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神・人ー主イエス

「わたしもあなたを罪に定めない」

2024年3月31日(日)午後1時半~2時半

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3月の祈り第28日

(年二回の訓練12月 第6週4日)

 

神聖な原則は  神と共に享受を持ってから、主と共に働きます

 

出31:17

それは、永遠にわたしとイスラエルの子たちとの間のしるしである.それは、六日の間にエホバが天と地を造り、七日目に安息し憩われたからである。

 

Ⅰコリント15:10

しかし、神の恵みによって、今のわたしがあるのです.……わたしは彼らのだれよりも多く労苦してきました.しかし、それはわたしではなく、わたしと共にある神の恵みです。

 

「出エジプト記第31章12節から17節が啓示しているのは、安息日が幕屋の建造の命令の後にあるということです。[安息日と幕屋を建造する働きとの関係](出31:13フットノート1 を参照)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、神の恵みによって今のわたしがあることを感謝します。主よ、まず神と共に安息し、神を享受し、神で満たされ 、神と一にならせてください。その後、わたしたちが神と共に働き、召会を建造することができますように。

 

 

わたしたちが帯びるしるしとは、まず神と共に安息し、神を享受し満たす方と一になって、彼と共に働くことです

 

 わたしたちが享受を得るまで、神がわたしたちに働くことを求めないのは、神聖な原則です。神はまずわたしたちを、享受をもって供給されます。……もしわたしたちが、どのように神と共に享受を持つか、どのように神ご自身を享受するかを知らないなら、どのように彼と共に働くかを知りません。わたしたちは神の神聖な働きの中で、どのように神と一であるかを知りません。(「出エジプト記ライフスタディ(8)」、第172編)

 

 わたしたちは神の民として、一つのしるしを帯びているべきです。そのしるしとは、わたしたちは神にわたしたちの力、活力、すべてとなっていただく必要があり、それによって、わたしたちは彼と共に働いて、キリストのからだとしての召会を建造することができるというものです。これは彼を尊び、彼に栄光を帰します(Ⅰコリント15:10,58)。わたしたちが帯びるしるしとは、わたしたちがまず神と共に安息し、神を享受し、神のゆえに憩い、神で満たされ、それからわたしたちを満たす方と一になって、彼と共に働くというものです。これは神との永遠の契約、永遠の合意です。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第27日

(年二回の訓練12月 第6週3日)

 

主のくびきを負い、主から学んで、わたしたちは魂に安息を見いだします

 

マタイ11:28-30

すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。わたしは心の柔和なへりくだった者であるから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい.そうすれば、あなたがたは魂に安息を見いだす。なぜなら、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

「わたしたちは、マタイ第11章28節から30節における主の言葉に注意を払う必要があります。『すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える』。主のくびきを負うとは、御父のみこころを取ることです。それは、律法や宗教のどんな義務によって規制されたり制御されたりすることではなく、」御父のみこころによって拘束されることです」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたは 安息を与える方であることを感謝します。主よ、わたしたちが何事にも思い煩うことなく、わたしたちのすべての要望を主に告げることができますように。そして、主のくびきを負い、御父のみこころを取ることができますように。

 

 

神のエコノミーにおけるあらゆることは、重荷ではなく享受です

 

 主は心の柔和なへりくだった者であるので、彼のくびきを負い、彼から学ぶよう弟子たちに命じられました。そうすれば、彼らは魂に安息を見いだします(マタイ11:29)。柔和であるとは反対に抵抗しないことを意味し、へりくだるとは、自己を高く考えないことを意味します。主からの安息はわたしたちの魂のためです。それは内側の安息であって、単なる性質における外側のものではありません。苦しみや悩みは魂の中にあります。

 

 パウロは、何事にも思い煩うことなく、わたしたちのすべての要望を主に告げるようにと告げています。そうすれば神の平安が、わたしたちの心と思考を、キリスト・イエスの中で護衛してくださいます(ピリピ4:6-7)。神のエコノミーにおけるあらゆることは、重荷ではなく享受です。(リー全集、1994年-1997年、第3巻(下)、「神・人の生活」、第12編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)

3月の祈り第26日

(年二回の訓練12月 第6週2日)

 

安息日の安息が、神の民のために、まだ残されています

 

申12:9

あなたがたは今に至るまで、エホバ・あなたの神があなたに与えようとしておられる安息と嗣業に入っていないからである。

 

ヘブル4:8-9

もしヨシュアが彼らを安息にもたらしていたなら、これらの事柄の後に、神は別の日について、語られはしませんでした。こういうわけで、ある安息日の安息が、神の民のために、まだ残されているのです。

 

「安息日の安息は、わたしたちの安息としてのキリストであり、カナンの良き地によって予表されています(申12:9.ヘブル3:7―4:13)。キリストは三つの段階で、聖徒たちの安息です。召会時代では、天のキリスト、天で神の右に座している方は、わたしたちの霊の中でわたしたちの安息です(マタイ11:28-29)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 召会時代において、天のキリストは、わたしたちの霊の中でわたしたちの安息です。今の召会時代において、わたしたちが努め励んで主を追い求める者たちとなり、満ち満ちた方法で主を享受し、勝利を得ることができますように。

 

 

最初の二つの段階の安息は、努め励んで主を追い求める者たちへの賞です

 

 ヘブル人への手紙第4章9節の安息日の安息は、わたしたちの安息としてのキリストであり、カナンの良き地によって予表されています(申12:9、ヘブル4:8)。キリストは三つの段階で、わたしたちの安息です。

 

① 召会時代では、天のキリストとしての彼、すなわち、ご自身の働きから安息して、天で神の右に座しておられる方は、わたしたちの霊の中でわたしたちの安息です(マタイ11:28-29)。

 

② 千年王国では、サタンが地上から除き去された後(啓20:1-3)、キリストと勝利を得た聖徒たちによって、神は表現され、代行され、満足されます。王国を伴うキリストは、勝利を得た聖徒たちのさらに満ち満ちた安息となります。彼らはキリストと共に共同の王となって(4,6節)、彼の安息にあずかり、享受します。 

 

③ 新しい天と新しい地では、すべての敵が、最後の敵である死を含めて、キリストに征服させられた後(Ⅰコリント15:24-27)、神は完全に表現され、代行され、キリストにある贖われたすべての者によって満足されるでしょう。その時キリストは、すべてを征服する方として、神の贖われたすべての民の最も満ち満ちた安息となられ、永遠に至ります。 (「ヘブル人への手紙ライフスタディ(2)」、第18編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第25日

(年二回の訓練12月 第6週1日)

 

地上で人が神を表現し神を代行するとき  神にとって安息日の安息です

 

創1:26

……われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう.そして彼らに、海の魚と空の鳥と家畜と全地と地を這うすべての這うものを治めさせよう。

 

創2:2

第七日に、神は行なっていた彼の働きを終えられた.そして第七日に、神は行なっていたすべての働きから安息された。

 

「ヘブル人への手紙の中にある安息日の安息の正しい理解を持つには、聖書の中で最初に述べられている安息日の安息の意義を知る必要があります(創2:2-3)。神は第七日に安息しました。なぜなら、彼は彼の働きを終え、満足したからです。 地上で人が神を表現し神を代行するという状況があるとき、その状況は神にとって安息日の安息です。安息日の安息とは、神の心の願いにおいて神が満足を得ることです(創1:26-28.ヘブル2:6-8前半)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。 神は人を創造した後、満足し、安息することができました。人は創造された後、神の働きに加わったのではなく、神の安息へ入りました。主よ、わたしたちが自分のすべての働きを止めて、まず神と神が達成されたすべてを享受することができますように。

 

 

安息日の安息とは、神の心の願いにおいて神が満足を得ることです

 

 安息日の安息の正しい理解を持つには、聖書の中でそれについて最初に述べていることを考察する必要があります。聖書が安息日を最初に述べているのは、人の創造の後です(創2:2-3)。もし人が六日目に創造されなかったなら、他のあらゆるものが創造されたにもかかわらず、神は七日目に安息することができなかったでしょう。神を安息させたのは、働きの完了ではなく、人の創造でした。神は人を創造した後、満足し、安息することができました。

 

 二日目を除いて、創造のすべての日に、神は彼のわざを見て、「良かった」と言われました。しかし、六日目の終わりに、人が創造された後、神はご自身が造ったすべてのものを見られて、「非常に良かった」と言われました(1:31)。神が「非常に良かった」と言われたのは、神が満足されたことを意味しました。六日目の終わりに、神を表現するよう神のかたちに造られ、神を代行するよう神の権威を託された人を見て、神は満足し、「非常に良かった」と言われたのです。(「ヘブル人への手紙ライフスタディ(2)」、第18編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第23日

(年二回の訓練12月 第5週6日)

 

信者たちの信仰のいけにえと奉仕の上に、注ぎのささげ物として注がれました

 

ピリピ2:17

……たとえ、あなたがたの信仰のいけにえと奉仕の上に、わたしが注ぎのささげ物として注がれるとしても、わたしは喜びます.またあなたがたすべてと共に喜びます。

 

Ⅱテモテ4:6

わたしはすでに注ぎ出されています.わたしの去る時は迫っています。

 

「使徒パウロは、注ぎのささげ物となって、聖徒たちの信仰のいけにえと奉仕の上に注がれました(ピリピ2:17.Ⅱテモテ4:6)。パウロは、注ぎのささげ物が基本的なささげ物を必要とするという原則に基づいて、信者たちの信仰のいけにえと奉仕の基本的なささげ物の上に、自分自身を注ぎのささげ物として注ぐことができると考えました(ピリピ2:17)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが主で満たされ、主で浸透されますように。主よ、わたしたちを神の満足のために天的ぶどう酒へと構成してください。そして、自分自身を注ぎのささげ物として、注ぐことができるまでにしてください。

 

 

信者たちの側には信仰があり、使徒の側には注ぎのささげ物がありました

 

 パウロは、注ぎのささげ物が基本的なささげ物を必要とするという旧約の原則に基づいて、キリストに対する経験で構成された信者たちの信仰を基本的なささげ物と考え、その上に自分自身を注ぎのささげ物として注ぐことができると考えました。神は天でこの状態にとても幸いであったに違いありません。神はどれほど基本的なささげ物としてのその信仰を見て喜び、また注ぎのささげ物を見て喜ばれたことでしょう! 信者たちの側には信仰があり、使徒の側には注ぎのささげ物がありました。何というすばらしい光景でしょう!パウロが彼らすべてと共に喜ぶと言うことができたのも、不思議ではありません!……

 

 注ぎのささげ物となるために、わたしたちは主で満たされ、主で浸透される必要があります。このようにしてはじめて、わたしたちを注ぎのささげ物とならせる霊的な構成を持つことができます。わたしたちのような罪人が神の満足のために天的ぶどう酒へと構成されることができるとは、何とすばらしいことでしょう!(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(1)」、第14編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第22日

(年二回の訓練12月 第5週5日)

 

ヤコブはベテル(神の家)において、柱の上に注ぎのささげ物を注ぎ出しました

 

創35:14

ヤコブは、神が自分と語られたその場所に柱、すなわち石の柱を立て、その上に注ぎのささげ物を注ぎ出し、またその上に油を注いだ。

 

「わたしたちは、キリストをささげ物として経験することによって、キリストで満たされ浸透された人となります(エペソ3:17.ガラテヤ4:19)。最終的に、わたしたちは、天的なぶどう酒であるキリストで浸透されて、ぶどう酒と一になり、ぶどう酒となりさえします。ヤコブはベテルにおいて、柱の上に注ぎのささげ物を注ぎ出しました。このことは、注ぎのささげ物が神の建造のためであることを示しています(創35:14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちがキリストで満たされ、浸透された人となって、ぶどう酒と一になりますように。そして、わたしたちがベテル、神の家において、神の家の建造ために注ぎのささげ物として、注ぎ出されることができますように。

 

 

注ぎのささげ物は神の建造のためです

 

 ヤコブはべテルで二度、柱を立てました[創28:18、35:14]。最初、彼は柱の上に注ぎのささげ物を注ぎませんでした。彼は柱の上に油を注いだだけでした。ヤコブが最初、柱の上にぶどう酒ではなく油だけを注いだのは、聖書で油はわたしたちの側の経験をあまり多く要求しませんが、ぶどう酒はわたしたちの経験にかかっているからです。ヤコブはべテルを最初に訪れた時、……若い押しのける者であり、主に注ぎ出すぶどう酒を持っていませんでした。ですから、第28章で、ヤコブは注ぎのささげ物を注ぎ出すことができませんでした。しかし二十年後に、彼は主に触れられ、いくらか造り変えられた後、ベテルに戻りました。彼はいくらかの経験を持っていたので、主への注ぎのささげ物として、柱の上に注ぎ出すぶどう酒を持っていました。

 

 キリストを[ささげ物の実際として]経験することによって、人は最終的にキリストで満たされ浸透された人となります。彼に浸透するキリストが彼のぶどう酒となり、その人はこのぶどう酒で浸透されて、実際的にそのぶどう酒と一になります。……  以前、このぶどう酒は単にキリストでした。しかし今や、それはわたしたちとなって、わたしたちは注ぎのささげ物として注ぎ出されるのです。この注ぎ出されることは、わたしたちがキリストを経験することにかかっています。ここのべテルにおいて、すなわち神の家において、わたしたちは注ぎのささげ物として注ぎ出されなければなりません。(「創世記ライフスタディ(5)」、第89編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第21日

(年二回の訓練12月 第5週4日)

 

新しいぶどう酒としてのキリストで満たされて、注ぎのささげ物となります

 

出29:40-41

一頭の小羊には、叩いて取った油四分の一ヒンを混ぜ合わせた、きめの細かい小麦粉十分の一エパ、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンを添えなければならない。もう一頭の小羊を、夕暮れにささげなければならない.あなたはそれを朝と同じように、穀物のささげ物とその注ぎのささげ物と共に、ささげなければならない……

 

「わたしたちは、キリストをぶどう酒を生み出すぶどうの木として経験することによって、また新しいぶどう酒としてのキリストで満たされることによって、彼の中でまた彼と共に注ぎのささげ物となることができます(創35:14.出29:40-41.ピリピ2:17.Ⅱテモテ4:6)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。キリストはわたしたちの享受のための天的なぶどう酒であることを感謝します。主よ、あなたは神の享受と満足のために注ぎ出されました。主よ、わたしたちが新しいぶどう酒としてのキリストで満たされて、注ぎのささげ物となることができますように。

 

 

キリストは天的で、霊的なぶどう酒であり、神に注ぎ出されて、神を喜ばせます

 

 注ぎのささげ物のぶどう酒は、神の満足のためでした。それは神が飲むために、神へと注ぎ出されたものです。……注ぎのささげ物が予表するのは、キリストが神の御前に真のぶどう酒として注ぎ出されて神を満足させる方であるということです。キリストは彼の存在そのものを神へと注ぎ出されました。イザヤ書第53章12節は、「彼は自分の魂を死に至るまで注ぎ出し[た]」と言っています。こうして、キリストは天的で、霊的なぶどう酒であり、神に注ぎ出されて、神を喜ばせます。

 

 さらに、注ぎのささげ物が予表するのは、キリストご自身であるだけでなく、天的なぶどう酒としての彼ご自身をもってわたしたちに浸透するキリストでもあり、ついに彼とわたしたちは一となって、神の享受と満足のために注ぎ出されるということです。…… キリストはわたしたちの享受のための天的なぶどう酒です。主を内側に取り入れることによって彼を享受する時、わたしたちは彼で満たされ、徹底的に彼で浸透されるでしょう。このようにしてわたしたちはぶどう酒となり、神にささげるささげ物の上に、注ぎのささげ物として注がれるでしょう。(「ピリピ人への手紙ライフスタディ(3)」、第14編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第20日

(年二回の訓練12月 第5週3日)

 

わたしたちの命と享受は、ぶどうの木の中に住むことです

 

ヨハネ15:4-5

わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。

 

「わたしたちは自分自身の中で、犠牲の生活をすることはできません。なぜなら、わたしたちの命は、天然の命、利己的な命であるからです(ヨブ2:4.マタイ16:25)」。キリストの命だけが犠牲の命です。犠牲となる小羊としてのキリストは、わたしたちの中に生きており、わたしたちに活力を与えて他の人たちのために自分自身を犠牲にさせ、彼らを活気づけさせ、幸いにさせます(Ⅱコリント4:12.エペソ5:2)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたの命は、犠牲の命、実を結ぶ命であることを感謝します。主よ、わたしたちがあなたの中に住み、あなたがわたしたちの中に住まわれることを感謝します。主の中に住んで、他の人たちを幸いにすることができますように。

 

 

わたしたちは主の中に住んで、実を結びます

 

 ぶどうの木の枝として、わたしたちは神のキリストであるぶどうの木の中に住む必要があります。……  枝がぶどうの木の中に住んではじめて、ぶどうの木は彼らのすべてとなることができます。こういうわけで、主はぶどうの木としてのご自身と、枝としてのわたしたちについて、「わたしの中に住んでいなさい。そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む」と言われたのです。わたしたちの命と享受は、ぶどうの木の中に住むことです。枝としてのわたしたちの運命は、ぶどうの木の中にとどまることです。……

 

 ぶどうの木から離れたら、枝であるわたしたちは何もすることができません。ぶどうの木の枝は、それ自身で生きることはできません。なぜならそれがぶどうの木から離れたら、枯れて死んでしまうからです。……わたしたちであるもの、わたしたちが持っているもの、行なうことは、主の中でなければなりませんし、わたしたちの中の主によらなければなりません。ですから、わたしたちが主の中に住み、主がわたしたちの中に住まれることは極めて重要です。

 

(「新約の結論(17)」、メッセージ286)


3月の祈り第19日

(年二回の訓練12月 第5週2日)

 

キリストと接触し、犠牲となる彼の命を経験します

 

ローマ12:1

兄弟たちよ、こういうわけで、わたしは神の慈しみを通して、あなたがたに勧めます.あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる、生きた犠牲としてささげなさい.それが、あなたがたの理にかなった奉仕です。

 

「わたしたちが、ぶどうの木によって予表されるキリストと接触し、犠牲となる彼の命を経験するなら、彼はわたしたちに活力を与えて犠牲の生活をさせ、ぶどう酒を生み出して他の人と神を幸いにします(ローマ12:1.エペソ5:2.Ⅱコリント1:24)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたの命は犠牲の命であることを感謝します。主よ、わたしたちには犠牲になる力はありませんが、あなたと接触して、犠牲となるあなたの命を経験することができますように。そして、わたしたちの日常生活の中でキリストを適用することができますように。

 

 

キリストの命だけが犠牲の命です

 

 わたしたちには犠牲になる力はありません。なぜなら、わたしたちの命は天然の命、利己的な命であるからです。キリストの命だけが犠牲の命です。あなたがこのキリストと接触し、犠牲となる彼の命を経験するなら、主はあなたに活力を与え、あなたを強めて、神のためまた他の人のために犠牲とならせます。そしてあなたは最も幸いな人になり、幸いで酔いしれるでしょう。これがキリストをぶどうの木として経験することです。この経験によって、あなたは他の人にとってぶどうの木となります。あなたと接触する人はみなあなたに対して幸いであり、またあなたは神を幸いにします。

 

 ぶどうをぶどう酒にするには……圧搾されなければなりません。神と人を幸いにするために、あなたは圧搾されなければなりません。あなたは喜んで、キリストが大麦であること、すなわちあなたの内側の復活したキリストであることを学び、彼があらゆる状況に十分に応じられることを学びます。……  あなたは、さまざまな面でキリストを認識し、あなたの日常生活の中でキリストを適用するでしょう。(「すべてを含むキリスト」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第18日

(年二回の訓練12月 第5週1日)

 

ぶどうの木は、すべてを犠牲にしたキリストを予表しています

 

申8:8

小麦と大麦とぶどう……のある地、油のオリブの木と蜜のある地であり。

 

士9:13

しかし、ぶどうの木は彼らに言った、「わたしは、神と人を活気づけるわたしの新しいぶどう酒を捨て置[かなければ]……ならないのでしょうか?

 

「ぶどうの木は、犠牲となるキリスト、すなわち、ご自身のすべてを犠牲にしたキリストを予表しています。キリストは彼の犠牲から新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけました(申8:8.士9:13.詩104:15前半)。キリストはぶどうの木として、神のための幸いと他の人のための幸いを生み出します」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたはぶどうの木として、ご自身のすべてを犠牲にされたことを感謝します。主よ、あなたの犠牲から生み出された新しいぶどう酒を飲み、神と人を活気づけることができますように。主よ、わたしたちが神を幸いにし、他の人を幸いにする方としてキリストを経験させてください。

 

 

キリストは彼の犠牲から新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけました

 

 今、木について何かを見ましょう。最初はぶどうの木です。ぶどうの木は何を表しているでしょうか?……ある意味で、それは犠牲となるキリスト、すなわちご自身のすべてを犠牲にしたキリストを描写しています。しかしこれは主要な点ではありません。主要な意義は、彼が犠牲から新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づけたことです(「すべてを含むキリスト」、第5章)。ぶどうの木は、ご自身を犠牲にし、十字架上で「圧搾されて」新しいぶどう酒を生み出し、神と人を活気づける方(マタイ9:17)としてのキリストを表徴します(士9:12、フットノート1)。

 

 あなたはそのようなキリストの経験をしたことがあるでしょうか?…… 時には主の主権の下で、わたしたちはある状況の中に置かれ、その中で自分自身を犠牲にして他の人を幸いにし、また主を幸いにしなければならないようにされます。わたしたちはこの状況の中で主に来て主と接触するとき、ぶどう酒を生み出すぶどうの木として主を経験します。わたしたちは、神を幸いにし、他の人を幸いにする方としてキリストを経験します。この経験からわたしたちはぶどうの木になります。わたしたちは人と神の両方を幸いにするものを生み出す者となるのです。(「すべてを含むキリスト」、第5章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第16日

(年二回の訓練12月 第4週6日)

 

神に信頼する人は、水のほとりに移植された木のようです

 

エレミヤ17:7-8

エホバに信頼[する]……者は幸いである。彼は水のほとりに移植された木のようになり、その根を川のそばに伸ばし、暑さが来ても恐れない.その葉は茂ったままで、干ばつの年にも心配することはなく、実を結ぶことをやめない。

 

「神のエコノミーによれば、神に信頼する者は、水のほとりに移植された木のようです。これは、神が生ける水の源泉であることを表徴しています。木は水のほとりで、その水のすべての豊富を吸収することによって生長します。これは、神の神聖な分与によって遂行される神のエコノミーの絵です(エレミヤ17:7-8)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちは良き地であるキリストの中に根ざしていることを感謝します。主よ、自分の本当の状態で神に来て自分を開き、祈り、神を吸収し、神の豊富を享受することができますように。

 

 

祈ることは、自分の本当の状態で神に来ることです

 

 わたしたちは自分の内側の状態を神の御前に出して、自分はあらゆる事柄において欠けていると彼に告げさえすべきです。わたしたちの内側の状態がどうであれ、わたしたちはそれを神にもたらすべきです。「わたしの本当の状態によれば」(詩歌724番、全訳)という詩歌があります。これは、わたしたちが自分の状態を改善しようとしたり、変えようとしたりしないで、自分の本当の状態で神に来るべきであることを意味します。

 

 祈ることは、自分の本当の状態で神に来ることです。わたしたちが自分の本当の状態に近ければ近いほど、良いのです。……たとえわたしたちは弱く、混乱し、悲しみ、語ることがなかったとしても、なおも神に来ることができます。……  わたしたちは、自分の状態を顧慮するのではなく、神を仰ぎ望み、神を見つめ、神を賛美し、神に感謝をささげ、神を礼拝し、神を吸収することによって、神の臨在の中へと入って神と接触します。これは甘い学課です。わたしたちがこの学課を学ぼうとするなら、神の豊富を享受し、彼の甘さを味わいます。(「祈りの意義と目的」、第1、2章)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第15日

(年二回の訓練12月 第4週5日)

 

歓喜をもって、救いの泉から水をくみます

 

イザヤ12:3-5

……あなたがたは歓喜をもって、救いの泉から水をくむ.……「エホバに感謝せよ.彼の御名を呼び求めよ! 彼のみわざをもろもろの民の間に告げ知らせよ.彼の御名が高く上げられることを思い起こさせよ。エホバに詩をもって歌え.彼は偉大なことをなされたからだ!…。

 

「わたしたちは、救いの泉から水をくみ、そして命の水を飲み、流し出すという習慣を建て上げる必要があります(イザヤ12:3-6.ヨハネ7:37-39.箴11:25)。わたしたちは、主に対して語ること、主によって語ること、主のために語ることによって、歓喜をもって、救いの泉から水をくむ必要があります(イザヤ12:3-6.ピリピ4:6-7, 12.参照、詩歌210番)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、わたしたちが救いの泉から水をくむことができることを感謝します。主よ、わたしたちが命の水を飲み、流し出すという習慣を建て上げることができますように。神聖な救いの泉から水をくむ道を歩ませてください。

 

 

救いの泉から水をくみ、そして命の水を飲み、流し出します

 

 イザヤ書第12章は、水をくむことについて語っています(3節)。疑いもなく、これは飲むためです。……4節は言います、「その日、あなたがたは言う、『エホバに感謝せよ.彼の御名を呼び求めよ!』」。エホバを賛美することと彼の御名を呼び求めることが、一つにされています。わたしたちが主の御名を呼び求めるときはいつも、それは賛美を暗示します。わたしたちが「おお、主イエスよ」と言うとき、それはただ呼ぶだけでなく、賛美しているのです。わたしたちが、「おお、主イエスよ、あなたを愛します」と言うとき、これは賛美し呼吸することです。……

 

 今やわたしたちは、神聖な救いの泉から水をくむ道を考えてみたいと思います。まず、わたしたちは、悔い改めて神の怒りは去り、神の赦しの慰めを得る者となる必要があります(1節)。わたしたちはまた、エホバを賛美し、彼の御名を呼び求める者となる必要があります(4節前半)。さらに、わたしたちは救いの泉から水をくむために、神の救いのみわざをもろもろの民の間に告げ知らせ、彼の御名を彼らの間で高く上げるべきです(4節後半)。わたしたちはまた、彼が偉大なことをなされたゆえに、彼に向かって歌う必要があり、これを全地に知らせなければなりません(5節)。(「イザヤ書ライフスタディ(2)」、第40編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第14日

(年二回の訓練12月 第4週4日)

 

二つの悪事とは、生ける水の源泉を捨てて、壊れた水ためを掘ることです

 

エレミヤ2:13

まことに、わたしの民は二つの悪事を犯したからである.彼らはわたし、この生ける水の源泉を捨てて、自分たちのために水ため、水をためることがない壊れた水ためを掘ったのだ。

 

「エレミヤ書第2章13節は言います、「わたしの民は二つの悪事を犯したからである.彼らはわたし、この生ける水の源泉を捨てて、自分たちのために水ため、水をためることがない壊れた水ためを掘ったのだ」。神の民が犯した悪事とは、彼らの源泉、源である神を捨てて、神以外の源へと向かうことでした」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、生ける水の源泉としての神に感謝します。主よ、わたしたちが日ごとに生活の源である神に来て、生ける水を飲むことができますように。

 

 

二つの悪事とは、生ける神を捨てて、神以外の源に向かうことです

 

 神のエコノミーにおける神の意図は、生ける水の源泉、源となって、彼の選ばれた人を満足させ、彼らの享受となることです。この享受の目標は、神の増し加わり、神の拡大としての召会を生み出して、神の豊満とならせ、彼を表現することです。これが、神のエコノミーにおける神の心の願い、大いなる喜びです(エペソ1:5、9)。この思想の完全な発展は新約にありますが、それはエレミヤ書第2章13節に種としてまかれています。……

 

 エレミヤ書第2章13節でわたしたちは、積極的なもの、すなわち生ける水の源泉だけでなく、消極的なもの、すなわちイスラエルの子たちがこの源泉を捨てて、自分たちのために水をためることがない壊れた水ためを掘ったことを見ます。この消極的な事は、創世記第3章のアダムのように、イスラエルが堕落したことを示しています。アダムが堕落したのは、命の木を捨てて別の木、すなわち善悪知識の木に向かうことによってでした。イスラエルが堕落したのは、生ける水の源泉としての神を捨てて、神以外の源に向かうことによってでした。この源は水ためによって表徴されており、イスラエルは自分たちのために労苦して掘ったのです。(「エレミヤ書ライフスタディ」、第3編)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第13日

(年二回の訓練12月 第4週3日)

 

谷は十字架の経験であり、山々はキリストの復活の経験です

 

Ⅱコリント4:10-12

絶えずこの体に、イエスの致死力が働いています.それはまた、イエスの命が、わたしたちの体に現されるためです。なぜなら、わたしたち生きている者はイエスのために、絶えず死に渡されているからであり、それはイエスの命が、わたしたちの死ぬべき肉体に現されるためです。こうして、死はわたしたちの中で働き、命はあなたがたの中で働くのです。

 

「水が「谷間と山々に流れて」(申8:7後半)いることは、生ける水としてのキリストがさまざまな環境の中で流れることを示しています(参照、列王上20:23, 28)。谷は、十字架の経験、すなわち、キリストの死の経験です。山々は、キリストの復活の経験です(Ⅱコリント1:9.4:11, 14)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。わたしたちの体に、イエスの致死力が働いていることを感謝します。主よ、わたしたちがイエスのために死に渡され、イエスの命がわたしたちの死ぬべき肉体に現されますように。わたしたちの天然の人、外なる人、肉が衰えさせられて、わたしたちの内なる人が成長し、新しくされていきますように。

 

 

主の生活は、十字架の殺しの下で復活の命を現す生活でした

 

 [ここでの]わたしたちの経験の中で、これはイエスのために、キリストのからだのために、新契約の務めのために、わたしたちに臨む苦難、迫害、対処です。これは、旧創造にあるすべての人が受ける苦難、困難ではありません。すなわち、病気、災害など、あるいは、罪、過ち、責任を果たすことでの失敗のゆえに被る懲らしめ、矯正、訓練などではありません。このイエスの死に至らせる力は、わたしたちの天然の人、外なる人、肉を衰えさせます。こうして、わたしたちの内なる人は、成長し、新しくされる機会を持つのです(16節)。(Ⅱコリント4:10、フットノート1)

 

 十字架の殺しは、復活の命の現れという結果をもたらします。この日ごとの殺しは、復活の中で神聖な命を解き放つためです(Ⅱコリント4:10、フットノート2)。コリント人への第二の手紙第4章10節から11節の「イエス」という名称は、主イエスが地上で生きられたのと同じ生活を、使徒たちが生きたことを意味します。主の生活は、十字架の殺しの下で復活の命を現す生活でした。このような生活は、主のパースンが主の務めと一であり、また主の生活が主の務めである生活でした(ヨハネ6:14-15.12:13、19、23-24)。(Ⅱコリント4:11、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第12日

(年二回の訓練12月 第4週2日)

 

水の流れ、泉、源泉は、流れる霊としてのキリストを表徴します

 

申8:7

それはエホバ・あなたの神が、あなたを良き地に導こうとしておられるからである.そこは水の流れ、泉、源泉があり、谷間と山々に流れている地であり。

 

詩36:8-9

……あなたは彼らにあなたの楽しみの川から飲ませられます。あなたと共に、命の源泉があり、……

 

「水の流れ、泉、源泉は、流れる霊としてのキリストを表徴します(ヨハネ4:10, 14.7:37-39.啓22:1)。また、谷間と山々は、さまざまな種類の環境を表徴しており、その中でわたしたちは流れる霊としてのキリストを経験することができます。全聖書を通して、水としての三一の神に関する一つの路線があります(創2:10-14.出17:5-6.詩36:8-9.46:4.ヨハネ4:10, 14.7:37-39.Ⅰコリント10:4.啓7:17.22:1)」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、あなたが水の流れ、泉、源泉であることを感謝します。主よ、谷間と山々のようなさまざまな種類の環境の中で、水の流れ、泉、源泉を経験させてください。主よ、流れる霊としてのキリストを享受することができますように。

 

 

谷間と山々の中で、流れる霊としてのキリストを経験します

 

 良き地、カナンの地は、すべてを含むキリストの満ち満ちた、完全で、究極的な予表です。キリストは三一の神の具体化であり(コロサイ2:9)、すべてを含む、命を与える霊として(Ⅰコリント15:45.……)、神の民に割り当てられた嗣業として実際化され、彼らの享受となります……

 

 申命記第8章7節から9節における良き地の豊富は、キリストの計り知れない豊富のさまざまな面を予表します(エペソ3:8)。それらは、彼の霊の中の信者たちに対する満ちあふれる供給です(ピリピ1:19)。水の流れ、泉、源泉は、あふれ流れる霊としてのキリストを表徴します(ヨハネ4:14.7:37-39.啓22:1)。谷間と山々は、さまざまな種類の環境を表徴しており、その中でわたしたちは流れる霊としてのキリストを経験することができます(参照、Ⅱコリント6:8-10)。(申8:7、フットノート1)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)


3月の祈り第11日

(年二回の訓練12月 第4週1日)

 

アブラハムの祝福は約束されたその霊の祝福です

 

ガラテヤ3:14

……アブラハムの祝福が、キリスト・イエスの中で異邦人に及ぶためであり、わたしたちが信仰を通して、約束されたその霊を受ける……

 

ピリピ1:19

というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです。

 

「神がアブラハムに約束した祝福の物質的な面は、良き地でした(創12:7.13:15.17:8.26:3-4)。それは、すべてを含むキリストの予表です(コロサイ1:12)。キリストは最終的に、すべてを含む命を与える霊として実際化されているので(Ⅰコリント15:45.Ⅱコリント3:17)、約束されたその霊の祝福は、アブラハムに約束された地の祝福と一致します」。

 

 主イエスよ、あなたを愛します。主よ、アブラハムの祝福は、約束されたその霊の祝福であり、キリストイエスの中でわたしたち異邦人に及んだことを感謝します。日々イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を享受させてください。

 

 

わたしたちの経験において、キリストの実際化であるその霊は、良き地です

 

 その霊は、神がアブラハムに約束されたすべての諸国民に対する祝福であり、キリストにある信仰を通して信者たちが受けたことを、この節[ガラテヤ3:14]は示しています。その霊は、……複合の霊であり、実は肉体と成ること、十字架、復活、昇天、降下を通して、その三一の中で手順を経られた神ご自身です。それは、わたしたちが彼をわたしたちの命、またあらゆるものとして受けるためです。これが神の福音の焦点です。

 

 神がアブラハムに約束された祝福の物質的な面は、良き地でした(創12:7.13:15.17:8.26:3-4)。それは、すべてを含むキリストの予表です(参照、コロサイ1:12とフットノート2)。キリストは最終的に、すべてを含む命を与える霊として実際化されているので(Ⅰコリント15:45.Ⅱコリント3:17)、約束された霊の祝福は、アブラハムに約束された地の祝福と一致します。実は、わたしたちの経験においてキリストの実際化であるその霊は、良き地であり、わたしたちが享受する神の満ちあふれる供給の源です。(ガラテヤ3:14、フットノート3)

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)



2024年    1月1日

朝の祈りの集会 

 

わたしは神の祭壇に、わたしの歓喜と喜びである神に行きます

 

2024年1月1日午前7時から祈りの集会で、わたしたちは詩編第43篇3節-4節の言葉を祈り読みをして、詩歌285を歌い、また家族の救いなどを祈り、享受しました。祈りと共に新しい年を開始できたことを感謝します。

                                             

詩歌285

高き山の上でただ主を見たし、天のみこえを聞き、新鮮な空気を吸う

さらに高嶺へと導きたまえ、霊のいずみ飲みて、さらに主享受す

 

詩篇第43篇3節-4節

 3 あなたの光とあなたの真理を送ってください.それらはわたしを導きます.それらはわたしを、あなたの聖なる山に、あなたの幕屋に連れて行きます。4 わたしは神の祭壇に、わたしの歓喜と喜びである神に行きます.神よ、わが神よ、わたしは竪琴をもってあなたをほめたたえます。

 

詩篇43篇3節、4節フットノート

3-1  光と真理(実際)は分離されたものではなく、一つのものの二つの面です。真理は光の輝きであり、光は真理の源です(Ⅰヨハネ1:5-6と6節のフットノート6、最後の段落)。光がわたしたちの上に輝くと、わたしたちは真理、実際を受けます。わたしたちは交わりの中で神に行くと、光の中にいます。この節によれば、神聖な光と神聖な真理は神の捕囚の聖徒たちを、神の聖なる山と彼の幕屋に導きます。幕屋は諸地方召会を予表します。光と真理は召会の中にあります(Ⅰテモテ3:15)。

 

4-1  詩第42篇から第44篇を書いた詩篇の作者は、捕囚の中で神を愛する者でした(42:6)。彼らは神を慕いあえぎ、神に渇き(42:1-2)、エルサレムに戻りシオンの山に行って祭壇に到達することを願いました。こうして、彼らは宮の中に入って、彼らの歓喜と喜びである神に会うことができました。こういうわけで彼らは、神が彼らに光と真理を与えてくださり(3節)、どのようにして捕囚から解放され、神の住まいに戻るかを知るようにと祈ったのです。

 

(JGW日本福音書房 回復訳聖書より)



第14回オープン福音ルーム

6/25:不思議なキリスト

コリント人への第一の手紙 第15章45節後半

最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。

 


第13回オープン福音ルーム

ヨハネによる福音書 第15章13節

人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、誰も持つことはない。

 11/6

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9/4:神は肉体において現わされた

テモテへの第一の手紙 第3章16節前半

そして確かに、偉大なのは敬虔の奥義です. この方は肉体において現わされ、


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6/25:神の愛と慈しみを受ける

読み語り旧約聖書・メピボセテの受けた愛と慈しみ

ローマ10:12

ユダヤ人とギリシャ人の区別はありません. 同じ主が、すべての者の主であって、彼を呼び求めるすべての者に、彼は豊かです。


第10回 オープン福音ルーム

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真の平安に来る
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マタイ11:28

すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.  そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。


2.27 オープン福音ルーム

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命の光を持つ
22年2月27日 アウトライン.pdf
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ヨハネ8:12

こうして、イエスは再び彼らに語って言われた、「わたしは世の光である.  わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」。 

詩歌:226 補117

集会についてのお知らせ

千葉にある教会は、ひき続き行動自粛に努めてまいります。しかし、主日(日曜日)には、小規模のパンさきのためのあつまりを、三密(密集・密閉・密接)にならないように注意し、マスク着用で行っております。電車・バスで来られる方もマスク着用の上、ソーシャルディスタンスに注意し、状況が許される範囲でご参加ください。なお体温が37.2°以上の方はひき続き参加はご遠慮ください。

 

集会に参加される方は、まずご自宅で検温をお願いします。集会所では、非接触型赤外線温度計を用意しております。それを用いて、集会当日検温していただくこととなりました。記録して残します。そのさい37.2°を超える値が出たときは、もう一度別の体温計にて再検温していただきます。その後最終判断させていただくという手順になります。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

 

また、zoomを用いてリモートで集会にあずかることも可能です。こちらの方法での参加についてはご相談ください。参加していただけるようパスワード等をお知らせいたします。集会にリモートで参加してくださる方々においても、積極的な申言・交わりをお願いいたします。

 

今後、集会の変更があった時は、LINE,ホームページ等でお知らせします。主イエス・キリストから恵みと平安が、みなさま一同と共にありますように。