朝ごとの食物

9月の祈り第30日

(7月訓練 第2週6日)

 

大患難の前に携え上げられるのは、命の円熟によります

 

マタイ24:40-42

その時、二人の人が畑にいると、一人は取られ、一人は残される。二人の女がうすをひいていると、一人は取られ、一人は残される。だから、目を覚ましていなさい.あなたがたの主が来られるのがいつの日か、あなたがたはわからないからである。

 

「二人の人と二人の女は、主の二度目の来臨の時に生きている信者たちを代表します(啓14:1,4後半)。取られることは、大患難の前に携え上げられることです(マタイ24:21.啓3:10)。取られる者と残される者との違いは、命の円熟にあります。一人は神聖で奥義的な領域の中で生きており、もう一人はその領域の中で生きていません(マタイ24:40-41)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは間もなく来ようとしておられます。主よ、わたしたちはあなたの来臨を待ち望んでおり、携え上げられることを期待しています。主よ、主よ、わたしたちが正常で均衡のとれた人の生活をして、命の円熟した人となることができますように。

 

 

正常で均衡のとれた人の生活の中で、奥義的な領域の中で生きます

 

 マタイによる福音書第24章40節によれば、兄弟たちは畑仕事をしており、41節によれば、姉妹たちはうすをひいてい[ました]。……穀物をひくことは重労働です。これは、わたしたちクリスチャンは安易な仕事に就くべきではないことを示します。わたしたちは熱心に働いて生計を立てる必要があります。……  主イエスは確かにはっきりした目的でこの言葉を語られました。わたしたちが彼の来臨を待ち望んでおり、携え上げられることを期待するとき、わたしたちの日常の責務において極めて忠信でなければならないことを、彼は示したかったのです。…… 携え上げられるのは、畑で働いている兄弟たちであり、またうすをひいている姉妹たちです。

 

 畑にいる二人の人のうち、一人は取られ、一人は残されました。うすをひいている二人の女のうち、一人は取られ、一人は残されました。この理由は、命の事柄において彼らの間に違いがあるからです。取られる人は円熟しており、残される人は円熟していないと、わたしは信じます。命が違いを生み出します。勝利者、命の円熟した人の携え上げは、残された人たちへのしるしとなるでしょう。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第63編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第29日

(7月訓練 第2週5日)

 

わたしたちは神聖であるが奥義的である生活をする人です

 

ヨハネ3:13

天から下って来て、なおも天にいる人の子のほか、天に上った者はいない。

 

エペソ4:20-21

しかしあなたがたは、そのようにキリストを学んだのではありません.もしあなたがたが真に彼に聞き、そして彼の中で、イエスにあるあの実際にしたがって教えられているのであれば。

 

 「あらゆる信者は神聖で奥義的な領域の中で生きて、神聖で奥義的な人、人であるが神聖に生きる者となるべきです(ガラテヤ2:20.Ⅱコリント10:1.13:14)。わたしたちは主イエスのように、一見して物質的であっても、目に見えない神聖で奥義的なものであって、同時に物質の領域の中と神聖で奥義的な領域の中で生きるべきです(ヨハネ3:13.エペソ4:20-21.ヘブル4:16.13:13)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは第一の神・人であり、祈りの人であったことを感謝します。主よ、あなたは肉体にある人でしたが、奥義的な領域の中で祈られました。主よ、わたしたちも物質の領域の中にありますが、神聖で奥義的な領域の中で祈ることができますように。

 

 

祈りはその人の生活を奥義的にします

 

 第一の神・人の歴史の極めて重要な部分は彼の祈りでした。彼の祈りのすべては神聖でしたが、人の生活の中にあって、その人の生活を奥義的にしました。彼は奥義的な人の生活をされました。夫は妻を霊的に愛すべきであるだけでなく、神聖に愛すべきです。こういうわけで、彼は自分の方法ではなく神の方法で、自分の愛ではなく神の愛で愛します。…… わたしたちは神聖であるが奥義的である生活をする人であるべきです。わたしたちの生活は神聖であるが人に属するものであるべきです。それは、単に人に属するものであるだけでなく、奥義的に人に属するものです。これが聖なる御言に明らかにされていることです。……

 

 わたしたちの生活におけるすべてのことが、神聖で奥義的であるべきです。これが主イエスの中で見るものです。人々は主が行なわれたことを見たとき、驚いて言いました、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざをどこで得たのだろう? これは大工の息子ではないか?」(マタイ13:54-55)。こういうわけで、彼が行なわれたことはすべて、神聖で奥義的であったのです。神は彼を通して生きておられました。彼は肉体において現された神でした。これは偉大な奥義です。(Ⅰテモテ3:16)(リー全集、1994-1997年、第3巻(下)、「神・人の生活」、第10編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第28日

(7月訓練 第2週4日)

 

わたしたちは神聖で奥義的な領域の一部分となります

 

ヨハネ17:21,23

それは、彼らがすべて一となるためです.父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、彼らもわたしたちの中にいるためであり、… わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられるのは、彼らが成就されて一となるためです.…

 

「わたしたちはキリストにある信者、神の子供たちとして、神聖で奥義的な領域の中で生きるべきです(ローマ8:16.ヨハネ14:2-3,20.Ⅰコリント15:45後半.ガラテヤ3:14.Ⅱコリント3:17-18)。神聖で奥義的な領域の中で、わたしたちは手順を経た三一の神とミングリングされて、一を保ちます(ヨハネ17:21,23)」。

 

   主イエスよ、あなたを愛します。主よ、神聖で奥義的な領域の中で、わたしたちがすべてを含む祝福としてのその霊を受けることを感謝します。わたしたちが豊かなその霊を受け、天の務めの供給にあずかり、神聖な命の交わりの中で生きることができますように。

 

 

神聖で奥義的な領域について学び、話すことを学ぶ必要があります

 

 神聖で奥義的な領域に関する高嶺の真理は、主が御言の中でわたしたちに啓示している新しいものです。御父と御子は、わたしたちがその中へと入る必要のある神聖で奥義的な領域です。…… ヨハネによる福音書第17章によれば、信者たちが三一の神の中にいることは真の一です(21節)。この一は、神聖で奥義的な領域の増し加わりと拡大です。数え切れないほどの信者が三一の神の中にいますが、大部分の人はそれを認識していないか、この事実の経験と享受を持っていません。

 

 わたしたちはまた、神聖で奥義的な領域について学び、話すことを学ぶ必要があります。最初、神聖で奥義的な領域は三一の神だけでした(ヨハネ14:10-11)。それから彼は肉体と成って、彼の増し加わりを開始しました(1:1、14)。彼は人性を取り上げ、キリストの復活の中で彼自身にそれを加えました(ローマ1:3-4)。ただ神聖であった神は、神聖であるが人に属するようになりました。最終的に、神聖で奥義的な領域は、究極的完成である新エルサレムになります。……このビジョンは、わたしたちに聖書全体の明確な展望を与えます。(リー全集、1994-1997年、第4巻(上)、「神聖で奥義的な領域についての予備集会の交わり」、第2、5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第27日

(7月訓練 第2週3日)

 

わたしたちは霊なるキリストの神聖で奥義的な領域の一部分となっています

 

ヨハネ14:17-18,20

……実際の霊……あなたがたは彼を知っている.彼はあなたがたと共に住んでおり、またあなたがたの中におられるようになるからである。わたしは、あなたがたをみなしごのままにはしておかない.わたしはあなたがたに来る。…… その日には、わたしがわたしの父の中におり、あなたがたがわたしの中におり、わたしがあなたがたの中にいることを、あなたがたは知るであろう。

 

「わたしたちは経験において、実は究極的に完成された霊と霊なるキリストの神聖で奥義的な領域の一部分となっています(ヨハネ14:16-20.17:21-23)。わたしたちは神聖な誕生を通して、神聖で奥義的な領域の一部分となっています。わたしたちは再生を通して、神聖で奥義的な領域の中へと生まれました(3:5-6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが神聖で奥義的な領域の一部分となるために再生されたことを感謝します。主よ、わたしたちが経験において、神の命と性質にあずかることができますように。そして、キリストのからだの中で建造されますように。

 

 

わたしたちが神聖で奥義的な領域の中へと生まれた後、成長と発展が必要です 

 

 わたしたちが神聖で奥義的な領域の一部分となるのは、神の命(ヨハネ3:15)、性質(エペソ1:4.Ⅱペテロ1:4)、思い(エペソ4:23.ピリピ2:5)、存在(Ⅱコリント3:18後半.エペソ3:8)、かたち(Ⅱコリント3:18後半.ローマ8:29)、栄光(30節.ヘブル2:10)、子たる身分(エペソ1:5.ローマ8:23)、出現(19節)、姿(Ⅰヨハネ3:2)にあずかることによってです。また、わたしたちが神聖で奥義的な領域の一部分となるのは、キリストのからだの中で建造されることによってです(エペソ4:16)。(神聖で奥義的な領域 アウトライン)

 

 わたしたちは、三一の神が神聖で奥義的な領域であるという事実を強調しました。ヨハネによる福音書第14章の初めの部分で啓示されているように、御子は御父の中におられ、御父は御子の中におられます。16節から18節で、御父と御子に関する言葉だけでなく、その霊に関する言葉もあります。……最初の慰め主は肉体におけるキリストでした。別の慰め主は実際の霊です。17節の実際の霊である「彼」は、18節の主ご自身である「わたし」になります。これが意味するのは、肉体にあったキリストが、死と復活を経過して、命を与える霊、霊なるキリストに成られたということです。これは単に霊的なものであるだけでなく、それは奥義的です。(リー全集、1994-1997年、第4巻(上)、「神聖で奥義的な領域」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第26日

(7月訓練 第2週2日)

 

究極的に完成された霊にある多くの「複雑さ」は、わたしたちにとって祝福です

 

Ⅰコリント15:45

……最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。

 

ピリピ1:19

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです。

 

「聖書は、キリストが霊なるキリストとなったことを啓示しています(Ⅰコリント15:45後半)。キリストは彼の死と復活を通して命を与える霊と成り、それによって霊なるキリストとなりました(45節後半.Ⅱコリント3:17-18)。ですから、わたしたちは、究極的に完成された霊とこの霊なるキリストの神聖で奥義的な領域と言ってよいのです(ヨハネ7:39.ガラテヤ3:14.Ⅰコリント15:45後半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが死と復活を通して命を与える霊となられたことを感謝します。主よ、わたしたちが、この世の中で心を騒がせられるとき、キリストの中へと信じ、物質の領域から神聖で奥義的な領域へと入ることができますように。

 

 

神聖で奥義的な領域は、平安がある奥義的な領域です

 

 奥義的な領域としての三一の神ご自身には、「複雑さ」はありませんが、究極的に完成された霊と霊なるキリストの神聖で奥義的な領域には、多くの「複雑さ」があり、そのすべてはわたしたちにとって祝福です。…… ヨハネによる福音書第14章で、究極的に完成された霊と霊なるキリストの神聖で奥義的な領域について、何が啓示されているかを考えましょう。一節は、「あなたがたは心を騒がせてはならない」と言います。どの領域で、わたしたちは騒がせられるのでしょうか? わたしたちは地上で、この世で(16:33)、物質の領域で騒がせられます。

 

 この節で(14:1)、主イエスは続けて言われました、「神の中へと信じ、またわたしの中へと信じなさい」。ここの「中へと」の前置詞はとても重要です。わたしたちは神を信じ、またキリストを信じるだけでなく、神の中へと信じ、またキリストの中へと信じるべきです。わたしたちが心を騒がせるのは、この世にいるからです。そしてこの騒がせることが解決される道は、わたしたちがキリストの中へと信じることによって、彼の中へと入ることです。ここに二つの領域を見ることができます。それは物質の領域(すべての騒がせることがあるこの世)と、三一の神(父、子、霊)の、平安がある奥義的な領域です。(リー全集、1994-1997年、第4巻(上)、「神聖で奥義的な領域」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第25日

(7月訓練 第2週1日)

 

三一の神ご自身が、神聖で奥義的な領域です

 

ヨハネ14:10-11

……わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない.わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである。わたしを信じなさい.わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる。……

 

「主の回復におけるすべての聖徒は、物質の領域と神聖で奥義的な領域について、明確な見解、ビジョンを持つ必要があります(箴29:18前半.使徒26:19)。三一の神ご自身が、神聖で奥義的な領域です(ヨハネ14:10-11)。わたしたちは神聖で奥義的な領域を見ることによって、この領域の中へと入ります。霊的な事柄において、見ることは入ることです(ヨハネ3:3,5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちに知恵と啓示の霊を与えて、神聖で奥義的な領域を見ることができるようにしてください。そして神聖で奥義的な領域へと入り、その中で生きることができますように。

 

 

わたしたちはビジョンを見ることによって、霊なるキリストの神聖で奥義的な領域に入ります

 

 三一の神(父、子、霊)は、自ら存在し、永遠に存在し、相互内在し、神聖な三一の三者は互いに住み合っています。ヨハネによる福音書第14章10節と11節によれば、御子は御父の中におられ、御父は御子の中におられます。これが示しているのは、御父が御子の中に具体化され、御子が御父の具体化であって、神聖で奥義的な領域、すなわち三一の神の領域を形成しているということです。わたしたちが今日その中へと入る神聖で奥義的な領域は、実は単に三一の神の神聖で奥義的な領域であるだけでなく、究極的に完成された霊と霊なるキリストの神聖で奥義的な領域です。

 

 究極的に完成された霊は、油塗る膏油で予表されている複合の霊(一ヒンのオリブ油と、四種類の香料とその効力との複合物)です(出30:23-25)。その霊は究極的に完成される前、神の霊……でした。……肉体と成ることを通して神は人と成られました。……[そして]復活の中で、神の霊はキリストの人性、彼の死とその効力、彼の復活とその力とミングリングされました。このミングリングの結果は、複合の、究極的に完成された霊です。(リー全集、1994-1997年、第4巻(上)、「神聖で奥義的な領域」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第23日

(7月訓練 第9週6日)

  

堕落から救われるのは、七倍に強化された霊なるキリストの語りかけによります

 

啓5:6

わたしはまた、御座と四つの生き物の間、長老たちの間に、ほふられたばかりのような小羊が立っているのを見た.それには七つの角と七つの目があった.それは全地に遣わされた神の七つの霊である。

 

 「わたしたちが堕落から救われるのは、七倍に強化された霊なるキリストの語りかけによって、また勝利を得た聖徒たちが彼らの霊の中で生きることによってです(啓2:1,7.1:10.4:2.17:3.21:10)。キリストの七倍に強化された天の務めは、キリストのために花嫁を完全に用意すること(19:7-9)、花嫁の軍隊を形成すること(11-21節.17:14)、サタンを縛ること(20:1-3)、キリストと神との王国をもたらすこと(4-6節)、新エルサレムを究極的に完成すること(2:7.21:2)のためです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、七倍に強化された霊なるキリストの語りかけが、日ごとにわたしたちにありますように。わたしたちが霊の中で生きることができますように。キリストのために花嫁が完全に用意されますように。主を愛する花嫁の軍隊が形成されますように。サタンが縛られて、キリストと神との王国がもたらされますように。

 

 

勝利を得るのは、キリストの語りかけがその霊の語りかけになることによります

 

 わたしたちが堕落から救われるのは、無限の命を解き放つ、七倍に強化された霊なるキリスト(目としての七つの霊を持つ小羊―啓5:6)の語りかけによります。……七倍の霊がキリストの目であるとは、それらがキリストと一であることを示します。……[七つの召会に対する]それぞれの書簡の初めにおいて[第2章―第3章]、キリストが語っておられ、終わりにはその霊が語っておられます。これは、キリストがその霊であることを示します。

 

 堕落に打ち勝つことは、霊の中に生きている勝利を得た聖徒たちのあずかることによります(啓1:10、4:2、17:3、21:10)。一方で、わたしたちが勝利を得るのは、キリストの語りかけがその霊の語りかけになることによります。もう一方で、それはわたしたちが絶えず霊の中に生きていることによります。(19:7-9)。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(上)、「神聖で奥義的な領域」、5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第22日

(7月訓練 第9週5日)

      

召会の堕落のゆえに、命を与える霊としてのキリストは七倍に強化されました

 

啓1:4

……恵みと平安があなたがたにあるように.今おられ、昔おられ、やがて来ようとしておられる方から、また彼の御座の前の七つの霊から。

 

啓2:4-5

しかし、わたしには、あなたを責めるべき事が一つある.あなたは初めの愛を離れてしまった。……悔い改めて、初めのわざを行ないなさい.……

 

「キリストは第三の時期、すなわち彼の強化の時期、召会の堕落から新エルサレムの究極的完成までにおいて、彼の有機的な救いを強化し、勝利者を生み出し、新エルサレムを究極的に完成します。召会の堕落のゆえに、命を与える霊としてのキリストは七倍に強化されて、七つの霊、すなわち七倍に強化された命を与える霊と成りました(啓1:4.3:1.4:5.5:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。命を与える霊としてのキリストは七倍に強化されました。主よ、わたしたちを霊的な死から救ってください。主よ、あなたに対する初めの愛で、あなたを愛することができますように。

 

 

真実であるとは霊の中にいて、霊の中ですべてを行なうことです

 

 七倍に強化された霊として、キリストは信者たちを、召会の堕落に関する事柄から救います。……エペソに在る召会は、四つのものを失いました。すなわち、真の正常な召会生活、主に対する初めの愛、燭台の輝く能力、命としてのキリストに対する享受です。

 七倍に強化された霊は、エペソに在る召会での形式的な召会生活と、主に対する初めの愛、燭台の輝く能力、命としてのキリストに対する享受を失うことから信者たちを救います(啓2:1-7)。……そのような[失うこと]は極めて重大です。

 

 主の回復にあるいくつかの召会は、これら四つのものを失ってしまったかもしれません。これらの召会の聖徒たちは実際で真の召会生活ではなく、形式的な召会生活を持つにすぎません。聖徒たちはなおも互いに愛し合っていますが、彼らの愛は実に形式的です。……さらに、これらの召会の聖徒たちは、なおも集会に来ますが、彼らは形式的に集会に参加しているにすぎません。聖徒たちの多くがこのような形式を持っています。わたしたちは真実である必要があります。真実であるとは霊の中にいることであり、霊の中ですべてを行なうことです。……わたしたちはみな、これらの事柄が他の人のためではなく、わたしたち自身のためであることを考えるべきです。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(上)、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第21日

(7月訓練 第9週4日)

 

キリストは最後のアダムとして、命を与える霊と成りました

 

Ⅰコリント15:45

……「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」……最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。

 

ローマ8:2

なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです。

 

「肉体と成ったキリスト、最後のアダムは、命を与える霊と成りました(Ⅰコリント15:45後半.ヨハネ6:63.Ⅱコリント3:6:1)。わたしたちが「包括(inclusion)」という言葉を使うのは、「含む(inclusive)」という言葉を使うことに基づいています。キリストが最後のアダムとして、命を与える霊と成ることは、彼がすべてを含む霊と成ることでした(ピリピ1:19)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは復活の中で、命を与える霊と成られたことを感謝します。あなたがわたしの中に入って来られてから、わたしの霊は命となりました。今や、思いが命になるように、わたしたちの思いを霊に付けることができますように。また、あなたの霊を通して、死ぬべき体にも命が与えられますように。

 

 

命を与える霊は、手順を経て究極的に完成された三一の神の究極的完成です

 

 キリストの復活の中で、神の選ばれたすべての人は再生されて、神の多くの子たち、また神の長子の多くの兄弟たちとなりました(Ⅰペテロ1:3、ヘブル2:10、ローマ8:29)。キリストの復活の中で、神の霊は究極的に完成されて、命を与える霊と成りました(Ⅰコリント15:45後半)。この霊はキリストの霊―霊なるキリスト、霊と成ったキリスト(ローマ8:9)、手順を経て究極的に完成された三一の神の究極的完成、霊と成ったキリストに具体化された命を与える霊、復活の実際、すなわちキリストご自身、手順を経て究極的に完成された三一の神(ヨハネ11:25、Ⅰヨハネ5:6)です。

 

 多くの複雑さがキリストの第二の成った、彼が復活の中ですべてを含む、命を与える霊に成ったことにかかわっているので、わたしたちはキリストのこの第二の時期を語るとき、「包括」という言葉を用いてもよいでしょう。この成ったことの結果は、単純なものではなく複合のもの、すなわち、神の霊を表徴する単なる油ではなく、命を与える霊、命を与えるその霊を表徴する膏油です。この霊は霊なるキリスト、第二の時期―包括の時期におけるキリストです。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(上)、「肉体と成ること、包括、強化」、2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第20日

(7月訓練 第9週3日)

 

キリストは復活の中で生まれて、神の長子となりました

 

ローマ1:3-4

彼の御子に関するものです.この方は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示されたわたしたちの主イエス・キリストです.

 

「キリストは第二の時期、すなわち彼の包括の時期、彼の復活から召会の堕落までにおいて、以下の主要な事柄を完成しました。彼は復活の中で生まれて神の長子となりました。「ダビデの子孫」が「神の御子」となることは、キリストが復活によって神の長子と明示される過程について語っています。これは、パウロがそれへと選び分けられた神の福音です(ローマ1:1-4)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたは死人の復活から、力の中で神の御子と明示されました。わたしたちも今、神の子たちと明示される過程にいます。主よ、わたしたちが生活の中で、思いをその霊に付け、その霊によって体の行ないを死に渡すことができますように。

 

 

わたしたちは復活によって、完全に明示される過程にあります

 

 肉体による主イエスでさえ、神の御子と明示されなければなりませんでした。彼が明示される前、肉によれば彼はダビデの子孫にすぎませんでした。彼はその部分では、まだ神の御子ではありませんでした。しかし復活によって、彼は聖別の霊によって神の御子と明示されました。同じ原則で、肉体によればわたしたちは罪人です。しかし今やわたしたちは再生され、霊にしたがって存在することができます。ミングリングされた霊にしたがって歩けば歩くほど、ますますわたしたちは明示される過程を経過します。日ごとに、わたしたちは復活させられ、聖別され、造り変えられ、栄光化されます。

 

 子たる身分は復活によって、その霊の中で実現されます。わたしたちの中に住まわれるその霊は、起き上がる霊、また明示する霊です。わたしたちは復活としての明示するキリストを内側に持っています。自分を改善しようとしたり、罪なき完全にしようとしたりしてはいけません。むしろ、明示する霊を享受し経験しなさい。その霊によって体の行ないを死に渡すなら、わたしたちは生きます(ローマ8:13)。わたしたちはその霊にしたがって歩き、思いをその霊に付け、その霊によって体の行ないを死に渡す必要があります。(「ローマ人への手紙ライフスタディ」、第2、54、55編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第19日

(7月訓練 第9週2日)

 

彼の人性において満ちあふれる神を表現しました

 

ルカ7:47-48,50

こういうわけで、わたしはあなたに言う.彼女の罪は多いが、赦されている.だから彼女は多く愛した.しかし、少ししか赦されていない者は、少ししか愛さない」。そしてイエスは女に言われた、「あなたの罪は赦されている」。…… しかし、イエスはその女に言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。平安の中を行きなさい」。

 

「キリストは彼の肉体と成った時期において、彼の人性において満ちあふれる神を、彼の豊富な属性の中で彼のかぐわしい美徳を通して表現しました。愛情、親切、忍耐、あわれみ、理解力という人・救い主の人性の美徳は、罪深い女との彼の交わりの中で展覧されました。彼の神聖な属性、特に人の罪を赦し、赦された罪人に平安を与えるという神聖な権威の属性も展覧されました(ルカ7:36-50)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは肉体と成った時期に、あなたの人性において満ちあふれる神を表現されたことを感謝します。主よ、わたしたちの罪を赦し、平安を与えてくださったことを感謝します。わたしたちからも主の人性の美徳が人々に流れ出ますように。

     

 

神聖な属性を伴う人性の美徳の中で行動しておられました

 

 「神聖な属性を伴う人性の美徳における」という表現を理解する助けとして、ルカによる福音書のいくつかの事例を例証として用いましょう。第7章36節から50節で、一人の罪深い女が、一緒に食事をするよう主イエスを招いたパリサイ人の家に入って来ました。……主の人性の美徳の中で……その罪深い女が、「足もとで泣きながら、涙で彼の足をぬらし、自分の頭の毛でそれをぬぐい始めた」ときや、「彼女は彼の足に愛情を込めて口づけし、膏油を塗った」ときでさえ、主は彼女に全く煩わされませんでした(38節)。もしわたしたちが主イエスであったなら、おそらくこの女の振る舞いに悩まされたでしょう。……

 

 第7章50節で主イエスはその女に言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです。平安の中を行きなさい」。平安を与えることも神聖な属性です。神は、内なる平安を与えることができる唯一の方です。わたしたちは第7章36節から50節で、人・救い主がパリサイ人の家で神聖な属性を伴う人性の美徳の中で行動しておられるのを見ます。彼がそのような態度で振る舞うことができたのは、神・人であったからです。(「ルカによる福音書ライフスタディ(1)」、第11、17、25編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第18日

(7月訓練 第9週1日)

 

三つの時期におけるキリストの満ち満ちた務め

 

ヨハネ1:14

そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた.……わたしたちは彼の栄光を見た…….

 

ルカ1:35

……聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆うでしょう.それゆえ、生まれる聖なるものは、神の子と呼ばれます。

 

「神の新約エコノミーの唯一の教えは(Ⅰテモテ1:3-4)、三つの時期(肉体と成ること、包括、強化)におけるキリストの満ち満ちた務めに関する教えです。主の回復が何であり、それがどうなるかは、わたしたちがこの教えをどのように扱うかにかかっています。「主の回復とは、神が肉体と成り、肉体が命を与える霊と成り、命を与える霊が七倍に強化された霊と成って、召会を建造し、召会がキリストのからだとなり、新エルサレムを究極的に完成するということです」(「神聖で奥義的な領域」、第1編)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、三つの時期(肉体と成ること、包括、強化)におけるキリストの満ち満ちた務めを感謝します。主よ、わたしたちが主の計り知れない豊富のすべてを経験し、享受し、獲得するために、後ろにあるものを忘れて、前に向かってキリストを追い求めることができますように。

 

 

キリストを獲得するためには代価を払うことを必要とします

 

 わたしたちはキリストの三つの神聖で奥義的な時期における満ち満ちた務めの中のキリストを経験し、享受する(キリストを獲得する――ピリピ3:8)必要があります。わたしたちはどのようにして同労者と長老となることができるのでしょうか? 第一に、わたしたちはキリストを認識する必要があります。第二に、キリストを経験し、享受する、すなわち、キリストの満ち満ちた務めの中のキリストを獲得する必要があります。まず、わたしたちは認識を持ち、次に経験と享受を持ちます。キリストを経験し享受することは、キリストを獲得することです[8節]。……

 

 「持つ」だけでは十分ではありません。わたしたちは「獲得する」必要があります。キリストを獲得するためには代価を払うことを必要とします。…… 代価を払うことによって彼の計り知れない豊富のすべてを経験し、享受し、所有することです。これはそれほど簡単ではありません。…… わたしたちに、後ろにあるものを忘れ、前にあるものに向かって体を伸ばすことによって、追い求めることを要求します[12-14節前半]。同じように、わたしたちはキリストの満ち満ちた務めの中で彼を経験し享受することによって、キリストを獲得する必要があります。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(上)、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第16日

(7月訓練 第1週6日)

 

主がわたしたちに語ってくださいますように

 

サムエル上3:21

エホバはシロで続いて現れられた.エホバはご自身をシロでサムエルに、エホバの言葉によって啓示されたからである。

 

啓2:7

耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい。……

 

「わたしたちが常に尊ぶ一つの事は、主が今日、依然としてわたしたちに個人的にまた直接、語っているということです。命における真の成長は、わたしたちが神から直接、言葉を受け取ることにかかっています。わたしたちの中の彼の語りかけだけに真の霊的価値があります(ヘブル3:7-11, 15.4:7.詩95:7-8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、わたしたちが聖書を読むときに、神から直接、言葉を受け取ることができますように。主よ、わたしたちに語られる主の言葉「レーマ」によって、わたしたち召会が清められますように。

 

 

クリスチャンの信仰の基礎は、主の語りかけにかかっています

 

 召会が水の洗いによって清められるという意味は、キリストの命が、キリストからでないすべての部分を対処するということです。……聖化は清めの後はじめて来ることができ、清めの基礎は主の言葉、「レーマ」です。もし主の言葉を知らないなら、わたしたちが清められ、また聖化される道はありません。……多くの困難は、……神の言葉の欠乏に根があります。キリストのからだが建造され得ない理由は、わたしたちがただ外側のものを持っているだけで、内側のものを持っていないからです。クリスチャンの信仰の基礎は、主の語りかけにかかっています。召会の成長もまた、主が語られる言葉にかかっています。

 

 ですから、わたしたちの祈りの中心点は、わたしたちが主の語りかけを切望することであるべきです。ああ、主がわたしたちに語ってくださいますように! わたしたちに神の永遠の目的を果たすことができるようにするのは、わたしたちに語りかけられる主の言葉です。 真の成長は、わたしたちが神から直接、御言葉を受けることにかかっています。神はご自身の働きをするために、彼の「レーマ」を使っておられます。そして彼は、わたしたちに語ることを願われます。……聖書の真の価値は、神がそれらを通して人に語ることができるということです。(ニー全集、「栄光の教会」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第15日

(7月訓練 第1週5日)

 

言葉の中の水の洗いによって召会を清めます

 

エペソ5:26

それはキリストが召会を聖化し、言葉の中の水の洗いによって召会を清めるためであり。

 

ヨハネ6:63

命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である。

 

「神聖な、性情の聖別は、命を与える、聖別する、語る霊としてのキリストによって遂行されます(Ⅰコリント15:45後半.Ⅰテサロニケ5:23.エペソ5:26)。命を与える霊としてのキリストは、言葉の中の水の洗いにしたがって召会を清めることによって、召会を聖別します」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたがわたしたちに語られた言葉は霊であり、命であることを感謝します。主よ、言葉の中の水の洗いによって召会を清めてください。日ごとに何度も御言葉を読むことによって、わたしたちの肉、自己、古い人、天然の命がきよめられますように。

 

 

聖書の言葉を何度も読むことによって洗われ、清められます

 

 わたしたちは堕落し、汚染され、汚されているので、今日、清められる必要があります。わたしたちの中の多くのもの、すなわち肉、自己、古い人、天然の命が、きよめられなければなりません。さらに、わたしたちには、清められる必要がある多くのしみやしわがあります。…… 言葉の洗盤の中に水があります。……ここでパウロは、渇きにではなく、消極的なものを除き去ることに関心があります。これらのものは、言葉の中の水によって洗い去られます。

 

 ある日、ニー兄弟は聖書を読むことについて語っていました。ある姉妹が、自分は記憶力が悪くて、読んだ言葉をみな忘れてしまうと言いました。彼女はニー兄弟に、自分が聖書を読み続ける定められた御旨は何かと尋ねました。ニー兄弟は答えて、中国の婦人が柳のかごで米を洗う方法を語りました。彼女たちは何度もかごを水につけ、引き上げます。……かごは水を保たないのですが、かごと米は洗われます。彼はこの例証を、言葉を読むことに適用しました。わたしたちは読んだことを何もとどめないかもしれませんが、それによって洗われ、清められるのです。言葉に来て何度も洗われるように励まされましょう。わたしたちのかごを言葉の水の中に入れ、引き上げましょう。水はかごから流れ出ますが、わたしたちは清められます。(「エペソ人への手紙ライフスタディ」(3)、第54編)

ります。……

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第14日

(7月訓練 第1週4日)

 

神聖な聖別は、神聖なエコノミーを完成する保持する線です

 

Ⅰテサロニケ5:23

そして平和の神ご自身が、あなたがたを徹底的に聖別し、あなたがたの霊と魂と体とを守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨の時に、完全で責められるところのない者にしてくださいますように。

 

「神聖な聖別は、神聖なエコノミーを完成することにおける保持する線です。それはわたしたちを神聖に息子化し、わたしたちを神の子たちとならせ、わたしたちを神の命と性質において(しかし神格においてではない)神と同じにならせ、神の表現とならせるためです。このゆえに、神の聖別は神聖な息子化であるのです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちを日々、聖別して、わたしたちの霊と魂と体とを守ってください。主よ、わたしたちが神聖な分与にあずかり、神の命と性質が増し加わり、神の表現となりますように。わたしたちが再生された後、成長して円熟に達することができますように。

 

 

神聖な聖別は、わたしたちを神聖に息子化します

 

 神聖な聖別は、わたしたちの悔い改めから栄光化まで霊的な経験のすべてを保持しています。それはわたしたちの再生、更新、造り変え、同形化を通して、体の贖いへと至ります(エペソ1:14.4:30)。「へと至る」とは、「という結果になる」を意味します。わたしたちの体の贖いは、神聖な聖別の究極的完成です。[捜し求める聖別、贖う聖別、再生する聖別、更新する聖別、造り変える聖別、同形化する聖別、栄光化する聖別、があります]

 

 そのような聖別は、わたしたちを神聖に「息子化」し、神の子たちとすることであり、それは、わたしたちが神の命と性質において(しかし神格においてではない)神と同じになり、神の表現となることができるためです。ですから、聖別は神聖な息子化することです。……わたしたちは神の神格を持つのではなく、また持つことはできませんが、神の命と性質を持ち、神の表現となります。原則的に、子は父の表現です。父なる神はわたしたちを聖別して息子化し、わたしたちを彼の子たちとして彼を表現させます。……わたしたちは再生された後、成長して円熟に達する必要があります。魂が完全に息子化されるとき、わたしたちは円熟します。最終的に、弱さ、病、情欲、罪深いことに満ちているわたしたちの体が変貌させられ、完全に栄光化されます。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第13日

(7月訓練 第1週3日)

 

聖別と子たる身分はいずれも、常に霊によって遂行されます

 

エペソ1:4-5

すなわち、この方は、愛の中で、御前に聖く傷のない者になるようにと、世の基が置かれる前から、キリストの中でわたしたちを選び、みこころの大いなる喜びにしたがい、イエス・キリストを通して、わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました。

 

「神聖な子たる身分のための神聖な聖別は、神聖なエコノミーの中心であり、新約の啓示の中心思想です(エペソ1:4-5)。聖別されることは、聖とされることです。聖とされることは、神へと分離され、聖なる方としての神をもって、すなわち俗であるあらゆるものと異なり区別されている方をもって浸透されることです(Ⅰペテロ1:15-16.エペソ1:4-5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストの中でわたしたちを選び、イエス・キリストを通して、わたしたちを子たる身分へとあらかじめ定めてくださったことを感謝します。主よ、わたしたちが霊によって生き、霊にしたがって行動することができますように。主よ、わたしたちが聖なる御言を読み、霊的な語りかけを聞き、集会に来て養われ、成長することができますように。

 

 

神聖な子たる身分のための神聖な聖別は、神聖なエコノミーの中心です

 

 聖別と子たる身分はいずれも、常に霊によって遂行されます。こういうわけで、エペソ人への手紙第1章3節はこれを、霊のものである祝福、霊による祝福と呼ぶのです。今日わたしたちは霊によって生き、霊にしたがって行動し、完全に霊によって、霊と共に、霊にしたがって存在することを学ばなければなりません(ローマ8:4)。わたしたちは霊によって存在し、霊にしたがって行動する限り、神聖な命において成長する用意ができています。そして、わたしたちは養いを必要とします。

 

 わたしたちは次の三つの方面で養われることができます。すなわち、聖なる御言を読むことによって、霊的な語りかけを聞くことによって、集会に来ることによってです。この養いがわたしたちを成長させます。わたしたちは成長するために、その霊とかかわらなければなりません。わたしたちはその霊に対して、自分自身を正しくしなければなりません。(「手順を経られた三一の分与と超越したキリストの伝達の結果」、第1章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第12日

(7月訓練 第1週2日)

 

奥義的な、すべてを含む造り変えは、人の中の神の行動です

 

ガラテヤ5:25

もしわたしたちが霊によって生きているならば、霊によって歩こうではありませんか。

 

使徒16:7

彼らがムシヤに来た時、ビテニヤに入って行こうとしたが、イエスの霊が彼らを許さなかった。

 

「永遠で三一である神が人と成ることにおける、最もすばらしい、卓越した、奥義的な、すべてを含む造り変えは、人の中の神の行動であり、神の永遠のエコノミーを完成するためです(ヨハネ1:14, 29.3:14.12:24.使徒13:33.Ⅰペテロ1:3.Ⅰコリント15:45後半.使徒2:36.5:31.ヘブル4:14.9:15.7:22.8:2)」。

 

  主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの中でのすべてを含む造り変えを感謝します。主よ、わたしたちが神の行動の中で行動することができますように。神と人が共に行動することを経験させてください。

 

 

人が神の行動の中で行動し、人と神が共に行動します

  

 四福音書で、キリストはひとりのパースンでしたが、ペンテコステの日、彼の死、復活、昇天、降臨の後、彼はひとりのパースンから数千のパースンへと拡大し、拡張されました(使徒2:41)。多くの人が神聖な行動の中で行動し始めました。四福音書で、神は人の行動の中で行動されましたが、使徒行伝で、人は神の行動の中で行動しました。神と人は共に行動したのです。祭司長、長老、聖書学者、ローマの役人たちは、ペテロやヨハネに何が起こったのかを理解しませんでした。なぜなら、彼らをガリラヤの漁師として知っていたにすぎなかったからです(4:13)。それにもかかわらず、彼らは、これらの人々が行なったことが神聖であることを承認しなければなりませんでした(16節)。彼らが行動したとき、神が行動されたのです。

 

 これは、人が神の行動の中で行動しており、人と神が共に行動しているすばらしい絵です。 わたしたちはすべてを含む霊から離れて、いかなる行動も取るべきではありません。わたしたちはその霊から離れて、いかなる境遇にも直面したり、いかなる必要にも応じたりすべきではありません。…… あなたが配偶者に何か言いたいなら、自分の語るのがその霊の行動であるという確信があるまでしばらく待つべきです。(「ヨブ記ライフスタディ」、第24編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第11日

(7月訓練 第1週1日)

 

神のエコノミーの究極の目標

 

ヨハネ1:14

そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた.それは恵みと実際に満ちていた。わたしたちは彼の栄光を見た.それは、父からのひとり子としての栄光であった。

 

「聖書という「箱」の中の「ダイヤモンド」は啓示であり、それは神がキリストの中で人と成ったのは、人が神格においてではなく、命と性質において神となり、キリストのからだを建造して、新エルサレムを究極的に完成するためであるという啓示です」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがあなたによって贖われ、清められたことを感謝します。さらに、わたしたちが 神の目標、神の究極の願いへと前進することができますように。主よ、わたしたちがあなたの命にあずかり、神を獲得し、神と結合され、ミングリングされて、神の生活をすることができますように。

 

 

神が人と成られたのは、人が神格においてではなく命と性質において神となるためです

 

 キリストはご自身を第一の神・人、原型として、多くの兄弟たち、多くの神・人を大量に複製されました(ローマ8:29)。わたしはクリスチャンになって六十九年ほどになります。長い年月を経て、わたしが神によって知らされたただ一つの事は、神が人と成られたのは、人が神格においてではなく命と性質において神となるためであるということです。これがわたしの唯一の負担、わたしの唯一のメッセージです。神と人は一つの実体になり、その一つの実体は神性と人性のミングリングです。このミングリングは新エルサレムにおいて究極的に完成し、それは全聖書の結論です。(リー全集、1994年―1997年、第2巻(上)、「聖書における神聖な啓示の高嶺にしたがった生活をする実行的な道」、第2編)

 

 神は人を創造したとき、器として創造されました。しかしながら、彼は空の器にすぎませんでした。神の目的はこの器にご自身を満たすことです。しかしながら、神が人を満たす前に、人は汚され腐敗してしまいました。ですから、神は来て人を贖い、清められました。しかしこれは手段にすぎず、神の目標ではありません。神の究極の願いは、創造された人の中へと入って彼の命となり、人が神を獲得し、神と結合されミングリングされて、神の生活をすることです。(「神聖な分与におけるさらに深い学び」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第9日

(メモリアルデー特別集会 第6週6日)

 

わたしたちの霊、魂、体は、神の命によって完全に復活させられます

 

Ⅰテサロニケ5:23

そして平和の神ご自身が、あなたがたを徹底的に聖別し、あなたがたの霊と魂と体とを守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨の時に、完全で責められるところのない者にしてくださいますように。

 

「格別な復活に到達するとは、わたしたちの全存在が徐々に、絶えず復活させられることを示しています(Ⅰテサロニケ5:23)。神はまず、わたしたちの死んでいた霊を復活させました。神は継続してわたしたちの魂と死ぬべき体を復活させ、ついには、わたしたちの全存在、すなわち霊、魂、体は、神の命によって、神の命をもって、完全に復活させられ、わたしたちの古い人から出て来ます(エペソ2:5-6.ローマ8:6,11)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの外なる人は朽ちていきますが、内なる人は日ごとに新しくされる復活の過程の中に居続けることができますように。主よ、わたしたちを主の来臨の時に、完全で責められるところのない者にしてください。

 

 

外なる人は朽ちていき、内なる人が日ごとに新しくされていくのは復活の過程です

 

 ローマ人への手紙第8章10節と11節は、わたしたちの内側にはキリストがおられ、体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに命であると言っています。さらに、死人の中からキリストを復活させた方の霊は、わたしたちの死ぬべき体にも命を与えてくださり、わたしたちの体は復活の命を享受します。これは将来の事柄であるだけではありません。それは今日わたしたちが経過している復活の過程です。

 

 コリント人への第二の手紙第1章8節と9節でパウロは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みをさえ失ったほどであると言っています。彼はまた自分自身のうちに死という答えを持ったとも言っています。それにもかかわらず、死人を復活させる神は復活の力によって彼を支えました。コリント人への第二の手紙第4章10節でパウロは絶えずこの体に、イエスの致死力が働いており、それはイエスの命が、彼の体において現されるためであったと言っています。彼は同じ章の16節で、外なる人は朽ちていっても、内なる人は日ごとに新しくされていくと言っています。これは復活の過程です。わたしたちは格別な復活という目標に到達するまで、この過程の中に居続けます。(リー全集、1978年、第1巻(下)、「キリストの経験」、第19編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第8日

(メモリアルデー特別集会 第6週5日)

 

召会生活でも家庭生活でも、キリストの死に同形化されて新創造を生きます

 

ローマ8:11

そして、イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたがたの中に住んでいるなら、キリストを死人の中から復活させた方は、あなたがたの中に住んでいる彼の霊を通して、あなたがたの死ぬべき体にも、命を与えてくださいます。

 

「ローマ第8章11節は、わたしたちがこの時代に格別な復活に到達することができることを啓示しています。この節が言っているのは、イエスを死人の中から復活させた方の霊が、わたしたちの中に住んでいるなら、キリストを死人の中から復活させた方は、わたしたちの存在の死につつある部分、すなわちわたしたちの死ぬべき体にも、命を与えてくださるということです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの中に住んでいるあなたの霊を通して、わたしたちの死ぬべき体にも命を与えてくださいます。主よ、わたしたちの全存在に神聖な命を浸透してくださることを感謝します。主よ、わたしたちがこの時代に、格別な復活を追い求めて生きることができますように。

 

 

格別な復活の中に生きている人と一緒にいる時、人は神を感じます

 

 わたしたちは、召会生活でも家庭生活でもキリストの死に同形化されて、旧創造に対して死に、新創造を生きる必要があります。…… 格別な復活の中には、旧創造の要素はありません。むしろ、すべてのものは神聖な要素に満ちています。こういうわけで、人は格別な復活の中に生きている人と一緒にいる時、神を感じるのです。そのような人の生活、行為、言葉は復活の中にあります。これが、わたしたちの日常生活における格別な復活です。……これが、自分の願いは、キリストと彼の復活の力を知り、何とかして格別な復活に到達することであると、[パウロ]が宣言した時に、彼の思いの中にあったものです。

 

 彼は自分自身、まだ到達していないと考えて、格別な復活という目標に向かって追い求めていました。目標が格別な復活であるように、賞も格別な復活です。目標はわたしたちが獲得するためですが、賞は享受するためです。わたしたちはこの時代に目標に到達するかもしれませんが、来たるべき時代に賞を享受するでしょう。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(3)」、第53-54編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


9月の祈り第7日

(メモリアルデー特別集会 第6週4日)

 

正しいか間違っているかではなく、復活の中にあるかどうかです 

 

ヨハネ11:25

イエスは彼女に言われた、「わたしは復活であり、命である.わたしの中へと信じる者は、たとえ死んでも生きる」。

 

ピリピ1:21

なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり……

 

 格別な復活に到達することに関して、わたしたちは重要な質問をする必要があります、「わたしたちはこの時代に格別な復活という目標に達することができるでしょうか? それともレースを走るだけで、来たるべき時代に目標に達することができることを望んでいるだけでしょうか?」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは復活であり、命です。主イエスよ、わたしたちの生活の行為と言葉において、正しいか間違っているかではなく、復活の中にあるかどうかで生きることができますように。天然の方法で人々を愛するのではなく、復活の中で愛することを学ばせてください。

 

 

キリストを生きることは、格別な復活を生きることです

 

 ある人は、わたしたちは来たるべき時代まで待って、目標に達することができると思うかもしれません。しかし、もしこの時代に目標に到達するのでないなら、次の時代に到達することはないでしょう。わたしたちは生涯のうちに、目標に到達するように力を尽さなければなりません。……  パウロは経験から、完全に旧創造から出て、神の中にある生活をするのは容易ではないことを知っていました。第1章21節で彼は、「わたしにとって生きることはキリストであり」と宣言することができました。しかし第1章には宣言があるだけで、説明や定義はありません。

 

 第3章で、キリストを生きることは格別な復活を生きることであり、これがわたしたちの目標であるべきであることを見ます。わたしたちの行為と言葉は、復活の中になければなりません。もしある行為が復活の中にないなら、それを行なうべきではありません。もしある言葉が復活の中にないなら、それを言うべきではありません。問題は、ある特定のことが正しいか間違っているかではなく、復活の中にあるかどうかです。わたしたちの愛でさえ、復活の中にある必要があります。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(3)」、第54編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


9月の祈り第6日

(メモリアルデー特別集会 第6週3日)

 

キリストの死に同形化されて、格別な復活に到達します

 

Ⅰコリント9:24-25

あなたがたは知らないのですか? 競技場で走る者はみな走りますが、賞を受けるのはただ一人です.あなたがたは賞を得るために、このように走りなさい。競争する者はみな、すべての事で節制します.彼らは朽ちる冠を受けるためにそうしますが、わたしたちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

 

「キリストの死に同形化された結果は、わたしたちが死人の中からの格別な復活に到達することです(ピリピ3:10-11)。格別な復活に到達することは、キリストの死に同形化されることの結果です(10節)。わたしたちがキリストの死の中にとどまり、自分自身が彼の死の様の中へと鋳込まれるようにするなら、その結果、わたしたちの存在のあらゆる部分は徐々に復活させられます(10-11節)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはまだ十分にキリストを得ていない、完成されていない者です。主よ、わたしたちがキリストを追い求め、彼を獲得するために、後ろにあるものを忘れて、前にある目標に向かって体を伸ばすことができますように。

 

 

後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばします

 

 パウロは円熟した聖徒であり、とても経験のある使徒でしたが、自分はすでに得ていない、すでに完成されていないと告げています。彼は自分を、キリストの完全な享受や命の完全な円熟を得た者と考えませんでした。彼はもちろん、共通の信仰による共通の救いを得ていましたが(Ⅰテモテ1:14-16)、なおもキリストを追い求め、彼を獲得しようとしていました。さらに、パウロがキリストを追い求めていたのは、復活の特別な分を得るためでもありました。

 

 パウロのように、わたしたちは再生されましたが、まだ命において完成され、円熟してはいません。わたしたちが回心の時、キリストによって獲得されたのは、キリストを獲得するためです。今や、まだ得ていない、まだ完成されていない者として、わたしたちはキリストを追い求めています。キリストを追い求める道の第一の面は、わたしたちが自分自身、獲得したとは考えないことです。これに従って、一つの事を行なう必要があります。それは、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばすことです。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(2)」、第23編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


9月の祈り第5日

(メモリアルデー特別集会 第6週2日)

 

わたしたちはみな格別な復活への途上にあります

 

ピリピ3:10

キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて。

 

ローマ6:4-5

こういうわけで、わたしたちは彼の死の中へとバプテスマされることを通して、彼と共に葬られたのです.……もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結合して生長したなら、彼の復活の様の中でも彼と結合して生長するのです。

 

「わたしたちのクリスチャン生活には目標があります。この目標は、格別な復活、特別な復活です(ピリピ3:11)。わたしたちはみな格別な復活への途上にあります。格別な復活は、わたしたちのクリスチャン生活の目標また目的であるべきです(ピリピ3:11-15)。格別な復活に至る道は、復活の過程です(ローマ8:11)。この過程は、わたしたちがバプテスマされた日に始まりました。そして、わたしたちが卓越した復活に到達するときに終わります(6:3-5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはキリストの死の中へとバプテスマされ、クリスチャンの歩みを開始しました。主よ、わたしたちが格別な復活という目標に到達するまで、復活させられる過程の中に居続けられるように守ってください。

 

 

クリスチャンの歩みには長い過程があり、この目標への道は復活の過程です

 

 わたしたちはバプテスマされた日に、わたしたちの古い人、古い命をもった天然の人が葬られたことを認識すべきです。その葬りを通して、神聖な命、永遠の命はわたしたちの内側に起き上がり、わたしたちのクリスチャンの歩みが始まりました。新しい命がわたしたちの中に生きるようになった目標は、わたしたちの全存在を復活の中へともたらすためでした。バプテスマとその目標の間には、格別な復活に到達する長い過程があります。…… 

 

 大部分の時間、わたしたちはキリストによってではなく、わたしたちの天然の命によって生きました。わたしたちは依然として天然の命によって多く生きているので、復活の過程が続かなければなりません。…… クリスチャンの歩みには長い過程があり、わたしたちに長い道を取らせます。この歩みの終わりには、わたしたちが到達する必要のある目標があります。……この目標は格別な復活、驚くべき復活です。この目標への道は復活の過程です。(リー全集、1978年、第1巻(下)、「キリストの経験」、第19編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


9月の祈り第4日

(メモリアルデー特別集会 第6週1日)

 

主の勝利者たちは王国の褒賞を受ける復活を享受します

 

ピリピ3:11

何とかして、死人の中からの格別な復活に到達するためです。

 

啓20:6

第一の復活にあずかる者は、幸いであり、聖である.これらの人たちに対して、第二の死は何の権威もない.彼らは神とキリストの祭司であり、千年の間、彼と共に王として支配する。

 

「格別な復活」とは、卓越した復活、特別な復活を指しており、それは勝利を得た聖徒たちへの賞となります(ピリピ3:11.啓20:4,6)。主の勝利者たちは、その復活の特別な、傑出した分、すなわち、彼らが王国の褒賞を受ける復活を享受します。これは、使徒パウロが追い求めたものです(ピリピ3:11.ヘブル11:35,26)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは十字架を通して、旧創造から出て来て神の中に入られた方です。主ご自身が格別な復活の実際である方です。主よ、わたしたちも何とかして、死人の中からの格別な復活に到達することができるように、キリストご自身を追い求めさせてください。

 

 

格別な復活とは、実は復活の中にあるキリストご自身です

     

 死人の中からの格別な復活とは[ピリピ3:11]、卓越した復活、特別な復活を意味しており、それは、勝利を得た聖徒たちへの賞となります。キリストにあって死んだすべての信者は、主の再来の時、死人の中からの復活にあずかります(Ⅰテサロニケ4:16、Ⅰコリント15:52)。ところが、勝利を得た聖徒たちは、その復活の特別な、傑出した分を享受するでしょう。これはヘブル人への手紙第11章35節で述べられている、「さらにまさった復活」です。さらにまさった復活は、「第一の復活」(啓20:4-6)、「命の復活」(ヨハネ5:28-29)だけでなく、格別な復活、主の勝利者たちが王国の褒賞を受ける復活でもあります。これは、使徒パウロが追い求めたものです。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(1)」、第22編)

 

 格別な復活という目標に向かって追い求めるとは[ピリピ3:11]、旧創造から出て来て完全に神の中にある生活を追い求めることです。この格別な復活とは、実は復活の中にあるキリストご自身です。キリストは彼のパースンにおいて格別な復活を描写していると言ってもよいでしょう。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(3)」、第55編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


9月の祈り第2日

(メモリアルデー特別集会 第5週6日)

 

キリストの死をわたしたちの生活の鋳型とします

 

マタイ16:24

……だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。

 

ローマ6:3

それとも、キリスト・イエスの中へとバプテスマされたわたしたちはみな、彼の死の中へとバプテスマされたことを、あなたがたは知らないのですか?

 

「キリストの死に同形化されることは、キリストの死をわたしたちの生活の鋳型とすることです(ピリピ3:10)。わたしたちの生活は、そのような鋳型に同形化される2べきです。この鋳型とは、人の命に対して死んで、神聖な命を生きることです(ガラテヤ2:20.Ⅱコリント4:10-11」)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたことを感謝します。主よ、わたしたちが日常生活の中において、キリストの死に同形化されて、自己が廃棄されますように。

 

 

キリストの十字架の下で、わたしたちの天然の命を否む生活をします

 

 神の長子のかたちに同形化されるとは、彼の死に同形化されることによって、キリストの十字架の下で、わたしたちの天然の命を否む生活をすることです(ピリピ3:10後半)。キリストのかたちに同形化されるために、わたしたちはまず彼の死に同形化される必要があります。……キリストの死の鋳型は、キリストの十字架の下でわたしたちの天然の命を否む生活をすることです。わたしたちの日常生活の中で、わたしたちは自分の天然の命によって何も行なうべきではありません。むしろ、わたしたちはあらゆる事で、自分の天然の命を否まなければなりません。これは死を自分自身に適用することです。わたしたちは自分の中に鋳型を持っています。そして、その鋳型は死であり、わたしたちの天然の命を否むことです。

 

 神の長子のかたちには、死の要素、すなわち彼自身の命を否むことがあります。彼が地上で生きておられた間、彼は絶えず自分自身の命を否んで、御父の命によって生きられました。彼の十字架は彼の地上の旅路の最終地点でしたが、彼の三十三年半の生涯を通して、彼はご自身を否み、御父の命によって生きることによって十字架の死の下で生活されました。これもまた、すべてを含む霊の中の大きな要素です。(「命における神の救い」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


9月の祈り第1日

(メモリアルデー特別集会 第5週5日)

 

キリストの死に同形化されることは、キリストを経験するための基礎です

 

ピリピ3:10

キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて。

 

ガラ2:20

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです……。

 

「キリストの死の鋳型は、キリストが絶えずご自身の人の命を死に渡して、神の命によって生きた経験を指しています(ヨハネ6:57前半)。主イエスは地上にいた時、十字架につけられた生活をしました。十字架につけられた生活をすることによって、彼は神に対して生きており、神を生きました(ガラテヤ2:20.3:1.5:24)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは常にご自身の人の命を死に渡して、内側の神聖な命が流れ出ることができるようにされたことを感謝します。わたしたちも人の命を死に渡して、神の命によって生きる経験をすることができますように。

 

 

キリストを経験するために、わたしたちは彼の死に同形化されます

 

 [ピリピ]第3章10節には、四つの重要な事柄があります。キリストを知ること、彼の復活の力を知ること、彼の苦難の交わりを知ること、彼の死に同形化されることです。実は、キリストの死に同形化されることは、キリストの復活の力を知ることと、彼の苦難の交わりを知ることの両方と関係があります。「同形化される」という言葉は、わたしたちがどのようにキリストの復活の力と彼の苦難の交わりを知ることができるかを示しています。キリストの死に同形化されることによって、わたしたちは彼の復活の力を経験し、彼の苦難の交わりの中へと入ります。キリストの死に同形化されることは、キリストを経験するための基礎です。

 

 もし、わたしたちがキリストの死に同形化されていないなら、キリストを経験するための基礎がないことになります。キリストを経験するために、わたしたちは彼の死に同形化されなければなりません。しかし、キリストの死に同形化されるために、わたしたちは彼の苦難の交わりを持たなければなりません。キリストの苦難にあずかることによって、わたしたちは彼の復活の力を経験する立場へともたらされます。それから、わたしたちはキリストの復活の力を経験するとき、彼を知ります。(「新約の結論」、メッセージ143、349)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)