ必要はありません。わたしたちはわたしたちの霊を活用し、わたしたちの訓練された思いを用いて機能し、主に対して彼の栄光と満足のために、また参加者に対して彼らの益(彼らが照らされ、養われ、建造されること)のために準備したものをささげるべきです。……

 

 これは、古代の仮庵の祭りのようです。イスラエルの子たちは良き地の産物、すなわち彼らがその地で労苦して収穫した物を、祭りに携えてきて主にささげました。それは、主との交わりと互いの交わりの中で、主に享受していただき、また互いに主の御前で享受するためでした。わたしたちは、わたしたちの良き地であるキリストの上で労苦して、彼の豊富からいくらかの産物を収穫し、召会の集会に携えて来て、ささげるべきです。(「コリント人への第一の手紙ライフスタディ(2)」、第63編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第15日

(年二回の訓練12月 第12週3日)

 

良き地としてのキリストの上で労苦し、享受としてのキリストを獲得します

 

ピリピ3:13-14

兄弟たちよ、わたしはまだ自分自身、捕らえたとは思っていません.ただ一つの事、すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばしつつ、キリスト・イエスの中でわたしを上に召してくださった神の賞を得るために、目標に向かって追い求めています。

 

 「わたしたちは勝利者になりたいなら、わたしたちの良き地としてのキリストの上で労苦し、わたしたちの享受としてのキリストを獲得する必要があります。毎朝わたしたちは、主を享受し経験するという単一の目的のために、自分自身を真実に主にささげなければなりません(参照、ピリピ3:13-14)。毎日、朝早く御言の中で主を享受して、日ごとに新しい開始を持つ必要があります(詩119:147-148)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが時間を贖い取って、神の聖なる御言に自分のエネルギーを費やすことができますように。主との交わりを維持し、いつも喜び、絶えず祈り、あらゆる事で感謝することによって、霊の中で満たされていますように。 

 

 

主を享受し経験するために、自分自身を真実に主にささげます

 

 キリストの上で日ごとに働くためにわたしたちは何をしなければならないのでしょうか? ……あなたは主を享受し経験するという単一の目的のために、自分自身を真実に主にささげなければなりません。他にありません。あなたは朝、目が覚めた瞬間から言う必要があります、「主よ、わたしはここにいます。わたし自身をささげてあなたを享受します。この瞬間から、一日中あらゆる状況の中であなたを経験し適用させてください。わたしは今日あなたを享受する恵みを求めています。どのように地を耕し、種をまき、主の植物に水を注ぐかを教えてください」。

 

 あなたは一日を通して瞬間ごとに、主との交流を維持するでしょう。あなたは実行上、主の中で生き、彼の上で労苦し、彼を適用し、彼を享受するでしょう。こうすれば、あなたの「畑」がいかに実り多く、…… キリストの畑はあなたの日常生活において、産物に満ちるでしょう。主日が来て、あなたは聖徒たちと共に行って主を礼拝するとき、言うことができるでしょう、「わたしは今わたしの神に会い……わたしの主を礼拝しようとしています。わたしは空手ではなく、キリストに満ちた手で行きます。わたしは余剰を持っており、右の手にはわたしの愛する主のために取っておかれた最上のものがあります」。(「すべてを含むキリスト」、第15編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第14日

(年二回の訓練12月 第12週2日)

 

あらゆる状況において、キリストを享受し経験することを追い求めます

 

コロサイ1:12

光の中で、聖徒たちに割り当てられた分け前にあずかるようにと、あなたがたを資格づけてくださった御父に、感謝をささげるように。

 

コロサイ2:6-7

それで、あなたがたはキリスト、主なるイエスを受け入れたのですから、すでに彼の中に根ざしており、そして建造されながら……

 

「わたしたちは、神の目にどのような生活をして、良き地によって予表される、すべてを含むキリストを享受することができるようになるかを見る必要があります(コロサイ1:12.2:6-7前半)。わたしたちはキリストの上で労苦する生活、個人的にキリストを享受する生活をする必要があります。そして、あらゆる状況においてキリストを享受し経験することを追い求める必要があります(ピリピ3:7-14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。光の中で聖徒たちに割り当てられた分け前を感謝します。主よ、わたしたちが良き地としてのキリストの上で労苦し、キリストを十分に産出することができますように。そして、他の人たちと主ご自身に与えることができるほどの余剰を持つことができますように。

 

 

良き地の産物は、わたしたちの労苦を通して来ます

 

 父なる神は、子なる神の贖いによって、霊なる神の聖別を通して、わたしたちがすべてを含むキリストに、すなわち、手順を経た三一の神の具体化に、聖徒たちに割り当てられた分け前としてあずかるようにと、資格づけてくださいました[カナンの良き地の割り当てによって例証されている]。(コロサイ1:12、フットノート1)

 

 良き地はすべてを含むキリストの予表です(参照、申8:7のフットノート1)。神の食物はキリストの豊富であり、良き地の産物によって予表され、この産物はわたしたちの労苦を通して来ます。わたしたちはキリストの上で労苦し、キリストを経験する必要があります。すると産物であるキリストは、わたしたちの満足のためだけでなく、神の満足のためでもあります。(民数記18:28、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第13日

(年二回の訓練12月 第12週1日)

 

霊的に言って、良き地の実際はコリント人への第二の手紙にあります

 

Ⅰコリント15:10

しかし、神の恵みによって、今のわたしがあるのです.そしてわたしに対する神の恵みは、無駄にはなりませんでした.……わたしは彼らのだれよりも多く労苦してきました.しかし、それはわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです。

 

Ⅱコリント6:1

そしてわたしたちは、神と共に働きながらあなたがたに懇請します.神の恵みを無駄に受けることがないようにしなさい。

 

「コリント人への第二の手紙における良き地の実際は、神聖な恵みとしてのキリストご自身です。主イエス・キリストの恵みは、コリント人への第二の手紙の中心思想、また主題です(Ⅱコリント13:14.1:12.4:15.6:1.8:1,9.9:8,14.12:9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主イエス・キリストの恵みを感謝します。主よ、わたしはあなたを良き地として獲得することを願います。主よ、すべての環境、生活において、あなたの恵みがわたしを強め、わたしに活力を与え、あなたを良き地として享受することができますように。 

 

 

良き地は、手順を経た三一の神の具体化であるキリストご自身です

 

 コリント人への第一の手紙でパウロは、コリント人をイスラエルの子たちにたとえています。彼らは過越としてのキリストを経験することによって、エジプトを離れ(5:7)、荒野をさまよって、キリストを天のマナとして、また生ける水を流し出した霊の岩として経験しました(10:3-4)。しかしコリント人への第一の手紙では、イスラエルの子たちが最終的に入って所有したカナンの良き地について、何も述べていません。良き地に入った記録はどこにあるのでしょうか? 

 

 それは、コリント人への第二の手紙にあります。良き地という用語はこの書において使われていませんが、霊的に言って、コリント人への第二の手紙において良き地を見ることができます。この書における良き地は、手順を経た三一の神の具体化であるキリストご自身です。彼はわたしたちの享受のために、神聖な恵みとしてわたしたちに与えられています。この書でわたしたちは、神が与えた分け前としてのキリストを所有した人たちを見ます。これらの人たちは、神が約束し、与えた地に入り、キリストご自身であるこの地を享受していました。(リー全集、1967年、第2巻(上)、「霊の中の人の自叙伝」、第10編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

5月 全国特別集会

5月の祈り第11日

(2024年5月全国特別集会 第6日)

 

神の新約エコノミーの四つの層の意義

 

使徒2:41,42

そこで、彼の言を受け入れた人たちは、バプテスマされた.その日に、約三千人が加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えと交わりを堅く持ち続け、パンをさくことと祈りを堅く持ち続けた。

 

エペソ4:12

それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり、

 

「今回の全国特別集会で、神の新約エコノミーの四つの層の意義を見ました。神の新約エコノミーにおける第一の層は、使徒たちの教えであり、第二の層は新約の務めであり、第三の層はキリストのからだであり、第四の層は諸召会です。今日、主の回復の中で、わたしたちの道、奉仕、働き、集会はこの四つの層に基づいており、この四層の一の中でわたしたちは主に仕えます」。

 

  第一の層は、使徒たちの教えです(使徒 2:42)。使徒たちの教えだけが神のエコノミーにおいて堅く立つことができ、また永遠に至るまで堅く立つことができます。召会は使徒たちと預言者たちの土台の上に建てられています(エペソ 2:19-20)。新約の教え全体は、使徒たちの教えであり、神が御子の中で彼の新約の民に語られた、神の託宣です(ヘブル1:1-2)。

 

  第二の層は、新約の務めです(Ⅱコリント 4:1)。新約の使徒たちの教えの務めは義認をもたらし、人々に命を与えます(18 節)。新約の務めは、すべてを含むキリストの計り知れない豊富を神の家の人たちの中へと分け与えることです(エペソ 3:2,8-9.コロサイ 1:25)。新約の務めは唯一無二であり、また団体的なものです(使徒 1:17.Ⅱコリント 4:1)。新約時代では、神の唯一の意図はからだの建造であり、この一つの目的のために、神は一つの働きと一つの務めを持っておられます。

 

  第三の層は、キリストのからだです。エペソ第4章11節から12 節においてパウロが言っているのは、賜物のあるあらゆる人は、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであるということです。これは神の新約エコノミーの第三の層の意義です。

 

  第四の層は、神の諸召会です。このからだは地上において具体的な表現を持ち、地上において実際の出現を持つ必要があります。諸地方召会はキリストのからだの実際的な表現であり(マタイ16:18,18:17.エペソ 1:22-23.2:21-22.啓 1:11)」、それは、実行上の召会です(啓1:2,9,11)。これが第四の層の意義です

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第10日

(2024年5月全国特別集会 第5日)

 

主が戻って来られるまで、パンをさくことを堅く持ち続ける

 

ルカ 22:19-20

それから、イエスはパンを取って感謝をささげ、それをさいて彼らに与え、言われた、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である.わたしの記念にこれを行ないなさい」。彼らが食事をした後、杯も同じようにして言われた、「この杯は、あなたがたのために注ぎ出される、わたしの血によって立てられた新しい契約である」。

 

「主は自らわたしたちがパンさきの集会にあずかるように命じました(ルカ22:19-20)。パンをさくことは、主の晩餐を食べ、主の食卓(宴席)に着くことです(使徒 20:7)。主の晩餐は主の満足のためです(Ⅰコリント11:20)。主の晩餐の重点は、主を記念することです(24-25節)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちは 罪人として神の激怒の杯を飲むはずでしたが、あなたがわたしたちのために、この杯を飲んでくださったことを感謝します。今、わたしたちは、満ちあふれる救いの杯にあずかっています。主よ、あなたが戻って来られるまで、パンをさき主を記念することを堅く持ち続けることができますように。

 

 

新約のこの新しい実行は、パンを食べ杯を飲んで主を記念することです

 

 ◎ 主の食卓の意義は、享受をもってあずかり、享受をもって交わることです。主の食卓にあずかることは、わたしたちが霊的に養われて、命の中で成長するのに最上の道です(Ⅰコリント10:3-4.3:6-7.エペソ 4:16)。◎ 新約のこの新しい実行は、パンを食べ杯を飲んで主を記念することです。パンは、わたしたち信者のために与えられた主の体を象徴し、杯は、わたしたちの罪のために流された主の血を象徴します(Ⅰコリント 11:24-25.マタイ 26:28)。パンはまた、主の奥義的なからだを表徴します。このからだは、キリストが彼の天の務めを遂行して、神聖な行政を完成する手段です(エペソ 1:22-23.4:16.啓 5:6)。

 

 キリストの血は新契約の血であり、神の民を、新契約において神が民に与える祝福へと導きます(ルカ 22:20.ヘブル 8:10-12)。◎ 初期の召会が祝福されたのは、使徒たちの教えと交わりを堅く持ち続け、パンをさくことと祈りを堅く持ち続けたからです(使徒 2:42)。主イエスは、彼が戻って来られるまで、わたしたちがこのようにパンをさき彼を記念するようにと求めておられます。このために、わたしたちは、主の命令を守り、主が戻って来られるときに、主を見逃さないようにしなければなりません(参照、ルカ 15:20)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第9日

(2024年5月全国特別集会 第四の層 第4日)

 

神の新約エコノミーの第四の層は、神の諸召会です

 

マタイ6:18

そこでわたしもあなたに言う.あなたはペテロである.わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる.ハデス[陰府]の門も、それに勝つことはない。

 

マタイ18:17

もし彼が彼らに聞き従うことを拒むなら、召会に告げなさい.もし彼が召会に聞き従うことをも拒むなら、彼を異邦人や取税人のように扱いなさい。

 

「召会に関して、聖書には「神の召会」(Ⅰコリント 10:32)と「神の諸召会」(11:16)という二つの用語があります。「神の召会」は宇宙召会、キリストの唯一のからだを指し、神の諸召会は諸地方召会を指します。このからだは地上において具体的な表現を持ち、地上において実際の出現を持つ必要があります。諸地方召会はキリストのからだの実際的な表現です(マタイ16:18,18:17.エペソ 1:22-23.2:21-22.啓 1:11)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。諸地方召会は、キリストのからだの地上における実際的な表現です。召会が各地において、キリストのかたち、表現、美徳を帯びて、金の燭台として輝きますように。

 

 

多くの地方召会は、一地方におけるキリストの唯一のからだの表現です

 

 マタイ第16章18節で啓示されている召会は、宇宙召会、キリストの唯一のからだです。マタイ第18章17節で啓示されている召会は、地方召会、一地方におけるキリストの唯一のからだの表現です。一つの宇宙召会、すなわちキリストのからだは、多くの地方召会、すなわちキリストのからだの地方における表現となっています(ローマ 12:4-5.16:16)。キリストの唯一のからだは、多くの地方において、諸地方召会として表現されます(エペソ 4:4.啓 1:4,11)。

 

 啓示録は、イエスの証しとしての諸召会に関する書です(啓 1:1-2,9,11.22:16前半)。イエスの証しは、個人のクリスチャンではなく、それは諸地方召会、すなわち、実行上の召会です(啓1:2,9,11)。わたしたちのいる地方の人々にイエスを示すためには、イエスがだれであるかを証しする地方召会が必要になります。こういうわけで、わたしたちの地方における召会は、キリストのかたち、表現、現れ、美徳を担うべきです(コロサイ 1:15.3:10)。啓示録の最初の三章の中心的な概念は、七つの燭台が七つの地方召会であって、神の表現になるということです(啓 1:11,20)。金の燭台としての召会は、イエスの証しを担います(啓1:2,9. 20:4)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


5月の祈り第8日

(2024年5月全国特別集会 第三の層 第3日)

 

神の新約エコノミーにおける第三の層は、キリストのからだです

 

エペソ4:11,12

そして彼ご自身は、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧する者また教える者として与えられました.それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり、

 

「エペソ第4章11節から12 節においてパウロが言っているのは、賜物のあるあらゆる人は、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであるということです。これは神の新約エコノミーの第三の層の意義です」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちにキリストのからだをさらに啓示してください。三一の神がわたしたちの中で働いて、キリストのからだを生み出し、このからだが建造されて、神の心の願いが成就されますように。

 

 

父、子、霊は人とミングリングされ、建造されてキリストのからだとなります

 

 ◎ 神のエコノミーはキリストのからだのためです(Ⅰテモテ 1:4.エペソ 3:9-11.4:16)。神の永遠のエコノミーは、神が人と成ることを通して、人が神格においてではなく、命と性質において神となるためであり、有機的なからだを生み出し、彼の有機体として、彼の増し加わりと表現となるためです(ローマ 8:3.1:3-4.12:4-5)。◎ キリストのからだは、三一の神とキリストにおける信者との神聖な構成です(エペソ 4:4-6)。父、子、霊は人とミングリングされ、建造されてキリストのからだとなります(エペソ1:23.4:12, 16)。そして、◎ キリストのからだは神の心の願いを成就して、神を表現し、サタンを滅ぼします(ローマ 12:4-5.Ⅰコリント 12:12, 27.エペソ 1:22-23.4:4, 16.コロサイ 1:18.2:19.創 1:26-28)。三一の神はわたしたちの中で働いて、キリストのからだを生み出し、建造します(エペソ 3:16-21.ローマ 8:11.12:4-5)。

 

 ◎ この回復は、キリストにはただ一つのからだがあるという真理に基づいています(エペソ 1:23.4:4)。一つのからだは神の一つの召会であり、多くの地方において多くの地方召会として現わされています(Ⅰコリント 10:32 後半.啓 1:4, 11)。そして、◎ わたしたちは宇宙的なクリスチャンとなって、キリストの宇宙的なからだの宇宙的な観点を持つ必要があります(エペソ 1:17-23.2:21-22)。からだは召会であり、召会は新エルサレムの縮図です。新エルサレムは来たるべきものであり、召会はその前身として今日、存在しているものです。新エルサレムはキリストのからだであるこの前身の満ち満ちた完成です。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第7日

(2024年5月全国特別集会 第二の層 第2日)

 

神の新約エコノミーの第二の層の意義は、新約の務めです

 

Ⅱコリント4:1

こういうわけで、わたしたちはあわれみを得て、この務めを受けたのですから、落胆しません.

 

エペソ4:12

それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり、

 

「神の新約エコノミーの第二の層の意義は、新約の務めであり(Ⅱコリント 4:1)、新約の使徒たちの教えの務めが義認をもたらし、人々に命を与えることです(18 節)。わたしたちみなが受け入れるのはこの唯一の務めです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。新約の務めが、キリストの計り知れない豊富をわたしたちの中へと分与してくださることを感謝します。主よ、わたしたちはあわれみを得て、この務めを受けています。召会のさまざまな奉仕において、キリストを人に供給し新約の唯一の務めを遂行することができますように。

 

 

新約の務めは唯一無二であり、また団体的なものです

 

 新約の務めは、すべてを含むキリストの計り知れない豊富を神の家の人たちの中へと分け与えることです(エペソ 3:2,8-9.コロサイ 1:25.使徒 1:17,25.Ⅱコリント 4:1 前半.エペソ 4:12,15-16)。 ◎ 新約の務めは唯一無二であり、また団体的なものです(使徒 1:17.Ⅱコリント 4:1)。新約時代では、神の唯一の意図はからだの建造であり、この一つの目的のために、神は一つの働きと一つの務めを持っておられます。

 

 ◎ これらの聖書の節は、新約の務めが団体的であることを啓示していますが、他のいくつかの節は、務めが個人的であるかのようにも示しています(使徒 20:24.21:19.Ⅱテモテ 4:5.コロサイ 4:17)。全体的な面から言うなら、からだには一つの団体的な務めしかなく、多くの務めがあるのではありません。ただし、この務めはキリストのからだの奉仕であり、キリストのからだには多くの肢体があるので、各肢体にはそれぞれその個人の務めがあります。したがって、肢体の面から言えば、多くの務めがあります(ローマ 12:4-5.Ⅰコリント 12:5)。

 

 ◎ わたしたちはさまざまな角度から同じ一つの事を供給する必要があります。わたしたちはみな、同じ事を語る必要があります(参照、ローマ 15:6.Ⅰコリント 1:10)。また、 ◎ わたしたちはさまざまな務めが必要ですが、これらの務めはその層が積み重ねられている必要があります(啓 21:14,18-20)。これらの十二の土台は横に並べられているのではなく、その層が積み重ねられています。これらの十二の土台はすべて、唯一の表現の中の唯一の証しをもたらし、支えます。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第6日

(2024年5月全国特別集会 第一の層 第1日)

 

神の新約エコノミーにおける第一の層は、使徒たちの教えです

 

使徒2:41,42

そこで、彼の言を受け入れた人たちは、バプテスマされた.その日に、約三千人が加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えと交わりを堅く持ち続け、パンをさくことと祈りを堅く持ち続けた。

 

「今回の全国特別集会で、神の新約エコノミーの四つの層の意味を見ました。神の新約エコノミーにおける第一の層は、使徒たちの教えです(使徒 2:42)。第二の層は新約の務めであり、第三の層はキリストのからだであり、第四の層は諸召会です。今日、主の回復の中で、わたしたちの道、奉仕、働き、集会はこの四層に基づいています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の新約エコノミーの四つの層の意義を見せてくださって感謝します。主よ、わたしたちが新約全体を含んでいる使徒たちの教えを受け入れて、その制御の下にいることができますように。その満ち満ちた福音の内容を享受することができますように。そして、使徒たちと預言者たちの啓示の土台の上に召会が建造されていきますように。

 

 

使徒たちの教えは満ち満ちた福音の内容であり、新約全体を含んでいます

 

 神の新約エコノミーにおける第一の層の意義は、使徒たちの教えです(使徒 2:42)。使徒たちの教えだけが神のエコノミーにおいて堅く立つことができ、また永遠に至るまで堅く立つことができます。召会は使徒たちと預言者たちの土台の上に建てられていることを覚えておく必要があります(エペソ 2:19-20)。 ◎ 新約の教え全体は、使徒たちの教えであり、神が御子の中で彼の新約の民に語られた、神の託宣です(ヘブル 1:1-2)。

 

 ◎ 使徒たちの教えは、神が肉体と成ることから新エルサレムの究極的完成までの、神の新約エコノミーの唯一の神聖な啓示です。 ◎ 使徒たちの教えは満ち満ちた福音の内容であり、新約の一部分を含むだけでなく、新約全体を含んでいます(ローマ 1:1-4)。また、 ◎ 使徒たちの教えは召会の憲法です。召会はそれを保持し、完全にその制御の下にいなければなりません。それは三つの神聖で奥義的な時期におけるキリストの満ち満ちた務めによって遂行され、神の永遠のエコノミーを完成します(エペソ 3:8-10)。(2024年5月特別集会アウトライン)

      

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

朝ごとの食物

5月の祈り第4日

(年二回の訓練12月 第11週6日)

 

ささげ物のすべては、わたしたちが主観的に経験するキリストです

 

ヨハネ4:24

神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない。

 

Ⅲヨハネ1

長老から愛する者ガイオへ.わたしはあなたを真実の中で愛しています。

 

「ヨハネ第4章23節から24節によれば、わたしたちは霊と真実の中でわたしたちの父なる神を礼拝する必要があります。真実とは、人の真摯、誠実、真誠、信頼に足ること、信実であって、神聖な実際が流れ出た人性の美徳です(ヨハネ14:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが受け入れたそのキリストを、日ごとに経験することができることを感謝します。わたしたちが霊と真実の中で神を礼拝することができるように、神聖な実際をもってわたしたちに浸透してください。

 

 

わたしたちは霊と真実の中でわたしたちの父なる神を礼拝します

 

 クリスチャン生活はわたしたちが受け入れたそのキリストを日ごとに経験する生活です。……キリストに対するこの経験は、わたしたちが神を礼拝するためのささげ物を生み出します。わたしたちは霊の中で、また自分たちの日常生活の中で経験してきたそのキリストをもって召会の集会に来るべきです。召会の集会でわたしたちが神を礼拝するのは、わたしたちの霊の中で、またわたしたちがささげ物として経験してきたキリストをもってであるべきです。

 

 わたしたちは彼を罪のためのささげ物として、あるいは違犯のためのささげ物として……全焼のささげ物として、穀物のささげ物として、平安のささげ物としてささげるかもしれません。すべてこれらのささげ物はわたしたちが主観的に経験するキリストです。(「ヨハネの第一の手紙ライフスタディ」、第10編

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第3日

(年二回の訓練12月 第11週5日)

 

真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父を礼拝する時が来ます

 

ヨハネ4:14,23

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである」。…… しかし、真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父を礼拝する時が来る.そしてそれは今である.父はそのように彼を礼拝する者を、捜し求めておられるからである。

 

「これら最後の日々に主は、キリストに対する真の経験を回復し、集会においてキリストの豊富の余剰を展覧します。それは、キリストのからだとしての召会を建造するためであり、花婿の来臨のために花嫁が用意を整えるためです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストのからだとしての召会を感謝します。主よ、わたしたちが日常生活の中で、十分なキリストを産出することができますように。そして、余剰を他の人たちと分かち合い、最上の部分を父なる神にささげることができますように。

 

 

わたしたちは、キリストの何かを神の満足のために神にささげます

 

 真実の中で神を礼拝することは、わたしたちの集会生活の事柄であるだけでなく、わたしたちの日常生活の事柄でもあります。真実の中で神を礼拝するために、わたしたちは日常生活のあらゆる面でキリストを扱う必要があります。わたしたちが髪をといたり、歯を磨いたり、他の行為を行なうとき、わたしたちはキリストと共にそれを行なうべきです。そうすれば、神は生ける霊を天的な雨として送って、わたしたちを潤し、わたしたちの中でキリストのものを成長させてくださいます。……

 

 わたしたちはもはや、教えを受けたり、メッセージを聞いたりするためだけに集会に来るべきではありません。わたしたちは、キリストの何かを神の満足のために神にささげ、またキリストの何かを聖徒たちの相互の享受のために聖徒たちと分かち合うという意図と全き期待をもって、集会に来るべきです。(リー全集、1970年、第2巻(下)、「神が捜し求めている礼拝をもって神を礼拝する」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第2日

(年二回の訓練12月 第11週4日)

 

キリストの豊富の収穫物を、召会の集会にもたらして、父なる神を団体的に礼拝します

 

Ⅰコリント14:26

それでは兄弟たちよ、どうなのですか? あなたがたがいつも集まるときには、それぞれの人に詩歌があり、教えがあり、啓示があり、異言があり、解釈があります。すべての事を、建造のために行ないなさい。

 

「毎日、わたしたちはキリストの上で労苦して、キリストの豊富の収穫物を持ち、召会の集会にもたらして、父なる神を団体的に礼拝すべきです。キリストは高く上げられ、キリストの栄光は現されます。そして御父は喜び、満足します(申12:6.16:15-17.Ⅰコリント14:26.ヨハネ4:23-24)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが個人的にも、団体的にもすべてを含むキリストの上で日ごとに労苦することができますように。わたしたちが集まるときには、それぞれの人に詩歌、教え、啓示などのキリストの豊富の収穫物がありますように。そして、神のすべての子供たちと共に、集団で神を礼拝することができますように。

 

 

主によって対処され、主に信頼して福音を語る必要があります

 

 わたしたちはキリストを経験し、また享受することによって豊かにされる必要があります。ですからわたしたちは、わたしたちの霊を活用することによって、キリストに接触し、キリストを享受し、経験し、あずかる必要があることを強調するのです。……わたしたちはみな日ごとに地を耕し、種をまき、水をやり、肥料をやり、日光を当てることによって、わたしたちの地としてのキリストの上で労苦しなければなりません。これは、わたしたちが主と交渉し、また主によって対処されなければならないことを意味します。

 

 さらに、わたしたちは彼に信頼して福音を語る必要があります。一定期間の後、わたしたちは収穫物として主の何かを持ちます。何かが余剰として実ります。そしてわたしたちは豊かに集会に携えて来るために、わたしたちの霊の中に分け前を持ちます。わたしたちは神の満足のために彼にささげるための、また他の人たちの満足のために彼らと分かち合うためのキリストの豊富をもって集会に来ます。この種類の集会、奉仕、務め、貢献によって、召会はキリストの実際と本質の豊満をもって出現します。(リー全集、1966年、第1巻(上)、「召会に関する主の回復」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


5月の祈り第1日

(年二回の訓練12月 第11週3日)

 

経験したキリストの余剰が集会で神にささげられ、全宇宙に展覧されます

 

申12:11

エホバ・あなたがたの神が御名を住まわせるために選ばれた場所へ、わたしがあなたがたに命じているすべてのものを、持って行かなければならない.それは、あなたがたの全焼のささげ物と犠牲、あなたがたの十分の一と手の挙げるささげ物、あなたがたがエホバに誓願する、すべてのえりすぐりの誓願である。

 

「わたしたちは正しいクリスチャンの集会を持つために、わたしたちの個人的な生活の中で日ごとに主と接触し、それから、わたしたちはキリストを展覧しキリストを他の人たちと分かち合うために来るという認識と理解をもって、集会に来る必要があります(Ⅰコリント14:26)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 わたしたちの個人的な生活の中で、日ごとに経験した主を集会するたびに持ち寄ることができますように。主が賜ったあり余る豊富を、神の食物として共にささげて、キリストを展覧することができますように。

 

 

日々キリストの上で労苦して、キリストの何かを持ち、召会の集会に携えて行きます

 

 いつであれわたしたちが共に集まるときは、わたしたちがどのような種類の集会を持つかにかかわらず、わたしたちが経験したキリストを持って集まるべきです。……こうして、キリストの余剰が神にささげられ、全宇宙に展覧されます。その時、わたしたちの集会は豊かにされ、強められます。なぜなら、それらはキリストで満ちているからです。キリストはわたしたちを通して、召会の建造においてだけでなく、召会生活において、召会のすべての集会において、表現されます。……

 

 すべての集会において、わたしたちはささげるべきキリストの何かを持っているべきです。これは、わたしたちが日々キリストの上で労苦するかどうかにかかっています。もし日々キリストの上で労苦するなら、わたしたちはキリストの何かを持ち、召会の集会に携えて来て、他の人に与え、神にささげるでしょう。それによってわたしたちは、神と共にキリストを享受し、キリストを展覧し高く上げます。こうして、キリストは召会生活の豊かな内容として表現されます。(リー全集、1965年、第2巻(下)、「召会の内容としてのキリストとキリストの表現としての召会」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)