神の王国の実際の中で生きる(第1週3日~第8週6日)
神のエコノミーのために、神の統治の下で、クリスチャン生活と召会生活をする
(第1週第1日~第1週第5日)
1月の祈り31日
(サンクスギビング特別集会 第1週第5日)
新約の務めは、すべてを含むキリストを人々に供給します
Ⅱペテロ3:15-16
そして、わたしたちの主の辛抱強さを、救いであると思いなさい.それは、わたしたちの愛する兄弟パウロも、彼に与えられた知恵によってあなたがたに書き送り、また、彼のすべての手紙の中でも、これらの事柄について語っているとおりです.その中には、理解し難い事柄もいくつかあり、学びのない者や心の定まっていない者たちは、聖書の他の部分についてもしているように、曲解して、自ら破壊に至っています。
「そのような[新約の]務めは、その務めの中心(焦点)としての、三一の神の具体化である、すべてを含むキリストを人々に供給します。この三一の神は、肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天の手順を経過した後、キリストの贖いを通して、また聖霊の活動によって、ご自身を彼の贖われた民の中へと、彼らの唯一の命の分け前として、彼らの命の供給またすべてとして分与します。そして御父の永遠の定められた御旨にしたがって、キリストのからだとしての召会を建造し、それは三一の神の完全な表現、豊満において究極的に完成します(使徒2:36.3:13, 15.10:36.Ⅰペテロ1:2-3, 18-19, 23.2:2-5, 7, 9, 25.3:7.4:10, 17.5:2, 4, 10.Ⅱペテロ1:2-4.3:18)」。
主イエスよ、あなたを愛します。その務めの中心(焦点)として、すべてを含むキリストをわたしたちに供給してくださることを感謝します。主よ、わたしたちが御言葉を食べ、神聖な三一の命の供給にあずかり、キリストのからだとしての召会を建造することができますように。
わたしたちは主の言葉を食べ、成長して完全な救いへと至る必要があります
ペテロの第一の手紙の心臓部は、三一の神の三重の救いを遂行する彼の活動であり、それは再生、贖い、適用を含みます。わたしたちは再生を通して神の子供たちとなりました。今やわたしたちは彼の言葉を食べ、成長して完全な救いへと至る必要があります。そうすればわたしたちは造り変えられ、共に建造されて神に住まいを備え、彼の表現となるでしょう。この目的のために、あらゆる恵みの神はわたしたちを成就し、堅固にし、力づけ、土台づけてくださいます。(「ユダの手紙ライフスタディ」、第5編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り30日
(サンクスギビング特別集会 第1週第4日)
三一の神が活動して彼の全体的な救いを完成します
Ⅰペテロ4:14
キリストの御名の中でそしられるなら、あなたがたは幸いです.なぜなら、栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
Ⅰペテロ3:4
むしろ、柔和で穏やかな霊を朽ちない飾りとする、心の中の隠れた人です.これこそ、神の御前に極めて価値のあるものです。
「ペテロの第一と第二の手紙の中心的な焦点と基本的な構造とは、三一の神が活動して彼の全体的な救いを完成し、それによってわたしたちが再生され、彼の言葉で養われ、成長し、造り変えられ、建造されて、彼が住まいを持ち、わたしたちが栄光化されて彼を表現することです(Ⅰペテロ1:23.2:1-5, 9)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちを神聖な性質にあずかる者としてくださったことを感謝します。父なる神の予知、その霊の聖別、イエス・キリストの血に対する従順と彼の血の注ぎを感謝します。わたしたちが霊を活用し、神聖な霊と協力し、命の中で成長し、三一の神の中で成就されますように。
わたしたちは神聖な性質にあずかる者となりました
ペテロが彼の文書の中で扱った第一の基本的な事柄は、三一の神です。ペテロは、わたしたちが信じる神が三一の神であることを示します。ペテロの第一の手紙の冒頭の言葉に、三一の神を見ることができます。「父なる神の予知にしたがい、その霊の聖別の中で、イエス・キリストの血に対する従順と、彼の血の注ぎへと」(1:2)。ここに父なる神の予知、その霊の聖別、イエス・キリストの血に対する従順と彼の血の注ぎがあります。父なる神はわたしたちを再生しました(3節)。キリストは彼の尊い血をもって贖いを完成しました。その霊は神の完全な救いを彼の選びの民に適用します。ここでわたしたちは、完全な救いの完成における三一の神を見ます。
ペテロはまたわたしたちに、この三一の神がわたしたちの分け前であるという事実を明らかにします。この事実は、ペテロの第二の手紙第1章4節の「あずかる者」という言葉で示されます。この節によれば、わたしたちは神聖な性質にあずかる者となりました。……もし神がわたしたちの分け前でなかったなら、わたしたちは彼の性質にあずかることはできなかったでしょう。(「ユダの手紙ライフスタディ」、第4編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り29日
(サンクスギビング特別集会 第1週第3日)
三一の神を享受して神のエコノミーを遂行します
Ⅰペテロ2:4-5
人には捨てられたが、神には選ばれた尊い生ける石である主に来て、あなたがた自身も生ける石として、霊の家に建造されていきながら、聖なる祭司の体系となって、イエス・キリストを通して、神に受け入れられる霊のいけにえをささげなさい。
「ペテロの第一と第二の手紙の中心的な焦点と基本的な構造は、力を尽くして活動する三一の神が彼のエコノミーの中で活動して、彼の選ばれた者たちを、三一の神の満ち満ちた享受の中へともたらすということです」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちを純粋な言葉の乳で養ってくださることを感謝します。わたしたちが分け前としての神にあずかることができますように、三一の神の満ち満ちた享受の中へともたらしてくださいますように。
神はわたしたちを成就し、堅固にし、力づけ、土台づけてくださいます
ペテロの第一の手紙で、実は一章半だけが命に関して極めて重要です[1:1―2:11]。……それに加えて、わたしたちは第5章10節のペテロの言葉を重要なものと考える必要があります。この節でペテロは言います、「あらゆる恵みの神、キリスト・イエスにあってあなたがたをご自身の永遠の栄光の中へ召してくださった方は、あなたがたがしばらく苦しみを受けた後、彼自らあなたがたを成就し、堅固にし、力づけ、土台づけてくださいます」。……[ペテロの第二の手紙]で第1章の前半と最後の章の最後の節は、命に関して極めて重要です。ペテロの第一と第二の手紙のこれらの決定的に重要な部分には、これらの手紙の中心的な焦点があります。……
純粋な言葉の乳で養われることによって、また成長して救いへと至ることによって、わたしたちは尊い石へと造り変えられます。ですから、ペテロは生ける石としての信者たちに言及します(Ⅰペテロ2:5)。これらの石は霊の家の建造のためであり、この家は聖なる祭司の体系です。「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に建造されていきながら、聖なる祭司の体系となって、イエス・キリストを通して、神に受け入れられる霊のいけにえをささげなさい」(5節)。一方で、この霊の家は神の住まいです。もう一方で、それは神の美徳を告げ知らせ、神が何であるかを表現するものです。(「ユダの手紙ライフスタディ」、第5編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り28日
(サンクスギビング特別集会 第1週第2日)
わたしたちは寄留の時を、畏れのうちに過ごすべきです
Ⅰペテロ1:17
そして、人を偏り見ることなく、それぞれの行ないに応じて裁く方を、あなたがたは御父と呼ぶのであるなら、あなたがたの寄留の時を、畏れのうちに過ごしなさい。
「こういうわけで、ペテロがわたしたちに告げているのは、わたしたちが「寄留の時を、畏れのうちに過ご」すべきであるということです(Ⅰペテロ1:17)。……神の懲らしめにおいて、神のへりくだらせる御手によって進んで低くされることは、わたしたちが神の高く上げる御手によって高くされるための前提条件であり、またわたしたちが、わたしたちの命の供給としての三一の神ご自身を享受するための前提条件であって、それは、へりくだらされた信者の中で増し加わります(5節.1:2.4:10)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの寄留の時を、畏れのうちに過ごさせてください。そして、神のへりくだらせる御手によって進んで低くされますように。 神を畏れ敬い、あらゆることで神を顧慮し尊重することができますように。
神を畏れることは、知識と知恵の初めです
人が正常な人の生活をするための第一の原則は、神を畏れ敬うことです。……神を畏れ敬うことは、あらゆることで神を顧慮し尊重し、彼がわたしたちを創造されたすばらしい神であることを、決して忘れないことです。わたしたちは短気を起こそうとするとき、神を畏れ敬うべきです。神を畏れ敬うことは、わたしたちが悪を行なうことをやめさせます。神を畏れ敬うことはまた、わたしたちが他の人たちの苦難によって触れられ、彼らにあわれみと深い同情を示すようにさせます。……
神を畏れ敬うことは、神を畏れることです。エホバを畏れることは知識と知恵の初め、聖なる方を知ることは英知です(箴1:7.9:10.15:33前半)。知識、知恵、英知は神から来ます。わたしたちが神を畏れ、神を畏れ敬うなら、これらはわたしたちの財産となるでしょう。もしわたしたちが銀のように知恵を求め、隠れた宝のようにこれを探すなら、その時、わたしたちはエホバを畏れることを理解し、神を知る知識を見いだすでしょう(2:4-5)。エホバを畏れるとは悪を憎むことです(8:13)。エホバを畏れることは日々を多くし、悪しき者の年は縮められます(10:27)。真っすぐに歩む者はエホバを畏れますが、道が曲がっている者は彼をさげすみます(14:2)。(「箴言ライフスタディ」、第2、3編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り27日
(サンクスギビング特別集会 第1週第1日)
神のエコノミーのための神の統治
Ⅰペテロ4:17
なぜなら、今や裁きが神の家から始まる時だからです.そしてもし、まずわたしたちから始まるとしたら、神の福音に従わない者たちの終わりは、どうなるでしょうか?
Ⅱペテロ3:12
神の日の到来を待ち望み、また早めればよいのでしょうか? この日のゆえに天は燃えて熔解し、諸元素は強烈な熱で燃焼し、溶化するのです。
「ペテロの手紙の主題は、神の裁きを伴う神の統治です。神の裁きは天使たちから始まり(Ⅱペテロ2:3-4)、旧約では各世代の人を経過しました(5-9節)。新約時代、裁きは、神の家から始まり(Ⅰペテロ1:17.2:23.4:6, 17)、そして主の日の到来まで継続します(Ⅱペテロ3:10)。それは、千年期の前には、ユダヤ人、信者たち、異邦人の裁きの日となるでしょう(12節)」。
主イエスよ、あなたを愛します。神のエコノミーを遂行するために、満ち満ちた享受としての三一の神があることを感謝します。神のエコノミーのための神聖な統治を認識させてください。そして、わたしたちの内にいます正しく裁く方に、日々聞き従うことができますように。
神のエコノミーのために、神の統治の下で、クリスチャン生活と召会生活をする
ペテロの二つの手紙は神の統治に関してであるので、神と主の裁きが、主要な項目の一つとして繰り返し言われているのです(Ⅰペテロ2:23.4:5-6、17.Ⅱペテロ2:3-4、9.3:7)。…… 千年期の後には、人と悪鬼を含めてすべての死人が裁かれて滅びます(Ⅰペテロ4:5.Ⅱペテロ3:7)。また天と地は火によって燃え尽きます(10節後半、12節)。……ある裁きの結果は訓練的な取り扱いであり、あるものは経綸上の懲らしめであり、あるものは永遠の滅びです。しかしながら、このすべての裁きによって、主なる神は宇宙全体を清掃し、浄化されるでしょう。それは、神が喜びのために、彼の義で満ちた新しい宇宙のために(13節)、新しい天と新しい地を持たれるためです。(「ペテロの第一の手紙ライフスタディ(1)」、第11編)
ペテロの第一と第二の手紙の主題は神の統治ですが、神の統治に関するすべてのことは、わたしたちをこれらの手紙の中心的な焦点と基本的な構造に戻すべきであるということを、わたしたちは見る必要があります。それは、わたしたちの満ち満ちた享受としての三一の神であって、神のエコノミーを遂行します。……
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り25日
(10月長老責任者訓練 第8週第6日)
諸国民を父と子と聖霊の名の中へとバプテスマします
マタイ28:19-20
だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、わたしがあなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる。
「天の王は彼の権威を伴って彼の弟子たちを遣わし、すべての諸国民を弟子とし、彼らを王国の民とならせ、彼の王国、すなわち今日の地上における召会を設立させます(マタイ28:18-20.ローマ14:17)。諸国民を弟子とするとは、彼らをキリストの死の中へと(ローマ6:3-4)、キリストご自身の中へと(ガラテヤ3:27)、三一の神の中へと(マタイ28:19)、キリストのからだの中へと(Ⅰコリント12:13)バプテスマすることです」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが父と子と聖霊の名の中へとバプテスマされたことを感謝します。わたしたちの古い命が終わらされ、新しい命、三一の神の永遠の命をもって発芽させられたことを感謝します。主よ、わたしたちが神聖な命を生きることによって、弟子へと構成されますように。
人々を彼らの命から、天の王国のために、からだの命の中へとバプテスマします
諸国民を弟子とするとは、彼の王国の設立のために、異教徒を王国の民とすることです。その王国とは今日の地上における召会です。わたしたちが主に遣わされたのは、人々を救いにもたらすためだけでなく、諸国民を弟子とするためでもあります。これは王国の事柄です。マタイによる福音書第28章19節で、主は諸国民を父と子と聖霊の名の中へとバプテスマするように言っておられます。バプテスマは、悔い改めた人々を彼らの古い状態から新しい状態へもたらすことであり、彼らの古い命を終わらせて、キリストの新しい命をもって彼らに発芽させることによって、彼らが王国の民となるためです。……
すなわち、消極面では彼らの古い命を終わらせることであり、積極面ではキリストのからだのために、彼らを新しい命、三一の神の永遠の命をもって発芽させることです。ですから、ここで主によって定められたバプテスマは、人々を彼らの命から、天の王国のために、からだの命の中へとバプテスマすることです。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第72編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り24日
(10月長老責任者訓練 第8週第5日)
この時代が終わる前に、王国の福音は全地に宣べ伝えられます
マタイ24:14
そしてこの王国の福音は、すべての民に対する証しのために、人の住む全地に宣べ伝えられる.それから終わりが来る。
啓6:2
そして見ていると、見よ、白い馬があり、それに乗っている者は弓を持っていた.そして冠が彼に与えられた.彼は出て行って勝利を得た.そして、さらに勝利を得る。
「この時代が終わる前に、王国の福音は、すべての民に対する証しのために、人の住む全地に宣べ伝えられます(24:14)。この宣べ伝えは、啓示録第6章1節から2節における第一の封印の白い馬で表徴され、この時代の満了のしるしとなります」。
主イエスよ、あなたを愛します。王国の福音が人の住む全地に宣べ伝えられますように。わたしたちが一定の時間を主に聖別し、福音を拡大することができますように。
時代の満了の最も重要なしるしは、人の住む全地に王国の福音を宣べ伝えることです
王国の福音[マタイ24:14]は、恵みの福音を含んでおり(使徒20:24)、それは人々を神の救いにもたらすだけでなく、天の王国へもたらします(啓1:9)。恵みの福音は、罪の赦し、神の贖い、永遠の命を強調しますが、王国の福音は、神の天的支配と主の権威を強調します。この時代が終わる前に、この王国の福音は、すべての民に対する証しのために、全地に宣べ伝えられるでしょう。……この証しは、この時代の終わり、大患難の前に、全地に広がらなければなりません。
マタイによる福音書第24章4節から14節で、キリストの昇天からこの時代の終わり、三年半の大患難の時までの、ユダヤ人に関する実際の歴史を見ます。大患難が来る前に、これらの節のすべてのことが起こります。最後の項目が、王国の福音の宣べ伝えです。主の回復の諸召会が、人の住む全地にこの福音をもたらす負担を担うと、わたしは信じます。恵みの福音はすべての大陸に宣べ伝えられてきましたが、王国の福音はそうではありません。……このより高い福音は、主の回復の諸召会によってすべての大陸にもたらされるでしょう。時代の満了の最も強力なしるしであるこのことは、大患難の前に起こるでしょう。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第61編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り23日
(10月長老責任者訓練 第8週第4日)
神聖な三一の行動には、神聖な三一における調和、麗しさ、卓越性があります
マタイ12:28
しかし、わたしが神の霊によって悪鬼どもを追い出しているのであれば、神の王国はあなたがたに臨んでいるのである。
ヘブル9:14
まして、キリストが永遠の霊を通して、傷のないご自身を神にささげられたその血は、なおさらわたしたちの良心をきよめて、死んだわざから離れさせ、生ける神に仕えるようにさせないでしょうか?
「神聖な三一の中心である御子は、彼の肉体と成った時期において彼の天的王国を確立するための王の務めにおいて、完全にご自身によってではなく、ご自身のためでもなく、ご自身に対してでもありませんでした。彼が行なったことは何であれ、神の霊によってであり、父なる神の王国のためでした(マタイ12:28)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたがすべての事を神の霊によって、父なる神の王国のために行なった模範を感謝します。主よ、わたしたちを自己追求、利己主義から救ってください。主よ、わたしたちが自分自身のためではなく、神の権益のために生きることができますように。
主は神の霊によって、神の王国のために事を行ないました
神聖な三一の中に、一、へりくだり、美しさ、調和といった多くの神聖な卓越性、神聖な美徳、また神聖な属性があります。マタイによる福音書第12章28節で主は言われました、「わたし[御子]が神[御父を含む三一の神]の霊によって悪鬼どもを追い出しているのであれば、神[三一の神]の王国はあなたがたに臨んでいるのである」。……主イエスはこれらの悪鬼どもをご自身で追い出せなかったのでしょうか? ……彼はその時、高慢で、利己的で、個人主義的なパリサイ人の間におられました。彼らはだれとも一緒に働こうとしませんでした。彼らの中にへりくだりはなく、彼らは自己追求、利己主義で満ちていました。
今や、彼らによって罪定めされ、彼らの前に立ち、自分は異なる方法で事を行なったと彼らに告げる方がおられました。彼は個人主義的ではありませんでした。……彼は神の霊によって、神の王国のために事を行なっておられました。彼は決してご自身によって、あるいはご自身のために何もされませんでした。これは麗しくないでしょうか? これは神聖な三一の卓越性を見せています。(「神聖な三一の中で、また神聖な三一と共に生きる」、第5章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り22日
(10月長老責任者訓練 第8週第3日)
天的王国を確立するために主は医者、牧者、収穫物の主です
マタイ9:12,36
……丈夫な人には医者はいらない.いるのは病んでいる人である。……そして彼は群衆を見て、彼らに深く同情された.なぜなら、彼らは牧者のいない羊のように、苦しめられ、捨てられていたからである。
「主イエスは、彼の肉体と成った時期における彼の天的王国を確立するための王の務めにおいて、ご自身を医者、牧者、収穫物の主と考えました(マタイ9:11-13,35-38)。主イエスは来て医者として務めをし、人々をいやし、回復し、生かし、救いました。それは、彼らが再構成されて彼の新しい天的な市民となり、彼が彼らをもって彼の天的王国を、この腐敗した地上に確立することができるためでした(11-13節)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは真の医者であり、わたしたちをいやしてくださることを感謝します。主よ、あなたは羊の牧者であり、わたしたちに仕えてくださることを感謝します。わたしたちが主の顧みの下で再構成されて、主の新しい天的な市民となりますように。
天的王国の王は羊の牧者であり、収穫物の主です
[マタイによる福音書第9章36節の]「苦しめられ」のギリシャ語は、冷酷な牧者に皮をはがされて、痛みに苦しんでいる羊のことを言います。「捨てられて」とは、悪い牧者に捨てられて、家がなく、あちらこちらとさまよい歩き、助けのない苦境に陥っている羊のことを言います。…… 天の王は、イスラエル人を羊、ご自身を牧者と考えておられました。キリストが最初ユダヤ人に来られた時、彼らはらい病の者、中風の者、悪鬼にとりつかれた者、あらゆる状態のあわれな者のようでした。なぜなら、彼らを顧みる牧者がいなかったからです。今や彼は天の王国を設立するために、彼の王の務めの中で、医者としてだけでなく、イザヤ書第53章6節と第40章11節で予言されたように、牧者としても彼らに仕えられました。……
天的王国の王は、ご自身を羊の牧者と考えただけでなく、収穫物の主と考えられました。彼の王国は、成長し増大することができる命のもので打ち建てられます。……わたしたちは群れと作物の両方です。群れは生きた動物から成り、作物は生きた植物から成っています。……この天の王の顧みの下にあるすべてのものは生きています。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第29編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り21日
(10月長老責任者訓練 第8週第2日)
神の目標は、神の王国の満ち満ちた発展です
マルコ4:26,28-29
イエスはまた言われた、「神の王国はこのようなものである.ある 人が地に種をまき、……地は自ずから実を結ぶのであり、初めに葉、次に穂、次に穂の中に穀粒が満ちる。しかし実が熟すると、直ちに人はかまを入れる.刈り入れ時が来たからである」。
「神の目標は、神の王国の満ち満ちた発展です。福音書には、王国の種、遺伝子をまくことがあります(マルコ4:3,14.マタイ9:35)。使徒行伝には、このまくことの増殖と拡大があります。それは、王国の種、遺伝子を受け入れた、数千の種まく者たちによります(使徒6:7.12:24.19:20)。書簡では、王国の種、遺伝子の成長を見ます(Ⅰコリント3:6,9後半.Ⅱペテロ1:3-11)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが主の言葉を聞いてあなたを受け入れたとき、王国の種、遺伝子を受け入れたことを感謝します。主よ、王国の種、遺伝子が種まく者たちによってまかれて、四福音書、書簡で成長したように、わたしたちの中でも成長し、さらに増殖し拡大しますように。
王国の種の収穫は新約の最後の書、啓示録に見いだされます
神の王国は、実は人の存在の中へとまかれ、彼らの中で発展して王国となる神ご自身です。四福音書は肉体と成った三一の神を啓示しています。この神・人は最終的に出て来て、宣べ伝え教えることによって、ご自身を神の選ばれた人々の中へとまきました。神によって選ばれた人たちは彼の言葉を聞いてそれを受け入れたとき、王国の種、遺伝子を受け入れたのです。この種、この遺伝子は、肉体と成った神、人性における三一の神です。福音書には、王国のこの種をまくことがあります。……
この種の収穫は新約の最後の書、啓示録に見いだされます。啓示録第14章によれば、まず初穂、そして収穫物があります[4、15節]。啓示録第14章で語られている初穂である人たちは、千年期でキリストと共同の王となる人たちの間にいます。千年期、千年は、王国の遺伝子の満ち満ちた発展です。千年期の間に、王国の遺伝子を受け入れた多くの人は、キリストと共同の王となるでしょう。「マルコによる福音書ライフスタディ(1)」、第15編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り20日
(10月長老責任者訓練 第8週第1日)
王国の福音を宣べ伝え、諸国民を弟子とする
マルコ1:15
……時は満ちた.神の王国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。
マルコ4:26
イエスはまた言われた、「神の王国はこのようなものである.ある人が地に種をまき……」。
「わたしたちは、小羊の行く所へはどこへでも従って行き(啓14:4)、人の住む全地に王国の福音を宣べ伝えて、王国の種、遺伝子を増殖させ発展させ、この時代を終結させる必要があります(マタイ24:14.マルコ4:26)」。神の王国はキリストご自身です(ルカ17:21.マタイ12:28)。人性における三一の神は(コロサイ2:9)、神の王国の種、遺伝子であり、神の選ばれた民の中へとまかれています」。
主イエスよ、あなたを愛します。神の王国はキリストご自身であることを感謝します。主はご自身の言葉を通して、ご自身を命の種としてまかれます。主よ、わたしたちの中で、この種が発展して、王国となりますように。
神の王国とは、信者たちの中へと種としてまかれたイエス・キリストです
マルコによる福音書第4章には福音の種、あるいは種としての福音があります。第4章3節によれば、主は教えていたとき、種をまいておられました。このまくことは、奴隷・救い主が神の福音を宣べ伝え、神の王国をもたらすことでした(1:14-15)。それは、第4章26節でのように、奴隷・救い主によって語られた言葉におけるこの命の種をまくことでした。これが示すのは、彼の福音の奉仕が、神聖な命を、彼が仕えた人々の中へとまくことであったということです。……
主イエスは種を人の心の中へとまきました。マルコによる福音書第4章とマタイによる福音書第13章で、人の心は土壌にたとえられています。わたしたちの心は畑、土壌であり、主イエスはその中へと命の種、すなわち福音の種としてのご自身をまかれました。種まく者のたとえで、主イエスは種まく者とまかれた種の両方です。種まく者として、主は彼の言葉を通してご自身を命の種としてまかれます。(「マルコによる福音書ライフスタディ(1)」、第14編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り18日
(10月長老責任者訓練 第6週第6日)
主の権益のために、自分の時間を費やして奉仕します
マタイ24:48-49
しかし、その邪悪な奴隷が……奴隷仲間を打ちたたき始め、酔っ払いどもと食べたり飲んだりするなら。
マタイ25:18-19
しかし、一タラントを受けた者は立ち去って地を掘り、主人の銀貨を隠した。長い期間がたってから、奴隷たちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
「わたしたちは、わたしたちの信者仲間を批判し、裁き、暴露することによって、彼らを虐待すべきではありません。そうではなく、わたしたちは気ままな者を諭し、小心な者(小さな魂の者)を慰め、霊、魂、体において弱い者や信仰において弱い者を支え、すべての人に対して辛抱強くあるべきです(マタイ24:49.Ⅰテサロニケ5:14)」。
主イエスよ、あなたを愛します。復活したキリストは命を与える霊として、わたしたちの中に生きておられることを感謝します。わたしたちは自分が無であり、何も持たず、何もできないことを承認することができますように。わたしたちの働きと労苦が、主の復活の命と力によりますように。
すべてのことを行なって神の御言を広めます
わたしたちはみな、時に応じて主の民を養う者(マタイ24:45)、また主のタラントを十分に用いる者であるべきです(25:20,22)。……わたしたちは奴隷仲間を打ちたたく者であるべきではありません(24:49)。……わたしの唯一の負担は、メッセージを解き放つことです。わたしにはだれをも暴露する意図はありませんが、多くの人は、わたしが解き放つメッセージの光によって暴露されます。それはわたしの仕事ではなく、主の働きです。……わたしたちは、主の権益のために、自分の時間……を費やして、積極的な奉仕をしなければなりません。……
忠信である方法は、主の言葉をまき散らすことです。主の言葉は、あらゆる飢えた者にとって食物です。主の家族は信者だけでなく罪人からも成ります。飢えた罪深い人たちを養うために、だれが行くでしょうか? わたしたちはみな「わたしです!」と言わなければなりません。わたしたちは行かなければなりません。……わたしたちはすべてのことを行なって神の御言を広めなければなりません。(「主の現在の動きを実行する方法」、第10章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り17日
(10月長老責任者訓練 第6週第5日)
忠信で思慮深い奴隷は、時に応じて神の家族に食物を与えます
マタイ24:45
そこで、主人が家族の上に任命して、時に応じて彼らに食物を与える忠信で思慮深い奴隷は、だれであろうか?
Ⅰコリント14:31
なぜなら、あなたがたはみな一人ずつ預言することができるからであり、それはすべての人が学び、すべての人が励まされるためです。
「わたしたちが主に仕える内側の動機は、彼に対するわたしたちの愛です(出21:5.啓2:4-5)。わたしたちは、わたしたちの全存在をもって、神のみこころにしたがって、からだの肢体と組み合わされることによって、主に仕える必要があります(ローマ12:1-2,11.使徒13:36.Ⅰコリント12:14-22)。わたしたちは、必要があります」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちめいめいに賜物が与えられていることを感謝します。わたしたちが時に応じてキリストを霊的食物として、神の家族に、また人々に供給することができますように。
主はわたしたちに神の家族を顧みるよう委託されました
どのような面でわたしたちは奉仕において忠信であるべきでしょうか? ……マタイによる福音書第24章45節から51節で、……主はわたしたちに神の家族を顧みるよう委託されました。神の家族は、信者たち(エペソ2:19)、すなわち、召会(Ⅰテモテ3:15)を指しています。今日、召会は主の家であり、主の家庭であり、わたしたちが家族と呼ぶものです。……
マタイによる福音書第24章45節によれば、わたしたちが供給するものは食物です。時に応じて、わたしたちは食物、命の供給を主の民に供給しなければなりません。他の人たちには教える賜物があって、神の御言を教え、霊の食物をあなたに供給するが、自分にはそのような賜物はないと言わないでください。……主のすべてのしもべは、彼らの委託のために賜物を受けました。……主は、わたしたちが給仕する対象として召会をわたしたちに与えました。またわたしたちが義務を果たすために、主はわたしたちに能力、技術、賜物を与えてくださいました。(「主の現在の動きを実行する方法」、第8章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り16日
(10月長老責任者訓練 第6週第4日)
奴隷たちは、奉仕の面から見た信者たちを表徴します
マタイ25:14-15
天の王国は、ある人が外国へ行こうとして、自分の奴隷たちを呼び、彼らに自分の財産を渡すようなものである。彼はある者に五タラント、ほかの者に二タラント、ほかの者に一タラントを、それぞれの能力にしたがって与えた。そして彼は外国へ出かけた。
「わたしたちは奉仕、働きのために、タラント(霊的な賜物)を必要とします。それによって、わたしたちは良い奴隷として装備されて、主が完成しようとするものを完成することができます(マタイ25:20-23.参照、24:45-51)。タラントは、霊的な賜物を表徴します(25:15-23.ローマ12:6.Ⅰコリント12:4.Ⅰペテロ4:10.Ⅱテモテ1:6-7)。命におけるその霊の充満は、わたしたちが奉仕(働き)において霊的な賜物を用いることができるようにします。奉仕における霊的な賜物に、命におけるその霊の充満が符合していれば、わたしたちはキリストの完全な肢体となることができます。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちは奉仕、働きのために、タラント(霊的な賜物)を与えられていることを感謝します。命において目を覚まして、奉仕において忠信であることを学ばせてください。あなたがわたしたちに渡された福音、真理、信者、召会のために、霊的な賜物を用いて忠信に仕えることができますように。
奴隷たちに渡された財産は、福音、真理、信者、召会を含みます
ここのタラントのたとえは[マタイ25:14-30]、十人の処女のたとえのように、天の王国についてです。ここのある人は、キリストを表徴しています。彼は外国へ、天へと行こうとしておられました。……14節は、この人は自分の財産を奴隷たちに渡したと言っています。奴隷たちは、奉仕の面から見た信者たちを表徴します(Ⅰコリント7:22-23.Ⅱペテロ1:1.ヤコブ1:1.ローマ1:1)。……キリストに対する信者たちの身分は、二つの面から成っています。命において、彼らはキリストのために生きている処女です。奉仕、働きにおいて、彼らは買い取られて、キリストに仕える奴隷です。
奴隷たちに渡された財産は、福音、真理、信者、召会を含むと、わたしは信じます。信者たちは神の嗣業、神の所有です(エペソ1:18)。マタイによる福音書第24章45節は、信者たちは神の家族でもあることを示しています。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第65編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り15日
(10月長老責任者訓練 第6週第3日)
御言の中で主を享受し、毎日の新しい開始を持ちます
エペソ4:30
……神の聖霊を悲しませてはいけません.この方の中で、あなたがたは証印を押されて、贖いの日へと至るのです。
Ⅰテサロニケ5:16-19
いつも喜んでいなさい.絶えず祈りなさい.あらゆることで感謝しなさい.なぜなら、これがあなたがたに対する、キリスト・イエスにある神のみこころだからです。その霊を消してはいけません。
「わたしたちは毎日、朝早く御言の中で主を享受し、毎日の新しい開始を持つ必要があります(詩119:147-148)。わたしたちは、その霊を消すべきではありません。そうではなく、わたしたちはいつも喜び、絶えず祈り、あらゆることで感謝すべきです。なぜなら、これがわたしたちに対する、キリスト・イエスにある神のみこころだからです(Ⅰテサロニケ5:16-19)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが御言を享受し、御言で浸透されますように。時を贖い取って祈り、すべての時に、すべての事に対して主に感謝し、代価を払い、絶えず油を買うことができますように。
いつも喜んでいて.絶えず祈り、あらゆることで感謝します
あなたは毎日、朝に主の御前に出て、言わなければなりません、「主よ、わたしがここにいることを、あなたに感謝します。わたしを満たしてください。わたしに浸透してください。わたしを浸してください。わたしは、あなたの中に、あなたをもって浸されたいのです」。……このような祈りを一日に三度しても多すぎることはありません。……わたしたちがこのように祈れば祈るほど、ますます良いのです。……
あなたは何かを行なって、それが時間の無駄であると感じるなら、それをやめるほうが良いのです。その時間を用いて主と接触し、祈ってください。これが目を覚まして祈ることです。目を覚ましているとは、あなたの時間を過ぎ去らせず、あなたの時間を無駄にしないで、あらゆる時間を、油を買う機会とすることです。油を買うことは、わたしたちの時を贖い取る最高の方法です。なぜなら、一日は短いからです。 (「主の現在の動きを実行する方法」、第8章、第9章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り14日
(10月長老責任者訓練 第6週第2日)
わたしたちの霊に入って来られたその霊は、無代価で与えられます
エペソ5:17-19
こういうわけで愚かであってはなりません.かえって、何が主のみこころであるかを理解しなさい。また酒に酔ってはいけません.そこには放蕩があるからです.むしろ霊の中で満たされ、詩と詩歌と霊の歌とで語り合い、心から主に向かって歌い、朗詠しなさい。
「マタイ第25章9節の「買いなさい」という言葉は、代価が払われなければならないことを示します。聖霊の充満は、この世を放棄すること、自己を対処すること、すべてにまさって主を愛すること、キリストのゆえにすべての事を損失と勘定することなどの代価によって得られます。もしわたしたちが今日この代価を払わないなら、復活させられた後に払わなければなりません(参照、啓3:18.Ⅱコリント5:10)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちが主イエスを信じて再生された時、その霊が無代価で与えられたことを感謝します。今、浸透する霊がわたしたちの全存在、特に魂を満たすために代価を払い、金の油としてのその霊を買うことができますように。
浸透する霊がわたしたちの全存在、特に魂を満たすのには代価が必要です
マタイによる福音書第25章9節は言います、「思慮深い者たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたのためには、おそらく十分でないでしょう.それよりも、売る者たちの所に行って、自分のために買いなさい』」。……わたしたちは多くのものを借りるかもしれませんが、聖霊の充満を借りることはできません。これは食べることに似ています。だれもあなたに代わって食べることはできません。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第64編)
わたしたちが主の現在の動きに対して真剣であるなら、毎日、朝ごとにその霊で満たされなければなりません。わたしたちは自分の罪を告白する必要がありますが、また代価を払う必要があります。わたしたちの霊に入って来られたその霊は、無代価で与えられましたが、浸透する霊がわたしたちの全存在、特に魂を満たすのは、無代価ではありません。それは代価を払わなければならない、買わなければならないものです。罪人であるわたしたちが悔い改めて、罪を告白し、主イエスを信じた時、わたしたちは直ちに再生され、その霊は無代価で与えられました。しかし、毎日わたしたちは彼の満たし、彼の浸透に霊から魂を貫いていただくことを必要とします。わたしたちは代価を払う必要があります。(「主の現在の動きを実行する方法」、第7章)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り13日
(10月長老責任者訓練 第6週第1日)
命において目を覚ましており、奉仕において忠信である
処女は、命の面から見た信者たちを表徴します
マタイ25:1-4
その時、天の王国は、十人の処女が自分のともし火を持って、花婿を迎えに出て行くようなものである。そのうちの五人は愚かで、五人は思慮深かった。愚かな者たちは、自分のともし火を持っていたが、油は持っていなかった.しかし、思慮深い者たちは、自分のともし火と共に、器に油を持っていた。
「わたしたちは命のために、油、神の霊、さらには彼の充満を必要とします。それによって、わたしたちは処女の生活をして、主の証しとなることができます(マタイ25:4,9-10)。五人の思慮深い処女は、ともし火に油があるだけでなく、器に油を持っています。器に油を持っているとは、彼女たちが神の霊の充満を持ち、彼女たちの魂に浸透させていることを表徴します(参照、Ⅰペテロ2:25.ヘブル13:17)」。
主イエスよ、あなたを愛します。 愚かな者たちは、油をともし火の中に持っているだけで、余分の油を器に持っていませんでした。主よ、わたしたちをあわれんでください。あなたの霊をわたしたちの霊の中だけでなく、わたしたちの魂の中にも持つことができますように。
思慮深い処女は、ともし火に油があるだけでなく、器に油を持っていました
処女は、命の面から見た信者たちを表徴します(Ⅱコリント11:2)。王国の民である信者たちは貞節な処女のようであり、暗い時代に主の証し(ともし火)を携え、主を迎えにこの世から出て行きます。このために彼女たちは、聖霊の内住だけでなく、聖霊の充満をも必要とします。…… 愚かな者が愚かであるのは、油をともし火の中に持っているだけで、余分の油を器に持っていなかったからです。再生する霊に加えて、彼女たちは充満する霊、余分の聖霊を持っていませんでした。
人は神のために造られた器であり(ローマ9:21,23-24)、人の人格は彼の魂にあります。ですから、[マタイによる福音書第25章4節の]「器」は、信者たちの魂を表徴します。五人の思慮深い処女は、ともし火に油があるだけでなく、器に油を持っています。ともし火に油があるとは、彼女たちが神の霊を自分の霊に内住させていることを表徴します(ローマ8:9,16)。器に油を持っているとは、彼女たちが神の霊の充満を持ち、彼女たちの魂に浸透させていることを表徴します。(「マタイによる福音書ライフスタディ(3)」、第64編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り11日
(10月長老責任者訓練 第4週第6日)
わたしたちは魂の命を失うというかぎを活用することを学びます
マタイ16:25
なぜなら、すべて自分の魂の命を救おうとする者はそれを失い、すべてわたしのために自分の魂の命を失う者はそれを見いだすからである。
ヘブル12:2
わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。
「わたしたちは魂の命を失うというかぎを活用することを学ぶ必要があります(マタイ16:25)。魂の命を救うとは、魂にその享受を得させることによって、自己を喜ばせることです。魂の命を失うとは、魂の享受を失うことです。主イエスは、この時代に彼の魂の享受を失いました。それは、彼が来たるべき時代に彼の魂の命を見いだすためでした(ヨハネ10:11.イザヤ53:12)。わたしたちも同じことを行なわなければなりません(ヨハネ12:24-26)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを賛美します。主よ、あなたのようにわたしたちは、この時代に魂の享受を失うことができますように。
この時代に自分の魂の命を失うなら、来たるべき時代にそれを見いだします
魂を失うことは、魂の享受を失うことを意味します。また魂を得ることは、魂の享受を持つことを意味します。魂を失うことに関して、主は苦難について語られませんでした。……一見して魂を失うのは苦難であるようですが、実はそれは真の喜びです。ある姉妹が彼女の夫を赦すことによって自分の魂を失うなら、それは彼女にとっても彼女の家族にとっても喜びです。それは正常な家庭生活を建て上げるという結果となります。召会の建造についても原則は同じです。
人の霊の中へと神を受け入れ、魂を通して神を表現することは、人の喜びまた娯楽であるべきです(参照、ネヘミヤ8:10.ローマ14:17)。なぜなら、わたしたちは結果として、召会の建造を見るからです。もしあなたが進んで、実際的な方法で自分の魂を失うなら、他の人はあなたによって養われ、あなたを通して建造されます。これは苦難ではありません。それは喜びです。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第5編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り10日
(10月長老責任者訓練 第4週第5日)
わたしたちは十字架を負うというかぎを活用することを学びます
マタイ26:39
……彼は……ひれ伏して、祈って言われた、「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください.しかし、わたしの意のままにではなく、あなたの意のままになさってください」。
エペソ4:3
平和の結合するきずなの中で、その霊の一を保つことを熱心に努めなさい。
「わたしたちは十字架を負うというかぎを活用することを学ぶ必要があります(マタイ16:24)。十字架を負うことはただ、神のみこころを負うことを意味します。十字架は神のみこころです(26:39.ヨハネ18:11)。主イエスは犯罪者のように十字架に行くことを強いられたのではありません。主は進んで十字架に行きました。なぜなら、十字架は神のみこころであったからです(マタイ26:39)。主イエスが進んで十字架につけられたのは、彼の死を通して、彼の命が解き放たれ、召会を生み出し建造するためでした(ヨハネ12:24)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主は進んで十字架に行かれました。十字架は神のみこころであったからです。主よ、わたしたちを進んで十字架を担う者としてください。わたしたちが命の豊富を享受することができますように。
主の十字架は神のみこころであったので、主は進んで十字架に行かれました
主は強いられて、十字架の苦難を受けたのではありませんでした。彼はそれを選ばれました。このことは彼自身が選ばれたことでした。……彼の十字架は神のみこころであったので、彼は進んで十字架に行かれました。このゆえに、彼の十字架は神のみこころを成就するためでした。……彼が進んで十字架につけられたのは、彼の死を通して彼の命が解き放たれ、召会を生み出すためでした。
主は十字架にいた時、大いなる苦難を受けられました。しかしその苦難は彼に強いられたものではありませんでした。主はそれを進んで取られました。マタイによる福音書第26章39節で、主は御父に祈られました、「わたしの意のままにではなく、あなたの意のままになさってください」。同時に彼はまた、「あなたのみこころがなりますように」と祈られました(42節)。主は進んで十字架を負い、十字架に行き、神のみこころが成し遂げられるまで十字架上にとどまっておられました。これが聖書において最初に記述された十字架の意義です。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第4編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り9日
(2024年10月長老責任者訓練 第4週第4日)
自己を否むというかぎを活用するなら、感情を害されることはあり得ません
ルカ23:34
その時、イエスは言われた、「父よ、彼らをお赦しください.彼らは自分が何をしているのか、わからないのですから」。……
Ⅱコリント12:15
しかし、わたしはあなたがたの魂のために、大いに喜んで費やし、自分自身を使い尽くしましょう。わたしはあなたがたを、あふれるばかりに愛すれば愛するほど、ますます愛されなくなるのでしょうか?
以下は、自己のいくつかの表現です(参照、詩歌628番、5節と6節)
自己には、野心、高ぶり、自己を高く上げることがあります(マタイ20:20-28.Ⅰペテロ5:5)。自己には、自分の義、自己義認があり、人を暴露し、批判し、罪定めします(マタイ9:10-13.ルカ18:9-14)。自己には、内省と自分を軽んじることがあります(雅2:8-9.Ⅰコリント12:15-16)。わたしたちは自己の中にいるとき、召会、導いている人たち、聖徒たちによって感情を害されることがあり得ます(マタイ6:14-15.18:21-35)。自己には、失望と落胆、自己愛、自己保身、自己追求、自己憐憫、つぶやきと議論、天然の味わいと好みに基づいた天然の愛情(友情)、意見に固執し、異議を唱えるという事柄があります(ヨハネ11:21,23-28,39)。わたしたちは自己の中にいるとき、個人主義的で独立しています(Ⅰコリ16:12)。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちは自分の義を主張して、人を批判し、罪定めしてしまい、自己に満ちている者です。自己を否むというかぎを活用して、あらゆる状況において自己を閉じ込めることを学ぶことができますように。
自己が閉じ込められているなら、召会は建造されます
わたしたちが自己を否むというかぎを活用して自己を閉じ込めるなら、感情を害されることはあり得ません。感情を害されない者は幸いです(参照、ルカ23:34.使徒7:60)。もしわたしたちが感情を害されることがあり得るなら、それはわたしたちが自己に満ちていることの証拠です。わたしの自己が閉じ込められているなら、あなたがわたしに何を行なっても、あるいはわたしをどのように扱っても、わたしは感情を害されることはないでしょう(ルカ23:34.使徒7:60)。わたしたちは自己を否むというかぎを活用して、あらゆる状況において自己を閉じ込めることを学ぶ必要があります。…… 自己が閉じ込められているなら、召会は建造されます。
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り8日
(2024年10月長老責任者訓練 第4週3日)
自己は、神からの独立を宣言する魂です
ルカ9:23
そしてイエスは彼らすべてに言われた、「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、日ごとに自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい」。
「自己は、神からの独立を宣言する魂です。主が重んじるのは、わたしたちが何を行なうかではありません。そうではなく、主が重んじるのは、わたしたちが彼に依り頼むことです(マタイ7:21-23.参照、ヨシュア9:14)。からだの敵は自己です。自己は独立しているものであるので、自己はからだを建造することにとって最大の問題であり、最大の妨げまた反対です。わたしたちは神に依り頼むだけでなく、からだにも、兄弟姉妹にも依り頼むべきです(出17:11-13.使徒9:25.Ⅱコリント11:33)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主と召会を感謝します。自己はからだを建造することにとって最大の問題であるという認識を与えてください。わたしたちは神に依り頼むだけでなく、からだにも、兄弟姉妹にも依り頼むことができますように。からだの肢体たちと正しくかかわって、キリストのからだが建造されますように。
わたしたちは神に依り頼むだけでなく、兄弟姉妹にも依り頼みます
自己は独立したものですから、それはからだを建造することにとって最大の問題です。わたしたちは神に依り頼むだけでなく、からだにも、兄弟姉妹にも依り頼むべきです。兄弟姉妹から独立する時はいつでも、わたしたちは自己の中におり、独立した魂の中にいます。今日、わたしたちがからだから独立することは、神から独立することに等しいです。これは教理の事柄ではなく、経験の事柄です。あなたの経験を調べるなら、あなたが兄弟姉妹から独立した時、神からも独立しているという感覚を持ったことに気づくでしょう。同じように、あなたが兄弟姉妹から孤立した時、あなたはまた神から孤立しているという感覚を持ちました。
わたしたちがからだに依り頼むなら、主にも依り頼むでしょう。……あなたが主の臨在を持たないのは、からだから孤立しているからであり、からだの肢体たちと正しくかかわっていないからです。建造されるように、からだに対して正しくあるように努めなさい。もしからだに対して正しく、からだの中で建造されているなら、あなたは確かに主の臨在を感じるでしょう。(リー全集、1965年、第3巻(上)、「天のビジョン」、第4編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り7日
(2024年10月長老責任者訓練 第4週2日)
自己を否むというかぎを活用して、ハデス[陰府]の門を閉じます
マタイ16:19,24
わたしはあなたに天の王国のかぎを与える.あなたが地上で縛るものはすべて、すでに天で縛られていたものであり、あなたが地上で解くものはすべて、すでに天で解かれていたものである。…… それから、イエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについて来たいなら、自分を否み、自分の十字架を負い、わたしに従って来なさい」。
「召会の建造は、三つのかぎを活用することを通して、ハデス[陰府]の門を閉じることにかかっています(マタイ16:24-26)。わたしたちは自己を否むというかぎを活用することを学ぶ必要があります(24節)。肉は、創造された体が罪(サタンの性質)によって腐敗させられたものです(ローマ6:12,14.7:8,11,17,20)。自己は、創造された魂にサタン的な思い、サタンの思いを加えたものです。サタンの思い、思想が人の魂の中へと注入されたとき、人の魂は自己、すなわちサタンの具体化となりました(創3:1-6.マタイ16:22-23)」。
主イエスよ、あなたを愛します。神から独立するときはいつでも、魂はすぐに自己となります。主よ、わたしたちが自己を否むというかぎを活用して、ハデス[陰府]の門を閉じることができますように。主よ、わたしたちがいつも、あらゆる事で神に依り頼むことができますように。
自己は魂の具体化であって、それは思いを通して表現されます
歴史を通じて、召会を破壊したのは、……おもに自己によってでした。マルチン・ルターはかつて、自分は法王を恐れるが、さらに力強い法王を、すなわち、彼自身の心の内側の自己をさらに恐れると言いました。……自己は魂の具体化であって、それは思いを通して表現されます。こういうわけで、自己、魂、思いは三・一です。この三つの背後にサタンがおり、サタンは自己を操作して召会生活を破壊しています。わたしたちはみな、自分自身のためにこの言葉に注意する必要があります。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第3編)
自己の起源は、サタンが彼の思想を人の思いの中へと注入したことです。……魂が神に依り頼ませず、神から独立するときはいつでも、魂はすぐに自己となります。これは、わたしたちが神に依り頼まず、自分自身で何かをする時はいつでも、わたしたちは自己の中にいるという意味です。神は人が常に神に依り頼むように、人を魂として創造されました。人は魂です(創2:7)。そして人は魂として、あらゆる事で神に依り頼むべきです。(リー全集、1965年、第3巻(上)、「天のビジョン」、第4編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り6日
(2024年10月長老責任者訓練 第4週1日)
召会を建造するための王国の訓練
マタイ16:18,21
そこでわたしもあなたに言う.あなたはペテロである.わたしはこの岩の上に、わたしの召会を建てる.ハデス[陰府]の門も、それに勝つことはない。…… この時からイエスは弟子たちに、ご自分が必ずエルサレムへ行って、長老、祭司長、聖書学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活させられることを、示し始められた。
「マタイ第16章は召会を建造する道を啓示しており、また建造の敵も啓示しています。キリスト、生ける神の子は、岩としてのご自身の上に、ペテロのような造り変えられた人である石をもって、召会を建造します(マタイ16:16-18)。しかし、ハデス[陰府]の門、すなわちサタンの暗やみの権威あるいは力は、召会を攻撃して、主が召会を建造することを妨げます(18節)」。
主イエスよ、あなたを愛します。召会はキリストの死と復活を通して生み出されました。主よ、わたしたち自身が十字架につけられ復活させられて、すべての事で、かしらであるキリストの中へと成長することができますように。
召会を建造する道は、十字架につけられ復活させられることです
召会は実際的な方法において、どのようにして建造されることができるのでしょうか? 答えは、マタイによる福音書第16章21節から26節に見いだされます。……キリストは十字架につけられ、復活させられなかったなら、召会を建造することができませんでした。……21節は、召会を建造する道が、死と復活を通してであることを示しています。山上で主イエスはかたちが変わりました。しかしながら、このかたちが変わったことは一時的でした。
死と復活を通して、キリストは永久にかたちが変わり、……かたちが変わることの領域の中へと入られました。召会が存在するのは、このかたちが変わることの領域の中です。召会は天然の命の中で、あるいは肉的な人々と共に存在することはできません。……わたしたちは彼が否まれたように自分自身を否み、彼が十字架につけられたように自分自身を十字架につけなければならないということです。このことなしに、召会が建造されることはあり得ません。(リー全集、1978年、第1巻(上)、「召会を建造するための王国の訓練」、第4、3編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り4日
(2024年10月長老責任者訓練 第1週6日)
神の王国は神聖な命の領域であり、神聖な種族の領域でもあります
ヨハネ1:12-13
しかし、すべて彼を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者に、彼は神の子供たちとなる権威を与えられた.これらの人は血からではなく、肉の意志からでもなく、人の意志からでもなく、神から生まれたのである。
「神の王国は神聖な命の領域、神聖な統治の領域であるだけでなく、神聖な種族の領域でもあります。その中に、すべての神聖なものがあります(ヨハネ3:3,5.18:36)。ヨハネ第3章において、神の王国は、神の統治を指す以上に、神の種族を指しています。神は人と成って、人の種族の中へと入りました。人は、神格においてではなく、命と性質において神となり、神聖な種族の中へと入ります(ヨハネ1:1,12-14.Ⅱペテロ1:4)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちは再生によって神から生まれ、神聖な命と性質を持つ神・人であることを感謝します。わたしたちが、神聖な種族の領域である神の王国の中で主を食べ飲みし、主のかたちに同形化されますように。
わたしたちは神の王国における神・人たちです
神聖な領域、すなわち神聖な種族の領域の中へと入るために、わたしたちは神から生まれて、神聖な性質と命を持つ必要があります。……人が神のかたちに、神の姿にしたがって創造されたことは、人が神の種類、神の種族に創造されたことを示します。創世記第1章は、それぞれの生き物はその種類にしたがって創造されたと言っています。しかし神は人を、人の種類にしたがってではなく、神のかたちに、神の姿にしたがって創造し、神の種類とならせました。
信者たちは再生によって神から生まれ、神格においてではなく命と性質において神の子供たちとなっています(ヨハネ1:12-13)。彼らはアダム以上に神の種類です。アダムは神の外側の現れだけを持っていて、内側の実際、神聖な命を持っていませんでした。わたしたちは神聖な命の実際を内側に持っており、全存在が造り変えられて、主のかたちに同形化されつつあります。すべての神の子供たちが神聖な種族の神聖な領域の中にいると言うのは、論理的なことです。…… わたしたち、神から生まれる者はみな神です。しかし発言では、神学上の誤解を引き起こさないために、わたしたちは神聖な種族における、すなわち、神の王国における神・人たちであると言うほうが良いのです。(リー全集、1994年ー1997年、第4巻(下)、「ヨハネによる福音書の結晶の学び」、第12編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り3日
(2024年10月長老責任者訓練 第1週5日)
信者たちの中の神聖な命は、キリストのからだの命です
コロサイ3:4
わたしたちの命なるキリストが現される時、あなたがたも、彼と共に栄光のうちに現されます。
コロサイ2:19
かしらに結び付いて……この方から、からだ全体は、節と筋によって豊かに供給され、結合され、神の増し加わりによって成長するのです。
「信者たちは御子の中へと信じることによって、神聖な命を受け入れます。御子の中に神聖な命があり、彼ご自身が命です。信者たちは神から生まれることによって、その霊から生まれます(ヨハネ3:6)。信者たちの中の神聖な命は、キリストのからだの命です。神聖な命において成長することは、神の要素が増し加わること、キリストの身の丈が増し加わること、聖霊が拡張することです(エペソ4:15-16)。また、神聖な命において成長することは、人の要素が減少すること、天然の命が砕かれること、魂のあらゆる部分が征服されることです(Ⅰペテロ2:2.Ⅱペテロ3:18.コロサイ2:19)」。
主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの中の神聖な命は、キリストのからだの命であることを感謝します。主よ、わたしたちの内側で成長してください。神の要素が増し加わり、神聖な命において成長することができますように。
わたしたちの内側でキリストが成長することが王国の到来です
「あなたの王国が来ますように」と祈るのは良いのですが、「主よ、わたしの内側で成長してください」と祈るのはさらに実際的です。「あなたの王国が来ますように」というのは、宗教的な決まり文句にすぎないかもしれません。千九百年以上もの間、何百万人ものクリスチャンによってこの祈りが繰り返されてきましたが、まだ王国は来ていません。
主がその祈りに答えるのは難しくありませんが、わたしたちが彼にわたしたちの内側で成長していただくことは難しいのです。……霊の中で貧しく、心が純粋であることによって、わたしたちは主にわたしたちの内側で成長する地位を与えることができます。またこの成長が王国の真の到来となります。わたしたちが彼にわたしたちの内側で早く成長していただけばいただくほど、わたしたちは王国の到来を早めます。(リー全集、1972年、第2巻(上)、「王国」、第6編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り2日
(2024年10月長老責任者訓練 第1週4日)
わたしたちは命の感覚に従い、神聖な分与の中で通常の生活をします
ルカ1:79
暗やみの中に、また死の影の中に座っている者に輝き、わたしたちの足を平安の道へと導きます。
エペソ4:18-19
彼らは、理解することで暗くなり、彼らの中にある無知のゆえに、その心のかたくなさのゆえに、神の命から遠ざけられ、感覚を失ってしまい、……
「命の感覚は、わたしたちが天然の命の中に生きているのか、あるいは神聖な命の中に生きているのか、またわたしたちが肉の中に生きているのか、あるいは霊の中に生きているのかを知らせます(ローマ8:6)。わたしたちは接ぎ木された命を生きるとき、正しいか間違っているかの原則にしたがって生きるのではなく、命の原則にしたがって生きるべきです(創2:9,16-17.Ⅱコリント11:2-3)」。
主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちの内側には命の感覚があることを感謝します。主よ、わたしたちが正しいか間違っているかにしたがって生きるのではなく、命の原則にしたがって生きることができますように。わたしたちが天然の命の中で生きないで、神聖な命の中で生きることができますように。
わたしたちは、神聖な命、神聖な命の法則、聖霊、キリスト、神を持っています
未信者たちはどれほど道徳的であったとしても、ただ人の良心を基準とするだけであり、これは人の堕落によってひどく損なわれてきました。…… わたしたち信者は創造された良心を持っているだけでなく、更新された良心をも持っています。わたしたちの霊の一部分である良心は(ローマ9:1.参照、8:16)、わたしたちの霊の再生を通して更新されています。この更新された良心に加えて、わたしたちは、神聖な命、神聖な命の法則、聖霊、キリスト、神というこれら五つの偉大なものを持っています。こういうわけで、未信者の創造された良心と、神聖な命としての三一の神が内住しておられる信者の更新された良心は比較になりません。……
ですから、命の感覚の機能に関して二つの面があります。第一の面は、あなたが神聖な命の中で生きているのかどうかを知らせることであり、第二の面は、あなたが霊の中で生きているのかどうかを知らせることです。消極的に言うと、それはあなたが天然の命の中で、天然の人として生きているのかどうか、また肉の中で生きているのかどうかを知らせます。(リー全集、1979年、第1巻(上)、「命についての基本的学課」、第11編)
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)
1月の祈り1日
(2024年10月長老責任者訓練 第1週3日)
神の王国は神聖な命の領域です――ヨハネ3:3,5,15-16.18:36.1:12-13
ローマ8:2,6
なぜなら、命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、わたしを解放したからです。…… 6 肉に付けた思いは死ですが、霊に付けた思いは命と平安です。
「命の感覚は、わたしたちの内側の神聖な命の感覚、知覚です(ローマ8:6.エペソ4:18-19)。命の感覚の源は、神聖な命、命の法則、聖霊、わたしたちの中に住んでいるキリスト、わたしたちの内で活動する神です(ローマ8:2,10-11.ピリピ2:13)。命の感覚は、死の感覚とも、命と平安の感覚とも関係があります(ローマ8:6.イザヤ26:3)」。
主イエスよ、あなたを愛します。命の霊の法則が、罪と死の法則から、わたしたちを解放したことを感謝します。主よ、毎日の生活の中で思いを霊に付けて、命と平安を享受することができますように。
消極的な面での命の感覚と、積極的な面での命の感覚があります
消極的な面での命の感覚は、死の感覚であり、一種の消極的な感覚です。……ローマ人への手紙第8章6節は、完全に感覚についての節です。なぜなら、それは肉に付けた思いは死であると言っているからです。……あなたは思いを肉に付けるとき、死の感覚を持ちます。あなたは死がそこにあるのを感じます。死の感覚は、消極的な面で、弱さ、むなしさ、不安、落ち着かないこと、意気消沈、渇き、暗やみ、痛みなどの内なる感覚です(6節前半)。……
積極的な面で、命の感覚は機能して、以下の積極的な事柄の知覚をわたしたちに与えます。すなわち強さ、満足、平安、安息、解放、生き生きしていること、潤い、明るさ、慰めなどです(6節後半)。…… わたしたちは渇きに相対して潤いの感覚を、暗やみに相対して明るさの感覚を、痛みに相対して慰めの感覚を持ちます。これらすべては、わたしたちが命の感覚の機能から持つ積極的な感覚です。わたしたちはこのような感覚を持つとき、これは命の感覚の働きであることを認識しなければなりません。
(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)