朝ごとの食物

結晶の学び 列王紀上,下  第11週4日~10月長老責任者訓練 第5週6日

 

12月の祈り 第31日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第5週6日)

 

召会生活の実際は霊的な足洗いによります

 

エペソ5:18

また酒に酔ってはいけません.そこには放蕩があるからです.むしろ霊の中で満たされ[なさい]。

 

ローマ15:32

こうして神のみこころによって、喜びのうちにあなたがたの所へ行って、あなたがたと共に自分自身を新鮮にし安息するのです。

 

「霊的な足洗いがなければ、召会生活は実際化されることができず、召会生活の実際はなくなります。他の人の足を洗うために、わたしたちは日ごとに聖霊で満たされ、絶えず主と交わり、ミングリングされた霊の中で生きなければなりません(エペソ5:18.3:19.Ⅱコリント3:16-18.ローマ8:16.Ⅰコリント6:17.ローマ8:4,6)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがみな互いに足を洗うことができる人たちになるように学ばせてください。そのために、日ごとに聖霊の中で生活し、絶えず主との交わりの中にいることができますように。

 

 

互いに足を洗うことができる人たちになるように学ぶ必要があります

 

「わたしたちは、他の人たちの足を洗うことを主の御前で熱望すべきです。他の人の足を洗うために、わたしたちには水がなければなりません。すなわち、わたしたちは聖霊で満たされて、絶えず主との交わりの中にいなければなりません。このために、わたしたちは日ごとに聖霊の中で生活しなければなりません。そのときはじめて、わたしたちは生ける水を持ち、他の人の足を洗います。毎回わたしたちが集会に来るとき、生ける水を持ち、他の人の足を洗わなければなりません。

 

 わたしたちは、水を持たずに、他の人の足を決して洗おうとしてはなりません。洗おうとすると、彼らの足をますます汚してしまいます。他の人の足を洗うことができない人たちは、やはり神と交わり、交流ができるかもしれませんが、彼らの霊は確実に冷えています。今日、主はだれの足も直接洗われません。その代わり、主はわたしたちに、互いに足を洗い合うように命じておられます。わたしたちはみな、互いに足を洗うことができる人たちになるように学ばなければなりません」。(ニー全集、第42巻、第36編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第30日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第5週5日)

 

わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます

 

Ⅱコリント4:16

こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます。

 

 「足洗いが意味するのは、わたしたちの以前の感覚を回復し、わたしたちを命の新鮮さと新しさに戻し(ローマ6:4)、わたしたちに新鮮な力を与えて(詩27:1, 4)、わたしたちが以前いかに主をわたしたちの初めの愛として尊び、彼を万物のうちで第一位としたか(啓2:4-5.コロサイ1:18後半)を回復するということです」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちを命の新鮮さと新しさに戻してください。主よ、わたしたちが初めの愛に戻り、すべてのことで、あなたを第一位とすることができますように。主よ、わたしたちが日ごとに聖霊の更新を通して、新鮮で活力に満ちることができますように。

 

 

わたしたちは日ごとにその霊の更新を必要とします

 

 数日前、わたしは自分の足が汚れたと感じました。最初わたしは、自分は罪を犯したと思い、そして罪を対処しようとしました。しかし、神はやはりわたしからとても遠く離れておられました。わたしは、自分自身と神との間に分離があると感じました。……その後わたしは、救われてわずか二、三か月の姉妹に会いました。彼女は自分の救いの経験を話し、いかに家族から迫害されたかについてわたしに話しました。彼女は、わたしが彼女にいくらかの助けを与えることを望んでいました。

 

 わたしはこれを聞いた時、こう言いました、「主に感謝します。わたしが来た時、わたしの足は汚れていました。しかしわたしが帰る時、わたしの足はきれいになっているでしょう。なぜなら、あなたの証しがわたしの経験の古さを洗い去ったからです」。テトスへの手紙は、聖霊の更新を述べています(3:5)。これはとても尊い表現です。わたしたちは日ごとにその霊の更新を必要とします。それは、わたしたちが常に霊的に新鮮で、活力に満ちることができるためです。(ニー全集、第42巻、第31編))

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第29日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第5週4日)

 

主はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水辺に伴われます

 

詩23:2-3

彼はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水辺にわたしを伴われます。彼はわたしの魂を回復し、彼の御名のために、わたしを義の途に導かれます。

 

「主は常に新鮮であり、わたしたちが絶えず新鮮であって、霊的に無気力にならないことを願っています。こういうわけで、彼はわたしたちを緑の牧場に伏させ、憩いの水辺にわたしたちを伴い、わたしたちの魂を回復するのです。足洗いは、わたしたちと主との間の親密な交わりを維持し、わたしたちの霊的な活力と霊的な新鮮さを再び燃え立たせます(詩23:2-3.使徒3:20.参照、申34:7)」。

 

 主よ、あなたを愛します。わたしたちは、生活している中で暗くなり、無気力になってしまいます。そのとき、主よ、あなたがわたしたちを緑の牧場に伏させてくださることを感謝します。霊的な足洗いによって、日々わたしたちを新鮮にしてください。  

 

 

主は常に新鮮であり、絶えずわたしたちを新鮮にしておられます

 

 今日キリストにある多くの信者は、霊的な成長が停滞しています。彼らはしぶしぶ歌い、賛美し、祈ります。時にはこれは罪の結果ですが、多くの時、これはどんな罪の結果でもありません。彼らはただ足を汚しただけであり、霊的に無気力になったのです。わたしたちは、わたしたちが絶えず新鮮であることを、主が願っておられることを認識しなければなりません。こういうわけで、彼はわたしたちを緑の牧場に伏させると言われるのです(詩23:2)。……主は、わたしたちが……毎日、新鮮であることを願っておられます。わたしたちは昨日は黄色であったかもしれませんが、今日再び緑になることができます。今朝わたしたちは黄色であったかもしれませんが、午後緑になることができます。

 

 主は新鮮な流れる水です。主は、五分間流れて止まるということはされません。主は絶えず日ごと、月ごと、年ごとに流れます。主が不足する時間は一分さえありません。主は常に新鮮であり、絶えずわたしたちを新鮮にしておられます。この命に、主はわたしたちを導いて生きさせようとしておられます。ここには力、喜び、平安、聖があります。このように生きることによってのみ、わたしたちは主の命を表現することができます。…… 大きな勝利の後、やはり小さな日ごとの勝利があります。これは主の御前でのわたしたちの日ごとの経験であるべきです。(ニー全集、第42巻、第31編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第28日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第5週3日)

 

自分の上着を脱いで、人の足を洗います

 

ヨハネ13:14-15

それで……わたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたに行なったように、あなたがたも行なうようにと、わたしはあなたがたに模範を与えたのである。

 

「わたしたちが主の臨在の中にとどまるなら、主はわたしたちに来てわたしたちを洗います。それは血をもってではなく、その霊、生ける言葉、内なる命をもってです」。

 

 主よ、あなたを愛します。主がわたしたちの足を洗ったように、わたしたちも人の足を洗うことができますように。主が上着を脱いだように、わたしたちも自分の上着を脱いで人の足を洗うことができますように。主による足洗い、またわたしたち相互の足洗いが豊かに行なわれますように。

 

 

人の足を洗うために、自分自身を低くする必要があります

 

 主は弟子たちの足を洗った時、彼の上着を脱がれました。……予表では、上着は主の美徳と属性の表現を表徴し、彼の上着を脱ぐことは、彼が何であるかの表現を脱ぎ去ることを表徴します。……同じように、あなたが人の足を洗おうとする時はいつでも、あなたの成就したこと、美徳、属性を脱ぐ必要があります。これが実際のへりくだり、真に自分自身を低くすることです。わたしたちは人の足を洗うことができるまでに、自分自身を低くする必要があります。多くの[信者]はとても霊的ですが、また高ぶっています。……彼らは共に集まる時、他の人たちを見下し、彼らは天的ビジョンを決して見たことはないし、霊的な事は何も知らないと考えます。……

 

 もしわたしたちがこのような態度をとるなら、人に足洗いを供給することは不可能でしょう。聖徒たちと共に集まる時はいつでも、これとは反対に、自分の上着を脱ぎ、自分が成就したことを忘れなければなりません。……もしわたしたちがこの高ぶった態度を取るなら、人を助けることは決してできません。……わたしたちはあらゆる程度の霊性を脱ぎ、単純になり一般的になって、自らにこう言わなければなりません、「わたしは無です。わたしの中には何も特別なものはありません。わたしには身にまとう一本のタオル、一枚の布があるだけです」。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ」、第28編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第27日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第5週2日)

 

再生の洗いと聖霊の更新を通して救われます

 

テトス3:5

彼はわたしたちを救ってくださいました.それは、……彼のあわれみによってであり、再生の洗いと聖霊の更新を通してです.

 

ヨハネ15:3

わたしがあなたがたに語った言のゆえに、あなたがたはすでに清いのである。

 

「今日この世は汚れており、わたしたち、聖徒は容易に汚染されます。わたしたちは主との、また互いの喜ばしい交わりを維持するために、主によって彼の愛の中で、また互いによって愛の中で遂行される霊的な足洗いを必要とします。これは、わたしたちが神聖な命の交わりの中で生きるために絶対に必要です」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはこの世で生きていますから、容易に汚れてしまいます。主よ、神から分離されていると感じるとき、互いの霊的な足洗いを通して、神聖な命の交わりの中に生きることができますように。

 

 

主の愛の中で、また互いによって愛の中での霊的な足洗いを必要とします

 

 学生は学校で勉強のために忙しく、主婦は家庭で家事のことに携わります。いったん人がこれらの諸事で占有されるなら、天は移動してしまったかのように感じます。……人は祈るのにいくらかの時間を取ることができるかもしれませんが、言うことがありません。ただ御言の表面的な文字に触れることができるだけで、もはや内側の実際に触れることができません。祈りの集会になる時、祈りたくなるかもしれませんが、言葉に欠けます。…… ハレルヤと叫ぶことができ、言葉と響きは同じままであるかもしれませんが、意味と味わいは異なっています。その人は、何かが自分を神から分離したと感じますが、どのような罪も正確に指摘することができません。……

 

 もし罪を通して神から分離されたのであれば、十字架で流された血を適用してその罪を対処すべきです。しかし、これは罪の問題ではないようです。その人は、ただ何となく薄暗いと感じ、以前の明るさを失っています。……これは通常の罪と異なっています。必要なのは足洗いです。足洗いとは何でしょうか? それは、罪を対処する以外に、わたしたちを神から分離するすべてのものを対処することです。…… 主に感謝します。主はわたしたちを罪から洗ってくださっただけでなく、わたしたちの足も洗ってくださいました。(ニー全集、第42巻、第31編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第26日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第5週1日)

 

主は上着を脱いで、弟子たちの足を洗いました

 

ヨハネ13:3-5

イエスは、父がすべてをご自分の手に与えられたこと、またご自分が神から来て、神に行こうとしていることを知って、晩餐の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、腰に巻かれた.それから、たらいに水を注ぎ入れ、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

 

「足洗いは単に物質の意味で取られるべきではなく、それにもまして内在的に、さらに深く、さらに重要で、霊的な意味で取られるべきです」。主が脱いだ上着は、主の表現における主の美徳と属性を表徴します。ですから、彼は、ご自身の表現において彼であるものを脱いでいました。主が手ぬぐいをご自身の腰に巻くことは、彼がへりくだりをもって縛られ、制限されることを表徴します(参照、Ⅰペテロ5:5)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは弟子たちを極みまで愛され、弟子たちの足を洗われました。主よ、わたしたちの足はこの世のほこり、地的な接触で汚れてしまいます。主よ、わたしたちがへりくだって、互いに足を洗い合うことができますように。

 

 

あなたがたも互いに足を洗い合うべきである

 

 ヨハネによる福音書第13章1節は、主が「世にいるご自分の者たちを愛し、極みまで愛された」と言います。この愛のゆえに、主は弟子たちの足を洗われました。ですから、足を洗うことは愛の事柄、極みに至るまでの愛の事柄です。……これは足を洗うことの重要性を示します。これはわたしたちの極みまでの必要です。……ですから、主は彼の愛を極みに至るまでわたしたちに示すことによって、これを顧みなければならないのです。

 

 主イエスは彼の弟子たちの足を洗おうとして、彼の上着を脱がれました(4節)。ここの上着は、予表では主の表現における主の美徳と属性を表徴します。ですから、主が上着を脱ぐとは、ご自身の表現において彼であるものを脱ぎ去ることを表徴します。

 主は水で弟子たちの足を洗われました(5節)。ここの水は聖霊(テトス3:5)、言葉(エペソ5:26、ヨハネ15:3)、命(ヨハネ19:34)を表徴します。……主は聖霊の働きによって、御言の照らしによって、内なる命の法則の活動によって、霊的にわたしたちを洗われます。聖書では、これら三つの項目はそれぞれ水で表徴されます。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ」、第27編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第24日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第4週6日)

 

信仰を通して、キリストがわたしたちの心の中に、ご自身のホームを造ります

 

エペソ3:17

またキリストが、信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ。

 

エペソ4:15-16

むしろ、愛の中で真実を固く保って、わたしたちは……彼すなわちかしらであるキリストの中へと成長し込むのです.この方から、からだ全体は、……からだを成長させ、愛の中でそれ自身を建て上げるに至るのです。

 

「節々が供給することとそれぞれの部分が機能することは、からだを成長させ、神聖な愛の中でからだ自身を建て上げるに至ります(エペソ4:16)。からだ全体がからだを成長させます(参照、Ⅰコリント14:4後半,31)。キリストのからだの成長は、召会におけるキリストの増し加わりであり、それはからだ自身によってからだを建て上げるという結果になります(エペソ3:17前半)」。

 

 主よ、あなたを愛します。キリストのからだは愛の中でそれ自身を建て上げます。この愛はキリストの中にある神の愛です。主よ、わたしたちが、そのような神聖な愛の中で、からだの一のために互いに担い合うことができますように。

 

 

からだの成長は、愛の中でそれ自身を建て上げます

 

 からだの中で、ある人たちは節々であり、使徒、預言者、伝道者、牧する者また教える者のようです。他の人たちはそれぞれの部分であり、彼らの度量に応じて活動します。この二種類の肢体を通して、からだは成長し、この成長は愛の中でそれ自身を建て上げるに至ります。わたしたちは節々でなければ、それぞれの部分であるに違いありません。……

 

 わたしたちは節々だけが役立つと思うべきではありません。からだの中のあらゆる部分が、やはり役立ちます。……キリストのからだのどの肢体も、自分自身をさげすむべきではありません。わたしたちはみな、キリストの有機的なからだの節々であるか、あるいはそれぞれの部分であることで、主を賛美すべきです。……節々が供給することとそれぞれの部分が活動することを通して、からだ全体はからだを成長させ、からだの成長は愛の中でそれ自身を建て上げるという結果になります。(「手順を経て分与する三一の神の有機体であるキリストのからだとしての召会の有機的建造」、第3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第23日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第4週5日)

 

すべての事で、かしらであるキリストの中へと成長し込みます

 

エペソ4:15-16

むしろ、愛の中で真実を固く保って、わたしたちはすべての事で、彼すなわちかしらであるキリストの中へと成長し込むのです.この方から、からだ全体は、その豊富な供給のあらゆる節々を通して、またそれぞれの部分の度量に応じた活動を通して、結合され組み合わされ、からだを成長させ、愛の中でそれ自身を建て上げるに至るのです。

 

「かしらから、神聖な分与の中で、からだ全体は、その豊富な供給のあらゆる節々を通して緊密に結合され、またそれぞれの部分の度量に応じた活動を通して組み合わされ、織り合わされます(エペソ4:16)。キリストのからだのあらゆる肢体は、命における成長を通して度量を持ち、キリストのからだの成長と建造のために機能することができます」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが 愛の中で真実を固く保つことができますように。そして、大小すべての事で、キリストをかしらとすることができますように。そして、からだを成長させ、愛の中で建造されていきますように。

 

 

命における成長を通して度量を持ち、キリストのからだの成長と建造のために機能します

 

 わたしたちすべての肢体は、愛の中で真実を固く保って、すべての事で、かしらであるキリストの中へと成長し込まなければなりません(エペソ4:15)。わたしたちの内側にあるキリストの愛を通して、わたしたちはキリストと彼のからだの肢体を愛します。この愛の中で、わたしたちは実際を固く保ちます。それは、からだを伴うキリストを固く保つことです。このように、わたしたちはすべての事で、わたしたちの中にキリストを増し加え、また、わたしたちはかしらであるキリストの中へと成長し込みます。

 

 ここの「かしら」という言葉が示すのは、キリストにあるわたしたちの成長が、かしらの下での、からだの中の肢体としての成長であるべきであるということです。ですから、わたしたちの成長は、キリストの中にあるだけでなく、彼のからだの中にもあります。……… かしらから、からだ全体は、その豊富な供給のあらゆる節々を通して、またそれぞれの部分の度量に応じた活動を通して、結合され組み合わされ、からだを成長させ、愛の中でそれ自身を建て上げるに至り、キリストが満ち満ちた表現を持たれるのです。(「主の切望にしたがった一と一つ心、そして彼の喜びにしたがったからだの生活と奉仕」、第2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第22日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第4週4日)

 

自ら進んで、神にしたがって神の群れを牧養しなさい

 

Ⅰペテロ5:2-3

あなたがたの間の神の群れを牧養しなさい.……自ら進んで、神にしたがって……熱心に監督しなさい.……群れの模範となりなさい。

 

「牧養することと教えることは、昇天したかしらとしてのキリストが諸召会に、彼のからだを建造するために与えた、賜物のある人の間の本質的な機能です(ヨハネ21:15-17.マタイ28:20.Ⅰコリント4:17後半.7:17後半.Ⅱコリント11:28-29)」。

 

 主よ、あなたを愛します。召会の中に牧養することと教えることがあることを感謝します。主よ、豊富な供給とわたしたち肢体の度量に応じた機能を通して、キリストのからだが建造されていきますように。また、神にしたがって神の群れを牧養することができますように。

 

 

成就された聖徒たちは建造する肢体となります

 

 すべての聖徒は建造する肢体であるべきです。……まず、使徒、預言者、伝道者、牧する者また教える者は聖徒たちを成就します。これは、彼らが聖徒たちを建造することを意味します。そして成就された聖徒たちは建造する肢体となります。[エペソ人への手紙第4章16節の]「あらゆる節々」という表現は、11節で述べられている者たちのような、特に賜物のある人を指しており、「豊富な供給」は、特定の供給、すなわち、キリストの供給であるに違いありません。

 

 さらに、「それぞれの部分」という表現は、からだのあらゆる肢体を指しています。キリストのからだのあらゆる肢体にはそれ自身の度量があり、それはからだの成長のために働きます。からだの成長は召会におけるキリストの増し加わりであり、それは愛の中でからだ自身を建て上げるという結果になります。(「新約の結論(20)」、メッセージ340)

 からだは宇宙的で抽象的ですが、諸召会は地方にあって具体的です。……地方の牧する者はさらに実際的です。召会のかしらとしてのキリストは、宇宙的な牧する者である使徒たちに命じ、何人かの地方の長老を任命して地方の召会を顧みさせられました。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(上)、「バイタルグループ」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第21日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第4週3日)

 

その務めの働きは、キリストのからだの建造へと至らせます

 

エペソ4:11-12

そして彼ご自身は、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧する者また教える者として与えられました.それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり。

 

「キリストの有機的なからだの内在的な建造は、賜物のある人が神聖な分与において聖徒たちを成就し、すべての聖徒たちが新約の務めの働きを行なうことができるようにする、すなわち、キリストのからだを建造することができるようにするということです(エペソ4:11-12)」

 

 主よ、あなたを愛します。わたしたちが成就されるために、賜物のある人が召会に与えられていることを感謝します。主よ、わたしたちが神聖な命において成長するようにしてください。主よ、わたしたちすべての聖徒が成就されて、キリストのからだを建造することができますように。

 

 

聖徒たちが成就されて、キリストのからだを建造します

 

 エペソ人への手紙第4章12節は、賜物のある人がからだに与えられた……と告げています。前の節における賜物のある多くの人たちは、ただ一つの務め、すなわち、キリストを供給して、召会であるキリストのからだを建造する務めを持っています。これが新約エコノミーにおける唯一の務めです(Ⅱコリント4:1.Ⅰテモテ1:12)。……

 それゆえに、その務めの働きはキリストのからだの建造です。使徒、預言者、伝道者、牧する者また教える者は、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと至らせます。……聖徒たちを成就することは、キリストのからだを建造するという目的のためです。エペソ人への手紙第4章11節における賜物のある人がその務めの働きとして行なうことは何であれ、キリストのからだの建造のためでなければなりません。

 

 しかしながら、この建造は賜物のある者たちによって直接、完成されるのではなく、賜物のある者たちによって成就された聖徒たちによって完成されます。キリストのからだを建造する唯一の働きは、おもに賜物のある者たちの責任ではなく、すべての聖徒の責任です。指導的な使徒たちを含む賜物のある者たちと、最も小さい肢体でさえ含むすべての信者の両方は共に働いて、からだを建造します。(「新約の結論(20)」、メッセージ340)

 

 (JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第20日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第4週2日)

 

キリストはわたしたちの中で上り下りし、わたしたちを捕らえて征服します

 

エペソ4:8-10

そこで聖書はこう言っています、「彼は高い所へ昇られた時、とりこにされていた者たちをとりことして引いて行き、人々に賜物を与えられた」。(さてこの「彼が昇られた」というのは、彼が地のさらに低い所へも下って行かれたことでなくて何でしょう?  下って行かれた方は、すべてのものを満たすために、すべての天よりもはるかに高く昇られた方でもあります)。

 

「今や神は彼ら、すなわち征服された敵に対するキリストの勝利を祝賀し、彼のからだを建造する彼の務めのための行動において、凱旋行進の中で彼らを彼のとりことして導いています(Ⅱコリント2:14)。キリストはわたしたちの中で上り下りし、わたしたちを捕らえて征服することをすればするほど、ますますわたしたちをご自身で満たし、彼のからだへの賜物として構成します(参照、エペソ4:9-10)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主の昇天における凱旋行進の中で、わたしたちはキリストのとりことされたことを感謝します。主よ、わたしたちをあなたご自身で満たして、あなたのからだへの賜物として構成してください。

 

 

わたしたちが進んでキリストによって捕らえられてはじめて、主はわたしたちをからだへの賜物とする立場と地位を得られます

 

 キリストは下ることと昇ることによって、わたしたちをからだに対する賜物に構成します。彼がわたしたちの内側でますます下り、昇るなら、ますますわたしたちは賜物になります。……キリストは[信者たち]の内側で下ったり、昇ったりするとき、彼らを捕らえ、彼らを征服し、彼らを彼のからだに対する賜物へと構成します。キリストの旅の結果として、彼らは有用な賜物となります。

 

 わたちはからだへの賜物として機能するために、キリストによって征服され、服従させられなければなりません。わたしたちが進んでキリストによって捕らえられてはじめて、彼はわたしたちをからだへの賜物とする立場と地位を得られます。わたしたちは自分の存在の深みから主に祈らなければなりません、…… わたしたちはみなキリストによって徹底的に打ち破られ、捕らえられ、得られ、占有される必要があります。わたしたちが進んでキリストによって征服され、捕らえられるとき、キリストのからだへの賜物としてわたしたちを確立する立場をキリストに与えます。(「新約の結論(20)」、メッセージ340)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第19日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第4週1日)

 

主は昇天において、とりこにされていた者たちを、とりことして引いて行かれました

 

詩68:18

あなたは高い所へ昇られた.あなたはとりこにされていた者たちを、とりことして引いて行かれた.あなたは人々の間で、反逆する者たちの間でさえ、賜物を受けられた.それは、エホバ・神が、彼らの間に住まわれるためである。

 

「キリストの有機的なからだの内在的な建造は、かしらとしてのキリストが、彼の昇天(彼の復活を含む)において、賜物のある人(例えば、使徒、預言者、伝道者、牧する者また教える者)、すなわち神聖な三一の分与の中で構成された人を、彼のからだに与えることによります(エペソ4:8-12.使徒2:24, 27.1:9)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちはサタン、罪、死から解放されて、キリストのとりことして、勝利のうちにシオンの山の頂に昇る行列の中にいました。そして、そのとりこを、キリストのからだの建造のために与えられたことを感謝します。

 

 

キリストが第三の天へ昇った時、とりこの行列は勝利の祝賀でした

 

 エペソ人への手紙第4章8節から10節でわたしたちが見るのは、キリストが地のさらに低い所へ下って行き、すべてのものを満たすために、すべての天よりもはるかに高く昇り、とりこにされていた者たちをとりことして引いて行かれた方であるということです。…… 詩篇第68篇が暗示しているのは、契約の箱が勝利を得た後、神が契約の箱の中でシオンの山に昇天したということです。詩篇第68篇1節は、民数記第10章35節からの引用です。これは、詩篇第68篇の背景が、幕屋の中での神の行動であり、契約の箱がその中心であることを示しています。キリストの予表である契約の箱が行く所はどこでも、勝利が得られました。最終的に、この契約の箱は、勝利のうちにシオンの山の頂に昇りました。これは、キリストがどのようにして勝利を得て、凱旋的に天に昇天したかを描写しています。(「新約の結論(20)」、メッセージ340)

 

 わたしたちを横領し死の力の下に保持していたサタンを征服されました。サタン、罪、死から解放されて、わたしたちは今やキリストのとりこです。すべての御使いたちは、キリストは第三の天へ昇った時、とりこの行列を率いておられたこと、これらのとりこは御父にささげられたことを知っています。この行列は何という勝利の祝賀であったことでしょう!(「エペソ人への手紙ライフスタディ(2)」、第38編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第17日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第1週6日)

 

牧養することで必要とされるのは、親密な心遣いです

 

詩23:1

エホバはわたしの牧者であって、わたしには欠けるものがありません。

 

Ⅱコリント7:3

……あなたがたはわたしたちの心の中にあり、わたしたちと共に死に、共に生きるに至るからです。

 

「諸召会を顧み、聖徒たちを牧養することで必要とされるのは、供給する命の親密な心遣いです(Ⅱコリント7:2-7.12:15.ピレモン7, 12節)。供給する命は、人を温める命です。もしわたしたちが命を聖徒たちに供給しようとするなら、彼らに対する真の心遣い、すなわち情感に富んだ、深く、親密な心遣いを持たなければなりません」。

 

 主よ、あなたを愛します。わたしたちが人を牧養するときに、供給する命の親密な心遣いがありますように。主よ、わたしたちが実を結ぶために、人を温める命を持つことができますように。

 

 

人を温める親密な心遣いを持つなら、実を結びます

 

 もし、わたしたちに働きを遂行する能力があっても、親密な心遣いに欠けるなら、わたしたちの働きに実はありません。……わたしたちがどれほど実を結ぶか、どれほど多く実を結ぶかは、わたしたちがなし得ることにはよりません。それは、わたしたちが親密な心遣いを持っているかどうかによります。

 パウロは命を供給することで、とても人情味があり情感に富んでいました。パウロが情感に富んでいたのは、彼の心遣いがとても深く、親密であったからです。このような心遣いがなければ、パウロのように、あふれるばかりに喜ぶことは決してできません。

 

 そうではなく、わたしたちは冷凍庫のように冷たく、聖徒たちに対して心遣いに完全に欠けるでしょう。…… そのような凍った状態の中では、何も成長することはできません。わたしたちは春の季節が来て、わたしたちを溶かし、わたしたちの命を温めることを必要とします。再び、供給する命の必要があります。あなたは供給する命が何であるか、知っているでしょうか? それは人を温める命です。人を温めることを学びなさい。これは彼らに対して親密な心遣いを持つことです。…… 供給する命だけが、わたしたちに実を結ばせることができます。実を結ぶことは供給する命の結果です。(「コリント人への第二の手紙ライフスタディ(2)」、第44編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第16日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第1週5日)

 

あなたがたの間の神の群れを牧養しなさい

 

ヨハネ21:16

…「… シモンよ、あなたはわたしを愛するか?」。ペテロは彼に言った、「はい、主よ.…」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を牧養しなさい」。

 

Ⅰペテロ5:2-3

あなたがたの間の神の群れを牧養しなさい.… 自ら進んで、神にしたがって監督し、… 熱心に監督しなさい.… 群れの模範となりなさい。

 

「ヨハネ第21章は、牧養することについての章であり、ヨハネによる福音書の完成と総括です。主はご自身の復活の後、ペテロを牧養して、彼の小羊を養い、彼の羊を牧養するよう彼に委託しました。これは、使徒の務めとキリストの天の務めを合併して、神の羊の群れ、すなわち、召会を顧みることです。この事は、キリストのからだという結果になります(ヨハネ21:15-17)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが自ら進んで、神にしたがって、神の群れを牧養することができますように。主よ、わたしたちが、すべてを含む優しい顧みを召会、羊の群れに行なって、キリストのからだをもたらすことができますように。

 

 

神の羊の群れを顧みることは、キリストのからだをもたらします

 

 主はご自身の復活の後、昇天の前に、彼の弟子たちと共にとどまっていた時、彼の現れの一つにおいて、彼がここにいないで天にいる間、彼の小羊を養い、彼の羊を牧養するようペテロに委託しました(ヨハネ21:15-17)。牧養することは養うことを暗示しますが、養うことよりはるかに多くを含みます。牧養することは、すべてを含む優しい顧みを羊の群れに行なうことです。これは、使徒の務めとキリストの天の務めを合併して、神の羊の群れを顧みることです。神の羊の群れは召会であり、キリストのからだをもたらすという結果になります。

 

 使徒行伝第20章28節で、パウロはエペソの長老たちに告げました、「あなたがた自身と群れ全体に気をつけなさい.聖霊は彼らの間に、あなたがたを監督として立てられ、神がご自身の血を通して獲得された[あるいは、買われた]神の召会を牧養させるのです」。… それは羊の群れ、すなわち召会を得るためであって、その結果からだをもたらし、新エルサレムを究極的に完成します。(リー全集、1994年―1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第15日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第1週4日)

 

信仰、希望、愛、この三つの中で最も大いなるものは愛です

 

Ⅰコリント12:31

しかし、さらに大いなる賜物を、熱心に願い求めなさい。そこで、わたしはさらに、最も卓越した道をあなたがたに示しましょう。

 

Ⅰコリント13:13

こういうわけで、永存するものは、信仰、希望、愛、この三つです.そして、その中で最も大いなるものは愛です。

 

「キリストの有機的なからだとしての召会の建造のために、わたしたちが何であっても、何を行なっても、愛が最も卓越した道です(Ⅰコリント12:31後半―13:8前半)。愛はねたまず、いらだたず、人の悪を数えたてず、すべてを覆い、すべてを耐え忍び、すべてを耐え抜き、最も大いなるものです(Ⅰコリント13:4-8, 13)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、愛の法則がわたしたちの内側で活動しますように。そして、わたしたちが父なる神の愛し赦す心と、救い主キリストの牧養し捜し求める霊を持つことができますように。

 

 

愛はキリストのからだを建造するのに最も卓越した道です

 

 わたしたちは今日の召会の堕落を征服するために、愛の霊を必要とします。わたしたちは人をおびえさせることを何も言ったり行なったりすべきではありません。そうではなく、わたしたちは常に、燃え立たせられている愛の霊をもって語り、事を行なうべきです。これが、回復が必要とするものです。…… 愛はまさっています。わたしたちはすべての人を、敵でさえ愛すべきです。…… わたしたちの御父が、邪悪な者も善なる者も何の差別もなく愛することによって完全であるように、わたしたちも完全でなければなりません(マタイ5:48)。わたしたちの御父のように完全でなければならないのは、わたしたちが彼の子たち、彼の種族であるからです。……

 

 パウロは言いました、「弱い人には弱くなりました.弱い人を得るためです」(Ⅰコリント9:22)。これが愛です。他の人は弱いが自分はそうでないと考えるべきではありません。これは愛ではありません。愛は覆い、建造します。ですから愛は、わたしたちが何であり何を行なっても、キリストのからだを建造するのに最も卓越した道です。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(上)、「バイタルグループ」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第14日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第1週3日)

 

わたしたちはこの愛[神の愛]をもって、主を愛し、兄弟たちを愛します

 

Ⅰヨハネ4:8,19

愛さない者は神をまだ知っていません.なぜなら、神は愛だからです。…… わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。

 

「神がまずわたしたちを愛し、ご自身の愛をわたしたちに注入し、わたしたちの内側に愛を生み出してくださいました。わたしたちはこの愛をもって、彼を愛し、兄弟たちを愛します(Ⅰヨハネ4:19-21)。神の中に住むことは、神ご自身である愛をもってわたしたちが他の人たちを習慣的に愛する生活をすることです。それによって彼はわたしたちにおいて表現されます(Ⅰヨハネ4:16-17.補充本詩歌の240番と241番)」。

 

 主よ、あなたを愛します。それは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。わたしたちの内側に愛を生み出してくださったことを感謝します。主よ、この愛をもって、主を愛し、兄弟姉妹を愛することができますように。

 

 

わたしたちが神を愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです

 

 わたしたちは神の種族です。なぜならわたしたちは神から生まれて、神の命と性質を持っているからです(ヨハネ1:12-13)。わたしたちは再生されて、神の種族、神の種類となりました。そして神は愛です。わたしたちは神の命と性質において神となるので、わたしたちも愛であるべきです。この事が意味するのは、わたしたちが単に人を愛するだけではなく、愛そのものであるということです。神は愛ですから、神の種族として、わたしたちは愛であるべきです。

 

 神は愛です。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです(Ⅰヨハネ4:8,19)。神は、わたしたちが天然の愛をもって愛するのではなく、わたしたちの愛としての神をもって愛することを願われます。神は人をご自身のかたちに創造されました(創1:26)。これは、神が何であるかにしたがって人を創造されたことを意味します。……神は人をご自身の属性にしたがって創造されました。その属性の第一は愛です。創造された人に愛の実際はありませんが、創造された存在の中には人を愛することを願うものがあります。…… わたしたちが再生されたとき、神は愛としてのご自身をわたしたちに注入されました。わたしたちが神を愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。神がこの愛を開始されました。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(上)、「バイタルグループ」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第13日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第1週2日)

 

主の回復は、初めの愛をもって主イエスを愛することの回復です

 

エペソ5:25

夫たちよ、キリストが召会を愛して、彼女のためにご自身を捨てられたように、あなたがたの妻を愛しなさい。

 

「主の回復は、初めの愛、すなわち最上の愛をもって主イエスを愛することの回復であり、また互いに愛し合うことの回復であり、キリストの有機的なからだの建造のためです。それは、神の永遠のエコノミーの目標としての新エルサレムを建造することです(エペソ4:15-16.啓2:4-5)。わたしたちが愛するキリストは、召会を愛するキリストです。わたしたちはキリストを愛するとき、キリストが愛するように召会を愛するようになります(エペソ5:25)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、初めの愛、最上の愛をもって主イエスを愛させてください。主よ、あなたは召会を愛して、召会のためにご自身を捨てられました。主よ、わたしたちが、召会を愛するキリストを経験することができますように。

 

 

キリストが召会を愛して、召会のためにご自身を捨てられました

 

 キリストは召会を愛するキリストです。ガラテヤ人への手紙第2章20節は、キリストはわたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださったと言います。クリスチャンはこの節に注意を払いますが、エペソ人への手紙第5章25節には注意を払わないかもしれません。そこでは、キリストが召会を愛して、召会のためにご自身を捨てられたと告げられています。

 

 わたしたちはみなキリストを享受して、召会を愛するキリストとして彼を経験する必要があります。わたしたちも召会を愛しているので、主の回復が全世界に拡大して、エルサレムに戻って来るために、わたしたちは彼と一です。おお、何とキリストは召会を愛しておられることでしょう! 彼は召会を愛するキリストとして、わたしたちの中におられます。召会に対する彼の愛は、わたしたちが召会生活の回復のために、進んで自分のすべてをささげるようにします。(「エペソ人への手紙ライフスタディ(4)」、第79編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第12日

(朝ごとの食物 10月長老責任者訓練 第1週1日)

 

愛は、すばらしい信仰から出てくるものです

 

Ⅱテサロニケ1:3

兄弟たちよ、わたしたちは、あなたがたについて常に神に感謝せずにはおれません.そうするのが当然です.なぜなら、あなたがたの信仰が大いに成長して、あなたがた一同、一人一人の相互の愛が増し加わっているからです。

 

「主を信じることは、主を命として受け入れることです。主を愛することは、わたしたちが受け入れたこのパースンを享受することです。…… 愛は、このようなすばらしい信仰から出てくるものであって、わたしたちが、わたしたちの命としてのキリストの中で、三一の神の豊富すべてを生かし出すことができるようにします(Ⅱペテロ1:1.ヘブル12:1-2前半.Ⅱコリント4:13.ガラテヤ5:6)」。

 

 主よ、わたしたちの信仰が成長して、相互の愛が増し加わりますように。 主よ、わたしたちが信仰から出てくる愛を経験し、享受することができますように。主よ、わたしたちすべての信者が、神聖な愛をもって互いに愛し合う召会生活をすることができますように。

 

 

信仰と愛は、二つの分離され得ない、卓越した美徳です

 

 信仰と愛は、キリストにある信者たちの、二つの分離され得ない、卓越した美徳です。信仰は、神によってわたしたちに与えられており(Ⅱペテロ1:1、フットノート5)、この信仰によって、わたしたちはキリストを受け入れます(ヨハネ1:12)。すなわち、三一の神の具体化であるキリストを受け入れます(コロサイ2:9)。こうして、わたしたちは三一の神の中へと入って、彼と結合されて一になり、彼をわたしたちの命、命の供給、すべてとします。愛は、このようなすばらしい信仰から出てくるものであって、わたしたちが、キリストの中へと信じた者たちと共に、キリストの中で三一の神の豊富すべてを生かし出すことができるようにします。こうして三一の神(父、子、霊)は、栄光の表現を持つことができます。……

 

 愛は信仰から来て、信仰は愛を通して活動し、働きます(ガラテヤ5:6)。信仰を伴う愛は、わたしたちが主を不朽不滅の中で愛することができるようにし、それによって勝利を得る召会生活を持たせ(エペソ6:23-24)、神の新約エコノミーを、キリストの中で召会のために成就します。ですから、この信仰の中でわたしたちは神を喜ばせ(ヘブル11:6)、この愛の中で主に祝福されます(Ⅰコリント16:22)。父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちに、この信仰を伴う愛がありますように(エペソ6:23)。(テトス3:15、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第10日

(朝ごとの食物 結晶の学び 列王紀上,下 第12週6日)

 

三一の神が父、子、霊を通して、わたしたちの中へと流れています

 

ヨハネ4:14

……わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである。

 

「わたしたちは命の中で王として支配しているとき、恵みとしての内住するキリストにわたしたちの内側で王として支配していただき、「永遠の命に至」ります。これが、命の中で王として支配することの究極的完成です(ヘブル4:16.ローマ5:17,21)」。

 

 主よ、あなたを愛します。三一の神が父、子、霊を通して、わたしたちの中へと流れていることを感謝します。主よ、毎日あなたが与えてくださる水を飲ませてください。この源泉は泉のように流れ出て、新エルサレムへと至ります。そして、わたしたちは新エルサレムとなります。

 

 

源泉は泉のように現れ出て、泉は新エルサレムのために川のように流れ出ます

 

 わたしたちは、三一の神が父、子、霊を通して、わたしたちの中へと流れていることを見る必要があります。わたしたちがこの水を飲むとき、それはわたしたちの中で源泉となります。……この源泉は泉のように現れ出て、泉は新エルサレムのために川のように流れ出ます。これがヨハネによる福音書全体を開くかぎです。これは神聖な三一の神聖な語りかけ、神聖な拡大、神聖な分与です。源泉としての御父、泉としての御子、川としてのその霊が、わたしたちの中へと流れます。

 

 彼はわたしたちの中へと流れるとき、わたしたちを伴って流れます。彼はわたしたちを新エルサレムの中へと流れさせ、新エルサレムとされます。「へと至る」という前置詞は、「となる(to become)」を意味します。「新エルサレムへと至る」は、「新エルサレムとなる」を意味します。……わたしたちは新エルサレムでなければなりません。そうすれば、新エルサレムの中にいることができます。これがヨハネによる福音書と啓示録の内在的な意義です。(リー全集、1994年-1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第14編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第9日

(朝ごとの食物 結晶の学び 列王紀上,下 第12週5日)

 

ヨセフの生涯の記録は、その霊の統治の啓示です

 

創45:5

しかし、今、わたしをここに売ったことで悲しんだり、自分を責めたりしてはなりません.神はあなたがたの命を守るために、あなたがたより先にわたしを遣わされたのです。

 

創50:20

あなたがたは、わたしに対して悪を図りましたが、神はそれを良きに図ってくださり……。

 

「命の中で王として支配するために、わたしたちはまたその霊の統治の下にいる必要があります。ヨセフの生涯の記録は、その霊の統治の啓示です。なぜなら、その霊の統治は、円熟した聖徒の王として支配する面であるからです。それは命の中で王として支配し、神の王国の実際の中で神聖な命の拘束と制限の下にいる生活です。(ローマ5:17,21.14:17-18.Ⅰコリント2:15-16.Ⅱコリント2:13-14.3:17-18.)」。

 

 主よ、わたしたちはヨセフのように、すべてのことを神からのものとして受け入れることができますように。主よ、わたしたちが「神聖な望遠鏡」を用いて、時間を見通し、新エルサレムを見つめることができますように。 

 

 

円熟した命の王として支配する面は、決して神の民を罪定めしません

 

 その霊の統治は、その霊の教えの構造の頂石、冠の石です。ヨセフの生涯の記録はその霊の統治の啓示です。なぜなら、その霊の統治は、円熟した聖徒の王として支配する面であるからです(「創世記ライフスタディ(7)」、115編)。ヨセフは彼の兄弟たちを赦す必要はありませんでした。なぜなら彼は、彼らを責めなかったからです(参照、創45:28、フットノート1)。彼は彼の兄弟たちが彼に行なったすべてのことを、神からのものとして受け、自分に対して罪を犯した者たちを慰めました(5-8節.50:15-21)。彼は何という恵み、何という卓越した霊を持っていたことでしょう!(創世記45:5、フットノート1)

 

 ヨセフの生涯の記録は何と甘いことでしょう! ヨセフは完全に神の導きの下にあったので、自分が行なったどのようなことも、悔いる必要はありませんでした。ヨセフは、新約で啓示されていることの生ける説明です。ヨセフは自己を否む人であり、彼には何の自己の興味も、自己の享受も、自己の感覚も、自己の野心も、自己の目標もありませんでした。すべては神のためであり、また神の民のためでした。(「創世記ライフスタディ(7)」、第115、119編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第8日

(朝ごとの食物 結晶の学び 列王紀上,下 第12週4日)

 

正しい王がまず神の言葉によって教えられ、統治され、支配され、制御されます

 

申17:18,20

彼はその王国の王座に着くとき、……自分のために、この律法を書き写さなければならない。…… 彼の心が自分の兄弟たちに対して高ぶることがなく、戒めから右にも左にもそれることがないためである.そうすれば、彼とその子たちはイスラエルの中で王国の日を長くすることができる。

 

「申命記が啓示しているのは、正しい王がまず神の言葉によって教えられ、統治され、支配され、制御されなければならかったということです(申17:14-15,18-20)。この原則は、召会の中の長老と、命の中で王として支配することを切望するわたしたちすべてについても同じであるべきです(Ⅱテモテ3:14-17)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが毎日、神の言葉を食べ飲みして、主に戻ることができますように。そして、わたしたちを神の言葉で再構成してください。また、わたしたちが神の統治の下に、神の支配と制御の下にいることができるようにしてください。

 

 

神の民を再構成するためには、神の口から出る言葉をもって、教育する必要があります

 

 イスラエルに対する神の意図は、地上に神聖で構成された民を持ち、彼の証しとすることでした。……彼らは再構成されるために、神の律法、すなわち、神の言葉に戻ることによって、神に戻る必要がありました。エズラとネヘミヤの下で、イスラエルの帰還した民は、神の言葉を通して、集団的に神によって、また神をもって構成され、神の証しとしての国となりました。

 

 神の民を再構成するためには、神の口から出る、神を表現する言葉をもって、彼らを教育する必要があります。神の民を再構成することは、彼らを神の御言の中へともたらし、彼らを御言葉で浸透させることによって、彼らを教育することです。神の言葉はその霊と一です(ヨハネ6:63.エペソ6:17)。わたしたちが日ごとに神聖な御言を読むことを通して、神の言葉はわたしたちの内側で働き、その霊は御言葉を通して、神の性質を神の要素と共にわたしたちの存在の中へと自然に分与し、わたしたちが神で構成されるようにします。(ネヘミヤ8:1、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第7日

(朝ごとの食物 結晶の学び 列王紀上,下 第12週3日)

 

神聖な命が人の中へとまかれ、彼らの中で成長し発展して王国となります

 

マルコ4:26-29

イエスはまた言われた、「神の王国はこのようなものである.ある人が地に種をまき、そして夜昼、寝起きしていると、その種は芽を出し伸びていくが、どのようにしてそうなるのか、その人は知らない。地は自ずから実を結ぶのであり、初めに葉、次に穂、次に穂の中に穀粒が満ちる。しかし実が熟すると、直ちに人はかまを入れる.刈り入れ時が来たからである」。

 

「わたしたちは命の中で王として支配して主の勝利者となるために、わたしたちが神聖で、霊的で、天的で、王的で、王なる命をもって再生されているということを見る必要があります。主は言われました、「神の王国はこのようなものである.ある人が地に種をまき」(マルコ4:26.Ⅰヨハネ3:9)」。

 

 主よ、わたしたちが再生されたときに得た神の命が、芽を出し、成長し、実を結び、円熟し、収穫物を生み出しますように。主よ、神聖で、霊的で、天的で、王的で、王なる命を経験し、享受することができますように。主よ、あなたがまいた神聖な命の種が、わたしたちの中で成長し、発展して王国となりますように。

 

 

神の命は芽を出し、成長し、実を結び、円熟し、収穫物を生み出します

 

 神聖な命の種(Ⅰヨハネ3:9.Ⅰペテロ1:23)は、奴隷・救い主の信者たちの中へとまかれました。これが示しているのは、神の王国(奴隷・救い主の福音の結果と目標)と、この時代の召会が(ローマ14:17)、命の事柄、すなわち、神の命の事柄であるということです。その神の命は芽を出し、成長し、実を結び、円熟し、収穫物を生み出します(マルコ4:26、フットノート3)。神の王国は、実は人の存在の中へとまかれ、彼らの中で発展して王国となる神ご自身です。

 

 わたしたちは、神の王国は教え、活動、組織の事柄ではないという事実に印象づけられる必要があります。その反対に、神の王国とは、三一の神が肉体と成って彼の選ばれた民の中へとまかれ、彼らの中で成長し発展して王国となることです。…… 福音書でまかれた王国の遺伝子は、何とすばらしいものでしょう! 最終的に、この遺伝子は発展して、啓示録第20章で語られている千年王国、また啓示録第21章と第22章での神の永遠の王国となります。この王国の遺伝子とその発展の絵のゆえに、主を賛美します!(「マルコによる福音書ライフスタディ(1)、第15編」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第6日

(朝ごとの食物 結晶の学び 列王紀上,下 第12週2日)

 

啓示録には、彼の勝利者となるよう七重の召しがあります

 

啓2:7

耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにある命の木から食べさせよう。

 

19:7

わたしたちは喜び歓喜し、彼に栄光を帰そう.小羊の婚姻の時が来て、彼の妻は用意を整えたからである。

 

「聖書の最後の書である啓示録は、勝利者に関する書です。第2章と第3章で、主はわたしたち、すなわち、わたしたちの偉大な父であるアブラハムの霊的な子孫である彼の信者たちに、彼の勝利者となるよう七重の召しを与えています(啓2:7,11,17,26.3:5,12,21)。勝利者はサタンの大混乱をすべて征服し(参照、コロサイ1:17後半,18後半,10)、神聖なエコノミーにおいて勝ち誇ります(ローマ8:37.Ⅱコリント2:14)」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが命の木から食べて、勝利を得る者となることができますように。主よ、わたしたちが小羊の婚姻の時に用意を整えた勝利者たちとなって、キリストが再来するための道となることができますように。

 

 

勝利者たちが、キリストが再来するための道です。

    

 聖書は神と人に関する書です。神と人の間には第三者、サタンがいます。サタンは常に問題を起こし、そしてすべての問題は大混乱です。主は[特定の]一群れの民、勝利者を必要とされます。彼らは彼と一になって、すべての破壊的な大混乱を征服し、彼の唯一の建造するエコノミーにおいて勝ち誇ります。……

 

 啓示録は、勝利者の書です。……勝利を得た種族は、神のエコノミーのために成功を神にもたらします。わたしたちは、今日、自分がどこにいるのかを考える必要があります。…… 啓示録は、勝利者がいなければ、キリストには再来する道がないことを示しています。わたしたちはキリストがわたしたちの道であることを知っていますが(ヨハネ14:6前半)、キリストは彼の心の深みから勝利者たちに、彼らが彼の道であると告げます。キリストがいなければ、わたしたちに道はありませんが、今日、勝利者がいなければ、キリストには道はありません。勝利者たちが、キリストが再来するための道です。(「旧創造におけるサタンの大混乱と新創造のための神聖なエコノミー」、第2、3章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第5日

(朝ごとの食物 結晶の学び 列王紀上,下 第12週1日)

 

勝利者は命の中で王として支配します

 

ローマ5:17

もし一人の違犯によって、死が一人を通して王として支配したなら、あふれるばかりの恵みとあふれるばかりの義の賜物を受ける者たちは、さらにいっそう一人の方、イエス・キリストを通して、命の中で王として支配します。

 

「真のクリスチャン生活は、勝利者の生活です。新約におけるすべての勝利者は王であるべきです。彼らはあふれるばかりの恵みとあふれるばかりの義の賜物を受けて、命の中で王として支配しています(ローマ5:17)。新約の信者たちは、神のエコノミーにおける王、祭司、預言者の予表の成就であるべきです」。

 

 主よ、あなたを愛します。わたしたちは救われて、王また祭司となりました。主よ、あふれるばかりの恵みと義の賜物により、命の中で王として支配することができますように。また、預言者として人々の中にキリストを語り込むことができますように。

 

 

新約の信者たちは、王、祭司、預言者の予表の成就であるべきです

 

 イスラエルの予表には、王について大きな部分があります。王はイスラエルの代表であり、最高の者です。……[イスラエル人は]生活のすべてを良き地の源から得て、……[王は]最高の水準で良き地を享受していました。……これらの王たちは、新約の信者たちの予表です。なぜなら新約におけるすべての信者は神によって救われて、王また[祭司]となっているからです(Ⅰペテロ2:9.啓1:6.5:10.Ⅱテモテ2:12)。…… 

 

 予表の時代に、勝利者は預言者でした。預言者はまず神の託宣を顧慮しました。彼らの託宣に基づいて、彼らはある程度まで神の権威を行使しました。多くの王は預言者に聞き従いました。……こうして、すべての真の預言者は勝利者でした。

 これは啓示録……で成就されます。[そこで]主は以下の言葉、「勝利を得る者」を七度繰り返されました。……(啓2:7、11、17、26.3:5、12、21)。(リー全集、1994年-1997年、第1巻(上)、「神の啓示の高嶺にしたがった生活をする」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第3日

(朝ごとの食物 結晶の学び 列王紀上,下 第11週6日)

 

一が回復されるとき、すべての霊的な豊富と積極的なものが回復されます

 

詩133:1,3

見よ、何とすばらしく、何と喜ばしいことであろう.兄弟たちが和合して住んでいる!…… また、ヘルモンの露がシオンの山々に下って来るようだ。まことに、エホバはそこに祝福を命じられた.すなわち命を永遠まで。

 

「一が回復されるとき、すべての霊的な豊富とすべての積極的なものがそれと共に回復されます。なぜなら、それらはすべて一の中に存在するからです(エペソ4:3.3:8)。すべての敬虔な事とすべての霊的な豊富は、一の真の立場の上でわたしたちのものです(申8:7-9.12:12,26-28)」。

 

 主よ、あなたを愛します。わたしたちが一の真の立場にいることを感謝します。主よ、召会生活の中で、わたしたちをこの真の一の実際へと導いてください。主の回復の中で、すべての敬虔で、天的で、霊的なものが回復されますように。

 

 

わたしたちが一に戻って来るとき、すべての敬虔で、天的で、霊的なものが戻ってきます

 

 真の一、キリスト教によって失われてきた一を回復したことで、わたしたちは何と主に感謝することでしょう! この一はすべてを含みます。それはすべての積極的なものを含みます。その反対に、分裂はすべての消極的なものを含みます。……わたしたちは一に戻って来るとき、すべての敬虔で、天的で、霊的なものが戻ります。……一方で、わたしたちはまだかなり欠けていて、長い道を行かなければならないことを認めなければなりません。もう一方で、わたしたちは、主の豊富が確かに彼の回復の中に見いだされると、証しすることができます。一の唯一の立場はここにあり、すべての霊的な豊富がこの立場に含まれています。すべての敬虔なものとすべての霊的な豊富は、一の立場の上でわたしたちのものです。……

 

 ですから、わたしたちが語っている一は、部分的な一ではありません。それは偉大で、全体的で、包括的な一、全体における一です。どうかわたしたちがみなそのような一のビジョンで印象づけられますように。わたしたちが全体の一のビジョンを見るなら、分裂のあらゆる細菌は殺され、わたしたちはあらゆる種類の分裂から救い出されるでしょう。(リー全集、1979年、第2巻(下)、「一の真の立場」、第9、3、2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第2日

(朝ごとの食物 結晶の学び 列王紀上,下 第11週5日)

 

召会の一の真の立場が回復される必要があります

 

エペソ4:3-4

平和の結合するきずなの中で、その霊の一を保つことを熱心に努めなさい.一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの一つ望みの中で召されたようにです。

 

「キリスト教世界全体の背教、高き所、分裂のゆえに、一の真の立場が回復される必要があります(エペソ4:2-6,13.ヨハネ17:11,14-23.Ⅰコリント10:16-17)。新約における神聖な啓示によれば、召会の一の真の立場は、三つの極めて重要な要素から構成されています。すなわち、① キリストの宇宙的なからだの唯一の一、② 地方の唯一の立場、③ 一の霊の実際です」。

 

 主よ、あなたを愛します。召会、キリストの有機的なからだは、分裂できないものです。主よ、わたしたち召会が、キリストのからだの唯一の一を、地方召会を通して表現することができますように。     

 

 

召会の立場は、三つの極めて重要な要素から構成されています

 

 第一の要素は、キリストの宇宙的なからだの唯一の一であり、それは「その霊の一」と呼ばれています(エペソ4:3)。これは、主がヨハネによる福音書第17章で祈られた一です。すなわち、手順を経た三一の神とキリストにあるすべての信者とのミングリングの一です。…… 召会の立場の第二の要素は、地方召会が設立され存在する地方の唯一の立場です。新約が提示しているのは、宇宙召会(キリストの宇宙的なからだ)の表現であるすべての地方召会が、それぞれの都市に位置するという明確な絵です。

 

 召会の立場の第三の要素は、一の霊の実際であり、それはキリストの宇宙的なからだの唯一の一を、地方召会の地方という唯一の立場の上で表現します。……その霊の実際……は神聖な三一の生ける実際です(Ⅰヨハネ5:6、ヨハネ16:13)。この霊によって、キリストのからだの一は、真のもの、また生けるものとなります。それはまた、この霊を通して、地方の立場は、律法的にではなく、命の中で適用されます。そしてこの霊によって、召会の真の立場は三一の神と結び付けられます(エペソ4:3-6)。(「主の回復の簡潔な提示」)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


12月の祈り 第1日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上,下  第11週4日)

 

キリストがすべてであり、すべての中におられるのです

 

コロサイ3:11

その新しい人には、ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はあり得ません.キリストがすべてであり、すべての中におられるのです。

 

「高き所を壊すことは、三つの主要な事柄と関係がありました。それは場所、偶像、名です(申12:2-3)。霊的に言って、わたしたちは召会以外のあらゆる場所、キリストの御名以外のあらゆる名を壊さなければなりません。この事が意味するのは、わたしたちが自分の文化、個性、気質、習慣、天然の特徴、好み、宗教的な背景とその影響、すなわち、真の一に損害を及ぼすあらゆるものを、壊さなければならないということです(ガラテヤ2:20.5:24.6:14)」。

 

 主よ、あなたを愛します。召会の中にはキリスト以外に何もありません。主よ、わたしたちに属するキリスト以外のあらゆるものが壊されますように。主よ、わたしたちが神と共にキリストを享受して、主の家に植えられますように。

 

 

わたしたちが壊さなければならない場所は、わたしたちの個性、気質、習慣を含みます

 

 一の立場は[一つの都市に、一つの召会]よりさらに深く、さらに豊かで、さらに高く、さらに完全です。わたしたちはみな、神がこの宇宙でただ一つの場所を選ばれ、その場所が召会であることを学ばなければなりません。神はわたしたちに、彼が選ばれたこの場所に行くことを要求されます。霊的に言って、わたしたちは召会以外のあらゆる場所、キリストの御名以外のあらゆる名を壊さなければなりません。この事が意味するのは、わたしたちが自分の文化と宗教的な背景を壊さなければならないということです。…… 

 

 わたしたちが壊さなければならない場所は、わたしたちの個性、気質、習慣を含みます。わたしたちは、一人の新しい人の一に損害を及ぼすあらゆるものを壊されなければなりません。…… そうすれば、わたしたちはただ召会生活の中にいて、キリストを良き地の豊富として享受するでしょう。わたしたちは神と共にキリストを享受するとき、主の家に植えられます。……これが、クリスチャン生活と召会生活を持つ正しい道です。これが一の立場です。(リー全集、1979年、第2巻(下)、「一の真の立場」、第8、4、5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)