朝ごとの食物

良い戦いを戦い、行程を走り終え、その信仰を守り通し、主の出現を愛して、義の冠としてのキリストの褒章を受ける(国際華語特別集会 第2週6日~第5週)


キリスト・イエスにある恵みの中で力づけられて、尊いことに用いられる器、十分に装備された神の人となって、神のエコノミーの唯一の務めの中でわたしたちの務めを十分に果たす(国際長老責任者集会 第1週)


6月の祈り第29日

(国際長老責任者集会 第1週6日)

 

霊に付けた思いは命と平安です

 

ローマ8:6

肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。

 

ヘブル4:12

なぜなら、神の言は生きていて効力があり、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思考と意図を識別することができるからです。

 

「わたしたちの霊を活用すること、すなわち、神が賜わったわたしたちの霊を再び燃え立たせることは、わたしたちの霊を魂から識別することです(ヘブル4:12)。わたしたちは常に警戒して、霊からでなく魂(自己)から出ているものをすべて識別し、拒絶すべきです(マタイ16:25.参照、ルカ9:25)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の言は生きていて効力があることを感謝します。わたしたちの霊を活用して、純粋な心で主を呼び求める人たちと共に、キリストを追い求めることができますように。

 

 

神の言は生きていて効力があり、心の思考と意図を識別します

 

 あなたの思いを「暴れ馬」のようにさせてはいけません。思いは魂の大きな部分です。また魂は外側の肉と内側の霊の間にあります。… わたしたちの霊を再び燃え立たせた後、わたしたちの思いを霊に付けることを学ばなければなりません。思いはとても「話し好き」です。… わたしたちの思いを統治しなければ、短時間のうちに想像の中で世界中をさまようでしょう。… こういうわけで、わたしたちは思いを霊に向けなければなりません。このようにすれば、わたしたちは主に向かって歌い、主を賛美し、主を語り出すことでしょう。

 

 ヘブル人への手紙第4章12節で「識別する」という言葉が使われています。… 実にしばしば、わたしたちの思考は欺きます。しかし、もし霊を活用するなら、わたしたちの思考が邪悪であることを識別することができます。思考が邪悪であるのは、思考の背後に邪悪な意図があるからです。心の思考と意図を識別することは、魂と霊を切り離すことに等しいのです。… 敵の策略は常に、魂と霊を混合することです。今日の世界において、ほとんどすべての人は混合の状態にあります。… そのような混合があるときはいつでも、霊は敗北し、魂が勝利します。 (「わたしたちの霊を伴うその霊」、第8章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第28日

(国際長老責任者集会 第1週5日)

 

わたしたちが賜わったのは、力と、愛と、冷静な思いとの霊です

 

Ⅱテモテ1:7

というのは、神がわたしたちに賜わったのは、臆する霊ではなく、力と、愛と、冷静な思いとの霊であるからです。

 

「わたしたちは霊を活用するために、わたしたちの霊を取り巻く魂の各部分、すなわち、わたしたちの思い、感情、意志を対処しなければなりません(参照、Ⅰペテロ3:4:1)。力の霊は、服従させられ復活させられた意志を伴う霊です。愛の霊は、愛としての神で満たされた感情を伴う霊です。冷静な思いの霊は、新しくされた思いを伴う霊です(Ⅱテモテ1:7)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが自分の意志、感情、思いを対処して、力の霊、愛の霊、冷静な思いの霊を持つことができますように。わたしたちが霊を活用して、いつも喜び、絶えず祈り、あらゆることで感謝することができますように。

 

 

人の霊を対処することは、霊そのものではなく、霊を取り巻く魂の部分のすべてを対処することです

 

[テモテへの第二の手紙第1章7節]はとても興味深いのです。三つの項目が述べられています。それは力、愛、冷静な思いです。… これは、魂が完全にわたしたちの霊を取り巻いているからです。… 第一に、わたしたちの「意志」は霊によって服従させられて、従順にならなければなりません。… わたしたちの意志は霊の統治の下にあってはじめて、強力で力強くなることができます。…  しかしながら、霊がわたしたちの意志を服従させ、それを主に対して従順にならせる多くの時、わたしたちはとても冷たくなります。ですから、わたしたちは均衡として愛を必要とします。わたしたちは力の霊を必要とするだけでなく、愛の霊も必要とします。……愛は「感情」の事柄です。……わたしたちは感情的になった後、再び均衡がとられる必要があります!  

 

 今やわたしたちは「冷静な思い」の霊を持たなければなりません。… 愛だけならわたしたちを愚かに盲目にし、わたしたちを暗やみの中へともたらしさえします。ですから、わたしたちは均衡がとられ、愚かに愛するのではなく、明確に、適切に、冷静に、健全な思いをもって愛します。… ですから、霊を対処することは、霊そのものを対処するという事柄ではなく、それを取り巻く魂の部分のすべてを対処するという事柄です。(「ストリーム誌――第1巻」、ページ302-306[英文])

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第27日

(国際長老責任者集会 第1週4日)

 

わたしたちの霊を活用して、わたしたちの霊を再び燃え立たせます

 

Ⅱテモテ1:6-7

……わたしの按手を通して与えられているあなたの内にある神の賜物を、再び燃え立たせることです。というのは、神がわたしたちに賜わったのは、臆する霊ではなく、力と、愛と、冷静な思いとの霊であるからです。

 

「神聖な三一の神聖な分与を受け、この分与の経路となって、聖徒たちが命において成長してキリストを享受するようにさせるためのかぎは、わたしたちの霊を活用すること、すなわち、神が賜わったわたしたちの霊を再び燃え立たせることです(ピリピ1:25.Ⅰテモテ4:7-8.Ⅱテモテ1:6-7.4:22.使徒6:10.Ⅰコリント14:32)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 神がわたしたちが賜わったのは、臆する霊ではなく、力と、愛と、冷静な思いとの霊であることを感謝します。わたしたちが毎朝、最初に「おお、主イエスよ」と言って、霊を活用する習慣を建て上げることができますように。

 

 

さらに深く心と霊をもって口を開き、「おお、主イエスよ」と言います

 

 今やわたしたちは、わたしたちの霊の重要性を見たので、わたしたちの霊を活用することを見たいと思います。わたしたちは霊を活用する習慣を建て上げなければなりません。朝、わたしが自然に言う最初の言葉は「おお、主よ」です。「おお、主よ」と言って主を呼び求めることは、わたしたちの霊を活用する習慣です。……[それは]大きな違いを生じます。

 

 あなたは何も言わずに朝起きるなら、真に主に触れることなくお決まりの方法で祈るかもしれません。これはあなたの霊を活用していないからです。わたしたちは「おお、主よ」と言う習慣を建て上げなければなりません。わたしたちは「おお、主よ」と言うとき、主に触れるのです。これはわたしたちの霊を活用する習慣です。… より深く心から口を開いて、「おお、主イエスよ」と言わなければなりません。そしてさらに深く心と霊をもって口を開き、「おお、主イエスよ」と言う必要があります。これは内側の深みから霊を開くことです。そうすれば火が燃え上がります。(「わたしたちの霊を伴うその霊」、第8章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第26日

(国際長老責任者集会 第1週3日)

 

人の霊によって支配され統治されている人が、霊の人です

 

ローマ8:16

その霊ご自身、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供たちであることを、証ししてくださいます。

 

Ⅰコリント2:15

しかし霊の人は、すべての事柄を識別しますが、彼自身はだれにも識別されません。

 

「人の存在の中央政府また最も重要な部分は、人の霊であるべきです。人の霊によって支配され統治されている人が、霊の人です(Ⅰコリント2:14-15.3:1.14:32.Ⅱコリント2:12-15.エペソ3:16)。神聖な霊がわたしたちの人の霊の中に住んでいること、二つの霊が共にミングリングされて一つ霊、すなわちミングリングされた霊になっていることは、神のエコノミーの戦略的な中心点です(ヨハネ3:6.4:24.ローマ8:16.Ⅱコリント3:17.Ⅱテモテ4:22.Ⅰコリント6:17)。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神聖な霊がわたしたちの人の霊の中に住んでいることを感謝します。主よ、わたしたちが日ごとの生活の中で、目を覚まして継続的に祈り、わたしたちの魂の内なる部屋がすべて、霊によって統治されますように。

 

 

継続的な祈りだけがわたしたちを霊の中に保ちます

 

 もしわたしたちが目を覚まして祈っていないなら、神のエコノミーの目標、すなわち、わたしたちの霊の中に住んでおられるその霊としてのキリストを見逃すでしょう。……ただわたしたちの霊に戻ることによってのみ、わたしたちはキリストにしたがって歩き、存在することができます。わたしたちは個人的な歩みにおいて、目を覚まして祈る必要があります。またわたしたちは他の人たちと一緒にいるとき、わたしたちの霊の中の命の感覚を顧慮することによって、わたしたちの霊の中で生きる必要があります(参照、ローマ8:6)。……継続的な祈りだけがわたしたちを霊の中に保ちます[Ⅰテサロニケ5:17]。

 

 今日、神の霊、三一の神のすべてを含む霊は、わたしたちの再生された人の霊の中に住み、わたしたちの霊の中で働いておられます。これら二つの霊は一です。それらは一つのミングリングされた霊として共に生き、働き、存在しています。……わたしたちの霊にしたがって歩くことは、信者に対する聖書の中の究極的な命令と考えられるでしょう。(リー全集、1979年、第1巻(上)、「奉仕者との交わり」、第25編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第25日

(国際長老責任者集会 第1週2日)

 

人は神によって霊のあるものに創造されました

 

創2:7

そして、エホバ・神は土のちりで人を形づくり、その鼻の中に命の息を吹き込まれた.すると人は生きた魂となった。

 

ゼカリヤ12:1

……天を延べ、地の基を据え、人の霊をその中に形づくられたエホバはこう告げられる。

 

「神の当初の意図の「青写真」において、人は全宇宙の中心であり、人の中心は人の霊です(ゼカリヤ12:1.創2:7.箴20:27)。天は地のためであり、地は人のためであり、人は神によって霊のあるものに創造されました。それは、人が神と接触し、神を受け入れ、神を内容とし、神を礼拝し、神を生き、神のために神の定められた御旨を成就し、神を表現し、神と一になるためです(ヨハネ4:24.Ⅰコリント6:17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。人の中に、人の霊をその中に形づくられた主に感謝します。神は霊ですから、わたしたちが霊の中で神と接触し、神を礼拝し、神と一になることができますように。

    

 

わたしたちの人の霊に完全な注意を払います

 

 天は地のためであり、地は人のためであり、人は神によって霊のあるものに創造されました。それは、人が神と接触し、神を受け入れ、神を礼拝し、神を生き、神のために神の定められた御旨を成就し、神と一になるためです。神のエコノミーにおいて、神はキリストを地上での彼の行動の中心性また普遍性とすることを計画されました。彼の選びの民が創造主また贖い主としての彼に関心を持つために、彼は受け入れる器官を創造して、神が計画したキリストであるすべてを、人が受け入れる能力を持つようにする必要がありました。

 

 ですから、[ゼカリヤ書]はわたしたちに、わたしたちの人の霊に完全な注意を払うようにと命じるのです。それは、わたしたちが本書で啓示されているキリストを受け入れ、その中で彼について啓示されているすべてを理解するためです(エペソ1:17-18前半.3:5)。(ゼカリヤ12:1、フットノート2)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第24日

(国際長老責任者集会 第1週1日)

 

神のエコノミーを成就するために、わたしたちの霊を活用する習慣を建て上げます

 

Ⅰテモテ1:3-4

わたしがマケドニアへ出発する時あなたに勧めたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人たちが異なる事を教えたり、作り話や果てしのない系図に、心をとめたりすることがないように命じなさい.そのようなものは信仰の中にある神のエコノミー[経綸]ではなく、むしろ論議を引き起こすだけです。 

 

「神のエコノミーは、ご自身をわたしたちの存在の中へと分与して、わたしたちの存在が彼の存在をもって構成されることです。この事は、神がご自身を神聖な命としてわたしたちの中へと分与することによってのみ完成されることができます(ヨハネ10:10.14:6前半.Ⅰコリント15:45後半.ローマ8:2,6,10-11)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。信仰の中にある神のエコノミーを感謝します。あなたが来られたのは、わたしたちが命を得、しかも豊かに得るためです。神聖な命が豊かに分与されるために、わたしたちが自分の霊を力強く活用することができますように。                                       

 

 

神の分与は、わたしたちの協力、わたしたちの霊を活用することにかかっています

 

 テモテへの第一の手紙は神のエコノミーを取り扱っています。パウロの時代、ある人は神のエコノミー以外の異なる事柄を教えていました。パウロは、これらの異なる教えをすべてわきに置いて、神のエコノミーに戻って来るようわたしたちに告げました。神のエコノミーとは、神の家庭の行政、ご計画であり、ご自身をわたしたちの中へと分与することです。神の分与は敬虔な生活を生み出します。

 

 そのような神の分与から生み出される敬虔な生活は、わたしたちの霊を活用することにかかっています。…… もしわたしたちが力強く自分の霊を活用して主と協力することをしないなら、神はご自身をわたしたちの中へと分与することができません。わたしたちの霊は受け入れる器官、すなわち、保持する器官であるだけではなく、神の分与のための開口部です。わたしたちの霊が広く開かれるとき、わたしたちの全存在が開きます。そのとき、神はご自身をわたしたちの中へと分け与える道を持たれます。神の分与はわたしたちの協力にかかっており、そしてわたしたちの協力はわたしたちの霊を活用することです。(リー全集、1979年、第1巻(上)、「命についての基本的学課」、第18課)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第22日

(国際華語特別集会 第5週6日)

 

あなたの主人の喜びの中に入りなさい

 

マタイ25:21

……よくやった、良い忠信な奴隷よ。あなたはわずかな事柄に忠信であった.わたしはあなたに多くの事柄を管理させよう。あなたの主人の喜びの中に入りなさい。

 

「勝利を得た信者たちは、天的王国、すなわち天の王国の実現にあずかります。マタイ7:21)。勝利を得た信者たちは、彼らの御父の王国で、旧約の勝利者たちと共に食卓に着きます(8:11)。天的王国で、勝利者は永遠の命を受け継ぎ、こうして神聖な命のさらに満ち満ちた享受を持ちます(ルカ18:29-30)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちを良い忠信な奴隷とならせてください。そして、わたしたちが天の王国の実現にあずかり、わたしたちの主人の喜びの中に入ることができますように。

 

 

来たるべき王国は、勝利者にとって喜びをもって受け継ぐ嗣業となります

 

 勝利を得た信者たちは彼らの御父の王国で、旧約の勝利者たちと共に食卓に着きます。主イエスは、マタイによる福音書第8章11節でこのことについて語っておられます、「わたしはあなたがたに言う.多くの者が東からも西からも来て、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に食卓に着く」。これは、天の王国の実現のことを述べています。勝利を得た異邦人信者たちが、アブラハム、イサク、ヤコブを含む旧約の勝利者たちと共に食卓に着くのは、王国の実現においてです。……

 

 コリント人への第一の手紙第6章10節後半で、パウロは神の王国を継ぐことを語っています。この節の「継ぐ」という言葉は、享受を暗示しています。……来たるべき王国は、勝利者にとって喜びをもって受け継ぐ嗣業となります。マタイによる福音書によれば、王国の実現は勝利を得た聖徒にとって、主と共に享受する褒賞となります。……これは、わたしたちが勝利の命を生きるようにとの奨励となるでしょう。今日、勝利の命を生きることによって、わたしたちは資格づけられ、来たるべき王国を褒賞として継ぐでしょう。(新約の結論(11)、メッセージ186)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第21日

(国際華語特別集会 第5週5日)

 

勝利者たちは、天的王国、すなわち天の王国の実現にあずかります

 

Ⅱテモテ4:18

主はわたしをあらゆる邪悪な働きから救い出して、彼の天的王国へと救ってくださいます.その方に、栄光が永遠にわたってありますように。アーメン。

 

マタイ7:21

わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者がみな、天の王国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者だけが……

 

「主はわたしを……彼の天的王国へと救ってくださいます」(Ⅱテモテ4:18)。勝利を得た信者たちは、天的王国、すなわち天の王国の実現にあずかります(マタイ7:21)。勝利者は「義人」、王国の子たちであって、彼らの御父の王国で太陽のように輝きます(13:43)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちを主の天的王国へと救ってくださることを感謝します。そのために、わたしたちが主を呼び求めて、天の父のみこころを行なう者となることができますように。そして、天の王国の実現にあずかることができますように。

 

 

主を呼び求めて、天の父のみこころを行なう者だけが、天の王国に入ります

 

 テモテへの第二の手紙第4章18節の……天的王国は、「彼らの父の王国」(マタイ13:43)、「わたしの父の王国」(マタイ26:29)、「キリストと神との王国」(エペソ5:5)、「わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国」(Ⅱペテロ1:11)であって、それは勝利を得た聖徒たちへの褒賞となります。それはテモテへの第二の手紙第4章8節の義の冠と等しく、また天のレースを走る信者たちへの奨励です。パウロには、この天的王国へと救われるという勝利の宣言をする確信がありました。(「テモテへの第二の手紙ライフスタディ」、第8編)

 

 天の王国に入るために、わたしたちは二つの事、すなわち主を呼び求めることと、天の父のみこころを行なうことをする必要があります。主を呼び求めることは、わたしたちが救われるのに十分です(ローマ10:13)。しかし天の王国に入るためには、天の父のみこころを行なう必要があります。ですから、「主よ、主よ」と言う者がみな、天の王国に入るのではなく、主を呼び求めて天の父のみこころを行なう者だけが入るのです。(マタイ7:21、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第20日

(国際華語特別集会 第5週4日)

 

金が織り込まれた衣と、刺繍された衣が必要です

 

詩45:13-14

王の娘は王の住まいの内にいて栄光を極め、彼女の衣は織った物であり、金が織り込まれています。彼女は刺繍された着物を着て王の所に導かれ……

 

「義のこれら二つの面は、詩篇第45篇13節から14節にある王妃の二つの衣によって予表されています。一つの衣は客観的な義に相当し、それはわたしたちの救いのためです――「彼女の衣は織った物であり、金が織り込まれています」(13節後半)。もう一つの衣は主観的な義に相当し、それはわたしたちの勝利のためです――「彼女は刺繍された着物を着て王の所に導かれ……ます」(詩45:14前半.参照,啓19:8.マタイ22:11-12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが主イエスを信じた時に、第一の衣、金が織り込まれた衣を着せられたことを感謝します。さらに、聖霊の刺繍する働きの下で造り変えられて、第二の衣を持つことができますように。

 

 

第二の衣、刺繍された着物は、聖霊の刺繍する働きの下で用意されます

 

 詩篇第45篇の王妃は召会を表徴します。彼女の第一の衣は「金が織り込まれ」たものであり、第二の衣は「刺繍された着物」です。聖書では、金は神の神聖な性質を表徴します。わたしたちは救われた時、神の御前に出ることができる金の衣を受けました。これに加えて、もう一枚の衣、刺繍された着物が必要です。この刺繍は、聖霊の造り変える働きを表徴します。  ……わたしたちは第一の衣を持っていますが、わたしたちの第二の衣は今、聖霊の刺繍する働きの下で用意されつつあります。この衣はわたしたちに、彼の裁きの座でキリストにまみえる資格を与えるでしょう。日ごとに、わたしたちは聖霊の針、造り変えの下にあります。わたしたちは何とこの第二の衣を必要とすることでしょう! これは厳粛な事柄です。

 

 しかしながら、この事柄がこれほど厳粛であるのに、ほとんどのクリスチャンは第一の衣しか顧慮しません。…… 救いに関する限り、あなたは良いでしょうが、褒賞についてはどうでしょうか? あなたは義認だけでなく、是認も必要とします。あなたがキリストの裁きの座の前に出る時、主はあなたを是認されるでしょうか? …… 聖霊の刺繍する働きによって生み出される第二の衣を持つ者だけが、選ばれて、小羊の婚宴に参加する資格があるのです。(「啓示録ライフスタディ(3)」、第54編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第19日

(国際華語特別集会 第5週3日)

 

この時代に彼をわたしたちの主観的な生かし出された義として経験し、享受します

 

ピリピ3:9

そして、キリストの中に見いだされるためです.それは、律法に基づくわたし自身の義を持つのではなく、キリストにある信仰を通しての義、すなわち、信仰に基づく神からの義を持って、

 

「わたしたちは、次の時代に義の冠としてのキリストを褒賞として与えられるために、この時代に彼をわたしたちの主観的な生かし出された義として経験し、享受しなければなりません(ピリピ3:9)。キリストが信者たちに与えられた義であることには二つの面があります」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがキリストの中へと信じた時に、客観的に義とされたことを感謝します。また、あなたはわたしたちの中へと入って、わたしたちの命また命の供給となって、ご自身をわたしたちから生かし出して、わたしたちの主観的な義となってくださいます。主よ、この道を歩むことができるように、わたしたちを守ってください。

 

 

キリストはご自身をわたしたちから生かし出され、主観的に義とされます

 

 キリストが神から信者たちに与えられた義であることには二つの面があります。第一の面は、キリストが信者たちの義であり、それは彼らが神へと悔い改め、キリストの中へと信じた時に、神の御前で客観的に義とされるためです(ローマ3:24-26.使徒13:39.ガラテヤ3:24後半、27)。詩歌237番の1節は言います、「神のキリストはわたしの義、わたしの美しさ、わたしの栄光の衣です」(全訳)。キリストは、神が与えられたわたしたちの美しさであり、わたしたちの衣服、わたしたちの栄光の衣としてわたしたちに着せられています。これは外側の、客観的なものです。

 

 第二の面は、キリストが信者たちの義であって、神の現れとして彼らから生かし出されることです。神はキリストの中で信者たちに与えられた義であり、それは彼らが神によって主観的に義とされるためです(ローマ4:25.Ⅰペテロ2:24前半.ヤコブ2:24.マタイ5:20.啓19:8)。…  キリストはわたしたちに与えられて着せられた時、わたしたちの中へと入ってわたしたちの命また命の供給となり、ご自身をわたしたちから生かし出されました。この生かし出すことは、キリストにある神の現れです。これは神の目に喜ばしいことです。確かに、神はわたしたちを、ただ客観的にだけでなく、主観的に義とされます。(リー全集、1994年―1997年、第1巻(下)、「ローマ人への手紙における結晶の学び」、第5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第18日

(国際華語特別集会 第5週2日)

 

召会の勝利の標準を維持するために、神を愛する者となります

 

ヤコブ1:12

試練を耐え忍ぶ人は幸いです.なぜなら、試されて良しと認められた者は、主がご自身を愛する者たちに約束された命の冠を受けるからです。

 

「わたしたちは召会の勝利の標準を維持するために、神を愛する者となって神のエコノミーを成就しなければなりません。主はご自身を愛する者たちに、命の冠を与えることと王国を相続することを約束しています(ヤコブ1:12.2:5)。朽ちない冠は、栄光と美の象徴であり、主の救いに加えて、クリスチャンのレースの勝者に賞として与えられます(Ⅰコリント9:25.Ⅰペテロ5:4.イザヤ28:5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは戻って来られるときに、恵み深い贖い主としてではなく、義なる裁き主として来られます。主よ、わたしたちが自らを準備してこの裁き主の御前に立つことができるようにしてください。わたしたちが信仰において富む者となり、王国の相続人となることができますように。

 

 

主イエスが戻って来るとき、義なる裁き主として来られます

 

 今日クリスチャンの間では、主の再来に関して多くの話があります。しかし、主イエスが戻って来るとき、あわれみ深い神として、あるいは恵み深い救い主としてではなく、義なる裁き主として来られることを認識している信者は多くありません。クリスチャンは、自らを準備してこの裁き主の御前に立つようにと警告され、励まされるべきです。わたしたちの間の多くの人がこの暗い時代に負担を取り上げて、そのような厳粛な命令を主の民にもたらすことを、わたしは望みます。

 

 わたしたちはみな神の御前と主イエス、すなわち生きている者と死んだ者を裁く方の御前で、この命令を受ける必要があります。主は戻って来るとき、すべての、信者と未信者の両方の裁き主となられるという事実を、わたしたちは宣言しなければなりません。マタイによる福音書第25章によれば、主のしもべたちはみな彼に清算をしなければなりません。主は「よくやった、良い忠信な奴隷よ」(21節)と言われるか、「邪悪で怠惰な奴隷よ」(26節)と言われるかのどちらかです。主は義の中で、わたしたちが褒賞を受けるかどうかを決定されます。…… わたしたちがみなこの厳粛な警告に注意しますように。(「テモテへの第二の手紙ライフスタディ」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第17日

(国際華語特別集会 第5週1日)

 

主の出現、主の再来は、わたしたちに対する警告、励まし、奨励です

 

Ⅱテモテ4:1

わたしは神の御前と、……キリスト・イエスの御前で、彼の出現と彼の王国によって、厳かにあなたに命じます。

 

Ⅱテモテ4:7-8

わたしは良い戦いを戦い抜き、行程を走り終え、その信仰を守り通しました。今からは、義の冠がわたしのために用意されているのです.かの日には、義なる審判者である主が、それをわたしに授けてくださいます.……

 

「わたしたちはキリストをわたしたちの王国の褒賞として享受するために、主の出現を愛して(慕って)いなければなりません。主の出現とは、今日わたしたちに対する彼の出現また現れであり、また彼の再来の時に彼の民と共にある彼の臨在です。この事は、狭められた道にとどまり、命において目を覚まし、奉仕において忠信であり、キリストの花嫁として構成されることによってです(Ⅱテモテ4:7-8.使徒26:16.ローマ8:19.Ⅰテサロニケ5:23.Ⅱテサロニケ1:10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちは主の出現と彼の王国を待ち望みます。主よ、わたしたちが主に対する初めの愛を失うことがないように守ってください。

 

 

主の出現、主の再来を愛し、切なる期待と喜びをもって待ち望みます

 

 [テモテへの第二の手紙第4章1節の]この言葉は、主の出現と彼の王国が、パウロの生活と働きにおける奨励と目標であったことを証明します。主の出現は、わたしたちを裁いて、それぞれに報いるためです(マタイ16:27.啓22:12)。そして王国は、彼が勝利者たちと共に王として支配するためです(啓20:4、6)。使徒は、これら二つの事柄を、自らの奨励と目標としただけではなく、これら二つの事柄によって、自分の導きの下にあったテモテに、言葉の務めを忠実に果たすよう命じました。(Ⅱテモテ4:1、フットノート2)

 主の出現、主の再来は、わたしたちに対する警告、励まし、奨励です。わたしたちはそれを愛し、切なる期待と喜びをもって待ち望むべきです。(Ⅱテモテ4:8、フットノート5)

 

 召会の勝利における栄光の日がもたらされるか、召会の衰退の悲しむべき日々がもたらされるかは、わたしたちの心を何の上に置くか、完全に、わたしたちが何を愛する者であるかにかかっています。歴史は、召会の衰退の根源が主に対する初めの愛を失ったことにあると告げています(啓2:4)。わたしたちは召会の勝利の標準を維持するために、神を愛する者とならなければならず、また神のエコノミーに属する善を愛する者でなければなりません。(「テモテへの第二の手紙ライフスタディ」、第5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第15日

(国際華語特別集会 第4週6日)

 

主が復活の力の中で戻って来て全地を満たし、甘く美しい王国を設立してくださるように祈ります

 

雅8:14

わが愛する方よ、急いでください.香料の山々の上のかもしかや、若い雄鹿のようになってください。

 

啓11:15

第七の御使いがラッパを吹いた.すると、天に大声があって言った、「世の王国は、わたしたちの主と彼のキリストの王国となった.彼は永遠にわたって王として支配される」。

 

「この詩的な書の結論の言葉として、キリストを愛する者が祈り求めるのは、彼女の愛する方が復活の力(かもしかと若い雄鹿)の中で急いで戻って来て、全地を満たす彼の甘くて美しい王国(香料の山々)を設立してくださるということです(雅8:14.啓11:15.ダニエル2:35)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが花婿として急いで戻って来て、全地を満たす甘く美しい王国を設立してくださいますように。主イエスよ、早く来てください。

 

 

神聖な愛におけるキリストと召会に関する神の永遠のエコノミーを啓示しています

 

 愛する方を愛する者は、彼が彼の復活の力の中で急いで戻って来て、全地を満たす彼の甘く美しい王国を設立してくださるようにと祈ります(啓11:15.ダニエル2:35)。ここで[雅8:14]わたしたちは、この愛する方を愛する者の祈りが、この詩的な書の結論の言葉であり、花婿としてのキリストと花嫁としての彼の愛する者たちとの、新婚の愛における結合と交わりを描写していることに気づくべきです。これはキリストの愛する者であるヨハネの祈り(聖書の結びの言葉として)のようであり、それは神聖な愛におけるキリストと召会に関する神の永遠のエコノミーを啓示しています(啓22:20)。

 

 この詩は、予表として、……花婿としてのキリストと、彼の花嫁としての愛する者との、彼の神聖な属性と、彼の愛する者の人性の美徳とのミングリングにおける、相互の享受の新婚の愛です。詩とその描写の二つの面の各段階での進展の対応は、全能で、全知で、どこにでもおられる神の聖なる御言の内在的な啓示です。(「雅歌ライフスタディ」、第9編)

 

 「主が来られる時、信仰は事実となり、祈りは賛美に置き換わります。愛は影のない完全なものとなり、わたしたちは罪のない領域で主に仕えます。それは何という日でしょう! 主イエスよ、早く来てください!」――ウオッチマン・ニー。(ウオッチマン・ニー全集、第23巻、「歌の中の歌」、第6区分)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第14日

(国際華語特別集会 第4週5日)

 

キリストを愛する者は、携え上げられることを望んでいます(第六段階)

 

雅8:5-6

自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る者はだれか?……わたしをあなたの心に印のようにし、あなたの腕に印のようにしてください.愛は死のように強く、ねたみはシェオール[陰府]のように残酷だからです.そのきらめきは火のきらめき、エホバの炎です。

 

「雅歌の第六段階において、キリストを愛する者は携え上げられることを望んでいます(雅8:1-14)。彼女は「自分の愛する方に寄りかかって」(5節)、荒野(地的な領域)から上って来ます。「愛する方に寄りかかって」が暗示していることは、ヤコブと同じように、彼女のもものつがいが触れられて、彼女の天然の力が主によって対処されたということです(創32:24-25)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはあなたが再び来られるのを待っています。主よ、わたしたちの荒野の行程が終わるまで、あなたに依り頼むことができますように。あなたの愛とあなたの力でわたしたちを守ってください。

 

 

自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来ます

 

 今は携え上げへの備えをすべき時です。わたしたちは愛する方に寄りかかり、絶えずこの世を後にして、何度も何度も上って行き、ついに主がわたしたちを取り去られるに至るのです。「自分の愛する方に寄りかかって」。[愛する者]は力がなく、歩くことができないかのようです。「自分の愛する方に寄りかかって」。彼女は自分を愛する方の運ぶものとし、愛する方に背負っていただきます。「自分の愛する方に寄りかかって」。彼女のもものつがいが触れられたかのようです。「自分の愛する方に寄りかかって」。彼女はひどく圧迫されているかのようであり、これは荒野の行程が終わるまで続くかのようです。主だけが、わたしたちを携え上げのために備えることができます。信頼する生活が不可欠です。

 

 わたしたちは、聖霊が「自分の愛する方に寄りかかって……上って来る者はだれか?」と言ってくださるまで、主に信頼すべきです[雅8:5]。……主だけが彼女の唯一の望みです。彼女は、自分が最後まで忍耐することができるかどうかは、自分の忍耐にかかっているのではなく、主の保護にかかっているのだということを認識します。(ニー全集、第23巻、「歌の中の歌(雅歌)」、第6区分)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第13日

(国際華語特別集会 第4週4日)

 

さらに強く召されて、復活の後の十字架を通して、幕の内側で生きる(第四段階)

 

雅6:13

帰れ、帰れ、シュラムの女よ.帰れ、帰れ、わたしたちはあなたを見たい。……

 

Ⅱコリント3:18

しかし、わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです。

 

「雅歌の第四段階において、キリストを愛する者はさらに強く召されて、復活の後の十字架を通して、幕の内側で生きます(雅5:2―6:13)。キリストを愛する者は、幕の内側で生きることによって、造り変えられて天の光体となります。彼女は夜明けの光のように見え、月のように美しく、太陽のように明るいのです(10節)。キリストを愛する者はキリストの命の円熟において、シュラムの女(「ソロモン」の女性形)となります」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、反映して、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますように。主よ、わたしたちが命、性質、表現、機能において、主と同じになり、神のエコノミーを遂行することができますように。

 

 

わたしたちは命、性質、表現、機能において、神とキリストと同じになります

 

 「シュラムの女」は「ソロモン」の女性形であり、今や勝利者たちがキリストと同じになったことを示します。すべての勝利者は神と一でなければならず、キリストでなければなりません。シュラムの女は田舎娘でした。今や、彼女はソロモンの配偶者として、神のエコノミーを遂行するために、命、性質、表現、機能において、ソロモンと同じになりました。これら四つのこと(命、性質、表現、機能)において、わたしたちは神とキリストと同じになりますが、神格においてではありません。…… 聖書は何度も、神はわたしたちと一になり、わたしたちを彼と一にすることを願っておられると告げています。

 

 「キリストの中で」と「主の中で」という句は、繰り返し新約で使われています。……主の中で、わたしたちはいっさいの事柄を行なうことができます(ピリピ4:13)。……主はわたしたちを、彼の命において、彼の性質において、彼の表現において、彼の機能において彼であるのと同じにし、彼のエコノミーを遂行することができるようにします。(リー全集、1994年―1997年、第3巻(上)、「雅歌の結晶の学び」、第12編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第12日

(国際華語特別集会 第4週3日)

 

召されて、復活の中の新創造として、昇天の中で生きる(第三段階)

 

雅3:9-10

ソロモン王は、レバノンの木で自分のために輿を造った。その支柱は銀、基は金、その座席は紫色の布で造った.その中に、「エルサレムの娘たちから愛を込めて」と縫い取りされていた。

 

「雅歌の第三段階において、キリストを愛する者は復活の中の新創造として、召されて昇天の中で生きます(雅3:6―5:1)。昇天の中で生きるとは、絶えずわたしたちの霊の中で生きることです。わたしたちは霊の中で生きるとき、天上の昇天したキリストに結び付けられます(エペソ2:22.創28:12-17.ヨハネ1:51.啓4:1-2.ヘブル4:12, 16 とフットノート1)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、わたしたちが復活の中の新創造として、絶えずわたしたちの霊の中で生きることができますように。主よ、あなたはいつもわたしたちの愛を求めておられます。わたしたちの愛で輿の内側を飾ることができますように。

 

 

昇天の中で生きるために、わたしたちは霊の中で生き、活動し、あらゆることを行ないます

 

 第三段階の経験において、キリストを愛する者は復活の中の新創造として、召されて昇天の中で生きます。昇天の中で生きるとは、絶えずわたしたちの霊の中で生きることです。わたしたちキリストにある信者は地上にいますが、霊の中にいるとき、天上の昇天したキリストに結び付けられます。……昇天の中で生きることは、わたしたちが霊の中で生き、活動し、行動し、あらゆることを行なうことを必要とします(ローマ8:4)。これはわたしたちが霊を魂から分離することを必要とします(ヘブル4:12)。(雅3:6、フットノート1)

 

 王国時代に、輿で表徴されるキリストを愛する者と、それに乗る者で表徴されるキリストは、凱旋の祝賀の結合の中にあります。キリストを愛する者は輿(昼、王国時代の旅のため――Ⅱペテロ1:19)、キリストのための乗り物であり、復活し、引き上げられた、高貴な人性(レバノンの木)からのキリストご自身によって造られ、神の性質(金)をその基とし、キリストの贖い(銀)をその支柱とし、キリストの王権(紫)をその座席としています(雅3:9-10)。輿の内側は、キリストを追い求める者(娘たち)の愛で縫い取りされています。これはキリストを愛する者が、キリストのからだの原則において、キリストを追い求める者すべてと愛の中で一であることを表徴します。(雅3:9、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第11日

(国際華語特別集会 第4週2日)

 

召されて、キリストの十字架との一を通して自己から解放される(第二段階)

 

雅2:8-9

わが愛する方の声! ご覧なさい、あの方がやって来ます.山々を飛び越え、丘の上を跳びはねて。わが愛する方は、かもしかや若い雄鹿のようです。ご覧なさい、あの方はわたしたちの壁の後ろにじっと立ち、窓からのぞき、格子からうかがっています。

 

「雅歌の第二段階において、キリストを愛する者は召されて、キリストの十字架との一を通して自己から解放されます(雅2:8―3:5)。雅歌第2章8節から9節は、復活の活力について語っています。これらの節において、キリストは、「山々を飛び越え、丘の上を跳びはねて」いるかもしかや若い雄鹿にたとえられています。山々と丘は、困難や障害を指しています。しかし、復活のキリストを妨げるような高くて大きいものはありません。山々を飛び越え、丘の上を飛び跳ねるキリストの臨在を、わたしたちは尋ね求め、認識する必要があります」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは復活であることを感謝します。主よ、わたしたちがキリストの復活の力によって、十字架と一になり、キリストの死に同形化されますように。ミングリングされた霊の中で、キリストの復活にあずかり神の新創造となることができますように。

 

 

彼の復活の力により、自己の内省の低い状態から出て来て、自己から救い出されます

 

 聖書の中では、山々と丘はいずれも困難や障害を指しています。「山々を飛び越え、丘の上を跳びはねて」[雅2:8]は、彼を妨げるような高くて大きいものはないことを意味します。主は復活の主です。キリストは復活して、あらゆる困難や障害に打ち勝たれました。困難や障害は昨日のものです。主は次の日を生きておられます。すべての困難は彼の足の下にあります。(ニー全集、第23巻、「歌の中の歌(雅歌)」、第2区分)

 

 「岩の裂け目、崖の隠れ場にいるわがはとよ.わたしに顔の表情を見せなさい.あなたの声を聞かせなさい.あなたの声は甘く、あなたの顔の表情は愛らしい」(14節)。ここでキリストは、彼女が単純に彼を愛する者(わがはと)であると考え、彼を愛する者の十字架(岩の裂け目と崖の隠れ場)との合一と結合の中で、彼女の愛らしい顔の表情を見て、彼女の甘い声を聞くことを願っておられます。ここでわたしたちは、キリストを愛する者が十字架と一になるようにとのキリストの召しを見ます。十字架上のこの点は、自己からの解放についてのこの区分における中心的な強調です。(「雅歌ライフスタディ」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第10日

(国際華語特別集会 第4週1日)

   

雅歌は、個人の信者とキリストの愛の交わりにおける進展する経験を明らかにします

 

雅1:2-4

「彼の口の口づけをもって、わたしに口づけしてください! あなたの愛はぶどう酒にまさるのです。あなたの塗り油はかぐわしい香りを放ち、あなたの名は注がれた香油のようです.それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。わたしを引き寄せてください.わたしたちはあなたの後を走ります」.王はわたしを彼の奥の間に連れて行かれた.「わたしたちはあなたの中で喜び楽しみ、ぶどう酒にまさってあなたの愛をほめたたえます。彼女たちは一心にあなたを愛します」。

 

「雅歌は一つの詩であり、その主題は一つの卓越した結婚における愛の歴史です。それが啓示しているのは、個人の信者とキリストとの愛の交わりの進展する経験であり、それは六つの主要な段階において彼の花嫁の用意を整えるためです(啓19:7-9.マタイ25:6-13.啓3:18-22.ゼカリヤ4:1-6, 11-14.Ⅰヨハネ4:19.詩110:3.119:140)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神がまずわたしたちを愛してくださったことを感謝します。主よ、わたしたちを引き寄せてください。あなたとの愛の交わりが深くなっていきますように。

 

 

雅歌における啓示は、六つの主要な段階において主の花嫁が用意を整えるためです

 

 雅歌はすばらしい結婚における愛の歴史、本書の著者である賢いソロモン王と、田舎娘であるシュラムの女(6:13)との愛の物語です。… 雅歌が強調しているのはキリストの団体のからだではなく、キリストにある個人の信者であり、個人の信者とキリストの愛の交わりにおける進展する経験を明らかにし、……段階があります。……そのような進展の各段階は、わたしたちがキリストを追い求めることにおいて、彼とわたしたちが相互に満足を得る過程の中で、わたしたちへの指標となるべきです。(雅1:1、フットノート1)

 

[雅歌第1章2節から第2章7節]は、本書全体のかぎとなる箇所です。霊的な原則はすべてこの区分に含まれており、続いて起こるさまざまな経験を予示する箇所です。それに続く学課は、新しいものではなく、さらに深い方法で繰り返された以前からある学課です。 第一区分における霊的経験は、平易な簡単なものです。… しかしながら、… それらの経験は、火を経る必要があります。… 一度目に何かを経験した時、人はそれをあまり深く感じないかもしれません。二度目の経験は、前よりも前進し、はっきりとしたものとなるでしょう。しかし、二度目の経験は、一度目よりも甘くはないでしょう。最後になると、その経験は初めの時のように甘くなります。旗印はやはり愛なのです。(ニー全集、第23巻、「歌の中の歌(雅歌)」、第1区分)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第8日

(国際華語特別集会 第3週6日)

 

その信仰の一に、また神の御子を知る全き知識の一に到達します

 

エペソ4:13

ついにわたしたちすべては、その信仰の一に、また神の御子を知る全き知識の一に到達し、一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達するのです。

 

「わたしたちはみな、「その信仰の一に……到達」する必要があります(エペソ4:13前半)。この句で述べられているその信仰は、客観的な信仰です。その信仰の一は、わたしたちが神の御子を知る全き知識にかかっています(13節)。わたしたちはキリストを中心とし、彼に集中するときはじめて、その信仰の一に到達することができます」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。その信仰の一に、神の御子を知る全き知識の一に到達するために、命における成長を与えてください。また神の御子、キリストについて、わたしたちに十分な認識とビジョンを与えてください。

 

 

一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで成長します

 

 エペソ人への手紙第4章13節でパウロは、すべての人が聖徒たちとの関係においてだけでなく、11節の賜物との関係において、その信仰の一に到達する必要があることについて語っています。賜物もみな神の御子を知る全き知識の一に到達する必要があります。そうすれば、わたしたちは一人の完全に成長した人に到達するでしょう。もしわたしたちが受ける光が真理の表面にとどまっているだけなら、わたしたちがその信仰の一に到達する方法はありません。神の御子の中でのみ、わたしたちはその信仰の一に到達することができます。わたしたちが内側で真に神の御子を知るなら、主日を守るか安息日を守るかは、わたしたちにとって重要ではなくなります。……

 

 わたしたちはキリストを中心とし、彼に焦点づけられるときはじめて、その信仰の一に到達することができます。神の御子の中でのみ、わたしたちの信仰は一になることができます。……わたしたちが真に神の御子を知るなら、議論はなくなります。この知ることは頭の理解によるのではなく、命における成長によります。この知ることは思いの中にあるのではなく、経験の中にあります。ですから、……この節からわたしたちは、知ることは一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達した結果であるのを見ることができます。(「どのようにして召会を治めるか」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第7日

(国際華語特別集会 第3週5日)

 

その信仰、共通の信仰のために力を尽くして戦います

 

ユダ3

愛する者たちよ、わたしは勤勉の限りを尽くして、わたしたちの共通の救いについて、あなたがたに手紙を書き送ろうとしていた時、聖徒たちに一度限り伝えられたその信仰のために力を尽くして戦うようにと、手紙を書いて勧める必要を感じました。

 

テトス1:4

共通の信仰による真の子供、テトスへ.父なる神とわたしたちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平安があなたにありますように。

 

「ユダの手紙3節の「その信仰」は、主観的なものではなく、客観的なものです。ユダ3節のその信仰は、わたしたちの信仰としての新約の内容を示しており、わたしたちは信じて、わたしたちの共通の救いを得ます(使徒6:7.Ⅰテモテ1:19.3:9.4:1.5:8.6:10,21.Ⅱテモテ3:8.4:7.テトス1:13)。この信仰のために、わたしたちは戦うべきです(Ⅰテモテ6:12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちに伝えられたその信仰を感謝します。わたしたちの信仰としての新約の内容、基本的な真理を保持していることができますように。そして、わたしたちの共通の信仰、その信仰のために戦うことができますように。

 

 

その信仰とは、わたしたちが信じている基本的な真理から構成されています

        

 その信仰、すなわちわたしたちが信じているものは、ある基本的な真理から構成されています。第一にわたしたちは、神が一ですが、三一であること、すなわち父、子、霊であることを信じます。第二にわたしたちは、神が御子、主イエス・キリストにおいて肉体と成ったことを信じます。第三にわたしたちは、イエス・キリスト、神の御子が人として肉体と成り、地上で生活し、そしてわたしたちの罪のために十字架上で死んでわたしたちの贖いを獲得されたことを信じます。三日目に、彼は死人の中から肉体的にも霊的にも復活させられました。今日、彼は復活においてわたしたちの救い主、わたしたちの主であり、またわたしたちの命です。

 

 わたしたちは彼を信じているので、わたしたちの罪は赦されており、彼はわたしたちの命としてわたしたちの中へと入って来られ、そしてわたしたちは再生されました。最終的に、主イエスは戻って来て、彼のすべての信者を彼ご自身へ受け入れます。これらは基本的な真理、基本的な教理であり、わたしたちが戦うべきその信仰を構成します。あらゆる健全で、真の信者たちはこれらの基本的な真理を保持しているので、それらは共通の信仰と呼ばれます(テトス1:4)。(「新約の結論(23)」、メッセージ398)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第6日

(国際華語特別集会 第3週4日)

 

その信仰を守って、神のエコノミーにおける神聖な豊富にあずかります

 

Ⅰテモテ1:4

作り話や果てしのない系図に、心をとめたりすることがないように命じなさい.そのようなものは、信仰の中にある神のエコノミー[経綸]ではなく、むしろ論議を引き起こすだけです。

 

Ⅰテモテ3:9

純粋な良心をもって、その信仰の奥義を保っていなければなりません。

 

「正常なクリスチャン生活は、その信仰を守って、神のエコノミーにおける神聖な豊富にあずかることです(Ⅰテモテ1:19.3:9.4:1.6:12.テトス1:4.ユダ3節)。神のエコノミーは信仰の中にある事柄、すなわち、信仰の範囲と要素の中で開始し発展する事柄です(Ⅰテモテ1:4)。ですから、わたしたちは純粋な良心をもって、その信仰の奥義を保っている必要があります(Ⅰテモテ3:9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。信仰の中にある神のエコノミーを感謝します。主よ、わたしたちが、神の御言を通して、また神の霊によって、神聖な命と神聖な性質で浸透されますように。そして、純粋な良心をもって、その信仰の奥義を保っていることができますように。

 

 

純粋な良心をもって、その信仰の奥義を保ちます

 

 わたしたちは新約における信仰の意義に深く印象づけられる必要があります。……信仰はまず、わたしたちに語られた御言である神です。わたしたちは神を持ち、そして語られた御言としての神を持ちます。神の御言を通して、また神の霊によって、わたしたちはキリストにある神で浸透されます。その結果、何かがわたしたちの内側で起こります。これが信仰です。そして信仰はわたしたちの中で働き、わたしたちを三一の神との有機的結合の中へともたらします。この有機的結合を通して、神は絶えずわたしたちの中へと注入され、浸透されます。

 

 その結果、わたしたちは神聖な命と神聖な性質を持ち、神の子たち、キリストの肢体、新しい人の一部分となります。全体として、わたしたちは神の家、キリストのからだ、新しい人になります。これが信仰の中にある神のエコノミーです。…… (「テモテへの第一の手紙ライフスタディ」、第1編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第5日

(国際華語特別集会 第3週3日)

 

永遠の命を保持して、その信仰の良い戦いを戦います

 

Ⅰテモテ6:12,19

その信仰の良い戦いを戦いなさい.永遠の命を保持しなさい.あなたはすでに永遠の命へと召され、多くの証人の前で良い告白を表明したのです。…… 将来に備えて良い土台を宝として、自分自身のために蓄え、あの真の命を保持するように。

 

「Ⅰテモテ第6章12節後半で、パウロは続けて言っています、「永遠の命を保持しなさい.あなたはすでに永遠の命へと召され……たのです」。わたしたちは、クリスチャン生活においてその信仰の良い戦いを戦うために、この命(永遠の命、神聖な命)を保持する必要があり、人の命に信頼してはなりません(Ⅰテモテ6:12後半)。わたしたちは永遠の命を保持する必要があります。そうすれば、わたしたちはその信仰の良い戦いを戦うことができます(12節)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、わたしたちが永遠の命へと召されたことを感謝します。わたしたちがその信仰の良い戦いを戦うために、人の命に信頼しないで、永遠の命を保持することができますように。日常生活において、わたしたちが召された永遠の命にしたがって生きることができますように。

 

 

その信仰の良い戦いを戦うために、人の命に信頼しないで、永遠の命を保持します

 

 テモテへの第一の手紙第6章11節と12節はほとんど新約全体の驚くべき要約です。神の人は、義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めるべきです。彼は神の新約エコノミーのために戦い、永遠の命を保持すべきです。これらすべての事柄は新約の本質的な面です。……わたしたちは今日、その信仰の良い戦いを戦わなければなりません。これは、わたしたちが神の具体化としてのキリストのために、またキリストのからだとしての召会のために、戦わなければならないことを意味します。

 

 さらに、わたしたちは永遠の命を保持することによって、客観的にだけでなく、主観的に戦わなければなりません。わたしたちはこの命から離れて何も行なうべきではありません。わたしたちは夫あるいは妻に対して、また子供たちに対して、天然の命によってではなく、永遠の命によって語るべきです。靴を買うという事柄においてさえ、わたしたちはそれへと召された永遠の命にしたがって生きるべきです。わたしたちは今日のテモテとして、永遠の命を保持する必要があります。(「テモテへの第一の手紙ライフスタディ」、第12編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第4日

(国際華語特別集会 第3週2日)

 

その信仰を守り、神の新約エコノミー全体を守ります

 

Ⅱテモテ4:7

わたしは良い戦いを戦い抜き、行程を走り終え、その信仰を守り通しました。

 

Ⅰテモテ6:12

その信仰の良い戦いを戦いなさい.永遠の命を保持しなさい.あなたはすでに永遠の命へと召され、多くの証人の前で良い告白を表明したのです。

 

「『わたしは……その信仰を守り通しました』(Ⅱテモテ4:7後)。ここの「その信仰」は客観的です。その信仰を守るとは、神の新約エコノミー全体を守ることです。その信仰は、神の具体化、また神の奥義としてのキリストと、キリストのからだ、またキリストの奥義としての召会とに関するものです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、みこころの奥義をわたしたちに知らせてくださったことを感謝します。主よ、わたしたちが良い戦いを戦い抜き、行程を走り終えることができますように。そして、その信仰を守って、神のエコノミーの中の神聖な豊富にあずかることができますように。

 

 

その信仰を守るとは、神の新約エコノミー全体を守ることです

 

 正常なクリスチャン生活には三つの面があります。それは神の王国の権益のために、サタンと彼の暗やみの王国に対して良い戦いを戦うこと、あるいは「良い奮闘を奮闘すること」(Ⅰテモテ6:12)、行程を走り、神の永遠の定められた御旨にしたがって神のエコノミーを完成すること(ヘブル12:1)、その信仰を守って神のエコノミーの中の神聖な豊富にあずかること(Ⅰテモテ3:9)を含みます。このことで、パウロはわたしたちのために適切な模範を打ち立てました。

 

 パウロは主によって所有された後、天のレースを走り始め、走り続けて(Ⅰコリント9:24-26.ピリピ3:12-14)、それを走り終えました(使徒20:24)。今やついに彼は勝ち誇って、「行程を走り終え」たと宣言しました[Ⅱテモテ4:7]。…… パウロは、その信仰を守り通したと証しすることができました。……その信仰を守るとは、神の新約エコノミー全体を守ることです。その信仰は、神の具体化、また神の奥義としてのキリストと、キリストのからだ、またキリストの奥義としての召会とに関するものです。(「テモテへの第二の手紙ライフスタディ」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第3日

(国際華語特別集会 第3週1日)

 

新約において、信仰は客観的であり、また主観的です

 

エペソ4:13

ついにわたしたちすべては、その信仰の一に、また神の御子を知る全き知識の一に到達し、一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達するのです。

 

「新約において、信仰は客観的であり、また主観的です。客観的な信仰は、わたしたちの信じる対象、すなわち、わたしたちが信じているものを指しています。この客観的な信仰は、神の新約エコノミーの内容を含みます(エペソ4:13.Ⅱテモテ4:7後)。主観的な信仰は、わたしたちの信じる行為と関係があります(ヨハネ3:15-16)」。 

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはあなたの中へと信じて、永遠の命を持ったことを感謝します。主よ、わたしたちが、信仰には客観的な面と主観的な面があることを認識することができますように。主よ、わたしたちが信仰と正しい良心を保って、クリスチャン生活と召会生活が保護されますように。

 

 

その信仰のために力を尽くして戦うのは、客観的な信仰のためです

 

 新約において「信仰」という言葉は、少なくとも二つの意味を持っています。第一の意味は、主観的な意味です。主観的な信仰は、わたしたちの信じる行為と関係があります。……主の中で信仰を持つことは、主を信じることです。「信仰」の第二の意味は、客観的な意味です。客観的な信仰はわたしたちの信じる対象、すなわち、わたしたちが信じているものを指しています。……新約は信仰の客観的な面の言及に満ちています。ユダの手紙3節は言います、「愛する者たちよ、…… わたしたちの共通の救いについて、あなたがたに手紙を書き送ろうとしていた時、聖徒たちに一度限り伝えられたその信仰のために力を尽くして戦うようにと、手紙を書いて勧める必要を感じました」。

 

 テモテへの第二の手紙第4章7節は言います、「わたしは良い戦いを戦い抜き、行程を走り終え、その信仰を守り通しました」。これらの節の両方で述べられているその信仰は、信じる行為としての信仰ではなく、客観的な信仰であり、わたしたちが信じているものを意味します。同様に、エペソ人への手紙第4章13節で、「信仰の一」という語句の中で述べられている信仰は客観的な信仰です。(リー全集、1964年、第1巻(下)、「一の立場に立って機能する」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


6月の祈り第1日

(国際華語特別集会 第2週6日)

 

主が定めた旅路を探し出して、その中を忠信に歩きます

 

マルコ6:45,48

それからすぐ、イエスは強いて弟子たちを舟に乗り込ませて、先に向こう岸のベツサイダへ行かせ、その間に群衆を解散させられた。……すると、「逆風のために、彼らがこぎ悩んでいるのが見えたので、彼は第四の夜回りのころ、海の上を歩いて彼らの所に向かい、彼らを通り過ぎようとされた。

 

「わたしたち一人一人のために神によって定められた旅路の最後の部分は、この旅路の最も困難な部分です(参照、マルコ6:45-51)。倒れても再び起き上がる者が、最も良いランナーです。「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな.たとえ倒れても、わたしは起き上がる.たとえ暗やみの中に座っても、エホバはわたしの光となられる」(ミカ7:8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主が定めた旅路を探し出して、その中を忠信に歩くことができますように。主よ、わたしたちの前に置かれているレースを放棄しないで、最後まで走る者にしてください

 

 

主は、彼らに歩むようにと命じていた同じ道に沿って、弟子たちを捜します

      

 マルコによる福音書第6章45節が告げていることは、わたしたちすべてには、主によって定められた旅路があるということです。ここの「強いて」という言葉は、コリント人への第二の手紙第5章14節で用いられている「押し迫っている」という言葉と同じです。主は弟子たちに、舟に乗り込むようにと押し迫りました。……クリスチャンの生涯において最も重要な事は、主が定められた旅路を探し出して、その中を忠信に歩くことです。……

 

 48節には特別なことがあります。主は、「彼らを通り過ぎようとされた」のです。……それはまるで、主が弟子たちの所へ行く意図を持っておられなかったかのようです。主は弟子たちに向こう岸のベツサイダに行くよう命じていたので、主は山を下り、ベツサイダへと進んでいきました。…… 主は、彼らに歩むようにと命じていた同じ道に沿って、弟子たちを捜していました。もし彼らが曲がり角で曲がってしまうなら、主はやって来られても彼らに会えないでしょう。もし彼らが間違った道を進んでしまうなら、主は間違った道を進んで彼らを待つことはされません。これはとても厳粛なことです!……なぜなら、携え上げは、主が定められた道に沿ってのみ起こるからです。もしあなたがそこにいなければ、あなたは携え上げられることができません。わたしたち一人一人は、自分がどの道を行くかについて、自分自身で責任を負わなければなりません。

(ニー全集、第10巻、第24号、「最後の道」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)