朝ごとの食物

(真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第4週1日~ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第2週2日)

 

8月の祈り 第31日

(朝ごとの食物 ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第2週2日)

 

カナンの地は、すべてであるキリストの予表です

 

申8:7-9

それはエホバ・あなたの神が、あなたを良き地に導こうとしておられるからである.そこは水の流れ、泉、源泉があり、……小麦と大麦とぶどうといちじくの木とざくろのある地、油のオリブの木と蜜のある地であり、あなたが欠けることなくパンを食べる地であり、……その地の石は鉄であって、その山々からは銅を掘り出すことができる。

 

「良き地、すなわちカナンの地は、すべてでありすべての中におられ、またわたしたちにとってすべてであるキリストの予表です(エペソ3:8)。創世記第1章9節から10節と13節で、三日目に死の水から出て来た地は、復活したキリストの予表です」。

 

   カナンの地としてのすべてであるキリストを経験し享受させてください。  三日目に死の水から出て来た地としての復活したキリストを経験することができますように。

 

 

三日目に死の水から出て来た地は、復活したキリストの予表です

 

 良き地、すなわちカナンの地は(申8:7-10)、すべてを含むキリスト、すなわちすべてでありすべての中におられ、またわたしたちにとってすべてであるキリストの予表です。過越、マナ、幕屋とその中にある調度品、すべてのささげ物は、キリストのさまざまな面を描写した予表です。……[しかしながら]良き地ほどキリストがすべてを含む方であることを示している予表はほかにありません。ですから、良き地は、聖書に見いだされるキリストの究極の予表です。

 

 聖書で、地はキリストの型、象徴です。三日目に死の水から出て来た地は(創1:9-10、13)、三日目に死から出て来た、復活したキリストの予表です。野菜、動物、人の命を含む多くの異なる種類の命が地から出て来ました(創1:11-12、24-25)。これが表徴するのは、キリストがあらゆる種類の命の源であるということです。(新約の結論(3)、メッセージ44)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第30日

(朝ごとの食物 ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第2週1日)

 

カナンには予表において二重の意義があります

 

エペソ1:3

ほむべきかな.わたしたちの主イエス・キリストの神また父.この方はキリストの中で、天上にある霊のものであるあらゆる祝福をもって、わたしたちを祝福してくださいました。

 

「ヨシュア記は、深遠な予表のある書です(ヨシュア1:13.2:18.3:3, 10-11.5:12.6:6)。イスラエル人がカナンに入ることの意義、またカナンでの戦いの意義を理解するために、カナンには予表において二重の意義があることを、わたしたちは知る必要があります(コロサイ1:12.エペソ1:3.2:2.6:12)」。

 

 主よ、カナンの予表における二重の意義を啓示してください。主よ、召会全体が、霊的な戦いをして、良き地を所有し享受することができますように。

 

 

カナンは、キリストの計り知れない豊富と、サタンの暗やみの王国の空中、天の部分を表徴します。

 

 旧約の予表では、カナンには二つの面があります。積極的な面で、カナンは豊富の地であり(申8:7-10)、すべてを含むキリストと彼の計り知れない豊富を予表します(コロサイ1:12.エペソ3:8)。消極的な面で、カナンはサタンの暗やみの王国の空中の部分、天の部分を表徴します。・・・・・ 

 

 イスラエルの子たちがカナン人と戦って、良き地を所有し享受することが予表するのは、召会全体が、すべての肢体を含めて、霊的な戦いをし、「天上にいるあの悪の霊の勢力」に敵対して(エペソ6:12)、聖徒たちがすべてを含む地としてのキリストを享受するということです。(民21:1、フットノート1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第28日

(朝ごとの食物 ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第1週6日)

 

御言葉を口ずさむことは、祈り読みよりも豊かです

 

詩119:147-148

わたしは夜明けに先立って目覚め、叫び求めます.わたしはあなたの言葉を待ち望みます。わたしの目は夜の見張りに先立って目覚め、あなたの言葉を思い巡らします。

 

「御言葉を口ずさむことは、祈り読みよりもより豊かで、より広く、より多くのものを含みさえしています。なぜなら、口ずさむことは、祈り、礼拝、享受、会話、頭を垂れること、さらには両手を挙げて神の言葉を受けることを含むからです(詩119:48)」。

 

 主よ、わたしたちも詩篇の作者のように、あなたの御言葉を口ずさみ、思い巡らすことができますように。主よ、わたしたちが夜明け前に起き上がり、神の言葉を待ち望む者となりますように。

 

 

夜明け前に起き上がり、呼び求めて、神の言葉を待ち望みます

 

 神の言葉にわたしたちの両手を挙げることは、わたしたちがそれを熱心に、喜んで受け入れ、それに対してアーメンと言うことを示すことです(ネヘミヤ8:5-6)。(詩篇119:48のフットノート1)。[詩篇第119篇147節で]わたしたちは、詩篇の作者が夜明け前に起き上がり、呼び求めて、神の言葉を待ち望んだことを見ます。148節は続けて……詩篇の作者が夜の間に目を覚まし、神の言葉を口ずさんだ(思い巡らした)[ことを示しています]。

 

 御言を口ずさむ(思い巡らす)ことは、単にそれを黙想すること以上のものを含んでいます。わたしたちが御言を口ずさむのは、神に語り、彼を礼拝し、彼を享受し、彼から恵みを受け、主の臨在の中で自らと会話することによってです。(出エジプト記ライフスタディ(3)、第57編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第27日

(朝ごとの食物 ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第1週5日)

 

神の言葉を自分の口から離すことなく、昼も夜も口ずさむ

 

ヨシュア1:8-9

この律法の書をあなたの口から離すことなく、あなたはそれを昼も夜も口ずさみ、その中に記されているすべてのことにしたがって、必ず行なわなければならない。そうすればあなたは自分の道を繁栄させ、また成功する。

 

「ヨシュアが神の御言の中に記されているすべてのことを遂行するかぎと、神の約束された地を取ることにおけるヨシュアの繁栄、成功、強さ、大胆さのかぎは、ヨシュアが神の言葉を自分の口から離すことなく、それを昼も夜も口ずさむこと(思い巡らすこと)でした。「あなたの口」という言葉は、口ずさむことがおもに声に出して語ることによって実行されたことを示しています」。

 

 主よ、神の言葉を口ずさみ、反芻することによって、御言葉を味わい享受させてください。神の言葉がわたしたちにとって、常時の養いとなりますように。

 

 

神の言葉を口ずさむことによって、霊的な養いを受けます

 

 ヨシュアに対する神の励ましには、ヨシュアが神の言葉の中を歩むという条件がありました。……律法の書を彼の口から離すことなく、彼はそれを昼も夜も口ずさみ、その中に記されているすべてのことにしたがって、必ず行なわなければなりませんでした(ヨシュア1:8前半)。ヨシュアは神の言葉に占有されており、言葉に彼を占有させました。言葉で占有され満たされることによって、彼は良き地を取ることで順調であり成功しました。(ヨシュア記ライフスタディ、第2編)

 

 言葉を口ずさむとは、注意深く考察することを通してそれを味わい、享受することです。祈り、自らに語ること、主を賛美することも、言葉を口ずさむことに含まれるでしょう(Ⅱテモテ3:16)。こうして神を注入され、神を吸い込み、霊的な養いを受けることです。(詩119:15、フットノート1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第26日

(朝ごとの食物 ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第1週4日)

         

神の臨在があなたと共に行く

 

ヨシュア1:5-7

あなたの生涯のすべての日々、だれもあなたの前に立ちはだかることはできない。わたしは……あなたと共にいる.わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ、大胆であれ.なぜなら、わたしが父祖たちに与えると誓った地を、あなたはこの民に嗣がせるからである。……[律法]から右にも左にもそれてはならない.そうすれば、あなたはどこへ行っても成功する。

 

  「エホバがヨシュアに、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」と告げたことは、大きな事柄でした。ある時点で、主はモーセに、「わたしの臨在があなたと共に行って、わたしはあなたに安息を与える」と告げました(出33:14)。モーセは神の心にとても近い、神の心にしたがった人でした。ですから、彼は満ち満ちた程度にまで神の臨在を持っていました」。

 

 主よ、「わたしは……あなたと共にいる」という神の約束を感謝します。主よ、神の臨在は神の笑顔です。主よ、この時代に主の臨在、主の笑顔がわたしたちと共にありますように。

 

 

ヨシュアに与えられた神の約束

 

 神の約束は、まずヨシュアの生涯のすべての日々、だれも彼の前に立ちはだかることはできないということでした(ヨシュア1:5前半)。第二に、神の約束は、神はヨシュアと共にいて、彼を見放さず、彼を見捨てないということでした(5節後半)。9節後で神はヨシュアに言われました、「あなたがどこへ行っても、エホバ・あなたの神があなたと共にいる」。

 まず、神はヨシュアに、強くあれ、大胆であれと励まされました(6節前半、7節前、9節前)。ヨシュアは、彼自身の中でではなく、行動し活動する神の中で大胆でなければなりませんでした。……次に、神はヨシュアに、恐れてはならない、おののいてはならないと励まされました(9節中)。……さらに、神はヨシュアに、彼がどこへ行っても成功すると告げられました(7節後、8節後半)。(ヨシュア記ライフスタディ、第2編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第25日

(朝ごとの食物 ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第1週3日)

 

わたしたちの信仰の創始者であるイエスを見つめる

 

ヘブル12:2

わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.……

 

ローマ10:17

ですから、信仰は聞くことから来るのであり、聞くことはキリストの言葉によるのです。

 

「ヨシュアは四十歳の時、カレブに結び付きました。彼らは十二人の斥候のうちの二人であり、信仰に満ちた心を持ち、神の言葉を彼らの信仰として取り、神の民が良き地を所有するという神の権益を顧慮しました。荒野における神の贖われた者たちの間で、ヨシュアとカレブという二人の勝利者だけが良き地という賞を受けました(民13:30.14:6-9, 27-30).ローマ10:17.ガラテヤ3:3, 5.ヘブル11:5-6.ピリピ3:13-14)」。

 

 主イエスよ、あなたはわたしたちの信仰の創始者、また完成者です。わたしたちが、ヨシュアとカレブのように、信仰に満ちた心を持ち、神の言葉をわたしたちの信仰として取ることができますように。

 

 

主イエスがわたしたちの信仰です

 

 旧約の勝利を得た聖徒たちはみな、信仰の証し人であるにすぎませんが、イエスは信仰の創始者です。彼は信仰の創設者、開始者、源、起源です。わたしたちの天然の人の中に、信じる能力はありません。……わたしたちがイエスをひたすら見つめる時[ヘブル12:2]、彼は命を与える霊として(Ⅰコリント15:45)、わたしたちにご自身を、彼の中の信じる要素を伴って伝達されます。すると自然に、信じるということがわたしたちの中に起こり、彼を信じる信仰を持ちます。

 

 この信仰は、わたしたち自身から出て来るものではなく、主から出て来るものであり、彼はご自身を信じる要素としてわたしたちの中へと分け与えて、わたしたちのために信じてくださいます。ですから、彼ご自身がわたしたちの信仰です。わたしたちは、わたしたちの信仰としての主によって生きます。すなわち、自分自身によってではなく、彼の信仰によって生きます(ガラテヤ2:20)。(ヘブル12:2、フットノート3)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第24日

(朝ごとの食物 ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第1週2日)

 

多くの子たちを栄光へ導き入れる救いの創始者

 

ヘブル2:10

万物がその方のために存在し、万物がその方を通して存在する方が、多くの子たちを栄光へ導き入れるのに、彼らの救いの創始者を、苦難を通して成就されるのは、彼にふさわしいことでした。

 

 ヘブル語の「ヨシュア」という名のギリシャ語の同義語は、「イエス」であり(ヘブル4:8.使徒7:45)、「エホバ救い主」、あるいは「エホバの救い」を意味します(マタイ1:21.民13:16)。わたしたちのリーダーとしてのキリストは、わたしたちの救いのキャプテンとしてのわたしたちの真のヨシュアであり(ヘブル2:10.4:8)、わたしたちを栄光の中へと、また神の約束した地の安息の中へと導きます。

 

 主よ、あなたはわたしたちの救いのキャプテンであり、救いの創始者です。わたしたちを栄光の中へと、また神の約束した地の安息の中へと導いてくださることを感謝します。わたしたちをさらに、すべてを含むキリストの享受の中へともたらしてください。

 

 

ヘブル語の「ヨシュア」という名のギリシャ語の同義語は、「イエス」です

 

 ヨシュア記におけるキリストの第一の予表はヨシュア自身です。…… ヨシュアはキリストを予表し、また律法(モーセ――ヨシュア1:2前半.ヨハネ1:17)に置き換わる恵み(キリスト)を予表します。律法を与える者であるモーセが死んだとき、ヨシュアが入って来て(申34:8-9)、民を良き地にもたらしました(ヨシュア1:6)。それは主イエスが神の民を安息の中へと、すべてを含むキリストの享受の中へともたらすことを予表します。(ヨシュア記ライフスタディ、第1編)

 

 「ヨシュア」は「エホバ救い主」、あるいは「エホバの救い」を意味し(民13:16)、ヘブル語の名であって、ギリシャ語の同義語は「イエス」です。ですから、ヨシュアは、神の民を安息にもたらした主イエスの予表です。(ヘブル4:8、フットノート1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第23日

(朝ごとの食物 ヨシュア記、士師記、ルツ記 結晶の学び(1) 第1週1日)

 

ヨシュア記、士師記、ルツ記の隠された、内在的な意義

 

コロサイ1:12

光の中で、聖徒たちに割り当てられた分け前にあずかるようにと、あなたがたを資格づけてくださった御父に、感謝をささげるように。

 

「キリストのために地を取ることと、キリストのために真の祖先を備えることは、ヨシュア記からルツ記の歴史の霊です」。神が約束された地はキリストの予表であるので、キリストのために地を獲得することは、キリストのためにキリストを獲得することを意味します」。

 

 主よ、わたしたちが、今日のヨシュアとカレブとなり、また今日のルツとならせてください。主よ、わたしたちがキリストのために神の約束された地を獲得し、卓越したキリストをもたらすことができますように。

 

 

今日のヨシュアとカレブとなり、今日のルツとなる

 

 わたしたちはバイタルになり、生き生きとしており、活動的である必要があります! わたしたちは今日のヨシュアとカレブとなって、キリストのために神の約束された地を所有し、キリストの所有となる必要があります! わたしたちは今日のルツとなって、神のエコノミーに転換し、インマヌエルの地に入り、キリストと結婚する必要があります。

 

 それは、わたしたちがキリストをもたらして、人の今日の必要に応じるためです。これがこれら三巻、すなわちヨシュア記、士師記、ルツ記の内在的な意義となるべきです。この訓練の結果は、キリストのために神の約束された地を獲得し、卓越したキリストをもたらして、神と人の両方の、今日の必要に応じることであるべきです。(ヨシュア記、士師記、ルツ記の隠された内在的な意義)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第21日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第6週6日)

 

主の回復は、真理の光を回復することです

 

エペソ3:9

それはまた、万物を創造された神の中に、各時代にわたって隠されてきた奥義のエコノミー[経綸]が何であるかを、すべての人を照らして明らかにするためであり。

 

「わたしたちは、ライフスタディと、回復訳聖書とそのフットノートを用いることによって、神の永遠のエコノミーに関する最高の真理で構成され、それを普及させる必要があります。これらは命を供給し、真理を解き放ち、聖書の各書を開くためです(ヨブ10:13.参照、エペソ3:9)。主の回復は、真理の光を回復することです。今日、地上において最も緊急に必要とされるものは、この時代の真理です」。

 

 主よ、わたしたちの存在の中に堅固な真理を構成してください。そのために毎日、御言葉の中で、主と共に時間を費やすことができますように。

 

 

新約の中の開かれた鉱脈を掘る働きを継続する

 

 わたしは新約のすべての書をあなたがたに開くことを試みましたが、さらに掘ることをあなたがたに残しました。わたしはただ「鉱脈を開いた」だけであり、まだそれほど掘ってはいません。……わたしは回復訳のフットノートを書いて、追い求める聖徒たちに新約の各書を開くという負担を取り上げました。

 

 わたしは、主がこの掘る働きをあなたがたを通して、あるいは他の人を通して継続されると信じます。一定の期間を経て、あなたがたの多くが「うまく掘る人」になると、わたしは信じます。わたしたちがライフスタディメッセージを出版した目的と目標は、鉱脈を開き、あなたがたが前進して掘ることです。(長老訓練、第3巻、「ビジョンを遂行する道」、第8章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第20日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第6週5日)

 

造り変えの新陳代謝的な過程を経過して、神の子たちと明示されます

 

ローマ12:2

またこの時代にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか……を、あなたがたがわきまえるようになるためです。

 

「わたしたちは命において成長して、造り変えの新陳代謝的な過程を経過すればするほど、ますます神の子たちと明示されます(Ⅱコリント3:18, 6, 16.5:4, 9, 14-15.1:12.12:7-9)。この新陳代謝的な過程は、召会を建造して、キリストのからだ、神の家とすることです(ローマ12:2.エペソ1:22-23.2:20-22)」。

 

 主よ、わたしたちの思いが新しくされ、造り変えられますように。主よ、わたしたちの古い要素が排出されて、あなたの新しい要素がわたしたちの中へと造り込まれますように。

 

 

復活の過程の四つの面・・・・・聖別、造り変え、同形化、栄光化

 

 この復活の過程には四つの面、すなわち聖別、造り変え、同形化、栄光化があります。ローマ人への手紙第12章2節でパウロは造り変えについて語り、この時代にかたどられるのではなく、思いが新しくされることによって造り変えられるべきであると言っています。第8章29節でパウロは同形化について語り、次の節で栄光化について語ります。わたしたちの将来の栄光化は、復活の究極の段階です。それは体に適用された復活です。

 

 今日わたしたちの子たる身分はまだ完全ではありません。しかしながら、それはますます完全にされ、わたしたちの栄光化の時に頂点に達するでしょう。その時、わたしたちは完全に復活させられ、性質と外観において神の子たちと明示されるでしょう。(ローマ人への手紙ライフスタディ(2)、第52編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第19日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第6週4日)

 

わたしたちは復活によって神の多くの子たちと明示されます

 

ローマ8:29-30

…… 神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです.…… 神はあらかじめ定めた者たちを、さらに召し、…… 召した者たちを、さらに義とし、…… 義とした者たちを、さらに栄光化されました。

 

 「ダビデの子孫が神の御子になること」は、わたしたちが復活によって神の多くの子たちと明示される過程について語っています(ヘブル2:10-11)。キリストはすでに神の御子と明示されました。しかし、わたしたちは依然として、明示される過程、すなわち、息子化され、神化される過程にあります(ローマ8:28-29)。

 

 主よ、今やわたしたちは、地にまかれた種と同じように、死と復活の過程を経過しています。主よ、わたしたちは日ごとに死に渡されて、キリストの復活にあずかることができますように。

 

 

わたしたちは、死と復活の過程を経過して神の子たちと明示されます

 

 わたしたちは復活の過程を通して、命の変化によって神の子たちと明示されます。わたしたちが「満開」の段階に達する日が来つつあります。それはわたしたちの体の贖い、栄光化の時であり、それは満ち満ちた子たる身分です(ローマ8:23)。神の御子の命がわたしたちの霊の中へと植えられました。

 

 今やわたしたちは、…… 死と復活の過程を経過しなければなりません。このことは、外なる人を消耗させます。しかし、それによって内なる命は成長し、発展し、究極的には開花します。これが復活です。…… わたしたちは日ごとに死に渡されつつあります。それは、わたしたちが実行上キリストの復活にあずかるためです。ハレルヤ、わたしたちは復活によって神の子たちと明示されます!(ローマ人への手紙ライフスタディ(2)、第52編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第18日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第6週3日)

 

復活において、キリストの人性は神化され、息子化されました

 

サムエル下7:12-14

あなたの日が満ちて、あなたが父祖たちと共に眠るとき、わたしはあなたの身から出るあなたの子孫をあなたの後に起こし、彼の王国を堅く立てる。彼がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の座を永遠に堅く立てる。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。……

 

 「ダビデの子孫が神の御子になること」は、キリストが復活によって神の長子と明示される過程について語っています(ローマ1:3-4)。復活において、キリストの人性は神化され、息子化されました。その意味は、彼が彼の人性において神の御子と明示されて、神の長子となり、神性と人性の両方を持ったということです(ローマ8:29)。

 

 主よ、キリストは復活によって神の長子と明示されたことを賛美します。わたしたちはキリストの復活において再生され、神の多くの子たちとされ、今やキリストのからだであることを感謝します。

 

 

主の復活は、イエスの人性を神性の水準へと引き上げました

 

 ローマ人への手紙第1章4節の「明示された」という言葉が何を意味するのかを言うのは、とても難しいのです。……キリストはすばらしいパースンです。彼には二つの部分があります。それは人の部分と神の部分です。人の部分は人性です。神の部分は神聖です。……彼の復活は、イエスの人性を神性の水準へと引き上げました。ここにキリストのパースンの本質があります。

 

 これはとてもとても深いのです。イエスの神性は聖別の霊であり、神聖な力と神聖な要素を持っており、イエスの人性を造り変えて、それを神聖にします。これが明示することの意味するものであり、これが息子化することです。

 これがサムエル記下第7章12節から14節の予表における預言の成就です。(リー全集、1994年-1997年、第一巻(下)、「ローマ人への手紙における結晶の学び」、第1編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第17日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第6週2日)

 

死人の復活から、力の中で神の御子と明示された

 

ローマ1:3-4

彼の御子に関するものです.この方は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖別の霊によれば、死人の復活から、力の中で神の御子と明示されたわたしたちの主イエス・キリストです。

 

「神の永遠のエコノミーに関する福音は、「父祖に対してなされた約束の福音」(使徒13:32)です。この約束とは、ダビデの子孫が神の御子になるということ、すなわち、人の子孫が神聖な御子になるということです(22-23, 33-34節.26:6, 16-19.サムエル下7:12-14前半.ローマ1:3-4.マタイ22:41-45)」。

 

 主よ、あなたは死人の復活から、力の中で神の御子と明示されました。主よ、わたしたちも復活の過程を通して、神の子たちと明示されつつあります。主よ、これがわたしたちの経験となりますように。

 

 

わたしたちは復活の過程を通して、神の子たちと明示されつつあります

 

 わたしたちがこの子たる身分の事柄を考察するとき、ある重要な言葉がわたしたちの注意を引きます。それは、明示、復活、聖別、造り変え、同形化、栄光化、出現です。わたしたちは復活の過程を通して、神の子たちと明示されつつあります。この過程には多くの段階が含まれています。これらの段階は、聖別、造り変え、同形化、栄光化を含みます。…… 栄光化は出現でもあります。

 

 わたしたちの栄光化の日には、だれもわたしたちがクリスチャンであるかどうかを尋ねる必要はありません。なぜなら、わたしたちは神の子たちとして現されるからです。その出現は、復活によって明示される過程の究極的完成となります。(ローマ人への手紙ライフスタディ(2)、第54、55編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第16日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第6週1日)

 

現にある真理の中で堅固にされている

 

Ⅱペテロ1:12

……あなたがたはこれらの事柄を知っており、また現にある真理の中で堅固にされているのですが、わたしは常にこれらの事柄を、あなたがたに思い起こさせようとしているのです。

 

 「神が一つの時代に行なっている特別な回復と働きが、その時代の務めです。時代の務めは、神の民に現にある真理を供給します。Ⅱペテロ第1章12節の「現にある真理」は、「今日の真理」とも訳すことができます。わたしたちが今日、見ているものは、神の啓示の蓄積です」。

 

 主よ、この終わりの時代に隠されてきた真理を解放し、それらをもう一度、啓示してください。主よ、わたしたちに今日の真理、「現にある真理」を啓示してください。わたしたちの中で、神の真理が蓄積されていきますように。

 

 

わたしたち今日、見ているものは、神の啓示の蓄積です

 

 [ペテロの第二の手紙第1章12節]の「現にある真理」は、「今日の真理」と言っても良いでしょう。今日の真理とは何でしょうか? 実は、すべての真理は聖書の中にあります。・・・・ それらはすべて聖書の中にありますが、人の愚かさ、不忠信、怠慢、不従順を通して、多くの真理が失われ、人から隠されました。・・・・・ 真理はそこにありましたが、人はそれを見ず、それに触れませんでした。時が満ちてはじめて、神は特定の期間にいくらかの真理を解放し、それらをもう一度啓示されました。・・・・

 

 わたしたちは知っていますが、神の真理は蓄積されていくものであり、後の真理は先にあった真理を否定するものではありません。神のこれまでのすべての真理は、今日の真理の基礎を形成します。神がわたしたちの目を開いて、これらの事実を見せるとき、わたしたちは神のみこころの潮流の中に生きていることを認識し始めます。(ニー全集、第11巻、第36号、「わたしたちは何であるのか」)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第14日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第5週6日)

 

敬虔の奥義は、正常な召会の生活です

 

Ⅰコリント14:25

その心の秘密があらわになり、こうして彼はひれ伏して、神を礼拝し、まことに神はあなたがたの間におられる、と言い表すでしょう。

 

エペソ4:24

また、あの実際の義と聖の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着たのです。

 

「神は召会(神の家またキリストのからだ)の中で、肉体において、拡大された団体の表現として現されます(エペソ2:19.1:22-23)。召会生活は神の表現です。ですから、敬虔の奥義は、正常な召会の生活です(Ⅰコリント1:6.14:24-25)」。

 

 主よ、わたしたちの霊の中におられる神が、わたしたちの肉体において現されますように。自分自身を訓練して、敬虔へと至ることができますように。

 

 

自分自身を訓練して、敬虔へと至ります

 

 テモテへの第一の手紙第4章7節においてパウロは……、わたしたちは自分自身を訓練して、敬虔へと至るべきであると告げています。自分自身を訓練して、敬虔へと至ることは、わたしたちの霊を活用することであって、わたしたちが敬虔の奥義、すなわち神が肉体において現されることを表現するためです。

 

 これは、テモテへの第二の手紙第1章6節から7節のパウロの言葉によって示されています、「…というのは、神がわたしたちに賜わったのは、臆する霊ではなく、力と、愛と、冷静な思いとの霊であるからです」。…主イエスは敬虔の奥義としてわたしたちの霊の中におられるので[エペソ4:22]、……わたしたちは霊を活用することによって、自分自身を訓練して、敬虔へと至る必要があります。(新約の結論(21)、メッセージ363)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第13日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第5週5日)

 

神の家としての召会も敬虔の奥義です

 

Ⅰテモテ3:16

そして確かに、偉大なのは敬虔の奥義です.この方は肉体において現され、霊において義とされ、・・・・ 栄光のうちに上げられた。

 

エペソ1:23

この召会は、キリストのからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。

 

「Ⅰテモテ第3章15節から16節が示しているのは、かしらとしてのキリストご自身だけが、肉体における神の現れであるということではなく、キリストのからだまた神の家としての召会も、肉体における神の現れ、すなわち敬虔の奥義であるということです」。

 

 主イエスよ、あなたは地上にいた時に、肉体における神の現れでした。主よ、わたしたち召会が復活の中で、復活によって生きて、召会を通して神が表現されるようにしてください。

 

 

肉体における神の現れは、召会の中で継続します

 

 肉体における神の現れは、地上にいた時のキリストにおいて開始されました(ヨハネ14:9)。肉体における神の現れは、召会の中で継続します。召会は、肉体における神の現れの増し加わり、拡大、増殖です(Ⅰテモテ3:15-16)。このような召会は、キリストが肉体における神の現れであることの継続となります。・・・・・

 

 それは新約の肉体と成る原則にしたがっています(Ⅰコリント7:40.ガラテヤ2:20)。肉体と成る原則は、神が人の中へと入って、ご自身を人とミングリングして、人とご自身を一にするということです(ヨハネ15:4-5)。肉体と成る原則は、神性が人性の中へともたらされて、人性の内側で働くことを意味します(Ⅰコリント6:17.7:40.Ⅰテモテ4:1)。(新約の結論(21)、メッセージ363)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第12日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第5週4日)

 

確かに、偉大なのは敬虔の奥義です

 

Ⅰテモテ3:16

そして確かに、偉大なのは敬虔の奥義です.この方は肉体において現され、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世の人の中で信じられ、栄光のうちに上げられた。

 

「わたしたちは、召会が肉体における神の団体の現れであるという真理を保持し、真理を証しする必要があります(Ⅰテモテ3:15-16)」。

 

 主よ、わたしたちに知恵と啓示の霊を与えてください。そして、偉大な「敬虔の奥義」のビジョンを見ることができますように。主イエスが肉体における神の現れであったように、召会も肉体における神の現れとなりますように。

 

 

召会も肉体における神の現れとなります

 

 テモテへの第一の手紙第3章15節から16節において、キリストは肉体において現された神として提示されています。……主イエスが過去において肉体における神の現れであっただけなく、今日、召会も肉体における神の現れであるべきです。

 

 16節の「敬虔」という言葉は、「神に似ること」を意味します。そのゆえに、この節は、人が神の外観、表現、現れを持つことができることを示しています。この節の文脈において、「敬虔の奥義」という語句は、奥義の中の神は肉体において、すなわち人において現され、表現されることができるということを意味します。(コロサイ1:27.ガラテヤ2:20)。(新約の結論(21)、メッセージ363)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第11日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第5週3日)

 

召会のあらゆる肢体が真理を認識する

 

Ⅱテモテ2:15

あなたは良しと認められた者、真理の言を真っすぐに裁断する、恥じるところのない働き人として、神に自分自身をささげるように、熱心に努めなさい。

 

 「召会が真理の柱また基礎であるとは、召会のあらゆる肢体が真理を認識すべきであることを暗示します。こういうわけで、わたしたちは真理を学ぶことを決意すべきです(Ⅰテモテ2:4)」。

 

 主よ、召会のあらゆる肢体が真理を認識することができますように。主よ、わたしたちが御言を愛し、日常生活の中で真理を学び、実行することができますように。

 

御言を愛し、真理における堅固な基礎を持つ

 

 わたしたちはめいめいがわたしたちの内側に生ける神を持っている召会の生ける肢体です。召会が真理の柱また基礎であるとは、召会のあらゆる肢体が真理を認識すべきであることを暗示します。わたしたちは真理を学ぶことを決意する必要があります。もし若い聖徒たちがそのような決意をしなければ、召会には将来がありません。召会が新しい地方に拡大するために、導く人たち、責任を担うことができる人たちの必要があります。・・・・・

 

 わたしたちは最善を尽くしてこれらの真理の中へと入り込み、これらの真理をわたしたちの存在の中へと構成させなければなりません。これは短期間で達成することはできませんが、これはわたしたちの実行でなければなりません。(長老訓練、第3巻:「ビジョンを遂行する道」、第10章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第10日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第5週2日)

 

召会全体が、真理を支える柱と真理を保持する基礎となる

 

Ⅱヨハネ4

あなたの子供たちのある者が、わたしたちが御父から受けた戒めのとおりに、真理の中を歩いているのを見て、わたしは大いに喜んでいます。

 

「すべての聖徒は真理を保持する必要があります(Ⅰテモテ3:9, 15.Ⅱテモテ2:15)。真理を支える柱と真理を保持する基礎は召会全体であり、すべての聖徒を含みます。ですから、あらゆる兄弟姉妹が真理を学び、真理を経験し、真理を語ることができるようになることによって、真理を保持しなければなりません(Ⅰテモテ2:4)

 

 主よ、わたしたちが真理の中を歩いて、真理を保持することができますように。わたしたちが真理を学び、真理を経験し、真理を語ることができますように。主よ、命の供給があり、真理が解き放たれ、聖書が開かれますように。

 

 

わたしたちが真理を学び、真理を経験し、真理を語る

 

 最も益になる書物、出版物は、ライフスタディのメッセージと回復訳聖書のフットノートです。わたしがこれらの物を書いたのは、人々が学位を得るための学問的な学びのためではなく、命の供給のためであり、真理を解き放つためであり、聖書の各書を開くためです。

 

 ……主の回復は、手順を経た三一の神がわたしたちの中へと分与されるためであり、生けるキリスト、その霊、命、召会が主の回復の極めて重要な内容です。キリスト、その霊、命、召会を回復することについて、こんなにも豊かで、こんなにも光があり、こんなにも養いがある書物を見出すことのできる場所は他にありません。

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第9日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第5週1日)

 

神の家は生ける神の召会であって、真理の柱また基礎です

 

Ⅰテモテ3:15

それは、もしわたしが遅れた場合、神の家の中でどのように振る舞うべきかを、あなたに知ってもらうためです.神の家とは生ける神の召会であって、真理の柱また基礎です。

 

「召会は真理を支える柱、また真理を保持する基礎です(Ⅰテモテ3:15)。 召会は真理を担う柱、また柱を保持する基礎として、キリストが神の奥義であり、また召会がキリストの奥義であるというこの実際(真理)を証しします(コロサイ2:2.エペソ3:4)」。

 

   主よ、神の家の中でどのように振る舞うべきかを知ることができますように。神の奥義としてのキリストと、キリストの奥義としての召会の実際(真理)を証しすることができますように。

 

 

神の奥義としてのキリストとキリストの奥義としての召会を証しする

 

 比喩的な言い方で、パウロは、「真理の柱また基礎」としての召会について語っています(Ⅰテモテ3:15)。柱は建物を支え、基礎は柱を保持します。召会はそのような、真理を支える柱、真理を保持する基礎です。ここの「真理」は、新約の中に啓示された真の事柄を指しており、それは神の新約エコノミーにしたがったキリストと、召会についてです。

 

 真理は神の新約エコノミーの実際と内容です。このエコノミーは二つの奥義から成っています。すなわち神の奥義としてのキリスト(コロサイ2:2)とキリストの奥義としての召会です(エペソ3:4)。キリストと召会、すなわち、かしらとからだは、神の新約エコノミーの実際の内容です。召会は、これらすべての実際を支える柱また保持する基礎です。(新約の結論(21)、メッセージ363)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第7日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第4週6日)

 

三つの役割を持つ召会の肢体、「マルタ・ラザロ・マリア」

 

ヨハネ12:1-3

過越の六日前に、イエスはベタニヤに来られた.そこには、イエスが死人の中から復活させたラザロがいた。そこで人々は、イエスのために晩餐を設けた.マルタは給仕をしていた.・・・・ その時マリアは、非常に高価で純粋なナルドの香油一リトラを取って、イエスの足に塗り、自分の髪の毛で彼の足をぬぐった.するとその家は、香油の香りで満たされた。

 

「わたしたちがキリストを命として主観的に経験することの結果は、祝宴の家としての召会生活です(ヨハネ12:1-11)。わたしたちはみな召会生活の中で三つの役割を持つ召会の肢体、すなわち「マルタ・ラザロ・マリア」でなければなりません。主に対する勤勉な奉仕がなされ、主の生ける証しが見られ、主に対する絶対的な愛が注ぎ出されます。これが主のからだの真の表現です」。

 

 主よ、キリストを命として主観的に経験する召会生活を与えてください。主よ、わたしたちが、主のための奉仕、主の復活の証し、主に対して注ぎ出された愛を持つことができますように。

 

 

わたしたちはみな「マルタ、ラザロ、マリア」となります

 

 わたしたちはみな三つの役割を持つ召会の肢体でなければなりません。わたしたちは三つのコーナーを持っていなければなりません。……召会生活では少なくとも三つの項目がなければなりません。それは主のための勤勉な奉仕、主の復活の命の生ける証し、主に対して注ぎ出された絶対的な愛です。わたしたちは真に召会生活を実行しているなら、奉仕、証し、主に対する愛を持たなければなりません。

 

 わたしたちはみなマルタ、ラザロ、マリアでなければなりません。そのような召会は、主がわたしたちにとって命であることの結果と成果です。……ここで、わたしたちは他の聖徒たちと共に主を享受することができ、主ご自身は満足して住み、安息し、祝宴をすることができます。これが主のからだの真の表現です。(ヨハネによる福音書ライフスタディ(1)、第25編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第6日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第4週5日)

 

わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である

 

ヨハネ15:5

わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。

 

 「キリストはまことのぶどうの木であり、わたしたちは彼の枝です(15:1-8)。ぶどうの木の命、実質、性質は、枝の命、実質、性質です(Ⅰヨハネ5:11-12.Ⅱペテロ1:4)。御子はぶどうの木として、神のエコノミーの中心であって、御父のすべての豊富の具体化です」。

 

   主よ、あなたはまことのぶどうの木であり、わたしたちはその枝です。主よ、あなたの中に住んで、多くの実を結ぶことができますように。そして、三一の神の有機体として表現されますように。

 

 

まことのぶどうの木とその枝としての三一の神の有機体となる

 

 [ヨハネによる福音書第15章1節で]このまことのぶどうの木(御子)と、その枝(御子にある信者たち)は、神のエコノミーにおける三一の神の有機体です。この有機体は、彼のさまざまな豊富をもって成長し、彼の神聖な命を表現します。(ヨハネ15:1、フットノート1)

 

 ヨハネによる福音書第15章で主は言われました、「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である」(5節前半)。もし枝に絶対的に、ぶどうの木の主観的な経験がないなら、枝は枝ではありません。枝とぶどうの木は一であって、分けることができません。ぶどうの木の命は枝の命であり、ぶどうの木の性質は枝の性質であり、ぶどうの木の実質は枝の実質です。ぶどうの木と枝の間には全く違いがありません。厳密に言って、すべての枝はぶどうの木の一部分です。

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第5日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第4週4日)

 

キリストを息、生ける水、命のパン、すべてとして経験する

 

ヨハネ1:14

……言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた.それは恵みと実際に満ちていた。わたしたちは彼の栄光を見た.それは、父からのひとり子としての栄光であった。

 

「キリストが息としてのその霊と成ったのは、わたしたちに彼を呼吸させるためでした。彼が生ける水となったのは、わたしたちに彼を飲ませるためでした。彼が命のパンとなったのは、わたしたちに彼を食べさせるためでした(ヨハネ4:10, 14.6:32-33, 35, 51, 54-57.7:37-39.20:22)」。

 

 主よ、わたしたちの生活の中で キリストを息、生ける水、命のパンとして経験することができますように。主よ、わたしたちがその霊、命にあずかり、召会を建造することができますように。

 

 

主観的な経験は、召会を生み出すためです

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたちがどのように主を主観的に経験するべきかについて繰り返し語っています。主が肉体と成られたのは、ご自身をわたしたちの中へと造り込むためです。彼が生ける水となったのは、わたしたちに彼を飲ませるためでした。彼が命のパンとなったのは、わたしたちに彼を食べさせるためでした。彼が命の息となったのは、わたしたちに彼を呼吸させるためでした。

 

 しかしながら、わたしたちが見なければならないのは、…… すべての主観的な経験はその霊に結び付いており、命にかかっており、召会を生み出すためであるということです。わたしたちは、主をわたしたちの中へと受け入れた結果、召会の構成要素となります。(リー全集、1977年、第3巻(上)、「聖書における主観的な真理」、第3編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第4日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第4週3日)

 

キリストに対する主観的な経験を持つ

 

ヨハネ4:14

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.わたしが与える水は、その人の内で源泉となり、湧き上がって、永遠の命へと至るのである。

 

ヨハネ6:48

わたしは命のパンである。・・・ 57  生ける父がわたしを遣わされ、わたしが父のゆえに生きているように、わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる。

 

「ヨハネによる福音書は、主観的な真理についての書であり、わたしたちが命としてのキリストに対する主観的な経験を持つべきであることを啓示しています(ヨハネ4:14.6:57.20:22)」。

 

 主よ、あなたは生ける水であり、命のパンです。主を食べ飲みすることによって、あなたを受け入れ、生かされますように。主よ、命としてのキリストを主観的に経験させてください。

 

 

ヨハネによる福音書は、主観的な真理についての書です

 

 ヨハネによる福音書は、完全に主観的な真理についてです。…… 食物を食べることと水を飲むことは、明らかに客観的ではなく、絶対的に主観的です。わたしが食物を取り入れて、水を飲むとき、食物と水はわたしと一つになります。取り入れたものは何であれ、数時間で消化されて、生きた有機的な構成要素になります。言い換えると、わたしが食べるものは、わたしになります。

 

……ですから、ヨハネによる福音書は、客観的な教理ではなく、主観的な経験についてわたしたちに告げています。わたしたちは、主を食べ飲みすることによって彼を受け入れなければなりません。(リー全集、1977年、第3巻(上)、「聖書における主観的な真理」、第2編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第3日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第4週2日)

 

客観的な義としてのキリストと主観的な義としてのキリスト

 

詩45:13-14

王の娘は王の住まいの内にいて栄光を極め、彼女の衣は織った物であり、金が織り込まれています。彼女は刺繍された着物を着て王の所に導かれ、……

 

「わたしたちの客観的な義としてのキリストは、わたしたちが義なる神の要求を満たすことができるようにします。またわたしたちの主観的な義としてのキリストは、わたしたちが勝利を得たキリストの要求を満たすことができるようにします(詩45:13-14.ピリピ3:9.啓19:7-9)」。

 

 客観的な義としてのキリストの贖いを感謝します。主よ、わたしたちがその霊の導きに従って、主観的な義としてのキリストを経験することができますように。

 

 

勝利を得た聖徒たちの義は主観的なものです

 

 わたしたちの救いのために受けた義は客観的であり、わたしたちが義なる神の要求を満たすことができるようにします。また……勝利を得た聖徒たちの義は主観的であり(ピリピ3:9)、彼らが勝利を得たキリストの要求を満たすことができるようにします。詩篇第45篇13節から14節で、王妃は二枚の衣を持っています。一つは、わたしたちの救いのための客観的な義に相当し、もう一つは、わたしたちの勝利のための主観的な義に相当します。(啓19:8、フットノート2)

 

 あらゆる霊的経験はまず、キリストが達成されたことを信じることから、そしてその霊の導きに従うことによって来ます。キリストの達成はわたしたちに地位を得させ、その霊の導きは経験を得させます。

 キリストの再来の時、客観的な面で神の小羊がいるでしょう。小羊の花嫁もいるでしょう。「彼女は輝く清い細糸の亜麻布の衣を着る……その細糸の亜麻布の衣は、聖徒たちの義である」(啓19:8)。これは主観的な面です。(ニー全集、第10巻、第29号)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


8月の祈り 第2日

(朝ごとの食物 真理を認識し、真理に対して絶対的になり、現在の邪悪な時代において真理を告げ知らせる(2) 第4週1日)

 

聖書の中の主観的な真理を回復する

 

ルカ15:22-23

しかし、父は奴隷たちに言った、「急いで、あの最上の衣を持って来て彼に着せ、手に指輪をはめ、足にサンダルをはかせなさい。また、あの肥えた子牛を引いて来て、ほふりなさい.食べて楽しもうではないか」。

 

 主は聖書の中の主観的な真理を回復することを渇望しています(ヨハネ1:14.14:16-20.Ⅰテモテ3:15-16前半.Ⅱテモテ4:22.3:15-16)。聖書の中の真理には常に二つの面があります。それは客観的な面と主観的な面です(ローマ8:34, 10.コロサイ3:1.1:27)。すべての客観的な教理は、主観的な経験のためです。

 

 主よ、あなたはあの最上の衣を、用意してくださいました。今わたしたちは神の家の中で、ほふられたあの肥えた子牛を食べて楽しむことができます。主よ、神の救いの主観的な面をさらに享受させてください。

 

 

あの肥えた子牛をほふりなさい.食べて楽しもうではないか

 

  ルカによる福音書第15章は、一人の息子が家を離れて外を放浪し、放蕩息子になったことについて語っています。ある日、その放蕩息子はぼろをまとって家に帰って来ました。・・・息子は家を離れて放浪していた時、息子としての身分を失い、放蕩息子になりました。父がその衣を彼に着せた時、彼は直ちにまたも息子になりました。これは神の救いの法理的な面を言っています。

 

  しかしながら、衣を着せられて息子となるだけでは十分ではありません。その時、一方で、その息子は幸いでしたが、もう一方で、……空腹でした。……父は続けて言いました、「あの肥えた子牛を引いて来て、ほふりなさい.食べて楽しもうではないか」(23節)。その時、息子は喜びで踊ったに違いありません。肥えた子牛を食べた後、息子は満足し、もはや飢えはありませんでした。ですから、衣は神の救いの法理的な面を表徴し、子牛は神の救いの有機的な面を表徴します。(神の救いの有機的な面、第2章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)