結晶の学び 列王紀上、下  第2週6日~第7週1日

 

10月の祈り 第31日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第7週1日)

 

いとすぎ、香柏、オリブの木で表徴されるキリストを経験します

 

列王上6:15

彼は家の内側の壁を香柏の板で建て、家の床から天井の壁に至るまで、内側に木を張った。また家の床はいとすぎの板で覆った。

 

 「神の建造の材料となるために、わたしたちは死におけるキリスト(いとすぎによって表徴される)、復活におけるキリスト(香柏によって表徴される)、その霊としてのキリスト(オリブの木によって表徴される)を経験する必要があります」。

 

 主よ、わたしたちが神の建造の材料となるために、キリストの人性の各面を経験することができますように。主よ、わたしたちがキリストの死、キリストの復活、神の霊としてのキリストを経験して、神の家を建造することができますように。

 

 

宮を建築するために用いられた異なる種類の木は、キリストの人性の異なる面を表徴します

 

  宮では三種類の木、いとすぎ、香柏、オリブの木が用いられました。……これらの三種類の木は、主イエスに関する三つの大きな事柄をわたしたちに見せています。第一の事柄は、彼が死なれたこと、第二の事柄は、彼が復活されたこと、第三の事柄は、彼がその霊と成られたことです。これらの三種類の木は、わたしたち救われた者たちの霊的な経験の三つの面をも見せています。すなわち、わたしたちがキリストと共に死んだこと、わたしたちがキリストと共に復活したこと、わたしたちがキリストと共に聖霊を受けたことです。

 

 召会の中で共に建造されることを願っている人はすべて、第一に、キリストと共に死んだ人たち、すなわち、いとすぎでなければなりません。第二に、彼らはキリストと共に復活した人たち、すなわち、香柏でなければなりません。第三に、彼らはキリストと共に聖霊の中にある人たち、霊的な事柄への霊的な入り口を得た人たち、またそれらの霊的な理解を持っている人たちであり、彼らの上に神の栄光が現されます。彼らはオリブの木であるはずです。……  人の天然の能力は決して召会の中へともたらされたり、召会のための建造する材料になったりすることはできません。…… 死と復活を経過するものだけが、召会の中へともたらされることができます。(「召会の三つの面、第1巻:召会の意義」、第15章)。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第29日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第6週6日)

 

エホバの家に住んで、エホバの麗しさを見つめ、彼の宮で尋ね求めます

 

詩27:4

わたしは一つの事をエホバに願いました.わたしはそれだけを求めます.わたしの命の日の限り、エホバの家に住んで、エホバの麗しさを見つめ、彼の宮で尋ね求めることを。

 

「わたしたちがエホバの良きことを味わい、そして見るのは(詩34:8)、神の宮である神の家の中で、すなわち、キリストの中で(ヨハネ2:19-22)、召会の中で(Ⅰテモテ3:15.Ⅰコリント3:16-17.Ⅱコリント6:16)、わたしたちの霊の中で(エペソ2:22)、究極的には新エルサレムの中でです(啓21:22)」。

 

 主よ、モーセが山の上でエホバの御前に四十日四十夜を過ごしたように、わたしたちも神と交わり、神を吸収し、神を享受することができますように。主よ、わたしたちが神の家の中で、キリストの中で、召会の中で、わたしたちの霊の中で、神を享受することができますように。

 

 

主の御前で主と交わり、主を吸収し、主を享受します

 

 モーセは山の上でエホバの御前に四十日四十夜を過ごし、彼を吸収する以外、何もしませんでした。彼が山から下りて来たとき、彼は何も感じませんでしたが、イスラエルの子たちは彼の顔が輝いているのを見ました。なぜ彼の顔は輝いていたのでしょうか? 神は彼のために何もされませんでした。モーセはただ主の御前で四十日を過ごし、彼と交わり、彼を吸収していただけでした。彼はすべてのことを忘れて、完全に主に占有されていました。四十日四十夜の間、モーセは完全に神を吸収し、彼で満たされました。その結果、彼の顔は輝きました。

 

 彼が人々の前に現れたとき、神に関して何も言う必要はありませんでした。人々は彼の顔に神の栄光を見ました。これはクリスチャン生活の不思議です。わたしたちが力を求めれば求めるほど、ますます力はわたしたちを避けます。しかしわたしたちが力を忘れ、むしろ神と交わり、彼を吸収し、彼を享受するなら、わたしたちは意識することなく力を持ちます。(「どのようにして神を享受するか、またどのようにして神を享受することを訓練するか(上)」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第28日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第6週5日)

 

召会は平安の中で、何の騒音もなく、静かに建造されます

 

列王上6:7

家は建てられるとき、石切り場で切られ、仕上げられた石で建てられたので、建てられているとき家の中では、槌も斧もどの鉄の道具も音が聞こえなかった。

 

「ソロモンの名は、「平安」を意味します。これは、召会が「安息の人」としてのキリストによって、平安の中で、何の騒音もなく、建造されることを意味します(歴代上22:9.使徒9:31.エペソ4:29-32)。宮の建造に用いられるあらゆる石は、原則において、すでに山で切られ処理(対処)されていました。ですから、槌や斧や鉄の道具の音は聞こえず、宮は静かに建てられました(列王上5:15-18.6:7)」。

 

 主よ、神の家が建てられるために、日常生活の中で対処されることを学ばせてください。主よ、召会が平安の中で、何の騒音もなく、建造されますように。主よ、わたしたちが他の人の批判、裁き、反対を聞くときに、至聖所の中へと退き、わたしたちの霊に戻って静かにしていることを学ばせてください。

 

 

宮を建造するために用いられるあらゆる石は、すでに山で切られ処理(対処)されていました

 

 宮を建造するために用いられるあらゆる石は、原則において、すでに山で切られ処理(対処)されていました(列王上5:15-18、6:7)。……もし人が主によって十分に砕かれておらず、いくつかの深い学課を十分に学んでいないなら、他の人の非難や批判を聞くとき、内側で腹を立て、言い返し、あるいは彼らと口論さえするかもしれません。その反対に、真に学課を学んでいる人は決して人々と議論しません。彼は他の人から助けを受けることができるなら、助けを求めます。…… 

 

 召会の中で、もしわたしたちが他の人の批判、裁き、反対を聞くなら、至聖所の中へと退くべきです。すなわち、わたしたちの霊に戻って静かにしているべきです。わたしたちが静かにしているとき、他の人も静かになるでしょう。しかしわたしたちがうるさいなら、他の人はさらにうるさくなるでしょう。宮は、槌でたたく音をもって建てられませんでした。それは静けさの中で建てられました。これは、わたしたちが主の御前に厳粛な学課を学ぶことを要求します。宮を建て、召会を建造するために、わたしたちは復活の中で生き、ささげられた生活をし、神の対処を受け入れなければなりません。(「召会の三つの面、第1巻、召会の意義」、第16章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第27日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上,下 第6週4日)

 

ダビデとソロモンは、神の建造の二つの面におけるキリストを予表しています

 

歴代上28:11-12

ダビデはその子ソロモンに、宮の廊とその建物……の様式を与えた.霊によって感動されて彼が持っていたすべての様式は、次のとおりである.すなわちエホバの家の庭のこと……

 

「ダビデとソロモンは、神の建造のための二つの面におけるキリストを予表しています。ダビデは若い時から苦難を受けました。しかし、彼は苦難を通して材料を用意し、宮を建造するための正しい立場を獲得し、建造者ソロモンとすべての助け手を用意しました(歴代上21:18-30.歴代下3:1.歴代上28:9-11,20-21)」。

 

 主よ、わたしたちに神の建造のビジョン、青写真を見せてください。主よ、わたしたちが自分自身を拒絶して、復活の霊の中で生きることを学ばせてください。そして、召会を建造することができますように。

 

 

宮を建造するための設計がダビデに啓示され、ソロモンを通して遂行されました

 

 イスラエルには多くの王がいましたが、ダビデとソロモンの二人だけが最も十分にキリストを予表します。ダビデが予表しているのは、復活の前の地上での苦難におけるキリストです。ダビデは若いころから苦難を受け、戦う王であって、敵を打ち破り、地を獲得し、聖なる宮の建造のための材料を用意しました(歴代上18:7-11.22:2-5、14-16……)。ソロモンは、復活における勝利を得た王として、平安の中で神の宮である召会を建造しているキリストの予表です(列王上5:2-5、マタイ16:18)。(リー全集、1966年、第3巻(上)、「キリストの啓示と召会の実際」、第7編)

 

 主イエスは彼の十字架の前、彼の弟子たちに召会の正しい青写真を啓示されました。……このことは宮の予表に符合します。宮を建造するための設計は、ソロモンにではなく、ダビデに啓示されました。宮を建造するための設計がダビデに啓示されましたが、その設計の実行はソロモンの手を通して遂行されました。……これが示しているのは、キリストが地上にいた間、召会の青写真を啓示されたこと、今やキリストがわたしたちの中で復活において、召会の青写真を実行しておられるということです。(「召会の三つの面、第1巻、召会の意義」、第16章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第26日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第6週3日)

 

命は神の建造のためです

 

ヨハネ2:19,21

イエスは彼らに答えて言われた、「この宮を壊しなさい.そうすれば、わたしは三日のうちにそれを起こす」。……しかし、イエスはご自分の体の宮のことを言われたのであった。

 

「ヨハネによる福音書は、キリストが生ける神の宮としての召会を建造するための命であることについての福音です。この建造の働きが遂行されるのは、わたしたちが十字架につけられ復活したキリストを命の木として経験し、享受することを通してです(啓2:4-7.Ⅰペテロ2:24.ヨハネ11:25.6:57,63.Ⅱコリント6:16)」。

 

 命を解き放つキリストの死を感謝します。主よ、命と建造のビジョンを見せてください。主よ、わたしたちが命を分与するキリストの復活にあずかって、キリストの奥義的なからだの多くの住まいとなりますように。

     

 

召会の建造のための唯一のしるしは、復活の中の命です

 

 ヨハネによる福音書第2章で、まず水をぶどう酒に変える事例があり(2:1-11)、それに続いて、宮を対処する事例があります(2:12-22)。……なぜ宮を対処することが、死を命に変えることの後に続くのでしょうか? それは、命が神の宮のためであることを見せています。命は神の建造のためです。……宮を対処する事例において、わたしたちは命の目標、目的、すなわち、神の家を建造することを見ます。……

 

 しばしば人々は、ユダヤ人のように、わたしたちがどのような奇跡を行なうことができるか見たいと挑戦してきます。わたしたちは、奇跡を行なおうと誘惑されてはなりません。わたしたちは主イエスに従い、自分自身を死に渡さなければなりません。その時、キリストが復活の中で現されるでしょう。これが、召会を建造することで必要とされる奇跡、しるしです。召会の建造のための唯一のしるしは、復活の中の命です。(「ヨハネによる福音書ライフスタディ(1)」、第7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第25日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第6週2日)

 

キリストのからだの実際の証しは、神の最終の回復です

 

エペソ1:23

この召会は、キリストのからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。

 

啓示録1:11

……あなたが見ていることを巻物に書いて、七つの召会に、すなわち、エペソに、スミルナに、ペルガモに、テアテラに、サルデスに、ヒラデルヒヤに、ラオデキヤに送りなさい。

 

「キリストのからだの実際の証しは、神の最終の回復です。すなわち、神の永遠のエコノミーの回復であって、それはキリストがわたしたちのすべてであることの回復、キリストのからだの一の回復、キリストのからだのすべての肢体が機能することの回復です(Ⅰテモテ1:3-6.6:3-5.ヘブル13:9.エペソ1:17.3:2,8-11,16-21.4:1-6,16)」。

 

 主よ、召会はキリストのからだであるというビジョンを見せてください。そして、わたしたちがキリストのからだの実際の証しを持つことができますように。主よ、キリストがわたしたちのすべてとなって、キリストのからだのすべての肢体が機能することができますように。

 

 

地方において表現される召会は、実行上の、実際的なからだです

       

 務めの働きは、召会の正常な証しを回復することです。これが真の回復です。わたしたちの今日の働きは、普通の働きではありません。今日の道は、召会の道です。この道で、わたしたちは出しゃばったり、不注意に行動したりしてはなりません。……コリント人への第一の手紙第12章で記述されているからだは、地方召会が持つべき証しであり、からだの証しです。このからだの中で、「目は手に向かって、『わたしはあなたを必要としない』と言うことはできません.また頭は足に向かって、『わたしはあなたを必要としない』と言うことはできません」(21節)。あらゆる部分は組み合わせの中になければなりません。……

 

 今日の地方召会は、このからだの実際を表現する証しでなければなりません。地方召会は、地方において表現される、実行上の、実際的なからだでなければなりません。

 今日、召会は地上において一です。召会の中の人たちは、この世から分離されている人たちです。……  すべての兄弟姉妹は、神に仕える者であるべきです。……さまざまな地方における諸召会は、… ただ一つの召会です。召会は一の証しのために存在します。(ニー全集、第57巻、「ウオッチマン・ニーの務めの回復」、第4、5編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第24日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第6週1日)

 

宮の拡大は、召会が強化されることを表徴します

 

エペソ2:21-22

その方の中で、建物全体が共に組み合わされ、主の中にある聖なる宮へと成長していき、その方の中で、あなたがたもまた共に建造されて、霊の中にある神の住まいへと至るのです。

 

「わたしたちの内側の主は、魂の荒野にある幕屋の召会生活から、わたしたちの霊にある良き地の実際であるキリスト(すべてを含む霊)を伴う宮の召会生活へと前進することを切望しています(ヘブル6:1前半.ヨシュア3:14-17.申8:8.エペソ2:21-22.コロサイ1:12.2:6-7)」。

 

 主よ、わたしたちの召会生活が魂の荒野にある幕屋から、わたしたちの霊にある良き地の実際であるキリストを伴う宮へと前進することができますように。主よ、わたしたちのキリストの経験が更新され、拡大することができますように。  

 

 

召会が強化され キリストの経験が更新され、拡大します

 

 わたしたちは……宮が幕屋より大きく、さらに安定し重みがあるようになるだけでなく、宮の中の器具も新しくされ、寸法も大きくされたことを見なければなりません。祭壇、洗盤、臨在[供え]のパンの机、金の燭台、香壇はすべて改造され、ほとんどの場合、寸法が大きくなりました。幕屋では祭壇は五キュビト四方で、高さ三キュビトでしたが、宮では二十キュビト四方で、高さ十キュビトでした。幕屋には金の燭台は一つしかありませんでしたが、宮には十ありました。幕屋には一つの臨在「供え]のパンの机と、一つの洗盤しかありませんでしたが、宮には、十の臨在[供え]のパンの机と十の洗盤がありました。

 

 わたしたちが十字架を経験し、聖霊を経験し、キリストをわたしたちの命、光として、受け入れること、甘さとして経験することは、更新され、深められ、拡大されるべきです。……宮の拡大は、召会が強化されることを表徴し、宮の中の器具が更新され、拡大したことは、聖徒たちのキリストの経験が、更新され、拡大することを表徴します。(「召会の建造のビジョン」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第22日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第5週6日)

 

わたしたちの霊とミングリングされたその霊に、全き注意を払います

 

ピリピ1:19

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです。

 

「今日の主の回復において、わたしたちはミングリングされた霊、すなわち、わたしたちの霊とミングリングされたその霊に、全き注意を払うべきです。そして、このミングリングされた霊の中で、またこのミングリングされた霊にしたがって、生き、歩き、存在すべきです。それによって、わたしたちは真に命の中で王として支配することができます(ローマ8:4.5:10,17)」。

 

 主よ、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を感謝します。主よ、わたしたちがミングリングされた霊の中にとどまり、ミングリングされた霊の中で生き、歩き、存在することができますように。

 

 

ミングリングされた霊にしたがって、生き、歩き、存在します

 

 キリストは今日、天の大祭司(ヘブル4:14)、天の奉仕者(8:1-2)、新しい契約の仲保者(9:15)、新しい遺言の執行者(9:16-17)です。そのような方として、彼は天で働いているだけでなく、わたしたちの再生された霊の中でも働いて、天をわたしたちにもたらし、わたしたちを天に結び付けておられます。わたしたちがキリストに従う道は、ミングリングされた霊の中にとどまり、ミングリングされた霊の中で生き、歩き、存在することです。これは自然にわたしたちがキリストを生き、キリストを大きく表現し、キリストと一になるようにします(ピリピ1:20-21)。このような生活の結果はキリストのからだ、召会です。

 

 聖書の教えは、霊の中で生き、霊の中で歩き、すべてのことを霊にしたがって行なうように勧め励ましています。例えば、わたしたちの髪を整える方法や、配偶者や子供たちと語る方法は、霊にしたがってであるべきです。人を訪問して福音を宣べ伝えるとき、わたしたちは自己にしたがってではなく、ミングリングされた霊にしたがって彼らと接触すべきです。さらに、召会の集会でわたしたちの歌うこと、祈ること、賛美すること、預言することはすべて、霊の中で、霊にしたがってであるべきです。(「列王紀上、下ライフスタディ」、第19編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第21日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第5週5日)

 

イスラエルの二つの悪事とは、生ける水の源泉を捨てて、壊れた水ためを掘ることです

 

エレミヤ2:13

まことに、わたしの民は二つの悪事を犯したからである.彼らはわたし、この生ける水の源泉を捨てて、自分たちのために水ため、水をためることがない壊れた水ためを掘ったのだ。

 

「悪い王たちの悪の根は、イスラエルの民の悪の根のように、彼らが生ける水の源泉としての神を捨てて、水をためることのない壊れた水ためとしての異教の偶像に転向したことでした。この二つの悪は彼らを、偶像礼拝という死の水、情欲にふけるという死の水の中におぼれさせました(エレミヤ2:13)。わたしたちは彼らの事例を自分自身に適用すべきです」。

 

 主よ、わたしたちが生ける水の源泉としての神を捨てて、壊れた水ためを掘ることがないようにしてください。主よ、わたしたちがキリストの復活の力によって、彼の死に同形化されますように。そして、すべてを含む、命を与える霊の満ちあふれる供給によってキリストを生きることができますように。

 

 

新約の勝利者は、キリストの死に同形化され、復活の中で神に生きます

 

 イスラエルの歴史には、全部で四十一人の王がいました。初めの三人、すなわちサウル、ダビデ、ソロモンは、イスラエルの民全体を治めました。残りの三十八人の王のうち、八人だけが比較的良かったのです。しかしながら、実は、彼らも依然として利己主義であり、自分の栄光を求め、彼らの間にある神の王国をいくらか自分の専制王国と考え、神によって定められた方法にしたがって神を知ることをしないで、自分自身、すなわち自分の天然の人を否まず、絶対的に神の霊によって生活し、事業を完成することをしませんでした。

 

 神の選ばれ祝福された選民の間での、王たちのそのようなあわれな歴史の悲惨な結末は、わたしたち、新約時代における神の選びの民に対する厳粛な警告となるべきです……。わたしたち、新約の勝利者は、キリストの復活の力によって彼の死に同形化されなければならず、それはわたしたちが自分自身、わたしたちの天然の人に対して死に、復活の中で神に生きるためです。すべてを含む、命を与える霊の満ちあふれる供給によってキリストを生き、キリストを大きく表現し、キリストと共に行動し活動し、あらゆることをその霊の中で、その霊にしたがって行なう生活が、わたしたち、神の新約の追い求める者には絶対に必要です。(「列王紀上、下ライフスタディ」、第23編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第20日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第5週4日)

 

天然の能力は、自己中心的であり、復活した能力は、神のみこころのためです

 

マタイ16:24

それから、イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい。

 

「天然の能力は、自己中心的であり、わたしたちを高ぶらせ、その結果、誇り、自らに栄光を帰します。復活した能力は、高ぶることがなく、自らを誇ることもありません(参照、コロサイ1:17後半,18後半.ピリピ3:3.Ⅱコリント12:9)。天然の能力は、利己的であり、その計画や手段はすべて自己のためであって、神のみこころを少しも顧みません。復活した能力は、神のみこころのためです。それは砕かれており、自己のためでなく、自己の要素がありません(参照、マタイ16:24)」。

 

 主よ、わたしたちが自己を否み、天然の力と能力を拒絶することができますように。主よ、神のみこころを顧みて、復活の中で召会の奉仕をし、主に従って行くことができますように。

 

 

天然の力と能力は、十字架によって対処されるなら、復活の中にあって神聖な要素を供給します

 

 天然の力と能力は十字架によって対処される必要があります。……わたしたちの天然の力と能力に打ち勝つことは、重大で主観的な学課であり、罪を対処することよりも主観的です。ある意味で、わたしたちの天然の力と能力は、わたしたちの自己、わたしたちの天然の構成と等しく、自己の具体化です。こういうわけで、自己を否むことの後に、天然の力と能力を拒絶することと、それらを十字架によって対処する学課を必要とするのです。天然の力と能力は、十字架によって対処されるなら、役に立つようになります。十字架によって対処された後、それらは復活の中にあるようになります。………

 

 わたしたちはみな天然の力と能力を拒絶することを学ばなければなりません。わたしたちの天然の力と能力は対処されて、十字架につけられなければなりません。そうすれば、それらは復活の中にあって、神聖な要素に満ちるようになり、わたしたちが召会の奉仕の中で行なうことは何であれ、神聖な要素を他の人たちに供給するでしょう。(リー全集、1979年、第2巻(上)、「奉仕についての基本的学課」、第16課)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第19日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第5週3日)

 

神の御手の中で用いられる人は、その才能が砕かれている人です

 

ピリピ3:3

なぜなら、わたしたちこそ割礼の者であり、神の霊によって仕え、キリスト・イエスの中で誇り、肉を頼みとしていないからです。

 

「わたしたちは、神の事柄においてわたしたちの天然の存在に信頼すべきではありません。反対に、わたしたちは自分の天然の存在を拒絶し、あらゆる事においてわたしたちの霊を活用して、キリストのからだを有機的に建造することを学ばなければなりません(ピリピ3:3.ローマ8:4.Ⅰテモテ4:7)」。

 

 主よ、わたしたちが天然の才能や賜物を活用することから救われますように。主よ、わたしたちが天然の存在を拒絶し、神に信頼することができますように。わたしたちの霊を活用して、キリストのからだを有機的に建造することを学ばせてください。

 

 

天然の才能は砕かれ、死を経過して、復活させられなければなりません

 

 霊的な命の光の下で、わたしたちが見ることができるのは、ソロモンは賢い人であったが、霊的な人ではなく、有能な人であったが、命の人ではなく、彼の知恵は賜物であって、命の度量ではなかったということです。彼が生涯に成就した事は、彼が神の与えられた知恵の賜物から来る能力を持っていたことを証明したのであって、命の円熟の能力を現したのではありませんでした。

 

 主の回復の中で、わたしたちは第一に命を顧みるべきです。次にある程度、ある意味で才能を必要とします。召会の中で、わたしたちの才能は命の円熟の現れであるべきです。命から離れた才能は蛇のようであり、召会に害毒を与えます。命ははとのようであり、召会に命を供給します。わたしたちは今日のソロモンになるのではなく、正常な命の度量を持った「はと」になるべきです。(「列王紀上、下ライフスタディ」、第7編)

 天然の才能は、砕かれることがなければ、神にとっては妨げです。それは砕かれなければなりません。それは死を経過して、復活させられなければなりません。……神の御手の中で用いられる人は、有能であっても、その才能が砕かれている人です。(「命の経験」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第18日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第5週2日)

 

ソロモンの失敗を、霊的な命の光の下で見る必要があります

 

Ⅰコリント1:24,30

……キリストは神の力、また神の知恵です。…… しかし、あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは、神によるのです.このキリスト・イエスは、神からわたしたちに与えられた知恵、すなわち、義と聖別と贖いとなられました。

 

「わたしたちはソロモンの失敗を、霊的な命の光の下で見る必要があります。神の与えられたソロモンの知恵は、彼の時代に彼をこの世の大いなる者としました。しかしながら、彼の知恵は完全に物質の領域にあり、何の霊的な要素もありませんでした。彼の知恵は、来たるべき真の知恵の影であり、パウロの知恵とは全く異なっていました(Ⅰコリント1:24,30)」。

 

 主よ、ソロモンの多くの知恵と広い心は、地的で天然的なものでした。主よ、わたしたちはパウロのように霊的な要素を持つ、真の知恵を持つことができますように。主よ、わたしたちがキリストをわたしたちの知恵として経験し享受することができますように。

 

 

ソロモンの知恵は物質の領域にありましたが、パウロの知恵は霊的な知恵でした

 

 列王紀上第4章29節から34節でわたしたちは、神の与えられたソロモンの知恵が、彼の時代に彼をこの世の大いなるものとしたことを見ます。神は彼に非常に多くの理解力と、海辺の砂のような広い心を与えられました(29節)。……ソロモンは彼の知恵をもって、三千の箴言を語り、千五の歌を書きました(列王上4:32)。さらに、彼は……樹木について論じ、… 獣、鳥、這うもの、魚についても論じました(33節)。[しかしながら]、ソロモンの知恵は完全に物質の領域にあり、何の霊的な要素もありませんでした。彼の知恵は、パウロの知恵とは全く異なっていました。

 

 パウロの知恵は霊的な知恵であり、キリストがわたしたちの心の中にご自身のホームを造ること(エペソ3:17)、わたしたちが霊にしたがって歩き、存在すること(ローマ8:4)、二つ霊(神聖な霊と人の霊―16節)に関するものでした。……… 今日、わたしたちは宇宙における最高の知恵を知ろうとするなら、パウロの手紙に来なければなりません。わたしたちは聖書の啓示の内在的な意義、特にパウロの手紙における真理の結晶の中へと入り込まなければなりません。真の知恵は神であり、神はキリストの中に具体化されており、キリストはわたしたちの知恵となってわたしたちの中におり(Ⅰコリント1:24,30)、わたしたちを神と一にならせ、わたしたちを命と性質において神とならせます。これは何という知恵でしょう!(「列王紀上、下ライフスタディ」、第3-4編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第17日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第5週1日)

 

ソロモンの華やかな一生は、「空の空」となりました

 

ピリピ3:13

兄弟たちよ、わたしはまだ自分自身、捕らえたとは思っていません.ただ一つの事、すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばしつつ。

 

「ソロモンは、知恵の人また理解力の人となりました(歴代下1:10.参照、コロサイ2:2後半-3)。しかしながら、彼は多くの異教の女をめとり、彼女たちの偶像を拝み、民が偶像を拝むための場所を建てたので、神が与えてくださった知恵と神が与えてくださった理解力とを失いました。彼はとても愚かになり、彼の王国に損害をもたらしました(列王上3:1.11:1-8」。

 

 主よ、あなたには慈しみがありますが、あなたは義なる神でもあります。主よ、わたしたちを取り扱う神を愛して、学課を学ぶことができますように。主よ、わたしたちがあらゆる事において霊にしたがって歩き、最も小さな事においてでさえ、主と共に生き、主に信頼し、主と一でありますように。

 

 

ソロモンの失敗は、わたしたちにとって警告と警鐘となるべきです

 

 確かに、神は愛しており、慈しみがあり、恵みに満ち、赦しに満ちておられます。しかしながら、彼は義なる神でもあり、詳細な方法で義です。もしわたしたちが、神が願われる方法で行動しないなら、彼がわたしたちの心の中にご自身のホームを造る機会はありません。わたしたちの行ない、わたしたちの振る舞いは、わたしたちを取り扱う神に影響します。……わたしたちは間違った言葉や無益な言葉を語らないという学課を学ぶ必要があります。わたしたちは神の御手の中にあり、神ご自身の中にさえある人です。……わたしたちは、小さな事でさえ注意深くあることを学ばなければならないのです。……

 

 ソロモンが全イスラエルを四十年治めた後、逝くことは(列王上11:41-43)、悲観的な失望の中にありました。彼の栄華は草の花のように落ち(マタイ6:29.Ⅰペテロ1:24)、彼の華やかな一生は、彼が宣べ伝えたように「空の空」となりました(伝1:2)。……ソロモンの失敗のゆえに、イスラエルの国は今も苦難を受けています。これはわたしたちにとって、何という警告と警鐘となるべきでしょう! (「列王紀上、下ライフスタディ」、第3、7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第15日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第4週6日)

 

マタイによる福音書第17章で描写されているのは、千年期における天の王国の実現の縮図です

 

マタイ16:28

ここに立っている者のうちのある人たちは、死を決して味わわないうちに、人の子が彼の王国の中で来るのを見る。

 

マタイ17:2

すると、イエスは彼らの前でかたちが変わり、彼の顔は太陽のように輝き、彼の衣は光のように白くなった。

 

「マタイ第16章28節から第17章5節で描写されているものは、千年期における天の王国の実現の縮図です。この縮図の中心は、栄光を現されたイエスです。そして彼と共に、旧約の勝利者を表すモーセとエリヤがおり、また新約の勝利者を表すペテロとヤコブとヨハネがいます(マタイ17:1-3)。[彼らは]、山上で主イエスと共に、王国の来たるべき実現の前味わいを持ちました(マタイ16:28-17:3)」。

 

 主よ、マタイ第17章における王国の実現のこの縮図は王国の前味わいです。主よ、栄光を現されたイエスがわたしたちに浸透し、満ちて、わたしたち召会から輝き出ますように。主よ、わたしたちが召会生活の中で、王国の来たるべき実現の前味わいを持つことができますように。

 

 

山頂で主イエスから輝き出たのは、王国の到来でした

 

 マタイによる福音書第17章3節は言います、「すると見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた」。モーセとエリヤは、王国の実現の中にいる旧約の勝利者を表します。彼ら二人は王国の到来の中で現れました。すなわち、彼らは王国の実現の中にいました。王国の実現のこの縮図の中に、旧約の勝利者がいるだけでなく、ぺテロ、ヤコブ、ヨハネに表される新約の勝利者もいます。 今日わたしたちは、来たるべき王国の実現の縮図を、キリストの変貌に見ます。縮図は、完全な実現が来ることをわたしたちに保証します。(マタイによる福音書ライフスタディ(3)、第49編)

 

 山頂で主イエスから輝き出たのは、王国の到来でした。…… 彼らは主イエスの輝きを見ました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネはみな彼の輝きの下にいたとき、王国の中にいたのです。さらに、モーセによって表される死んだ聖徒たちと、エリヤによって表される生きている聖徒たちが現れて、主イエスの拡大の輝きの下にいました。(リー全集、1972年、第2巻(上)、「王国(上)」、第2編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第14日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第4週5日)

 

千年期は準備の時代として、神によって用いられます

 

ゼカリヤ14:16

エルサレムに攻めて来るすべての諸国民のうち、生き残った者はみな年ごとに上って来て、王、万軍のエホバを礼拝し、仮庵の祭りを守る。

 

8:22

真に、多くの民と強い諸国民が来て、エルサレムで万軍のエホバを尋ね求め、エホバの恩恵を請い求める。

 

「千年期は準備の時代として、神によってなおも用いられます。この時代の間、神は召会の時代の間に成就されていなかった聖徒たちを成就します。それは、彼らが資格づけられて、神の永遠の王国のために新エルサレムの中へと入るためです。神はまた千年期の間、復興された諸国民をきよめて、新しい地の民とならせます」。

 

 主よ、あなたは千年王国と新天新地において、永遠にわたって王として支配されます。主よ、主よ、わたしたちが今の召会時代に、神の十分な恵みと進んで協力して成就されますように。 そして、千年期において、キリストと共に王として支配することができますように。

 

 

千年期は「万物の復興」[使徒3:21]をもたらします

 

 千年期は「万物の復興」[使徒3:21]をもたらします。……復興は、人に影響を及ぼすだけでなく、旧創造全体にも、すなわち、天、地、動物、さらには樹木にも影響を及ぼします。人の堕落を通してのろわれたあらゆるものは、復興されます。(「真理課程―第4段階」、2巻、第39課――英文)。 旧創造は用いられて、神が必要とされる三種類の人々を備えます。それは、千年期において王となる召会の勝利者、千年期において祭司となる救われたイスラエル人、千年期において民となる復興された諸国民です。千年期の時代、召会時代に神の十分な恵みと進んで協力せず成就されなかった信者たちを、神は引き続き成就されます。彼らは成就される前に死んでしまったので、神は依然として旧創造における最後の時代である来たるべき千年期において、彼らを成就されるでしょう。

 

 千年期の時代の間、神はまた復興された諸国民をきよめられます。きよめられた後、彼らは新しい地で、神の子として資格づけられるのではなく、神の民として資格づけられます。…… それは、彼らが資格づけられて、神の永遠の王国のために新エルサレムの中へと入るためです。(「新約の結論(15)」、メッセージ245)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第13日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第4週4日)

 

世の王国は、わたしたちの主と彼のキリストの王国となった

 

啓11:15

第七の御使いがラッパを吹いた.すると、天に大声があって言った、「世の王国は、わたしたちの主と彼のキリストの王国となった.彼は永遠にわたって王として支配される」。

 

「キリストの王国は千年期です。それはまた神の王国でもあります(啓20:4, 6.マタイ16:28.13:41, 43)。この王国は、キリストの王国また神の王国です。この面によると、キリストは神と共に王として支配します。またわたしたちは、キリストが神として、王として支配すると言うことができます(啓11:15)。キリストが再来して、諸国民に裁きを執行した後、世の王国はキリストの王国となります(ダニエル7:13-14.2:44-45)」。

 

 主よ、わたしたちが今日、召会生活の中で神の王国の生活を生きることができますように。主よ、わたしたちが神の命を成長させて、神の性質の美徳を発展させることができますように。主よ、わたしたちが来たるべき時代に、キリストと神との王国の中で嗣業を持つことができますように。

 

 

わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国へと入ります

 

 エペソ人への手紙第5章5節では、キリストと神との王国が語られています。キリストの王国は千年王国ですが(啓20:4,6.マタイ16:28)、またそれは神の王国でもあります(マタイ13:41,43)。信者たちは再生されて、神の王国の中に入れられ(ヨハネ3:5)、今日、召会生活の中で神の王国の生活を生きています(ローマ14:17)。すべての信者たちが千年王国にあずかるのではなく、勝利を得た者たちだけがあずかります。汚れた、敗北した者は、来たるべき時代に、キリストと神との王国の中では何の嗣業も持たないでしょう。......

 

 ペテロの第二の手紙第1章11節は、「わたしたちの主また救い主イエス・キリストの永遠の王国へと入る」ことを述べています。ここの永遠の王国とは、わたしたちの主また救い主イエス・キリストに与えられる神の王国(ダニエル7:13-14)のことで、彼が再来する時に出現するでしょう(ルカ19:11-12)。それは彼の忠信な信者たちに褒賞として与えられます。そのような信者は、神の命を成長させて円熟に至ることと、神の性質の美徳を発展させることを追い求め、千年王国において、神の栄光の中で王職にあずかるでしょう(Ⅱテモテ2:12.啓20:4、6)。(「新約の結論(15)」、メッセージ244)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第12日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第4週3日)

 

詩篇第72篇においてキリストは、王として支配するソロモンによって予表されています

 

マタイ1:1

イエス・キリストの系図の書.彼はダビデの子であり、アブラハムの子である。

 

ルカ1:32-33

彼は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれ、主なる神は彼に彼の父祖ダビデの王座を与えられます.彼はヤコブの家を永遠に統治し、彼の王国は終わることがありません。

 

「詩篇第72篇は、王として支配するキリストについてであり、王として支配するソロモンによって予表されています。キリストは、ダビデの苦難によって予表される地上での苦難の生活の後、天に昇りました。彼は今やそこで、ソロモンによって予表される王として支配しています(Ⅰコリント15:25.啓17:14)」。

 

 主よ、あなたは苦難を受けた後に、王として支配するために来られます。主よ、わたしたちはこの主イエスと一になって、苦難、復活、昇天を経過することができますように。そして、地を潤す雨のような支配におけるキリストを迎えることができますように。主よ、あなたは、牧草の上に降る雨のように、地を潤す夕立のように臨みます。

 

 

詩篇第69篇は苦難を受けたキリスト、詩篇第72篇は王として支配するキリストについてです

 

 キリストを王とする王国は、アブラハムの子孫から構成されており、それには肉における子孫と信仰における子孫との両方を含んでいます。ですから、マタイにおけるキリストの系図は、召しによる種族の父アブラハムで始まっているのであって、創造による種族の父アダムで始まっているのではありません。神の王国は、アダムの創造による種族で建造されるのではなく、真のイスラエル人(ローマ9:6-8)、そしてキリストにある信者たち(ガラテヤ3:7、9、29)の両方を含むアブラハムの召しによる種族で建造されるのです。(マタイ1:1、フットノート1)

 

 詩篇第69篇は苦難を受けたキリストについてであり、苦難を受けたダビデによって予表されます。詩篇第72篇は王として支配するキリストについてであり、王として支配するソロモンによって予表されます。……キリストはダビデの苦難によって予表される地上での苦難の生活の後、天に昇られました。彼は今やそこで、ソロモンによって予表される王として支配しておられます。(詩69:1、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第11日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第4週2日)

 

長く耐え忍ぶ戸よ、上げられよ.栄光の王が入って来られる

 

詩24:1,7,8

地とそれに満ちるもの、人の住む地とそこに住む者とは、エホバのものです。…  城門よ、あなたがたの頭を上げよ.長く耐え忍ぶ戸よ、上げられよ.栄光の王が入って来られる。栄光の王とはだれか? 強くて力あるエホバ! 戦いに力あるエホバ!

 

 「キリストは二度目の来臨の時、彼にご自身の所有として与えられた地を所有し、全地に神の王国を設立し、こうして、地に対する神の権利を回復します(詩24:1)。 詩篇第24篇7節から10節は、神の永遠の王国における来たるべき王としての勝利を得たキリストを明らかにします。主は、復活の中で彼の勝利者たちと共に戻って来て、地を彼の王国として所有する方です(ダニエル2:34-35.7:13-14.ヨエル3:11.啓11:15.19:13-14)」。

 

 主よ、あなたは栄光の王として来られます。主よ、聖徒たちは長く耐え忍んで、あなたの来臨を待っています。主よ、復活の中であなたの勝利者たちと共に戻って来て、全地をあなたの王国として所有してください。

 

 

栄光の王とはだれか? 強くて力あるエホバ! 戦いに力あるエホバ!

 

 詩篇第24篇は、神の王国における王としてのキリストを啓示しています。これは来たるべき時代にあるでしょう。・・・・わたしたちは長く耐え忍んで主の来臨を待たなければならないので、失望して頭を下げる傾向があります。…… しかし、もし[わたしたちの愛する人]から電話があって彼が来ると言うなら、わたしたちは頭を上げます。…… わたしたちが頭を上げなければならないのは、栄光の王が入って来られるからです(詩24:7、9.ルカ21:27.マタイ25:31)。わたしたちは主を迎える用意をしていなければなりません。

 

 詩篇第24篇8節は尋ねます、「栄光の王とはだれか?」。栄光の王とは、「強くて力あるエホバ! 戦いに力あるエホバ!」です。エホバはイエスであり、イエスは復活における三一の神の具体化です。彼は戦いにおいて強く、勝利を得られます。9節は言います、「城門よ、あなたがたの頭を上げよ。長く耐え忍ぶ戸よ、上げよ。栄光の王が入って来られる」。7節は「上げられよ」と言います……上げられるとは、わたしたちがなおも弱く、だれかがわたしたちを動かす必要があることを意味します。しかし、[9節で]上げるとは、わたしたちがさらに強くなったことを意味します。わたしたちは行動して自分自身を上げることができます。(「詩篇ライフスタディ(1)」、第11編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第10日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第4週1日)

 

ソロモンのきらめく王国は、千年期におけるキリストの王国の予表です

 

列王上4:20 , 24-25

ユダとイスラエルの人々は海辺の砂のように多くなり、…… これは、[ソロモン]が……あの川の西のすべての王を支配して、周辺のすべての地方で平安を得たからである。ソロモンの一生の間、ユダとイスラエルはダンからベエル・シバまで、みな自分のぶどうの木の下に、またいちじくの木の下に安心して住んだ。

 

「ソロモンのきらめく王国と、神の豊かな祝福の下での彼の隆盛は、千年期におけるキリストの王国の予表です(列王上4:20―5:18)。列王紀上第9章と第10章は、諸国の間におけるソロモンの栄光の絶頂を描写しています。ソロモンはイスラエルの王国の中で、彼の王国の光輝をもって栄光を得ました。これは千年期におけるキリストの予表です(列王上10:1-24)」。

 

 主よ、ソロモンのきらめく王国は、千年期におけるキリストの王国の予表です。主よ、わたしたちがこの恵みの時代に神の豊かな祝福の下で、今日の勝利者となることができますように。主よ、わたしたちが日常生活の中で、命の中で王として支配することができますように。

 

 

今日の勝利者となるために、わたしたちは命の中で王として支配します

 

 列王紀上第4章20節から第5章18節には、神の豊かな祝福の下でのソロモンの隆盛の記載があります。ソロモンのきらめく王国は、千年期におけるキリストの王国の予表でした。千年期の期間、すべての諸国民はキリストに来るでしょう。…… ローマ人への手紙第5章17節によれば、わたしたちは、受け入れた命の中で王として支配します。今日の勝利者となるために、わたしたちは命の中で王として支配しなければなりません。

 

 もしそうしないなら、わたしたちはキリストの享受の最高の分け前を失い、来たるべき時代に主によって懲らしめられるでしょう。わたしたちはみな、遅かれ早かれ円熟しなければなりません。もしこの時代に円熟すれば、この時代に命の中で王として支配し、次の時代にキリストと共同の王となって諸国民を支配するでしょう。わたしたちは列王紀上第9章から第11章で、ソロモンの統治に関して啓示されていることを考えるとき、これを思いにとどめておく必要があります。(「列王紀上、下ライフスタディ」、第4、7編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第8日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第3週6日)

 

わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益です

 

Ⅰコリント6:17

しかし、主に結合される者は、主と一つ霊になります。

 

ピリピ1:21

なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。

 

Ⅱコリント1:21-22

しかし、わたしたちをあなたがたと共に、キリストへと堅く結び付けて、わたしたちに油を塗られた方は神です.彼はまたわたしたちに証印を押し、そしてわたしたちの心の中に、その霊を担保として与えてくださいました。

 

「わたしたちは神の選ばれ、贖われ、再生された民であり、神と一であり、神で構成され、神を生き、神を表現し、神と共に行動し、神を代行する者たちであり、代理の神として機能することができます(エペソ1:4-5)」。

 

 主よ、わたしたちがキリストを生き、キリストと一である人となりますように。主よ、わたしたちが油塗られた方に結び付けられたことを感謝します。主よ、わたしたちは復活の神と一であり、復活の命を生きて、神を代行することができますように。

 

 

神はわたしたちを命、性質、表現、機能において神と同じにならせて、彼のエコノミーを完成します

 

 神はキリストを生き、彼と一である人を求めておられます。そのような人は最終的に、召会となります。……召会は、キリストを生き、神と一である団体的な人です。そのような人を持つことが神の心の願いであり、神が永遠の中で持つことを計画されたことです。……コリント人への第二の手紙で、パウロは彼自身と彼の同労者たちがそのような人であったことを見せています。すべての使徒たちは、神と一でありキリストを生きている人でした。

 

 ですから、ある所へ行くことを決定するようなさ細な事柄でさえ、パウロは自分自身の中でではなく、キリストの中で、またキリストと共に決定しました。彼は神から離れ、彼から分離したどのような意図も持ちませんでした。神がパウロをキリストに結び付けることによって彼に油塗られたので、彼はキリストと一であり、信実な神と一であることができました。…… 今やわたしたちはその油塗られた方に結び付けられたので、復活の神と一つであり、復活の命を生きることができます。(「コリント人への第二の手紙ライフスタディ(1)」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第7日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第3週5日)

 

嵐の海で、主はパウロをご自身の超越性の中に保ちました

 

Ⅱコリント11:2

わたしは神のねたみをもって、あなたがたをねたんでいます.なぜなら、あなたがたを清純な処女としてキリストにささげるために、一人の夫に婚約させたからです。

 

使徒27:24

……パウロよ、恐れてはならない.あなたはカイザルの前に立たなければならない。見よ、神はあなたと共に航海しているすべての人を、あなたに賜わった。

 

「パウロは彼の務めにおいて、神の人、すなわち、代理の神であって、信者たちを慰め、神の単純さにおいて振る舞い、神のねたみを表現し、またキリストの大使であって和解の務めを遂行しました(Ⅱコリント1:3-4,12.11:2.5:20)。使徒パウロの長く不幸な監禁された航海の間中、主は使徒をご自身の超越性の中に保ち、思い煩いの領域をはるかに超えた生活をすることができるようにしました(使徒27:13―28:9)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちを、あなたの超越性の中に保って思い煩いから解放してください。主よ、わたしたちが高く上げられたキリストの生ける証しとなることができますように。

 

 

パウロは長い不幸な監禁された航海の間中、神の人、代理の神として振る舞いました

 

 嵐の海で、主はすでに使徒を、同船の仲間たちを所有する者としただけでなく(使徒27:24)、彼らの命を保証する者、彼らを慰める者ともされました(22-25節)。今や無事に陸上に着いて、主はパウロをさらに進んで、その迷信的な人々の目に魔術的な魅力のある者としただけでなく(28:3-6)、土着の人々にとっていやす者、喜びともされました(8-9節)。使徒の長い不幸な監禁された航海の間中、主は使徒をご自身の超越性の中に保ち、思い煩いの領域をはるかに超えた生活をすることができるようにしました。

 

 しかし、この生活は、完全に威厳があり、最も卓越した神聖な属性を表現する最高水準の人性の美徳を伴っていました。それは何年も前に、主ご自身が地上で生きられたような生活でした。これは、神性によって豊かにされた人性の中で、再び地上で生きたイエスでした! これは、すばらしい、卓越した、奥義的な神・人であり、主は福音書の中で生き、彼の多くの肢体の一人を通して、使徒行伝の中で生き続けました! これが、肉体と成り、十字架につけられ、復活し、神が高く上げたキリストの生ける証しでした!

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第6日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第3週4日)

 

エリシャは神の人であり、地上で神を代行しました

 

出7:1

エホバはモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神とした…」。

 

サムエル上2:35

わたしはわたしのために、忠信な祭司を起こす.彼は、わたしの心とわたしの思いの中にあるものにしたがって行なう.わたしは彼のために堅固な家を建てる。すべての日々、彼はわたしの油塗られた者の前を行く。

 

  「モーセ、サムエル、パウロのように、エリシャは神の人であり、地上での神の代行として、代理の神として振る舞いました(列王下4:9)。サムエルが代理の神となることができたのは、彼の存在と神の心とが一であったからです(サムエル上2:35)」。 

 

 主よ、わたしたちは取るに足らず、とても弱い者です。わたしたちの存在と神の心が一となるように導いてください。主よ、わたしたちがあなたの心と思いを持って、神を代行するまでに至りますように。

 

 

主はいばらの中で燃えている火であり、火といばらは一です

 

 使徒は遣わされた者です。使徒は、彼が代行する人によって遣わされます。神の遣わされた者として、わたしたちはどこにいても、神の代行としてそこにいるという確信を持つ必要があります。わたしたちは取るに足りず、とても弱いのです。実は、わたしたちは無です。しかし、わたしたちは神を代行します。神の代行として、わたしたちは自分自身の言葉を語ったり、自分自身の働きを遂行したりしません。わたしたちはいばらであり、主はそのいばらの中で燃えている火です。火といばらは一です。わたしたちがこの実際の中にいるとき、いばらを火から区別することは困難です。

 

 これはわたしたちに、コリント人への第一の手紙第6章17節のパウロの言葉を思い起こさせます。「主に結合される者は、主と一つ霊になります」。神のために働く正しい道は、わたしたちが愛し仕えている方を代行しているという確信を持つことです。わたしたちはどこへ行っても、自分自身によってではなく、彼と共に、彼の中で行きます。(「出エジプト記ライフスタディ(1)」、第22編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第5日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第3週3日)

 

苦難の時に外側の賜物の力の下にではなく、内なる命の管理の下にいます

 

列王下13:14

さて、エリシャが死ぬ病を患っていたとき、イスラエルの王ヨアシは彼の所に下って行き、彼の面前で涙を流し、「わが父よ!わが父よ!……」と言った。

 

「エリシャは人のために神聖ないやしの奇跡を行ないましたが、神のみこころにしたがって、彼自身は奇跡によっていやされませんでした。これはパウロと彼の同労者の経験でした(列王下13:14)。パウロは病にあるトロピモや、テモテの胃の病を治すためにいやす祈りをしませんでした(Ⅱテモテ4:20.Ⅰテモテ5:23.使徒19:11-12)。パウロと彼の同労者たちは苦難の時に、外側の賜物の力の下にいたのではなく、むしろ内なる命の管理の下にいました」。

 

 主よ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが苦難の時に、外側の賜物の力や体のいやしを求めるのではなく、内なる命の管理の下にいることができますように。主がわたしたちの霊と共におられ、恵みがわたしたちと共にありますように。

 

 

主があなたの霊と共におられますように、恵みがあなたと共にありますように

 

 新約によれば、奇跡的な賜物は、召会が最初に起こされるとき、地位を持つかもしれません。しかし召会が衰退や迫害に抵抗するために、奇跡的な賜物や力はあまり助けになりません。わたしたちが保持すべき永遠の命だけが有効です。この命によって、わたしたちは衰退と迫害に抵抗することができます。…… テモテの疾患とトロピモの病気を人の方法で顧みたとき、……[パウロ]がいやしのために祈ったという記録はなく、…… 彼はテモテに少量のぶどう酒を飲むように勧め、またトロピモをミレトに残しました。……

 

 わたしたちの強調は、永遠の命になければなりません。それによってわたしたちはテスト、試み、迫害、攻撃、反対に抵抗することができます。堅固な土台は立っています。この立っていることは奇跡によるのではなく、わたしたちの内側の恵みである永遠の命によります。……すべての兄弟たちのあいさつを彼に送った後、パウロは結びます、「主があなたの霊と共におられますように。恵みがあなたと共にありますように」(Ⅱテモテ4:22)。ここでわたしたちは、パウロがテモテヘの第二の手紙の構造の二つの主要な要素をもって結ぶのを見ます。それは強い霊と神の恵みです。(「テモテへの第二の手紙ライフスタディ」、第8編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第3日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第3週1日)

 

エリシャは命における恵みの奇跡を行ないました

 

列王下2:21

彼は水の源に出て行き、そこに塩を投げて言った、「エホバはこう言われる、『わたしはこの水をいやした.ここからもはや死も不毛もなくなる』」。

 

ローマ5:17

……あふれるばかりの恵みとあふれるばかりの義の賜物を受ける者たちは、さらにいっそう一人の方、イエス・キリストを通して、命の中で王として支配します。

 

 「エリシャは、キリストが命の中で恵みの奇跡を行なうことを予表します。旧約の予表と型との成就において、キリストは真のエリシャです。主イエスは真のエリシャとして、甘く喜ばしい預言者、すなわち、祝福の預言者です(列王下4:9.ルカ4:27.7:11-17)。エリシャは旧約の予表であり、恵みの中の神の新約エコノミーを代表しました(列王下4:9.ルカ4:27)」。

 

 主よ、わたしたちを旧約の大きな奇跡から、命における恵みの奇跡へと転向させてください。主よ、わたしたちがあふれるばかりの恵みと義の賜物を受ける者たちであることを感謝します。主よ、わたしたちが、命の中で王として支配するに至りますように。

 

 

恵みによる義認は、命の中で王として支配することへと至ります

 

 エリシャはキリストの予表であり、命の中で恵みの奇跡を行ないました。エリヤはいくつかの大いなる奇跡を行ないました。…… しかしながら、エリシャは彼に代わって入って来た時、不思議を行ないませんでした。そうではなく、エリシャは命における恵みの奇跡を行ないました。多くのクリスチャンは奇跡に注意を払いますが、恵みと命の事柄を無視したり、とても浅薄な方法でそれらの事柄について語ったりします。パウロはローマ人への手紙で恵みを大いに強調しました。ローマ人への手紙で、恵みによる義認は命の中で王として支配することへと至ります(ローマ3:24、5:17-18)。

 

 恵みは、神がご自身をわたしたちに与え、わたしたちの享受となることによって、わたしたちのためにすべてを行なうことです。この恵みの結果は神聖な命であり、神聖な命は豊富で高く、さらにはわたしたちをキリストと共同の王とするに至ります。(「列王紀上、下ライフスタディ」、第13編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


10月の祈り 第1日

(朝ごとの食物  結晶の学び 列王紀上、下  第2週6日)

 

ヨルダン川は、新約のバプテスマが始まった所であり、死を表徴します

 

列王下2:8,14

エリヤは自分の外套を取り、それを巻いて水を打つと、水は両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。14 [エリシャ]はエリヤから落ちた外套を取り、……水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。

 

「ヨルダン川を経過して、時代は転換しました。この川は、新約のバプテスマが始まった所であり、死を表徴します。ヨルダン川を渡ることは、死に勝利し、復活の中で生きて務めをすることです(マタイ3:5-6.ローマ6:3-4.ガラテヤ2:20)」。

 

 主よ、わたしたちがヨルダン川を渡り、死に勝利し、復活の中で生きることができますように。主よ、わたしたちが新約の実際にあずかり、自分の肉を対処し、この世を放棄して神に立ち返り、サタンを打ち、死を経過して、自分の行程を行くことができますように。

 

 

わたしたちはエリヤの携え上げと、エリシャの外套(聖霊)を受けるために、ギルガルから始めて、ヨルダン川を渡るまでに至ります

 

 ヨルダン川は、新約のバプテスマが始まった所であり、死を表徴します(マタイ3:5-6と6節のフットノート2)。ヨルダン川を渡るために、エリヤは彼の外套で水を打ちました。彼の外套は、注ぎ出された霊、力の霊を予表します(列王下2:8)。力の霊は死の川を対処して、エリヤとエリシャのために道が開かれ、彼らが渡るようにしました。このすべてが表徴しているのは、わたしたちの経験において時代が旧約から新約に転換するために、わたしたちが自分の肉を対処し(ガラテヤ5:24)、この世を放棄して神に立ち返り(Ⅰヨハネ2:15-17)、サタンを打ち破り(啓12:11)、死を経過しなければならないということです(ローマ6:3-4.ガラテヤ2:20)。(列王紀下2:1、フットノート1)

 

 わたしたちは、エリヤの携え上げと、エリシャの外套(聖霊)を受けたいなら、ギルガルから始めて、ヨルダン川を渡るまでに至らなければなりません。聖霊は、復活の命に満ちている者たちにのみ下ることができます。……わたしたちは、ギルガル、ベテル、エリコ、ヨルダン川を経過しなければなりません。当時のエリヤがそうであったように、わたしたちは携え上げられるためには、これらすべての場所を経過しなければなりません。(ニー全集、第9巻、第23号)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)