朝ごとの食物

ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第5週1日~(3) 第9週3日

3月の祈り 第31日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第9週3日)

 

神の言葉・箴言を喜んで受け入れる

 

エペソ4:22-24

……以前の生活様式において、あの欺きの情欲によって腐敗している古い人を、脱ぎ捨ててしまったのです.そして、あなたがたの思いの霊の中で新しくされ、また、あの実際の義と聖の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着たのです。

 

 「わたしたちは新約の信者として、箴言が神の聖書における聖なる言葉の一部分であることを信じるべきです。詩篇の作者は、「わたしはあなたの戒めに両手を挙げて、それを愛し」と言います(詩119:48)。神の言葉にわたしたちの両手を挙げることは、わたしたちがそれを熱心に、喜んで受け入れ、それに対してアーメンと言うことを示すことです(ネヘミヤ8:5-6)」。

 

 主よ、神の御言から、養いと照らしを受けることができますように。わたしたちの霊を活用して、祈りの霊の中で箴言の言葉に触れさせてください。キリストの死に同形化されて、わたしたちの命またパースンである主イエスによって生きることができますように。

 

 

聖書が、命、霊、霊の養い、霊の照らしに満ちた書に変えられる

 

 わたしたちは神に近づく者として、神の御言に来て、格言や教えを受けるのではなく、養いと照らしを受けることを学ばなければなりません。それは、わたしたちが神にしたがって、常にキリストの復活の力、すなわち、キリストの復活の実際である究極的に完成された霊によって、キリストの死に同形化されるべきであることを(ピリピ3:10)、知るようになるためです。

 

 わたしたちは聖書を、自己修養し、天然の人を建て上げることを教える書から、命、霊、霊の養い、霊の照らしに満ちた書に変える必要があります。これはわたしたちの自己を取り壊し、天然の人を砕き、わたしたちに三一の神の究極的に完成された霊を供給します。

 わたしたちは日常生活において、特に聖書を学んでいる時、… 霊の中で祈ることによって、思いから霊に向きを変える必要があります。わたしたちはこのようにして聖書に来るなら、新しい人によって御言に触れ、聖書はわたしたちにとって霊と命の書となります。(箴言ライフスタディ、第4編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第30日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第9週2日)

 

新しい人によって箴言の御言に触れる

 

Ⅱテモテ3:16

聖書はすべて、神の息吹かれたものであり、人を教え、戒め、矯正し、義の中で訓練するのに益があります.

 

ヨハネ6:63

命を与えるのはその霊である.……わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である。

 

 「わたしたちは箴言に来るとき、わたしたちの霊の中で祈ることによって、思いから霊に向きを変える必要があります(エペソ6:18.ルカ18:1.コロサイ4:2)。わたしたちがこのようにして箴言に来るなら、新しい人によって御言に触れるようになります。そして、わたしたちが生きる生活は、天然の人、古い人、自己によるのではなく、わたしたちの霊の中に生きているわたしたちの命またパースンである主イエスによるのです(Ⅱテモテ4:22.ヨハネ6:57, 63.エレミヤ15:16)」。

 

 主よ、わたしたちが箴言の言葉を、祈りの霊をもって読むことができますように。教理ではなく、その霊と命を得ることができますように。箴言の書がわたしたちにとって、金塊と宝石のように尊くなりますように。

 

 

その霊と命の言葉を追い求める

 

 あなたが自己の完全ではなく、主を愛してキリストを追い求め、全聖書の主の言葉を愛し、祈りの霊をもってそれを読み、文字の教理のためではなく、その霊と命の言葉を追い求めるためであり、自己修養のためにいかなる助けを得るのでもなく、あなたの霊を養うことを求め、人の美徳においてではなく、神聖な属性の表現である神聖な美徳において完全であるクリスチャン生活を生きる人であるなら、この書はあなたに金塊と宝石を与え、キリストを追い求めるあなたの生活を強めて、キリストのからだを生み出し建造することで、神のエコノミーを完成します。……

 

 神が願っておられるのは、わたしたちが彼を尋ね求め、彼を獲得すること、神がわたしたちをご自身で満たして、彼の表現となることです。(箴言ライフスタディ、第1編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第29日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第9週1日)

 

神の定められた御旨を成就する箴言、知恵の言葉

 

箴1:1-4

……ソロモンの箴言.これは、知恵と教訓を知らせるため、英知の言葉を識別させるため、知恵の行ないを得させ、義、公正、そして公平の教訓を得させるため、単純な者に思慮を与え、若い人に知識と分別を与えるためである。

 

 「箴言は多くの古代の賢い者たちによる知恵の言葉を提示しています。箴言を読むすべての人々は、この書が良いことをみな一様に認めています。しかし、… 箴言がわたしたちにとって何であるかは、わたしたちがどのような人であるか、またわたしたちがどのような方法で箴言を受け入れるかにかかっているということです」。

 

 主よ、わたしたちが自分の高潔さ、人の正しさを追い求めることから転換することができますように。主よ、神ご自身を追い求め、あなたで満たされ、あなたを表現する者としてください。

 

 

神を獲得して、神を表現する

 

 もしわたしたちが強い思いを持つ倫理的な人であり、真に道徳的な人として完全でありたいという願いを持っているなら、確かにこの書はわたしたちを助けて、完全さを追い求めることにおいて成功させるでしょう。しかしながら、それは神の霊にしたがってわたしたちの霊の中で生きる人となるよう、わたしたちを助けるのではありません(Ⅱテモテ4:22.ローマ1:9.2:29.7:6.8:4-6, 9-11, 16.Ⅰコリント16:18.Ⅱコリント2:13-14.ピリピ3:3.ガラテヤ5:15-17, 22-25.6:18.エペソ5:18.6:18)。…

 

 神の定められた御旨は、ヨブが神を獲得して、神の栄光を現し、神を表現することでした。神に対する最高の奉仕は、わたしたちが神を極みまで獲得して、神で満たされ、神を表現して、神の栄光を現すことです(ピリピ3:7-8, 12.イザヤ43:7.Ⅰコリント6:20.10:31.参照、ヨハネ17:1)。(ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び、アウトライン)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第27日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第8週6日)

 

神の知恵をもって設計された新エルサレム

 

ヘブル11:10

なぜなら、彼は土台のある都を熱心に待ち望んでいたからです.その設計者と建築者は神です。

 

啓21:2

わたしはまた聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように整えられて、天から出て神から下って来るのを見た。

 

 「新エルサレムは、召会の究極的完成として、知恵に満ちています(啓1:11.21:2, 9-11.22:16)。神は新エルサレム「土台のある都」の設計者と建築者です(ヘブル11:10)。わたしたちは、新エルサレムがしるしであって、霊的で神聖な事柄を表徴することを認識するなら、この都に神の知恵を見始めます(啓1:1.21:9-11)

 

 主よ、わたしたちはアブラハムのように、天のふるさと生ける神の都を待ち望みます。わたしたち召会が、天から出て神から下って来る新エルサレム「花嫁」になりますように。

 

 

生ける神の都を待ち望む

 

 生ける神の都は、旧約の聖徒たちがはるかに望み見て、期待し、待ち続けていたものです(ヘブル11:13後半、16前半、10前半)。……[アブラハムが]寄留者として、さらには追放者、国を捨てた者のようにして約束の地に寄留していたのは、彼がさらにまさったもの、天のふるさとを切望していたためです(ヘブル11:16)。イサクとヤコブはアブラハムに続いて同じ道を行き、旅人また寄留者として地上で生活し、神が建てた土台のある都を待ち望みました。・・・・・・

 

 ヘブル人への手紙第11章10節は、神が新エルサレムの設計者であり、建築者であることを示しています。……これは、神が彼の民のために備えた(ヘブル11:16)「生ける神の都、天のエルサレム」であり(12:22)、「上なるエルサレム」(ガラテヤ4:26)、「聖なる都、新しいエルサレム」(啓21:2.3:12)であり、また神が人と共に永遠に住むための神の幕屋です(啓21:3)。父祖たちがこの都を待ち望んだように、わたしたちもまたそれを求めます(ヘブル13:14)。(新約の結論、メッセージ187、256、6)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第26日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第8週5日)

 

神の多種多様な知恵を、召会を通して知らせる

 

エペソ3:10

今、天上にある支配たちや権威たちに、神の多種多様な知恵を、召会を通して知らせるためであり。

 

エペソ6:12

というのは、わたしたちの格闘は血肉に敵対するものではなく、支配者たちに、権威者たちに、この暗やみの世の主権者たちに、天上にいるあの悪の霊の勢力に、敵対するものだからです。

 

 「召会を通して、神の多種多様な知恵が、天上にある支配たちや権威たちに知らせられます(エペソ3:10)。神が召会を通して彼の知恵を知らせるのは、おもに人類に対してではなく、神の敵の追従者である反逆の天使たちに対してです(啓12:7)。最終的に、神の敵サタンは征服されて、神の多種多様な知恵を知るようになります(エペソ3:10)」。

 

 主よ、わたしたちは神と一であり、互いに一である召会です。神の傑作である召会を通して、神の多種多様な知恵が展覧されて、サタンが辱められますように。

 

 

問題や困難を持つほど、知恵が表現される

 

 あなたが知恵に満ちた人であるなら、問題や困難を持てば持つほど、ますます知恵を表現するでしょう。……あなたは自分の知恵を展覧するのに問題を必要とします。

 神も問題を必要とされます。彼は敵、サタンをさえ必要とされます。……わたしは若かったころ、サタンが神に反逆した時、なぜ神は直ちに彼を火の池に投げ込まれなかったのかと思いました。なぜ神がサタンにそれほど多くの自由を与えられたのかと問いました。わたしはまた、なぜ神はエデンの園に善悪知識の木を置かれたのかと尋ねました。もしこの木がそこになかったなら、人は堕落しなかったでしょう。しかしサタンがいなければ、また知識の木がないなら、神の知恵は十分に現されることはできません。

 

 サタンと知識の木は多くの機会を作って、神の知恵が多種多様な方法で、すなわち、さまざまな方法で、さまざまな面で多くの角度から現されるようにしました。… 問題を通してはじめて、神の知恵のすべての面が現されることができます。……

 召会は神の傑作であり、神の知恵は召会を通して驚くばかりに展覧されます。神の目に、宇宙で最もすばらしいものは召会です。なぜなら、神の多種多様な知恵が召会を通して、サタンとその使いたちに知らされるからです。(エペソ人への手紙ライフスタディ、第31編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第25日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第8週4日)

 

神の知恵として与えられたキリスト

 

Ⅰコリント1:30

しかし、あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは、神によるのです.このキリスト・イエスは、神からわたしたちに与えられた知恵、すなわち、義と聖別と贖いとなられました.

 

 「キリストはわたしたちの知恵として、すべてを含み、義と聖別と贖いにおいて、神からわたしたちに与えられた知恵となります(Ⅰコリント1:30)」。

 

 キリストが神からわたしたちに与えられた知恵であることを感謝します。わたしたちの毎日の生活の中で、行ないにおける義、性質における聖別、神以外のすべてのものからの贖いを経験させてください。

 

 

生活の中で義と聖別と贖いを経験する

 

 神ご自身がキリストの中でわたしたちに与えられる知恵であって、神の知恵であるキリストをわたしたちの中へと神聖な成分として絶えず伝達して、わたしたちを知恵のある者に構成しておられます。……

 義と聖別と贖いは、神の救いの三つの段階を取り扱っています。すなわち、霊における再生(わたしたちの過去のため)、魂における聖別(わたしたちの現在のため)、体における贖い(わたしたちの将来のため)です。他方において、義と聖別と贖いは、わたしたちのクリスチャン生活と働きの中で日々経験する必要のある神の救いの性質の三つの面を指しています。

 

 今日、わたしたちの生活と働きの中で、わたしたちはキリストを義と聖別と贖いとして必要とします。毎日わたしたちは生活のすべての事柄の中で義とされ、聖別され、贖われる必要があります。わたしたちの存在に伝達されている神の知恵としてのキリストは、わたしたちの内側であらゆる事を行なって、わたしたちを行為において義とし、性質において聖別するようにしておられます。ですから、わたしたちが行なうことは何でも、義であり、聖でなければなりません。それだけでなく、神の知恵としてのキリストは、わたしたちを神以外のすべてのものから贖われます(Ⅰペテロ1:18)。毎日わたしたちの生活と働きは義で、聖で、贖われなければなりません。わたしたちの全存在でさえ義で、聖で、贖われるべきです。(新約の結論(19)、メッセージ307)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第24日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第8週3日)

 

人格化された神の知恵

 

箴8:12

知恵であるわたしは分別と共に住み、知識と思慮を見いだす。

 

Ⅰコリント1:24

召されている者には、ユダヤ人にもギリシャ人にも、キリストは神の力、また神の知恵です。

 

コロサイ2:2-3

……神の奥義なるキリスト……このキリストの中には、知恵と知識のすべての宝が隠されています。

 

 キリストは神の知恵です(Ⅰコリント1:24)。新約において、人格化された神の知恵は、その実際としてのキリストです(箴8:1, 12.9:1.ルカ2:40, 52.7:35.マタイ11:19)。キリストの中には、「知恵と知識のすべての宝が隠されています」(コロサイ2:3)。

 

 主よ、あなたを愛します。あなたは人格化された神の知恵です。わたしたちに知恵の実際としてのキリストを経験させてください。

 

 

神の奥義としてのキリストを経験する

 

 箴言第8章1節と12節、第9章1節は知恵について語っており、その知恵の実際はキリストです。マタイによる福音書第11章19節で、主イエスは自分自身に言及して言いました、「知恵はその働きによって義とされる」。知恵はキリストです(Ⅰコリント1:24、30)。キリストが行なったことは何であれ、神の知恵によって、すなわちキリストご自身によってなされました。この知恵は彼の知恵ある行為によって義とされ、証明されました。……

 

 キリストは神の力であるだけでなく、神の知恵でもあります(Ⅰコリント1:24)。彼は神からわたしたちに与えられた知恵となられました(Ⅰコリント1:30)。知恵は、計画し、決意するためのものであり、力は、計画し決意したものを遂行し達成するためのものです。神の救いにおいて、十字架につけられたキリストは神の力であると同時に神の知恵でもあります。わたしたちは力と知恵の両方としてキリストを必要とします。(新約の結論、メッセージ45、29)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第23日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第8週2日)

 

奥義の中の神の知恵

 

ローマ11:33

ああ、神の豊富と知恵と知識とは、何と深いことでしょう! 彼の判断は何と計り知れず、彼の道は何と極め難いことでしょう!

 

ローマ16:25

……わたしの福音、……イエス・キリストについての宣べ伝えにしたがって、世々にわたって沈黙のうちに保たれてきた奥義が啓示されることにしたがって…….

 

 「神の知恵は、奥義の中の神の知恵、すなわち隠されてきた知恵です.それは、わたしたちに栄光を得させるために、もろもろの時代の前に神があらかじめ定められたものです(Ⅰコリント2:7)」。

 

 主よ、わたしたちにみこころの奥義を啓示し、知らせてくださったことを感謝します。世々にわたって隠されてきた奥義の中の神の知恵を、さらにわたしたちの霊の中に分与してください。神の知恵としてのキリストを享受することができますように。

 

 

知恵はわたしたちの霊の中にあります

 

 わたしたちは、知恵と知識の違いを見る必要があります。コロサイ人への手紙第2章3節で、この両者が共に述べられています。知恵は知識よりも高く、また深いのです。知恵は物事の開始に、例えば、新しい発明の構成に見られ、知識は実行上の適用に見られます。もしあなたが知識を待つだけで知恵に欠けているなら、何を開始することも、何を発明することもできないでしょう。神は唯一の開始者です。彼は多くの事を開始しました。それは彼の知識によってではなく、彼の知恵によってです。彼は入って来て彼が開始したことを適用するとき、彼の知識を展覧されます。

 

 わたしたちの場合、知恵はわたしたちの霊の中にあり、知識はわたしたちの思いの中にあります。もしあなたがどのようにしてあなたの霊の中に入るかを知らないなら、多くの知識を持っていても、何の知恵も持たないでしょう。しかしあなたが霊の中の人であるなら、あなたは賢いでしょう。さらに、あなたは思いの中に知識、分別を持つでしょう。(エペソ人への手紙ライフスタディ、第31編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第22日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第8週1日)

 

エホバを畏れることは知恵の初めである

 

箴言9:10

エホバを畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは英知である。

 

箴言3:19

エホバは知恵によって地の基を据え、英知によって天を堅く立てられた。

 

 「箴言は、わたしたちが神と接触することを通して神から受ける知恵を強調しています(箴1:2.2:10.4:5.9:10.11:2後半.14:33前半)。箴言の中心思想とは、わたしたちが知恵を尋ね求め、地上で神に受け入れられることができる敬虔な生活をすべきであるということです(箴2:1-9)」。

 

 エホバを畏れることは知恵の初めです。人格化された神の知恵であるキリストによって、正常な人の生活をすることができますように。

 

 

知恵の言葉はその霊を通して与えられます

 

 知恵は神の霊であり(参照、出28:3.申34:9)、キリストでもあります。こういうわけで、知恵は人の上に注ぎ出されることができるのです(箴1:23)。これは新約において非常に明確です。知恵を受ける人たちは、聖霊で満たされている人たちです(使徒6:3, 10)。コリント人への第一の手紙第12章8節は言っていますが、知恵の言葉はその霊を通して人に与えられます。こういうわけで、わたしたちは天然の観念で箴言の言葉を受け取ることはできないのです。むしろ、わたしたちは神の霊にわたしたちの上に注ぎ出していただき、わたしたちが知恵を受けるようにする必要があります。(リー全集、1956年、第1巻、506ページ[英文]

 

 箴言のある部分で、神の知恵は人格化されています。神の知恵のこの人格化は、三一の第二、すなわち神の御子です。キリストは人格化された神の知恵です。

 エホバは知恵によって地の基を据え、英知によって天を堅く立てられました(箴3:19)。エホバが地の基を据え、天を堅く立てられたのはこの方、すなわちキリストによってであり、彼は神の知恵です。… この人格化された知恵はキリストを表徴します。わたしたちは知恵としてのキリストを持つなら、霊的なものと物質的なものを含めて、すべてを持ちます。(箴言ライフスタディ、第1編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第20日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第7週6日)

 

栄光から栄光へ、主と同じかたちへと造り変えられる

 

エペソ4:4-6

一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの一つ望みの中で召されたようにです.一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ.すべてのものの神また父は一つ、この方はすべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです。

 

 主は命を与える霊として、わたしたちの中に住んで、彼ご自身と、彼が完成し、獲得し、到達したすべてのことをわたしたちにとって実際とします。それによってわたしたちは彼と一になり、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと造り変えられます(Ⅱコリント3:16-18)。

 

 主よ、あなたはわたしたちの中に入って来て、今わたしたちの命です。主よ、人の中での神の行動は今なお、わたしたちの生活の中で継続していることを感謝します。

 

 

肉体と成ることの原則を生活のすべてに適用する

 

 神はキリストにあって、わたしたちの上で彼の造り変える働きを完成し、ついには彼の造り変えは、新エルサレムにおいて究極的に完成します。新エルサレムはまず、千年王国における勝利者と共にあります(啓2:7)。そして究極的には、新天新地におけるすべての聖徒たちと共にあって、彼の選ばれ贖われたすべての人を彼の団体的な表現とならせ、永遠において最も満ち満ちた程度にまでご自身を現します。(啓21:1―22:5)。(ヨブ記ライフスタディ、第34編)

 

 新約聖書の記録によれば、地上における人の中での神の行動は、常にこの肉体と成ることの原則の中にあります。わたしたちの救いは、人の中での神の行動であり、また人の一部としての神の行動です。もし神がわたしたちの命そのものとなるために、わたしたちの中に入って来られるという意味において神がわたしたちとなられなかったとしたら、わたしたちは決して救われなかったでしょう。…… 救いとは、神を人と成らせ、人を神とならせることです(神格においてではない)。これが肉体と成ることであり、わたしたちはこの肉体と成ることの原則をわたしたちのクリスチャン生活のすべてに適用すべきです。(人の中の神の動き、メッセージ1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第19日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第7週5日)

 

苦難は、永遠の重い栄光をもたらす

 

Ⅱコリント4:17-18

なぜなら、わたしたちの受けるつかの間の軽い患難は、ますます卓越した永遠の重い栄光を、わたしたちにもたらすからです.わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目をとめます.なぜなら、見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠であるからです。

 

 「神は更新と造り変えにおいて、わたしたちを消耗させ、彼の苦難の交わりのために、わたしたちを彼の死の中へと入れます。その苦難は、わたしたちのために永遠の重い栄光をもたらします。それは、わたしたちが彼の復活の中で彼を経験し、彼の計り知れない豊富の中で彼を獲得するためです(Ⅱコリント4:16-18, 10.ピリピ3:10, 8.エペソ3:8)」。

 

 主よ、つかの間の軽い患難が、卓越した永遠の重い栄光をもたらすことを感謝します。主よ、わたしたちが苦難の中で主の計り知れない豊富を獲得して、キリストのからだ、王国としての召会が建造されますように。

 

 

造り変えられて、聖徒たちと共に建造される

 

 キリストにある信者として、わたしたちはキリストの神聖な命において成長し、命を分与する霊を通してキリストであるものに造り変えられる必要があります。それによってわたしたちは聖徒たちと共に建造され、キリストのからだ、すなわちキリストの中で三一の神の有機体、また神の新創造としての新しい人となって、神の永遠のエコノミーを完成し、新エルサレムを究極的に完成します。それは手順を経た三一の神と、栄光化された三部分から成る人とのミングリングであり、永遠における団体の神・人の出現となります。(ヨブ記ライフスタディ、第34編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第18日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第7週4日)

 

新約における、人の中の神の行動

 

エペソ3:17

またキリストが信仰を通してあなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように. またあなたがたが、愛の中に根ざし土台づけられ、

 

 「新約において、人の中の神の行動は、神の御前での人の必要を満たします。人の中の神の行動は、キリストが一度目に来ることから、新天新地の新エルサレムが現されることまでです。この行動は人類歴史においてかつてなかったものです(ヨハネ1:1, 14.エペソ3:16-19.啓21:2, 9-10)」。

 

 主よ、あなたは肉体と成り、人の生活、死、復活、昇天を経過して、命を与える霊と成ったことを感謝します。わたしたちが苦難の中で、主を恵みとして享受することができますように。

 

 

苦難の中で主を恵みとして享受する

 

 人はイエス・キリストの中へと信じる必要があります。彼は肉体と成った神であり、彼らのために、彼らと共に人の生活をし、死んで、復活し、昇天しました。また主は命を与える霊と成って、彼らに対して霊なるキリストと成り、彼らの救い、命、すべてとなりました(マタイによる福音書からローマ人への手紙において啓示されています)。

 神は来て人の処女の胎に入り、彼女から生まれて人と成り、こうして神性を人性の中へともたらし、神と人はミングリングされて一つの実体となりました(レビ2:4-5.ヨハネ1:1, 14.マタイ1:20, 23.Ⅰテモテ3:16)。

 

 イエスは生活の中で、すべてのことを神の中で、神と共に、神のために行ないました。神は彼の生活の中におり、彼は神と一でした。彼は人の生活の中で、わたしたちが彼の足跡をたどり、また踏み従うことによってコピーすることができるように、一つの手本として、… 彼の苦難の生涯を置かれました。これは単に主と主の生活を模倣することではなく、彼の複製を言っており、それは苦難の中で彼を恵みとして享受することから来ます。それによって内住する霊としての彼ご自身は、彼の命の豊富すべてをもって、わたしたちの中でご自身を複製します(エペソ4:20-21.Ⅰペテロ2:21)。(ヨブ記、箴言、伝道の書 結晶の学び(3) アウトライン)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第17日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第7週3日)

 

谷川を慕いあえぐ鹿のように神を追い求める

 

ヨブ1:5

こうして、宴席の日が一巡するごとに、ヨブは……朝早く起き、彼らすべての数にしたがって全焼のささげ物をささげた.

 

詩42:1

神よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、わたしの魂はあなたを慕いあえぎます。

 

 「神の選ばれ贖われた人は、ヨブが行なったように、完全さ、正しさ、高潔さなどの人性の美徳の中で自分自身を建て上げる必要はなく、慕いあえぐ鹿のように神を追い求め、神の祭りで神の民と共に神を享受する必要があります(詩42:1-5.43:3-5)。それは、神が人のすべてとなり、人が到達し獲得したすべてと置き換わることができるためです」。(ヨブ10:13.参照、エペソ3:9)。

 

 主よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、あなたを慕い求めることができますように。神の祭りである召会の中で、兄弟姉妹と共に主を享受することができますように。

 

 

神をキリストにある分け前として享受する

 

 神がヨブに現れたことでの意図を理解するためには、聖書全体、特に新約聖書を必要とします。神がご自身をヨブに与えられるのは、簡単な事柄ではありませんでした。これは、キリストの肉体と成ることに始まり、彼の人の生活、十字架上でのすべてを含む死、復活、昇天を含む長い過程とかかわりがありました。ヨブは神聖な啓示の原始の段階にいたので、神はこれらすべての事について、彼に語ることができませんでした。ヨブがそれらを理解することは不可能でした。これらすべての事柄は、その二千年後に新約ではっきりと定義され、記録されました。今日でさえ、多くの信者たちは、これらの事について正しい理解を持っていません。

 

 ヨブ記の最後で、結局、神が入って来られたことは、ヨブが彼の人生において欠けていたのは神ご自身であったことを示しています。… それは、彼が神をキリストにある彼の分け前として享受するためです。そのような啓示は、新約においてのみ完全に見いだされることができます。(ヨブ記ライフスタディ、第33、34編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第16日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第7週2日)

 

キリストは全焼のささげ物の実際です

 

創4:4

また、アベルも彼の羊の群れの初子から、すなわち、その脂肪の部分からささげ物を持って来た。エホバは、アベルと彼のささげ物に目をとめられた。

 

創22:18

あなたの子孫の中で、地のすべての諸国民は祝福される.あなたがわたしの声に従ったからである。

 

 「神は全焼のささげ物のゆえに人に目をとめ、人を喜んで受け入れました。キリストは全焼のささげ物の実際として、絶対的に神のためであり神を満足させる生活をし、神に対する満足させるかおりとして神を喜ばせ、歓喜させました(創4:4.8:20-22.レビ1:9.イザヤ42:1.マタイ3:17.17:5.12:18)」。

 

 主よ、わたしたちが日ごとに、キリストを幕屋、祭司、ささげ物の実際として経験し、享受することができますように。今日、わたしたちがキリストと共に、キリストの中で、神であるすべてを享受することができることを感謝します。

 

 

キリストを幕屋、祭司、ささげ物として享受する

 

 神によって選ばれた人として、わたしたち、アブラハムの子孫、神によって選ばれた種族は、神の召しを受け、召しに応じて(創12:1-4)、わたしたちの全焼のささげ物としてのキリストを通して神の御前で生き(創12:7.13:18.22:13)、律法によって暴露される必要があります。それによってわたしたちは自分が罪深く、律法を守る能力がないことを知り(出19:8、21-20:21)、キリストを幕屋、祭司、ささげ物として取ることによって神と共に生き、神の中へと入って、キリストと共に、キリストの中で、神であるすべてを享受します(出エジプト第25章―レビ第27章)。

 

 ヨブの遊牧生活の方法と(ヨブ1:3)、彼が自分の子供たちのために全焼のささげ物をささげた方法によれば、この書はアブラハム、イサク、ヤコブの時代(ヨブ1:5.創22:13.31:54)、紀元前約2000年に書かれていたはずです。これは、モーセがモーセ五書を書いた五百年前に、ヨブ記が書かれたことを意味します。(ヨブ記ライフスタディ、第35、1編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第15日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(3) 第7週1日)

 

キリストの中にある新創造

 

Ⅱコリント5:17

ですから、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去りました.見よ、それらは新しくなりました。

 

ガラテヤ6:15

割礼も無割礼も重要ではありません.重要なのはただ新創造です。

 

 「旧約において、神は人と共に、人の間で行動しました。神が人と共に、人の間で行動したのは、キリストと召会のために神の永遠のエコノミーを遂行する直接的な行動ではなく、彼の旧創造における間接的な行動であって、それは彼の新創造における永遠のエコノミーのための直接の行動を準備するためでした(Ⅱコリント5:17.ガラテヤ6:15)」。

 

 主よ、新約時代になって、神が人の中へと入り、人の中で行動されることを感謝します。主よ、キリストの中にある新創造を知り、経験することができますように。

 

 

新約は、神が人の中へと入り、人の中で行動する

 

 旧約において、神は人と共に、人の間で行動しましたが、決して人の中では行動されませんでした。

  新約の時代になってはじめて、神は来てこの地上において人の中で行動されました。新約時代における神の行動の第一歩は、人の中へと入ることでした。神は明確な第一歩を踏んで人の中へと入られ、これは新約を通しての人の中での神の行動の基礎を据えました。神は人の処女の胎の中へと入ってそこに九か月間とどまり、その処女から生まれました。

 

 新約時代が来たとき、神の方法全体が変わりました。彼は旧約では絶えず人と共に、また人の間で働いておられましたが、それは人の外側においてでした。……新約は、神が人の中へと入られたという一つの事実において、旧約と異なります。神は人から生まれました。マタイによる福音書第1章20節は、マリアの中に生まれたのは聖霊からであったと言います。神はマリアの中で生まれました。ある日、神は彼の神性を伴って永遠から出て来て人の処女の胎の中へと入り、そこで生まれました。……

 新約で神が行なわれたことはおもに、人の中ででした。「の中」という小さな前置詞は、新約聖書において最も大きな言葉と考えられてよいでしょう。もしあなたがこの前置詞を取り去るなら、新約聖書は空虚なものになるでしょう。(人の中の神の動き、メッセージ1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第13日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第6週6日)

 

恵みは、おもに患難の形で訪れます

       

Ⅱコリント4:1

こういうわけで、わたしたちはあわれみを得て、この務めを受けたのですから、落胆しません。

 

ローマ5:3-4

それだけではなく、わたしたちは患難の中でも勝ち誇るのです.それは、患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は望みを生み出すことを知っているからです。

 

 「務めは、啓示に苦難が加えられて生み出されるものです。わたしたちが見るものは、苦難を通してわたしたちの中へと造り込まれます。このゆえに、わたしたちが供給するものは、わたしたちであるものです。患難は、キリストのすべての豊富を伴った恵みの甘い訪れと化身です。恵みは、おもに患難の形でわたしたちに訪れます(Ⅱコリント12:7-10)。

 

 主よ、わたしたちは患難に会うときに、患難から逃れることを祈ってきました。しかし今、患難の中で、恵みの訪れとして主の豊富にあずかり、主を経験することができますように。主の恵みが豊かにありますように。

 

 

務めは、啓示に苦難が加えられて生み出される

 

 務めは、啓示に苦難が加えられて生み出されるものです。人に啓示がなければ、……何も供給するものがありません。人に啓示があったとしても、もし苦難に欠けるなら、依然として務めがありません。……務めは[教えよりも]さらに高く、さらに深いものです。賜物は表面的で、価値は低いですが、務めは重みがあって、価値は高いです。あなたがもし神から啓示を受けたのでしたら、彼はあなたを苦難の中に置いて、あなたが務めを持つようにされます。

 

 わたしたちは使徒パウロの文書から、彼が苦難に耐える前に、啓示を受けたことを見ます。彼は啓示を受けた時、直ちに出ていって、それを教えや知識として人に伝えたのではありませんでした。このようにするのは務めではなく、それは一種の教えや賜物の実行でした。ところが啓示を受けた後、主は彼をある苦難の中へと入れられました。ですから、彼のすべての書簡には、この順序があります。第一に啓示、第二に苦難、第三に最初の二つから出てきた務めです。啓示を受けるのは一つのことです。その啓示をわたしたちの中へと造り込むのは、別のことです。(今の時代における神聖な啓示の先見者―ウオッチマン・ニー、第22章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第12日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第6週5日)

 

内なる人は、日ごとに新しくされていきます

 

Ⅱコリント4:10

絶えずこの体に、イエスの致死力が働いています.それはまた、イエスの命が、わたしたちの体に現されるためです。

 

Ⅱコリント4:16

こういうわけで、わたしたちは落胆しません.それどころか、わたしたちの外なる人が朽ちていっても、わたしたちの内なる人は、日ごとに新しくされていきます。

 

 「造り変えは、わたしたちを一つのかたち、すなわち古い人のかたちから、別のかたち、すなわち新しい人のかたちへと移します。主は、キリストの死の殺すことによってこの造り変えの働きを完成します(Ⅱコリント4:10-12,16-18)。

 

 主よ、わたしたちが内住する霊と殺す武器である環境によって、日ごとにキリストの死を経験できますように。主よ、わたしたちの内なる人が、日ごとに新しくされていきますように。

 

 

キリストの死が、すべてを含む複合の霊の中に含まれている

 

 わたしたちは、彼の死が、すべてを含む複合の霊の中に含まれていることを忘れてはなりません。……これは出エジプト記第30章23節から25節の複合の膏油によって予表されています。この複合の霊は神をベースとしており、これは一ヒンのオリブ油によって予表されています。この油に、四つの香料、すなわち没薬、肉桂、におい菖蒲、桂枝が複合されています。これらの香料は、キリストの死と復活の要素を予表します。さらに、四という数は創造された人を象徴します。こういうわけで、塗り油によって予表されるその霊は、神と人との複合です。神・人イエスには彼の死と復活の要素が複合されています。……

 

 神の神聖な、主権ある案配の下で、わたしたちのすべての環境は殺すことです。……妻、夫、子供、兄弟、わたしたちの環境にあるすべてはわたしたちを殺すナイフとして主によって用いられます。十字架の殺すこと、キリストの死の殺すことは、復活へともたらします。わたしたちに、苦しみ、殺される気持ちがあれば、わたしたちはキリストを生き、キリストを大きく表現し、キリストがわたしたちの中で現し出されます。そしてわたしたちは造り変えられます。わたしたちはキリストの死の殺すことの下で彼を享受します。(クリスチャン生活、第14章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第11日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第6週4日)

 

神を見て、神を獲得し、造り変えられる

 

Ⅱコリント3:16-18

……彼らの心が主に向く時はいつも、そのおおいは取り除かれます。そして主はその霊です.そして主の霊のあるところには、自由があります。しかし、わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです。

 

 「三部分から成る人の造り変えは、神の行動であって、人を神化し、手順を経て究極的に完成された三一の神をもって人を構成します。神がヨブに現れた時、ヨブは神を見て、神を獲得し、神の目的のために神によって造り変えられました(ヨブ38:1-3.42:1-6.Ⅱコリント3:16-18.ヘブル12:1-2前半)。

 

 主よ、わたしたちの心がいつも主に向かいますように。そして、わたしたちがおおいのない顔をもって、究極的に完成された霊としての主を見ることができますように。

 

 

究極的に完成された霊としての主を見つめる

 

 神を見ることの結果は、わたしたちの存在を神のかたちへと造り変えることです。このゆえに、わたしたちは霊の中で、究極的に完成された霊としての彼を見つめれば見つめるほど、ますます彼のすべての成分を神聖な要素としてわたしたちの存在の中へと受け入れて、わたしたちの古い要素が排出されて、わたしたちの全存在は新しくなります。わたしたちのクリスチャン生活は、外側で変えられる事柄ではなく、内側から造り変えられる事柄です(Ⅱコリント3:18.詩27:4.ガラテヤ6:15-16)。(ヨブ記、箴言、伝道の書、結晶の学び、アウトライン)

 

 コリント人への第二の手紙第3章18節は……「鏡のように……反映して」という句を含みます。… わたしたちがそのおおいを取り除いてはじめて、わたしたちの顔と光は向き合うことができます。その時、わたしたちは光を見ることができます。これは鏡が映すことに似ています。なぜなら、その霊はわたしたちの中におられ、わたしたちは自由を持ち、わたしたちの顔は主に対しておおいが取り去られているからです。わたしたちは主と顔と顔を合わせています。主の栄光がわたしたちの顔の上に輝きます。わたしたちは鏡のように主の栄光を反映します。(クリスチャンが命において円熟する道、第12章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第10日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第6週3日)

 

人の綱、愛のきずなでわたしたちを引いた

 

ホセア11:4

わたしは人の綱、愛のきずなで彼らを引いた・・・・・

 

ローマ8:38-39

なぜなら、死も、命も、…… 現在の事柄も、来たるべき事柄も、力も、高いものも、深いものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにある神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない……。

 

 「神はこれらの造り変えについてホセア書第11章4節で語って、「わたしは人の綱、愛のきずなで彼らを引いた」と言っています。… 神の愛は神聖なものですが、それがわたしたちに届くのは、人の綱において、すなわち、キリストの人性を通してです」。

 

 主よ、あなたの愛がわたしたちに届き、わたしたちを引き寄せてくださったことを感謝します。わたしたちを愛してくださった、「人の綱」、「愛のきずな」を感謝します。主よ、さらにあなたを愛させてください。

 

 

キリストの人性における愛が人に届きます

 

 「人の綱、愛のきずなで」という句が示していることは、神がわたしたちを彼の神聖な愛で愛するのは、神性の水準においてではなく、人性の水準においてであるということです。神の愛は神聖なものですが、それがわたしたちに届くのは、人の綱において、すなわち、キリストの人性を通してです。神がわたしたちを引く綱は、キリストの肉体と成ること、人の生活、十字架、復活、昇天を含んでいます。キリストの人性におけるこれらすべての段階によって、神の救いにおける愛はわたしたちに届きます(ローマ5:8.Ⅰヨハネ4:9-10)。キリストの中にいなければ、神の永遠に続く愛、すなわち、彼の変わることのない、人を征服する愛は、わたしたちの上で勝利を得ることができません。神の変わることのない愛が勝利を得ることができるのは、この愛がキリストの中にあり、キリストと共にあり、キリストによってであり、キリストのためであるからです。(ホセア11:4、フットノート1)

 

 わたしたちに対する神の変わることのない愛と、キリストがわたしたちのためにすべてを成就されたことのゆえに、患難も迫害も、わたしたちを圧迫し、打ち勝つことはできません。むしろ、これらすべての事柄において、わたしたちを愛してくださった方を通して、わたしたちは勝ち得て余りがあります。(ローマ8:37、フットノート1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第9日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第6週2日)

 

すべてを含む造り変えは、人の中での神の行動です

 

ヨハネ1:14

そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた。……

 

ローマ8:29

……神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです。

 

 永遠であり三一である神が人と成って経過した、最も驚くべき、卓越した、奥義的な、すべてを含む造り変えは、人の中での神の行動であり、神の永遠のエコノミーを完成します(ミカ5:2.ヨハネ1:14,29.3:14.12:24.使徒13:33.Ⅰペテロ1:3.Ⅰコリント15:45後半.使徒2:36.5:31.ヘブル4:14.9:15.7:22.8:2)。

 

 三一の神が人と成って、神性を人性の中へともたらしてくださったことを感謝します。わたしたちの造り変えは、人の中での神の行動です。主よ、わたしたちをさらに造り変えてください。

 

 

キリストは、すべての肢体の中におられます

 

 三一の神は、神・人と成って、神性を人性の中へともたらし、神性と人性をミングリングして、原型となり、多くの神・人を大量に複製します。彼は三一の神の具体化となり(ヨハネ1:14)、神を人にもたらし、神を、接触することのできる、触れることのできる、受け入れることのできる、経験することのできる、入ることのできる、享受することのできるものとされました。… 主イエスの死は単にすべてを含む死だけではありませんでした。それは……すべての問題を解決する死でした。……

 

 すべてを征服する復活において、主は三つの主要なことを達成されました。第一に、主は彼の人性を引き上げ、神の長子として神から生まれました(使徒13:33.ローマ8:29)。第二に、…… 彼の多くの兄弟たちとしての神の多くの子たちとなりました(Ⅰペテロ1:3.ローマ8:29)。彼は長子として生まれ、神の多くの子たちとなりました。…… 新しい人の中でキリストはすべての肢体であり、すべての肢体の中におられます[コロサイ3:10後半-11]。…… 第三に、キリストは最後のアダムとして、手順を経て究極的に完成された三一の神の究極的完成としての、命を与える霊、霊なるキリスト、すべてを含む、複合の霊となられました(ローマ人への手紙における結晶(1)、メッセージ17)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第8日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第6週1日)

 

神は永遠にわたしの分け前です

 

詩73:26

わたしの肉と心は衰えますが、神は永遠にわたしの心の岩、わたしの分け前です。

 

 「神の聖なる民を対処する神の目的は、彼らがすべてを空にされて、神だけを彼らの獲得として受け入れることです(ピリピ3:8.参照、詩73:25-26)。神の心の願いは、わたしたちが神を命として、命の供給として、わたしたちの存在のすべてとして、完全に獲得することです(ローマ8:10,6,11.参照、コロサイ1:17後半,18後半)」。

 

 主よ、あなたが永遠に変わらないわたしたちの分け前であることを感謝します。主よ、わたしたちが神ご自身を享受することから、そらされないように守ってください。

 

 

神ご自身を享受することからそらされない

 

 神の聖なる所において、詩篇の作者は教えられて、神以外の何ものでもなく、神ご自身だけを彼の分け前としました。神を顧慮していない者は、多くのものを獲得するかもしれず、繁栄しているように見えるかもしれません。しかしながら、神を顧慮する者は、神によって制限され、さらには神によって多くのものをはぎ取られるでしょう。それはヨブ(ヨブ1:6-2:10)と、使徒パウロ(ピリピ3:7-8)の事例にあるようにです。神を追い求める者たちに対する彼の意図は、彼らが彼の中にあらゆるものを見いだして、絶対的に神ご自身を享受することからそらされないようにすることです。それは詩篇第1篇にあるように律法を守る事柄、あるいは正しいか間違っているかの事柄ではなく、神を獲得し、神をすべてとして保つ事柄です。(詩73:26、フットノート1)

 

 ヨブ記は神聖な啓示の進展の初期に書かれ……神の民を対処する神の目的の明確な啓示を含んでいません。この啓示はヨブにではなく、パウロに与えられました。パウロの書簡で明らかにされているように、わたしたちを対処する神の目的は、わたしたちからすべてのものをはぎ取り、わたしたちを消耗させることです。それは、わたしたちがさらに多く神を獲得するためです(ピリピ3:8.Ⅱコリント4:16)。(ヨブ1:1、フットノート1)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第6日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第5週6日)

 

十字架につけられて生きる生活

 

ヨハネ3:6

… その霊から生まれるのは霊である。

 

Ⅱコリント3:18

しかし、わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです。

 

 「主の神・人の生活は、わたしたちの神・人の生活のための模範を設立しました。それは十字架につけられて生き、神を人性の中で表現することです(ガラテヤ2:20)。わたしたちは自分自身を否み、彼の霊の満ちあふれる供給によってキリストの死に同形化され、彼を大きく表現する必要があります(マタイ16:24.ピリピ3:10.1:19-21前半)」。

 

 主の神・人の生活の模範を感謝します。わたしたちも主イエスの満ちあふれる供給によって、十字架につけられて生きる生活をすることができますように。

 

 

神性の栄光と人性の美徳を生かし出す

 

 わたしたちの主は神と人の両方です。この世のすべての伝記で、新約聖書の四福音書に記録された主イエスのような伝記は一つもありません。この福音書を読むと、わたしたちは彼の神性に驚嘆するだけでなく、さらにいっそう彼の人性の美徳に感動し、引き付けられます。彼の振る舞い、彼の態度、彼が人を取り扱われた方法は、あまりにもすばらしいのです。彼の人性は比較するものがありません。彼を賛美します! 

 

 このような神・人は、わたしたちに内住することを喜ばれます。彼は、肉体と成ること、死、復活を経過して命を与える霊と成られました。…… いったん、わたしたちが主の御名を呼び求めて、彼を救い主として受け入れるなら、彼はわたしたちの中に入り、それによってわたしたちは彼との有機的結合を持ちます。わたしたちは自分自身を彼に開き、主を愛し、主と結合されて一となることを願うとき、日ごとに主によって満たされ、所有されます。このようにして、わたしたちが生かし出すものは、神性の栄光と人性の美徳です。これは何と栄光に満ちた、すばらしい、甘美な命でしょう!(キリストのすばらしい存在、第1章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第5日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第5週5日)

 

主イエスは、一粒の麦として死んで、多くの神・人を生み出す

 

ヨハネ12:24

まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである.しかし、それが死んだなら、多くの実を結ぶ。

  

 「神・人である主イエスは、一粒の麦であって地に落ちて、彼の複製としての多くの粒を生み出しました(ヨハネ12:24)。多くの粒は、多くの神・人として、神の複製です。そのような複製は神を喜ばせます。なぜなら、彼の複製は彼のように見え、彼のように語り、彼のように生きるからです(Ⅰヨハネ2:6.3:2.4:17後半)」。

 

 主よ、あなたは一粒の麦として死んで、復活を通して多くの神・人を生み出しました。主よ、わたしたちが神の命と性質を持っている神・人であることを認識させてください。

 

 

自分が神・人であることを認識する

 

 わたしは1994年2月まで、わたしたちはみな神格においてではなく、命と性質において神であると、強い負担をもって神の民に告げる明確な展望を持っていませんでした。わたしたちが自分がだれであるかを知り、認識することは、わたしたちを大変革します。仮に、さそりのように生きてきたある兄弟が、神の子供として、自分は命と性質において神であることを認識するとします。直ちにこの兄弟は、根本的に変わるでしょう。彼に関する雰囲気もすべての事もまた変わるでしょう。もし今日のクリスチャンがみな、自分は命と性質において神であることを認識すれば、全世界が異なるでしょう。

 

 過去十か月の間、わたしはしばしば自らに確認してきました、「神・人とはこのようであろうか? あなたは、信者たちが命と性質において神になったと語ってきたが、今あなたは何であるのか? あなたは神であるのか、それとも別のものであるのか?」。わたしの答えは、悔い改めて主の赦しを求めることでした。なぜなら、少なくとも自分が行なったことのいくつかは、彼の中になく、彼にしたがっていなかったからです。この認識は、わたしに大変革をもたらしました。(歴代志上、下ライフスタディ、メッセージ2)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第4日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第5週4日)

 

自分を否む神・人の生活

 

ヨハネ5:19

… 子は、父が行なわれることを見ないでは、自分から何もすることができない.父が行なわれることは何であれ、子も同じように行なう。

 

ヨハネ14:10

わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか?……

 

 「主は地上でのすべての日々において、自分を否み、十字架を取りました。それは彼が神を生き、神聖な属性が人性の美徳となることにおいて神を表現するためでした。これは原型としての最初の神・人の生活でした(ルカ1:31-32前半.7:11-16.10:25-37.13:10-16.ローマ8:3,29)」。

 

 主よ、あなたは地上にいたとき、神によって生きられました。わたしたちも自分を否み、十字架にとどまって、あなたによって生きることができますように。

 

 

十字架にとどまり、神によって生きる

 

 [神が肉体と成ること]は神・人を生み出し、この神・人は彼の人の命によってではなく、彼の神聖な命によって地上で生きました。彼は地上にいたすべての日々において、自分を十字架の上に置きました。彼が死ぬために十字架にとどまったのは、神によって生きることができるためでした。それは彼が人を表現せず、彼の神聖な属性が人の美徳となることによって神を表現するためでした。これが原型としての最初の神・人の生活でした。今日わたしたちは彼の複製、多くのコピーです。ですから、わたしたちは同じ種類の生活をすべきです。……

 

 キリストは地上で常に十字架の下にいて、自分ではなく御父を表現しました。ある日、ピリポが主に尋ねました、「主よ、わたしたちに父を見せてください.……」(ヨハネ14:8)。主は答えました、「わたしがこんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか? わたしを見た者は父を見たのである……」(9節)。弟子たちは主イエスを見ましたが、主を見た時、御父を見たのです。これは彼が御父の表現であったことを見せています。(聖書における神聖な啓示の高嶺にしたがった実行的な道、第2章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第3日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第5週3日)

 

主イエスは、神・人として生まれました

 

ルカ1:35

御使いは彼女に……言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆うでしょう.それゆえ、生まれる聖なるものは、神の子と呼ばれます。

 

 「キリスト(三一の神の具体化また表現)の肉体と成ることは、一人の神・人を生み出しました(ルカ1:31-32前半.ヨハネ1:1,14,18,51)。主イエスは、神聖な本質から胎に入り、人の本質から生まれたので、神・人として生まれました。このゆえに、彼は神・人として、二つの本質、すなわち神聖な本質と人の本質を持っていました(マタイ1:18)」。

 

 主よ、あなたは神・人として生まれ、神・人として生活されました。そして、今、生きているのはもはやわたしではなく、キリストがわたしの中に生きておられます。ハレルヤ!

 

 

キリストがわたしの中に生きておられる

 

 主イエスの中には、人と神、神と人とがミングリングされていて、神聖な属性と人性の美徳に満ち満ちた構成が形成されています。……

 今日、わたしたちの中に生きておられるキリストは、依然として神聖な属性によって強められ、豊かにされた人性の美徳を所有している方です。わたしたちの中へと分与されているキリストは、神聖な属性を伴う神聖な性質と、人性の美徳を伴う人の性質とで構成されています。

 

 主イエスは地上におられた時、これら二つのものから成る生活をされたのです。彼は復活した時から、彼が地上で生きられたような生活を信者の中で生きることを求めておられます。これは、今日キリストはわたしたちの中で、依然として神聖な属性を伴う神聖な性質と、人性の美徳を伴う人の性質とから成る生活をしておられるということです。もしこのことを見るなら、わたしたちもパウロと共に「生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言うことでしょう。(新約の結論(4)、メッセージ61)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第2日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第5週2日)

 

神を表現し、神の統治権をもって神を代行する

 

創1:26

それから、神は言われた、「われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう.そして彼らに、海の魚と空の鳥と家畜と全地と地を這うすべての這うものを治めさせよう」。

 

Ⅱテモテ3:17

それは、神の人があらゆる良いわざのために十分に装備されて、完全な者になるためです。

 

 「神がご自身のかたちにわたしたちを創造したのは、神を表現し、神の統治権をもって神を代行するという目的のためでした(創1:26-28)。神を表現し神を代行するのは、良い人ではなく、神・人です(Ⅱコリント3:18)。神を表現する神・人は、神の代理であり、万物に対して神の権威を持っています(創1:27-28)。

 

 主よ、あなたはわたしの命、聖さ、愛、わたしのすべてです。神を表現する神・人となることのビジョンをさらに与えてください。主よ、わたしたちが神・人として、神で満たされ、神を表現し、神を代行することができますように。

 

 

神を表現する神・人は、神の代理です

 

 あなたが単に良い人であるだけなら、決して神の表現になることはできません。神がご自身のかたちに人を造ったのは、神を表現するという目的のためでした。わたしたちは神で満たされる神・人となるとき、神を表現します。神・人は神の表現です。

 

 そのような神を表現する神・人は、神の代理であり、神を代行し、万物に対して神の権威を持っています。神がご自身のかたちに人を創造したのは、神を表現させるためであり、神の統治権を人に与えたのは、人が神のために治めるためでした(創1:26)。神を表現し神を代行するのは、良い人ではなく、神・人です。神のかたちは、わたしたちが神を表現するためであり、神の統治権は、わたしたちが神を代行するためです。わたしたちは霊の中に神ご自身を持っており、わたしたちは神・人として、神で満たされ、神に満ち満ちて、神を表現し、神を代行することができます。これは神聖なエコノミーにしたがって、神ご自身をわたしたちの中へと分与することです。(神聖なエコノミー、第2章)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り 第1日

(朝ごとの食物  ヨブ記、箴言、結晶の学び(2) 第5週1日)

 

良い人ヨブは神に欠けていた

 

創1:26

それから、神は言われた、「われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう……」。

 

ヨブ2:3

「おまえはわたしのしもべヨブを心にとめたか?……なおも彼は自分の高潔さを堅く保っている」。

 

 「ヨブは良い人であり、自分自身の完全さ、正しさ、高潔さを表現しました(ヨブ27:5.31:6.32:1)。神の意図は、ヨブを神の人とならせ、神の具体化であるキリストで満たし、神の豊満とならせて、キリストの中で神を表現させることでした(Ⅰテモテ6:11.Ⅱテモテ3:17)」。

 

 人が神のかたちに、神の姿にしたがって創造されたのは、神を表現するためです。主よ、わたしたちが高潔な良い人になるのではなく、神・人となって神を表現することができますように。

 

 

わたしたちを神・人とならせる

 

 倫理的に言えば、ヨブはとても良かったのです。人の目によれば、ヨブには何の問題もありませんでした。神は、ヨブがいかに良いかについて、サタンに誇りさえしました(ヨブ31:8.2:3)。神だけが、ヨブに必要があること、ヨブが神に欠けていることを知っておられました。……

 

 神の意図は、わたしたちを取り壊し、わたしたちの命と性質としてのご自身をもってわたしたちを再建し、わたしたちが完全に彼と一である人となることです。

 神のはぎ取ることと消耗させることは、ヨブの上で行使されて、ヨブを取り壊しました。それは、神が基礎と道を得て、神ご自身をもってヨブを再建し、ヨブを神・人とならせるためです。(ヨブ記ライフスタディ、第2、3、5編)

 

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)