朝ごとの食物

1月の祈り 第18日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (1) 第1週2日)

 

主が与える水は、人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至ります

 

ヨハネ4:14

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである。

 

「わたしたちが生ける水から飲むとき、それはわたしたちの内で「源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至る」のです(ヨハネ4:14後半)。起源としての御父は源泉であり、表現としての御子は泉であり、伝達としてのその霊は流れです。(ヨハネ7:37-39.詩46:4.啓22:1-2.22:17)」。

 

 主よ、あなたが与える水を毎日飲むことができますように。そして、主よ、わたしたちの中で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至りますように。そして、わたしたちが新エルサレムへと至りますように。

 

 

主はわたしたちを新エルサレムの中へと流れさせ、新エルサレムとされます

 

 わたしたちがこの水を飲むとき、それはわたしたちの中で源泉となり……[それは]泉のように現れ、泉は新エルサレムのために川のように流れ出ます。……主はわたしたちの中へと流れるとき、わたしたちと共に流れます。主はわたしたちを新エルサレムの中へと流れさせ、新エルサレムとされます。「へと至る」という前置詞は、「となる」を意味します。「新エルサレムへと至る」は、「新エルサレムとなる」を意味します。……

 

 湧き上がるとは泉が流れることです。川は流れにおいて暗示されています。ここの「へと」は、「という結果になる」、あるいは、「である、になる」を意味します。新エルサレムは三一の神の流れを通してそこにあるでしょう。聖書の初めで、神はおられました。聖書の終わりには新エルサレムがあります。初めに、過去の永遠に言があり、言は神でした。未来の永遠に、言は新エルサレムとなります。(ヨハネによる福音書の結晶の学び、第14章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第17日

(朝ごとの食物 神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる (1) 第1週1日)

 

神聖なエコノミーは、神聖な三一を人の中へと分与します

 

詩36:8-9

彼らはあなたの家の脂肪分で満ち足り、あなたは彼らにあなたの楽しみの川から飲ませられます。あなたと共に、命の源泉があり、あなたの光の中で、わたしたちは光を見るのです。

 

「神聖なエコノミーとは、神の家庭の行政であり、ご自身を彼の神聖な三一の中で、彼の選ばれた人の中へと分与することです。それは、彼らが造り変えられて、召会を生み出すためです。召会はキリストのからだ、神の家、神の王国、キリストの配偶者、すなわち、新エルサレムであるものの究極の集大成です(Ⅰテモテ1:3-4.ヨハネ1:14, 29.啓5:10.21:2)」。

 

 主よ、神聖な三一の神聖な分与を感謝します。主よ、聖書の中にある神聖な三一のビジョンを見せてください。主よ、三一の神がわたしたちの中へと造り込まれますように。

 

 

聖書全体は三一の神の原則にしたがって書かれました

 

 詩篇第36篇8節から9節……を解釈することができる唯一の方法は、支配するビジョンによります。そのビジョンとは、三一の神がご自身を彼の選ばれ贖われた人の中へと造り込んでおり、彼らの命また命の供給となることであり、それは、彼らの全存在が神聖な三一で浸透されるため、すなわち、源としての御父、脂肪分としての御子、川としてのその霊で浸透されるためです。これは、聖書のどの部分を解釈するにもあなたを支配し導くべきビジョンです。……

 

 聖書のあらゆる書は、この聖書の箇所に対するわたしたちの理解を確証します。なぜなら、聖書全体は三一の神の原則にしたがって書かれたからです。それは、三一の神が彼の贖われた人の中へと造り込まれて、彼らの享受、飲み物、命と光の源泉となるということです。新約のどの部分を解釈することでも、この原則を適用することに際限はありません。(長老訓練、第2巻:主の回復のビジョン、第13章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第15日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第8週6日)

 

王はわたしたちを彼の奥の間に連れて行かれます

 

雅1:4

「わたしを引き寄せてください.わたしたちはあなたの後を走ります」.王はわたしを彼の奥の間に連れて行かれた.「わたしたちはあなたの中で喜び楽しみ、ぶどう酒にまさってあなたの愛をほめたたえます。彼女たちは一心にあなたを愛します。

 

「雅歌の中のロマンスは、わたしたちと主との関係が霊的なものでなければならないことを描写しています(雅1:4後半)。…… なぜなら、主はわたしたちの霊の中の命を与える霊であるからです。わたしたちの霊は至聖所であり、それは主の主また王の王としての霊なるキリストの奥の間です(Ⅰコリント15:45後半.ローマ8:16.Ⅰコリント6:17.Ⅱテモテ4:22.啓17:14.19:16)」。

 

 主よ、わたしたちは奥の間であるわたしたちの霊の中で、主の臨在と主の安息と満足を享受することができますように。そして、羊の群れと共に召会の中で前進させてください。

 

 

主は彼の羊の群れ、召会と共にいると告げられます

 

 まず、神はわたしたちを救われます。次に、主はわたしたちを導いて、どのようにわたしたちの霊の中で私的に霊的に、彼と接触するかを知らせられます。わたしたちは主の豊かな臨在と、彼の安息と満足を享受したいので、彼はわたしたちにはっきりと、ただ彼の羊の群れ、召会と共にいると告げられます。召会の本質はキリストの有機的なからだであり、それは新エルサレムにおいて究極的に完成します。

 

 わたしたちが救われた後、わたしたちの関心事はただ自分の満足のためであったのですが、キリストの関心事は神の満足であり、彼の永遠のエコノミーが、召会の肢体としてのわたしたちを持つことによって完成されることです。召会の本質はキリストの有機的なからだであり、それは新エルサレムにおいて究極的に完成します。(リー全集、1994年―1997年、第3巻(上)、「雅歌の結晶の学び」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第14日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第8週5日)

 

わたしを引き寄せてください

 

雅歌1:2-4

「彼の口の口づけをもって、わたしに口づけしてください! あなたの愛はぶどう酒にまさるのです。あなたの塗り油はかぐわしい香りを放ち、あなたの名は注がれた香油のようです.それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。わたしを引き寄せてください.わたしたちはあなたの後を走ります」.…

 

「わたしたちはキリストをわたしたちの夫として受け入れ、経験し、享受しなければなりません。雅歌の中のロマンスは、わたしたちと主との関係が個人的なものでなければならないことを描写しています(雅1:4前半)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちを引き寄せてください。主よ、わたしたちが主との個人的で愛情深い、親密な関係の中に保たれますように。

 

 

主の愛は人を引き寄せ、主の御名は人を魅了し、主のパースンは人を捕らえます

 

 主の愛は人を引き寄せ、彼の御名は人を魅了し、彼のパースンは人を捕らえます。主は千万の彼を愛する者たちを引き寄せ、捕らえて、彼を追い求めるようにしてきて、今日もなお同じことをしておられます。

  あなたがたはキリストを命として受け入れた後、とても個人的にキリストを追い求めなければなりません。この事柄では、だれもあなたに替わることはできませんし、何もあなたのためにすることはできません。……すべての信者のキリストとの関係は、個人的で愛情深いものでなければなりません。

 

 追い求める者は、「わたしを引き寄せてください」と言いました[雅1:4]。……わたしたちは、主の個人的で愛情深い行ないである主からの引き寄せを求めます。わたしたちは彼に、個人的で愛情深い方法でわたしたちと共にいていただきたいのです。…… 神はどれほど偉大で、主権があり、全能で、威厳があっても、人との関係を建て上げることを願うとき、個人的で愛情深い方法を取られました。彼は人と成る方法を取られました。(リー全集、1994年―1997年、第3巻(上)、「雅歌の結晶の学び」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第13日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第8週4日)

 

三一の神の四重の力がわたしたちの中へと伝達されています

 

エペソ1:22-23

また神は、万物をキリストの足の下に服従させ、そして彼を万物の上にかしらとして召会に与えられました.この召会は、キリストのからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。

 

「神の超越して偉大な力は、今わたしたちの中へと伝達されつつあります。この力は三一の神の四重の力としての超越したキリストご自身です(Ⅰコリント1:24)。正常で、真実で、正しい、真の召会は、この偉大な四重の力(復活の力、昇天の力、服従させる力、かしらにつり上げる力)から出て来て、彼のからだとしての召会を建造します(エペソ1:19-23)」。

 

 主よ、わたしたちが力をもって、彼の霊を通して、内なる人の中へと増強されますように。主よ、偉大な四重の力がわたしたち召会に伝達されつつあることを感謝します。主よ、四重の力を経験し,享受して召会が建造されますように。

 

 

真の召会は、この偉大な四重の力から出て来て、彼のからだとしての召会を建造します

 

 わたしたちは力をもって、彼の霊を通して、内なる人の中へと増強される必要があります[エペソ3:16]。この「中へと」という言葉は、伝達を示しています。あなたはこの四重の力、すなわち復活の力、超越する力、征服する力、支配する力の神聖な伝達を受けています。エペソ人への手紙第1章で、この力はわたしたちに対してでしたが、第3章で、増強することはこの力をもって、わたしたちの霊の中へと、わたしたちの内なる人の中へとです。増強するためのこの力はわたしたちの内側にあるだけでなく、また天にもあり、わたしたちの中へと伝達されつつあります。

 

 この増強することの結果は、「キリストが……あなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができ」るということです(17節)。キリストはわたしたちの霊の中におられるだけでなく、またパースンとして、わたしたちの内側の全存在に、すなわちわたしたちの心に住まなければなりません。(リー全集、1970年、第2巻(下)、「使徒パウロの二つの最も大いなる祈り」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第12日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第8週3日)

 

コロサイ1:18  そして御子は、召会であるからだのかしらです.彼は初めであり、死人の中から最初に生まれた方です.それは彼ご自身が、万物のうちで第一位となるためです。

 

神の永遠の意図は、すべてのものをキリストの中でかしらにつり上げることです

 

「わたしたちはキリストをわたしたちのかしらとして受け入れ、経験し、享受しなければなりません。わたしたちがキリストの中でかしらにつり上げられるのは、、召会生活の中で進んでかしらにつり上げられることによってであり、命において成長することによってであり、キリストの光の下で生活することによってです(エペソ1:10)」。

 

 主よ、あなたは召会であるからだのかしらです。主よ、わたしたちが命において成長することができますように。そして、主よ、わたしたちが召会生活の中で進んでかしらにつり上げられますように。

 

 

かしらにつり上げられるには、命の中で成長する必要があります

 

 神の永遠の意図は、すべてのものをキリストの中でかしらにつり上げることです。……第一段階は神が彼の選ばれた者、彼の子たちを崩壊から連れ出して、キリストの頭首権の下に置くことです。……ですから、召会生活は、かしらにつり上げられる生活でなければなりません。……今日、召会の中にあるわたしたちは、率先してキリストの中でかしらにつり上げられつつあります。もしわたしたちが進んで召会生活の中でかしらにつり上げられようとしないなら、すべてのものをかしらにつり上げるのを遅らせることになるでしょう。……

 

 召会の中でかしらにつり上げることは命の中の事柄であるのを見ることは重要です。……命の成長なしに、召会の中ですべてのものをかしらにつり上げることは、ただ組織を持つことです。正常にかしらにつり上げることは、命の成長です。あなたは命の中で成長すればするほど、ますます命を持ち、ますますかしらにつり上げることがあり、ますますあなたは崩壊の堆積から救い出されるでしょう。(エペソ人への手紙ライフスタディ(1)、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第11日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第8週2日)

 

キリストの愛がわたしたちに押し迫っています

 

Ⅱコリント14-15

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに押し迫っているからです.そこでこう判断しました.ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです.そして、彼がすべてのために死なれたのは、生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです。

 

「わたしたちはキリストをわたしたちの主として受け入れ、経験し、享受しなければなりません。 キリストの愛はわたしたちに押し迫って、主に生きるようにさせます。主に生きることが意味するのは、わたしたちが完全に彼の制御と指示と管理の下にいるということです」。

 

 主よ、キリストの愛がわたしたちにも押し迫っていることを感謝します。主よ、すべての人のために死なれた主に生きることによって、主を喜ばせることができますように。

 

 

主に生きることによって、主を喜ばせることを目標とします

 

 この世の人々は自分自身に生きています。しかしキリストの愛はわたしたちに押し迫って、自分自身に生きるのではなく、彼に生きるようにさせます。自分自身に生きるとは、わたしたちが自分の制御と指示と管理の下にいること、また自分自身の目的と目標に関心を持つことを意味します。これは自分自身のために生きるだけでなく、自分自身に生きることです。

 

 しかし、円熟し、携え上げられる用意がある使徒たちは、主に生きることによって主を喜ばせることを単一の目標としていました。彼らは絶対的に主の下にいました。彼らは主の指示と制御と管理の下にいました。彼らが行なったすべてのことは、主の目的と願いを成就することでした。そのような人として、彼らは律法に、自分自身に、主以外の何かに生きたのではありませんでした。(コリント人への第二の手紙ライフスタディ(1)、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第10日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第8週1日)

 

霊的な経験における最も高い点は澄み渡る空の上に御座を持つことです

 

エゼキエル1:22,26

……大空のようなものがあり、畏るべき水晶のように輝き、彼らの頭の上に広がっていた。……26  また、……大空の上に御座のようなものがあり、サファイア石の外観のようであった.そして御座のようなものの上に、人のような外観の方がその上におられた。

 

「わたしたちはキリストをわたしたちの王として受け入れ、経験し、享受しなければなりません。わたしたちの霊的な経験における最も高い点は、澄み渡る空とその上の御座を持つことです(エゼキエル1:22, 26-28)」。

 

 主よ、わたしたちがキリストをわたしたちの王として受け入れ、経験し、享受することができますように。主よ、わたしたちが神と人に対して、とがめのない良心を常に持つことができますように。そして、主との間に澄み渡る空とその上の御座を持つことができますように。

 

 

わたしたちクリスチャンは、主に対して澄み渡る空を維持する必要があります

  

[エゼキエル書第1章26節で]生き物の頭の上に、広がっていてしかも安定している澄み渡る大空、澄み渡る空があります。……この澄み渡る空の上に御座が……あります。

 わたしたちクリスチャンは、主に対して澄み渡る空を維持する必要があります。これは、わたしたちが常に彼に対して澄み渡る交わりを持つ必要があることを意味します。……わたしたちと主との間に何の妨げもないとき、わたしたちの空は水晶のように澄み渡ります。そして、わたしたちの良心は純粋で、何のとがめもありません(使徒24:16)。

 

 わたしたちはクリスチャンとして、……とがめのない良心を持つ必要があるという事実に、深く印象づけられる必要があります。罪定めやとがめがわたしたちの良心にあるときはいつも、……わたしたちは自分の失敗と罪を主に告白し、彼の赦しと尊い血の清めを受けるべきです(Ⅰヨハネ1:9,7)。これがわたしたちの良心を清めて、とがめがないようにします。わたしたちは再び澄み渡る空と主との澄み渡る交わりを持ち、わたしたちと彼との間に何の妨げもなくなります。(エゼキエル書ライフスタディ、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第8日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第7週6日)

 

キリストの豊富をもって、主の食卓の集会に来ます

 

ヨハネ4:23-24

……真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父を礼拝する……父はそのように彼を礼拝する者を、捜し求めておられるからである。神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない。

 

「わたしたちは主の食卓の集会に来て、主を記念し、御父を礼拝するときはいつも、わたしたちが日ごとにキリストの上で労することによって産出されるキリストの豊富をもって来なければなりません(申16:15-17)。わたしたちは十分なキリストを産出して、余剰があるようにし、他の人たちと分かち合い、その産物の最上の部分を父なる神にささげて、彼の喜び、歓喜、満足となるようにする必要があります(申15:11.18:3-4)」。

 

 主よ、わたしたちが集会に空手で来ることがないように、わたしたちの手を労苦の産物で満たしてください。そして、主よ、キリストの豊富をもって他の人の必要にも応じ、また、最上のものを主のためにささげることができますように。

 

 

わたしたちは余剰があるようにし、その産物の最上の部分を父なる神にささげます 

 

 わたしたちは集会に来るときはいつでも、来て主を礼拝するときはいつでも、空手で来るべきではないことを認識しなければなりません。わたしたちはキリストの産物で満ちた手をもって来なければなりません。わたしたちは日ごとにキリストの上で労苦して、彼を……産出しなければなりません。わたしたちはわずかばかりのキリストで自分自身の必要を満たすだけでは十分ではありません。わたしたちは十分に主を産出して、他の人たちの……ために余剰のものを残さなければなりません。……

 

 これらすべての上に、余剰の最上の物を主のために残さなければなりません。……わたしたちは勤勉に労苦して、自分自身の必要を満たすのに十分に産出するだけでなく、余剰を得て他の人の必要に応じ、最上のものを主のために残さなければなりません。そのときわたしたちは主に受け入れられ、彼はわたしたちを喜んでくださるでしょう。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より) 


1月の祈り 第7日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第7週5日)

            

わたしたちの集会は、キリストに満ちて豊かにされ、強められます

 

エペソ3:17

またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ、

 

「いつであれわたしたちが共に集まるときは、わたしたちがどのような種類の集会を持つかにかかわらず、わたしたちが経験した余剰としてのキリストをもって来て、神にささげ、全宇宙と敵に展覧し、敵を辱めるべきです(ヨハネ4:23-24.エペソ3:10, 17.4:15)」。

 

 主よ、召会生活がキリストの展覧、キリストの表現となりますように。主よ、わたしたちの状態が失敗だらけでも、集会の中で自分を開いて、兄弟姉妹に自分を担ってもらうことを学ばせてください。

 

 

わたしたちが経験した余剰としてのキリストをもって来て、神にささげ展覧します

 

 わたしたちは正しいクリスチャンの集会を持つために、わたしたちの私的な生活の中で日ごとに主と接触し、生けるクリスチャンにならなければなりません。それから、わたしたちはキリストを展覧しキリストを他の人たちと分かち合うために来るという認識と理解をもって、集会に来なければなりません。この言葉を聞くとき、ある人たちは、自分たちのクリスチャン生活は失敗だらけであって、集会に携えて来るものは何もないと感じるかもしれません。……たとえあなたの状態がこのようであったとしても、それでもなおあなたは集会で機能できることを知らなければなりません。

 

 あなたは集会に来てこのように祈ることができます、「主よ、わたしはあまりにも貧しいです。今週わたしは何度も失敗してしまいました。どうぞわたしを赦してください。またわたしをあわれんでください……」。あなたが集会に来て、このように祈るなら、聖徒たちの多くは深く感動して、涙を流すかもしれません。……また集会の中で自分自身を聖徒たちに対して開いて言うことができます、「兄弟姉妹、どうぞわたしのために祈ってください。わたしはクリスチャン生活を生きようと試みましたが、何度も失敗しました。どうぞわたしのために祈ってください」。もしあなたが自分の失敗を集会に携えて来て、自分自身を主とからだに対して開くなら、あなたの失敗は消え去るでしょう。(リー全集、1963年、第4巻(上)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第6日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第7週4日)

 

キリストの豊富を持って来て、召会の中でキリストを展覧します

 

Ⅰコリント14:26

それでは兄弟たちよ、どうなのですか? あなたがたがいつも集まるときには、それぞれの人に詩歌があり、教えがあり、啓示があり、異言があり、解釈があります。すべての事を、建造のために行ないなさい。

 

 「もしわたしたちがすべてを含むキリストの上で忠信に労[苦]するなら、わたしたちは産物としてのキリストの豊富を持ち、召会の中でキリストを展覧します(エペソ3:8.Ⅰコリント14:26)。クリスチャンの正しい生活は、毎日キリストの上で労[苦]してキリストの豊富な余剰を持ち、集会にもたらして、キリストを豊かに展覧することです(Ⅰコリント14:26)」。

 

 主よ、わたしたちの召会生活が、毎日キリストの上で労苦する生活でありますように。そして、主よ、すべての兄弟姉妹がキリストの豊富な余剰を持って集会に来て、ささげることができますように。

 

 

キリストの上で労苦して、キリストの豊かな余剰を集会にもたらして、キリストを展覧します

 

 神の民の生活は、第一にキリストの上で労苦する生活です。第二に、それはキリストの何かを持ち、集会に携えて来て、ささげ、与える生活です。クリスチャンの正しい生活は、いつもキリストの上で労苦することです。こうして、彼らはキリストの豊かな余剰を持ち、集会にもたらして、キリストを豊かに展覧します。わたしたちは、神と神の敵に対してキリストを展覧します。

 

 イスラエルの子たちは年に三度、三つの祭りのために、……エルサレムに来なければなりませんでした。彼らは最上の余剰を集会の天幕に携えて来て、神を礼拝しました。わたしたちもキリストの最上の余剰を召会の集会に携えて来て、霊と実際の中で神を礼拝しなければなりません(ヨハネ4:24)。(リー全集、1965年、第2巻(下)、「召会の内容としてのキリストとキリストの表現としての召会」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第5日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第7週3日)

      

わたしたちは日々霊を活用し、キリストの中で歩きます

 

ローマ8:4

それは律法の義の要求が、肉にしたがってではなく、霊にしたがって歩くわたしたちにおいて、満たされるためです。

 

「わたしたちの霊を活用することは、キリストの上で労[苦]し、キリストを経験し、キリストを産出することのかぎです(Ⅰテモテ4:7)。キリストの上で労[苦]する道は、わたしたちの霊を活用して、良き地としてのすべてを含むキリストの実際であるその霊に触れることです(ガラテヤ3:14)」。

 

 主よ、わたしたちの霊を活用して、キリストの上で労苦することができますように。一日中、あらゆる状況、すべての環境において霊を活用して、主を経験することができますように。

 

 

キリストの上で労苦して、キリストによって生き わたしたちの霊を活用してキリストを供給します

 

 わたしたちはみな、どのようにわたしたちの霊を活用してキリストを供給し、キリストを適用し、キリストを他の人たちと分かち合うのかを学ばなければなりません。これは、わたしたちの日々の労苦にかかっています。もしキリストの上で労苦せず、キリストによって生きないなら、わたしたちは手にキリストを何も持たないでしょう。… わたしたちが集会に来るとき、わたしたちの霊は積極的で、活発であり、生き生きしているかもしれませんが、わたしたちは貧しく、空手であり、供給するキリストを何も持っていないかもしれません。

 

 召会生活は、わたしたちが日々霊を活用すること、また日々キリストの中で歩くことにかかっています。わたしたちはキリストの上で労苦し、キリストの中で歩き、キリストによって生き、キリストの経験を多く持たなければなりません。そうすれば、わたしたちはキリストの中で、またキリストをもって豊かであるでしょう。わたしたちは集会に来るとき、どのように霊を活用するかを知り、わたしたちにはキリストの余剰が多くあるでしょう。(リー全集、1964年、第4巻(上)、「集会において、また福音において仕える」、第1編

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第4日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第7週2日)

 

集会に集まるとき、わたしたちは神と協力して得た産物を持って来ます

 

ローマ15:16

それは、わたしが異邦人へのキリスト・イエスの奉仕者となり、神の福音の労苦する祭司となるためであって、ささげ物である異邦人が聖霊の中で聖別されて、受け入れられるためです。

 

「わたしたちは地としてのキリストの上で労[苦」して、キリストを産出する必要がありますが、キリストを産出するのはわたしたちではなく、わたしたちの労苦を通してキリストがわたしたちの中でご自身を産出することを、わたしたちは認識する必要があります(ピリピ2:13.エペソ3:17.コロサイ3:15-16)」。

 

 主よ、わたしたちが神の福音の労苦する祭司となりますように。主よ、わたしたちの労苦を通して得たキリストご自身を、集会に持って来ることができますように。

 

 

わたしたちの労苦を通して、キリストがわたしたちの中でご自身を産み出されます

 

 [旧約で]神は彼のすべての民を招いて共に来させましたが、神は調理されませんでした。……神が彼らに食物を与えられたのは、日光、空気、雨を一年中送ることによってでした。……すべての物は送られましたが、彼らは神と協力して産物を得る必要がありました。そしてその産物は十分の一となり、その十分の一をもたらして神の招きに答えました。あらゆる人は神の家に招かれました。あらゆる人が家に来て御父に食べていただき、彼を満足させました。これは何と幸いな時であったでしょう!                  

 

 わたしたちは共に来るとき、このようにキリストをもって来るべきです。……あなたがどれほど多くのキリストを集会にもたらすかは、どれほど多くのキリストを産出し、どれほど多くキリストを成長させたかにかかっています。……実は、キリストを産出するのはあなたではなく、あなたの労苦を通してキリストがキリストご自身を産出されるのです。……わたしたちは集会に来る前、キリストの上で労苦していなければなりません。(召会の集会のためにキリストをささげ物として経験する、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第3日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第7週1日)

 

カナンの良き地としてのキリストの上で労[苦]する必要があります

 

コロサイ1:12

光の中で、聖徒たちに割り当てられた分け前にあずかるようにと、あなたがたを資格づけてくださった御父に、感謝をささげるように。

 

「わたしたちはキリストにある信者として、カナンの地によって予表される良き地としてのキリストの中へと、キリストによって導き入れられたので、キリストの上で労苦する必要があります(Ⅰコリント1:30.コロサイ1:12)」。

 

 主よ、わたしたち一人一人に良き地の分け前が割り当てられていることを感謝します。主よ、わたしたちがキリストの上で労苦して、勤勉に主を経験し享受することがきますように。

 

 

自分に割り当てられたその地の上で進んで労苦します

 

 わたしたちの必要は、どのようにキリストを享受し、経験するかを学ぶことです。神はわたしたちをキリストの中に入れました。イスラエルの子たちはカナンの地へと入り、一人一人にその地の分け前が割り当てられました。彼らがその地の上で進んで労苦していた(労していた)かどうかは、厳粛な事柄でした。もしあるイスラエル人が怠惰で、朝早く起きて勤勉に労苦しなかったなら、彼の土地の一区画は荒廃し、彼は年末に収穫物を得ないでしょう。ペンテコステの祭り、あるいは仮庵の祭りの時に、他の人々は産物の束を携えて神を礼拝しますが、彼は空手であったでしょう。……

 

 同様に、信者として、わたしたちはそれぞれキリストの分け前を持っています。……もし朝わたしたちが主に近づかず、一日中彼と語らず、彼を享受せず、経験しないなら、わたしたちは非常に貧しくなるでしょう。しかしながら、朝わたしたちが主を享受し、一日中、特に困難な時に主を経験することによって、勤勉に励んで主と交わるなら、わたしたちは内側にキリストの要素を持ちます。(リー全集、1970年、第3巻(下)、「宗教的な儀式から救い出されて、霊にしたがって歩く」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


1月の祈り 第1日

(朝ごとの食物 神の必要と主の回復における現在の必要に応じる(2) 第6週6日)

 

人の罪、欠点、短所を覆う人は、祝福を受けます

 

詩32:1

幸いです、その違反が赦され、その罪が覆われている者は。

 

Ⅰコリント13:4-5

愛は辛抱強く、愛は親切で、ねたみません。愛は誇ることがなく、思い上がることもありません.それは無作法をしません.また自分の利益を求めません.それはいらだちません.また人の悪を数えたてません。

 

「人の罪、欠点、短所を覆う人は、祝福を享受し、得て、受けます。しかし、暴露することは、のろいをもたらします(箴10:12.ヤコブ5:19-20.創9:21-27)。愛はすべてを覆います。良い事だけでなく、悪い事も覆います。召会の肢体の欠点、短所、罪を暴露する人はすべて、長老となる資格がありません(参照、マタイ24:49)」。

 

 主よ、わたしたちを神聖な愛で満たしてください。主よ、わたしたちが人の罪、欠点を暴露しないで、覆う者となることができますように。

 

 

覆うことは祝福をもたらし、暴露することはのろいをもたらします

 

 ほとんどすべての人は、良い人を愛しますが、……もしある兄弟が真理からそれて、宗派に参加したり、映画に行ったりするなら、わたしたちの小組は、… 彼を必要としないと感じ、彼には資格がないので彼を受け入れないかもしれません。これは愛ではありません。これは憎しみです。愛は多くの罪を覆います。……暴露することは、愛ではありません。憎しみは争いを引き起こしますが、愛はすべての罪を覆います[箴10:12]。わたしたちはむしろ、泥酔のゆえに裸であった父を覆ったノアの子たちのようでありたいのです。……

 

 覆うことは祝福をもたらしますが、暴露することはのろいをもたらします。これは小さな事柄ではありません。暴露する者はのろいに苦しみますが、人の罪、欠点、短所を覆う者は祝福を享受し、得て、受けます。ヤコブの手紙第5章20節の「おびただしい罪を覆う」は、ヤコブが使った旧約の表現であり、過ちを犯している兄弟を戻すことは、彼が罪定めされないように彼の罪を覆うことであることを示します。ここの「罪を覆う」は、15節の「罪……赦されます」と等しいのです。それは詩篇第32篇1節……[と]第85篇2節と同じです。(同労者、長老、主を愛する者、主を追い求める者に対する愛の言葉、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)