6月の祈り19日
(国際華語特別集会 第2週第4日)
患難は恵みの甘い訪れです
ローマ5:3-4,11
それだけではなく、わたしたちは患難の中でも勝ち誇るのです.それは、患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は望みを生み出すことを知っているからです。… それだけではなく… わたしたちの主イエス・キリストを通して… さらに… 神の中で勝ち誇りながら…。
わたしたちは恵みの領域の中で、神をわたしたちの勝ち誇ること、また歓喜として持って、享受し喜びます。神の中で勝ち誇るとは、「患難の中でも勝ち誇る」ことです。「それは、患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は望みを生み出すことを知っているからです」(ローマ5:3-4,11)。
主イエスよ、あなたを愛します。患難の中でも勝ち誇ることのできる神の命を感謝します。神は患難や苦難をもたらされますが、すべてを共に働かせて益とならせてくださることを感謝します。わたしたちが御子のかたちに同形化される道を歩むことができますように。
わたしたちは患難の中でも勝ち誇るのです
わたしたちは恵みの領域の中で、神の中で勝ち誇ります(ローマ5:11)。「勝ち誇る」と訳されたギリシャ語には、少なくとも三つの意味があります。すなわち、「勝ち誇ること」、「歓喜すること」、「栄光を帰すこと」です。……わたしたちが恵みの領域に立ち、平安の道を歩く時、絶えずわたしたちの神の中で勝ち誇り、歓喜し、栄光を帰します。これは、わたしたちが神を享受することを意味します。
わたしたちの天然は聖別され、造り変えられ、同形化される必要があります。ですから、神はわたしたちの益のためにある患難、苦難をもたらされます。これはローマ人への手紙第8章28節から29節にはっきりと啓示されており、そこでは、わたしたちが御子のかたちに同形化されるために、神がすべてを共に働かせて益とならせられると言っています。ですから、患難と苦難はわたしたちの造り変えのためです。わたしたちはみな平和、恵み、栄光を高く評価しますが、だれも患難を好みません。(「ローマ人への手紙ライフスタディ(1)」、第9編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り18日
(国際華語特別集会 第2週第3日)
聖霊を通して、神の愛がわたしたちの心の中に注がれています
ローマ5:5
そして望みは、わたしたちに恥をかかせることはありません.なぜなら、わたしたちに与えられている聖霊を通して、神の愛がわたしたちの心の中に注がれているからです。
「わたしたちは患難を受け、貧しくあって、圧迫されるかもしれませんが、わたしたちの内側にある神の愛の存在を否定することはできません。キリストご自身である命の路線にとどまるために(ヨハネ14:6前半)、わたしたちは自分自身を神の愛、すなわち神ご自身(Iヨハネ4:8,16)の中に保つ(ユダ20-21節)必要があります」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちは患難を受け、圧迫されてもわたしたちの内側に神の愛があることを感謝します。主よ、わたしたちが絶えずわたしたちの霊を活用する習慣を建て上げ、神が与えてくださった愛の霊を再び燃え立たせることができますように。
神がわたしたちのために計画されたことが、わたしたちの分け前です
ああ、神の愛がわたしたちの心の中に注がれました! わたしたちは患難を受け、貧しくあって、圧迫されるかもしれませんが、わたしたちの内側にある神の愛の存在を否定することはできません。……キリストは、わたしたちのような不敬虔な罪人のために死なれました。かつてわたしたちは敵でしたが、キリストは十字架上で彼の血を流して、わたしたちを神に和解させてくださいました。これは何という愛でしょう! 神がご自身の御子をわたしたちに与えたのであれば、確かにわたしたちを害することをされません。神は主権者です。彼は何がわたしたちにとって最上であるかを知っておられます。……
わたしたちの好みがどうであれ、神がわたしたちのために計画されたことが、わたしたちの分け前です。わたしたちに関するすべてのことは、わたしたちの御父によって準備されました。わたしたちはただこう祈るべきです、「主よ、あなたの道を進めてください。わたしはあなたが願われることだけを願います。わたしはすべてを完全にあなたの御手にゆだねます」。これが、神がわたしたちを愛し、彼の愛が聖霊を通してわたしたちの心の中に注がれていることを新たに知る時の、神に対するわたしたちの応答です。(「ローマ人への手紙ライフスタディ(1)」、第9編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り17日
(国際華語特別集会 第2週第2日)
わたしたちの義認の結果は、命としてのキリストにある神の満ち満ちた享受です
ローマ5:18,21
こういうわけで、一度の違犯を通してすべての人に罪定めが及んだように、一度の義なる行為を通して、すべての人に命の義認がもたらされたのです。…… それは、罪が死の中で王として支配したように、恵みもまた義を通して王として支配し、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に至るためです。
「わたしたちの義認の結果は、わたしたちの命としてのキリストにある神の満ち満ちた享受です(ローマ5:1-11)。わたしたちの義認の結果は、以下の六つのすばらしいものに具体化されています。すなわち、愛(5節)、恵み(2節)、平和(1節)、望み(2節)、命(10節)、栄光(2節)であって、これらはわたしたちの享受のためです。これらの節はまた三一の神を、すなわち、聖霊(5節)、キリスト(6節)、神(11節)を啓示しており、それはわたしたちの享受のためです」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの義認の結果は、キリストにある神の満ち満ちた享受であることを感謝します。神の愛、恵み、平和、望み、命、栄光をわたしたちの分け前として、経験し享受することができますように。
ローマ人への手紙第5章1節から11節でパウロは、六つの際立った言葉を述べています。それは「愛」、「恵み」、「平和」、「望み」、「命」、「栄光」です。神の愛は、聖霊を通してわたしたちの心の中に注がれました(5節)。わたしたちはいま立っているこの恵みの中へと入りました(2節)。わたしたちは信仰によって義とされているので、神に対して平和を持っています(1節)。これに続いて、わたしたちは望みのゆえに勝ち誇り、歓喜し、栄光を帰します(2節)。10節は、わたしたちが彼の命の中で救われると言います。最後に、わたしたちは神の栄光にあずかることを期待します(2節)。これら六つの項目は、神の義認の結果の一部分です。……これらすべての事柄のために、あなたは義認を必要とします。それらすべては、神の義認の結果としての、わたしたちの分け前です。
これら六つの意義深い言葉と並んで、三つのすばらしいパースンがあります。……ローマ人への手紙第5章1節から11節で、三一の神の三つのパースンを見ます。5節は聖霊のことを語り、聖霊が神の愛をわたしたちの心の中に注がれたと言います。次に6節は、わたしたちがまだ弱く不敬虔であったころ、キリストはわたしたちのために死んでくださったと言います。最後に、11節は、今やわたしたちは神の中で勝ち誇ると言います。(「ローマ人への手紙ライフスタディ(1)」、第9編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り16日
(国際華語特別集会 第2週第1日)
義認の結果は、わたしたちの命としてのキリストにある満ち満ちた享受です
ローマ3:24,26
無代価で、彼の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです。… それは現在の時に彼の義を明らかに示すためです.それは神が義となり、またイエスの信仰の者を義とする方となるためでした。
「わたしたちはキリストの中へと信じるとき、神の赦しを受け(使徒10:43)、そして神は、キリストをわたしたちの義とすることによって、またわたしたちの義の衣であるキリストをわたしたちに着せることによって(イザヤ61:10.ルカ15:22.エレミヤ23:6.ゼカリヤ3:4)、わたしたちを義とすることができます(ローマ3:24,26)」。
主イエスよ、あなたを愛します。キリスト・イエスにある贖いを感謝します。キリストの贖いが、義認の基礎であることを感謝します。イエスがわたしたちの信仰の創始者、また完成者ですから、わたしたちはイエス・キリストを彼の信仰によって信じます。神の義はすべて信じる者に啓示されることを感謝します。
わたしたちの義認は、キリストの贖いに基づいています
義認は、神の義の標準にしたがって人々を良しと認める、神の行動です。わたしたちの義ではなく、彼の義が標準です。… 神の義はどれほどの高さでしょうか? それは無限です! あなたは自分の義にしたがって神に良しと認められることができるでしょうか?これは不可能です。あなたはすべての人――あなたの両親、子供たち、友人たち――に対して正しくても、あなたの義は神の御前に決してあなたを義としないでしょう。… わたしたちは信仰による義認を必要とします。神の御前での信仰による義認は、わたしたちが神の義の標準にしたがって神に良しと認められることを意味します。
どのようにして、神はこの事を行なうことができるのでしょうか? 神がそれを行なうことができるのは、わたしたちの義認がキリストの贖いに基づいているからです。キリストの贖いがわたしたちに適用される時、わたしたちは義とされます。もしそのような贖いがなければ、わたしたちが神によって義とされることは不可能です。贖いは義認の基礎です。(「ローマ人への手紙ライフスタディ(1)」、第5編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り14日
(国際華語特別集会 第1週第6日)
わたしたちの思いが霊に付けられるとき、思いは命に満ちます
ローマ5:21
それは、罪が死の中で王として支配したように、恵みもまた義を通して王として支配し、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に至るためです。
ローマ8:16
その霊ご自身、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供たちであることを、証ししてくださいます。
「キリストご自身は神の命、永遠の命です(ヨハネ14:6前半.11:25.Ⅰヨハネ1:2)。彼が来たのは、わたしたちが命を得、しかも豊かに得るためです(ヨハネ10:10後半)。彼が命を解き放つ死を遂げて、命を分与する復活の中へと入り(12:24)、命を与える霊と成って(Ⅰコリント15:45後半)、命の霊の法則として(ローマ8:2)、わたしたちの霊、思い、死ぬべき体に命を与えるのは、わたしたちが命によって飲み尽くされて、他の人に命を供給する者となるためです(10,6,11節.Ⅱコリント5:4.Ⅰヨハネ5:16前半.ヨハネ6:63.使徒5:20)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主が来られたのは、わたしたちが命を得、しかも豊かに得るためであることを感謝します。主よ、わたしたちが内側のミングリングされた霊にしたがって歩き、神の命を生かし出すことができますように。そして、あふれるばかりの恵みを持って、この恵みの中で王として支配し、永遠の命に至ることができますように。
内側のミングリングされた霊にしたがって歩くことによって、神の命を生かし出します
ローマ人への手紙第8章5節から6節は、小規模なエデンの園を見せており、肉と死が一方の側、霊と命がもう一方の側で、思いが中間にあります。わたしたちがどの領域にいるかは、どこにわたしたちの思いを付けるかにかかっています。わたしたちの思いが霊に付けられるとき、思いは命に満ちます。わたしたちはまた、外側の振る舞いと内側の存在の間に不一致がないので、平安を持ちます。そしてわたしたちが語るとき、主と一であるので、命がわたしたちの言葉の中に具体化されます。……
クリスチャンであることは、内側のミングリングされた霊にしたがって歩くことによって、神の命を生かし出すことです。このビジョンを見て、自分の努力を放棄し、ただ霊の中にいるなら、別の方がわたしたちの中で生きられるでしょう。その霊は常に、神の律法の義の要求にしたがって行動されます。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(下)、「ローマ人への手紙における神の全体的な救いの結晶の学び」、第2編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り13日
(国際華語特別集会 第1週第5日)
キリストの死を通してアダムから出て、キリストの中へ移されます
ローマ5:18
こういうわけで、一度の違犯を通してすべての人に罪定めが及んだように、一度の義なる行為を通して、すべての人に命の義認がもたらされたのです。
ローマ8:2
なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです。
「わたしたちは、ローマ第5章ではアダムの中におり、第6章ではキリストの中におり、第7章では肉の中におり、第8章では霊の中にいます。第5章のアダムは第7章の肉の中で経験され、第6章のキリストは第8章の霊の中で経験されます」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはわたしたちをキリストの死を通して、アダムからキリストの中へと移してくださったことを感謝します。主よ、わたしたちがキリストと共に十字架につけられることを通して、肉からその霊の中へと移し入れられることを経験し、享受することができますように。
肉(実行上の経験的なアダム)から出て、その霊(実行上の経験的なキリスト)の中へと移し入れられます
神の有機的な救いは、ローマ人への手紙で完全に啓示されています。神の有機的な救いを遂行するためには、二つの神聖な移行と一つの霊的な結合を必要とします。第一の移行は、アダムからキリストの中へとであり、事実上の地位的なものです(6:3-8)。第二の移行は、肉から命の霊の中へとであり、実行上の経験的なものです(7:1-6.8:16前半)。肉は実行上の、経験的なアダムです。わたしたちは肉から移し出されて、実行上の経験的なキリストであるその霊の中へと移し入れられます。
わたしたちとその霊との結合を遂行する道は、わたしたちの思いを肉にではなく、ミングリングされた霊に付けて命と平安へと至り(6節)、肉にしたがってではなく、ミングリングされた霊にしたがって歩き、存在することを学ぶことです(4節)。……わたしたちの思いをミングリングされた霊に付け、ミングリングされた霊にしたがって歩くことの結果は、すべての事柄を、恵みと共に命の中で王として支配し、永遠の命に至ることです(5:17後半、21)。(リー全集、1994年―1997年、第5巻(下)、「ローマ人への手紙における神の全体的な救いの結晶の学び」、第2編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り12日
(国際華語特別集会 第1週第4日)
どんな時にも霊の中で祈り、このために目を覚ましていなさい
ピリピ3:3
なぜなら、わたしたちこそ割礼の者であり、神の霊によって仕え、キリスト・イエスの中で誇り、肉を頼みとしていないからです。
エペソ6:18
すべての祈りと願い求めによって受け取りなさい.どんな時にも霊の中で祈り、すべての聖徒のために根気と願い求めの限りを尽くし、このために目を覚ましていなさい。
「神のエコノミーのために、神は彼の知恵と主権の中で、わたしたちの罪深く醜い肉を用いて、わたしたちを強いてわたしたちの霊に戻らせます。それはわたしたちが、わたしたちの中での神の増し加わりによって、神の建造のためにさらに多くその霊を獲得するためです(コロサイ2:19.ゼカリヤ4:6)」。
主イエスよ、あなたを愛します。神の目標は、ご自身をわたしたちの中へと造り込むことであることを感謝します。わたしたちが困難な状況にあるとき、肉を頼みとしないで、わたしたちの霊に戻ることができますように。そして、さらに多くその霊を獲得することができますように。
わたしたちはみな、肉から霊に戻る必要があります
肉はここでわたしたちを助け、わたしたちを強いて霊に戻らせます。わたしたちは落胆すべきではありません。わたしたちには肉がありますが、… 「主を賛美します! わたしには霊もあります」。一方で、わたしたちは自分の肉を憎みます。しかしもう一方で、わたしたちは「助ける肉」のゆえに主を賛美します。… 肉には望みがないことを発見した日から、わたしは何をするにも、恐れおののき、主を仰ぎ望み、霊に戻るようになりました。
わたしは警戒して言いました、「主よ、あなたは入って来られなければなりません。あなたはわたしをあなたの顧みの中に保ってくださらなければなりません。あなたはわたしを霊の領域の中に保ってくださらなければなりません。そうでないと、少しでも不注意であれば、わたしは肉の中にいるでしょう」。わたしたちはみな、肉から霊に戻る必要があります。肉には望みがなく、肉がここにあるのはわたしたちの益のためであることを認識する必要があります。肉は絶えず、瞬間ごとにわたしたちを助け、強いて霊に戻らせ、主に信頼させ、もはや肉を頼みとしないようにさせるのです(ピリピ3:3)。(リー全集、1975年―1976年、第1巻(上)、「肉と霊」、第1編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り11日
(国際華語特別集会 第1週第3日)
信者は小さなエデンの園であり、霊の中に命の木 肉の中に知識の木を持っています
ローマ8:6
肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。
ローマ6:6
…… わたしたちの古い人が彼と共に十字架につけられたのは、罪の体が無効にされて、わたしたちがもはや、罪に奴隷として仕えることがないためです。
「今日、信者は、小規模なエデンの園であり、霊の中に命の木としての神を持っており、肉の中に知識の木としてのサタンを持っており、彼の思いが中間にあります。わたしたちは、霊にいるか肉にいるかのどちらかです。わたしたちがいるべき第三の場所はありません。こういうわけで、わたしたちは思いを霊に付けなければならないのです(ローマ8:6)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの古い人がキリストと共に十字架につけられたことを感謝します。わたしたちの思いを肉に付けるのではなく、わたしたちの思いを霊に付けて、命と平安を享受することができますように。
肉に付けた思いは死であるので、わたしたちは思いを霊に付けます
霊はわたしたちの最も内側の部分であり、体はわたしたちの最も外側の部分であり、魂はわたしたちの存在の主要な部分であって、霊と体の間にあります。堕落の結果、知識の木であるサタンが、人の肉の中へと入って来ました。わたしたちがキリストを信じた結果、命の木である神が、わたしたちの霊の中へと入って来られました。ですから、かつて園の中で人の外側にあった二本の木は、今やわたしたちの内側にあります。一つはわたしたちの肉の中にあり、もう一つはわたしたちの霊の中にあります。
ローマ人への手紙第7章を注意深く読むなら、パウロが自分の肉の中に善なるものが住んでいない、ただ罪だけであると言ったのを見るでしょう。…… ローマ人への手紙第8章16節は、神がわたしたちの中におられることを証明している節であり、神の霊がわたしたちの霊と共に証ししてくださると言っています。ですから、すべての真のクリスチャンは、小規模なエデンの園です。あなたの魂の思いはあなたの自己を代表し、あなたの肉の中の罪はサタンを代表し、あなたの霊の中のその霊は神を代表します。エデンの園でのように、三当事者がわたしたちの内側で三角の状況を形成します。(「創世記ライフスタディ(1)」、第14編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り10日
(国際華語特別集会 第1週第2日)
命の木を食べることは、召会生活の主要な事柄です
啓示録2:4-5
しかし、わたしには、あなたを責めるべき事が一つある.あなたは初めの愛を離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めのわざを行ないなさい.しかし、そうしないなら、わたしはあなたの所へ行く.そして、もしあなたが悔い改めないなら、あなたの燭台をその所から除き去る。
啓示録2:7
……勝利を得る者には、神のパラダイスにある命の木から食べさせよう。
「命の木を食べること、すなわち、キリストをわたしたちの命の供給として享受することは、召会生活の主要な事柄であるべきです(創2:9,16.啓2:7)。召会生活の内容は、キリストの享受にかかっています。わたしたちが彼を享受すればするほど、その内容はますます豊富になります」。
主イエスよ、あなたを愛します。命の木としてのキリストを感謝します。主よ、わたしたちがあらゆる事において主イエスに首位を与えて、初めの愛を回復し、キリストを命の木として享受することができますように。
初めの愛を回復し、命の木としてのキリストを食べて、燭台として光を輝かし出します
命の木を食べること、すなわち、キリストをわたしたちの命の供給として享受することは、召会生活の主要な事柄であるべきです。召会生活の内容は、キリストの享受にかかっています。……キリストを享受するには、わたしたちが初めの愛をもって彼を愛することが必要になります。もしわたしたちが主に対する初めの愛を離れるなら、キリストに対する享受を失い、イエスの証しを失います。その結果、燭台はわたしたちから除き去られます。この三つの事柄(主を愛すること、主を享受すること、主の証しとなること)は並行します。(「啓示録ライフスタディ(1)」、第10編)
わたしたちは、初めの愛を離れることに勝利し、命の木としてのキリストを食べることを維持し、燭台として神聖な光を輝かし出す必要があります(啓2:5後半)。愛は命と関係があり、命は光と関係があります。愛、命、光は三一です。もしキリストをすべての事で第一とするなら、あなたは愛を持ちます。もしこの愛を持つなら、命を持ち、主を享受するでしょう。あなたが命を持つなら、この命はあなたにとって光となります。わたしたちは、キリストをわたしたちの愛、命、光として享受しているなら、自分の地方での燭台の輝きとしてのイエスの証しを守るでしょう(12:17後半)。(「勝利者」、第2章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り9日
(国際華語特別集会 第1週第1日)
ローマ書第5章から第8章は、聖書の核心です
創2:9
エホバ・神は……見て喜ばしく、食べるのに良い、すべての木を生えさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪知識の木とを生えさせられた。
「ローマ第5章から第8章は聖書の核心と呼ぶことができ、聖書の主題全体を具体的に、また詳細に示しています。これら二つのかぎとなる言葉(「命」と「死」)は、ローマ第5章から第8章において繰り返し述べられています。命の木と知識の木(死の木)は、二つの路線をもたらします。それは、命の路線と死の路線であり、聖書全体を貫いており、啓示録において終わります」。
主イエスよ、あなたを愛します。聖書の中にある命の路線を感謝します。毎日、わたしたちが命の木から食べて生きることができますように。そして、わたしたちが新エルサレムへと至る命の路線を歩み続けることができますように。
命の木と知識の木(死の木)は、二つの路線、命の路線と死の路線をもたらします
ローマ人への手紙第5章から第8章は聖書の核心と呼ぶことができ、二つのかぎの言葉が繰り返し用いられています。その言葉とは「命」と「死」です。創世記第2章で、命は命の木によって代表され、死は善悪知識の木によって代表されています(9節)。善悪知識の木の結果は実は知識ではなく、死です。ですから、わたしたちはこれらの木を、命の木と死の木と呼んでもよいでしょう。……この[死の]木に関して三つの関係のある事柄(知識、善、悪)があります。わたしたちはみな知識と善を高く評価しますが、悪を好みません。わたしたちは善と悪は二つの別の部類にあると考えます。
しかしながら、聖書での善悪の観念は違います。聖書は善と悪の両方を同じ部類に入れます。……創世記第2章によれば、知識と善は悪と一緒にされています。それらは一つの家族に属しており、三「姉妹」であって、共に働いて死をもたらします。それはもちろん、命の反対です。(「ローマ人への手紙ライフスタディ(2)」、第38編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り7日
キリストを経験し(2) 第24週(メッセージ12 第6日)
その霊の剣だけが、敵を攻撃するために用いられます
エペソ6:17-18
また救いのかぶとを受け取りなさい.さらにその霊の剣、すなわちその霊である神の言葉を、すべての祈りと願い求めによって受け取りなさい.どんな時にも霊の中で祈り、すべての聖徒のために根気と願い求めの限りを尽くし、このために目を覚ましていなさい。
「神の武具の六つの項目の中で、その霊の剣だけが、敵を攻撃するために用いられるものです。わたしたちは剣をもって、敵を寸断します。その霊また言葉としてのキリストは、敵を打ち破って殺すために、わたしたちに攻撃の武器としての剣を供給します。「ロゴス(logos)」(聖書の恒常的な言葉)が、わたしたちに「レーマ(rhema)」(その霊の、現在の即時的な生ける語りかけ)となるとき、この「レーマ」は敵を寸断する剣です――参照、(ヨハネ6:63)」。
主イエスよ、あなたを愛します。神のすべての武具を感謝します。真理を腰に帯として締め、義の胸当てを身に着け、平和の福音を足にはき、信仰の盾を取り、救いのかぶとを受け取り、その霊である神の言葉を、すべての祈りと願い求めによって受け取ることができますように。
その霊である神の言葉を、すべての祈りと願い求めによって受け取りなさい
その霊の剣だけが、敵を攻撃するために用いられるものです[エペソ6:17]。……しかしながら、わたしたちは最初に剣を取るのではありません。むしろ、わたしたちは最初に帯を締め、胸当てを身に着け、くつをはき、信仰の盾と救いのかぶとを取らなければなりません。わたしたちが完全に保護され、わたしたちの分け前としての救いを得るとき、わたしたちはその霊の剣を受け取ります。17節の「すなわち」に先立つ言葉は、「剣」ではなく、「霊」です。これは、その霊が神の言葉であることを示しています。その霊と言葉はどちらもキリストです(Ⅱコリント3:17.啓19:13)。その霊また言葉としてのキリストは、敵を打ち破って殺すために、わたしたちに攻撃の武器としての剣を供給します。……
これは、わたしたちが、すべての祈りと願い求めによって神の言葉を受け取る必要があることを示しています。わたしたちは神の言葉を受け取っているとき、祈る必要があります。わたしたちは神のすべての武具が六つの項目から成っていることを見てきました。祈りは第七のものと考えられます。祈りは、神の武具を適用する唯一の方法です。祈りは、わたしたちに武具を実用的なものとならせます。(「新約の結論(20)」、メッセージ344)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り6日
キリストを経験し(2) 第24週(メッセージ12 第5日)
わたしたちは信仰の盾を取って、燃える火の投げやりを消します
エペソ6:16
なおその上に、信仰の盾を取りなさい.それによって、あなたがたはあの邪悪な者の燃える火の投げやりを、いっさい消すことができます。
ヘブル12:2
わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。
「なおその上に、信仰の盾を取りなさい」(エペソ6:16)。燃える火の投げやりは、サタンの誘惑、提案、疑い、疑問、虚偽、攻撃です。わたしたちは信仰の盾を取って、これらの燃える火の投げやりを消す必要があります。わたしたちは信仰の霊を活用して、主の死がサタンを滅ぼしたことを信じる必要があります(ヘブル2:14.創2:17.3:15.ガラテヤ2:20.ローマ6:3-6.Ⅰコリント15:54-58)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを賛美します。主よ、わたしたちが 信仰の盾を取って、サタンからの燃える火の投げやりを消すことができますように。わたしたちが日常生活の中で、自分自身の能力、力、長所に信頼しないで、神の心、神の信実を信じることができますように。
わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめます
わたしたちは、腰に帯として締める真理、わたしたちの良心を覆う義、わたしたちの足の立場としての平和、わたしたちの全存在を保護する信仰を必要とします。わたしたちは決して自分自身の能力、力、長所、美徳に対する信仰を持つべきではありません。わたしたちの信仰は、神へでなければなりません(マルコ11:22)。神は真であり、生きており、現在の、便利な方です。わたしたちは彼を信じる必要があります。
わたしたちはまた、神の心を信じるべきです。すべてのクリスチャンは、神と、神の心との両方を知って、信頼する必要があります。わたしたちに対する神の心は、常に良いのです。たとえどのような事がわたしたちに起ころうとも、たとえどのような種類の苦難をわたしたちが経験をしようとも、わたしたちは神の心が常に良いことを信じるべきです(ローマ8:31-39)。神には、わたしたちを罰したり、傷つけたり、損失を被らせたりする意図はありません。(「新約の結論(20)」、メッセージ344)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り5日
キリストを経験し(2) 第24週(メッセージ12 第4日)
平和の福音を確固とした土台として足にはきなさい
ヘブル9:14
まして、キリストが永遠の霊を通して、傷のないご自身を神にささげられたその血は、なおさらわたしたちの良心をきよめて、死んだわざから離れさせ、生ける神に仕えるようにさせないでしょうか?
エペソ6:15
また平和の福音を確固とした土台として足にはきなさい。
「キリストはわたしたちのために十字架上で、神との平和と人との平和をつくられました。そしてこの平和は、わたしたちの福音となりました。平和の福音は、確固とした土台として、わたしたちが足にはく備えとして、確立されました(エペソ2:13-17)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よあなたは十字架上で、神との平和と人との平和をつくられたことを感謝します。わたしたちがこの平和の中で堅く立ち、神と一となり、また聖徒たちと一となって、霊的戦いを戦うことができますように。
わたしたちは平和の中で立つことによって、霊的戦いを戦います
啓示録第12章11節は言います、「兄弟たちは、小羊の血のゆえに……彼に打ち勝った」。小羊の血によって覆われるとは、おもに義の胸当てを身に着けることです。義は血の中にあり、血のおおいは胸当てです。わたしたちが暗やみの勢力に対抗して戦おうとするときはいつも、サタンは彼の訴えを通して、わたしたちの良心を非常に敏感にならせます。実は、これらの感覚は良心の敏感さではなく、サタンの訴えの結果です。そのような訴えに対して、わたしたちは直ちに応答すべきです、「わたしが訴える者であるサタンに打ち勝つのは、わたしの完全さによってではなく、とがめのない良心によってでさえなく、小羊の血によってである。わたしは義の胸当てによって、彼の訴えから守られています」。
通常、平和は戦いの反対です。平和があるとき、わたしたちは戦いません。また、わたしたちが戦うとき、平和はありません。しかし、ここでわたしたちは平和をもって、平和の中で戦います。もしわたしたちが、わたしたちと神の間の平和、あるいはわたしたちと他の信者の間の平和を失うなら(コロサイ3:15)、戦う立場を失います。キリストは、わたしたちが神と一となり、また聖徒たちと一となるための平和です。この平和は、確固とした土台であり、わたしたちを敵に対抗して堅く立つことができるようにします。(「新約の結論(20)」、メッセージ344)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り4日
キリストを経験し(2) 第24週(メッセージ12 第3日)
神のすべての武具は、団体の戦士としてのキリストのからだのためです
エペソ6:11,13-14
神のすべての武具を身に着けなさい.悪魔の策略に敵対して立つことができるためです。… こういうわけで、神のすべての武具を取りなさい.それは、あなたがたが邪悪な日にあって抵抗することができ、またすべてのことをやり抜いた後も、なお立つことができるためです。ですから立ちなさい.真理を腰に帯として締め、義の胸当てを身に着け、
「エペソ第6章10節から20節は、キリストが神の武具の構成要素であることを啓示しています。神のすべての武具は、団体の戦士としてのキリストのからだ全体のためであって、からだのいかなる個人的な肢体のためでもありません。わたしたちが霊的戦いを戦うのはからだの中でなければならず、個人としてであってはなりません(エペソ6:10-13.ヤコブ4:7.参照、ローマ13:12-14.申32:30)」。
主イエスよ、あなたを愛します。キリストのからだのためにある神のすべての武具を感謝します。わたしたち召会が団体の戦士として、神のすべての武具を取ることができますように。そして、わたしたちがからだの中で、霊的戦いを戦うことができますように。召会が悪魔の策略に敵対して立つことができますように。
わたしたちはからだの中で霊的戦いを戦います
エペソ人への手紙第6章10節から20節は、キリストが神の武具の構成要素であることを啓示しています。御言のこの箇所で、召会は神の敵を打ち破る戦士として啓示されています。戦士として、召会は大能と神のすべての武具を必要とします。召会は団体の戦士であって、信者たちが共にこの唯一の戦士を構成しています。団体の戦士だけが神のすべての武具を身に着けることができるのであって、個人の信者にはできません。わたしたちが霊的戦いを戦うのはからだの中でなければならず、個人的であってはなりません。…
[エペソ人への手紙第6章14節における]義の胸当ては、胸で表徴されるわたしたちの良心を覆います。サタンはわたしたちを訴える者です。わたしたちは彼に対する戦いにおいて、とがめのない良心を必要とします(使徒24:16)。わたしたちは、自分の良心がどれほど良いと感じたとしても、それは義の胸当てで覆われる必要があります。(「新約の結論(20)」、メッセージ344)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り3日
キリストを経験し(2) 第24週(メッセージ12 第2日)
聖徒たちは成就されて、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至ります
エペソ4:11-12
そして彼ご自身は、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧する者また教える者として与えられました.それは、聖徒たちを成就して、その務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためであり、
「キリストの有機的なからだの内在的な建造は、賜物のある人が神聖な分与の中で聖徒たちを成就して、すべての聖徒たちが新約の務めの働きを行なうことができるようにすること、すなわち、キリストのからだを建造することができるようにすることによります(エペソ4:11-12)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちすべての聖徒たちが、召会に対する賜物であることを感謝します。わたしたちが愛の中で真実を固く保って、かしらであるキリストの中へと成長し込みますように。また、それぞれの部分に応じた活動を通して、からだを建て上げることができますように。
成就された聖徒たちは直接、建造の働きを行ないます
あらゆる聖徒は、大きい者も小さい者も、召会に対する賜物です。からだのあらゆる肢体はからだにに対する賜物です。… わたしたちは自分自身があまりにも小さいので、からだにとって益となる賜物となることはできないと決して考えてはなりません。一人の人が語って、他の人たちが聞くというキリスト教の実行は賜物を駄目にし、聖徒たちの機能を殺します。… エペソ人への手紙第4章が啓示しているのは、かしらであるキリストが召会を建造するのは、聖徒たちを賜物とすることによってであり、またキリストのからだの建造のためにこれらの賜物を召会に与えることによってであるということです。
このことが示しているのは、かしらが直接、召会を建造するのではないということです。さらに、かしらによって用いられて他の人たちを成就する賜物のある人たちが直接、召会を建造するのでもありません。彼らは聖徒たちを成就し、聖徒たちは直接、建造の働きを行ないます。主の回復の中でわたしたちのうちの多くの人たちは、何年間も水注ぎ、すなわち、成就の下にあって、わたしたちの地方において直接、召会を建造することができました。(「手順を経て分与する三一の神の有機体であるキリストのからだとしての召会の有機的建造」、第3章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
6月の祈り2日
キリストを経験し(2) 第24週(メッセージ12 第1日)
キリストの賜物の度量にしたがって恵みが与えらました
エペソ4:7-8
しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物の度量にしたがって恵みが与えられました。そこで聖書はこう言っています、「彼は高い所へ昇られた時、とりこにされていた者たちをとりことして引いて行き、人々に賜物を与えられた」。
「エペソ第4章7節から16節がわたしたちに提示しているのは、賜物を与える方としてのキリストであり、それはキリストの有機的なからだの内在的な建造のためです。この建造は、キリストの賜物の度量にしたがって神聖な恵みを与え、分与することによります。キリストのからだのあらゆる肢体は、からだにとって必要不可欠な賜物です(エペソ4:7.Ⅰコリント12:14-22.ローマ12:4-5)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主はわたしたちをサタンのとりこから救い出して、ご自身に帰されたことを感謝します。また、わたしたち一人一人に、キリストの賜物の度量にしたがって恵みが与えられていることを感謝します。キリストのからだの建造のために、わたしたちをご自身で満たして、からだに対する賜物として構成してくださいますように。
キリストの有機的なからだの内在的な建造のために、賜物が与えられています
エペソ人への手紙第4章7節から16節において、キリストは賜物を与える方として提示されています。キリストが賜物を与える方に構成されるために、彼は宇宙において最も高く、また最も低い所を通過することによってすべてのものを満たさなければなりませんでした。キリストは肉体と成ることと死において、宇宙において最も高い所である天から、宇宙において最も低い所であるハデス[陰府]に下って行かれました。彼は復活と昇天において、ハデス[陰府]から天に昇られました。キリストは、下って行かれることと、昇られることを通して、すべてを満たす方となられました。……
キリストは死を通して神の敵であるサタンを征服し、彼の暗やみの勢力を滅ぼし、神の選ばれた人々、すなわち、サタンによって彼の王国の中でとりことされていた者たちをサタンの手から奪いました。キリストは復活を通して、ご自身を命として彼らの中へと分け与え、昇天において、彼の征服された敵の行列、すなわち、彼の凱旋行進の行列の中でこれらのとりこを引いて行きました。彼の宇宙的な行程、彼の敵に対する勝利、彼の凱旋行進によって、彼はご自身のからだに対して賜物を与える方となるように資格づけられました。(「新約の結論(20)」、メッセージ340)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)