エレミヤ書と哀歌 結晶の学び(1) 第1週 第2日~(2) 第4週 第3日
9月の祈り 第30日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第4週 第3日)
わたしは命のパンである
ヨハネ6:48-51
わたしは命のパンである。……しかしこれは、天から下って来るパンであって、これを食べる者が、だれも死なないためである。わたしは天から下って来た生けるパンである.だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きる.わたしが与えるパンはわたしの肉であり、世の人の命のために与えるものである。
「主を食べる方法は、御言を祈ることです。神の御言を祈り読みすることは、わたしたちの霊を活用して、言葉を食べることです(エペソ6:17-18)。わたしたちは主イエスを食べるとき、正常な霊的消化を持つ必要があります(エゼキエル2:8--3:3.エレミヤ15:16.啓10:9-10)」。
主よ、あなたは天から下って来た命のパンです。毎日、霊を活用して主を食べ、霊的な消化を持つことができますように。主を食べて生かされますように。
生けるパンとしてのキリストを常食とする
[ヨハネによる福音書第6章は]、命のパンとしての主の五つの特性を[与えます]。彼は天のパン(ヨハネ6:41、50、51、58)、神のパン(33節)、命のパン(35、48節)、生けるパン(51節)、まことのパン(32節)です。命のパンとして、キリストは永遠の命、ゾーエ(zoe)を伴うパンです。彼はまことのパン、真のパンとして、わたしたちが日ごとに食べる食物の実際です。……ですから、御言を通して、わたしたちは生けるパンとしてのキリストを常食とする必要があります。
第6章には、命のパンとしてのキリストに関する六つの区分があります(32-71節)。これらの区分の最初に(32-51節前半)、命のパンであるキリストが、肉体と成ったことを見ます。33節でキリストはご自身を、天から下って来て、世の人に命を与える神のパンとして言及しておられます。キリストは神ご自身ですが、わたしたちが食べる命のパンとなるために、肉体と成られました。(ヨハネの文書における幕屋とささげ物の成就(2)、第19章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第29日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第4週 第2日)
神の言葉を食べる必要がある
ヨハネ6:57-58
生ける父がわたしを遣わされ、わたしが父のゆえに生きているように、わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる。これは天から下って来たパンであって、……このパンを食べる者は永遠に生きる。
「神の言葉は食物としての神聖な供給であって、わたしたちを養います(申8:3.マタイ4:4)。神の言葉は、わたしたちの食物としての神ご自身です(ヨハネ1:1, 4, 14.6:33, 51, 57)」。
主よ、御言を乳として飲んで成長させてください。そして、御言を固い食物、義の言として食べて養われますように。主の恵みが豊かにありますように。
主からの言葉を食べて養われる
神の御言に関する神聖な概念は、主からの言葉はわたしたちが常食として養われるための食物であるということです。マタイによる福音書第4章4節は言います、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」。神の御言に関する神聖な概念は、神の御言が、わたしたちが教えられるだけでなく、また養われる食物であるというものです。
幼い者たちには乳があり、成人した者たちには、固い食物がある
ヘブル人への手紙第5章12節から14節は言います、「時間の上では、あなたがたは教える者であるはずなのに、神の言の初歩的な基本を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります.そして固い食物ではなく、乳を必要とする者になっています。すべて乳にあずかっている者は、義の言に経験がありません.なぜなら、彼は幼子であるからです.しかし、成人した者たちのためには、固い食物があります.彼らの機能は、習慣的に訓練されて、善悪を識別することができるのです」。御言は、幼い者たちにとっては乳として、また円熟した者たちにとっては固い食物としての養いです。ペテロの第一の手紙第2章2節は言います、「生まれたばかりの赤子のように、悪巧みのない言葉の乳を切に慕い求めなさい.それによって、あなたがたが成長して救いへと至るためです」。これらの箇所はすべて、神の御言に関するわたしたちの観念が新しくされる必要があることを確証します。御言に関する天然の観念は、それがある種の教え、あるいは教理であるということです。しかし、神聖な概念は、神の御言がわたしたちの霊を養う食物であるというものです。(リー全集、1965年、第2巻(上)、「命の木」、第12編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第28日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(2) 第4週 第1日)
神の言葉――食物としての神聖な供給
エレミヤ15:16
あなたの言葉が見いだされて、わたしはそれを食べました。
ヨハネ6:63
命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である。
「あなたの言葉…わたしはそれを食べました(エレミヤ15:16)。聖書はすべて、神の息吹かれたものです。このゆえに、聖書の言葉は、神の口から出る言葉です(Ⅱテモテ3:16)。主イエスの語った言葉は霊であり、命です(ヨハネ6:63)」。
主よ、御言を感謝します。主よ、わたしたちが毎日、主の言葉を息として吸い込み、真の食物として食べて生きることができますように。あなたの言葉は霊であり命です。その実際にあずからせてください。
日ごとに神の言葉に触れる
クリスチャンは日ごとに主と接触し、その霊によって触れられ、さらに多くの命を受ける必要があります。わたしたちは御言に触れることによって、このことを行なうことができます。……今日、神がキリストの中でその霊として聖書の中に具体化されているのは、何とすばらしいことでしょう。
神の言葉の三つの要素
神の言葉は実は三つの要素から、すなわち、キリスト、彼の死、彼の復活から成っています。聖書の基本的な構成要素は物語や教理ではなく、キリスト、彼の死、彼の復活です。わたしたちが聖書を読むとき、もし物語や教理を取り上げるだけで、キリスト、彼の死、彼の復活を取り上げないなら、わたしたちの聖書を読むことは無駄です。わたしたちが聖書のどの章や節を読んだとしても、わたしたちはいつもこの三つの基本的な構成要素、すなわちキリスト、彼のすべてを含む死、復活を取り入れ、享受すべきです。
(リー全集、1978年、第3巻(上)、「健康な言葉」、第8、3編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第26日
2020年9月 福音を前進させる交わりの集会(M2)
神の恵みの福音
使徒20:24
しかし、わたしが自分の行程と、主イエスから受けた務めを全うして、神の恵みの福音を厳かに証しするためには、自分の命を尊いとは思いません。
「パウロは彼の務めにおいて、神の恵みの福音を厳かに証しして、神を人々の中に供給しました。パウロは彼の文書の中で、神の恵みが何であるかをわたしたちに明らかにしています(使徒20:24, 32)」。
神の恵みの福音を感謝します。わたしたちの中に恵みとしての主の分与が豊かにありますように。神の恵みとしてのキリストを内側で享受することができますように。
クリスチャン生活は、恵みの生活、恵みの経験です
恵みとは、神の訪れであり、人の中にとどまり、人の中で生まれ、人と一になります(ルカ1:28, 30.マタイ1:18.Ⅱテモテ4:22)。ですから、クリスチャン生活は、恵みの生活、恵みの経験でなければなりません。それによってわたしたちは、恵みの執事職、すなわち、恵みの分与を遂行することができます(Ⅱコリント12:9.Ⅱテモテ4:22.エペソ3:2)。召会生活の中で、わたしたちは恵みを受けるとき、召会は建造され、わたしたちの受ける恵みは、目に見えるものとなります(使徒4:33.11:23)。
キリストを内側で享受する
キリストのからだの実行上の生活と建造は、神の恵みとしてのキリストを内側で享受することから出てきます(Ⅰコリント1:9.Ⅱコリント13:14)。キリストの享受は、十字架の働きを通して、召会の中のすべての問題を解決します(Ⅰコリント1:13前半, 18, 23-24.2:2)。また、キリストの享受は、命の成長という結果になり、わたしたちを召会建造のための尊い材料として生み出します(Ⅰコリント3:6, 9-14)。そして、キリストの享受は、命の成長によってわたしたちの賜物を発展させます(Ⅰコリント12:1-11)。
新契約の務めは、啓示と苦難によって生み出される
新契約の奉仕者は、苦難を通してキリストを彼らのすべてに十分な恵みとして享受します。そして、新契約の務めは、啓示と苦難によって生み出されます(Ⅱコリント12:7.1:3-4, 8-10)。恵みとしてのキリストは、新契約の奉仕者の上に幕屋を張る力となり、彼らの弱さを影となって覆い、彼らの住まいとなり、彼らを保持し、支え、維持し、保護し、守ります(Ⅱコリント12:9後半)。わたしたちは、わたしたちの行動と保護のために、キリストにある神の恵みをわたしたちに適用して、強さと力とする必要があります(エゼキエル1:6後半, 9前半.出19:4.イザヤ40:28-31.Ⅱコリント4:7.1:12.12:9.Ⅰコリント15:10.詩17:8.57:1.63:7.91:4)。(福音を前進させる交わりの集会 メッセージ2、アウトラインより)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第25日
2020年9月 福音を前進させる交わりの集会(M4)
真の、内在的な、最高の、最も満ち満ちた、神のエコノミーの福音
ローマ1:2-4
この福音は、……彼の御子に関するものです.この方は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示されたわたしたちの主イエス・キリストです.
「真の、内在的な、最高の、最も満ち満ちた福音とは、神のエコノミーの福音、すなわち、子たる身分の福音です。それは、神を人の中へと建造し込み、人を神の中へと建造し込むことによって、キリストのからだとしての召会を建造します(Ⅰテモテ1:3-4.エペソ3:8-11, 16-19.ローマ1:3-4.8:29.12:5.サムエル下7:12-14前半)」。
主よ、わたしたちを真の、内在的な経験の中へと導いてください。主よ、わたしたちがこの最高の福音のビジョンを見ることができますように。そして、神のエコノミーの福音を宣べ伝えることができますように。
わたしたちもまた神の子たちと明示される
「ダビデの子孫が神の子になること」はまた、わたしたちが復活によって神の多くの子たちと明示される過程についても語っています(ヘブル 2:10-11)。キリストはすでに神の子と明示されました。しかし、わたしたちは依然として、明示される過程、すなわち、息子化され、神化される過程にあります(ローマ8:28-29)。復活の中で、キリストは彼の人性において神の子と明示されました。このような復活によって、わたしたちもまた神の子たちと明示される過程にあります(ローマ8:11)。
わたしたちの緊急の必要
わたしたちの緊急の必要は、どのようにして霊にしたがって歩き、明示する霊を享受し経験するかを学ぶことです(ローマ 8:4, 6,14)。わたしたちは命において成長して、造り変えの新陳代謝の過程を経過すればするほど、さらにわたしたちは神の子たちと明示されます(Ⅱコリント 3:18, 6, 16. 5:4, 9, 14-15. 1:12. 12:7-9)
最高の真理、最高の福音
神の側では、三一の神は肉体と成って、人と成られました。わたしたちの側では、わたしたちは神化されつつあり、手順を経て究極的に完成された三一の神をもって構成されつつあります。それは、わたしたちが命と性質において神とされて、永遠にわたって彼の団体の表現となるためです。これが最高の真理であり、これが最高の福音です。(ヨブ記ライフスタディ、178-179ページ)。
(福音を前進させる交わりの集会 メッセージ4、アウトラインより)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月19日~22日(特別集会)福音を前進させる交わりの集会
9月の祈り 第19日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第3週 第6日)
彼のあわれみは尽きることがない…それらは朝ごとに新しい
哀3:22-25
……彼のあわれみは尽きることがないからだ.それらは朝ごとに新しい.「あなたの信実は偉大です。エホバはわたしの分け前です」とわたしの魂は言う.それゆえ、わたしは彼を待ち望む。エホバは彼を待ち望む者と、彼を求める魂に対してすばらしく善い。
「わたしたちの失敗は、キリストのために道を開いて、彼が入って来てわたしたちの義また贖いとなり、またご自身をわたしたちの中へと分与して、わたしたちの命となり、また神を知り神を生きる能力を持つ命の法則とならせます」。
主よ、あなたのあわれみは尽きることがありません。わたしたちは朝ごとに新しい主を待ち望みます。主に感謝します。
主を待ち望む
わたしたちは、自分の失敗のゆえに、望みがないと思うかもしれません。こうして、哀歌第3章22節から25節を考えることは益があるのです。……これらの言葉が書かれたのは、バビロン人がエルサレムを破壊し、宮を焼き、多くの民を捕囚へと連れ去ってからです。……確かに、イスラエルの民は、神が自分たちを放棄し、自分たちはおしまいであると感じたに違いありません。一方で、エレミヤは泣いていました。もう一方で、彼は書いていました。彼は書いているとき、彼らが滅ぼされないのはエホバの慈愛であると言うことができました。彼らは依然として存在し、神は彼らを放棄しておられないと、彼は言うことができました。首長たち、預言者たち、祭司たちは失敗しましたが、神のあわれみは尽きることがありません。それらはむしろ、朝ごとに新しいのです。エレミヤは、エホバは自分の分け前であり、彼を待ち望む、なぜなら彼は彼を待ち望む者に対してすばらしく善いからであると言明することさえできました。なぜ彼に望みがあるのでしょうか? 神の中に望みがあるのは、神には失望がないからです。(エレミヤ書ライフスタディ、第4編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第18日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第3週 第5日)
神は信実です
哀3:22-23
わたしたちが滅ぼされないのは、エホバの慈愛である.まことに、彼のあわれみは尽きることがないからだ.それらは朝ごとに新しい.「あなたの信実は偉大です。
Ⅰコリント1:9
神は信実です.この方を通して、あなたがたは彼の御子、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの交わりへと召されたのです。
「神は信実であって、わたしたちの平安、安全、健康、財産…などを取り去り、わたしたちが生ける水の源泉としての彼から飲むようにされます」。
主よ,あなたは信実な神です。わたしたちの真の必要をあなたはご存じです。わたしたちが何かを失うとき、あなたの慈愛は豊かであることを感謝します。
神は信実であって、わたしたちを神のエコノミーの中へと導かれる
わたしたちは主イエスを信じた時、平安と祝福を持つことを期待したかもしれません。しかしかえって多くの問題があり、わたしたちの安全、健康、財産を失ったかもしれません。あるクリスチャンはそのような事を経験するとき、神の信実を疑い、なぜ彼は困難が起こらないようにしてくださらなかったのかと尋ねるかもしれません。
神がわたしたちに困難があるのを許すとき、神は彼の定められた御旨において信実であって、わたしたちを偶像から向きを変えさせ、彼ご自身に連れ戻されることを、わたしたちは認識する必要があります。わたしたちの平安、安全、健康、財産は、わたしたちの偶像となるかもしれません。神は信実であって、これらのものを取り去り、わたしたちが生ける水の源泉としての彼から飲むようにされます。もしわたしたちの家や財産がわたしたちにの偶像となるなら、わたしたちはそれらから飲んでいるのであって、神から飲んでいません。神の信実は、これらの偶像を対処し、わたしたちに彼から飲ませるようにするという事柄です。
神は信実であって、わたしたちを神のエコノミーの中へと導かれます。神のエコノミーとは、わたしたちがキリストを飲み、キリストを食べ、キリストを享受し、キリストを吸収し、キリストを消化して、神がわたしたちにおいて彼の増し加わりを得て、彼のエコノミーを完成することです。(エレミヤ書ライフスタディ、第4編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第17日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第3週 第4日)
神は深く同情して赦してくださる
イザヤ55:7
悪しき者は自分の道を捨て、悪を行なう者は自分の思いを捨てよ.エホバに帰れ.そうすれば彼は深く同情してくださる.わたしたちの神に帰れ.まことに、彼は豊かに担って赦してくださるからである。
「神の目に、悪しき者の邪悪な状態は、彼らが主に来て主を食べ、飲み、享受しないことです。神の目に、これほど邪悪なことはありません(イザヤ57:20-21.参照、55:1-2)」。
主よ、わたしたちの心の中の偶像(エゼキエル14:3)を照らしてください。わたしたちを「もの言わぬ、声のない偶像」から、生ける神に立ち返らせてください。「主イエス!」と主の御名を呼び求めます。主のあわれみが豊かにありますように。
生ける神は、ご自身の霊の中で語らせる
「わたしたちの心の中の偶像とは(エゼキエル14:3)、わたしたちが自分の内側で主以上に愛し、大切にするすべてのもの、またわたしたちの生活の中で主に置き換わるすべてのものです(Ⅰヨハネ5:21)」。
「もの言わぬ、声のない偶像は(Ⅰコリント12:2.ハバクク2:18-20)、それらを拝む者たちをもの言わぬ、声のない者とします。ところが、生ける神は、ご自身を礼拝する者たちをご自身の霊の中で語らせます(Ⅰコリント12:3後半.詩115:4-8.Ⅱコリント4:13.詩116:12-13)」。神を礼拝する者はだれも、黙っているべきではありません。みな声を出して、神の霊の中で、「主イエス!」と語り出すべきです。このように「主イエス」と語ることは、すべての霊的賜物の中で主要な機能です。正しい霊で主の御名を呼び求めることは、聖霊にあずかり、聖霊を享受し、経験する方法です(Ⅰコリント12:3後半.参照)(エレミヤ書と哀歌 結晶の学び、第3週アウトラインより)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第16日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第3週 第3日)
わたし[主イエス]が与える水を飲む者は、永遠に渇くことはない
ヨハネ4:13-14
イエスは答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、また渇く.しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである」。
生ける水の源泉を捨てて、壊れた水ためを掘ることの意味
● 神を捨てて、神以外の源に転向する。
● 命の木を捨てて、善悪知識の木に転向する。
● 人の労苦によって、何か(偶像)を作って神と置き換える。
● 神はイスラエルを妻と考えていたのに、イスラエルは多くの偶像と淫行を犯す。
主よ、イスラエルの歴史はわたしたちの状況です。主よ、わたしたちが生ける水の源であるあなたから飲むことができますように。主のあわれみが豊かにありますように。
生ける水の源泉を捨てて、壊れた水ためを掘る
エレミヤ書第2章13節でわたしたちは、積極的なもの、すなわち生ける水の源泉だけでなく、消極的なもの、すなわちイスラエルの子たちがこの源泉を捨てて、自分たちのために水をためることがない壊れた水ためを掘ったことを見ます。この消極的な事柄は、創世記第3章のアダムのように、イスラエルが堕落したことを示しています。アダムが堕落したのは、命の木を捨てて別の木、すなわち善悪知識の木に転向することによってでした。イスラエルが堕落したのは、生ける水の源泉としての神を捨てて、神以外の源に転向することによってでした。
神は、イスラエルが彼を飲んで彼の豊満としての増し加わりとなり、ご自身を表現するという負担を持っておられました。イスラエルは生ける水の源泉としての神から飲むべきでしたが、彼らはかえって二つの悪事を犯しました。第一の悪事は神を捨てることでした。第二の悪事は別の源としての水ためを掘ることでした。しかしながら、それらの水ためは壊れていて、水をためることができませんでした。これが示しているのは、生ける水の源泉としての神を離れて、何もわたしたちの渇きをいやすことはできず、何もわたしたちを満足させることはできないということです。生ける水としてわたしたちの中へと分与された神ご自身を離れて、何もわたしたちを彼の増し加わりとならせて彼を表現させることはできません。(エレミヤ書ライフスタディ、第3編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第15日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第3週 第2日)
神と小羊の御座から流れる命の水の川から飲む
啓22:1
また御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた.それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた。
啓22:17
その霊と花嫁が言う、「来たりませ!」。聞く者も「来たりませ!」と言いなさい。渇いている者は来たれ.欲しい者は、命の水を値なしに飲むがよい。
「わたしたちが復活の中で一つ霊から飲むことは、わたしたちをからだの肢体とし、わたしたちをからだとして建造し、またわたしたちを整えてキリストの花嫁とならせます(Ⅰコリント12:13.啓22:17)」。
日ごとに、命の水の川から飲むことができますように。そして、キリストのからだが建造され、キリストの花嫁が準備されますように。主の恵みが豊かにありますように。
神の御座から流れ出る命の水の川
[出エジプト記第17章6節における]岩から出て来た水は、復活の中にある命の水です。復活とは、死に渡され、再び生きているものを意味します。それはまた、死を経過したものからわき出る命を意味します。
命の水は復活の中にあるので、勝利のものまた凱旋のものです。それはあらゆる消極的なものを超越します。わたしたちはこの水を飲むとき、復活の中にある、また復活に属する人となります。
今、聖書の中に描写された三つの絵を見ましょう。それは打たれた岩とそこから流れ出る水、血と水が突き刺された脇から流れる十字架上のキリスト、命の水の川が流れ出る御座の上の神です。これらの絵は三つの異なる種類の水、すなわち岩から流れ出る水、イエスの体から流れ出る別の水、さらに神の御座から流れ出る別の水を表徴しているのではありません。そうではなく、これらの絵の水は、一つの水を指しています。
生ける水の流れは御座から始まりました。岩が打たれる前、キリストが十字架につけられる前、生ける水はすでに御座から流れていました。(出エジプト記ライフスタディ(3)、第42編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第14日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第3週 第1日)
生ける水の源泉から飲む
エレミヤ2:13
まことに、わたしの民は二つの悪事を犯したからである.彼らはわたし、この生ける水の源泉を捨てて、自分たちのために水ため、水をためることがない壊れた水ためを掘ったのだ。
「神のエコノミーにおける彼の意図は、生ける水の源泉、源となって、彼の選ばれた民を満足させ、彼らの享受になることです」。
主よ、命の水を飲む地位に置かれていることを感謝します。あなたに来て、あなたに求め、あなたを信じ、御名を呼び求めます。今日、この生ける水を飲んで生かされますように。
神ご自身を生ける水として分与する
神のエコノミーは、彼ご自身を生ける水として分与して、彼の増し加わり、彼の拡大を生み出し、彼の表現とならせることです。
この思想はパウロの文書によって強められています。例えば、コリント人への第一の手紙第12章13節は、「わたしたちは……みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされた」と言います。その霊の中でバプテスマされることは、その霊の中へと入り、彼の中で失われることです。その霊を飲むことは、その霊を取り入れ、わたしたちが彼で浸透されることです。
コリント人への第一の手紙第10章3節と4節でパウロは、旧約の予表を用いて、飲むことだけでなく食べることについても語っています。「みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲みました.すなわち彼らは、彼らについて来た霊の岩から飲んだのです.そしてその岩はキリストです」。霊の食物はマナを指しており(出16:14-18)、わたしたちの日ごとの命の供給としてのキリストを予表します。霊の飲み物は、裂かれた岩から流れ出た生ける水を指しており(出17:6)、わたしたちのすべてを含む飲み物として、十字架につけられ復活したキリストから流れ出たその霊を予表します。わたしたちが生ける水としての神から飲むことは、彼の増し加わりとしての召会のためです。わたしたちが飲むことは、彼の拡大、彼の豊満を生み出して、彼を表現するためです。(エレミヤ書ライフスタディ、第3編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第12日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第2週 第6日)
わたしたちの心に書き記す、新しい契約
エレミヤ31:31
……わたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約を結ぶ.
33-34
……わたしはわたしの律法を彼らの内なる各部分に置き、それを彼らの心に書き記す.わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。……彼らはみなわたしを知るようになる……わたしは彼らの罪科を赦し、もはや彼らの罪を思い出さないからである。
キリストご自身は、神によって与えられた、命の新しい契約(covenant)、新しい遺言(testament)です(イザヤ42:6.49:8.エレミヤ31:31-34.ヘブル8:8-12)。新しい契約の中心、内容、実際は、内なる命の法則です(ローマ8:2)。
主よ、わたしたちの内側にある神性な命を感謝します。主よ、わたしたちを満たし、神と一にしてください。わたしたちを神で構成して、神を生きるようにしてください。
エレミヤ書の核
神はわたしたちが彼を源とし、毎日彼から飲んで、彼がわたしたちの内側で命の水の川となることを願っておられます。わたしたちは堕落した状態において望みがなく、徹底的に腐敗し、いやされることがなく、変えることができません。しかしキリストが来て、わたしたちの義と内なる命になられました。外側で、彼はわたしたちの義であり、それはわたしたちが神によって義とされるためです。内側で、彼は神聖な命であり、わたしたちを満たし、神と一にし、さらにはわたしたちを神で構成して、わたしたちが神を生きるようにされます。そしてわたしたちは団体のからだ、三一の神の有機体となります。これがエレミヤ書の核です。
新しい契約の中心、中心性は内なる命の法則です。エレミヤ書第31章33節前半は……[示していますが]、この律法は外側の律法ではなく、内側の法則です。その本質においては、この法則は神聖な命を指しており、この神聖な命はほかでもなく命を与える霊、すべてを含むキリスト、手順を経て究極的に完成された神です。(エレミヤ書ライフスタディ、第26編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第11日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第2週 第5日)
わたしはダビデのために義なる若枝を起こす
エレミヤ23:5-6
わたしはダビデのために義なる若枝を起こす.彼は王として治め、思慮深く行動し、公正と義をこの地に行なう。……『エホバわたしたちの義』、これが、彼が呼ばれる彼の名である。
「エホバわたしたちの義」は、神性におけるキリストを指しています。「義なる若枝」は、人性におけるキリストを指しています。
主よ、あなたは神性と人性を持っておられることを賛美します。そして今、あなたはわたしたちの命であり、内なる命の法則となっておられることを感謝します。
エホバわたしたちの義
エレミヤ書第23章6節の「わたしたちの」は、キリストがわたしたちと一になり、わたしたちの義となることを示します(Ⅰコリント1:30.Ⅱコリント5:21)。キリストは彼の贖いに基づいて、わたしたちの義となります。キリストは「義なる若枝」(5節)として、ダビデの子孫として肉体の中で来て、十字架上で死んで彼の血を流し、わたしたちの罪を洗い去り、贖いを完成しました(エペソ1:7.ヘブル9:22.Ⅰペテロ1:18-19)。わたしたちは彼の贖いを基礎として、彼の中へと信じて神の赦しを受けることができ(使徒10:43)、神はわたしたちを義とし(ローマ3:24,26)、キリストをわたしたちの義とならせ、わたしたちに義の上着を着せることができます(イザヤ61:10)。これは、三一の神の具体化としてのキリスト(コロサイ2:9)のために道を開きます。そして彼はわたしたちの中へと入って、わたしたちの命(コロサイ3:4前半)、わたしたちの内なる命の法則(31:33)、わたしたちのすべてとなり、ご自身をわたしたちの全存在の中へと分与して、神の永遠のエコノミーを完成します。(エレミヤ23:6、フットノート2)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第10日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第2週 第4日)
主との交わりが、主の血の絶え間ない清めによって維持される
Ⅰヨハネ1:7
……神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩くなら、わたしたちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めます。
「栄光の中にある主のビジョンを真に見るすべての人は、自分の汚れに関して、良心の中で照らされます(イザヤ6:5.ヨハネ12:41.ヨブ42:5-6)」。
主よ、あなたとの交わりの中で光の照らしがあることを感謝します。この光がわたしたちの罪を照らすとき、血の清めがあることを感謝します。主との交わりがさらに親密なものとなりますように。
主イエスの血の清めによって、神との交わりが維持される
わたしたちは神聖な光の中に生きる時、その光の照らしの下にあります。この光は、神の神聖な性質によって、わたしたちの中にある彼の性質を通して、わたしたちのすべての罪、違犯、失敗、欠点を暴露します。それらは神の純粋な光、完全な愛、絶対的な聖、卓越した義に矛盾します。そのような時、わたしたちは照らされた良心の中で、主イエスの贖いの血の清めが必要であると感じます。そして、その血はわたしたちの良心の中で、すべての罪からわたしたちを清め、神との交わり、また互いの交わりが維持されます。神とわたしたちとの関係は、壊れることはありません。ところが、神との交わりは中断することがあるのです。前者は命からです。後者も命からですが、わたしたちの生活に基づいています。[わたしたちの交わりは]、条件付きであり、主の血の絶え間ない清めによって維持される必要があります。(Ⅰヨハネ1:7のフットノート3)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第9日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第2週 第3日)
わたしたちの心を造り変える神の道
エレミヤ17:9
心はすべてのものにまさって偽るもので、それはいやされることはない.だれがそれを知ることができよう?
Ⅱコリント3:3
あなたがたは、わたしたちが務めをすることによって書き記されたキリストの手紙であって、…生ける神の霊で書かれ、…心という肉の板に書き記された手紙である……。
わたしたちの心は自分自身によってはいやされませんが、あなたにはご自身を人の中へと分与する道があることを感謝します。今日、主がわたしたちの霊から心へと広がり、わたしたちを造り変えてくださいますように。
堕落した人の心を対処する神の道
[エレミヤ17:9]: 欺き、いやされることのない人の心についてのこの言葉でさえ、神のエコノミーと彼の分与と関係があります。人の心は腐敗し、欺き、その状態はいやされることがありませんが、そのような心でさえ、神が彼の命の法則を書く板となることができます(エレミヤ31:33.参照、Ⅱコリント3:3)。これは、神にはご自身を人の中へと分け与える道があることを啓示します。いったん神は人の中へと入ったなら、人の霊から人の心へと広がります。これが神のエコノミーにしたがって、堕落した人の心を対処する神の道です。エゼキエル第36章26節とフットノートを参照。(エレミヤ17:9のフットノート1)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第8日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第2週 第2日)
永遠の命へと至る水を飲む
ヨハネ4:14
わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである。
「生ける水の源泉となることでの神の目標は、神の増し加わりとしての召会を生み出して、神の豊満とならせ、神を表現させることです。これが、神のエコノミーにおける神の心の願い、神の大いなる喜びです(エレミヤ2:13.哀3:22-24.Ⅰコリント1:9.エペソ1:5, 9, 22-23)」。
主イエスよ、あなたが与える水を飲むなら、わたしたちの内で源泉となることを感謝します。主イエスよ、今日あなたが与える水を飲むことができますように。わたしたちの内で源泉となり、湧き上がって永遠の命へと至ることを感謝します。
三一の神は流れて、永遠の命へと至る
三一の神は、神聖な三一において、三つの段階で流れます。[ヨハネによる福音書第4章14節において]、源泉が湧き上がるとき、それは源泉が明らかになることです。そして川は流れます。父は源泉であり、子は泉であり、霊は川です。
この流れる三一の神は、「永遠の命へと至る」のです。「へと至る」と訳されたギリシャ語の前置詞には、豊かな意義があります。ここでそれは目的地について語っています。永遠の命は流れる三一の神の目的地です。源泉はわたしたちの中で川のように湧き上がり、目的地へと至ります。この目的地は永遠の命です。新エルサレムは神聖な永遠の命の総合計です。永遠の命は最終的に、新エルサレムとなります。こうして、「永遠の命へと至る」は、「新エルサレムへと至る」を意味します。わたしたちはそこへ到達するために、神聖な新エルサレムへと至る、流れるものを持っていなければなりません。聖書全体が、ヨハネによる福音書第4章14節を解釈するのに必要とされます。父は源としての源泉であり、子は泉であり、霊は流れる川であって、この流れの結果は永遠の命、すなわち新エルサレムです。(ヨハネによる福音書の結晶の学び、第14章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第7日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第2週 第1日)
救いの泉から水をくむ
エレミヤ2:13
まことに、わたしの民は……わたし、この生ける水の源泉を捨てて、自分たちのために水ため、水をためることがない壊れた水ためを掘ったのだ。
イザヤ12:3-6
……あなたがたは歓喜をもって、救いの泉から水をくむ.その日、あなたがたは言う、「エホバに感謝せよ.彼の御名を呼び求めよ!彼のみわざをもろもろの民の間に告げ知らせよ.……エホバに詩をもって歌え.……叫び声を上げ、喜びの叫び声を鳴り響かせよ……」。
主よ、生ける水の源泉であるあなたに感謝します。今日、救いの泉から水をくんで飲みます。主よ、あなたを賛美します。
エレミヤ書の核となる三つの事柄
エレミヤ書の核は、三つの事柄を含んでいます。すなわち、① 神はわたしたちから何を求めているのか、② わたしたちは堕落した状態において何であるのか、③ キリストはわたしたちにとって何であるのかということです。わたしたちはこの三つの事柄を見るために、エレミヤ書の殻を「砕き」、内側の核に集中する必要があります。この核は、全聖書の教え全体です。
神のエコノミーにおける神の意図は、生ける水の源泉、源となって、わたしたちを満足させ、わたしたちの享受となることです。神が求めているのは、わたしたちが神をわたしたちの存在の源、源泉とすることです。神を生ける水の源泉とする唯一の道は、日々、神から飲むことです(エレミヤ2:13.Ⅰコリント12:13.ローマ11:36)。このためには、わたしたちが絶えず主を呼び求め(感謝し、歓喜し、祈り、賛美することをもって)、生ける水の源泉としての彼から、歓喜をもって水をくむことが必要となります(イザヤ12:3-4.ヨハネ4:10, 14.ローマ10:12.Ⅰテサロニケ5:16-18.4:3前半)。(エレミヤ書と哀歌 結晶の学び 第2週、アウトラインより)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第5日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第1週 第6日)
神は涙の谷を泉とします。この泉はその霊です。
詩84:5-6
幸いです、その力があなたにあり、その心にシオンへの大路がある人は。彼らはバカの谷を通っても、そこを泉とします.まことに、前の雨は祝福をもってそこを覆います。
「召会生活の中で、わたしたちがバカ(涙を流す)の谷を通るとき、神はこの谷を泉とします。この泉はその霊です(詩84:6.ヨハネ4:14.7:38-39)」。
主よ、わたしたちが苦難の中で、バカ(涙)の谷を通るとき、わたしたちの心にシオンへの大路がありますように。召会生活の中で、涙の谷が泉となることを経験させてください。主の恵みが増し加わりますように。
バカ(涙)の谷を泉とする
[詩篇84:6バカは] 「涙」を意味します。一方で、シオンへの大路にある者は、神の中で強められます(詩84:5)。もう一方で、彼らはサタンによって反対され、サタンは彼らが迫害に苦しむようにします。サタンによってひき起こされる問題と迫害は、大路を涙の谷とならせます。この特殊な用語は、詩篇の作者が神によって取り扱われ、神によってはぎ取られたことを示します(参照、詩73:26のフットノート1とヨブ3:1のフットノート1)。
わたしたちがバカ(涙)の谷を通るとき、神はこの谷を泉とされます(参照、コロサイ1:24.ヘブル10:34)。この泉はその霊です(ヨハネ4:14.7:38-39)。わたしたちはシオンへの大路で泣けば泣くほど、ますますその霊を受けます。わたしたちは泣いているとき、その霊で満たされ、その霊はわたしたちの泉となります。
涙の谷を通って召会生活の中へと入って来る者は、この涙が最終的に、彼らにとって大きな祝福となることを見いだします。この祝福はその霊です(ガラテヤ3:14)。彼らが流す涙は彼ら自身のものですが、これらの涙は泉をもたらし、それは前の雨、すなわち祝福としてのその霊となります。(詩篇84:6のフットノート1,2,3)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第4日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第1週 第5日)
柔和で、親密な心遣いを持つように祈る
Ⅱコリント12:15
しかし、わたしはあなたがたの魂のために、大いに喜んで費やし、自分自身を使い尽くしましょう。わたしはあなたがたを、あふれるばかりに愛すれば愛するほど、ますます愛されなくなるのでしょうか?
「Ⅱコリント第7章でパウロは、コリント人に対する深く、柔和で、親密な心遣いを伝えました。彼の言葉はとても人に触れました(Ⅱコリント7:2-3)」。
喜んで自分自身を使い尽くした主イエスに感謝します。わたしたちに主の人性を造り込んでください。兄弟姉妹に対して柔和で、親密な心遣いを持つことができますように。主の恵みが豊かにありますように。
親密な心遣いがある召会生活
良い家庭生活と召会生活を確立するために必要なことは、親密な心遣いです。わたしたちがどれほど実を結ぶか、どれほど多く実を結ぶかは、……わたしたちが親密な心遣いを持っているかどうかによります。
わたしたちが人に対して正しい心遣いを持つ限り、彼らの救いのために神に用いられるよう資格づけられる途上にあります。……雄弁、賜物、力は、決して彼らに対するあなたの心遣いほど、深く人に触れることはできません。(コリント人への第二の手紙ライフスタディ(2)、第44編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第3日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第1週 第4日)
主に仕えることができるように祈る
使徒20:19
わたしはあらゆるへりくだりと涙をもって、またユダヤ人の陰謀によってわたしに降りかかった試練の中で、主に奴隷として仕えてきました。
「神がわたしたちを通して完全に表現されるために、わたしたちは霊的な感情を持ち、互いに思いやりを持ち、涙をもって神に仕えることができるようになる必要があります(ヤコブ5:11.出34:6.詩103:8)」。
主よ、主と召会を愛して仕えたパウロのように、わたしたちも主に仕えることができますように。主の恵みが豊かにありますように。
わたしたちの感覚が細やかで優しくなる
わたしたちは、主がわたしたちの上で働いて、わたしたちの感覚が細やかで優しくなる必要があります。毎回、神がわたしたちの上で働き、わたしたちを懲らしめ、わたしたちを対処するとき、わたしたちの感覚はさらに細やかになり、さらに鋭敏になります。これは、外なる人を砕くことでの最も深い学課です(Ⅱコリント4:16)。
わたしたちがキリストをわたしたちの命の供給として経験すればするほど、わたしたちの心はますます優しく(tender)なります。そして、わたしたちは思いやりがある(tenderhearted)とき、他の人を赦すでしょう。
(エレミヤ書と哀歌 結晶の学び(1)第1週 アウトラインより)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第2日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第1週 第3日)
神の思いやりに加えて神の義を知る者となるように祈る
エレミヤ9:17-19
万軍のエホバはこう言われる、「… わたしたちのために嘆きの声を上げさせ、わたしたちの目に涙を流させ、わたしたちのまぶたに水をあふれさせよ。まことに、嘆きの声がシオンから聞こえた.ああ、わたしたちは破壊されている! わたしたちはひどく辱められている!……
「わたしたちの神は思いやりのある神であり、あわれみと同情に満ちていますが、絶対的に義です(エレミヤ9:10-11.23:6)」。
主よ、あなたがあわれみと同情にみちている神であり、また絶対的に義である神であるということを深く認識することができますように。
神の思いやりと神の義
エレミヤ書は、神の思いやりに加えて神の義を語っています。これがこの書の特別な性質と立場です。わたしたちの神は思いやりのある神であり、絶対的に義です。彼はあわれみ、同情、優しい顧みに満ちておられます。・・・・・・
[エレミヤ書第9章17節から19節で]エホバは、泣き女、職業的な泣く者たちを呼んで来させ、「わたしたちのために」嘆きの声を上げさせるように提案されました。これらの節で、「わたしたちus」と「わたしたちのour」という言葉は、エホバがご自身を、苦しんでいる民に結び付け、彼らの苦しみの中で彼らと一であったことを示します。罰し、また同情する神は、また彼の罰せられている民の間におられました。……最終的に、嘆いている者たちはイスラエルのためだけでなく、エホバのためにも嘆いていました。エホバご自身が、彼の民に同情して泣いておられました。彼は、子供を叩きながら、子供と一緒に泣いている母親のようでした。(エレミヤ書ライフスタディ、第1、11編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
9月の祈り 第1日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌 結晶の学び(1) 第1週 第2日)
立ち上がって神の勝利者となるように祈る
エレミヤ1:9-10
そして、エホバは彼の御手を伸ばして、わたしの口に触れられた.そしてエホバはわたしに言われた、「見よ、わたしはわたしの言葉をあなたの口に置いた。見よ、わたしはこの日、諸国民と諸王国の上にあなたを立て、引き抜き、そして打ち壊し、そして滅ぼし、そして倒し、建て、そして植えさせる」。
「エレミヤは神のために語る勝利者でした(エレミヤ1:9-10.2:1-2)。神の民の大部分が荒廃していたとき、何人かが立ち上がって神の勝利者となり、神によって打ち立てられた証しを維持する必要がありました」。
主よ、あなたのあわれみにより、わたしたちが立ち上がって、神のために語り、神の証しを維持することができますように。主の恵みが豊かにありますように。
涙を流し予言したエレミヤ
エリヤの証しは偶像に敵対しましたが、エレミヤの証しは偽預言者に敵対しました。エリヤは強い人でしたが(参照、列王下1:10,12)、エレミヤは柔和な人でした。わたしたちは、柔和な人が反対する証しになることができないと思うべきではありません。…… エリヤの時代、人が強くなければならなかったのは、虚偽の神々に対して反対する証しとなるためでした。しかしながら、エレミヤの時代、イスラエル人はあわれでした。彼らはほふり場に引かれて行こうとしていましたが、みな良いと、依然として言いました。そのような時、柔和な人が彼らのために泣く必要がありました。エレミヤは天に雨を降らせることはできませんでしたが、「雨」は彼の目から来ました。彼は多くの涙を流し、涙の中で予言しました。そのような人は、他の人を柔らかくすることができます。(リー全集、1954年、第4巻― 英文)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
8月の祈り 第31日
(朝ごとの食物 エレミヤと哀歌結晶の学び(1) 第1週 第1日)
主がわたしたちを遣わすすべての所へ行って、語ることができるように祈る
エレミヤ:7-8
エホバは彼に言われました、「自分が若者であると言ってはならない.まことに、わたしがあなたを遣わすすべての所へ、あなたは行って、あなたに命じるすべてのことを、あなたは語らなければならないからだ。彼らの顔を恐れてはならない.まことに、わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出すからである」。
「エレミヤは祭司に生まれましたが、神によって召されて、イスラエルの国に対して預言者になっただけでなく、すべての諸国民に対しても預言者となりました。ですから、彼は祭司・預言者でした(エレミヤ1:1, 4-8)」。
主よ、わたしたちも、あなたが遣わされる所へ行って、あなたの言葉を語ることができますように。わたしたちの福音が、主に祝福されますように。主の恵みが豊かにありますように。
エレミヤは祭司として生まれ、預言者となる
エレミヤは祭司として生まれましたが(エレミヤ1:1)、イスラエルの国に対して預言者となっただけでなく、すべての諸国民に対しても預言者となりました(エレミヤ1:5-8)。ですから、彼は祭司・預言者でした。
エレミヤの預言の内容はこうです。すなわち、神が彼のエコノミーを完成することは、愛の中で、彼の優しい顧み、あわれみ、同情をもって彼の選民イスラエルを懲らしめ、彼の愛に符合する義の中で諸国民を裁いて、イスラエルが新創造とされ、神聖な命の内なる法則を持ち、また神を知るこの命の能力を持って(エレミヤ31:33-34)、彼らの神聖な義である(エレミヤ23:6.33:16)、彼らの中心性また普遍性としてのキリストを現すことを通してです。(エレミヤ1:5のフットノート1)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)