朝ごとの食物

キリストを経験し、享受し、表現する(第1週1日~第4週1日)

9月の祈り第30日

(年二回の訓練(7月)第4週1日)

 

彼らの目を開き、サタンの権威から神に立ち返らせます

 

使徒26:18

彼らの目を開き、彼らを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせるのである.それは、わたしにある信仰によって、彼らが罪の赦しと、聖別された人たちの間での嗣業を受けるためである。

 

「神の王国は反逆を征服する力です(マルコ4:35-41)。宇宙には二つの大きな原則があります。それは神の権威とサタンの反逆です。神とサタンの間の唯一の争いは、権威と反逆に関してです(使徒26:18.コロサイ1:13)。反逆は、神の権威を否定し、神の支配を拒絶することです。しかし、神はこの反逆を継続させません。彼はご自身の王国を地上に建て上げます(啓11:15)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせてくださったことを感謝します。主よ、わたしたちの目を開き、神の権威を見ることができるようにしてください。そして、服従することを学ばせてください。

 

 

服従を通して、神の権威に自由な道を持たせます

 

 宇宙には二つの大いなる事があります。それは信じて救いに至ることと、権威に服従することです。言い換えれば、信頼することと服従することです。聖書は、罪の定義は不法であることを見せています(Ⅰヨハネ3:4)。……不法であるとは神の権威を無視することであり、神の権威を無視することは罪です。宇宙には二つの原則があります。それは神の権威とサタンの反逆です。(ニー全集、第47巻、「権威と服従」、第1編)

 

 神はご自分の王国を打ち立てられます。サタンは神の権威に反逆し、人は神の権威に違犯して神に反逆しますが、神はこの反逆を継続させません。神はご自身の王国を建て上げられます。…… 主はどのようにして神の王国を建て上げられたのでしょうか?……主が地上で行なわれたことは何であれ、完全に服従に基づいていました。神の権威に反対して何も行なわれませんでした。あらゆることは服従の中にあり、神の権威との完全な協力の中にありました。……今日の召会も、服従を通して、神の権威に自由な道を持たせ、服従を通して神の王国が現れるようにするべきです。(ニー全集、第47巻、「権威と服従」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第28日

(年二回の訓練(7月)第3週6日)

 

主はインマヌエルとして、戻って来る時まで絶えず、その民と共におられます

 

マタイ28:20

わたしがあなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる。

 

マタイ1:23

「見よ、処女が身ごもって男の子を産む.人々は彼の名をインマヌエルと呼ぶ」(インマヌエルは、神われらと共にいますと訳される)。

 

「天の王は、インマヌエル、神われらと共にいますです」(マタイ1:23)。マタイによる福音書は、主がインマヌエルとして、戻って来る時まで絶えず、その民と共におられる天の王であることを証明します。この時代の満了は、この時代の終わり、すなわち、主のパルシーア(主の来臨)の時です。マタイ第28章20節で、「この時代の満了」は、この現在の時代(召会時代)の終わりを示します。この時代の満了は、大患難の三年半となります(ダニエル12:4,6-7,9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはインマヌエル、神われらと共にいます方です。主よ、あなたは戻って来る時まで、わたしたちと共におられる天の王であることを感謝します。主よ、この時代の満了、この時代の終わりに、主の臨在の中へと携え上げられることを願います。

 

 

「この時代の満了」は主のパルシーア、主の来臨の時を指し、大患難の時となります

 

 天の王はインマヌエル、神われらと共にいますです(1:23)。…… 王国の中で王国の民と共にある王として、主はこの時代の満了まで、日々わたしたちと共におられます。今日は日々に含まれています。主は今日わたしたちと共におられ、明日わたしたちと共におられます。一日の例外もありません。彼はこの時代の満了までわたしたちと共におられます。

 

 これはこの時代の終わり、すなわち、主のパルシーア、主の来臨の時を指してます。この時代の満了、この時代の終わりは、大患難となるでしょう。わたしたちはその時、ここにいたくありません。そうではなく、わたしたちは主のパルシーアの中へと、すなわち、彼の臨在の中へと携え上げられたいのです。これが王国の事柄です。主の義を伴う主の復活の中で、王国は現にあり、わたしたちは諸国民を弟子とする権威、委託、地位を持っています。このようにして、王国は広がりつつあります。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第72編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第27日

(年二回の訓練(7月)第3週5日)

 

王国の構成のために、父、子、霊の神聖な三一があります

 

マタイ3:16-17

イエスはバプテスマされると、直ちに水から上がられた.すると見よ、天が彼に開かれた.そして彼は、神の霊がはとのように下って、彼の上に来るのをご覧になった。すると見よ、天からの声が言った、「これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ」。

 

「マタイによる福音書は、王国の構成のために、父、子、霊の三者すべてに対する一つの名を与えることによって、神聖な三一の実際を明らかにしています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。バプテスマされることは、天の王国の構成のためです。主よ、あなたがバプテスマされたときのように、わたしたちにも天が開かれ、その霊がはとのように下り、御父の語りかけがありますように。そして、天の王国の構成のために、 三一の神との結合の中へと浸し込まれ、三一の神で造り込まれますように。

 

 

父と子と霊の実際の中へとバプテスマされることは、天の王国の構成のためです

    

 マタイによる福音書の開始の章で、聖霊(1:18)、子なるキリスト(18節)、父なる神(23節)が、人なるイエス(21節)を生み出すためにいます。この人なるイエスは、エホバ・救い主、神われらと共にいます方として、まさしく三一の神の具体化です。第3章でマタイが提示する光景において、御子は開かれた天の下で、バプテスマの水の中に立っており、その霊ははとのように御子の上に下り、御父は天から御子に語りかけました(16-17節)。……

 

 マタイによる福音書によれば、父と子と霊の実際の中へとバプテスマされることは、天の王国の構成のためです。地上の社会とは異なり、天的王国は、肉と血から成る人で形成されることはできません(Ⅰコリント15:50)。それは、三一の神との結合の中へと浸し込まれ、彼らの中へ造り込まれた三一の神で確立され建造されている人々によってのみ、構成されることができます。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第72編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第26日

(年二回の訓練(7月)第3週4日)

 

バプテスマして、彼らを主との霊的で奥義的な結合の中へともたらします

 

マタイ1:1

イエス・キリストの系図の書.彼はダビデの子であり、アブラハムの子である。

 

マタイ4:17

この時からイエスは宣べ伝え始めて言われた、「悔い改めよ、天の王国は近づいたからだ」。

 

「だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして」(マタイ28:19)。いっさいの権威が彼に与えられたので(18節)、天の王は彼の弟子たちを、すべての諸国民を弟子とするために遣わしました。人々を三一の神の名の中へとバプテスマするとは、彼らを彼との霊的で奥義的な結合の中へともたらすことです。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、わたしたちは罪深いだけでなく、反逆的でもあるので、悔い改めてあなたを主権者また王として受け入れる必要があります。そして日々、主との霊的で奥義的な結合の中で、ご自身を命の祝福として経験し享受させてくださいますように。

 

 

神がご自身を命の祝福としてわたしたちの中に分与するには、王国の必要があります

 

 [マタイによる福音書第4章17節]は、ヨハネによる福音書にあるように、福音がまず命の方法で提示されたのではなく、マタイによる福音書にあるように、王国の方法で提示されたことを示しています。これは、神が働いて、彼のすべてを含む存在をわたしたちに与えるには、王国、領域、範囲の必要があるからです。命の福音書であるヨハネによる福音書でさえ、もしわたしたちが再生されないなら、神の王国の中に入ることはできないと告げられています(ヨハネ3:3、5)。神が働いて、ご自身を命の祝福としてわたしたちの中に分与するには、王国の必要があります。ですから、福音において、わたしたちはイエス・キリストを、まず命としてではなく、王として受け入れます。

 

 マタイによる福音書には、王・救い主がおられます。マルコによる福音書では奴隷・救い主、ルカによる福音書では人・救い主、ヨハネによる福音書では神・救い主がおられます。わたしたちが悔い改めて、主を王・救い主として受け入れないなら、彼を奴隷・救い主、人・救い主、神・救い主として持つことはできません。(「新約の結論(16)」、メッセージ265)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第25日

(年二回の訓練(7月)第3週3日)

 

バプテスマは、悔い改めた人々を彼らの古い状態から新しい状態へもたらします

 

使徒2:38

……悔い改めなさい.そして、あなたがたの罪が赦されるために、イエス・キリストの御名の上にバプテスマされなさい.そうすれば、あなたがたは聖霊を賜物として受けます。

 

使徒19:5

彼らはこれを聞いて、主イエスの御名の中へとバプテスマされた。

 

「バプテスマは、悔い改めた人々を彼らの古い状態から新しい状態へもたらすことです。これは、彼らの古い命を終わらせ、キリストの新しい命を彼らに発芽させることによってであり、彼らが王国の民となるためです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちはイエス・キリストの御名の中へとバプテスマされて、聖霊を賜物として受けたことを感謝します。主よ、わたしたちがキリストの死の中へと、キリストご自身の中へと、三一の神の中へと、キリストのからだの中へとバプテスマされたことの霊的な実際を経験し、享受することができますように。

 

 

わたしたちは水の中にだけでなく、キリストの死の中へと、キリストのからだの中へとバプテスマされます

 

 バプテスマには二つの面、水による目に見える面と、聖霊による目に見えない面があります(使徒2:38、41.10:44-48)。見える面は見えない面の表現、証しであり、見えない面は見える面の実際です。……両方とも必要です。主は[マタイによる福音書第28章19節において]弟子たちにこのバプテスマを命じた後、間もなく、彼らと全召会を、聖霊の中にバプテスマされました(Ⅰコリント12:13)。ユダヤ人の部分はペンテコステの日に(使徒1:5.2:4)、異邦人の部分はコルネリオの家でです(11:15-17)。

 

 それから、これに基づいて、弟子たちは新しく悔い改めた者たちをバプテスマしました(2:38)。それは水の中にだけでなく、キリストの死の中へと(ローマ6:3-4)、キリストご自身の中へと(ガラテヤ3:27)、三一の神の中へと(マタイ28:19)、キリストのからだの中へと(Ⅰコリント12:13)です。キリストの死と埋葬を表徴する水は、バプテスマされる者の古い歴史を終わらせる墓と考えられます。キリストの死がキリストの中に含まれており、キリストはまさに三一の神の具体化であり(コロサイ2:9)、三一の神は最終的にキリストのからだと一つであるのですから、新しい信者たちをキリストの死の中へと、キリストご自身の中へと、三一の神の中へと、キリストのからだの中へとバプテスマすることは、まさに一つの事を行なうことです。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第72編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第24日

(年二回の訓練(7月)第3週2日)

 

行って、すべての諸国民を弟子とし、三一の神の中へとバプテスマします

 

マタイ28:19

だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、

 

マタイ16:19

わたしはあなたに天の王国のかぎを与える.あなたが地上で縛るものはすべて、すでに天で縛られていたものであり、あなたが地上で解くものはすべて、すでに天で解かれていたものである。

 

「だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして」(マタイ28:19)。いっさいの権威が彼に与えられたので(18節)、天の王は彼の弟子たちを、すべての諸国民を弟子とするために遣わしました。弟子たちは彼の権威をもって行きます。諸国民を弟子とすることは、彼の王国の設立のために、異教徒を王国の民とすることです。その王国とは今日、この地上における召会です」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは父と子と聖霊の名の中へとわたしたちをバプテスマしてくださったことを感謝します。わたしたちも諸国民を弟子とするために、福音を宣べ伝えることができますように。

 

 

父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマします

 

 いっさいの権威が彼に与えられているので、天の王は彼の弟子たちを、すべての諸国民を弟子とするために遣わされました。弟子たちは彼の権威をもって行きます。諸国民を弟子とするとは、彼の王国の設立のために、異教徒を王国の民とすることです。その王国は今日、この地上における召会です。

 

 主が弟子たちに、福音を宣べ伝えるというのではなく、諸国民を弟子とするように命じられたことに注意してください。福音を宣べ伝えることと、諸国民を弟子とすることとの違いは、福音を宣べ伝えるとは単に罪人を救いにもたらすことですが、諸国民を弟子とするとは異邦人を王国の民とすることであるということです。わたしたちが主に遣わされたのは、人々を救いにもたらすためだけでなく、諸国民を弟子とするためでもあります。これは王国の事柄です。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第72編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第23日

(年二回の訓練(7月)第3週1日)

 

いっさいの権威がイエスに与えられています

 

マタイ28:18

イエスは来て、彼らに語って言われた、「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている。

 

エペソ1:20

神は、その力をキリストの内に働かせて、彼を死人の中から復活させ、彼を天上でご自身の右に座らせ。

 

「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている」(マタイ28:18)。神は至高の権威を持っています。ですから、彼はいっさいの権威を持っています(ローマ9:20-21)。権威は、神ご自身の存在から出てきます(啓22:1)。いっさいの権威(政府のもの、地位上のもの、霊的なもの)は、神から生じます(創9:6.ローマ13:1-7.ヨハネ19:10-11.Ⅱコリント10:8.13:10)。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。天においても地においても、いっさいの権威があなたに与えられています。霊的な権威は職務上のものではなく、命のものであることを見ることができますように。わたしたちを導く人たちに従い、彼らに服することを学ばせてください。

 

 

あなたがたを導く人たちに従い、彼らに服しなさい

 

「霊的な権威」は職務上のものではなく、命の中にあるものを意味しています。長老たちに権威があると言うとき、その権威は職務上のものではないことを、わたしたちは忘れてはなりません。どのようなものも、職務上のものとなるとき、それはもはや命のものではありません。……権威は職務上のものではないので、階級も地位もありません。職務上のものでないどのようなものも、地位上のものではありません。……

 

 ヘブル人への手紙第13章17節を見てみましょう、「あなたがたを導く人たちに従い、彼らに服しなさい.なぜなら、彼らは弁明する者として、あなたがたの魂を見守っているからです.それは、彼らがこれをうめきをもって行なうのではなく、喜びをもって行なうためです.そうでないと、これはあなたがたにとって益にはならないでしょう」。…… この節は、わたしたちを導く人たちに従うように告げているのであって、わたしたちを支配する人たちに従うようにと告げているのではありません。わたしたちは彼らの権威にではなく、彼らの導きに従うのです。(リー全集、1984年、第2巻(下)、「長老訓練、第四巻:主の回復の実行に関する他の極めて重要な事柄」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

9月 全国特別集会

9月の祈り第21日

(9月全国特別集会 第6日)

 

メッセージ 4

新エルサレム―― エデンの園に関する神聖な啓示の反映と成就、また新約の務めの唯一の目標

 

啓示録21:2,10

わたしはまた聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て神から下って来るのを見た。…… 彼はわたしを霊の中で、…… 聖なる都エルサレムが天から出て、神から下って来るのをわたしに見せた……

 

Ⅰ.永遠の三一の神によって創造されたエデンの園に関する神聖な啓示と、手順を経て究極的に完成された三一の神によって建造される新エルサレムに関する神聖な啓示は、互いに反映しています(創2:7-14,18-24.啓21:1―22:2)。 

 

Ⅱ.聖書の中の神聖な啓示のこれら二つの部分において啓示されていることは、聖書全体を貫く神聖な啓示の中心路線です。この中心路線は、わたしたちが聖書を解釈して理解することの支配する原則であるべきです。

 

Ⅲ.神の永遠の意図は、わたしたちが新エルサレムになることです。これは、創世記第1章から第2 章の三一の神の建築計画である有機的な青写真において見られます。また啓示録第 21 章から第 22章の三一の神の有機的な傑作である完成したものにおいて見られ、それは、わたしたちが何であるか、またわたしたちがどのように働きをすべきかのモデルです(ヘブル 11:10.エペソ2:10)。 

 

Ⅳ.新約全体の啓示によれば、新約の務めの唯一の目標は新エルサレムです。それは神の永遠のエコノミーの究極の目標です(啓21:2,10)。

 

Ⅴ.新エルサレムは、三一の神、すなわち神聖な三一が三つの基本的な要因として彼の贖われた者たちの中へと造り込まれ、彼らと共に構成されて、すばらしい宝の構成となったものであり、全聖書の結論です。

 

Ⅵ.わたしたちが持たなければならない認識とは、わたしたちが新エルサレムを生かし出して、新エルサレムとなり、新エルサレムを成し遂げて、新エルサレムを建造するということです(Ⅰコリント3:9,12-17)。 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第20日

(9月全国特別集会 第5日)

 

メッセージ 3(Ⅲ~Ⅴ) 

キリストをわたしたちの王、わたしたちの主、わたしたちのかしら、わたしたちの夫として受け入れ、経験し、享受して、キリストのからだを建造し、新エルサレムを究極的に完成することによって、新約の務めの実際の中へと入る

 

エペソ1:10

時代の満了時のエコノミー[経綸]へ至るためです.すなわち、キリストの中で、天にあるもの地にあるもの、すべてのものを、彼の中でかしらにつり上げようとされたのです.

 

雅歌1:4

わたしを引き寄せてください.わたしたちはあなたの後を走ります.……

 

Ⅲ.わたしたちはキリストをわたしたちのかしらとして受け入れ、経験し、享受しなければなりません。 

 

◎ わたしたちがキリストの中でかしらにつり上げられることは、天使たちの反逆と人の反逆によって引き起こされた、死と暗やみの中にある宇宙的な崩壊の堆積からわたしたちを救い出します。信者たちがキリストのかしらにつり上げることにあずかるのは、召会生活の中で進んでかしらにつり上げられることによってであり、命において成長することによってであり、キリストの光の下で生活することによってです(エペソ1:10.ヨハネ1:4.啓21:23-25.エペソ5:8-9)。 

 

Ⅳ.わたしたちはキリストをわたしたちの夫として受け入れ、経験し、享受しなければなりません。 

 

◎ 雅歌の中のロマンスは、わたしたちと主との関係が個人的なもので、愛情深いもので、霊的なものでなければならないことを描写しています(雅1:4後半)。 

 

Ⅴ.キリストをわたしたちの王、わたしたちの主、わたしたちのかしら、わたしたちの夫として受け入れ、経験し、享受することは、キリストのからだとしての召会を建造して、新エルサレムを究極的に完成するためです(マタイ16:18.エペソ4:11-12,16.啓19:7.21:2)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第19日

(9月全国特別集会 第4日)

 

メッセージ 3(Ⅰ~Ⅱ)

キリストをわたしたちの王、わたしたちの主、わたしたちのかしら、わたしたちの夫として受け入れ、経験し、享受して、キリストのからだを建造し、新エルサレムを究極的に完成することによって、新約の務めの実際の中へと入る

 

エゼキエル1:26

また、彼らの頭の上にある大空の上に御座のようなものがあり、サファイア石の外観のようであった.そして御座のようなものの上に、人のような外観の方がその上におられた。

 

ローマ14:8-9

わたしたちは生きるにしても、主に生きるのであり、死ぬにしても、主に死ぬのです。こういうわけで、わたしたちは生きるにしても死ぬにしても、主のものです。このために、キリストが死んで再び生きられたのは、彼が死んだ者と生きている者の主となられるためです。

 

Ⅰ.わたしたちはキリストをわたしたちの王として受け入れ、経験し、享受しなければなりません. 

 

◎ わたしたちの霊的な経験における最も高い点は、澄み渡る空とその上の御座を持つことです(エゼキエル1:22,26-28)。御座は宇宙の中心であり、主の支配する臨在です。わたしたちの霊の中の御座は、実はキリストご自身です(イザヤ22:23.ヘブル4:16.ローマ5:21.啓22:1)。わたしたちに澄み渡る空があるなら、御座があり、わたしたちは自然に御座の支配と統治の下にいるでしょう。神がわたしたちの中で御座を持つとは、神がわたしたちの中で統治する地位を持つことを意味します(参照、ダニエル4:17,25-26.5:18-31.イザヤ6:1-8)。 

 

Ⅱ.わたしたちはキリストをわたしたちの主として受け入れ、経験し、享受しなければなりません。

 

◎ わたしたちは、単に主のために生きるだけでなく、主に生きる人々とならなければなりません。キリストの愛がわたしたちに押し迫るとは、それがわたしたちを強制的に制限し、わたしたちを壁に囲まれた狭い道にいるように、一つの路線と目的へと閉じ込めることを意味します。使徒たちは、このように押し迫られて、もはや自分自身に生きていたのではなく、主に生きていました(Ⅱコリント5:14-15)。 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第18日

(9月全国特別集会 第3日)

 

メッセージ 2

新約の婚約させる務め (Ⅲ~Ⅳ)

 

啓示録2:4,7

しかし、わたしには、あなたを責めるべき事が一つある.あなたは初めの愛を離れてしまった。 …… 勝利を得る者には、神のパラダイスにある命の木から食べさせよう』。

 

Ⅱコリント11:3

ところが、わたしが恐れるのは、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが腐敗させられて、キリストに対する単純さと純潔を失いはしないかということです。

 

Ⅲ.主の回復は、初めの愛、すなわち最上の愛をもって主イエスを愛することの回復であり、また主イエスを命の木として食べることの回復であって、キリストの有機的なからだを建造するためです。それは、神の永遠のエコノミーの目標としての新エルサレムを建造することです(啓2:4-5,7.エペソ4:15-16.啓22:14)。 

 

◎ 命の木を食べること、すなわち、キリストをわたしたちの命の供給として享受することは、召会生活の主要な事柄であるべきです。命の木としてのキリストは、「食べるのに良い」ものであり(創2:9)、それによってわたしたちは、彼を食べてわたしたちの享受とすることができ、また彼で構成されて神の表現となることができます(創1:26.ヨハネ6:57,63)。

 

◎ 「あなた自身をささげて主を愛しなさい。このように有効な道は他にありません。このように安全で、このように豊かで、このように享受に満ちた道は他にありません。ただ彼を愛しなさい。他の事を気にしてはいけません」。(ウイットネス・リー全集、1972年、第1巻(上)、「雅歌において描写されている命と建造」、第2編) 

 

パウロは、コリントの信者をキリストに婚約させることにおいて、彼らに対する深い関心を次のように言い表しています、「ところが、わたしが恐れるのは、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが腐敗させられて、キリストに対する単純さと純潔を失いはしないかということです」(Ⅱコリント11:3)。

 

◎ パウロは、神の永遠のエコノミーの唯一の教え以外の異なる教えを、創世記第3章1節から7 節で蛇がエバに欺いて語ったことにたとえています。蛇は、エバを命の木を享受するという単純さから、複雑な、また複雑にする善悪知識の木へとそらしました。それはすなわち死の木であり、死は神を享受することから分離するものです(ローマ8:6)。 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第17日

(9月全国特別集会 第2日)

 

メッセージ 2

新約の婚約させる務め (Ⅰ~Ⅱ)

 

Ⅱコリント11:2

わたしは神のねたみをもって、あなたがたをねたんでいます.なぜなら、あなたがたを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです。

 

Ⅰ.全聖書は神聖なロマンスであり、神がどのように彼の選ばれた民に求愛し、最終的に彼らと結婚するかの記録です(創2:21-24.雅1:2-4.イザヤ54:5.62:5.エレミヤ2:2.3:1,14.31:32.エゼキエル16:8.23:5.ホセア2:7,19.マタイ9:15.ヨハネ3:29.Ⅱコリント11:2.エペソ 5:25-32.啓19:7.21:2,9-10.22:17)。

 

わたしたちは神の民として神との愛の関係の中へと入るとき、神の命を受けます。それは、エバがアダムの命を受けたようにです(創2:21-22)。

 

◎ 神の民が神を愛し、時間を費やして神の言葉の中で彼と交わるとき、神は彼らに彼の神聖な要素を注入し、彼らを彼と一にして彼の配偶者とし、命、性質、表現において彼であるのと同じにします(詩119:140,15-16.エペソ5:25-27.Ⅱコリント3:18)。 

 

Ⅱ.使徒パウロの務めにおける負担は、信者たちをキリストに婚約させることでした――「わたしは神のねたみをもって、あなたがたをねたんでいます.なぜなら、あなたがたを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです」(Ⅱコリント11:2)。

 

◎ 主の回復の目標は、わたしたちが愛する唯一の夫としてのキリストを回復することです。わたしたちは、キリストに引き寄せられて、キリストを愛し、キリストを評価し、キリストを宝とすべきです。

 

◎ 新約の真の務めは常にわたしたちを奮い立たせて、初めの愛をもって主イエスを愛させ、わたしたちを強めて、単純に命の木としてのキリストを食べさせ享受させ、わたしたちの命の供給とならせます(Ⅱコリント11:2-3.3:3-6)。

 

◎ エペソ人への手紙の目標は、わたしたちを神の内なる実質である愛の中へともたらし、わたしたちが愛としての神を享受し、神聖な愛の甘さの中で神の臨在を享受し、それによってキリストが愛したように、他の人たちを愛するということです(エペソ1:15.2:4.3:19.5:2,25.6:23.参照、Ⅰヨハネ4:16-19)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第16日

(9月全国特別集会 第1日)

 

新約の務め

 

標語:

和解の務めは、わたしたちを外庭から至聖所の中へともたらします。この至聖所へと、キリストは大牧者として、ご自身の御名のために、わたしたちを義の途の上で導きます。それによって、わたしたちが日々いつまでも主の家、神の聖なる所(キリスト、召会、わたしたちの霊、新エルサレム)に住みます。

 

メッセージ 1

新約の務め――その霊の務め、義の務め、和解の務めは、わたしたちを新しい復興の中へともたらす(Ⅱコリント3:6-9.5:18-20)

 

Ⅱコリント3:6、8-9 神はまたわたしたちを新しい契約の奉仕者として、資格づけてくださいました.それは、文字ではなく、霊の奉仕者です.…… ましてその霊の務めは、栄光の中にないわけがありましょうか? 罪定めする務めに栄光があるなら、まして義とする務めは、なおさら栄光にあふれるのです。

 

Ⅱコリント5:18 これらすべてのものは、神から出ています.彼はキリストを通して、わたしたちをご自身に和解させ、その和解の務めを、わたしたちに与えてくださいました.

 

Ⅰ.新約の務めは、神聖な啓示の高嶺としてのその霊の務めであって、わたしたちを新しい復興の中へともたらします(Ⅱコリント3:6-8.啓22:17前半.ハバクク3:2)。 

 

Ⅱ.新約の務めは義の務めであり、それはキリストを生かし出し、キリストを真に表現すること、すなわち神・人の生活であって、わたしたちを新しい復興の中へともたらします(Ⅱコリント3:9.ローマ5:18,21)。

 

Ⅲ.新約の務めは和解の務めであり、その内在的な意義は、神にしたがって牧養することであって、わたしたちを新しい復興の中へともたらします(Ⅱコリント5:18-20)。 

 

◎ 和解の務めは、わたしたちを外庭から至聖所の中へともたらします。この至聖所へと、キリストは大牧者として、ご自身の御名のために、わたしたちを義の途の上で導きます。それによって、わたしたちは日々いつまでも主の家、神の聖なる所(キリスト、召会、わたしたちの霊、新エルサレム)に住みます(詩23:3,6.73:17.77:13.ヨハネ1:14.2:21.Ⅰテモテ3:15-16.エペソ2:22.啓21:2-3,22)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

朝ごとの食物

キリストを経験し、享受し、表現する

9月の祈り第14日

(年二回の訓練(7月) 第2週6日)

 

キリストはわたしたちの心の中に、ご自身のホームを造ります

 

エペソ3:16-17

どうか御父が、彼の栄光の豊富にしたがい、力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように.またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ。

 

「エペソ第3章17節が啓示しているのは、三一の神がわたしたちの中へと入って来ており、要素としてのご自身をもって、また材料としてのわたしたちからのものをもって建造の働きを行なうということです。これはマタイ第13章の種まく者のたとえによって例証されています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの心の中にご自身のホームを造ってくださることを感謝します。このために、わたしたちを内なる人の中へと増強してくださいますように。また、キリストがわたしたち心の中に、ご自身のホームを造ることができますように。

 

 

キリストはわたしたちの内なる存在の中に、ホームを建造しつつあります

 

 キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造ることは、建造と関係があります。わたしたちはホームを造ろうとするなら、まず家を建てなければなりません。ホームを造ることは、ある特定の場所に定住することを暗示します。しかしながら、わたしたちは定住しようとするなら、家を持たなければなりません。「キリストが、……ご自身のホームを造る」という言葉は[エペソ3:17]、彼がわたしたちの中で建造の働きを行なっておられることを強く示しています。キリストはわたしたちの内なる存在の中にホームを建造しつつあります。

 

 ヨハネによる福音書第14章23節で、主イエスは言いました、「だれでもわたしを愛する者は、……わたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」。この節の「住まいを造る」は、エペソ人への手紙第3章17節の「ご自身のホームを造る」と等しいのです。(「サムエル記上・下ライフスタディ」、第30編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第13日

(年二回の訓練(7月) 第2週5日)

 

種まく者は主イエスであり、ご自身を命の種として、わたしたちの中へとまかれます

 

マタイ13:3

彼は多くの事を、彼らにたとえで語って言われた、「見よ、あの種まく者が、種をまきに出かけた。

 

コロサイ2:19

かしらに結び付いて……この方から、からだ全体は、節と筋によって豊かに供給され、結合され、神の増し加わりによって成長するのです。

 

「種まく者は主イエスのすばらしいパースンであり、まかれた種も三一の神の具体化としての主ご自身です(マタイ13:3,18-23)。わたしたちは種まく者であるキリストが、ご自身を命の種として人の中へとまくというビジョンを見る必要があります。それはキリストを成長させて、神の建造のための尊い材料が生み出されるためです(Ⅰコリント3:9,12前半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主がご自身を命の種として、わたしたちの中へとまいてくださったことを感謝します。言葉としてのキリストが、土壌としてのわたしたちの中にまかれて成長し、神の建造のための尊い材料が生み出されますように。

 

 

キリストはご自身を命の種として人の中へとまきます

 

 種まく者は主イエスのすばらしいパースンであり、まかれる種も三一の神の具体化としての主ご自身です。キリストはご自身を命の種として、わたしたちの中へとまかれました(マタイ13:4前半、8節)。キリストは言葉で表徴される種であり(19節)、わたしたち、神の選ばれた者は土壌です。……ですから、言葉としてのキリストは、土壌としてのわたしたちの中にまかれた命の種なのです。……

 

 わたしたちは種まく者であるキリストが、ご自身を命の種として人の中へとまくというビジョンを見る必要があります。このビジョンは主の回復の心臓部です。なぜなら、それは主の心の願いと関係があるからです。……彼が願っているのは、彼が彼の選ばれた民であるわたしたちの中へと入って来て、ミングリングの方法でわたしたちの命となって、ご自身をわたしたちの要素とならせ、わたしたちを彼の表現とならせるということです。三一の神の具体化また表現であるキリストは、ご自身をわたしたちの存在の中へとまかれました。(「新約の結論(16)」、メッセージ270)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第12日

(年二回の訓練(7月) 第2週4日)

 

主イエスはわたしたちの安息です

 

マタイ11:28-30

すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。わたしは心の柔和なへりくだった者であるから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい.そうすれば、あなたがたは魂に安息を見いだす。なぜなら、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

「[マタイ11:28で] 述べられている労苦は、律法の戒めや宗教的規定を守ろうと努力する労苦を指しているだけでなく、何かの働きに成功しようとして奮闘する労苦のことも指しています。このように労苦する人はだれでも、常に重荷を負っています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主イエスにある安息を感謝します。わたしたちはすべて労苦し重荷を負っている者たちです。主イエスよ、あなたが御父のみこころに服従したように、わたしたちも主のくびきを負い、主から学ぶことができますように。

 

 

主のくびきを負うことは御父のみこころを取ることであり、わたしたちの安息です

 

 マタイによる福音書第11章29節で、主イエスは安息する方法を与えておられます。……主のくびき、彼の生活の方法は安息ですが、わたしたちのくびきは重荷です。ですから、わたしたちは、自分のくびきを負うべきではありません。むしろ、主のくびきを負い、彼の生活の方法を取るべきです。主のくびきとは、御父のみこころを取ることです。……主イエスはそのような生活をし、御父のみこころ以外の何も顧慮しませんでした(ヨハネ4:34.5:30.6:38)。彼はご自身を、完全に御父のみこころに服従させました(マタイ26:39、42)。ですから、主はご自身から学ぶようにとわたしたちに求めているのです。彼から学ぶとは、外側で彼を模倣することではなく、主のくびき(神のみこころ)を負うことによって、わたしたちの霊の中で主を複写することです(11:29前半、Ⅰペテロ2:21)。

 

 主のくびきを負い、彼から学ぶことによってわたしたちが見いだす安息は、わたしたちの魂のためです。それは性質において内側の安息であり、何か外側のものだけではありません。最も困難な事は、魂の中で安息することです。人々が眠れないのは、魂が悩まされるからです。しかし主のくびきを負い、彼から学ぶことによって、わたしたちは満足のうちに、魂の中で彼の安息にあずかります(マタイ11:28後半、29後半、30)。(「新約の結論(16)」、メッセージ269)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第11日

(年二回の訓練(7月) 第2週3日)

 

死の影の谷を歩いても、災いを恐れません.あなたがわたしと共におられるからです

 

詩23:4-6

たとえ、死の影の谷を歩いても、わたしは災いを恐れません.あなたがわたしと共におられるからです.あなたの棒とあなたの竿、それらがわたしを慰めます。あなたはわたしの前にわたしの敵の前で、宴席を設け、わたしの頭に油を塗ってくださいます.わたしの杯は満ちあふれています。わたしの命の日の限り、必ず良きものと慈愛がわたしを追いかけて来ます.わたしは日々いつまでもエホバの家に住みます。

 

「主はわたしたちの前にわたしたちの敵の前で、宴席を設けます(5節前半.参照、サムエル下4:4.9:7,13.創14:18-20.ネヘミヤ4:17)。主はわたしたちの頭に油を塗り、わたしたちの杯は満ちあふれています(詩23:5後半.ヘブル1:9.Ⅰコリント10:16前半,21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたの命の牧養を感謝します。段階ごとにあなたの命の牧養は豊かになり、わたしたちにキリストをさらに深く、高く享受させてくださることを感謝します。主よ、わたしたちが神の家の中で、生涯にわたって三一の神を享受することができますように。

 

 

わたしたちは日々いつまでもエホバの家に住みます

 

 第三段階は、死の影の谷を通して、復活した霊なるキリストの臨在を経験する段階です(詩23:4)。たとえ死の影の谷を歩いても、わたしたちは災いを恐れません。なぜなら、霊なるキリストがわたしたちと共におられるからです(Ⅱテモテ4:22)。…… わたしたちが死の影の谷を歩いているとき、彼の臨在はわたしたちにとって慰め、救い、支える力です。…… 第四段階は、復活したキリストのさらに深くさらに高い享受です(詩23:5)。主はわたしたちの前に、わたしたちの敵の前で宴席、祝宴を設けられます(Ⅰコリント10:21)。主の宴席は祝宴です。毎主日、わたしたちは主の宴席に来て祝宴にあずかるとき、それは常にわたしたちの敵の前でです。…… 

 

  詩篇第23篇6節は第五段階について語っており、それはエホバの家で神聖な良きものと慈愛を生涯にわたって享受することです。……確かに、わたしたちの命の日の限り(現在の時代に)、良きものと慈愛がわたしたちを追いかけて来ます(キリストの恵みと神の愛はわたしたちと共にあります。(Ⅱコリント13:14)。最終的に、この享受はわたしたちを神の家へと導き入れます。わたしたちは日々いつまでも(現在の時代、来たるべき時代、永遠において)、エホバの家(召会と新エルサレム―Ⅰテモテ3:15-16、啓21:2-3、22)に住みます。(「詩篇ライフスタディ(1)」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第10日

(年二回の訓練(7月) 第2週2日)

 

主イエスはわたしたちの牧者です

 

詩23:1-3

エホバはわたしの牧者であって、わたしには欠けるものがありません。彼はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水辺にわたしを伴われます。彼はわたしの魂を回復し、彼の御名のために、わたしを義の途に導かれます。

 

「主イエスはわたしたちの牧者であり、わたしたちは彼の羊です(マタイ9:36.イザヤ40:11.53:6.エゼキエル34:1-5,11-15)。彼はわたしたちを牧養する初期の段階において、わたしたちに緑の牧場としてのキリストと憩いの水辺としてのその霊を享受させます(詩23:1-2.Ⅰテモテ1:4.ピリピ1:19後半.ヨハネ21:15.Ⅰテサロニケ2:7.Ⅰコリント12:13後半)。  彼はわたしたちを牧養する第二段階において、わたしたちを義の途で復興し、造り変えます(詩23:3.ローマ12:2.ヨハネ7:38.ローマ8:4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは牧者であって、牧養があることを感謝します。緑の牧場としてのキリストと、憩いの水辺としてのその霊を享受することができますように。キリストによって養われた後、義の途を歩き、思いが新しくされて、造り変えられていきますように。

 

 

キリストがわたしたちを牧養することに五つの段階があります

 

 [詩篇第23篇は]キリストがわたしたちを牧養することに五つの段階があることを告げています。第一段階は、牧場と憩いの水の段階です(2節)。牧場と水はわたしたちの養いのためであり、はぐくみと享受を含みます。第二段階は、義の途の段階です(3節)。義の途は、わたしたちの歩みを示します。わたしたちはキリストを享受し、キリストで満たされ、キリストによって養われた後、義の途を歩きます。……

 

 詩篇第23篇3節は言います、「彼はわたしの魂を回復し、彼の御名のために、わたしを義の途に導かれます」。これは……回復と造り変えという第二段階です。わたしたちの魂を回復するとは、わたしたちを復興することです。回復することはまた、新しくし造り変えることを含みます。これはローマ人への手紙第12章2節にある新約の教えに相当し、それは、わたしたちの魂の主導的な部分である思いが新しくされることによって、わたしたちが造り変えられる必要があると言っています。キリストは牧養することによって、わたしたちの魂を回復します(復興し造り変えます)。(「詩篇ライフスタディ(1)」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第9日

(年二回の訓練(7月) 第2週1日)

 

主の衣に触りさえすれば、わたしはいやされる

 

マタイ9:20-22

すると見よ、十二年間も出血に苦しんでいる女が後ろから近づいて、彼の衣の房に触った.「彼の衣に触りさえすれば、わたしはいやされる」と、心の内で言っていたからである。イエスは振り向き、彼女を見て言われた、「娘よ、元気を出しなさい.あなたの信仰があなたをいやしたのです」。するとその時から、その女はいやされた。

 

「キリストは、その行為が天的に支配されている(彼の衣の房)方として啓示されています(マタイ9:20-22)。キリストの衣は彼の義なる行為を表徴し、房は天的な支配を表徴します。主イエスの人性の美徳には、いやす力がありました。ですから、病んでいる女が彼の衣の房に触れたとき、彼の美徳の力が彼女へと出て行き、彼女はいやされました」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主イエスの人性の美徳にあるいやす力を感謝します。主イエスよ、あなたはわたしたちの救いと享受のために、触れることができる方となられたことを感謝します。主よ、わたしたちが主を信じ、主を愛し、主に触れて、主のいやす力を経験し、享受することができますように。

 

 

主の衣の房に触れたこの女は、主イエスのいやす力により、信仰を通していやされました

 

 主の衣の房に触れることは、実は主の人性の中の主ご自身に触れることでした。主の人性の中には神が具体化されていました(コロサイ2:9)。そのように触れることによって、彼の神聖な力が、彼の人性の完全さを通して、彼に触れた者の中へと注入され、それは彼女のいやしとなりました。近づきがたい光の中に住んでおられる神が(Ⅰテモテ6:16)、キリストの中で、彼の人性を通して、彼女の救いと享受のために、触れることができるものとなりました。

 

 キリストは喜ばしい方として……彼の人性の美徳の美しさの中でいやす力を持つ方です。彼を信じ、彼を愛し、彼の言葉を読むわたしたちは、彼の人性の美徳によっていやされてきました。わたしたちは祈りの中で彼に触れれば触れるほど、ますますいやされます。…… この女は信仰を通していやされました。今日、わたしたちは信仰を通していやされますが、この信仰はわたしたちが彼を見つめる時、キリストの魅力によってわたしたちの中へと注入されます。(「新約の結論(16)」、メッセージ269)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第7日

(年二回の訓練(7月) 第1週6日)

 

新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れます

 

マタイ9:17

まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、皮袋は裂け、ぶどう酒は流れ出て、皮袋は駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れる.そうすれば、両方とも保たれる。

 

Ⅰコリント12:12

それは、体が一つであっても多くの肢体があり、体のすべての肢体が多くあっても一つの体であるように、キリストも同様だからです。

 

「キリストはわたしたちの新しいぶどう酒であり、新鮮な皮袋に入れられます(マタイ9:17)。新鮮な皮袋は、新しいぶどう酒の容器としての諸地方召会の召会生活を表徴します。その新しいぶどう酒は、わき立たせる命であるキリストご自身です」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。新しいぶどう酒と、新鮮な皮袋のビジョンを感謝します。主よ、わたしたちが地方召会の召会生活の中で、新しいぶどう酒としてのキリストによって活気づけられ、強められますように。主よ、わたしたちが、新しい皮袋としての召会生活を経験し享受することができますように。

 

 

団体のキリストは新鮮な皮袋であり、キリストを伴う召会生活です

 

 新鮮な皮袋は、新しいぶどう酒の容器としての地方召会の召会生活を表徴します。その新しいぶどう酒は、わき立たせる命であるキリストご自身です。王国の民は、召会の中へと建造し込まれ(16:18)、召会は、彼らがその中で生活している諸地方召会を通して表現されます(18:15-20)。彼らは再生された人たちであり、キリストのからだを構成し、召会となります(ローマ12:5.エペソ1:22-23)。キリストの豊満であるこのキリストのからだは、「あのキリスト」(Ⅰコリント12:12)とも呼ばれます。これは団体のキリストです。

 

 個人のキリストは新しいぶどう酒であり、内側でわき立たせる命です。そして団体のキリストは新鮮な皮袋であり、新しいぶどう酒を保つ外側の容器です。王国の民にとって、断食するとか、他の宗教的実行の事柄ではなく、内容としてのキリストを伴う召会生活です。…… 召会はキリストで満たされており、キリストで構成されています。……召会生活を享受している人々は、召会の人々です。召会の人々の間で、新しい衣、新しいぶどう酒、新しい皮袋がすべて回復されました。わたしたちは団体的にわたしたちの召会生活としてのキリストを持っています。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第28編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第6日

(年二回の訓練(7月) 第1週5日)

 

主の死と復活を通して、わたしたちを覆う新しい衣に仕立てられました

 

マタイ9:16

まただれも、縮ませていない布切れを古い衣に継ぎ当てはしない.なぜなら、それはその衣を引き裂き、破れはもっとひどくなるからである。

 

ルカ5:36

そして、イエスはまた一つのたとえを彼らに語られた.「だれも布切れを新しい衣から引き裂いて、古い衣に継ぎ当てはしない.そんなことをしたら、新しい衣を引き裂くことになり、また、その新しいものから取った布切れも、古い衣に合わない」。

 

「キリストは縮ませていない布切れ、またわたしたちの新しい衣服です(マタイ9:16)。キリストはまず、新しい衣を仕立てるための縮ませていない布切れでした。次に彼の死と復活を通して、彼は神の御前でわたしたちの義として、わたしたちを覆う新しい衣に仕立てられました。それは、わたしたちが神によって義とされ、神に受け入れられるためです(ルカ15:22.ガラテヤ3:27.Ⅰコリント1:30.詩45:13-14.啓19:8.エレミヤ2:32)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはわたしたちの義として、わたしたちを覆う新しい衣に仕立てられたことを感謝します。わたしたちが命と光の中でこの事を見て経験することができますように。 

 

 

新しい衣はまた婚宴の祝宴に参加する資格を与えます

 

 ルカによる福音書第5章36節の記事は、マタイによる福音書第9章16節のといくらか異なっています。……マタイは「布切れ」と言い、ルカは「衣」と言っていることに注意してください。主イエスはご自身を縮ませていない布切れにたとえられました。これは、肉体と成ることと十字架の間に彼が何であるかを示します。この期間、彼は縮ませていない布切れ、まださらされていない、処理されていない新しい布切れでした。彼の死と復活を通して、この「新しい布切れ」は処理され、「新しい衣」に仕立てられました。

 

 主の意図は、ご自身を縮ませていない布切れとしてではなく、完全な、仕上がった衣、わたしたちが義として着て神の御前に義とされることができる衣として与えられることでした。彼は死と復活の後、わたしたちが着て彼の婚宴に出席することができる仕上がった衣とされました。ですから、彼は花婿だけでなく、わたしたちに彼の婚宴の祝宴に参加する資格を与える婚宴の衣でもあります。わたしたちは罪人また取税人として、新しい衣を着せられ、花婿の臨在に値する者とされる必要があります。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第28編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第5日

(年二回の訓練(7月) 第1週4日)

 

キリストはわたしたちの花婿です

 

マタイ9:15

イエスは彼らに言われた、「花婿と付き添いの友が一緒にいる時に、付き添いの友は悲しむことができようか? しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る.その時、彼らは断食する」。

 

25:1

その時、天の王国は、十人の処女が自分のともし火を持って、花婿を迎えに出て行くようなものである。

 

「キリストはわたしたちの花婿です(マタイ9:14-15)。医者も花婿も喜ばしい人です。王なる救い主はまず彼に従う者たちをいやし、次に彼らを花婿の付き添いの友にしました。最終的に、彼は彼らを彼の花嫁とします」。

 

 主イエスよあなたを愛します。キリストはわたしたちの花婿であることを感謝します。主よ、わたしたちが自分のともし火を持って、花婿を迎えに出て行くことができますように。わたしたちがキリストの豊富を持って美しくされて、キリストの花嫁となることができますように。

 

 

花婿としてのキリストは、 彼の臨在の中で生きることを享受するためです

 

 医者も花婿も喜ばしい人です。わたしは主の知恵を高く評価します。パリサイ人に関する場合、彼はご自身を医者にたとえられました[マタイ9:12]。今やヨハネの弟子たちの場合、主はご自身を婚宴の花婿にたとえておられます[15節]。……それは花婿と一緒にいる喜ばしい時ですが、花婿が取り去られる時、彼らは断食するでしょう。……主が地上で務めをしておられた過度期に、彼の弟子たちは付き添いの友でした。やがて彼らは花嫁になります(ヨハネ3:29.啓19:7)。王なる救い主が弟子たちから天へ取り去られた時、花婿は付き添いの友から取り去られました(使徒1:11)。この後、彼らは断食しました(13:2-3.14:23)。…… 

 

 今や王なる救い主キリストは、彼らのうちの何人かにこの事を思い起こさせられました。王なる救い主は、まず彼に従う者をいやし、次に彼らを付き添いの友とされました。最終的に、彼は彼らを彼の花嫁とされます。彼らは、彼らの命が回復されるために、医者としての主を捕らえる必要があるだけでなく、彼らが彼の臨在の中で生きることを享受するために、花婿としての主も捕らえるべきでした。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第27編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


9月の祈り第4日

(年二回の訓練(7月) 第1週3日)

 

わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである

 

マタイ9:11-13

すると、パリサイ人がそれを見て、彼の弟子たちに言った、「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか?」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない.いるのは病んでいる人である。『わたしが望むのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味なのか、行って学んできなさい.わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 

「天的王国の王としての主イエスは、王国のために彼に従う人を召したとき、医者として務めをしました(マタイ9:9-13)。裁判官の裁きは義にしたがっていますが、医者のいやしはあわれみと恵みにしたがっています」。

 

   主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは義人を招くためではなく、罪人を招くために来られたことを感謝します。わたしたちをいやし、回復し、生かし、救って、わたしたちを再構成して、主の新しい天的市民となるようにしてくださることを感謝します。

 

 

医者のいやしはあわれみと恵みにしたがっています

 

 主はパリサイ人の質問によって与えられた機会をとらえて、彼が医者であるというとても甘い啓示を与えられました。……「丈夫な人には医者はいらない.いるのは病んでいる人である」[マタイ9:12]。主はパリサイ人に、これらの取税人や罪人は患者、病んでいる人であるから、彼らにとって主は裁判官ではなく、医者、いやし主であると告げておられます。王国のために従うよう人々を召すことで、天の王国の王は、裁判官としてではなく、医者として務めをされました。裁判官の裁きは義にしたがっていますが、医者のいやしはあわれみと恵みにしたがっています。……

 

 主が[わたしたちのような]あわれな人たちに裁判官として訪れたなら、すべての人は罪定めされ、拒絶されてしまい、だれも資格づけられず、選ばれず、召されて彼の天的王国の民となることはなかったでしょう。しかしながら、彼は医者として来て務めをし、彼らをいやし、回復し、生かし、救って、彼らが再構成されて彼の新しい天的市民となるようにされました。彼は彼らをもって、この腐敗した地に彼の天的王国を堅く立てることができます。(「マタイによる福音書ライフスタディ(2)」、第27編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第3日

(年二回の訓練(7月) 第1週2日)

 

ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます

 

マタイ8:8-10

しかし、その百人隊長は答えて言った、「主よ、……ただ一言お言を下さい.そうすれば、わたしのしもべはいやされます。というのは、わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒たちがいて、そこで、わたしがこの者に『行け』と言えば、彼は行き、あの者に『来い』と言えば、彼は来ます……」。イエスはこれを聞くと、驚いて、従っている者たちに言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.イスラエルのうちのだれにも、わたしはこれほど大きな信仰を見たことがない」。

 

「百人隊長は、主が権威を持つ方であることを見ました。なぜなら、主は権威の下にある人であったからです(マタイ8:5-13)。百人隊長は、「わたしも権威の下にある者です」と言ったとき、主が権威の下にある人であることを認識しました。百人隊長は権威の下にある人であったので、彼の下にいる者たちに命令する権威を持っていました(9節前半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが信仰の創始者、また完成者であることを感謝します。主よ、主が御父の権威の下にある人として人の生活をされたように、「わたしも権威の下にある者です. ただ一言お言を下さい」という信仰を生きることができますように。

  

 

百人隊長は、主が権威の下にある人であることを認識しました

 

 わたしたちが、美しさの中の、また美徳の卓越性の中の主を見つめる時、彼は生ける要素をわたしたちの中に注入されます。この注入された要素は、わたしたちの信仰、わたしたちの信じる能力となります。こういうわけで主イエスは、信仰の創始者、また完成者と呼ばれます(ヘブル12:2)。

 

 百人隊長は、そのような信仰を主イエスによって内側に注入していただきました。主は百人隊長の信仰に驚いて、言われました、「まことに、わたしはあなたがたに言う.イスラエルのうちのだれにも、わたしはこれほど大きな信仰を見たことがない」(マタイ8:10)。そして彼は百人隊長に言われました、「行きなさい。あなたの信じたように、あなたになるように」(13節)。(「新約の結論(16)」、メッセージ267)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第2日

(年二回の訓練(7月) 第1週1日)

 

キリストは大いなる光であって、暗やみの中に座っている者たちに輝きます

 

マタイ4:16

「暗やみの中に座っている民は、大いなる光を見た.そして、死の領域と死の影の中に座っている民に、光が昇った」。

 

ヨハネ8:12

こうして、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしは世の光である.わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」。

 

「キリストは大いなる光であって、暗やみの中に座っている者たちに輝き、死の領域と死の影の中に座っている者たちに昇ります(マタイ4:16.ヨハネ1:4-5.12:36.エペソ5:8.コロサイ1:12-13.Ⅱコリント4:6-7.使徒26:18)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。死の領域と死の影の中に座っていたわたしたちに、光が昇ったことを感謝します。この照らす光は、命の光としてのキリストご自身であることを感謝します。わたしたちの生活の中で、命の光としてのキリストを経験し、享受することができますように。

 

 

わたしたちに輝く大いなる光としてのキリストを経験し、享受することができます

 

 マタイによる福音書第4章16節は、わたしたちがキリストを、死の領域と死の影の中に座っている人々に昇り、暗やみの中に座っている民に輝く大いなる光として経験し、享受することができることを示しています。……この光は、実は命の光としてのキリストご自身であり(ヨハネ8:12)、死の影の中で輝きます。マタイによる福音書第4章16節で、主イエスは力や権威を誇示されませんでした。むしろ、彼は普通の人として海辺を歩かれました。しかし、彼はガリラヤの海の近くで人々と接触した時、暗やみの中で、また死の領域と死の影の中で輝いている大いなる光のように、彼らに輝きました。……

 

 わたしたちが主イエスの御名を呼び求め、彼を内側に受け入れた時、神聖な光がわたしたちの存在の中へと入って来ました。直ちに、わたしたちは内側に輝くものがあるという感覚を持ちました。このような輝きは、光としてのキリストの照らしです。わたしたちの内側の光としてのキリストの輝きは、わたしたちが神から生まれた神の子供たちであることの強い確証です。(「新約の結論(16)」、メッセージ267)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)