神のエコノミーにおける神の恵み 第5週5日~信仰の中にある神のエコノミー 第8週6日

 

7月の祈り 第30日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第8週6日)

 

わたしの羊を牧養しなさい

 

ヨハネ21:15,16,17

「あなたは……わたしを愛するか?」。……「はい、主よ.わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの小羊を養いなさい」。16 ……わたしの羊を牧養しなさい。17 ……わたしの羊を養いなさい。

 

「わたしたちは人々を訪問するとき、主の臨在を持っていなければなりません。主の臨在が魅了する要因です。わたしたちが復活において十字架につけられた人であるなら、わたしたちがどこに行っても、三一の神の臨在はわたしたちと共に行き、人々は主に引き付けられます。人々を牧養するために、わたしたちは彼らをはぐくまなければなりません」。

 

 主よ、わたしたちが人を訪問し、接触することができますように。主よ、神にしたがって神の群れを牧養することを教えてください。主よ、召会が愛の中でのはぐくみと養いに満ちますように。

 

 

人を訪問し接触することによって牧養します

 

 ペテロは彼の第一の手紙で、キリストはわたしたちの魂、内なる存在、真のパースンの牧者、また監督者であると語っています(Ⅰペテロ2:25)。次に第5章1節から2節で彼は長老たちに、彼らの義務は神にしたがって神の群れを牧養することであると告げています。「神にしたがって」とは、わたしたちが神を生きなければならないことを意味します。わたしたちは手に神を持たなければなりません。わたしたちは理解において、神学において、教えにおいて神を持っていますが、人を牧養しているとき、神を生きていないかもしれません。

 

 わたしたちは神と一であるとき、神となります。その時、わたしたちは人を牧養することで神を持ち、神となります。神にしたがって牧養するとは、神が彼の属性において何であるかにしたがって、牧養することです。神は愛、光、聖、義です。……わたしたちは若い人、弱い人、後退している人を、これら四つの属性にしたがって牧養しなければなりません。……命の真の供給は、人を訪問し接触することによって牧養することです。(バイタルグループ、メッセージ7、10、11)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第29日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第8週5日)

 

アブラハムに関する限り、自分の兄弟が捕らえられたことを見るのは恥でした

 

創14:14

アブラムは自分の兄弟が捕虜になったことを聞き、……訓練された者たち……を引き連れ……た。

 

16

そして、彼は……兄弟ロト……をも取り戻した。

 

「アブラハムのように信仰によって生きることは、天の務めにおけるキリストと協力することであり、祭壇と天幕の生活をすることによってだけでなく、また兄弟のために戦うことによってでもあります(創12:7-8.14:1-24.ローマ4:12:アブラハムは自分の兄弟の弱点を数えず、ロトの苦難と災難に対して幸いではありませんでした。アブラハムに関する限り、自分の兄弟が捕らえられたことを見るのは恥でした(Ⅰヨハネ5:16前半.箴10:12.ヤコブ5:19-20)」。

 

 主よ、わたしたちもアブラハムのように、兄弟姉妹の苦難と災難を見るのは幸いではありません。主よ、わたしたちも、天の務めにおける大祭司としてのキリストのとりなしの下で戦いに出て行き、捕らえられた家族の者を取り戻すことができますように。

 

 

アブラハムは自分の兄弟の弱点を数えず  ロトのために戦うという強い決意をしました

 

 逃れて来た一人がアブラハムに、ロトが捕らえられたことを告げました。……その人は、神の主権によって保護されたのです。…… アブラハムは自分の兄弟の弱点を数えず、ロトの苦難と災難に対して幸いではありませんでした。……彼はこの消息を得たとき、ロトのために戦おうという強い決意をしました(創14:14)。アブラハムに関する限り、自分の兄弟が捕らえられたことを見るのは恥でした。

 

 それは今日、召会においても同じです。兄弟や姉妹のだれかが捕らえられたのを見るのはわたしたちにとって恥です。……あなたはそれを容認するのではなく、「わたしはこれに耐えられない。わたしは立ち上がって、それについて何かをしなければならない!」と言うべきです。これがアブラハムのしたことです。アブラハムは兄弟のための戦いにおいて、命をかけました。捕らえられた兄弟を救うために命をかけることは、小さい事ではありませんでした。しかし、彼はそれを行なったのです。戦いは順調であり、アブラハムは敵を追跡して南から北のダンにまで至りました。彼の勝利は、その背後にあるとりなしの結果であったに違いありません。(創世記ライフスタディ(3)、第43編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第28日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第8週4日)

 

アブラハムは土台のある都(生ける神の都)を熱心に待ち望んでいました

 

ヘブル11:9-10

信仰によって、彼は……他国人として約束の地に住み……ました.なぜなら、彼は土台のある都を熱心に待ち望んでいたからです.その設計者と建築者は神です。

 

「アブラハムは失敗し、祭壇と天幕を捨てました。しかしながら、彼は回復されました。回復とは、祭壇と天幕へと戻って来て、主の御名を呼び求めることです(創12:9-10.13:3-4.ローマ10:12-13.12:1-2)。最終的に、ヘブロンにおいてアブラハムの天幕は、彼が神と交わりを持った場所、また神が彼と交わることができた場所となりました(創13:18)」。

 

 主よ、わたしたちはアブラハムのように失敗し後退してしまう者ですが、その度に、祭壇と天幕へと戻らせてください。そして、神の臨在がある天幕のある召会生活の中で守られ、共に前進することができますように。

 

 

失敗した後に回復され、祭壇と天幕へと戻って来て、主の御名を呼び求めます

 

 アブラハムには失敗がありました。彼の歴史には、祭壇と天幕を捨てることがありました。彼はエジプトに下って行きました。しかし、回復がありました。どのようにしてその回復は起こったのでしょうか? 創世記第13章3節と4節は言います、「彼はネゲブからベテルにまで移動を続け、ベテルとアイの間、最初に天幕を張った所に行った.すなわち、彼は以前に作った祭壇の所に行った.その所でアブラムは、エホバの御名を呼び求めた」。回復とは祭壇と天幕に戻る事柄です。

 

 あなたがたのうちだれか失敗したことがないでしょうか? あなたがたのうちだれかつまずいたり、裏切ったりしたことがないでしょうか? あなたがたのうちだれかエジプトに下って行ったことがないでしょうか? ですから、あなたには自分自身の要求があり、自分自身の望みがあり、自分自身の興味、自分自身の渇望があります。あなたは回復の道を追い求めているなら、祭壇と天幕に戻らなければなりません。(ニー全集、第37巻、第16編、「祭壇と天幕の生活」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第27日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第8週3日)

 

アブラハムの信仰の足跡にしたがって歩く人は、祭壇と天幕の生活をします

 

創12:7-8

エホバは、アブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫に、この地を与える」。アブラムは、彼に現れたエホバのため、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東の山に進んで、天幕を張った。……

 

「わたしたちがアブラハムの信仰の足跡にしたがって歩こうとするなら、祭壇と天幕の生活をする人とならなければなりません(創12:7-8.13:3-4,18)。神の現れと伝達は、わたしたちの献身を生み出し、わたしたちに祭壇を築かせ、天幕の中に住まわせ、完全に神のために生きさせます(出33:20.ヘブル11:9-10)」。

 

 主よ、わたしたちが献身の祭壇を築くのは神の現れに基づいています。主よ、わたしたちがいつも祭壇と天幕の生活をすることができますように。主よ、祭壇を経過したものだけが、わたしたちの天幕の中に保たれるようにしてください。

 

 

祭壇を経過したもので、わたしたちの必要なものだけが天幕の中に保たれます

 

 「創世記第12章7節で、わたしたちは祭壇が神の現れに基づいていることを見ます。……だれでもまず神に出会ったことがなければ、その人は神に自分自身をささげることはできません。神が人に現れないなら、彼は自分のすべてを神にささげることはできません。献身は人の勧めや説得の結果ではなく、神の啓示の結果です。……しかしながら、人が神に出会うとき、彼の生活の中で自然に献身が起こります。……わたしたちは神ご自身に出会うとき、自己を否む力を持ちます。

    

 祭壇は天幕という結果になります。……[創世記第12章8節]の時から、アブラハムは神の家、すなわち、ベテルに住みました。…… 天幕は移動できるものです。それはどこにも根を張りません。祭壇を通して神はわたしたちを取り扱われます。天幕を通して神はわたしたちの所有物を取り扱われます。祭壇において、アブラハムは彼のすべてを神にささげました。……わたしたちは覚えていなければなりませんが、祭壇を経過していないものは天幕の中にあることさえできません。しかし……神は祭壇にささげたもののうちいくらかをわたしたち自身が使うために残されます。祭壇を経過したもので、わたしたちが用いることのできるものだけ、天幕の中に保たれます。… それらは与えられることもありますし、取り去られることもあります。これが天幕の生活です。(ニー全集、第37巻、第16編、「祭壇と天幕の生活」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第26日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第8週2日)

 

アブラムは、彼に現れたエホバのために祭壇を築きました

 

使徒7:2

ステパノは言った、「みなさん、兄弟たち、父たちよ、お聞きください。わたしたちの父祖アブラハムが……まだメソポタミヤにいた時に、栄光の神が彼に現れて」。

 

創世記12:7

エホバは、アブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫に、この地を与える」。アブラムは、彼に現れたエホバのため、そこに祭壇を築いた。

 

「アブラハムの信仰は、彼の天然の能力から来たのではありませんでした。神がアブラハムに現れることによって、アブラハムに彼の信じる要素としての神が伝達されて彼の信仰となりました。それは神の魅力に対する反応として、彼が神を評価することでした」。

 

 主よ、栄光の神がアブラハムに何度も現れたように、何度もわたしたちに現れてください。そして、何度もわたしたちにに語って、ビジョンを見せてください。主よ、わたしたちが継続的に神の現れの中に生きることができますように。 

 

 

わたしたちは継続的に神の現れの中に生きる必要があります

 

 アブラハムがカナンの地に着いた後、創世記第12章7節は、… 神がアブラハムに二度目に現れた時であり、三度目の語りかけです。わたしたちは容易に神の召しのビジョンを失います。たとえわたしたちが意識して正しいクリスチャンになろうとしても、わたしたちは依然としてビジョンを失ってしまう可能性があります。……世俗的な事柄だけ[でなく]… 霊的な事柄でさえわたしたちのビジョンを不鮮明にすることがあり得ます。もしわたしたちが継続的に神の現れの中に生きないなら、わたしたちは容易にわたしたちの召しのビジョンを失ってしまいます。……

 

 わたしたちは何と容易に神が行ないたい事を忘れることでしょう! 多くの時わたしたちは、あまりにも行なうべき事が多かったり、仕事が少し忙しかったりすると、わたしたちの霊的な召しを見失ってしまいます。わたしたちは何度も主の御前に来て、懇願する必要があります、「何度もわたしに現れてください。何度もわたしに語ってください!」。わたしたちは継続して見る必要があり、永遠に見る必要があります。わたしたちは神の目標と、神が何を行なっておられるのかを見る必要があります。(ニー全集、第35巻、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第25日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第8週1日)

 

キリストは命を与える霊として、アブラハムの祝福です

 

ガラテヤ3:7,29

ですから、信仰に基づいている者こそ、アブラハムの子たちであると知りなさい。 29 そして、あなたがたがキリストのものであるなら、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです

 

 「キリストは命を与える霊として、アブラハムの祝福(ガラテヤ3:14)、すなわち、アブラハムに約束されたアブラハムの子孫と良き地との実際です。今日のわたしたちの祝福は、神ご自身です。彼は、キリストの中に具体化され、その霊として実際化されており、わたしたちの中へと分与されて、わたしたちの享受となっています」。

 

 主よ、わたしたちはキリストの者ですから、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。主よ、わたしたちが今、アブラハムに約束されたその霊にあずかっていることを感謝します。主よ、アブラハムのその信仰の足跡に従って歩くことができますように。

 

 

キリストはアブラハムに約束されたアブラハムの子孫と良き地との実際です

 

 アブラハムの祝福は、約束された霊、すなわち、キリストの実際を指しています(ガラテヤ3:14.ヨハネ14:17-20)。アブラハムの一人の子孫が、命を与える霊と成りました(Ⅰコリント15:45後半)。三一の神の究極的完成としてのその霊は、ご自身をキリストの信者の中へと分与するためであり、アブラハムの子孫です(Ⅰコリント15:45後半.Ⅱコリント3:17-18.ローマ8:9)。最後のアダムは[Ⅰコリント15:45]、……アブラハムの子孫です。この子孫は、わたしたちの贖い主また救い主となっただけでなく、命を与える霊と成りました。……

 

 わたしたち罪人に対する最高の祝福、究極的な祝福とは、命を与える霊としての神ご自身です。一方で、命を与える霊は、かたちを変えた、アブラハムの子孫であり、もう一方で、彼はまさに三一の神です。この命を与える霊は、手順を経た三一の神の究極的完成である究極的に完成された霊です。これは真の祝福です。(「神聖な啓示の中心路線(上)」、第8章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第23日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第5週6日)

 

霊の中で満たされ、詩と詩歌と霊の歌とで語り合います

 

エペソ5:18-19

また酒に酔ってはいけません.そこには放蕩があるからです.むしろ霊の中で満たされ、詩と詩歌と霊の歌とで語り合い、心から主に向かって歌い、朗詠しなさい。

 

「召会の集会の中で、すべての聖徒は語る人となりⅠコリント14:19, 26, 31)。語ることで相互性に満ちているべきです(エペソ5:19)。また、わたしたちはキリストのからだの肢体として、霊の中で満たされる必要があります(エペソ5:18)。わたしたちが霊の中で満たされるなら、自然にキリストに関して互いに語り合うようになります。ですから、語ることは、あふれ流れるための道です」。

 

 主よ、あなたは語る神です。わたしたちを召会の集会の中で、語る人々にしてください。また、わたしたちが霊の中で満たされて、心から主に向かって歌い、朗詠することができますように。

 

 

主に向かって歌い、朗詠することは、霊の中で満たされる道です

 

 エペソ人への手紙第5章18節でパウロはわたしたちに、「霊の中で満たされ[なさい]」と命じています。わたしたちはキリストのからだの肢体として、霊の中で満たされて、神の全豊満へと至る必要があります。わたしたちが霊の中で満たされるなら、わたしたちを満たしているものは、わたしたちの内側からあふれ流れます。…… わたしたちが霊の中で満たされて神の全豊満へと至るなら、自然にキリストに関して互いに語り合うようになります。……

 

 エペソ人への手紙第5章19節はまた、主に向かって「歌い、朗詠」することも述べています。そのように歌い、朗詠することは、霊の中で満たされて満ちあふれることだけでなく、霊の中で満たされる道でもあります。わたしたちが霊の中で満たされて神の全豊満へと至る時はいつでも、行なう最初のことは語ることです。そしてわたしたちは心から主に向かって歌い、朗詠します。  (「エペソ人への手紙ライフスタディ(4)」、第84編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第22日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第5週5日)

 

時が良くても悪くても、神の言葉を語ります

 

Ⅱテモテ4:2

御言を宣べ伝えなさい.時が良くても悪くても、用意をしていなさい.辛抱強さと教えの限りを尽くして、責め、戒め、勧めなさい。

 

「クリスチャンは、語る人々です。真のクリスチャンは、語るクリスチャンです(使徒1:8.Ⅰコリント12:3, 13.14:19, 26.エペソ5:18-19)。わたしたちは、時が良くても悪くても、神の言葉を語り、神の永遠のエコノミーを遂行するべきです(Ⅱテモテ4:2)」。

 

 主よ、わたしたちは時が良くても悪くても神の言葉を語ることができますように。主よ、わたしたちが聖なる書に親しんで、聖書の中に入り込み、神の言葉から学んだ言葉を宣べ伝えることができますように。

 

 

わたしたちは神の言葉から学んだ言葉を宣べ伝えます

 

 テモテへの第二の手紙第4章2節で、パウロはテモテに、「御言を宣べ伝えなさい.時が良くても悪くても、用意をしていなさい」と命じています。……テモテへの第二の手紙第4章1節は確かに、第3章の終わりのパウロの思想の継続です。第3章の最後の三つの節でパウロは言います、「幼い時から聖なる書に親しんできたことを、知っているからです.この聖なる書はあなたに、キリスト・イエスにある信仰を通して、救いへと至る知恵を得させることができるのです。聖書はすべて、神の息吹かれたものであり、人を教え、戒め、矯正し、義の中で訓練するのに益があります.それは、神の人があらゆる良いわざのために十分に装備されて、完全な者になるためです」(15-17節)。

 

 これらの節から、わたしたちは認識することができますが、パウロがテモテに宣べ伝えるように命じた言葉は、テモテが幼い時から親しんできた聖なる書の言葉でした。わたしたちはみな御言の中に、聖書の中に入り込まなければなりません。使徒パウロがテモテに命じたのは、聖書に対するテモテの認識に基づいていました。……わたしたちは神の言葉から学んだ言葉を宣べ伝えなければなりません。(「神聖な語りかけ」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第21日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第5週4日)

 

わたしたちは信仰の霊によって、信仰の源である御言を語ります

 

ローマ10:14,17

……その中へと信じたことのない方を、どのように呼び求めるのでしょうか? 聞いたことのない方を、どのように信じるのでしょうか? 彼を宣べ伝える者がいなくては、どのように聞くのでしょうか? 17 ですから、信仰は聞くことから来るのであり、聞くことはキリストの言葉によるのです。

 

「信仰は聞くことから来ます。そして聞くことは、御言葉を宣べ伝えることから来ます(ローマ10:14)。信仰の源は御言葉です。こういうわけで、わたしたちは御言の中へと入り込まなければなりません(ローマ10:17)。わたしたちは御言の中へと入り込めば入り込むほど、ますます信仰を持ちます。そしてこの信仰は霊です(Ⅱコリント4:13)。わたしたちは信仰の霊によって、わたしたちの信仰の源である御言を語ります」。

 

 主よ、聖霊とわたしたちの霊とがミングリングされた「信仰の霊」を感謝します。主よ、わたしたちが御言の中へと入り込んで、信仰の霊を持つことができますように。そして、召会が建造されるために、信仰の霊によって語らせてください。

 

 

わたしたちは御言の中へと入り込み、信仰を持ち、信仰の霊によって語ります

 

 信仰の霊とは、聖霊とわたしたちの霊とのミングリングです。「信仰の霊」という句は、「霊」と「信仰」を同格のものとしています。信仰は霊のものです。ですから、信仰の霊は信仰です。わたしたちの信仰は、ミングリングされた霊にほかなりません。さらに信仰は聞くことから来るのであり、聞くことは御言葉を宣べ伝えることから来ます(ローマ10:14)。信仰の源そのものは御言葉です(17節)。……

 

 わたしたちは御言の中へと入り込めば入り込むほど、ますます信仰を持ちます。そして、この信仰は霊です。今や、わたしたちはそのような霊によって、わたしたちの信仰の源である御言を語ることができます。……御言は信仰を生み出します。信仰は霊です。そしてこの霊によって、わたしたちは御言を語ります。わたしたちの語りかけは、他の人の中で信仰の源となります。そうして彼らの中で信仰は霊となり、それによって彼らは語ります。(「長老訓練、第6巻:パウロの書簡における真理の重要な点」、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第20日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第5週3日)

 

イエスの致死力が働いて、イエスの命が現され、同じ信仰の霊を持って語ります

 

Ⅱコリント4:10,13

絶えずこの体に、イエスの致死力が働いています.それはまた、イエスの命が、わたしたちの体に現されるためです。13 また、「わたしは信じた.それゆえにわたしは語った」と書いてあるとおり、同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それゆえにまた語るのです。

 

「わたしたちの実際の生活の中で信仰の霊によって語ることは、偉大で極めて重要な点です。「信仰の霊」は、聖書の中で一度だけ用いられた、とても特別な表現です(Ⅱコリント4:13)。 Ⅱコリント第4章10節から13節は、ミングリングされた霊によって、使徒たちが復活の中で十字架につけられた生活をし、彼らの務めを遂行したことを示します」。

 

 主よ、わたしたちが復活の中で十字架につけられた生活をすることができますように。そして、主よ、キリストの死や命や復活に対する経験を語ることができますように。

 

 

パウロが信仰の霊で語ったことは、キリストの死と命と復活に対する経験でした

 

 今日のクリスチャンは、コリント人への第一の手紙の聖霊の中の語りかけに多くの注意を払っています。しかし、わたしの認識によれば、信仰の霊による語りかけに多くの注意を払ったことのある人はだれもいません。コリント人への第二の手紙第4章7節で、パウロは土の器の中の宝について語っています。この宝は、神の輝きとしてのキリストであり、この神はパウロの存在の中へと輝きました。

 

 これに続いて、パウロはイエスの致死力が使徒たちの上で働き、キリストの命が彼らの中で現されると言っています(10-11節)。この時点で、パウロは同じ信仰の霊を述べています[13節]。古代、詩篇の作者は信仰の霊を持っていました(詩116:10)。今や、使徒たちも信仰の霊を持っています。彼らは信じ、それゆえにまた語りました。……彼らは彼らの経験を語りました。彼らが語ったのは、特定の教理や三一の神に関する特定の点だけでなく、キリストの死や命や復活に対する経験でした。(「神聖な語りかけ」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第19日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第5週2日)

 

神のために語ることによって、神を表現し代行します

 

創1:26

それから、神は言われた、「われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう.そして彼らに、海の魚と空の鳥と家畜と全地と地を這うすべての這うものを治めさせよう」。

 

使徒4:31

……彼らはみな聖霊で満たされ、大胆に神の言を語り出した。

 

「神は語る神ですから、ご自身のかたちに人を創造したとき、神ご自身のように語る能力を持つ人を創造しました(創1:26-28)。神は、わたしたちがおもに彼のために語ることによって、彼を表現し代行することを願っています(創1:26)」。

 

 主よ、わたしたちが神のように語る能力を持っていることを感謝します。主よ、わたしたちがすべてのものを治めて、神を代行することができるために、神の言葉を語り、神のために語り、神を語り出すことができますように。

 

 

神はご自身のように語る能力を持つ人を創造しました

 

 神は語る神ですから、ご自身のかたちに人を創造したとき、神ご自身のように語る能力を持つ人を創造しました。わたしたちは愛、光、聖、義における神のかたちを持っているだけでなく、神を代行し、わたしたちの語る能力の中にも彼のかたちを持っています。創世記第1章26節によれば、神がわたしたちを創造したのは、わたしたちが彼のかたちを持つためだけでなく、それにもまして、神のために支配するためでした。

 

 神がわたしたちを創造したのは、わたしたちが彼を代行するためです。代行(代理人)の最も重要な要求は、その人が語ることができなければならないということです。…… 今日わたしたちが神を代行することができるのは、語ることができるからです。…… わたしたちが語ることができるのは、わたしたちが神のようであるからです。(「神のために語る」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第18日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第5週1日)

 

その霊が召会と共に語ります

 

ヘブル1:1-2

神は、昔は多くの部分において、多くの方法で、預言者たちを通して、父祖たちに語られましたが、これらの日々の終わりには、御子の中でわたしたちに語られました……。

 

詩119:105

あなたの言葉はわが足のともし火、わが径の光です。

 

「わたしたちの神は、語る神です(ヘブル1:1-2前半)。神は御子の中で語り、御子はその霊として諸召会に語り、究極的には、その霊が召会と共に語ります(啓2:7前半.22:17)。 生ける神は、語ることによって、ご自身をわたしたちの中へと分け与えて、注入しています(Ⅱテモテ3:16-17.エゼキエル37:4-6)」。

 

 主よ、あなたは語る神であることを感謝します。主よ、その霊が召会と共に語る語りかけを聞くことができますように。主よ、あなたの語りかけによって、ご自身をわたしたちに注入してください。

 

 

生ける神は、語ることによって、ご自身をわたしたちの中へと分与します

 

 神の語りかけがないのは懲らしめです。サムエル記上第3章のころ、神の御言はまれでした。それは祭司エリの家族と家に対する懲らしめでした。あなたが神の祝福の下にある時、神は絶えず語り続けられるでしょう。神があなたに語ることは、あなたが神の祝福の下にあることを証明します。……神はあなたに語っておられるでしょうか? それは、彼が実際であり、生きており、動いておられることを意味します。

 

 生ける神は、語ることによって、ご自身をわたしたちの中へと分け与えられます。……神はご自身をわたしたちに注入することを願われます。これは、おもに語ることによって成就されます。神があなたに語れば語るほど、ますます彼の神聖な要素はあなたの存在の中に分け与えられ、注入されるでしょう。……いったん彼の語りかけを聞くなら、あなたは決して同じであることはできません。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(1)」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第16日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第4週6日)

 

天のレースを走って、地上で天の生活をします

 

ヘブル12:2

わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。

 

「もしわたしたちが、そのようなすばらしい、すべてを含む方である主をひたすら見つめるなら、主はご自身を天、命、力としてわたしたちの中へと供給し、彼であるすべてをわたしたちに伝達し注入します。それによってわたしたちは天のレースを走って、地上で天の生活をすることができます。このようにして、主はわたしたちに、生涯にわたる信仰の道のりを走り通させ、わたしたちを栄光の中へと導き、もたらします(Ⅱコリント3:16,18.Ⅰペテロ5:4.Ⅱテモテ4:8)」。

 

 主よ、あなたはわたしたちの信仰の創始者、また完成者であることを感謝します。主よ、あなたをひたすら見つめて続けて、地上で天の生活をすることができますように。

 

 

この信仰の内側には偉大な力があり、多くの人を動機づけて伝道者や殉教者とならせます

 

 イエスはおもに彼の栄光の中で、また天の御座で信仰の完成者です。彼は栄光の中で御座に座して、地上にいた時に創始した信仰を完成しつつあります。彼は信仰の成就者、また完結者であって、創始し開始したものを成就し完結されます。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第49編)

 

 信仰によってわたしたちの生活が変えられるだけではありません。この信仰の内側には非常に偉大な力があり、多くの人を動機づけて伝道者や殉教者とならせるのです。この内側の偉大な力は、抑えつけることのできない無限のものです。それは人が主のために進んで苦難を受けるようにし、危険をも乗り越えさせ、最終的に殉教者にならせます。これらの能力はすべて信仰から来ます。わたしたちがキリストに触れるとき、彼のあらゆるものがあなたの中へと伝達されます。(ニー全集、第27巻、「正常なキリスト者の信仰」、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第15日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第4週5日)

 

信仰は、望んでいる事柄を実体化し、見ていない事柄を確認します

 

ヘブル11:1

さて信仰とは、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を確認することです。

 

Ⅱコリント4:18

わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目をとめます。なぜなら、見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠であるからです。

 

「信仰は、望んでいる事柄を実体化することであり、見ていない事柄を把握し、確認することです。ですから、信仰は、見えない事柄の証拠、証明です(ヘブル11:1)。わたしたちは、わたしたちの信仰の霊を活用して、見えるものによってではなく、信仰によって歩く必要があります(Ⅱコリント4:13.5:7)」。

 

 主よ、わたしたちの生活が見えるものから見えないものへと転機し、一時的なものから永遠であるものへと回復することができますように。主よ、わたしたちが信仰の霊を活用して、望んでいる事柄を実体化し、見ていない事柄を確認することができますように。

 

 

信仰は、望んでいる事柄を実体化する能力と感覚を持っています

 

 信仰はわたしたちの内側で実際となっていますが、定義することは難しいのです。……ヘブル人への手紙第11章1節は、信仰は望んでいる事柄を実体化することで[あると言います]。それは望んでいる事柄の確信、自信、確証、実際、本質、根拠、望んでいる事柄を堅く支える土台です。……信仰は実質ではなく、実体化する行為です。信仰を持つことは実質的な要素を持つことではありません。それは実体化する能力を持つことです。ある事柄は見ること、聞くこと、触れることはできませんが、わたしたちは内側にそれを実体化する能力を持ちます。

 

 わたしたちの五感はそれぞれ、実体化する能力を持っています。例えば、鼻は香りを実体化し……ます。信仰はわたしたちの五感に付け加えられた、特別で特有な感覚です。それはわたしたちが見ていない事柄、望んでいる事柄を実体化する感覚です。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第47編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第14日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第4週4日)

 

イエスを見つめるとき、主はわたしたちの信仰となられます

 

Ⅱペテロ1:1

……シモン・ペテロから、わたしたちの神また救い主、イエス・キリストの義の中で、わたしたちと共に同じ尊い信仰を割り当てられている人たちへ。

 

「信仰とは、実体化する能力、第六の感覚、見ていない事柄や望んでいる事柄を実体化し、それに実体を与える感覚です(ヘブル11:1)。目は見るためであり、耳は聞くためであり、鼻はかぐためであるように、信仰、すなわち、わたしたちの信仰の霊は、それによってわたしたちが、見えない霊的な世界にあるすべてを実体化して、わたしたちの中へともたらす器官です(Ⅱコリント4:13)」。

 

 主よ、わたしたちが信仰の源であるイエスを見つめることができますように。主がわたしたちの信仰となられることを感謝します。そして主よ、見えない霊的な世界にあるすべてを実体化することができますように。

 

 

信仰の霊は、見えない霊的な世界にあるすべてを実体化します

 

 わたしたちがイエスを見つめるとき、彼は信じる要素としてのご自身をわたしたちに注入して、彼がわたしたちの信仰となられます。……信仰とは、実体化する能力であり、第六の感覚のようなものです。わたしたちはこの実体化する感覚を、福音の宣べ伝えを通して得ました。正常な福音の宣べ伝えは、単に教えるという事柄ではありません。それはまた注入という事柄でなければなりません。……

 

 [罪人]に福音を宣べ伝えることができる前に、わたしはまず主の何か、主からの何かを受けなければなりません。そうすれば、わたしは宣べ伝えるとき、主から受けたものが電気のように、聞いている人たちの中へと入るでしょう。……彼らは首を横に振って、わたしの宣べ伝えることに同意しないかもしれませんが、内側深くで、わたしが言っていることを信じます。……ある要素が彼らの存在の中へと注入されたので、彼らは主を信じることができるのです。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第49編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第13日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第4週3日)

 

主イエスは、わたしたちの信仰の創始者、また完成者です

 

ヘブル12:2

わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。

 

「イエスは、信仰の創始者、すなわち、信仰の創設者、開始者、源、要因です。わたしたちの天然の人の中には、信じる能力はありません。しかし、わたしたちがイエスをひたすら見つめるとき、彼は命を与える霊として(Ⅰコリント15:45後半)、彼ご自身を、彼の信じる要素をわたしたちに注入します」。

 

 主よ、あなたはわたしたちを引き寄せてくださり、わたしたちの中で信仰を開始し、信仰の創始者となってくださいました。主よ、さらに主イエスを見つめて、信仰の道を歩ませてください。そして、主よあなたが創設し、完成した信仰をわたしたちに伝達し、注入してください。

 

 

主イエスは栄光において、また天の御座において、信仰の完成者となられました

 

 イエスは、おもに地上での彼の生涯において、地上での彼の歩みにおいて、信仰の創始者また創設者であるのです。主イエスは地上にいた時、信仰を創設されました。彼が生きた生涯は信仰の生活であり、彼が歩まれた道は信仰の道でした。彼は生活と歩みにおいて、信仰を創設されました。ですから、彼は信仰の創始者です。

 イエスは、開拓者また先駆者であって、信仰の道を切り開かれました。あなたは四福音書をもう一度読むなら、彼の生活が切り開く生活、信仰の道を切り開く生活であったことを見るでしょう。

 

 イエスは信仰の先導者、キャプテンでもあります。……ですから、彼は先導者として、ご自分の足跡に従って、わたしたちに信仰の道を歩ませてくださることができます。……そして栄光において、また天の御座において、信仰の完成者となられました。わたしたちが彼をひたすら見つめる時、彼はご自身が創設し、完成した信仰をわたしたちに伝達し、注入さえしてくださいます。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第49編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第12日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第4週2日)

 

クリスチャンの生涯はレースです

 

ヘブル12:1

……わたしたちも、あらゆる重荷と、いとも容易にまといつく罪をかなぐり捨てて、前に置かれているレースを、忍耐をもって走ろうではありませんか。

 

「クリスチャンの生涯はレースです。すべての救われたクリスチャンは、レースを走って、賞を勝ち取らなければなりません(Ⅰコリント9:24)。この賞は、一般的な意味における救いではなく(エペソ2:8.Ⅰコリント3:15)、特別な意味における褒賞です(ヘブル10:35.Ⅰコリント3:14)。使徒パウロはレースを走って、賞を勝ち取りました(9:26-27.ピリピ3:13-14.Ⅱテモテ4:7-8)」。

 

 主よ、わたしたちクリスチャンの生涯はレースであることを見せてください。主よ、わたしたちも、あらゆる重荷と、容易にまといつく罪をかなぐり捨てることができますように。そして、わたしたちの前に置かれているレースを、忍耐をもって走ることができますように。

 

 

あらゆる重荷と、まといつく罪をかなぐり捨てて、前に置かれているレースを、忍耐をもって走ります

 

 ヘブル人への手紙第12章1節[で]「重荷」……とは、「重いもの」、「重圧」、「妨げ」とも訳すことができます。レースの走者は、あらゆる不必要な重いもの、重荷となる重圧を脱ぎ捨てなければなりません。それは、彼らが何の妨げも受けずに、レースに勝つためです。ここでパウロは「あなたがた」と言わないで、「わたしたち」と言って、この事柄に自分を含めていることに注意してください。

 

「いとも容易にまといつく罪」[1節]……はおもに、わたしたちにまといついて、レースを走るのを妨げるものを言います。…… 重荷となる重いものと、まといつく罪は、いずれもヘブル人信者たちを挫折させ、新契約の道において天のレースを走るのを妨げ、ユダヤ教によって拒絶されたイエスに従うことを困難にしました。…… このレースには多くの反対があります。ですから、わたしたちは忍耐をもって走らなければなりません(ヘブル12:1)。これは、キリストのレースを走るためには、忍耐をもって反対を忍び、うみ疲れて魂が気落ちしてはならないことを意味します。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第50編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第11日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第4週1日)

 

主は、雲の中で信仰の民と共におられます

 

ヘブル12:1

……こんなにも大勢の証し人である雲に囲まれているのですから、わたしたちも、あらゆる重荷と、いとも容易にまといつく罪をかなぐり捨てて、前に置かれているレースを、忍耐をもって走ろうではありませんか。

 

「雲は、民を導いて主について行かせるためです(民9:15-22)。そして主は、雲の中で民と共におられます(出13:21-22)。ギリシャ語の「証し人」は、殉教者という意味を暗示します(使徒1:8)。信仰の民がいれば、わたしたちは主の臨在と主の導きを持つことができます。信仰のすべての民、召会の民は、雲です。主の臨在を尋ね求める最上の道は、召会に来ることです」。

 

 主よ、あなたは雲として、イスラエルの民を導き、 雲の中で民と共におられました。主よ、今日、わたしたちが信仰の民として、主の臨在と主の導きを持つことができますように。主よ、わたしたちが主の臨在を尋ね求めるために、召会に来て兄弟姉妹と共にいることができますように。

 

 

信仰の民によって、主の臨在と主の導きを持つことができます

 

 ヘブル人への手紙第12章1節で、信仰の証し人は、わたしたちを囲んでいる「証し人である雲」と考えられています。主は、雲の中で、彼の民と共におられました(出13:21-22)。イスラエルの子たちは、雲の動きによって主に従いました。雲がある所に、主もおられました。さらに、雲は主に従うことで、民を導くためです。あなたが主を尋ね求める心を持つなら、……信仰の民によって、主の臨在と主の導きを持つことができるという感覚を直ちに持つでしょう。

 

 あなたが雲を持つなら、主を持つでしょう。しかし雲を見失うなら、主をも見失うでしょう。信仰のすべての民、召会の民は、雲です。主の臨在を尋ね求める最上の道は、召会に来ることです。だれでも主の導きを尋ね求めようとするなら、雲、すなわち召会について行かなければなりません。主は雲の中におられます。その意味は、主が信仰の民と共におられるということです。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(3)」、第49編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第9日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第1週6日)

 

わたしは……神の御子の信仰の中で生きるのです

 

ガラテヤ2:20

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、……神の御子の信仰の中で生きるのです。

 

「使徒パウロはガラテヤ第2章20節において次のように言っています、「わたしは……神の御子の信仰の中で生きるのです」。「神の御子の信仰」は、わたしたちの中のイエス・キリストの信仰を指しており、この信仰は、わたしたちが彼を信じるための信仰となります(ガラテヤ2:16,20.3:22)」。

 

 主よ、神の御子の信仰はわたしたちが主を信じるための信仰となることを感謝します。主よ、わたしたちが主の尊さを感じ評価することができますように。主よ、それによって生み出される生ける信仰を持たせてください。

 

 

キリストとの有機的な結合は、わたしたちが主を評価することによって生み出される生ける信仰です

 

 わたしたちとキリストとの有機的な結合を通して、わたしたちはキリストであるもの、またキリストが持っているものは何でも共有します。この結合が起こるとすぐに、神の目にキリストはわたしたちとなり、またわたしたちは彼と一となります。このようにしてはじめて、わたしたちは神の御前で義とされることができます。……

 

 わたしたちは福音を聞いたとき、主の尊さを感じ始めました。これは、わたしたちをキリストと有機的に結合する生ける信仰を生じました。それ以降、キリストとわたしたちは命と実際において一となりました。ですから、信仰によって義とされることは、単なる地位の事柄ではありません。それはまた有機的な事柄、命における事柄でもあります。キリストとの有機的な結合は、わたしたちが彼を評価することによって生み出される生ける信仰を通して自然に達成されます。これが、キリストにある信仰を通して義とされることです。(「新約の結論(20)」、メッセージ325)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第8日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第1週5日)

 

キリストにある信仰とは、主との有機的な結合を指しています

 

ガラテヤ2:16

それでも、人が義とされるのは、律法の行ないに基づいてではなく、イエス・キリストにある信仰を通してであることを知って、わたしたちもキリスト・イエスの中へと信じたのです.それは、律法の行ないに基づいてではなく、キリストにある信仰に基づいて義とされるためです.……

 

「信仰は、神のエコノミーの中で、わたしたちが神と接触するための唯一の要求であり、またわたしたちが神のエコノミーを遂行するための唯一の道です(ガラテヤ2:16,20)。ガラテヤ第2章16節が言っているのは、わたしたちが義とされるのは、イエス・キリストにある信仰、すなわち文字どおりには、イエス・キリストの信仰を通してであるということです。キリストはご自身をわたしたちの中へと注入しており、わたしたちの中で信仰となります(ガラテヤ2:16)。

 

 主よ、わたしたちの中にキリストご自身を注入して、わたしたちの中で信仰となってくださったことを感謝します。主よ、信仰を通して、有機的な結合の中で神のエコノミーが遂行されますように。

 

 

イエス・キリストにある信仰による有機的な結合の中で、わたしたちとキリストは一です

 

 [ガラテヤ人への手紙第2章16節の]「キリストにある信仰に基づいて」という表現は、実際にはキリストを信じることによって達成された有機的な結合を示しています。「キリストにある」という用語は、この有機的な結合を指しています。わたしたちがキリストを信じる前、わたしたちとキリストの間には大きな分離がありました。わたしたちはわたしたちであり、キリストはキリストでした。

 

 しかし信じることを通して、わたしたちはキリストに結合されて、彼と一となりました。今や、わたしたちはキリストの中におり、またキリストはわたしたちの中にいます。これが有機的な結合、命における結合です。この結合は、一本の木の枝を別の木に接ぎ木することによって例証されます。キリストにある信仰を通して、わたしたちはキリストへと接がれます。この霊的な接ぎ木の過程を通して、二つの命は接がれて一となります。(「新約の結論(20)」、メッセージ325)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


 7月の祈り 第7日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第1週4日)

 

信仰の中にある神のエコノミー[経綸]に心をとめます

 

Ⅰテモテ1:4

作り話や果てしのない系図に、心をとめたりすることがないように命じなさい.そのようなものは、信仰の中にある神のエコノミー[経綸]ではなく、むしろ論議を引き起こすだけです。

 

「神のエコノミーは、信仰の領域の中で開始し発展します(Ⅰテモテ1:4)。消極面から言えば、信仰を活用することは、わたしたちの働き、行ないをやめることです。積極面から言えば、信仰を活用することは、主に信頼することです(ヘブル11:6)。信仰とは、神のエコノミーの内容の光景を見るという事柄です(ヘブル12:2)」。

 

 主よ、わたしたちが信仰を活用して自分の働きをやめて、主に信頼することができますように。主よ、わたしたちが信仰の中にある神のエコノミーの啓示を見ることができますように。

 

 

信仰は、わたしたちが神のエコノミーの内容を見ることから生じます

 

 神のエコノミーは信仰の中にあります。それはわたしたちが行なうことによるのではなく、神の恵みにおけるわたしたちの信仰によります。それは、わたしたちが自分で行なうことによるのではなく、三一の神の具体化であるキリストを信じることによります。……信仰はわたしたちから生じるのではありません。信仰はわたしたちが見るものから生じます。わたしたちが神のエコノミーを見るとき、これはわたしたちの内側で信じることを生み出し、開始します。

 

 神のエコノミーとは神のみこころであり、神の大いなる喜びのために、ご自身をあなたとわたしの中へと分与して、有機体であるキリストのからだを生み出すことです。……全宇宙で神の大いなる喜びとは、ご自身をわたしたちの中へと分け与え、分与することであって、わたしたちがキリストの有機体、彼の有機的なからだの部分となるためであることを、わたしたちは見る必要があります。(「神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる」、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第6日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第1週3日)

 

勝利を得る者には、あの隠されたマナを与えよう

 

啓2:17

耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい。勝利を得る者には、あの隠されたマナを与えよう.……

 

「神聖なエコノミーとは、大混乱した旧創造の中から新創造を生み出すことです(ガラテヤ6:15.Ⅱコリント5:17)。聖書においてもわたしたちの経験においても、サタンの大混乱は常に神聖なエコノミーと並行します(エペソ3:8-10.4:14-16.6:24)。主は勝利者を必要としています。すなわち、主と一になって、サタンの破壊的な大混乱を征服し、建設的で神聖なエコノミーの中で勝ち誇る勝利者を必要としています(啓2:7後半,11後半,17後半,26-28.3:5,12,21)」。

 

 主よ、あなたは大混乱した旧創造の中から新創造を生み出すお方です。そのために、主よ、わたしたちは至聖所の中で隠されたマナを食べ、キリストに対するさらに深い経験を持つことができますように。

 

 

この世的な召会の堕落に打ち勝った勝利者は、隠されたマナを食べ、キリストに対するさらに深い経験を持ちます

 

 わたしたちは、キリストを隠されたマナ、養う供給の特別な分け前として享受して、バラムの偶像崇拝的な教えや、ニコライの者たちの聖職者階級の教えのある堕落した召会の、この世的なことに打ち勝たなければなりません(啓2:12-17前半)。主はイスラエルの子たちに、公にマナを与えられました。毎朝、彼らの営所の一面にマナがあって、彼らは公に食べました(出16:14-18)。しかしこのマナの小さい分け前は、幕屋の契約の箱にある金のつぼに保存されました(33節.ヘブル9:4)。これは隠されたマナです。公のマナは、神の民が公に享受する、彼らすべての共通の分け前としてのキリストです。

 

 隠されたマナは、隠されたキリストを表徴し、この世的な召会の堕落に打ち勝った、彼の勝利を得た追い求める者たちのために取っておかれる特別な分け前です。わたしたちは、キリストに対するさらに深い経験を持たなければなりません。わたしたちのキリストに対する経験は、単に公に集会の中だけでなく、至聖所の中に、契約の箱、神の証しとしてのキリストご自身の中にさえ隠されたものであるべきです。(「旧創造におけるサタンの大混乱と新創造のための神聖なエコノミー」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第5日

(朝ごとの食物 信仰の中にある神のエコノミー 第1週2日)

 

神のエコノミーとは神の家庭の行政であり、神ご自身をキリストの中で分与します

 

エペソ3:9

……万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるかを、すべての人を照らして明らかにするためであり。

 

「神のエコノミーとは神の家庭の行政であり、それは彼の選ばれ贖われた人々の中へとご自身をキリストの中で分与し、神が家を得てご自身を表現することです。この家は召会、キリストのからだです(Ⅰテモテ1:4.3:15)。神のエコノミー、すなわち神の家庭の行政は、神の御子のためにからだを生み出し構成することです(エペソ1:22-23.2:16.3:6.4:4,16.5:30)」。

 

 主よ、隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるか、わたしたちを照らして、明らかにしてください。主よ、あなたは今その霊となって、神ご自身をわたしたちの中へと分与してくださっていることを感謝します。主よ、召会、キリストの有機的なからだが生み出され構成されますように。

 

 

神のエコノミーは、神の御子のためにからだを生み出し構成することです

 

 キリストの務めは、彼の地上の務めと彼の天の務めから成っています。主は肉体において地上の務めを遂行し、贖いを完成されました。いったん贖いを完成すると、主は墓の中へと入って安息されました。次に主は復活の中でその霊と成って、彼の天の務めを開始されました。主はその霊と成って、神ご自身を人々の中へと分与されました。この分与は、主ご自身がわたしたちの中へと入ることです。……この分与の結果が召会、すなわちキリストのからだ、神の家、神の王国、キリストの花嫁である配偶者、究極的完成である新エルサレムです。

 

 神のエコノミーとは、神が肉体と成り、人の生活を経過し、死んで、復活し、その霊と成り、人の中へと入って、神を人の中へと分与し、彼らを再生して召会を生み出すことです。キリストのからだである召会は、彼の継続、拡大、増殖です。それはまた神の王国、神の家であり、同時にキリストの花嫁である配偶者でもあります。これらすべての項目の総合計の究極的完成は、新エルサレムです。(リー全集、1994-1997年、第2巻(下)、「聖書の中の支配し制御するビジョン」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第4日

(朝ごとの食物  信仰の中にある神のエコノミー 第1週1日)

 

主の回復にいるわたしたちは、神のエコノミーのビジョンを持ちます

 

使徒26:19

こういうわけで、アグリッパ王よ、わたしは天のビジョンに背かず。

 

箴29:18

ビジョンがない所では、民は勝手に振る舞う.しかし、律法を守る者は幸いである。

 

「主の回復にいるわたしたちは、神のエコノミーのビジョンを持たなければなりません(使徒26:18前半.箴29:18前半)。わたしたちは別の領域の中へと、すなわち、いわゆる霊的な領域ではなく神のエコノミーの領域の中へともたらされる必要があります(啓21:9-10)。わたしたちはこのビジョンによって支配され、制御され、方向づけられる必要があります(箴29:18前半)」。

 

 主よ、わたしたちに神のエコノミーのビジョンを与えてください。そして、わたしたちがこのビジョンによって支配され、制御され、方向づけられますように。主よ、わたしたちが、神のエコノミーのビジョンの中で強くなり、揺り動かされないように守ってください。

 

 

神のエコノミーのビジョンによって支配され、制御され、方向づけられます

 

 神のエコノミーの中心は、からだを得てキリストを表現することです。最終的に、このからだはキリストの花嫁となり、彼の配偶者として彼に符合し、彼と共に地上に下って来て、神のエコノミーの最終段階を完成します。今日、世界情勢は主の来臨の用意をしていますが、主はまだ彼の配偶者を得ておられません。ですから、彼には戻って来る道がないのです。彼はなおも待っておられます。

 

 神のエコノミーは、キリストを彼の選びの民の中へと分与して、彼らがまずキリストのからだとなって彼を表現し、次にキリストの花嫁となって彼に符合し、神聖な分与における神のエコノミーを完成することです。もちろん、わたしはとても多くの人が来て助けを受け、神を尋ね求め、キリストを尋ね求め、命の中で成長し、さらに敬虔に、さらに霊的に、さらに勝利を得ていることに幸いですが、これで満足していません。わたしは、わたしたちがみな神のエコノミーを見る目を持つことを願います。(「ゼカリヤ書ライフスタディ」、第14編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第2日

(朝ごとの食物  神のエコノミーにおける神の恵み 第5週6日)

 

ノアは神から指図を受け、彼の家の救いのために箱船を用意しました

 

ヘブル11:7

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事柄について神から指図を受け、敬虔な畏れによって促され、彼の家の救いのために箱船を用意しました.このことを通して、彼はこの世を罪に定め、信仰による義の相続人となりました。

 

「神がノアに与えたのは、すべてを含む啓示、箱船を建造する啓示であり、それは神が、腐敗した世代を終結させ、新しい時代をもたらす道でした。ノアの働きは、時代を変えた働きでした(Ⅰコリント2:9.Ⅱコリント6:1.マタイ16:18.Ⅰコリント3:12)」。

 

 主よ、わたしたちはノアのように、自分と自分の家の救いのために箱船を用意することができますように。主よ、わたしたちがこの世を罪に定め、わたしたち自身の救いを成し遂げることができますように。

 

 

ある日、神の主権の下で、わたしたちは自分が建造したキリストの中へと入ります

 

 パウロはピリピ人への手紙第2章12節で、わたしたちは従順になり、恐れとおののきをもって、わたしたち自身の救いを成し遂げる必要があると告げました。わたしたちは救われていますが、なおもわたしたちの救いを成し遂げる必要があります。神の救いは、そんなに短く、簡単で、単純ではありません。神の救いは長期間にわたるものです。わたしたちは神の救いの中へと入り、神の救いの一方の端からもう一方の端に進まなければなりません。今日わたしたちは神の救いの行程にいます。……今やわたしたちはこの行程を進んでおり、わたしたちの経過することはわたしたちの働きです。……[ノアは]箱船を建造すればするほど、ますます神の救いを経過しました。最終的に彼は、自分が成し遂げたものの中へと入りました(創7:7)。……

 

 わたしたちが建造しつつあるキリストが、わたしたちの将来の救いとなります。ある日、神の主権の下で、わたしたちは自分が建造したキリストの中へと入ります。……日ごと時間ごと主を愛し、主と交わり、主によって生き、主と共に歩むとき、あなたは経験の中で主を建造します。あなたは経験の中でキリストを建造します。それはあなたの救いとして、あなたがその中へと入るためです。(「神聖な三一の神聖な分与(上)」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第1日

(朝ごとの食物  神のエコノミーにおける神の恵み 第5週5日)

 

苦難と試練のただ中で、十分な恵みとして主を経験します

 

詩133:3

また、ヘルモンの露がシオンの山々に下って来るようだ。まことに、エホバはそこに祝福を命じられた.すなわち命を永遠まで。

 

Ⅱコリント12:9

……わたしの恵みは、あなたに対して十分である.わたしの力は、弱さにおいて完全に現れる」。ですから、わたしはむしろ自分の弱さを、大いに喜んで誇りましょう.それはキリストの力が、わたしの上に幕屋を張るためです。

 

 「わたしたちは聖徒たちと一の立場で集会するとき、手順を経た三一の神を命の恵みとして経験します(詩133:3.Ⅰペテロ3:7.使徒4:33.11:23)。わたしたちは苦難と試練のただ中で、増し加わる恵み、またすべてに十分な恵みとして主を経験することができます(Ⅱコリント12:9)」。

 

 主よ、わたしたちが一の立場で共に集会して、シオンの山から下って来るヘルモンの露としての命の恵みを享受することができますように。また、主よ、苦難と試練のただ中で、増し加わる恵みを享受することができますように。

 

 

わたしたちは召会生活の中で、シオンの山々に下って来る露としての命の恵みを受けます

 

 詩篇第133篇3節によれば、一は……シオンの山々に下って来る露のようです。塗り油は一人の人であるアロンの上にありますが、露は場所であるシオンの上にあります。露は命の恵みを表徴します(Ⅰペテロ3:7)。命の恵みは命の供給です。召会生活の中でわたしたちは、油塗りの下にいるだけではなく、また命の供給、命の恵みを受けます。わたしたちは油塗られるとき、恵みも受けます。

 

 使徒パウロは主の恵みを豊かに経験しました。彼を苦しめている「とげ」が取り去られるようにと、彼は三度祈りました。主は、彼の恵みはパウロに対して十分であると答えられました。この言葉によって、主はそのとげを取り去るのではなく、パウロに彼の十分な恵みを供給することを示されました。(リー全集、1979年、第2巻(下)、「一の真の立場」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)