朝ごとの食物

7月の祈り 第31日

(メモリアルデー特別集会 第1週1日)

 

神の心の願いは完全にキリストを中心としています

 

マタイ3:17

すると見よ、天からの声が言った、「これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ」。

 

ガラテヤ1:15-16

ところが、……神が、喜んで御子をわたしの中に啓示し、異邦人の間に、御子を福音として宣べ伝えるようにされた……

 

「キリストは、神の心の願いです(マタイ3:17.12:18.17:5.ガラテヤ1:15前半, 16前半)。神の心の願いは、宇宙におけるあらゆる人、事、物がキリストを表現することです。万物がキリストの中でかしらにつり上げられるとき、完全な平安と調和があり、宇宙の中の万物はキリストを表現します(コロサイ1:15-19.3:10-11.エペソ1:10, 22-23.4:15-16.イザヤ55:11-13)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。神の心の願いは、宇宙におけるあらゆる人、事、物がキリストを表現することです。主よ、神の心の願いが完全にキリストを中心としていることをさらに見せてください。わたしたちの生活の中で、積極的な事物、事柄、人の実際であるキリストを生かし出すことができますように。

 

 

神の心の願いは、宇宙におけるあらゆる人、事、物がキリストを表現することです

 

 [すべての聖徒たち]は、主と共に前進するとき、神の心の願いがただキリストだけであるということを、ますます明確になるべきです。……神の心の願いは完全にキリストを中心としています。……神の意図は、キリストが万物において表現され、万物を満たし、万物でさえある程度にまで働かれることです。……

  聖書は多くの箇所で、わたしたちが聖であり、愛らしく、義であり、忍耐強くあるべきであると告げています。これらの事柄はキリストの影であり、キリストはその実際です。……

 

 聖書が忍耐について語るとき、それが意味するのは、わたしたちがキリストに向きを変えて、忍耐の実際であるキリストを生かし出すべきであるということです。……わたしたちが最善を尽くして他の人たちを愛さなければならないと考えることは間違っています。聖書が語っている愛は、実はキリストです。また神は、わたしたちがキリストを生かし出すことによって正直になることを欲しておられます。それは義、誠実、聖に関しても同じです。神はキリストがわたしたちの義、誠実、聖となることを欲しておられます。(リー全集、1967年、第1巻(上)、「奉仕についての基本的な認識」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第29日

第8週6日

 

わたしたちの価値観を徹底的に変えてください

 

エレミヤミヤ15:19

……もし、あなたが価値のないことを言わず、尊いことを言い出すなら、あなたはわたしの口のようになる……

 

啓21:18

城壁は碧玉で築かれ、都は純金であって、透き通ったガラスのようであった。

21 十二の門は十二の真珠であり……

 

「わたしたちは、主がわたしたちに光を与えてくださって、わたしたちの価値観を徹底的に変えていただくように、求める必要があります。それによって、わたしたちはキリストと彼であるすべてを、わたしたちの超越してすばらしい分け前として絶えず選びます(マルコ9:7-8.ピリピ3:7-8.Ⅱコリント2:10.4:7.Ⅰペテロ1:8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、わたしたちに光を与えてください。そして、あなたが油塗られたキリスト、主、王、最も卓越した方であることを見せてください。主よ、わたしたちの価値観を徹底的に変えてください。

 

 

クリスチャンの上には、価値観の変化があります

 

 [ピリピ人への手紙第3章7節と8節で]わたしたちは……パウロの価値観に変化があったことを見ます。彼にとって益であった事柄を、彼はキリストのゆえに損失と勘定しました。なぜパウロは、彼にとって益であった事柄を拒絶することができたのでしょうか? 彼はキリスト・イエスを知る知識の卓越性のゆえに、それらを損失と考えることができました。彼は神が油塗られたキリストを、主、王、最も卓越した方と考えました。キリストのゆえに、彼はすべてのことで損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定しました。これが、クリスチャンの上に起こる価値観の変化というものです。……

 

 もしわたしたちが物事の正しい価値がわからなければ、神はわたしたちを拒絶し、わたしたちを見捨てるでしょう。神は、わたしたちが価値のないことを言わず、尊いことを言い出すことを要求されます。それによってわたしたちは神の口のようになることができます[エレミヤ15:19]。……どうか主がわたしたちに光を与えてくださり、わたしたちの価値観に徹底的な変化があり、わたしたちが最も卓越した分け前を選択することができますように。(ニー全集、第60巻、「鼓嶺の訓練の記録(2)」、45編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第28日

第8週5日

 

主の七つの目は地上での神の行動と働きのためです

 

啓1:14,18

彼の頭と髪は、白い羊毛のように雪のように白く、彼の目は、火の炎のようであり。…… また生きている者である.わたしは死んだが、見よ、永遠にわたって生きている.…

 

「主の七つの目は、火の炎のようであり、注視し、観察し、探り、照らすことによって裁き、注入するためです。キリストの目は、地上での神の行動と働きのためです。なぜなら、七は神の行動の完成の数であるからです(啓1:14.5:6.ダニエル10:6.7:9-10.啓2:18.19:11-12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたであるすべてをわたしたちに注入するあなたの目を感謝します。主よ、燃える火のようにわたしたちを照らし注入して、わたしたちをかき立てて熱くしてください。あなたの輝く目がわたしたちの上にありますように。 

 

 

主の七つの目は火の炎のようであり、探り、照らして裁き、注入します

 

 主を永遠にわたって生きている神として認識することによって、わたしたちはいつもわたしたちの霊の中で彼の臨在を確かめることができます。……これは感情や幻想や心理作用ではありません。アブラハムが長年にわたって神に従った後、彼は主に対する非常に深い認識へと至ったので、彼は「ベエル・シバに御柳の木を植え、その所でエホバ、『永遠の』神の御名を呼び求めた」(創21:33)のです。ダニエルは「生ける神のしもべ」と呼ばれました(ダニエル6:20)。彼が獅子の穴に投げ込まれた時、神は獅子の口をふさがれたので、彼を傷つけませんでした(22節)。

 

 ジョージ・ミュラーは言いました、「もしあなたが神と共に歩み、随時あなたの助けとして神を仰ぐなら、神はあなたに失望を与えることがないことを、生ける神は保証しておられます。…主にある一人の年長の兄弟は……神が決して失敗されないことを証ししました。厳しい困難、激しい試練、極度の困苦と欠乏を通して、神は決してわたしを失望させないことを学びました。わたしは常に供給する神の恵みを通して神に信頼することができます。わたしは御名について語ることを愛します」。……兄弟姉妹、アブラハムが呼び求めた生ける神、ダニエルが仕えた生ける神、ミュラーが依り頼んだ生ける神は、… わたしたちが属する、わたしたちが仕える神です。わたしたちは彼を礼拝し、喜びをもって彼の御名を賛美すべきです!(ニー全集、第34巻、「栄光のキリストのビジョン」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第27日

第8週4日

 

ヨハネは、 金の燭台の間を歩いている栄光のキリストのビジョンを見ました

 

啓1:12-13

……振り向くと、七つの金の燭台を見た.その燭台の間に、人の子のような方が、足まで垂れた衣を着て、胸に金の帯を締めておられた。

 

「大祭司として、金の燭台の間を歩いている栄光のキリストのビジョン(啓1:9―2:1)は、霊の中でヨハネに与えられました。それによってヨハネは、人の子として昇天したキリストが「足まで垂れた衣を着て、胸に金の帯をしめておられた」のを見ました(1:13.参照、10節.4:2.17:3.21:10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは大祭司として絶えずわたしたちをはぐくみ、顧みてくださることを感謝します。主よ、あなたは燭台のともし火が輝くように、灯心を整えておられます。主よ、わたしたちが輝くのを妨げるすべての消極的な事柄を切り落としてください。

 

 

祭司は、燭台のともし火の灯心の黒い部分を切り落とします

 

 旧約の祭司は、彼らの務めのために腰に帯をしていました(出28:4)。ダニエル書第10章5節で、キリストも腰に純金の帯を締めておられました。腰に帯を締めることは、働きのために強められることです。キリストは諸召会を生み出すことで、彼の神聖な働きを終えられました。今や彼は愛によって、生み出した召会を顧みておられます。こういうわけで、彼は胸に帯を締めておられるのです。……

 

 キリストが燭台を顧みるのは、燭台のともし火の灯心を整えることによってです。それは、旧約で祭司が予表にしたがって行なったようにです(出25:38)。灯心が燃えたとき、焦げて黒くなったので、祭司は来て灯心の黒い部分を切り落とさなければなりませんでした。これは、灯心を切って、ともし火がさらに輝くようになることを意味します。灯心の焦げた部分、すなわち、灯花は、神の定められた御旨にしたがっておらず、切り落とされる必要のある事柄を表徴します。それはわたしたちの肉、天然の人、自己、旧創造などです。……焦げた灯心のある召会は心地良く感じないでしょう。…… 彼は人性における大祭司であり、絶えずわたしたちをはぐくむことによって顧みておられます。(リー全集、1994年-1997年、第5巻(上)、「バイタルグループ」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第26日

第8週3日

 

ダニエルは、ひとりの人としての卓越したキリストのビジョンを見ました

 

ダニエル10:5-6

目を上げて見ると、見よ、ひとりの人がいて、亜麻布をまとい、腰にはウパズの純金の帯を締めていた。彼の体は緑柱石のようであり、彼の顔の外観はいなずまのようであり、彼の目は火のたいまつのようであり、彼の腕と彼の足は磨かれた青銅の輝きのようであり、彼の言葉の声は群衆の声のようであった。

        

「卓越したキリスト(人としての彼の無上の尊さの中でダニエルに現れた)のビジョンは、ダニエルの評価、慰め、励まし、堅固にすることのためでした(ダニエル10:4-9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちもダニエルのように神のあわれみの下で、また霊的な視力をもって、卓越したキリストのビジョンを見ることができますように。 そして主よ、わたしたちの召会生活で、家庭生活で、日常生活の中であなたが首位となってください。

 

 

このビジョンは、ダニエルの評価、慰め、励まし、堅固にするためでした

 

 ダニエルはダニエル書第10章4節から9節で特別なビジョンを見ました。地上での神の行動の中心性と普遍性である卓越したキリストが、ダニエルに現れました。それは彼の評価、慰め、励まし、期待、堅固にすることのためでした。ダニエルはこの方が人としての主であることを理解したと、わたしは信じます。その人はエホバであるだけでなく、人と成ったエホバでした。……神の見方ではただ事実があるだけで、時間の要素はありません。宇宙において三一の神が人に成られたという事実があります。これはマタイによる福音書とルカによる福音書に啓示されています。しかし創世記第18章で三人の人がアブラハムに来たとき、三人のうちの一人は[普通の人としての]イエスでした。……ダニエル書第10章でこの人は[卓越したキリストとして]ダニエルに現れました。…… 

 

 7節は言います、「わたし、ダニエルだけが、そのビジョンを見て、わたしと一緒にいた人々は、そのビジョンを見なかった」。キリストのビジョンは霊的であって、物質的ではないので、ただダニエルによって見られ、自分の物質の視力に頼る人には見られませんでした。……こういうわけで、この世の人々の目に、イエスは単に人でした。しかし神のあわれみの下で、また霊的な視力をもって、わたしたちはキリストがいかに愛すべきであり、尊いかを見ます。(「ダニエル書ライフスタディ」、第15編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第25日

第8週2日

 

栄光の中にあるキリストのビジョンを見た人は、終結させられ、終わらせられます

 

イザヤ6:5-7

その時、わたしは言った、「わたしは災いだ、わたしは終わりだ!わたしは汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に住んでいるのに、わたしの目は、王、万軍のエホバを見たのだ」。すると、セラピムのひとりがわたしの所に飛んできた.彼の手に燃えさしがあった.…… 彼は火をわたしの口に当てて言った、「……あなたの罪科は取り去られ、あなたの罪はきよめられている」。

 

「イザヤは、キリストの義に基づいている聖におけるキリストを見ました(イザヤ6:2-3)。セラピムはキリストの聖のためにそこに立っていました。イザヤはこのビジョンを見た結果、終結させられ、終わらせられ、自分が汚れた唇の者であって、汚れた唇の民の中に住んでいるのを認識しました(イザヤ6:5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、この地上のあらゆるものは変わりますが、あなたは昨日も今日も永遠に同じであることを感謝します。主よ、朝ごとにわたしたちを復興してください。そして自分が何であるかを見せてください。

 

 

どれほど自分の邪悪さを認識しているかは、どれほど主を見ているかにかかっています

 

 民は堕落してしまいましたが、キリストと彼の御座は栄光の中で同じままでした(イザヤ6:1前半)。……  イザヤは栄光の中にあるキリストのビジョンに反応して、「わたしは災いだ、わたしは終わりだ!」(イザヤ6:5前半)と言いました。イザヤはこのビジョンを見た結果、終結させられ、終わらせられました。…… 主のビジョンを真に見る者はみな、照らされます。……ペテロはルカによる福音書第5章で主を見たとき、直ちに主に言いました、「主よ、わたしを離れてください.わたしは罪深い者です」(8節)。わたしたちがどれほど自分自身に関して認識しているかは、どれほど主を見ているかにかかっています。

 

 こういうわけで、わたしたちは毎朝、復興を必要とします。朝ごとの復興は、わたしたちが再び主を見る時です。わたしたちが主を見れば見るほど、ますます自分が何であるかを見ます。わたしたちは、自分の内側に何の良いものもなく、内側のすべてのものは光輝も美徳もないことを認識します。……わたしたちの経験の中で、自分が清いか汚れているかは、わたしたちの良心の感覚にかかっています。その良心の感覚は、わたしたちが主を見ることにかかっています。どれほどわたしたちが主を見ているかが、どれほど清められるかを決定します。わたしたちは、主を見て、暴露されればされるほど、ますます清められるのです。(「イザヤ書ライフスタディ(1)」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第24日

第8週1日

 

イザヤは意気消沈していたときに、栄光の中にあるキリストのビジョンを見ました

 

イザヤ6:1

ウジヤ王が死んだ年に、わたしは、高く上げられた御座に主が座しておられ、また彼の衣のすそが宮を満たしているのを見た。

 

ヨハネ12:41

イザヤがこう言ったのは、彼の栄光を見て、彼について語ったからである。

 

 「栄光の中でのキリストのビジョンは、イザヤが意気消沈していたときに見られました(イザヤ6:1-8.参照、5:20.22:1.歴代下26:1-5)。神の選ばれ愛された民に反逆、罪科、腐敗があるにもかかわらず、主、王、万軍のエホバとしてのキリストは依然として栄光の中で高く上げられた御座に座しています(イザヤ6:1-5.哀5:19.啓22:1)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちにはイスラエルの民と同じように、反逆、罪科、腐敗がありますが、あなたは主、王、万軍のエホバとして、高く上げられた御座に座しておられます。主よ、わたしたちが祈る時、わたしたちの内なる目を開いて、御座に座しておられる栄光の中にあるキリストのビジョンを見せてください。 

 

 

[キリスト]は御座に座しておられる栄光の中にある神です

 

 栄光の中にあるキリストのビジョンは、イザヤが意気消沈していたときに見られました(イザヤ6:1,5)。イザヤは神を愛し、神の選民イスラエルを愛していました。彼はイスラエルの状態を見て、そこには神の栄光の表現がないことを認識しました。イスラエルはまた神の聖を汚し、人性の美徳において腐敗してしまいました。さらに、ウジヤ王が死にました。イスラエルの王の中で、彼はとても良い王でしたが、死にました。そのような環境の中で、イザヤは確かにとても意気消沈していました。彼が意気消沈していたとき、主は彼に現れたのです。

 

 イザヤ書第6章で、彼[キリスト]は御座に座しておられる栄光の中にある神です。……この方は神聖な栄光と人性の美徳を持つ神・人です。 ……イザヤ書第6章でキリストは、主、王、万軍のエホバとして、高く上げられた御座に座しておられます。彼は御座におられる神です。使徒ヨハネはヨハネによる福音書第12章で、イザヤはキリストの栄光を見たと告げました。これは万軍のエホバ、王、主がキリストであったことを意味します。(「イザヤ書ライフスタディ」、第34編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第22日

第7週6日

 

真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父を礼拝します

 

ヨハネ4:23-24

しかし、真の礼拝者たちが、霊と真実の中で父を礼拝する時が来る.そしてそれは今である.父はそのように彼を礼拝する者を、捜し求めておられるからである。神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない。

 

「毎日、わたしたちはキリストの上で労苦して、余剰、収穫物を持ち、それらを召会の集会にもたらして、父なる神を団体的に礼拝すべきです(申12:6.Ⅰコリント14:26.ヨハネ4:23-24.申16:15-16)。その地の生活は、個人的にも、団体的にも、主の民と共にキリストを享受することで満ちた生活です(申8:7-10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがキリストの上で労苦して、産物の最上の部分を集会にもたらすことができますように。主よ、わたしたちが主の食卓の集会で、キリストの産物を他の人たちと分かち合い、全宇宙にキリストを展覧することができますように。

 

 

主の食卓の集会の中で、主はその霊の中で、わたしたちを御父へと連れ戻してくださいます

 

 わたしたちの礼拝は、ただ創造主だけに向けられているのではなく、わたしたちを再生し、ご自身をわたしたちの存在の中へと入れた御父に向けられています。今やわたしたちの礼拝は、わたしたちの中に分与された神、すなわち父、子、霊を伴う主観的なものです。このような礼拝は、大部分が主の食卓の集会の中で実行されることができます。なぜなら、主の食卓の集会の中で、わたしたちがパンと杯にあずかった後、主は率先してわたしたちを御父へともたらされるからです。主はその霊の中で、わたしたちを御父へと連れ戻してくださいます。…… 

 

 これはルカによる福音書第15章において……完全に描写されています。牧者としての御子が捜し求め、女としてのその霊が照らしたことを通して、放蕩息子は父の所に帰って来ます。ですから、このように御父へと帰って来ることは、神聖な三一の神聖な分与においてです。御子とその霊が、帰ってきた息子の中へと造り込まれています。これが神の分与における真の礼拝です。(リー全集、1979年、第2巻(上)、「奉仕についての基本的学課」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第21日

第7週5日

 

乳と蜜は  キリストの命の二つの面(贖う面と生み出す面)を表徴しています

 

ヨハネ1:29

……見よ、世の人の罪を取り除く神の小羊!

 

ヨハネ12:24

……一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ。

 

「乳と蜜(動物の命と植物の命のミングリング)は、キリストの命の二つの面(贖う面と生み出す面)を表徴しています(申8:8.32:13-14)。植物の命は、生み出し増殖する命です。この命は、キリストの生み出し増殖する命を表徴しています(ヨハネ12:24。2)。動物の命は、キリストの贖う命を表徴しています(6:54-55)。キリストの命の贖う面は、わたしたちの法理的な贖いのためであり、キリストの命の生み出す面は、わたしたちの有機的な救いのためです(1:29.12:24.啓2:7.ローマ5:10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは乳と蜜の実際であることを感謝します。主よ、あなたは世の人の罪を取り除く神の小羊として来られ、また、一粒の麦として地に落ちて死んでくださいました。主よ、それはわたしたちの法理的な贖いのためであり、有機的な救いのためです。主よ、わたしたちがこの豊富な供給に日々あずかることができますように。

 

 

主には、動物の命で予表される贖う命と、植物の命で予表される生み出す命があります

 

 神は彼の知恵の中で「乳と蜜の流れる」という表現を用いて、良き地の豊富を記述されます。乳も蜜も、植物の命と動物の命の組み合わせの産物です。…… 乳と蜜はキリストの豊富、キリストの命の二つの面から来る豊富を表徴します。キリストはパースンですが、彼には動物の命で予表される贖う命と、植物の命で予表される生み出す命があります。一方で、キリストはわたしたちを贖う神の小羊です。もう一方で、彼はわたしたちを供給する大麦のパンです。両方の種類の命が過越の食事の一部分でした。なぜなら過越には、小羊と苦菜を添えたパン種のないパンがあったからです。これらの命は組み合わされて、神の贖われた人々の享受となりました。

 

 しかしながら、神の召しの目的は、彼の民にエジプトで動物の命と植物の命の少しばかりの享受を与えることではありませんでした。それは彼らを乳と蜜の流れる広大な地へともたらすことです。あなたは今日、召会生活の中で、キリストを良き地として享受しているという確信を持っているでしょうか? わたしはキリストを乳と蜜の流れる広大な地として、日ごとに享受していると証しすることができます。(出エジプト記ライフスタディ(1)」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第20日

第7週4日

 

カナンの地は、すべてを含むキリストの予表として、「乳と蜜の流れる地」です

 

エペソ3:8

すべての聖徒のうちで最も小さい者よりも小さいわたしに、この恵みが与えられたのは、キリストの計り知れない豊富を、異邦人に福音として宣べ伝えるためであり、

 

出3:8

わたしは下って行って、彼らをエジプト人の手から救い出し、そして彼らをその地から、良い広大な地に、乳と蜜の流れる地に……上らせる。

 

 「カナンの地は、すべてを含むキリストの予表として、「乳と蜜の流れる地」です(出3:8,17.33:3.レビ20:24.民13:27.14:8.申6:3.26:9,15.27:3.ヨシュア5:6)。乳と蜜は、二種類の命(植物の命と動物の命)がミングリングされたものから産出されています。蜜の大部分は植物の命と関係があり、乳の大部分は動物の命と関係があります」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは乳と蜜の流れる地の実際です。主よ、あなたを乳の良さ、蜜の甘さとして経験し、あなたを家畜と羊の群れとして認識し、享受することができますように。主よ、わたしたちが経験したキリストを主の栄光と満足のためにささげさせてください。

 

 

主はわたしにとってとても甘く、とても豊富であり、乳や蜜のようです

 

 良き地は乳と蜜の流れる地です。あなたは乳と蜜がどの命に属しているか、告げることができるでしょうか? それらが属しているのは動物の命でしょうか、それとも植物の命でしょうか?……これの意味は何でしょうか? 乳と蜜はキリストの命のどの面を描写しているのでしょうか? あなたがキリストを小麦、大麦、ぶどうの木などとして享受し、同時に彼を牛として、また小羊として享受しているとき、主がとても良く、主があなたにとってとても甘く、とても豊富であり、乳や蜜のようであることを認識します。

 

 特にあなたは霊において弱く、主に来て主を経験し適用するとき、主が乳と蜜であることを感じます。あなたはキリストの命の豊富と甘さを感じ取ります。おお、乳の良さと蜜の甘さ! キリストはとても良いのです。キリストはとても甘いのです。彼は乳と蜜の流れる地です。……あなたがキリストを小麦と大麦として、また同時に家畜と羊の群れとして認識すればするほど、ますますキリストを乳と蜜として享受するでしょう。(「すべてを含むキリスト」、第6章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第19日

第7週3日

 

自分の環境や境遇について忘れます

 

ヨハネ4:24

神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない。

 

ヘブル4:12

なぜなら、神の言は生きていて効力があり、どんなもろ刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思考と意図を識別することができるからです。

 

「わたしたちの霊を活用することは、キリストの上で労苦し、キリストを経験し、キリストを産出することのかぎです(Ⅰテモテ4:7:1)。キリストの上で労苦する道は、わたしたちの霊を活用して、良き地としてのすべてを含むキリストの実際であるその霊と接触することです(ガラテヤ3:14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、神は霊ですから、わたしたちが霊と真実の中で神を礼拝することができますように。主よ、わたしたちが霊を活用して、自分の環境や境遇について忘れ、主を賛美しますように。

 

 

わたしたちは霊を活用するとき、自分の環境、失敗について忘れ、天にもたらされます

 

 わたしたちが霊を活用することにおいて学ぶ……最も重要な学課は、わたしたちの魂から来るどんなものにも注意を払わないことです。…… わたしたちが、わたしたちの存在のうちの、霊以外のどの部分で神を礼拝しようとしても間違っています。わたしたちは、自分の環境や境遇について忘れる学課を学ばなければなりません。わたしたちは集会に来るとき、魂の中の感覚ではなく、わたしたちの霊の中の感覚を顧慮することによって霊を活用しなければなりません。……

 

 わたしたちは霊を活用するとき、自分の環境、家族、成功、失敗について忘れて、天にもたらされます。霊の中でわたしたちは宣言するかもしれません、「ハレルヤ! 主を賛美します! キリストは勝利者です!」。わたしたちの賛美の後、自分の配偶者に悩まされている人たち、…… 内側が混乱している人たちは、励まされて、「アーメン! 主を賛美します!」と宣言するかもしれません。すべての聖徒がこのように霊を活用するとき、集会は霊の中にもたらされ、聖徒たちは霊の中で神を礼拝します。(リー全集、1965年、第2巻(上)、「さまざまなメッセージと交わり」、第6編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第18日

第7週2日

 

地としてのキリストの上で労苦して、キリストを産出します

 

エペソ3:17

またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ。

 

「わたしたちはみな、キリストの上で労苦して、キリストがわたしたちに多くの産物を与えてくださるようにする必要があります。そうすれば、わたしたちはキリストの豊かな経験を持ちます(エペソ3:8.ピリピ4:19)。キリストの収穫物は、わたしたちが労苦し、刈り取って、わたしたちの収穫物となったキリストです(ピリピ3:10)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはあなたを享受するために、自分自身をささげます。わたしたちが集まるとき、享受したキリストを持って来ることができますように。

 

 

キリストがわたしたちの労苦を通して、キリストご自身を産出されます

 

 神が彼らに食物を与えられたのは、日光、空気、雨を一年中送ることによってでした。……すべての物は送られましたが、彼らは神と協力して産物を得る必要がありました。そして、その産物は十分の一となり、その十分の一は持って来られて神の招きに答えました。あらゆる人は神の家に招かれました。あらゆる人が家に来て御父に食べていただき、彼を満足させました。これは何と幸いな時であったでしょう! このすべてはキリストであるに違いありません。わたしたちは集まるとき、このようにキリストを持って来るべきです。……

 

 あなたがどれほど多くのキリストを集会にもたらすかは、どれほど多くのキリストを産出し、どれほど多くキリストを成長させたかにかかっています。あなたは地としてのキリストの上で労苦しなければなりません。それによってキリストを産出することができます。実は、あなたがキリストを産出するのではなく、キリストがあなたの労苦を通してキリストご自身を産出されるのです。今日、あわれな事は、神の贖われた民としてのクリスチャンがみな空手で集まることです。(リー全集、1982年、第1巻(下)、「召会の集会のためにキリストをささげ物として経験する」、第4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第17日

第7週1日

 

良き地に導き入れられた後、キリストの上で労苦します

 

コロサイ1:12

光の中で、聖徒たちに割り当てられた分け前にあずかるようにと、あなたがたを資格づけてくださった御父に、感謝をささげるように.

 

「わたしたちはキリストにある信者として、カナンの地によって予表される良き地としてのキリストご自身の中へと、キリストによって導き入れられたので、キリストの上で労苦する必要があります(Ⅰコリント1:30.コロサイ1:12)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちに割り当てられた良き地としてのキリストの上で労苦することを学ばせてください。毎朝、主に近づき、一日中あなたを経験し、享受することができますように。

 

 

キリストの上で労苦するする生活をします

 

 わたしたちの必要は、どのようにキリストを享受し、経験するかを学ぶことです。神はわたしたちをキリストの中へと入れました。イスラエルの子たちは、カナンの地に入り、一人一人にその地の分け前が割り当てられました。彼らがその地の上で進んで労苦するかどうかは、厳粛な事柄でした。もしあるイスラエル人が怠惰で、朝早く起きて勤勉に労苦しなかったなら、彼の土地の一区画は荒廃し、彼は年末に収穫を得ないでしょう。ペンテコステの祭り、あるいは仮庵の祭りの時に、他の人々は産物の束を携えて神を礼拝しますが、彼は空手であり……飢えていたでしょう。それは何とあわれな光景でしょう!

 

 同様に、信者として、わたしたちはそれぞれキリストの分け前を持っています。あなたはキリストの分け前を持っていますし、わたしもキリストの分け前を持っています。もし朝わたしたちが主に近づかず、一日中彼と語らず、彼を享受せず、経験しないなら、わたしたちは非常に貧しくなるでしょう。しかしながら、朝わたしたちが主を享受し、一日中、特に困難な時に主を経験することによって、努め励んで主と交わるなら、わたしたちは内側にキリストの要素を持ちます。(リー全集、1970年、第3巻(下)、「宗教的な儀式から救い出されて、霊にしたがって歩く」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第15日

第5週6日

 

わたしたちは主の御名の中で祈ります

 

ヨハネ14:13

あなたがたがわたしの名の中で求めるものは何でも、わたしはそれを行なう.子の中で、父の栄光が現されるためである。

 

ヨハネ16:24

今までは、あなたがたはわたしの名の中で何も求めなかった.求めなさい.そうすれば、あなたがたは受ける.それは、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

 

「ヨハネによる福音書は、わたしたちが主の御名の中で祈るべきであるということを明確にしています(ヨハネ14:13.15:16.16:24,26)。ヨハネ第14章から第16章で、主イエスがはっきりと指摘したのは、主の中で生きている人たちによる主の御名の中での祈りが、神のみこころを成就する祈りであるということです(ヨハネ14:13.15:16.16:24,26.4:34.5:30.6:38)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが主の御名の中で祈ることができますように。主よ、わたしたちが主の御名の中で、神のみこころにしたがって祈ることができますように。わたしたちが主の御名の中で祈り、神のみこころを成就することができますように。

 

 

主の御名の中での祈りは、神のみこころを成就する祈りです

 

 主の御名の中で祈ることは、祈る人であるあなたが主に結合されることを意味します。あなたが主の御名の中で祈るとき、主はあなたと共に祈られます。…… ヨハネによる福音書第14章から第16章で、主イエスがはっきりと指摘したのは、主の中で生きている人たちによる主の御名の中での祈りが、神のみこころを成就する祈りであるということです。わたしたちは最初主の御名の中で祈る必要があると聞いた時、主の御名の中でどんなことのためにも祈ることができると思いました。

 

 しかし、わたしたちは学課を学ぶにつれて、自分が祈りたい十の事柄の中から、わずか二つしか祈ることができないことを見いだします。わたしたちが認識するのは、他の八つが主のみこころではないので、主がわたしたちと共に祈ることができないということです。主の御名の中での真の祈りはすべて、確かに神のみこころにしたがっています。…… あなたがあなた自身の中にいるとき、多くの願いを持つかもしれませんが、いったんあなたが向きを変えて主の御名の中へと入り込むなら、あなたの願いは制限され、あなたはただ求めることのできないものが多くあることを見るでしょう。(「祈りの学課(後篇)」、第20章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第14日

第5週5日

 

無益な言葉は命を漏らす穴です

 

エペソ4:25,29

そういうわけで、偽りを脱ぎ捨て、おのおのその隣人と共に真実を語りなさい。……腐敗した言をあなたがたの口から出すことなく、必要に応じて、建造するのに良い言だけを語り、聞く人たちに恵みを与えるようにしなさい。

 

「わたしたちの語る事(わたしたちのすべての言葉)は、主イエスの御名の中にあるべきです(コロサイ3:17.エペソ4:25,29.マタイ12:36-37)。腐敗した言をわたしたちの口から出すべきではなく、真実だけを語り、聞く人たちに恵みを与えるべきです(エペソ4:25,29)。「人は自分が語るすべての無益な言葉について、裁きの日に言い開きをしなければならない」(マタイ12:36)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが偽りを脱ぎ捨てて真実を語り、聞く人たちに恵みを与えることができますように。主よ、わたしたちは心に満ちているものを口が語ります。ですから、わたしたちの無益な言葉を対処するために、まずわたしたちの心を対処することができますように。

 

 

無益な言葉を対処するために、まず心を対処します

 

 マタイによる福音書第12章36節は、人々の語った汚れた言葉、非難の言葉、人々の語った悪口でしょうか? そうではありません。ここでは、人々の語った「無益な言葉」について語っているのです。無益な言葉とは、余計な言葉、不適当な言葉、不必要な言葉、うわさ話の言葉です。……  無益な言葉は命を漏らす穴です。それではどうしたらよいのでしょうか? わたしたちは口を守らなければなりません。それにはまず心を対処することです。主は、「なぜなら、心に満ちているものを、口が語るからである」(マタイ12:34)と言われました。心にそのようなものがあるからこそ、口が語るのです。あなたの心に何かあれば、遅かれ早かれ口に出して言ってしまうのです。

 

 ですから、あなたは主の御前で無益な言葉を話さないことを学ぶには、まず心を対処することから始めなければなりません。もし心を対処しないなら、口は永遠に対処することができません。なぜなら、心の中にさまざまなものが満ちているからこそ、口からいろいろと出るのです。ですから、わたしは口では言うが心では思っていないなどと、決して言ってはなりません。……なぜなら、あなたの心にあることを、口はそのまま語るからです。ですから、無益な言葉を対処するには、まず心を対処しなければなりません。(ニー全集、第37巻、第9編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第13日

第5週4日

 

すべての時に、わたしたちの主イエス・キリストの御名の中で感謝をささげます

 

エペソ5:20

そしてすべての時に、すべての事に対して、わたしたちの主イエス・キリストの御名の中で、神また父に感謝をささげ[なさい]。

 

コロサイ3:17

また、あなたがたは何をするにしても、言や行ないにおいて、すべての事を主イエスの御名の中で行ない、彼を通して父なる神に感謝をささげなさい。

 

「わたしたちは、日常生活において、また召会の中の奉仕において、すべての事を主イエスの御名の中で行なう必要があります(コロサイ3:17)。名はパースンを示すので、イエスの御名の中で事を行なうことが意味するのは、彼のパースンの中ですべての事を行なうということです(コロサイ3:17.ローマ6:3.8:1.Ⅰコリント4:15.Ⅱコリント5:17)。召会におけるわたしたちの奉仕は、わたしたちがすべての事を主イエスの御名の中で行なうことを必要とします(ローマ1:9.6:6.7:6.12:1,7.コロサイ3:17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがすべての事を主イエスの御名の中で行ない、主イエス・キリストの御名の中で感謝をささげることができますように。わたしたちの奉仕が主によって開始され、命を供給するものとなりますように。

 

 

すべての事を主イエスの御名の中で行ないます

 

 わたしたちのクリスチャンの生活と奉仕の中で、わたしたちはすべての事を主イエスの御名の中で行なう必要があります。エペソ人への手紙第5章20節は、わたしたちがすべての時に、わたしたちの主イエス・キリストの御名の中で感謝をささげる必要があると言い、コロサイ人への手紙第3章17節は、わたしたちがすべての事を主イエスの御名の中で行なう必要があると言っています。……

 

 わたしたちは主イエスの御名の中にいるとき、キリストの中におり、キリストはわたしたちの中におられ、わたしたちはキリストと一です。わたしたちが物事を主イエスの御名の中で行なっていると言うとき、全宇宙は、キリストと完全に一である人々がいることに気づかせられます。御使いたちはこれを尊び、すべての悪鬼どもはこれを恐れます。悪鬼どもは主イエスの御名を少しでも聞くことを恐れています。わたしたちはその御名を述べるだけでなく、自分が主イエスの御名の中にいるという事実を述べます。そのように宣言することは、とても大きな事なことを意味します。すべての事を主イエスの御名の中で行なうなら、わたしたちは勝利です。(「1990年秋、訓練生へ語られたメッセージ」、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第12日

第5週3日

 

わたしたちが主イエスの御名の中にいることは、神聖な三一と関係があります

 

ヨハネ5:43

わたしはわたしの父の御名の中で来たが、あなたがたはわたしを受け入れない.もし他の者が自分の名の中で来るなら、あなたがたは彼を受け入れるであろう。

 

14:26

しかし慰め主、すなわち、父がわたしの名の中で遣わされる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、またわたしがあなたがたに言ったすべての事を思い起こさせてくださる。

 

「ヨハネによる福音書の中で啓示されているように、わたしたちが主イエスの御名の中にいることは、神聖な三一と関係があります(ヨハネ5:43.10:25,30.14:26.15:26)。ヨハネ第5章43節は、御子が御父の御名の中で来ると言っており、第14章26節は、御父が御子の御名の中でその霊を遣わすと言っています。これら二つの節において、神聖な三一が啓示されています」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主イエスの御名を愛します。御父が御子の御名の中でその霊を遣わしてくださったことを感謝します。真の慰め主が実際の霊として来られ、今わたしたちの霊の中におられることを感謝します。神聖な三一の分与を感謝します。

 

                   

御父が御子の御名の中でその霊を遣わされました

 

 ヨハネによる福音書第5章43節で、御子は御父の御名の中で来られます。第14章26節では、御父は御子の御名の中でその霊を遣わされます。この短い二つの文章の中に、神聖な三一が啓示されています。新約は、御子が御父の御名の中で来ると言う時、これは御子と御父が一であることを示します。新約が御父は御子の御名の中でその霊を遣わすと言う時、これは御父が御子と一であることを示します。御父と御子は二つの事を行なわれます。すなわち、御子が御父の御名の中で来ることと、御父が御子の御名の中でその霊を遣わされることです。それぞれが、他の御名の中で事を行ないます。これは、彼らが一であることを意味します。…… 

 

 御父と御子はいずれも、その霊を遣わします。このことが示しているのは、御父と御子が一であるということです。さらに、その霊が来る時、御父と御子も共に来られます。御父と御子とその霊は三者ですが、彼らは一です。すなわち、彼らは三一です。(「1990年秋、訓練生へ語られたメッセージ」、第4章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第11日

第5週2日

 

すべての事を主イエスの御名の中で行ないます

 

コロサイ3:17

また、あなたがたは何をするにしても、言や行ないにおいて、すべての事を主イエスの御名の中で行ない、彼を通して父なる神に感謝をささげなさい。

 

「主イエスの御名の中で」は、実は「主ご自身の中で」を意味します。なぜなら、名はパースンを示しているからです(コロサイ3:17)。わたしたちが見るべき極めて重要なことは、主イエスの御名の中にいることの意味が、わたしたちが主と一であるということ、またわたしたちが彼の中におり、彼がわたしたちの中におられることであるということです(ローマ8:10.Ⅱコリント13:5.ガラテヤ3:27-28.コロサイ1:27)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがあなたの中におり、あなたがわたしたちの中におられることを感謝します。主よ、わたしたちがすべての事を主イエスの御名の中で行なうことができますように。主よ、わたしたちが、主によって生き、また主にわたしたちの中で生きていただくことができますように。

 

 

主イエスの御名の中にいることは、わたしたちが主と一であるということです

 

 わたしたちが見るべき極めて重要なことは、主イエスの名の中にいることの意味が、わたしたちが彼と一であるということ、またわたしたちが彼の中におり、彼がわたしたちの中におられることであるということです。相互内在の方法で御子が御父の中におられ、御父が御子の中におられるように、わたしたちもこの方法で主と一でなければなりません。わたしたちと主イエスは相互内住すべきです。すなわち、わたしたちは彼の中におり、彼にわたしたちの中にいていただく必要があります。そうすれば真に、わたしたちは主の御名の中にいるでしょう。

 

 ヨハネによる福音書第14章と第15章に啓示されている基本的な真理によれば、主の御名の中でが意味することは、主と一であることであり、主によって生きることであり、わたしたちの中で主に生きていただくことです。……ですから、主の御名の中にいることは、実際的に彼と一であることを意味します。聖書的な用法によれば、このすべての節は、ある人の名の中でとは、その人と一であることを意味します。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(2)」、第42編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第10日

第5週1日

 

宇宙における最高の名、最も大いなる名はイエスの御名です

 

ピリピ2:9-10

それゆえに、神もまた、彼を高く引き上げ、そして、あらゆる名にまさる名を彼に与えられました.それは、天にあるもの、地上にあるもの、地下にあるものが、イエスの御名の中で、すべてひざをかがめるためであり。

 

「宇宙における最高の名、最も大いなる名は、イエスの御名です(ピリピ2:9-10)。主はご自身をむなしくし、人としての有り様で見いだされ、ご自身を極みまで低くしましたが、神は彼を最高峰に引き上げました(ピリピ2:7-8)。主は引き上げられることによって、あらゆる名を超える名、すなわち、唱えられるあらゆる名をはるかに超える名が与えられました(エペソ1:20-21)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは十字架の死に至るまでもご自身を低くされました。そして、神はあなたを高く引き上げ、あらゆる名を超える名を与えられ、昇天において主またキリストとされました。わたしたちは「イエス・キリストは主である」と公に言い表し、主イエスの御名を呼びます。「おお、主イエスよ!」。 

 

 

主はご自身を極みまで低くしましたが、神は彼を最高峰に引き上げました

 

 昇天においてキリストは、神が引き上げ、あらゆる名にまさる名を受けた方です[ピリピ2:9]。……キリストは何とすばらしいでしょう! 彼はご自身を極みまで低くされましたが、神は彼を最高峰に引き上げられました。ピリピ人への手紙第2章9節で言っている名とは、次の節で述べているイエスの名のことです。キリストの昇天の時以来、イエスの御名にまさる名は地上にありません。神はイエスを引き上げ、すべてのものの主とされました。

 

 ですから、わたしたちが「おお、主イエスよ」と呼ぶことは全く正しいのです。わたしたちは主の御名を公に言い表す必要があります。新約には、わたしたちが主の御名を呼ぶべきであると述べた明確な言葉があります(使徒2:21.ローマ10:13)。主は引き上げられて、あらゆる名にまさる名を与えられました。歴史上、主イエスの名よりも高い名は決してありませんでした。宇宙における最高の名、最も大いなる名はイエスの御名です。(「新約の結論(2)」、メッセージ31

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第8日

第3週6日

 

主の回復の中で共に立ち上がって、キリストをわたしたちのパースンとします

 

エペソ4:24

また、あの実際の義と聖の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着たのです。

 

エペソ4:13

ついにわたしたちすべては、その信仰の一に、また神の御子を知る全き知識の一に到達し、一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達するのです。

 

「わたしたちはおおいを取り去られて、照らされるなら、今日、一人の新しい人のために、主の回復の中で共に立ち上がってキリストをわたしたちのパースンとする必要があることを見るでしょう(エペソ3:17前半.4:24,11-13)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、召会はキリストの豊満であり、地上における一人の新しい人です。主よ、この新しい人が完成されるために、わたしたちが新しい人の中で、新しい人と共に、キリストをわたしたちのパースンとすることができますように。

 

 

一人の新しい人が完成されるとき、主が来られる時となります

 

 神の定められた御旨は、神を表現し、神の統治権を行使するための人を持つことです。古い人は神を失望させましたが、神は古い人を置き換えるために新しい人を起こされました。……わたしたちの神は決して打ち破られ得ません。今こそ、神が新しい人を完成するというご自身の定められた御旨を達成される時です。この新しい人は地上に完全に存在するようになります。

 

 神はご自身を表現し、ご自身の統治権を行使するための、そのような人を必要としています。この新しい人が完成されるとき、主が来られる時となり、その完成された新しい人は花嫁となります。わたしたちには、そのようなビジョンが必要です。(リー全集、1977年、第3巻(下)、「一人の新しい人」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第7日

第3週5日

 

キリストをパースンとするとき、わたしたちの生活は新しい人の生活となります

 

ローマ15:32

こうして神のみこころによって、喜びのうちにあなたがたの所へ行って、あなたがたと共に自分自身を新鮮にし安息するのです。

 

ピレモン14

しかし、あなたの同意なしに、わたしは何もしたくありません.それは、あなたの善が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。

 

「一人の新しい人が実際に出現するために、古い人のパースン全体は脱ぎ捨てられなければならず、わたしたちは自分の新しいパースンであるキリストによって生きなければなりません(ローマ6:6.ガラテヤ2:20.エペソ4:22,24.3:17前半)。わたしたちは、キリストをわたしたちのパースンとすることによって日常生活をするとき、特に決定をすることにおいてキリストをパースンとするとき、わたしたちの生活は新しい人の生活となります(ヨハネ4:34.5:30.6:38.17:4.ローマ15:32.ヤコブ4:13-15)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 主よ、わたしたちの以前のパースンは十字架につけられたことをしっかり認識することができますように。主よ、わたしたちの日常生活において、何事も主に決定していただくことができますように。

 

 

キリストをわたしたちのパースンとして、日常生活のことを決定します

 

 からだは命の事柄であり、新しい人はパースンの事柄です。からだは行動のためであり、活動のための手段です。召会が福音を宣べ伝えるとき、これは一つの活動です。この活動はからだの中にあり、からだによって成し遂げられます。新しい人は行動するためではありません。新しい人は決定するためであり、また生活するためです。……からだは行動するためであり、新しい人は生活するためです。新しい人に関して、エペソ人への手紙第4章24節は、義と聖の中で神にしたがって創造されたと言います。義と聖は、わたしたちの生活の状態です。

 

 こういうわけで、生活は完全に新しい人の事柄です。新しい人は生活するためであり、わたしたちの生活の八割から九割は決定することにあります。ですから、あなたは二つの事を見ることができます。すなわち、からだとしての召会は行動するためであり、新しい人としての召会は決定することによって生活するためです。(リー全集、1977年、第3巻(下)、「一つからだ、一つ霊、一人の新しい人」、第5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第6日

第3週4日

 

一人の新しい人としての召会のために、キリストをわたしたちのパースンとします

 

コロサイ3:10-11

新しい人を着たのです.その新しい人は、それを創造された方のかたちにしたがって全き知識へと至るように、新しくされつつあるのです.その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません.キリストがすべてであり、すべての中におられるのです。

 

「一人の新しい人としての召会のために、わたしたちはキリストをわたしたちのパースンとする必要があります(エペソ3:17前半.4:24.コロサイ3:4,10-11)。召会、キリストのからだは、一人の新しい人であり、神の永遠の定められた御旨を完成します(エペソ1:9,11.3:9.ローマ8:29)。召会がキリストのからだであることの強調点は、命にあります。召会が一人の新しい人であることの強調点は、パースンにあります」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。一人の新しい人としての召会を愛します。一人の新しい人としての召会のために、わたしたちが自分自身を否み、キリストをわたしたちのパースンとすることができますように。

 

 

主はこの時代に、正常な召会生活を回復し、新しい人である彼のからだを建造します

 

 キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造るために、わたしたちは彼をわたしたちの命とするだけでなく、わたしたちのパースンともする必要があります。人のおもな構成要素は、人の思い、感情、意志です。ですから、わたしたちはキリストをわたしたちのパースンとするために、わたしたちの自己、すなわち、思い、感情、意志を否む必要があり、また自己を顧慮するのではなく、キリストを顧慮すべきです。……

 

 今日、わたしたちは現在の時代の終わりに近づいており、主はこの時代に、正常な召会生活を回復し、新しい人である彼のからだを建造することによって彼の再来を早めることを意図しておられます。……もしわたしたちがみな自己によって生きるなら、共に集まるとき、多くの天然の人がいて、…… わたしたちは分裂するでしょう。しかしながら、わたしたちがみなわたしたちのパースンとしてのキリストによって生きるなら、人種、文化、国籍に関係なく、わたしたちは彼の中で一であるでしょう。なぜなら、わたしたちは新しい人の実際の中へと入るからです。(リー全集、1971年、第1巻(下)、「キリストのからだ、また新しい人としての召会の建造のためにキリストを経験する」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第5日

第3週3日

 

わたしたちはキリストをわたしたちのパースンとします

 

エペソ3:17

またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ。

 

ピリピ2:5

キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたがたの内側でも思いとしなさい。

 

「キリストをわたしたちのパースンとすることは、わたしたち自身を強いて彼に服従させることではなく、彼に対するわたしたちの愛のゆえに、彼の好みにしたがって生活することです(Ⅰヨハネ4:19)。わたしたちはキリストをわたしたちのパースンとするなら、成長し円熟することができます(2:19.エペソ3:17前半.4:13,15)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。あなたの御名を愛します。わたしたちを内なる人の中へと増強してください。主よ、あなたがわたしたちの霊からわたしたちの思い、感情、意志に浸透してください。そして、わたしたちの心の中にご自身のホームを造ってください。

 

 

キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造るとき、わたしたちは彼をパースンとします

 

 エペソ人への手紙第1章によれば、わたしたちは神がキリストの内に働かせた力を経験する必要があり、エペソ人への手紙第3章によれば、わたしたちはキリストをわたしたちのパースンとする必要があります。…… キリストにわたしたちの中に定住していただくために、わたしたちは内なる人の中へと、すなわち、わたしたちの再生された霊の中へと増強される必要があります。多くの信者の心の中で、キリストはわずかにご自身のホームを造っておられるにすぎません。なぜなら、それらの信者たちは彼らの思い、感情、意志の中では強いのですが、霊の中では弱いからです。……    

 

 わたしたちが内なる人の中へと増強されるために、わたしたちは主の御名を呼び求め、自分の罪を告白し、自分の失敗について主に赦しを求め、彼の尊い血で清めていただく必要があります(Ⅰヨハネ1:7、9)。わたしたちは主の御名を呼び求めれば呼び求めるほど、主で満たされ、ますますわたしたちの内なる人の中へと増強されるでしょう(ローマ10:12-13)。[そのとき]、主はわたしたちの霊からわたしたちの心の各部分の中へと広がり、思いに浸透し、感情を満たし、意志をご自身で占有されるでしょう。その結果、主はわたしたちの内なる全存在を支配し、わたしたちの中に完全に定住し、こうしてわたしたちの心の中にご自身のホームを造られます。キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造るとき、わたしたちは彼を十分な方法でわたしたちのパースンとするでしょう。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第4日

第3週2日

 

わたしたちの再生された霊は、わたしたちのパースンです

 

ガラテヤ2:20

わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです……。

 

 「わたしたちの再生された霊は、内住するキリストをそのパースンとする内なる人です(ヨハネ3:6.エペソ3:17前半)。わたしたちはキリストをわたしたちのパースンとしようとするなら、わたしたちの再生された霊がもはや単に、わたしたちが神と接触する器官であるだけでなく、わたしたちのパースンでもあることを見なければなりません(17節前半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられます。主よ、内なる人は再生された霊であり、神の命を持っていることを感謝します。主よ、古いわたしを否み、キリストをわたしのパースンとして生きることができますように。

 

 

わたしたちの自己、古いパースンを否み、キリストを新しいパースンとします

 

 最初わたしたちが自分の存在を主に開き、主の御名を呼び求めたとき、主はわたしたちの霊の中へと入って来られました。そして、主はいったんある人の霊の中へと入ると、永遠にその人の霊の中に住み、彼の命となられます。今やわたしたちは霊の中に主を命として持っているので、わたしたちの霊はもはや単に器官であるだけではなく、パースン、人となりました。こういうわけで、聖書はわたしたちの外なる人と内なる人について語っているのです(Ⅱコリント4:16、Ⅰペテロ3:4)。外なる人は魂であり、内なる人は再生された霊であって、神の命をその命として持っています。……

 

 再生を通して、キリストが命としてわたしたちの霊の中へと入り、わたしたちの霊はわたしたちの内なる人、わたしたちのパースンとなりました。 ……わたしたちの以前のパースン、わたしたちの自己は魂の中にあるのですが、わたしたちの新しいパースン、キリストはわたしたちの霊の中におられます。ですから、わたしたちはわたしたちの自己、古いパースンを否み、キリストを新しいパースンとする必要があるのです。(リー全集、1971年、第1巻(下)「新しい人、キリストのからだ、キリストの花嫁としての召会のためにキリストを経験する」、第3編

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第3日

第3週1日

 

キリストをわたしたちのパースンとする

 

ヨハネ5:19

……子は、父が行なわれることを見ないでは、自分から何もすることができない.父が行なわれることは何であれ、子も同じように行なう。

 

ヨハネ14:10

……わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない.わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである。

 

「神のエコノミーにおける神の意図は、ご自身をわたしたちの中へと造り込んで、わたしたちの命とするだけでなく、わたしたちのパースンともすることです(ガラテヤ4:19)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは自分からは何もしないで、御父をパースンとして生き、行動されました。主イエスよ、わたしたちも主をわたしたちの命とし、またパースンとして、主のゆえに生きることができますように。

 

 

主をわたしたちのパースンとすることによって、主のゆえに生きます

 

 ヨハネによる福音書は、主イエスが彼の人の生活において、御父を彼のパースンとされたことを啓示しています[5:19]。……30節で彼は言われました、「わたしは自分からは何も行なうことができない.わたしは聞くとおりに裁く」。御父が主のパースンであり、主は彼のパースンとしての御父によって生きました。神の御子としての主は全能でしたが、自分からは何もすることができないと宣言しました。なぜなら、彼は自分自身によって生きたのではなく、彼のパースンとしての御父によって生きたからです。……

 

 主は御父をパースンとすることによって、あらゆる言葉を語られました[14:10]。第6章57節で主は言われました、「生ける父がわたしを遣わされ、わたしが父のゆえに生きているように、わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる」。主が御父を彼のパースンとすることによって御父のゆえに生きられたように、わたしたちも主をわたしたちのパースンとすることによって主のゆえに生きるべきです。(リー全集、1971年、第1巻(下)、「新しい人、キリストのからだ、キリストの花嫁としての召会のためにキリストを経験する」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


7月の祈り 第1日

第1週6日

 

キリストの豊富を経験し享受して、神の全豊満へと至ります

 

エペソ3:16-19

どうか御父が、……力をもって、彼の霊を通して、あなたがたを内なる人の中へと増強してくださいますように.またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ、力に満たされて、すべての聖徒たちと共に、その広さ、長さ、高さ、深さが何であるかを会得し、…… あなたがたが満たされて、神の全豊満へと至るように。

 

「わたしたちは真の召会生活を持つために、キリストの豊富を経験し享受する必要があります(エペソ3:8)。わたしたちの霊は、キリストの豊富で養われて、ついにわたしたちは満たされて神の全豊満へと至ります(8節)。わたしたちがみなキリストの豊富を経験し享受するなら、キリストの豊満、すなわちキリストの表現としての真の召会生活が、自然に生み出されます(エペソ3:8, 17前半.2:22)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストが信仰を通してわたしたちの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように。そして、キリストの豊富を経験し享受することができますように。主よ、わたしたちが満たされて、神の全豊満へと至りますように。

 

 

真の召会生活を持つために、キリストの豊富を経験し享受します

 

 まず、わたしたちは霊の中で再生されました。今やわたしたちは、わたしたちの霊の中へと増強される必要があります。それは、キリストがご自身をわたしたちの霊から心全体の中へと[エペソ3:16-17]、すなわち、わたしたちの内なる全存在の中へと広がらせることができるためです。キリストはこのようにわたしたちの内側で広がることによって、わたしたちの心を占有し、わたしたちの心の中にご自身のホームを造られます。

 

 キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造る結果、わたしたちは力に満たされて、すべての聖徒たちと共に、キリストの計り知ることのできない大きさ、すなわちその広さ、長さ、高さ、深さを会得します(17-18節)。最終的に、わたしたちは満たされて、神の全豊満へと至ります(19節)。この豊満は、神の中に隠された奥義としての召会です。(リー全集、1967年、第2巻(下)、「キリストの豊富を享受して彼の豊満としてのからだとなる」、第6編)

 

 (JGW日本福音書房 回復訳聖書より)